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2015.03.12 Thu 東日本大震災から4年とメルケル首相来日

 東日本大震災から4年が過ぎました。
 ここ連日、マスコミ報道がつづき、町の復興は遠く、ひとびとの暮らしが復活どころか、福島のように故郷に戻ることをあきらめざるをえない現実などが伝えられています。それでも日本人全体が少しでも明るい未来を求めていることに応えるように、各地の明るいニュースを報じられてきているのもまた事実で、その中にはほんとうのこともあるでしょうが、切ない願望もあることでしょう。
 被災された方々には叱られるかも知れませんが、あの震災の当日、わたしはまだ片づけていないこたつに入りながら、いつものようにテレビドラマの再放送を観ていました。
 最初はテロップで大きな震災のニュースが入り、それからすぐにドラマは取りやめになり、震災のニュースに切り替わりました。マグニチュード9.0という観測史上最大の地震と報じられ、現在は大阪府能勢町に住むわたしは20年前の阪神淡路大震災での記憶がよみがえりました。
 実は20年前の地震を体験して以来、夜寝床に入るとそれまではしっかりした大地と結びついているような安心感があったのですが、この20年間いつもふわふわ宙に浮いているような感じで、体がおぼえているのでしょうか、ゆれているような感覚があり、それまでのような安心感がない夜を過ごしてきました。
 ですから、最初は阪神淡路大震災の経験から地震のゆれによる建物の崩壊や火災が心配でしたが、報道から受け取る感じではそれほどの切迫感を持てず、ほんとうに申し訳ないのですが遠く離れた地域に住んでいたこともあり、マグニチュードの大きさほどの被害を感じ取ることはできなかったのでした。
 それからすぐに津波警戒が報道されるようになりました。台風による大阪湾の高波も津波も経験したことがなく、津波の恐ろしさをまったく知らなかったわたしは津波第1波の各地の観測データが「50cm~20cm」と報道された時、その30分後にあんなに大きな津波が押し寄せることを想像できませんでした。
 そして、今は制限がかけられている津波被害のテレビ映像が延々とつづけられるようになりました。テレビの映像は残酷で、わたしたち夫婦は自分たちは安全な所にいながら、津波の濁流にそぎ落とされるように大地がなくなり、家も人も何もかもが津波の刃の先で転がるように運ばれ、次々と人々が飲み込まれていく瞬間瞬間を見ていて、「あっ、そっちに行ったらのまれる」と聞こえるはずもないのにテレビに向かって叫んでいたのでした。
 その映像は長い間実況中継されていて、今では死者15891、行方不明者2584、震災関連死3194という想像もできない数字で示されるひとつひとつのかけがえのないいのちがテレビ画面の中でどこか現実感を喪失したまま消えていきました。
 しかもその被災当事者たちは自分が遭遇している壮絶で悲惨な現実を安全な場所からテレビ画面を通して見ているわたしたちのことを知る由はなかったのでした。マスコミはおびただしい情報によってより遠くより多くのひとびとにその悲惨さを伝えることに成功しましたが、一方で被災当事者が直面した現実とはかけ離れた空虚な現実しかわたしたちは受け止めることができませんでした。
 そして、福島の原発事故はさらにわたしたち日本人の生き方を問い続けることになったのだと思います。わたしは決して高度経済成長の恩恵を大きく受けるほどの才覚も能力もなく、特に豊能障害者労働センターのスタッフになってからは世間の所得水準とはかけ離れた所得しか得ることができませんでしたが、それでも「貧乏もまた近代化する」の言葉どおり、実際のところは周辺地域の人々へのしわ寄せを知らないまま、成長のおこぼれを得ていたことも事実です。それが当たり前のように思っていたわたしは、長い間「成長神話」を信じていました。
