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2019.11.04 Mon 「村っこ太鼓」と映画「萌の朱雀」・ 奈良県十津川村 二村小学校の思い出2

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二村小学校講堂

 川沿いのバス道から山の斜面を登り、学校に着きました。車いすに乗っているKさんを玄関までサポートしたはずなんですが、今ネットに上がっている二村小学校跡の学舎を見るとかなりの階段なので、おそらく別の入り口であまり段差のないところがあったのかも知れません。
 ともあれ、会議室のようなところに案内されると5人分の弁当が用意されていました。さっそくごちそうになり、その後、校長先生が教頭先生を紹介してくださり、教頭先生から二村小学校の話を聞かせてもらいました。
 1年生から6年生まで合わせて33人の子どもたちと11人の先生で、十津川村の中でも特に普通の勉強以外に、子供たちのお父さんやお母さんをはじめ、村のおとなたちに来てもらって村の暮らしの歴史を学んだり、学校の外に飛び出して味噌づくり、キノコの勉強、野鳥の勉強、木工所で昔のおもちゃづくりなど、子どもたちの生き生きした体験学習の写真が所狭しと貼ってありました。年に一度、各学校の校外学習の発表会もあるということで、教頭先生が誇らしげに話されたのを今でもおぼえています。
 わたしたちも箕面での活動をひととおり話した後、職員室の先生たちにカレンダーのお礼ともどもあいさつしました。こんなに小さな学校に毎年40本もカレンダーを届けていたことに申し訳ないやらありがたいやらで、なんとお礼を言えばいいのか言葉が見つかりませんでした。
 「歓迎の準備ができましたので、講堂に行きましょう」といわれ、何のことかあまり理解できずに言われたまま講堂に入りました。
 するとどうでしょう、子どもたち33人全員が太鼓を前に勢ぞろい、頭にハチマキをしてわたしたちを迎えてくれました。見れば先生方も全員講堂に集まってくれました。たった5人のわたしたちのために通常の授業を返上し、歓迎の太鼓をたたいてくれるというのです。
 6年生らしき子どもの、「二村小学校、村っこ太鼓」という大きな掛け声に合わせて、子どもたちの太鼓が講堂中に響き渡りました。わたしたちは感激しすぎて涙も出ませんでした。ただただびっくりして、ドキドキしました。
学校挙げての歓迎太鼓の音が緑いっぱいの山々と谷深い清流、厳しい冬の風と透き通る空を突き抜けていきます。お腹の底まで響く振動は、講堂の床を伝ってわたしたちの心臓と共振しました。子どもたちの太鼓から立ち昇るいのちの鼓動が心を奮い立たせ、わたしたちが思いもしなかった何か、それは生きる勇気のようなとても大切なものを、山里の小さな小学校の子どもたちからもらいました。
 わたしの住む能勢でも小・中学校が統合され、ひとつの小学校とひとつの中学校になってしまいましたが、それまではそれぞれの学校が地域のコミュニティーの拠点になっていました。
 二村小学校は2010年に統合されたということですが、わたしたちが大歓迎を受けたこの頃は、間違いなく1年生から6年生までの33人の子どもたちが11人の先生たちと奇跡のような学校で学んでいたことでしょう。(もっとも、統合された十津川第一小学校も現在全校生徒数が48人だそうで、この20年に過疎化が進むのは止められないのかも知れません。)その奇跡は太鼓によって結ばれた子どもたちと村のおとなたちのきずなが生み出したものにちがいないと思いました。
 事実、十津川村では太鼓に力を入れていて、毎年8月4日に谷瀬のつり橋の上で地元OMC十津川太鼓倶楽部「鼓魂」のエキサイティングな太鼓の演奏が行われる「吊り橋まつり(揺れ太鼓)」が開かれています。
もしかするとわたしたちに太鼓を聞かせてくれた子どもたちの中で、大人になって太鼓をたたいている人がいるかも知れません。また、十津川村から都会に出てきて、故郷を心の奥にしまいながら暮らすひとが年に一度あるかないか十津川村に帰郷した時、廃校になった二村小学校のみんなで叩いた太鼓の鼓動とともに、村での暮らしが豊かな時間だったことを懐かしく思い出すかもしれません。
 わたしたちもまた、あの時の太鼓の音と子どもたちの真剣な顔が今も心に残っています。
 いずれは消えていく運命にあった奇跡のような学校で、奇跡のような子どもたちが太鼓を叩く様子を、わたしの妻が買ったばかりのビデオで撮影したつもりでしたが、撮影ボタンを押し忘れて何一つ写っていないという大失敗のおまけがついた二村小学校の子どもたちとの出会いと別れの旅でした。

