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2021.12.27 Mon そして世界の希望の一年がやってくる。カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」

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クリスマスソングが街にあふれ
あわただしいときが走り抜けたら
もうお正月
かなしかったこともうれしかったことも
せつなかったこともおかしかったことも
さびしいわかれもたのしい出会いも
ささいなできごともおおきな紛争も
まるで一年のはじめからわかっていたように

がれきの下についさっきまでひろがっていた
コーヒーの香りと息づくいのちの朝が
凍りついたまま今もぼくたちを見つめている
ひとは夢をみるために生まれてきたのなら
死んでもなお必死に見つづける夢がある
がれきの下で止まってしまった時も
死者のひとみからこぼれる見果てぬ夢も
この大地を生きるぼくたちと共にあるのだと思う

1月1日から12月31日まで
時にはただの数字の並びが
知らない国の言葉に思えることがある
遠い遠いどこかの大地で同じ星を見ているあなた
夜のむこうの冷たさが頬を凍らせ
必死で声を出そうとしているあなたの
冬の心はまだ詩にもならず歌にもならず

爆弾でこわれてしまった部屋の壁には
いつかのアイドルと英雄の古びたピンナップと
肩を並べるように寄り添うカレンダー
あなたの記憶のぼんやりとした岸辺で
世界の悲しい一年がさよならしている
そして、ぼくはといえば元気を出して、さあ
と新しいカレンダーをめくる

1月1日から12月31日まで
時にはただの数字の並びが
不思議な物語に思えることがある
遠い遠いどこかの駅のホームに立っているあなた
そして世界の希望の一年がやってくる

カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」
2022年ラストストーリー
イラストレーション:松井しのぶ
製作:豊能障害者労働センター
カラー6枚つづり たて62cm よこ30cm
1100円 送料無料
豊能障害者労働センター
TEL072-724-0324

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2021.12.13 Mon 北大阪の町・箕面に河野秀忠さんがいた。1986年10月の記録

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左から牧口一二さん、河野秀忠さん、小室等さん、小室ゆいさん
2015年4月19日 ゆめ風基金事務所にて、

 時々、河野秀忠さんの言葉が恋しくなります。2017年9月、彼はこの世を去りました。
 障害者問題総合誌「そよ風のように町に出よう」の編集長で、青い芝の会の横塚晃一さんとの出会いから全国的な障害者運動を続けてきた彼は、住んでいた大阪北の町・箕面でも地道な活動をしていました。
 その中でも豊能障害者労働センターの前代表でもあった彼にとって、豊能障害者労働センターは特別に愛おしい集団として見守っていてくれました。
 河野秀忠さんは、未成熟で貧困な当時の労働センターのスタッフに、身の回りの悲惨さこそが、ひととして生きる願いを叫ぶ世界の人々とつながっている証しなのだと教えてくれました。高邁な理想と見果てぬ夢…、言葉の魔術師でありながら、100万の言葉よりも言葉を発しにくい純な心を写し鏡とした障害当事者の運動を支えた河野秀忠さんがいなかったら、豊能障害者労働センターは存在しませんでした。
 雑誌編集のプロとしても、また60年代後半からの「反体制(?)」運動家としても多様な檄文を綴ってきた彼は、豊能障害者労働センターの機関紙「積木」には特別に力の入った文章を残しました。
 下の文章は、路地裏の民家で出発してから5年、新しい事務所建設基金を必死にひたむきに呼びかけたお願い文でした。
 この年の12月20日、豊能障害者労働センター5周年と基金を呼びかけるコンサートに河野さんの声かけで小室等さんと長谷川きよしさんが来てくださいました。
 小室等さんはそれが縁で箕面のみならず豊中の障害者グループの応援にも来てくださり、1995年の被災障害者支援「ゆめ風基金」の立ち上げにも永六輔さんとともに積極的に関わっていただき、今は同基金の代表をされています。


豊能障害者労働センター拡大移転基金500万円基金よびかけ文

鳥は大空へ 人間は社会へ
豊能障害者労働センターの拡大移転500万円基金実行委員会にあなたのご参加を!
                                   1986年10月 河野秀忠

