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2019.09.05 Thu 国家よりも友だち、国際よりも民際、検閲よりも手をつなぐ勇気を



 「もしわれわれに、フランスのなかまを殺すことが強制されるならば、われわれは断固としてノーといおう。」
ローザ・ルクセンブルク 第一次世界大戦前年1913年9月 兵士たちに呼び掛けて 

 いま、とても心配なのは修復不可能ともささやかれる日韓関係です。
 昨年秋の元徴用工訴訟で韓国の最高裁判所が原告の請求を認める判決を出し、それに対して日本政府は1965年の日韓平和友好条約の中で有償無償合わせて5億円の協力金(賠償に値するお金)を拠出したことで解決済みとし、今回の韓国の行為は国際的にも認められた国と国との約束を破ったと抗議、その撤回を求めています。
 一方で元従軍慰安婦と平和の少女像(従軍慰安婦像)などの問題もある中、日本政府が韓国に対して輸出管理の優遇国“ホワイト国”から除外し、それを受けて韓国が軍事情報包括保護協定(GSOMIA)を破棄するところまで突き進み、戦後最悪の関係悪化が一気に進んでしまいました。
 日本政府が元徴用工の個人請求権は日韓請求権協定により「完全かつ最終的に解決しているので認められない」とし、「韓国は、国家間の協定や合意を平気で反故(ほご)にする。正常な国際感覚を完全に失った」と断罪するのに対して、韓国政府はそもそも1910年の韓国併合から1945年までの日本統治時代に対する完全な和解と謝罪がなされていないとしています。
 謝罪を求めつづける韓国と「どこまで謝ったら韓国は気が済むのか」という日本との間で、それでも曲がりなりにも関係を修復しようと努力してきた両国政府の財産がこれほど簡単に崩れてしまうことに、政治的暴力の怖さを感じます。
 昨年の平昌オリンピックを機に北朝鮮との対話を進め、そこから一気に米朝会談が実現するプロセスで文政権は南北統一と、韓国、日本、アメリカという戦後の枠組みを見直し、韓国、北朝鮮、そして中国という枠組みの構築に向けて模索を始めたのでしょう。
 そのプロセスの間に、安倍政権は北朝鮮への圧力をアメリカよりも強調しつづけましたが、米朝会談が頭越しに実現したことで北朝鮮へのコンタクトの機会を逸してしまいました。本来ならそこで韓国との信頼関係に基づいて北朝鮮への働きかけをするべきだったと思いますが、安倍政権は中国・北朝鮮に対する軍事包囲網の前線に韓国を位置づけるアメリカの戦略のもと、朝鮮半島の緊張の上に砂上の楼閣を築いてきた戦後体制を見直すことはないようです。