 事務所に戻ると、年末大詰めに来ているカレンダーの発送に追われているうちに仕事納めとなり、年内最後の会議を待つ夕方、わたしは映画の配給会社に電話しました。この年のカンヌ映画祭で「萌の朱雀」の河瀬直美監督がカメラドール(新人監督賞)を受賞したという新聞記事を読み、わたしはこの映画の上映会をしたいと提案し、みんなの了解を得ていました。
 「萌の朱雀」は林業の低迷で暮らしが成り立たなくなった奈良県西吉野村を舞台に、少女とその家族のつつましい暮らしを通して、幾世代も受け継がれてきたいのちの営みと、家族が山を去って行くまでを静かに描く、哀しくもいとおしい映画です。
 その年の11月に公開された映画を見て、誤解を恐れずに言えば今までのわたしたちの活動がいわゆる「都会の運動」で、「富の分配」の権利要求が正当なものであったにしても成長神話に基づいたものであったことを痛感しました。
 経済成長のおこぼれを要求する「富」が都会でしか通じないのではと感じ始めていたわたしたちは、バリアフリーも困難で雇用の創出も難しく、過疎化が進む山里や海辺の村、経済成長から取り残されたように思える地域では、自然の厳しさと折り合いをつけて暮らしてきた先人たちの知恵を生かした、いわば里山障害者運動があるのではないか?
 その思いは能勢に住むようになってより強く感じるのですが、残念ながらそれをどうすれば実現できるのかいまだにわからず、わたしの生きている間に見つけることも不可能なのかなとも思っています。かろうじて2人の障害者議員を生み出した「れいわ新選組」の活動に最後の期待とシンパシーをもっているのですが…。
 ともあれ、わたしたちは「萌の朱雀」をたくさんの人々に見てもらいたいと思いました。
 まだ公開が始まったばかりなので難しいかなと思ったのですが、翌年の7月からは市民の上映運動でも配給できるということで、1998年7月18日、映画「萌の朱雀」上映会を開催しました。
 わたしはうかつにも今回の十津川村への旅で、はじめて「萌の朱雀」の西吉野村は十津川村よりずっと五條よりですが、新宮までのバス道から山間に入って行ったところで、同じ風土・地形であることを知りました。今から思えば、二村小学校の子どもたちの奇跡の太鼓が、「萌の朱雀」という映画にわたしたちを誘い込んだのかも知れません。
 わたしの住む能勢も例外ではなく、村おこしや地方再生が喫緊の課題と叫ばれて久しいですが、日本全体が人口減少を避けられない中、個々の村や町もまた過疎化を止めることはできないのかも知れません。しかしながら、それゆえに未来へつなぐ最後の希望としての教育の役割がとても大きいことを、消えゆく小さな学校の子どもたちの奇跡が教えてくれたのでした。

たおやかな木立、むせぶ陽のにおい、あふれる哀しみ。
そして、家族たちは心に深く緑をしまい、山を去って行った。
(「萌の朱雀」上映会パンフレットより)

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映画「萌の朱雀」


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2019.11.01 Fri 奈良県十津川村 二村小学校の思い出

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十津川村・谷瀬のつり橋

 10月27日、28日と、奈良県十津川村に行きました。朝早くに能勢を出てバスと電車を乗り継ぎ、奈良五條駅に到着。近鉄大和八木駅からやってきたバスに乗りました。
 そこから日本一長い長距離路線バスの旅。山高く谷深い渓谷を縫うように続くバス道を走り、JR新宮駅に至る全長168キロ。バスは五條を出発しておよそ2時間半、天辻(てんつじ)峠を超え、十津川村役場前に到着しました。
 このバス路線は2014年に一度存続が危ぶまれましたが、この地域の人々の生活を支えるたったひとつの交通手段であることから県や周辺自治体の助成もあり、また、ちょうどこのころから観光客の利用も徐々に増えはじめ、今に続いています。
 車窓をなでる透き通った風、そびえたつ山の緑、深い谷底を流れる川のきらめきに心がおどりながらも、厳しい自然と寄り添い、たたかい、取り戻せない記憶と果たせなかった夢を抱きながら生きてきた人々の矜持と歴史を感じさせる2時間半のバスの旅でした。
 十津川村は、和歌山・三重両県に接する奈良県最南端、紀伊半島のほぼ中央に位置し、面積は672.38k㎡と、琵琶湖とほぼ同じ大きさです。奈良県全体の約1/5を占め、村としては日本一の広さで、その96%が山林で中央部を十津川が南流しています。
 紀伊山地の急峻な地形のため、周囲とは隔絶した村落共同体として存在し、独特の文化、気風があり、日本の三大秘境の一つといわれていました。 2004年にユネスコ世界遺産登録された二つの道「熊野参詣道小辺路」、「大峯奥駈道」や「日本の滝百選」に選ばれた滝川渓谷の上流にある「笹の滝」など史跡や名勝も数多く点在しています。