 1980年、はなばなしくむかえられた国際障害者年のただ中、ひとりの脳性マヒといわれる障害者が、障害者用の学校、養護学校のなかから自分を拒否する世間をにらんでいた。
 彼には、彼を受け入れ働き、労働と生活を共有する場が用意されていなかった。彼の労働には、手垢にまみれた労働感によって(賃労働に見合う能率的な労働こそが社会を構成する要件である)けっとばされ、車イスの上で身もだえていた。
 彼は考えた。能率的な労働とは何だろうか?働くことによってしか市民生活を形づくられないとしたら、働けない俺は何だ。俺は、市民でも人間でもないのか。
 学校では、人間の本来的尊厳を教えてはくれたが、それはどこにあるのだ。あたたかいはずの市民社会の住民の俺を見る目の、あの冷たさは何だ。
 学校のバリアーの外では、人間が労働しているのではなく、労働が人間を働かせている。
 俺は、人間の労働がしたい!
 こうして、1981年に借金に借金を積み上げ、豊能障害者労働センターは、傾きかけた借家を船に1人の障害者と3人の健全者でヨロヨロと船出した。
 あれから5年、その航海は、人間のミレニアムを夢見てうまずたゆまず続けられている。
 この船に乗り込むクルーは、様々な市民、住民運動にかかわる人、差別と真っ向から向き合うひと、平和や愛を求める人、労働者の団体、障害者にかかわる人と増え続け、大きなウネリとなって船を進め、今日もあなたの住む街を、心よ、夢よ、冒険よ、愛よ、明日よと航海している。
 決して波が緩やかな日ばかりではなかった。航海長ともたのむ愛しい人を、死によって奪われ、涙が枯れたときもあった。資金という燃料が途絶え、停戦しかけたこともあった。人と人とのしがらみのなかで救命ボートを去った人もいた。しかしいつのときも悲しみや辛さの荒れる海から、我々を救い出してくれるのは、人としての尊厳を大切にする友人であった……。これからもずっとそうである。
 今や、全ての友人との共通の我々の船は、この豊能の地において全ての障害者と人間に関わる行為と営みの母船となった。我々の航海が地域と職場を変え、新しい航路を切り開いたのだ。
 我々は元気だ。我々の勇気と自由のオールは、人びとの息づく世界のすみずみにまで我々をいざなう。そして、世界を人間と愛とでカラーリングする。
 我々の旗印『人間まるごとの労働で、食える賃金を!』が青空にクッキリとひるがえっているのを、あなたには見えたか!
 5年目の航海の朝、我々のめざめの前に、巨大な嵐が見える。福祉切り捨ての大行進が、おしひしがれた世間の谷間が「障害者は、甘えるな。金を出してサービスを買え」と吠える。
 我々がいつ甘えたか。断じて言う「長い歴史のなか、障害者を甘やかしたときが一瞬でもあったか。障害者の現実を直視して、市民の良心が痛まなかった季節があったか」と……。
 我々は急がねばなるまい。我々の船とクルーの祭りを準備せねばならない。我々には、新しい船が、強くて大きい船が必要だ。多くの人々の心と暮しのよりどころとなる広い船が!

 豊能障害者労働センターは、1987年、匂い立つ春に、航海5周年拡大移転を実現しようとしています。この壮大な事業には、造船をともに担うあなたの、私達の、心とからだと夢とパトスが求められます。
 サァ、大きな船を一緒に創りましょう。ヨイショとあなたの太い腕と赤い血を私たちの造船所へ!