 しかしながら、高齢社会のもとでの地域格差や都市集中、成長がもたらすとされた経済的な中間層の崩壊、最近のピケティ現象でにわかに言葉化された所得格差、資産格差、そして原発に頼らないと経済が成り立たなくなり、社会が壊れるかのように喧伝する国や産業界への不信など、東日本大震災はそれまでに潜在し、顕在化しようとしていたたくさんの問題を一気に噴き出させました。
 安倍首相は東京オリンピックの誘致のプレゼンテーションで、「福島原発事故のアンダーコントロール」を声高に宣言しました。その発言に福島だけではなく、全国から疑問の声が上がりましたが、今では福島と福島のひとびとを日本社会から遮断し、「アンダーコントロール」(管理下に置く)という意味だったとしか思えません。しかも、事故の収拾がどんどん遠ざかる一方なのに早々と原発の再稼働をすすめ、原子力技術の輸出まで認めて「成長神話」を信じきる政府の描く未来を、わたしは信じることはできません。
 一方でわたしもそのひとりに加えてもらいたいのですが、福島原発事故はそれまでの社会構造や経済の在り方を根本から見直すことで、後世のこどもたちに許してもらえる未来に少しでも近づく努力をしなければならないと思うひとびとをたくさん生み出すことになったと思います。
 先日、ドイツのメルケル首相が来日しましたが、福島原発事故を直接経験した日本とまったく正反対の方向へと社会のかじ取りをしたのがドイツでした。事故までは日本もドイツも30パーセントを原子力に頼っていましたが、福島原発事故発生直後、ドイツは原発17基のうち8基を直ちに停止し、残りの9基の原発も2015年から2022年の間に停止することを決定しました。ドイツの選択に対して日本の政府や原子力推進派は太陽光発電の買い取り価格の問題などを取り上げ、日本国民の暮らしを守るためには経済成長が必要で、そのためには原子力発電を「より安全に(?)」に継続しなければならないという主張を変えようとしません。しかしながら、原子力から自然エネルギーへの政策の転換にともなうドイツ経済が順調であることは欧州の経済危機の中でもきわだっています。
 メルケル首相の来日のニュースを知り、わたしは地震発生直後のある出来事を思い出しました。
わたしは地震発生から数日後に、被災障害者支援「ゆめ風基金」で働くことになりましたが、そんなわたしにある日、古い友人から電話が入りました。彼は長年東京にあるドイツの会社の日本法人で働いてきましたが、原発事故が発生し、ドイツの本社からの指令で会社機能をすべて大阪に移転し、東京や東京近郊に住む社員全員とその家族を大阪に一時移住することを半強制的に提案しました、彼は会社の指令に基づき、大阪に一時避難してきたことを告げました。
 そこにはドイツ政府の明確な意志が反映していて、当事者である日本政府のそれから現在までの対応とくらべて、あまりのちがいを身近に感じる出来事でした。
 もちろん、わたしはこの事故による障害者の出生などにより、水俣病などであった社会全体の地域差別や障害者差別には立ち向かわざるを得ないのですが、原発事故を遠く離れたドイツがこの事故による放射能の被害を大きく受け止め、影響を受ける可能性のある日本在住の国民の安全を守るために敏速に対応したことと、原子力エネルギー政策から自然エネルギー政策に変換したこととはつながっていて、近代国家が国民を守るためにこそ存在するはずだったことを教えてくれたのでした。