 実は、わたしが十津川村を訪れるのははじめてではありませんでした。
 1997年12月22日、箕面の豊能障害者労働センターに在職していた時、Kさん、Yさん、Hさん、細谷しず子(ひろ子)さん、そしてわたし・細谷の5人で、2010年に廃校となった十津川村の二村小学校に、カレンダー40本を届けに行ったのでした。通常は宅急便で送るところ、40本のカレンダーを届けるために十津川村の小学校に箕面からはるばる配達することになったのは、その数年前から校長先生と約束していたからでした。
 豊能障害者労働センターは、「指導員」の給料や作業場の家賃、車の維持費を助成対象とされる障害者作業所ではありません。障害のあるひともないひとも共に働き、給料を分け合ってきた豊能障害者労働センターは、「指導員」として保障される主に健全者の給料だけが確保され、事業によって得たお金を「工賃」として分配する作業所制度(今の「障害者雇用支援継続事業」)ははっきり言えば差別的制度としか思えず、制度の枠に入ることを拒否したのでした。そして後に、箕面市との長い協働の成果として、障害者作業所では禁じられている助成金をどれだけ障害者に分配してもかまわない、全国でも珍しい「障害者事業所制度」を箕面市に誕生させました。
 1988年、豊能障害者労働センターは今まで地域で販売してきたカレンダーの通信販売を始めました。当時このカレンダーは大阪を中心とした障害者の自立をめざす障害者運動グループによって共同制作していて、販売もまたそれぞれの地域に限定されていた事情がありました。わたしたちは地域に縛られずに販路を広げるため、障害のある子もない子も共に学ぶ教育運動で利用してもらう障害児教育自主教材と抱き合わせで全国展開することにしたのでした。
 助成金もなかったこの頃、わたしたちは貧しいながらも障害者も健全者も生活に応じて給料を分け合うために、地域でお店の運営やバザーだけでなく、カレンダーの通信販売でもっと多くの収入を得る必要がありました。
 もちろん、通信販売ははじめてのことでどのように営業すればいいのかもまったくわからない中で、障害児教育自主教材との抱き合わせで、全国の学校に働きかけることを思いつきました。
 全国の教員組合や自治労などの労働組合だけでなく、わたしたちは機関紙の見本を全国津々浦々の学校に送りました。それは郵送料などの費用がかかりすぎる無謀ともいえる営業活動で、突然送られてきた北大阪の小さな障害者団体からの手紙を読んでくれる可能性も少なく、たとえ読んでくれたとしてもそれぞれの地域の障害者団体を差し置いてわたしたちの販売するカレンダーに協力してくれる可能性はほとんどないと覚悟していました。
 それでもわたしたちには夢がありました。障害児教育自主教材ともども、このカレンダーがわたしたちの知らない地域の知らない学校に届けられ、障害があるということで普通に学ぶことからも普通に働くことからも遠ざけられる理不尽な現実を変えていくきっかけになれたら…、と、そんな夢を手紙に託したのでした。
 すると、どうでしょう。手紙を送った全国の学校からぽつりぽつりと返事が返ってきました。都会の学校、山里の学校、海辺の学校、大きな学校、小さな学校…、周りの風景も学校の校舎も、子どもたちの笑顔も知らないけれど、ひとつひとつの手紙の封を開けるとそれぞれの学校の空気が飛び出しました。そして、障害のあるひともないひとも給料を分け合うわたしたちの活動を応援するメッセージを添えて、カレンダーの注文数が書かれていました。
 その中に、十津川村立二村小学校からの手紙もありました。前の年に注文を頂いた学校には次の年からは電話でお願いするようになり、毎年注文してくださるのが校長先生と知りました。そして、山深いところにある小さな学校で子どもたちが自然の厳しさもやさしさも学びながら生き生きと育っている、その姿をぜひ見に来てほしいと言ってくださいました。
 お誘いを受けながら日々の活動に追われてなかなか行けなかったのですが、翌年に校長先生が定年退職されると聞き、今までの感謝の気持ちを伝えたいという思いもあって、この年の冬、ほぼ仕事が終わった年末ぎりぎりに二村小学校を訪れたのでした。
 おそらく、今回バスで行ったのと同じ道を走ったと思います。川に沿った曲がりくねった道とトンネルをいくつか越えて、校長先生との約束通り、昼頃に二村小学校に到着しました。(つづく)