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2021.11.30 Tue 松井しのぶと阪神大震災と焚き火の思い出

松井しのぶ「風のメルヘン」

やがて悲しみは希望にかわり
新しい星が生まれます
生まれたての星はまだ
光ることができません
だから星は焚き火をして
光る練習をするのです
今夜もほら、あんなに赤く
星がにじんでいます

 その絵は焚き火の絵だった。四人の人間が焚き火をしている。その炎からいくつもの星が生まれる。そのうちのひとつの星が大地に堕ちてなお、きらきら光る。
 全体がオレンジ色の小さな絵の中で、果てしない大きな空間がわたしたちを包む。そこには無数の悲しみがかくれていて、焚き火はそのひとつひとつをいとおしくすくい上げるのだった。
 2003年、急逝された吉田たろうさんに代わってカレンダーのイラストを描いてくれるひとを探していたわたしの目に飛び込んできた一枚の絵が、松井しのぶさんとの出会いだった。

焚き火の思い出
 中学生の時、冬休みに一度だけアルバイトをしたことがある。僕の家には父がいなくて、母が飯屋をしながらわたしと兄を育ててくれた。今は中学生のアルバイトは禁じられているらしいが、そのころは家計を助けるために新聞配達をしたり知り合いのお店や工場でアルバイトをする友だちもいたように思う。僕の家の状況から言えば真っ先にアルバイトをしてもあたりまえだったが、母はそれを嫌っていた。店の手伝いをしてほしかったこともあるが、なによりも勉強してほしかったのだと思う。
 1960年には高校進学率は67%に達してはいたらしいが、それでも貧乏な家庭の子どもは就職して家計を助けるのがふつうだった。そんな時代に自分の身体がこわれても「高校だけは行かせたい」という母の切実な願いは、いわゆる私生児でよりどころがない子どもが生きていくには学問しかないという切なくて頑固な信念から来ていた。
 そんなわけでわたしは学校から帰るとお店の手伝いをしながら、空いたテーブルで勉強していた。そのおかげでわたしの教科書もノートも醤油やソースのこぼれたあとがいつもへばりついていた。
 どんないきさつだったのかおぼえていないが、アルバイト先はわたしの数少ない友人で、似たような境遇だった同級生の家がやっていた工務店だった。いまから思えばわたしたち家族の生活への気づかいと対人恐怖症で引っ込み思案のわたしを心配して、その友人の母親がわたしの母を説得してアルバイトをさせてくれたのだと思う。
 仕事は南大阪の大和川河川敷でのボーリング地質調査の手伝いだった。おそらく仕事にはならず、職人さんの足を引っ張って迷惑をかけたことと思う。ともあれわたしは冬休みのほんの一週間、働かせてもらった。
 寒い朝、工務店に着くと数人の職人さんが大きなドラム缶に廃材を放り込み、焚き火をしていて、「冷たいやろ、早よあったまり。」といつも声をかけてくれるのだった。身体がかちかちになっているわたしは焚き火に差し出した両手から、あたたかさを身体の中にゆっくりと流し込む。パチパチと木がはぜる音、ぼんやりとゆれる炎。顔のほてりを両手でこすりながら、わたしは心の中の何かかたくななものがとけていくのを感じていた。その15分ほどの時間がとてもうれしかった。わたしは焚き火の楽しさを教えてもらった。今思い返すとそのあたたかさは焚き火だけのせいではなく、特別な事情をかかえる子どもを温かく見守る職人さんたちの心づかいだったのだと思う。

共に生きる勇気を育てるために
 阪神大震災の時、公園や学校などの避難所ではどこでも焚き火をしていた。5500人以上のかけがえのないいのちがうばわれ、あたり一面が瓦礫の荒野となってしまったその地で凍てつく冬の夜を照らす焚き火は、体をあたためることや灯りをとることや炊き出しをするためだけに必要だったのではない。多くの証言が語るように焚き火は被災地のひとびとの心をあたため、癒してくれたのだと思う。
 余震の恐怖、肉親や恋人、友人を失った無念、生き残ったがゆえにおそいかかる死の予感…。廃材といっしょに何度も何度もそれらをドラム缶の中に投げ込み、ひとびとは焚き火をしつづけたのだった。それは5500を超えるたましいを見送る儀式でもあったが、それと同時に生き残ったひとびとが助け合って生きる以外に道はないことを教えてくれる、だれもが必要とした道しるべでもあった。
 阪神大震災はこの社会が安全ではないことを教えてくれたことで、直接被災しなかったひとびとにも深い傷を残している。その後次々と起こる大災害、無差別テロ、信じられない事件…。今振り返るとあの地震はその後のとてつもない悲しみと無数の死を予感していたのだと思う。そしてわたしたちの社会はまだ、「安全で平和な社会」のあり方を見つけ出せないでいる。
 けれども、どんな強力な武器よりも、共に生きる勇気を育てること以外に「安全で平和な社会」をつくれないこともまた、たしかなことなのだと思う。わたしたち人間は言葉も個性も希望も夢も国籍も民族も性別も年代もちがっても、つながることができるのだ。それがとてもうれしいことなのだと、焚き火が教えてくれた。
 地震から一週間後、被災障害者に救援物資を届けるためにはじめて被災地に入った。川のそばの大きな公園で焚き火を見た瞬間、子どもの頃のあの焚き火とそれをかこむやさしいまなざしを思い出した。
 ひとはずっと昔から焚き火をすることで、小さな悲しみも想像を越える大きな悲しみも分かち合い、共に生きる勇気を育ててきたのかも知れない。
 松井しのぶさんの焚き火の絵は、まるでずっと前からわたしを待っていたかのように「冷たいやろ、早よあったまり。」とやさしくささやいた。わたしは焚き火に両手を差し出して、「ただいま」と言った。