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2013.03.11 Mon 震災より2年・東北の冒険

 東日本大震災から2年が過ぎました。
 新聞、テレビ、ラジオは特集報道でうめつくされていますが、一方で2年という時間を理不尽にうばわれた2万人を越えるいのちと、生き残ったひとびと一人ひとり、そのひとにしかわからない大きな悲しみの中で苦しんでいる無数の人々を「あの時」に残したまま風化してしまう、残酷な時間にしてはいけないとあらためて強く思います。
 このブログを開いた数日後に震災となり、わたしは阪神淡路大震災直後から被災障害者支援活動をつづけるゆめ風基金のアルバイトスタッフとして、新大阪の事務所で働くことになりました。
 震災から2年、被災障害者の現状は一般的な復興、再生が遅々として進まない中、より困難な状況にあります。しかしながらその一方で少しずつですが、震災前には極端に少なかった介護派遣事業など、地域での生活をつくりだそうとする活動も被災各地で生まれています。それらはささやかな活動ではありますが、震災以後の日本社会が「たったひとつの涙もむだにしない社会」、「障害のあるひともないひとも共に生きる社会」へとわたしたちをみちびく希望でもあります。
 東北の冒険、それは日本全体の冒険、わたしたちの冒険でもあることを・・・。

 「福島のひとたちはみんな、大きな悲しみを、開かずの間に閉じ込めていますよ。がんばれ、がんばれっていわれて、自分でもいつまでもくよくよしていたらいけないと思って・・・。
 けれども、心の中にいっぱい涙がつまっていて、それを吐き出さなければ、前に進めないんです。」(福島県田村市の被災障害者・DVD映画「逃げ遅れる人々」より)

DVD映画「逃げ遅れる人々」
マスメディアでは断片的にしか取り上げられない、被災地の障害者の証言を丁寧に聞き取り、さまざまな課題や問題点を浮かび上がらせた貴重なドキュメンタリー映画です。
ゆめ風基金でも販売しています。3000円

ゆめ風基金のブログ
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2012.08.15 Wed ジョバンニの冒険・わたしたちの冒険 「みちのくTRY」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
                             宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

 8月19日から31日まで、岩手の障害者がよびかけ、「みちのくTRY」という催しが開かれます。
 「TRY」とは、1986年に始まったバス、鉄道のバリアフリー化を訴える車イスでの野宿旅イベントです。今まで大阪-東京、旭川-札幌、仙台-盛岡、高松-松山、鹿児島-福岡、福岡-東京間など全国を車イスで歩いた歴史があります。またTRYは海を越えてアジア諸国へと発展しました。
 今年は「みちのくTRY」として、東日本大震災の犠牲になられた人々への追悼とともに、これからの町の復興に障害者が参加し、障害のあるひともないひとも共に生きる社会の実現を求めて、各地域の行政に町のバリアフリー化や防災計画、福祉サービスへの提言、各地域の市民との交流を図りながら、岩手県の障害者を中心に全国の障害者が被災地を歩きます。
 8月19日に宮古を出発し、30日に陸前高田市の「奇跡の一本松」まで歩く150kmの沿岸部は、ほんとうにたくさんの命が失われました。震災後1年半を過ぎた今、いまだに復興の入り口から前に進めない地域とすでに復興へと進み始めた地域、若い人が仮設住宅を出て行き、高齢者が取り残されていくなど、地域的にも個人的にも震災以前に隠されていた問題が震災後、暴力的に現れています。
 今回の震災による障害者の死は、人口比率から観て健全者の倍になっています。
 これは障害者の安否確認や救援体制が後回しになりやすいことが大きな理由ですが、それよりも以前の問題として、日常的に障害を持つ市民が地域で暮らし、生きていることが具体的に認知されにくく、地域のコミュニティーに障害者が参加することが難しいという現状があります。
 東北地方でには昔からすばらしいコミュニティーが各地域に存在していたにもかかわらず、そのコミュニティーがかえって障害者の自立生活を支える公的なサービスを要求することを阻んできた事情もあると思います。
 今回の東北の障害者の行動は、障害を持つ市民が決して福祉サービスの対象ではなく、福祉サービスを必要とする市民自身が作り出す福祉サービスの担い手として、さらにはいろいろな個性や事情を持った市民が共に暮らしていける町のあり方を共に考え、作り出す担い手として、復興のプロセスに参加していこうとする、未来へのせつない冒険です。
 彼女たち、彼たちの冒険は、第二次世界大戦後67年を経て、戦争で犠牲になった無数のいのち、それ以前も以後も理不尽に命を奪われてしまった無数のたましい、そして今回の震災による無数の無念と、行き先をなくしたまま立ち尽くす無数の、ほんとうに無数の夢に見守られた冒険なのだと思うのです。
 