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十津川村立二村小学校跡 2010年、上野地小学校、三村小学校と統合され、十津川第一小学校となり、廃校となるが、保存されている。


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2019.08.18 Sun 福祉的就労の場の組織改革と、「社会的雇用」の場の制度化を

 れいわ新選組の舩後員靖彦議員と木村英子議の議員活動中の介護保障について、参院議運委理事会は当面参議院が費用を負担することとし、政府に対し速やかな制度見直しを求めることになりました。維新の会の松井一郎氏や吉村氏をはじめ、ネットでの書き込みなどで障害者議員の介護保障は議員報酬で負担せよという主張がありますが、選挙で国民から請託をうけたミッションや約束を実行してもらうための議員報酬と経費を自分の介護保障などに使ってはいけないとわたしは思います。
 一方木村英子議員は、当面の対応として参議院で費用負担することに「致し方ない」と理解は示しつつも、すべての障害者に就労や就学を権利として認め、「重度訪問介護」制度を見直し、就労や就学にも利用できるようにという趣旨の質問主意書を提出しました。
 これを受けて厚生労働省は、7月9日に障害福祉課と障害者雇用対策課で、障害者雇用福祉連携強化プロジェクトチームを立ち上げ、障害を持つ人の通勤・就労中の支援のあり方をどうするかの検討を始め、重度訪問介護の見直しまでは手をつけていないが、今後の議論次第で、重度訪問介護以外の新たなサービスを作るのか、重度訪問介護の中で対応することになるのか、検討していくことになるとしています。

 わたしは木村議員の提案は正論とは思うのですが、「重度訪問介護」を就労にも適用することでは解決できない、障害者の就労の権利にかかわる根本的な問題があると思います。
 「重度訪問介護」は24時間介護を保障し、重度障害者の生活を支える重要な制度ではありますが、「訪問」という名前にあるように在宅サービスの制度には違いないからです。もともと高齢者の介護サービスとの関係で、時間に区切られた介護ではなく24時間の介護保障を要求して闘ってきた当事者の長い運動によって実現した制度でもあります。
 ほんとうは、就労や就学もふくめた重度障害者の生活すべてに24時間の介護保障を求めるべきと思います。今回の論議で、障害者の就労に公的な介護保障がないということをはじめて知った方もおられると思います。
 障害者の就労について国は「障害者雇用促進法」に基づき、法定雇用率(昨今国自体が水増ししていたと問題になりました。)によって障害者の雇用を義務付けし、雇用率を達成していない企業からは障害者雇用納付金(法定雇用率に不足する数一人につき月額50,000円)を徴収し、雇用率を越えている企業に障害者雇用調整金(一人に付き月額27000円)を支給しています。実際のところ、雇用率を達成している企業は50パーセントに満たない状態です。
 障害者の就労をささえるための制度はそれ以外に介護保障や環境整備、仕事のサポートなどがあり、充実しているように見えます。しかしながら、雇用率を達成している企業が50パーセントに満たず、就労している数は50万人という現状からわかるように、就労から遠ざけられた在宅障害者が就労を希望すれば作業所などの福祉的就労の場しか用意されていません。言い換えれば国は、ほとんどの障害者を「働く権利」のあるひととは考えていないのです。
 障害者権利条約の批准により、障害者の就労に差別をしてはいけないことになったと思うのですが、そもそもなんの運動もなしに介護を必要とする障害者が企業の就職試験を受けることはほとんどありません。わたしが豊能障害者労働センターに在職していた時、市役所への就労の交渉では、ごくあたりまえに自立通勤できて、職場で特別な介護を必要としないなど、いわゆる軽度の障害者の就労ですら運動の中で勝ちとらなければならなかったのですから、重度の障害者の一般就労は夢のまた夢でした。
 もともと一般企業への就労を拒まれるわけですから、障害者の就労に公的な介護保障がないというのは、その必要がなかったと言うわけです。重度障害者といってもそれぞれ違うわけですが、それでも生活を支えるために24時間介護保障を必要とするひとが就労の場で介護を必要としないはずはなく、その意味では木村議員の提案を掘り下げれば、就労の場においても「重度訪問介護」と同等の介護保障を就労の権利として制度化することなのではないでしょうか。重度障害者を排除してきた企業と国ですから、そう簡単に制度化するとは思えないので、もしそれよりは安易な「重度訪問介護」を就労の場でも認めるとすれば、今度は職場で仕事をすることへのサポートはしてはいけないということにならないか心配です。
 ともあれ、一人の障害者が生活に必要とする介護保障と就労の場で必要とする介護保障が、必要とする障害者の要求にこたえるという意味では違いはないのですから、就労の場で必要となる介護は身辺介護とともに仕事のサポートも入って当然です。
 そして、就労の場の介護保障は企業が負担すべきと言う旧来の原則の下では、企業が介護を必要とする重度障害者を積極的に迎え入れるはずがありません。障害者の一般就労が極端に少ない理由はそこにあり、一般就労を増やすには企業と公的セクションが協力しあい、就労の場の介護保障と環境整備に大胆な公的な助成が必要なのではないでしょうか。
 さて、船後議員と木村議員の問題提起から、一般企業での障害者の就労支援や介護保障の在り方を検討することになったことはすばらしいことで、今回ほど政治の力をダイレクトに感じたことはありません。願わくばこの制度改革によって障害者の雇用が進むことを期待してやみません。

