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2021.06.16 Wed 36年前の警告が、コロナ禍のわたしたちのこれからを照らす。唐組「ビニールの城」

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助けて。ビニールの中で苦しいあたしを。あたしはいつもそうです。
あなたとお会いしてからも、二人の間にはビニールがあって、なにか言えない、思いのたけをあなたに告げられないと、いつも気が急いておりました。
ー朝ちゃん、ビニールを張った以上、ここはビニールの城ですー
「ビニールの城」パンフレット

 6月13日の日曜日、神戸新開地の湊川公園で唐組公演「ビニールの城」を見に行きました。緊急事態宣言下の元でのテント芝居なのでいつものように密閉にせず人数制限とマスク着用・手の消毒、そして検温して入場するなど万全の対策をされての公演でした。
 わたしは唐組の芝居を毎年観てきましたが、コロナの影響で昨年は大阪公演が中止となりました。今年も関西公演が中止にならないか不安でしたが、2年ぶりに神戸に場所を移して何とか上演されることになりました。
 入場整理券が発行される2時に合わせて会場に行き受付を済ませ、5時半の開場まで商店街の喫茶店で時間を過ごしました。友人たちと会うのも久しぶりで、よもやま話ですぐに時間が過ぎ、5時半にテント小屋に入り、開演を待つばかりになりました。
 舞台上はたくさんの人形で埋め尽くされています。そこは捨てられた人形たちの倉庫で、次の相棒になってくれる腹話術師がやってくるのを絶望的に待ち、身を潜めているのでした。後方から舞台へとひとりの男・腹話術師の朝顔が花道の途中で立ち止まり、客席を見渡すと、観客であるわたしたち自身が捨てられた人形のような感覚になりました。
 「ビニールの城」の開演です。

 腹話術師の朝顔は、8ヶ月前に別れた相棒の人形・夕顔を探し続けている。バーで酒を飲んでいると、かつて朝顔と夕顔が暮らすアパートの隣に住んでいたと話す女、モモと出会う。
 モモは新聞を被って登場し、トンチンカンな言葉を発し、背中には「3日でこさえた」赤子をネンネコに背負っている。モモを愛する夫の夕一は、ままごとのような夫婦を懸命に演じているが、モモへの愛は報われず、人形の夕顔と自分を混同させている。
実はモモは朝顔が住んでいたアパートの一室に捨て置かれていたビニ本(ヌード雑誌、エロ本)のヌードモデルだった。隣の部屋をのぞき見し、朝顔が《ビニ本》を破りもせず、ただビニールに包まれたその《ビニ本》の女を抱きしめ、「愛してる」と言ったことを知っていた。モモもまた、そんな朝顔に恋していたのだった。
 モモは「あなたが、封を切らずに持っていた、ビニ本の女です!」と朝顔を求めるが、人形の夕顔に友達以上の感情を持つ朝顔はビニ本の女には劣情しても生身のモモには身も心も開かない。モモの夫・夕一もまた、片思い同士の朝顔とモモ、朝顔と夕顔のねじれた愛の荒野を共に彷徨い、嫉妬にさいなまれながらモモをひたすら愛している。
 この奇妙な三角関係はそれぞれが行き違いもつれあい、出会っているのに出会えない、ビニールの0.1ミリよりも薄い膜が壁となり、見えているのに近づけない、触れない、決して交わらない純愛のエロティシズムに引き裂かれているのでした。

 唐十郎の芝居はどれだけあらすじや結末を言っても何の意味もないのですが、その時その時の三面記事から壮大な想像力でいくつもの物語が立ち現われ、観客であるわたしたちは加速し爆走する物語に巻き込まれ、フィクションの行く手に政治、経済、世情など現実の過酷さや悪意に心穏やかにはおられません。過剰で行き当たりばったりと思える長セリフ・言葉の叛乱は今でいうラップのように鋭く時代の闇を浮かび上がらせてくれます。
 この芝居は1985年に第七病棟のために唐十郎が書き下ろしたもので、石橋蓮司と緑魔子の熱演とともに、アンダーグラウンド演劇の最高傑作と言われています。
 1985年は高度経済成長のさ中、現物経済から金融経済へと資本の行く先が変化し、金利引き下げから株高、地価上昇と、日本経済の転換点となったバブル前年にあたります。
 金の詐欺商法で社会問題になった豊田商事事件、そして豊田商事会長刺殺事件の年でもあります。独居老人をターゲットに家に入り込み、線香をあげたり身辺の世話をしたり「息子だと思ってくれ」と言って人情に訴えるなど相手につけ込む手口は、今の振り込め詐欺へと続いています。また、校内暴力やいじめなどが社会問題化したのもこの年からで、陰湿化したいじめから不登校が増え、今では小中学生の自殺や年代を越えた引きこもりが問題になっています。
 芝居のモチーフとなった「ビニ本」は古本屋の平棚に積まれていて、ビニールにつつまれてくっきり見えないヌード写真の表紙が生々しく肉感的で、それでいてとても寂しく感じたものです。思えば電電公社が民営化されてNTTになり、通信の自由化がはじまり、その後のインターネットの普及やスマホからSNSとデジタル社会が始まったこの年、社会の急速な動きについていけないアナロググッズの典型のようでした。
 唐十郎は、「ビニ本」に抵抗や反乱、社会が期待する人間にはなれない、いや絶対にならないと覚悟するわたしたちのサイレントマジョリティを人形に託し、腹話術師がしゃべるのではない、人形が腹話術師の口を借りてしゃべる倒錯した世界を垣間見せてくれたのだと思います。
 水に沈められた人形を救出しようと、朝顔が巨大な水槽に潜ろうとする前に水槽の上から朝顔が演説ともいえる長いセリフで「諸君、豊田商事の詐欺師にお茶を出して歓迎する老人たちに、いじめに追い詰められ孤独な夜にひとり鉛筆を削っている少女に対して、それでもあなた方は何もしゃべらないのか」と物言わぬ人形たちを扇動する時、その「諸君」の中にわたしたち観客もいたのでした。人形たちはいっせいに動きながら歌を歌い、声にならない声を上げ、私たち観客と言えばコロナ禍の観劇でいつもなら「イナリ」というところを何も言えなかったものの、感動の涙が出ました。
 そしてラスト近く、ビニールの衝立をはさんでモモが朝顔に切ない心を言葉にし、私を助けて、ビニールを破ってこちらに来てと必死に訴えるのですが、朝顔はなまなましいものを避けようとします。思い余ったモモは、あなたが破れないのならとビニールに空気銃を打つのでした。「バン!」と轟くその銃撃音は二人が結ばれるのではなく、永遠にひとつになれないと別れを決断する朝顔への最後の愛の言葉だったのかもしれません。
 わたしはよく「純情な芝居観に行けへんか」と唐組の芝居を誘ったものですが、実際、彼の芝居は異性同志、同性同士、時には兄と妹との傷つきやすい純情な恋と、「時代」や「黒歴史」を演じる何人もの狂言回しとの間のバトルが繰り広がれ、時には愛が勝ち、時には引き裂かれたまま忽然と芝居空間そのものが消えてしまう通称「屋台崩し」によって、テントの外の夜の町にわたしたち観客を放り投げて終わります。そのたびにわたしは、テントの中にいた私を見失うのでした。
 少し長くなってしまいましたが、次の記事も今回の公演も含めた唐組のことを書こうと思います。もう少しお付き合いください。
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