 宮沢賢治の「銀河鉄鉄道の夜」で、死者だけしか乗ることができない「銀河鉄道」に乗ることができたのは、カムパネルラに対する恋心といっていいジョバンニの友情の深さから来る、一途でせつない少年の思いがあったからでしょう。
 1896年、岩手に生まれ宮沢賢治は、誕生当時の大地震と度重なる冷害でたくさんの人たちが食べ物に事欠く悲惨で過酷な現実を見つめて来ました。
 みんなが幸せになるために、何が必要なのか、自分に何ができるのか…。彼の一生はその問いに対する答えを求めつづける一生でした。冷害や干ばつに対応できる品種の改良や農作物の多様化、肥料の改良などの農業指導をはじめとしたいくつかの実験や冒険は、彼が病弱であったこともあって、彼自身にとってもまわりのひとびとにとっても残念ながら満足できる成果が得られなかったこともまた事実だと思います。
 自然の暴力を制御できない絶望の中にあって、それでもひとは夢を見たり希望を育てたりできるのでしょうか。宮沢賢治はその問いの行方を現実の世界から虚構の世界に求め、時代を越えてわたしたち読者にその答えを託したのだと思います。
 宮沢賢治がジョバンニに語らせた「ほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いは、その答えを幾通りにも用意しては捨て去る彼の自問自答そのものだったにちがいありません。そして、結局のところその答えを託されたのは他ならぬ、生きているジョバンニ、生き残っているわたしたちなのだと思います。
 東日本大震災から1年半を経て障害者たちがひたすら歩く「みちのくTRY」は、「ほんとうのしあわせ」がまだ暗闇の中にあることを知っている死者たちが、ジョバンニとわたしたちに託すせつない夢をひとつひとつ救い上げ、ほんとうのしあわせを設計する「共に生きる社会」を死者たちに約束する「ジョバンニたちの冒険」にほかなりません。
 願わくばその冒険が、共に生きる勇気をたがやすすべてのひとの冒険となりますように…。

みちのくTRY支援Tシャツ
デザイン・永六輔

みちのくTRY支援メッセージTシャツの販売にご協力をお願いします。
みちのくTRY支援メッセージTシャツ専用ページからご注文できます。(被災障害者支援・ゆめ風基金)


みちのくTRYについてのくわしい情報はみちのくTRYブログをごらんください。
2012年6月29日 毎日新聞
2012年7月6日 岩手日報
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2012.03.11 Sun 震災1年

 東日本大震災から1年になりました。
 被災されたみなさん、心よりお見舞い申し上げます。そして…、亡くなられたみなさんのご冥福をお祈り申し上げます。

 震災1年ということで、テレビでは特別番組が組まれる中、歌の力、音楽の力で被災者をはげまそうと長時間の音楽番組も放送されています。わたしは正直なところ、「被災地のひとびとをなぐさめる」という構図にどこか違和感を感じるところもあるのですが、これらの番組が「みんなで励まし合って、この危機を乗り越えよう」という純粋な気持ちから放送されていて、人気歌手やグループの歌で被災地のひとびとの心がいやされるのであるなら、それでいいのかなと思ったりします。
 明治維新以来「成長し、拡大すること」が豊かになることと信じてきたわたしたちの社会の底辺に隠れていたさまざまな問題があの大震災によって明らかになった今、それらに立ち向かわなければならないのは他ならぬこの時代を生きるわたしたちしかないことを、あらためて強く思います。
 昨年の11月、被災地で障害者救援活動をすすめる障害当事者を大阪に招き、シンポジウムを開催しました。その中の福島県南相馬市のパネラーの証言を紹介します。