 わたしは戦後すぐの生まれでいわゆる「民主教育」を学び、大人になりましたが、ほんとうに不思議なぐらい日本の「侵略戦争」の歴史は全く知らずに育ちました。
 朝鮮半島のことに限らず、子どもから大人になるまでに学ばなければならなかった大切なことを、わたしは少しずつ信頼する友人たちの肉声の言葉と尊敬できる人々の書物や映画、演劇、音楽に教えてもらいました。
 その中のひとりは、中学校時代の社会科の先生でした。ある日彼はわたしたち生徒に「リンカーンはえらい人だと思いますか?」と尋ねました。わたしは手をあげて「リンカーンは奴隷を解放したからえらい人です」と言いました。歴史学者の井上清の教え子だったその先生は、「それじゃあ今から教科書の勉強ではなく、みんなでディスカッションしましょう」といい、今でいうディベートを始めるのでした。
 わたしは小学生の時に読んだ偉人伝どおりにリンカーンはえらいと思っていましたが、この時どの程度掘り下げられたのかはわかりませんが、アメリカ南部のプランテーションが黒人奴隷に支えられていたことや、北部の資本主義のもとで工業が発達し、奴隷ではなく労働者をもとめていたこと、さらにはイギリス資本からの脱却をめざす北軍にとって奴隷解放が南北戦争の勝利へと導く戦略であったことなどをずっと後に知りました。
 そして、黒人奴隷によってアメリカ南部からアメリカ大陸全土、さらには海を渡り世界中に広がって行ったブルース、ゴスペル、ソウル、ジャズ、レゲエ、白人によるロックンロールなど、大衆音楽のルーツをたどる壮大な音楽の旅が、暗闇と光と大地と海と空を友とし、虐げられた幾多の人びとの自由と人権を求める壮絶な旅でもあったこともまた、何十年もたってから学び、感じることができました。
 もし朝鮮半島の歴史を同じように学んでいたら、韓国・朝鮮・中国のことだけでなく、戦後の日本社会の在り方についてもっと多くのことを学ぶことができたと思います。
欧米諸国からアジアを守り、安全保障と経済発展に資すると正当化された日本の侵略戦争の端緒となった日韓併合、朝鮮半島の植民地化、慰安婦・徴用工の問題、戦後の戦争処理と朝鮮戦争、朝鮮半島の分断を経て取り残された在日韓国・朝鮮のひとびとへの差別と抑圧…、すべてが政治的暴力とともに育てられたアジア諸国に対するわたしたち日本人のリアルな差別感によってさささえられ、増殖されてきた事実があります。
 敗戦を終戦と言い換えたまま今に至る日本の近代を学校で学ばなかったことはわたしたちの国際感覚を大きく歪めてしまいました。
 大人になってその歪みを気づかせてくれたのは在日韓国・朝鮮人の友達でした。生まれてから一度も外国に行ったことがなかったわたしにとって、在日韓国・朝鮮人のともだちと出会わなかったら、日本社会のゆがんだ鏡に映る自分の姿に気づかなかったと思います。
 高校を卒業する前に同級生とみさき公園に遊びに行った帰り道で、K君が「ぼく、韓国人やねん」と打ち明けてくれた時、「そうなん、せやけどそんなことどうでもいいやん」と気にもかけずに話題をかえたわたしは、彼がどれだけ日本社会で差別に苦しんできたのか、それを告げるためにどれだけの勇気を必要としたのか、またそれほどの勇気を持たなければカミングアウトできない日本社会の闇に想いをはせることができませんでした。
 そのことに気づいたのはそれから20年後、わたしが豊能障害者労働センターと出会い、障害のあるひとや在日韓国・朝鮮人、性的マイノリティなどそれぞれ出自がちがい、差別のありようもちがいながらも助け合い、わかり合い、未来と夢を分かち合う勇気を共に耕す友だちとの出会った時でした。
 いままで「同じであること」に汲々とし、「ちがいがあること」におびえてきたわたしでしたが、同じであるために社会がヒステリックで刹那的で暴力的になってしまうことに疑いを持ち、反対におたがいのちがいに気づくことからわたしも社会も過去や歴史を検証し、未来を共にすることができるのだと学んだのでした。
 わたしが今もっとも恐ろしいと感じるのは、韓国との対話を放棄し、強硬な姿勢を強めるほど安倍政権の支持率が上がる現実です。テレビもネットも韓国へのバッシング一色で、少しでも関係改善と対話を呼びかけるひとを寄ってたかって攻撃する…、それを言論の自由というならば、その言論の自由が「表現の不自由展」を中止させてしまう暴力へと変わってしまう笑えない喜劇の中にわたしたちはいるのでしょう。
 正体のはっきりしない漠然とした「みんな」の言う通りに韓国をバッシングし、「表現の不自由展」をバッシングし、次のいけにえを物色するテレビやネットや週刊誌に煽られるわたしたちは、オールラウンドにバラエティー化した社会が与える毒に心とからだを壊されてしまったブロイラーのようです。
 ほんとうにわたしたちの国はどうなってしまったのかと呆然とします。
 一方で森友学園や加計学園の不正や公文書書き換えなど、今までなら政権が何回倒れても不思議でないような理不尽なことを積み重ねても政権は倒れるどころか、反対に政権基盤がさまざまな不祥事を呑み込んで強くなっていくようです。
 わたしたちは「微笑む独裁」のもと、大衆の心に隠れている「小さな権力」が積み重なり増殖し、まわりまわって大衆を支配する恐怖国家の誕生につながる危険な道を決して歩いてはいけないと強く思います。
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