 わたしは今回の議論をさらに深め、一般就労の介護保障の制度化と合わせて、一般企業への就労が困難とされる障害者が通う作業所(就労継続支援事業B型の事業所・旧授産施設)などの「福祉的就労の場」の組織改革をして、月14000円の工賃から施設利用費を徴収され、生活の基盤を高齢の親など家族に頼らざるを得ない重度障害者の「働きたい」という願いに応える労働の場、一般企業に拒まれる障害者をありのままに受け入れながら、生活していける給料を共につくり出す労働の場、一般就労でもなく福祉的就労でもない新しい第三の雇用の場へと制度化できないものかと思います。
 わたしが在職した豊能障害者労働センターは、1982年から「福祉か雇用か」という制度の壁も知らないまま福祉的就労の場の認定を受けず、ただがむしゃらに障害のあるひともないひとも共に働き、給料を分け合いながら活動を続けてきました。その活動は国際的にはILOの示す「保護雇用」と呼ばれたり、また箕面市が豊能障害者労働センターの活動を認知し、障害者の賃金補助を含む「障害者事業所」を制度化した「社会的雇用」のモデルと呼ばれるようになりました。
 わたしは障害者の就労支援が福祉から雇用という一般就労をめざすだけでなく、福祉制度と雇用制度が協働して重度障害者の就労に大きな道を開く「社会的雇用」の制度化を強く望みます。

障害者に対する「社会的雇用」の課題と展望
     東アジア諸国における保護雇用の取り組みをとおして
社会政策学会誌「社会政策」第7巻第1号(2015年07月25日)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/spls/7/1/7_KJ00010030832/_pdf

障害者の働く権利を確立するための 社会支援雇用制度創設に向けての提言(案)
日本障害者協議会(社会支援雇用研究会) 2015年12月

http://www.jdnet.gr.jp/report/15_12/teigen.pdf

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2019.08.11 Sun 芸術はアーティストが生み出す作品だけで完結するのではなく、鑑賞者が創造的行為に加わることによって作品が完成する 「表現の不自由展・その後」