 私のとこは南相馬市です。原発から25キロの所から来ました。家は津波が来て地震が来て原発30キロの中に入ったところです。津波って「来たら逃げてください」というのはパワーが全然違います。津波の後、海岸の2キロ圏内はコンクリートの建物はありません。木造はもちろんありません。津波というのはローリングしてくるんです。ローリングした中にコンクリートや瓦礫などが一緒にまざってくるんです。その中に巻き込まれたら人の形もなくなっちゃうんです。
行方不明の数が、岩手県、宮城県、福島県で出てますけれど、遺体はないわけじゃないんです。ただ、誰の者だかわからないという事で、「行方不明」という形になんです。ですから2k圏内にいたらまず助からない、だから逃げなきゃいけないんです。
では、原発はどういう風になったかというと、20キロ圏内は屋内に居ても、危ないから全員逃げてくださいという事で強制退避です。20キロから30キロ、うちの所は屋内退避です。屋内退避がどういうに言われたか、「いま空から放射能がさんさんと降っています。屋内にいれば当座のところ大丈夫です。だから外に出ないで家の中に居てください」。
どういう風な形で屋内に居るのかと言ったら、「換気扇は閉めてください」「エアコン切ってください」「窓閉めてください」「隙間の所は全部目張りしてください」。「家の中にマスクをしてじっとしていてください」。そういう風に言われるのが屋内退避です。
その中でずっと居れるのかという事です。居られないですよ、怖くて。だから皆さん逃げます。逃げるんですけども、現実的に全員逃げられるのかって言ったら、逃げられないです。
逃げられられないのは誰か、結果的には高齢の人です。それから、高齢の人を抱えた世帯です。その人たちは年寄りをおいて逃げられないです。だから残ります。
それから同じように障害者の世帯です。障害者の世帯も、避難所じゃない、30キロから外に逃げないといけないわけです。だから車とかで移動しなきゃいけないですね。もう逃げられないんです、やっぱり。だから残るんです。障害者の世帯も残ります。
それからもうひとつ、残るのは誰か、避難所の人たちです。避難所に行っている人たちです。避難所に行っている人たちは家が流されている人たちです。その人たちも避難の対象になるわけです。でも逃げないです。それはなぜか。屋内退避になった時点で自衛隊も警察も捜索が中止になります。だから自分の身内もまだ見つかっていません。「自分の身内が見つかっていないのに自分たちだけ逃げられるか」って、逃げないです。自分の身内たちが見つかるまでは自分たちも逃げないって残るんです。
南相馬市では7万の人口のうち1万人が最終的に残ったと言われます。1万人の残った人たちが、じゃ安全に残れたのか?そうじゃないです。30キロの枠がくくられる事によって、30キロの所に警察の検問が全部出来ます。
そうすると外から何も入って来なくなるんです。地元の人しか中に入れないんです。地元の人たちしか入れないということは、物資が入って来なくなるんです。病院も全部閉まります。それから福祉サービスも全部閉まります。中に居る人たちは枯渇するんです。
薬もない、食料もない、燃料もない、そういう所でどうやって生きていくんだ、でも生きざるを得ないんです。逃げないんじゃなくて、逃げられないんです。そういうのが原発の事故の現状なんですね。
皆さんの所にも全国に原発があります。30キロ圏内じゃないんですよ。今回、実際原発の放射能がどこまで飛んでいるか、お茶の静岡まで飛んでいます。300キロですよ。稲わらで牛に影響があったのが60キロで、そこまで飛んでいます。全国の皆さんのところにも入ります。30キロもっと危険です。
でも逃げられない人たちがいるということを是非わかって欲しいです。そう思います。


今晩BSプレミアム7時30分より放送の「BS日本のうた」に島津亜矢が出演します。

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2012.01.18 Wed 1995年1月17日のこと

