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2019.08.11 Sun 芸術はアーティストが生み出す作品だけで完結するのではなく、鑑賞者が創造的行為に加わることによって作品が完成する 「表現の不自由展・その後」

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 「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が開始3日後に中止になった事件は、様々な表現者団体が次々と抗議声明を出すなど、反響が広がっています。今事件が「脅せば表現は封印できる」という前例となり、同様の事件が急増する恐れがあり、またそれを恐れて萎縮が広がることが予想されます。
 「表現の不自由展・その後」の企画の趣旨は、これまで公共の施設などで展示拒否にあった作品を実際に見てもらい、それをもとに表現の自由・不自由について議論をしようというものだったのですが、その展示自体が中止になってしまうという不幸な事態になりました。
 「表現の不自由展・その後」は今回のトリエンナーレでゼロから企画されたものではなく、2015年に東京・江古田の小さなギャラリーで行われた「表現の不自由展~消されたものたち」で扱われた作品と、この4年間で新たに展示が不許可となった作品を加えて構成されています。
 抗議の大きな矛先は、慰安婦問題をテーマにした「平和の少女像」をめぐってで、韓国との緊張関係が続いている時にけしからんという政治的反発が起き、河村たかし名古屋市長や菅官房長官ら政治家の発言がそれに火をつけて抗議電話が殺到するという状況になり、大村秀章知事と芸術監督の津田大介氏が安全に運営できないとして実行委員会での協議を待たずに企画展の中止を決めました。
 もともと公的な施設から排除されたアート作品を展示することで表現の自由について考える企画なのですから、異論百論が噴出するのは覚悟の上だったはずで、「平和の少女像」はまさにこの企画にぴったりの展示だともいえるわけです。
 奇しくも河村市長の主張どおり、「行政の立場を超えた展示が行われている」という理由でこの展示そのものが中止に追い込まれたことで、「表現の自由」が危機に瀕していることを証明してしまいました。
 もちろん、河村市長や吉村大阪府知事、松井大阪市長などの発言や、電話やFAX、SNSなどによる抗議や脅迫によって表現行為が封殺されてしまうことは許しがたいことで、その暴力に毅然と立ち向かうべきだと批判があって当然です。
 しかしながらこの事件は、抗議の的になった「平和の少女像」の作者の製作意図がどうあれ、その展示行為そのものが「日本人の心を踏みにじる行為」と言えるのか、ここでいう「日本人」とはだれを指すのか、また国や地方行政が主催、もしくは補助金を交付する展覧会に行政の意向が反映されていいのかなどの議論もさることながら、そもそも地方行政による町おこしの道具にアートが安易に利用されることの危険に警鐘をならすものでもあると思います。
 というのも、制作者が作品に込めた政治的メッセージに反発する人にとっても賛同する人にとっても、作品そのものが放つべきメッセージを表現されているのか、またそのメッセージは議論されているような一つだけのメッセージなのかは問われることがなく、その政治的メッセージの賛否のみが先鋭化してしまうからです。
 とくに今回の作品群は政治的メッセージが理由で展示を阻まれたものが多く、そのために「表現の自由」も政治的なメッセージをめぐって論議されてしまいます。
 今回の事件は、行政主導のアート展が少しエッジを利かせて、「表現の自由」のふり幅を試してみようとあまり強くない毒薬を少々口に含んでみたというのが実情で、主催者は多少の抗議はあってもセンセーショナル・かつジャーナリスティックな刺激によって行政主導のアート展でもここまでできると証明する画期的な企画となることをもくろんでいたのだと思います。
 いいかえれば、「平和の少女像」の展示に反発する側も援護する側も同じ向こう岸に立っていて、表現の自由も不自由もかっこ付で共有しているとも言えます。そして、表現行為に理由付けや政治的意味付けがなければならないという恣意的な力が「大衆に受け入れられる」という言い方で時の権力に迎合していく、かつてのスターリニズムに陥らないという保証はないのです。
 事実、最近の吉本の事件やジャニーズのスマップ騒動、クールジャパンや時の総理が吉本新喜劇に「出演」し、オリンピックから万博までエンターテインメント化したスポーツや芸術や表現がわたしたちの足元をくずし、かつての大政翼賛体制がつくられつつあるのではないでしょうか。
 今回の事件はわたしたちひとりひとりの心の中の「検閲」と「仲間外れになる恐怖」、「バスに乗り遅れるな」とあせる煽情的な暴力が、同時代を生きる他者の存在を打ちのめし、想像する力をもぎ取っていく怖さをリアルに教えてくれました。

 論点がずれるかも知れませんが、今回の論議の的となった作品が「平和の少女像」ではなく、もしも、あの「ろくでなし子さん」が自らの女性器を型どりデコレーションしたアート作品「デコまん」であったら、どうだったのだろうと考えます。
 「デコまん」は芸術かわいせつかで裁判をふくめて物議をかもしましたが、「表現の自由・不自由」に敢然と立ち向かう彼女には予定調和的な思惑はなく、現代アートの真っただ中でわたしたちに表現とは何かという古くて新しい問題を投げかけていると思います。
 わたしたちの体の一部である性器は腕や足とどうちがうのか、社会が「わいせつ」という言葉で片付けてしまうことができないきわめて現代的で悩ましい命題と、性器というすでにあるものを型どりする作品はアンディ・ウォーホールなどポップアートを彷彿させ、わいせつかどうかの判断を越えて、マルセル・デュシャンが1917年に発表したレデイメイドアート、「泉」と題された便器を思い出します。
 韓国の日本大使館をはじめとする各地に製作者の意図通りに設置された「平和の少女像」が、「表現の不自由展・その後」に展示されることで作品の存在感やメッセージがどう変化するのか、そしてまた「デコまん」や「泉」とどうつながっていくのか、若い頃に親しんだ現代アートの冒険の現在に立ち返らせてくれたという意味で、わたしは「表現の不自由展・その後」がたとえ再開されなくても意味はあったのではないかと思います。
「芸術はアーティストが生み出す作品だけで完結するのではなく、鑑賞者が創造的行為に加わることによって作品が完成する」(マルセル・デュシャン)

 蛇足ですが今回の騒動で公的な施設利用にあたって行政の職員がますます萎縮するのは必至でしょうが、それでもこの際言っておきたいのは、公的な施設の建物が市民の共有財産であることはもちろんのこと、イベントを企画して施設利用を申し込みに行く時にいつも感じる違和感は、担当職員が「市民・住民」という時、その施設を借りようとするひとしか見ない事です。
 実はそれは大きな間違いで、職員と施設利用する市民・住民が協働して、そのイベントに参加するひとりひとりの市民・住民にどれだけ開かれたサービスを提供できるか、そのイベントの企画がたとえ特定のひとたちに深くかかわる問題へのアプローチであっても、将来にわたり多様な人々が共に生き、共に耕すこの町が「だれひとり取り残されない町」になるための試みとして職員と住民が協働する、そんな文化行政であってほしいと思います。それこそが「表現の自由」を住民みんなのものとしてより広くより深めることと思うのです。

「表現の不自由展・その後」展示中止の現場を訪れ考えたこと
コラムニスト・石原壮一郎(NEWSポストセブン)

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