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 「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」が開始3日後に中止になった事件は、様々な表現者団体が次々と抗議声明を出すなど、反響が広がっています。今事件が「脅せば表現は封印できる」という前例となり、同様の事件が急増する恐れがあり、またそれを恐れて萎縮が広がることが予想されます。
 「表現の不自由展・その後」の企画の趣旨は、これまで公共の施設などで展示拒否にあった作品を実際に見てもらい、それをもとに表現の自由・不自由について議論をしようというものだったのですが、その展示自体が中止になってしまうという不幸な事態になりました。
 「表現の不自由展・その後」は今回のトリエンナーレでゼロから企画されたものではなく、2015年に東京・江古田の小さなギャラリーで行われた「表現の不自由展~消されたものたち」で扱われた作品と、この4年間で新たに展示が不許可となった作品を加えて構成されています。
 抗議の大きな矛先は、慰安婦問題をテーマにした「平和の少女像」をめぐってで、韓国との緊張関係が続いている時にけしからんという政治的反発が起き、河村たかし名古屋市長や菅官房長官ら政治家の発言がそれに火をつけて抗議電話が殺到するという状況になり、大村秀章知事と芸術監督の津田大介氏が安全に運営できないとして実行委員会での協議を待たずに企画展の中止を決めました。
 もともと公的な施設から排除されたアート作品を展示することで表現の自由について考える企画なのですから、異論百論が噴出するのは覚悟の上だったはずで、「平和の少女像」はまさにこの企画にぴったりの展示だともいえるわけです。
 奇しくも河村市長の主張どおり、「行政の立場を超えた展示が行われている」という理由でこの展示そのものが中止に追い込まれたことで、「表現の自由」が危機に瀕していることを証明してしまいました。
 もちろん、河村市長や吉村大阪府知事、松井大阪市長などの発言や、電話やFAX、SNSなどによる抗議や脅迫によって表現行為が封殺されてしまうことは許しがたいことで、その暴力に毅然と立ち向かうべきだと批判があって当然です。
 しかしながらこの事件は、抗議の的になった「平和の少女像」の作者の製作意図がどうあれ、その展示行為そのものが「日本人の心を踏みにじる行為」と言えるのか、ここでいう「日本人」とはだれを指すのか、また国や地方行政が主催、もしくは補助金を交付する展覧会に行政の意向が反映されていいのかなどの議論もさることながら、そもそも地方行政による町おこしの道具にアートが安易に利用されることの危険に警鐘をならすものでもあると思います。
 というのも、制作者が作品に込めた政治的メッセージに反発する人にとっても賛同する人にとっても、作品そのものが放つべきメッセージを表現されているのか、またそのメッセージは議論されているような一つだけのメッセージなのかは問われることがなく、その政治的メッセージの賛否のみが先鋭化してしまうからです。
 とくに今回の作品群は政治的メッセージが理由で展示を阻まれたものが多く、そのために「表現の自由」も政治的なメッセージをめぐって論議されてしまいます。
 今回の事件は、行政主導のアート展が少しエッジを利かせて、「表現の自由」のふり幅を試してみようとあまり強くない毒薬を少々口に含んでみたというのが実情で、主催者は多少の抗議はあってもセンセーショナル・かつジャーナリスティックな刺激によって行政主導のアート展でもここまでできると証明する画期的な企画となることをもくろんでいたのだと思います。
 いいかえれば、「平和の少女像」の展示に反発する側も援護する側も同じ向こう岸に立っていて、表現の自由も不自由もかっこ付で共有しているとも言えます。そして、表現行為に理由付けや政治的意味付けがなければならないという恣意的な力が「大衆に受け入れられる」という言い方で時の権力に迎合していく、かつてのスターリニズムに陥らないという保証はないのです。
 事実、最近の吉本の事件やジャニーズのスマップ騒動、クールジャパンや時の総理が吉本新喜劇に「出演」し、オリンピックから万博までエンターテインメント化したスポーツや芸術や表現がわたしたちの足元をくずし、かつての大政翼賛体制がつくられつつあるのではないでしょうか。
 今回の事件はわたしたちひとりひとりの心の中の「検閲」と「仲間外れになる恐怖」、「バスに乗り遅れるな」とあせる煽情的な暴力が、同時代を生きる他者の存在を打ちのめし、想像する力をもぎ取っていく怖さをリアルに教えてくれました。