やがて悲しみは希望に変わり
新しい星が生まれます

(採録2004年HPより 2014年ブログ校正)

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2021.11.26 Fri 庶民文化は助け合い 桜の庄兵衛で「上方落語九雀亭」5

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 11月23日、豊中市岡町の「桜の庄兵衛ギャラリー」で桂九雀さんの落語会がありました。
 桜の庄兵衛さんにはお世話になっていて、70代になってまがりなりにもクラシック音楽に触れるきっかけをいただいたのも桜の庄兵衛さんでした。それ以後、古民家の一部を開放した60席あるかないかのこのギャラリーで、クラシックの室内楽を中心に数々のジャンルの音楽を聴かせてもらい、幸運な時間を過ごすことができました。
 本来、音楽をいつも聴いたりする生活とは程遠い暮らしをしてきた私には、桜の庄兵衛さんで初めて聴かせていただいた演奏家ばかりで、自分の無知を恥じる一方、いつも新鮮な音楽的冒険を用意してくれる「桜の庄兵衛ギャラリー委員会」に感謝しています。
 さて、さまざまな音楽の鮮やかな色彩が溶け込み、珠玉の音の群れがたわむれる桜の庄兵衛さんの白壁は、新しいゲストを迎え入れる準備をその日もしていました。

 今年で5回目になる桂九雀さんの落語会は、新しいお弟子さん・桂九寿玉さんが加わり、桂九ノ一さんとともに2人のお弟子さんを携えての楽しい催しでした。
 桜の庄兵衛さんのたたずまいは会場の外に広がる素晴らしい庭とひとつになり、音楽・とくに室内楽は、もしかすると縁側から庭へと広がるこのギャラリーのような場所で生まれたのではないかと思うほどですが、一方で落語の会場になると、江戸時代からつづくこの古民家の歴史がふつふつとわきたつような不思議な空間になり、あたかも落語の舞台になる庶民の長屋文化の継承地のように思えるのでした。
 もとより、ほとんど落語を知らない人間が語れるはずもないのですが、今回は個人的な事情で少し元気をなくしていたわたしにとって、会場が笑いに包まれる中で涙が出てしまうほど傷んだ心を鎮め、肩の荷を軽くしてくれました。
 それは落語が持っている魅力で、日に日に追い込まれていく「ねばならない文化」と「誰も助けてくれない文化」からの解放にあると思います。
 落語によく出てくる長屋の家族と隣近所の友人、大家、武士に至るまで、その登場人物は多彩で、階級社会の厳しい原則・掟をその背景に隠しながら、絶妙なバランスであり得ない話をあるある話に変えてしまう巧みな話芸は格別です。時の権力や過酷な現実と直接立ち向かうのではなくひょいと肩透かしを食らわし、がんじがらめの現実を皮肉る町人や庶民の生きる知恵と矜持が感じられます。階級を越えた人情噺、時の権力の愚かさをブラックユーモアにしてしまうきわどい反骨精神、よく言われる「粋」という文化は、そんな町人たちの依って立つアイデンティティだったのでしょう。
 落語の笑いはどんなに大笑いしても人が傷ついたりいじめられたり、だれかや何かを貶めたりする笑いではありません。その笑いは最近の、笑いをとらなければとやみくもに必死になる「痛い笑い」、煽情的で暴力的と思えるような笑いではありません。静かで、じわっと胸が熱くなる「優しい笑い」、それこそが落語の神髄なのかなと思います。
 今回の桂九雀さんの「文七元結」は、そんな落語の魅力がぎっしり詰まっていました。