 17年前の1月17日、阪神淡路大震災が発生しました。6400を越えるいのちが失われてしまったこの大災害では、避難所から仮設住宅、そしてがれきが取り除かれ、町が復興していく過程でも次々と困難が押し寄せ、時には生き残ったいのちさえもが奪われました。
 町全体が混乱と困難に覆われる中、障害者はより過酷な状況にありました。
 避難所になった学校や会館そして仮設住宅は、障害者市民にはとても使えるものではありませんでした。また視覚や聴覚そして知的に障害がある市民には最低限の必要な情報が届かず、非常事態における被害が直撃しました。
 そんな困難な状態の中、被災地の障害者市民の生きる場・働く場をつくってきた障害者市民グループと全国の障害者市民グループが結集し、障害者救援本部を立ち上げました。
豊能障害者労働センターも救援本部に参加し、救援物資のターミナルを担当した他、救援金の呼びかけや救援バザーを開きました。
救援本部は緊急の救援物資を届け、介護者を派遣し、車イスを利用する人に対応した障害者用住宅を建設しました。
 全国からの支援に力づけられた被災地の障害者たちは、届いた救援物資を活用して寒さにふるえる地域の人びとに豚汁を炊き出し、独居の高齢者に手づくりの弁当を配りました。
 障害があるひともないひとも、みんなで助け合っていこうとした被災地の障害者たちの行動は地域全体を元気づけ、またそれを支援した全国の障害者たちを勇気づけました。
 被災障害者支援・ゆめ風基金は障害者救援本部の支援活動を受け継ぎ、ふだんから非常事態に備え、必要なときにすぐに救援金を届け、長期的な支援をしていくために結成されました。
 それから17年の間、全国のたくさんの方々から預かった基金で、ゆめ風基金は各地で発生した自然災害に被災した障害者を支援してきました。
 そして、昨年の3月11日、東北関東大震災が起きてしまいました。
 豊能障害者労働センターは救援金のよびかけや救援バザーの開催は17年前と変わらないのですが、あの当時とちがい、今回は何人かのスタッフが被災地のボランティアに参加した他、救援本部大阪の街頭募金や昨年の11月23日に開かれた被災地と関西の障害者大交流文化祭にも参加しました。また支援Tシャツの製作や、カレンダーの売り上げから支援金を届けました。
 
 あの日から今日までの被災障害者支援活動を振り返ると、次々とやってくる過酷な現実に押しつぶされそうになるところを、被災地の障害者と全国各地の障害者がつながることでなんとか持ちこたえてきたというのが正直なところだと思います。

 17年前の寒い朝から、わたしたちは2つの「時」を生きてきたのだと思います。ひとつは失われたいのちたちの夢を刻むはずだった「無念の時」、もうひとつはがれきの下から立ち上がり、共に生きる社会をつくりだす「希望を刻む時」、この2つの時の間で、わたしたちの心の振り子は激しくなるばかりでした。
 それでも、わたしたちの社会は「共に生きること」、「助け合うこと」以外に生きる道がないことを、わたしたちは知りました。共に生きることも助け合うことも実は簡単なことではなく、とても勇気がいることで、数千人の命がうばわれてしまった悲しみをもってしても、わたしたちの社会はその勇気を持てないのでしょうか。
 今回の大震災の被害は、阪神淡路大震災を経験した障害者ですら、ただただ言葉をなくすばかりと証言しています。
 17年前の教訓が生かされていないと怒りを表しながらも、だからこそ17年前から夢見てきた「共に生きる社会」は被災地の障害者とつながることからしかつくりだせないと、障害者自身が被災地を訪ね、また被災地の障害者が移住するための受け入れなどもすすめられています。
 その意味からも、障害当事者によるボランティア派遣プロジェクトは、これからの障害者の運動の大きな可能性を予感させる大切な活動だと思います。
 さらに今回の災害はその上に福島原発事故を引き起こし、わたしたちが見過ごしてしまった大きな問題が解決できないまま、次の世帯、また次の世代へと負の遺産を届けることになってしまいました。福島の障害者運動は地域で地道な学習会をすすめ、自分たちのためにも、また地域のひとたちのためにも、そして未来を担う子どもたちのためにも原発をなくしていく運動を続けておられます。

 阪神淡路大震災の時、被災地にも春が来て、桜が咲きました。こんなに大きな苦しみをもたらしながら春の手紙を届ける自然を一瞬うらめしく思いました。しかしながら、ふりかえるとほんとうに「痛い春」でしたが、それでもこの自然とつきあうことでしか人間が生きられないことも知りました。この年に被災地に生き残った桜がひときわきれいで、被災地のひとびとの心をいやしてくれたことも事実としてあります。
 今回の過酷な状況もまた、どれだけの時間を費やせば希望がやってくるのか、まったく先が見えないこともたしかですが、全国のみなさんに支えていただくことで一歩また一歩、問題を解決していきたいと思っています。
 これからも、ゆめ風基金と障害者救援本部、そして豊能障害者労働センターにご支援をよろしくお願いします。

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