 論点がずれるかも知れませんが、今回の論議の的となった作品が「平和の少女像」ではなく、もしも、あの「ろくでなし子さん」が自らの女性器を型どりデコレーションしたアート作品「デコまん」であったら、どうだったのだろうと考えます。
 「デコまん」は芸術かわいせつかで裁判をふくめて物議をかもしましたが、「表現の自由・不自由」に敢然と立ち向かう彼女には予定調和的な思惑はなく、現代アートの真っただ中でわたしたちに表現とは何かという古くて新しい問題を投げかけていると思います。
 わたしたちの体の一部である性器は腕や足とどうちがうのか、社会が「わいせつ」という言葉で片付けてしまうことができないきわめて現代的で悩ましい命題と、性器というすでにあるものを型どりする作品はアンディ・ウォーホールなどポップアートを彷彿させ、わいせつかどうかの判断を越えて、マルセル・デュシャンが1917年に発表したレデイメイドアート、「泉」と題された便器を思い出します。
 韓国の日本大使館をはじめとする各地に製作者の意図通りに設置された「平和の少女像」が、「表現の不自由展・その後」に展示されることで作品の存在感やメッセージがどう変化するのか、そしてまた「デコまん」や「泉」とどうつながっていくのか、若い頃に親しんだ現代アートの冒険の現在に立ち返らせてくれたという意味で、わたしは「表現の不自由展・その後」がたとえ再開されなくても意味はあったのではないかと思います。
「芸術はアーティストが生み出す作品だけで完結するのではなく、鑑賞者が創造的行為に加わることによって作品が完成する」(マルセル・デュシャン)

 蛇足ですが今回の騒動で公的な施設利用にあたって行政の職員がますます萎縮するのは必至でしょうが、それでもこの際言っておきたいのは、公的な施設の建物が市民の共有財産であることはもちろんのこと、イベントを企画して施設利用を申し込みに行く時にいつも感じる違和感は、担当職員が「市民・住民」という時、その施設を借りようとするひとしか見ない事です。
 実はそれは大きな間違いで、職員と施設利用する市民・住民が協働して、そのイベントに参加するひとりひとりの市民・住民にどれだけ開かれたサービスを提供できるか、そのイベントの企画がたとえ特定のひとたちに深くかかわる問題へのアプローチであっても、将来にわたり多様な人々が共に生き、共に耕すこの町が「だれひとり取り残されない町」になるための試みとして職員と住民が協働する、そんな文化行政であってほしいと思います。それこそが「表現の自由」を住民みんなのものとしてより広くより深めることと思うのです。

「表現の不自由展・その後」展示中止の現場を訪れ考えたこと
コラムニスト・石原壮一郎(NEWSポストセブン)

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2019.06.22 Sat 助け合う勇気が新しい国家を未来する。 豊能障害者労働センターの慰安旅行