 左官の長兵衛は無類のばくち好きが高じて借金を抱えている[1]。年の瀬に負けが込み、半纏一枚で帰ると女房のお兼が泣いている。聞くと、娘のお久がいなくなったという。どうしたのかと夫婦喧嘩をしているところに、普段より世話になっている女郎屋の大店から使いのものがくる。その娘のお久は今、お店の女将の所に身を寄せているとのこと。行ってみると、お久は身売りをして金を工面し、父に改心してもらいたいと頼み込んだのだという。女将は親思いのお久に免じて、長兵衛に50両の金を貸す。そして、期限までに返さなかったら娘を女郎として店に出すよ」と長兵衛を諭すのだった。
 長兵衛は帰り道、吾妻橋から身投げをしようとしている男にでくわす。訳を聞くと鼈甲問屋の奉公人・文七で、さる屋敷から集金した帰りに50両の大金をすられたので、死んでお詫びをしようというところだった。長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って50両を工面してくれたことを話し、この金でお前の命が助かるのならと無理矢理50両を押し付けて帰ってゆく。
 文七がお店に戻ると、お金を置き忘れたと先方が届けてくれていた。事情を知った主人は、文七をお供に長兵衛の長屋へとおもむき、事の次第を説明し、50両を返そうとする。「一度出したものを受け取れるか!」と言っていた長兵衛もお金を受け取り、これがご縁と文七を養子にと祝いの盃を交わした後、主人が見受けしたお久を呼び寄せた。後に、文七とお久が夫婦になり、暖簾を分けてもらい、文七元結の店を開いたという。

 めでたしめでたしの人情噺は演者によって強調するところが違うのが面白いところで、九雀さんの語り口には上方落語の真骨頂というべき敷居の低さと情の深さがあり、江戸っ子の見栄っ張りとやせ我慢とちがい、自分の弱さもダメさ加減もかくさず、それでも「困ったときはおたがい様」という町人の助け合い文化がより強調されているように思いました。
 このお話には2つのヤマがあり、ひとつは娘が親の借金を工面してばくちをやめさせようとするところ、もうひとつは最大のヤマ場で、その娘の自己犠牲から得た50両の大金を、死のうとしている見ず知らずの若者にあげてしまうところです。「娘は死ぬわけじゃないが、あんたはこの金がないと死んでしまう」…。
 たまたま通りかかってしまったというだけで、こともあろうに娘の運命を変える大切なお金をあげてしまう、この愚かとしか思われない決断は、どこからやってくるのでしょうか。
 娘の自己犠牲ならば家族の深い絆と説明されてしまうことでしょうが、その絆よりも目の前の見ず知らずの人間を助けたい、いや、助けたいというよりも助けなくちゃ仕方がない、やり過ごせないと自分を追い込んでいく長兵衛の心情にこそ、「血も涙もない」世相への強烈な批判精神がこめられていると私は思います。
 武家社会にあるお家のためでもなく家族のためですらなく、たまたま出会ったしまった一人の人間を救える庶民の助け合い社会は、ありえないを通り越した過激なやさしさで、どんな悪政の時にも庶民を支えてきたのでしょう。
もちろん、実際はいつの時代もそんな善人たちだけであったはずもなく、裏切りと暴力と詐欺と権力にほんろうされ、なかには無念の死を迎えた人たちもたくさんいたはずです。
 それでも、落語の根底には絶対的にひとを信じる力、ひとの世を信じる力があります。
落語の世界から我に返ると、困難を抱えているひとに対して自己責任と言い放ち、自分自身もまた孤立した暗い部屋で心を閉ざし、過酷な毎日を生きざるを得ない現実があります。
 そんな今だからこそ、わたしたちは落語を必要としているのだと強く思います。
桂九雀さんの人情囃には、ひときわ「だいじょうぶ」とわたしたちを勇気づける上方落語の神髄を感じました。素晴らしい落語会でした。
 また、桂九ノ一さんの著しい成長にも驚きました。新しいお弟子さん・桂九寿玉さんの成長もとても楽しみです。