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 少し前になりますが、6月8日、9日、豊能障害者労働センターの慰安旅行に誘っていただき、神戸の「しあわせの村」に行きました。
 退職して16年も経つのに今でも誘ってくれる豊能障害者労働センターに感謝しかなく、少し気後れするところもあるのですが、みんなの好意に甘えて参加させていただきました。
 16年も経てば、わたしが活動していた頃の人もいるものの、新しい人たちがほとんどです。この集団はいわゆる健全者はほとんど変わらず、障害者スタッフがどんどん入ってきて、現在障害のある人約40人を含めて約60人が活動しています。
 一般の会社なら最近はやった映画「終わった人」ではありませんが、10年ひと昔のごとく、やめた会社に出入りすることはないと思うのですが、障害者運動を担う労働センターの場合は専従スタツフをやめても年に一度の大バザーの手伝いをしたり、機関紙の発送作業を手伝ったりする人も多く、わたしもそのひとりです。
 新しいスタツフはほとんど障害者で、彼女彼らはほんとうに屈託がなく、めったにセンターに顔を出さないわたしにも実にやさしい声をかけてくれるのでした。
 労働センターの障害者スタッフは1982年の設立当時からのベテランから新人まで、「障害」というそれぞれの個性を十二分に発揮し、ベテランへの気遣いや新人への心配りをしながら対等に「助け合う」ことが日常になっていて、昔わたしや前代表の河野さんの口癖だった、「来るもの拒まず、去る者追わず」といった運営方針が理念をこえて彼女彼らの日常の行動指針になっているのでした。
 その根本には多岐にわたって自己責任論が声高に求められる今の時代に逆らい、圧倒的に他人を信じ、自分を信じ、他者(友人、仲間)に依存することでひとりひとりの人生を肯定し、助け合ってともに生きる勇気を持つという思想があります。
労働センターの慰安旅行は創設時からあり、最初の旅行は障害者2人、健全者3人のスタッフと周りの支援者を入れてせいぜい15人ほどの旅行でしたから、能勢農場や部落解放同盟北芝支部のマイクロバスを借り、河野さんが運転し、運営委員の浜辺さんの世話で全電通の白浜保養所に一泊しました。それからも毎年近辺の観光地に行きましたが、とにかくトイレを探すのが一番の目的でした。その頃は労働センターにもそれぞれ個人にもお金と言うものがなく、有料の観光施設に入ったことはなく、宿泊所で酒を飲むのだけが楽しみでした。もちろんカラオケもなく、みんなアカペラで歌い、さわいだものでした。
 結構長い間、脳性まひの小泉さんも梶さんも屈強な若者(私もまだその若者のひとりでした)が交代で抱っこしてバスの乗り降りをしたものですが、それが今ではどうでしょう、リフト付きの最新のバスで運転手さんの操作で乗り降りでき、それぞれに「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」からは派遣されたヘルパーさんが同行し、カラオケ設備も充実しているれっきとした観光旅館に泊まることができるようになりました。まさしく、イリイチの名言どおり、貧困もまた近代化したのだとつくづく実感します。
 そして、発足当時と今との決定的な違いは、旅行の計画から当日の段取りやアナウンスまで、障害者スタッフ数名の幹事さんたちが世話してくれることや、カラオケもまた障害者スタッフが歌いまくるのですが、もちろん演歌などはほぼなく、AKBなどのJポップとアニメソングで、わたしなどにはさっぱりわからない歌ばかりなのです。
 豊能障害者労働センターは一般的な障害者作業所のようにサービスを提供する健全者スタッフとサービスを利用する障害者のように内部的にも外部的にも別れていません。
一般的な福祉作業所などではサービスを利用する障害者は「労働者」ではなく、給料ではなく「工賃」としていくばくかのお金が支払われます。
  箕面市独自の制度を利用した事業所である労働センターの場合はリサイクルや通信販売、大衆食堂などの事業で得たお金と市独自の助成金を合わせたお金を障害者も健全者もみんなで分け合っています。
昨今、国が障害者の就労を水増ししていたことが発覚し、国は障害者手帳の有無を厳格にし、障害者雇用を増やしました。そのことで軽度と言われる障害者の雇用が進んだことは評価できるのでしょうが、豊能障害者労働センターの場合は一般企業や行政機関への就労を拒まれる障害者、一般企業が雇わない重度と言われる障害者、働くことは無理とされ、福祉サービスを受けるだけと言われる障害者の就労を実現しています。
 福祉作業所でせいぜい2万円程度の工賃しか得られない障害者が、労働センターでは親元から通う人で9万円、自立した人で12万円の給料が得られるわけは、年間1億円の売り上げがある事業収益と、健全者の給料が指導員と言われる作業所の健全者より格段に低く、自立する障害者の給料と同程度だからです。「共に助け合う」と言われますが、開所した時の赤貧状態の時も、事業所として成り立っている現在も、お金をみんなのお金として分け合うことが労働センターの障害者と健全者の対等性を担保しているのです。
 全国でもあまり例のない運営を約40年も続けてきた結果、障害者は自分自身を「労働者」と自覚することを通り越して、「経営者」として日常的に傾きがちな労働センターの経営を担うようになりました。この「経営を担う」という考えは一般企業の労働者と比べてもよりスキルが高いと言えるのではないでしょうか。しかも、労働センターの障害者は事業を通して箕面市内での露出度は高く、一億円を売り上げる事業は市民が買い手であるだけでなく、その事業に参加することによって成り立つ市民事業にまで成長しました。

 そんな労働センターの活動は事務所を含め4つのリサイクル店と食堂、それに移動販売と各所に別れていて日常ではわからないのですが、年に一度の慰安旅行の時にその全貌が現れます。事業と経営を障害者自身が担うという、彼女彼らにとって当たり前の日常はそのまま、「旅行」という事業をプロデュースすることになり、だれひとり取り残されないそのプロデュース力は素晴らしいもので、彼女彼らに任せればはっきり言ってそんなに豪華な旅行でなくても、飛び切り楽しい特別の時間に変貌するのでした。
ひとりひとりの障害者が旅行と言うサービスの利用者にとどまらず、幹事だけに任さず全員が年に一度の大事業を最後まで事故の起こらないように助け合う姿は、4割を超す非正規労働者の切ない権利を踏みにじり、移民として日本社会に迎え入れないで外国人労働者を使い捨てしようとする国に抗して、国家・集団・組織運営の未来の在り方への究極の提案の一つと言えるのではないでしょうか。
 そんなことを感じながら、こんないとおしいひとたちがいるかぎり地域社会も国家もまだ捨てたものでもないなと勇気をもらった旅行でした。
 こんな素敵な体験をプレゼントしてくれた豊能障害者労働センターのみなさん、ありがとうございました。

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