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2021.11.15 Mon 時のラブソングは終わらない

カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」が2022年で終わるということで、松井しのぶさんにお声掛けさせていただいた縁から、豊能障害者労働センター機関紙「積木」編集部が寄稿を依頼してくれました。
先の記事と重複するところは容赦いただき、「積木」NO.305号に掲載された全文です。
豊能障害者労働センターを離職してからすでに17年の月日が経ちました。それからも何度も寄稿させていただきましたが、これが最後の寄稿文になると思います。
豊能障害者労働センターのみなさん、ほんとうにありがとうございました。


時のラブソングは終わらない!
カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」ラストストーリー

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 2006年版から17年に及ぶ長い間、たくさんのひとたちに愛されてきたカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」は2022年版が最後になりました。
 ほんとうに長い間、毎年毎年の想いをこめてイラストを描き続けてくださった松井しのぶさんに、感謝の気持ちをどう伝えればいいのか言葉が見つかりません。
 毎年6枚で17年間、ふりかえれば102枚ものイラストを描いてくださったことになります。その間、本来のイラストのお仕事も数多くされていたと思いますし、毎年の構想から作成・校正まで長い時間を拘束することになり、最初に声掛けさせていただいた者として大変申し訳なく思っています。
 というのも、松井しのぶさんのライフワークは絵本などもう少し違った世界にあると思っていましたから、ずいぶん創作の芽を摘んでしまったのでないかと後悔しています。
 しかしながら、松井しのぶさんの世界感が広く豊かであるからこそ、描き残してくださった102枚は単なるカレンダーのイラストにとどまるものではありません。
 世界のいたるところから聞こえてくる子どもたちの悲鳴と理不尽に失われていくおびただしい命に心痛めながら、だれひとり傷つけない平和と自然との共生を願う松井しのぶさんのイラストは、わたしをはじめ数多くの人々に勇気を届けてくれました。

カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」の誕生

 2003年秋、初代カレンダーのイラストレーター・吉田たろうさんが急逝されました。カレンダー制作にかかわらず関西の障害者運動によりそい、ともに闘ってきた仲間でもあった吉田さんの死をすぐには受け入れられず、しばらくは途方にくれながら大きな悲しみに心が締め付けられる毎日でした。しかしながら、厳しい現実はわたしたちが立ち止まるのをゆるしてくれませんでした。わたしたちは吉田たろうさんの死を悼みながらも新しいイラストレーターを探さなければなりませんでした。一時は5万部も制作したカレンダーの収益は全国各地の障害者のかけがえのない所得となり、カレンダー制作をやめてしまうことはできなかったのです。
 吉田たろうさんが並々ならぬ情熱で描き続けてくださったイラストの熱量を引き受け、しかもいままでとちがう魅力を兼ね備えたイラストレーターを探すのは至難のわざでした。
 身近なコネクションから最後は毎日インターネットで、新しいカレンダーにふさわしいイラストレーターを探しつづけました。
 そしてとうとうそのひと、松井しのぶさんを発見しました。彼女のイラスト作品を見た瞬間、「これだ」と思いました。このイラストと出会えた幸運に感謝しました。2003年暮れのことでした。
 しかしながら、松井しのぶさんにコンタクトがとれる人はわたしたちのまわりにはおらず、見ず知らずの人間からの突然のお願いに警戒されても不思議ではありません。断られたらどうしようという不安が先立ち、お願いのメールを出すのをためらっていました。
 2004年5月、わたしは決心して長いメールを送りました。今までのこと、これからのこと、ほんとうに精一杯の気持ちをこめてお願いしました。信頼される紹介者がいるわけではなく、メールを送ったもののほとんどあきらめていたのですが、なんと数日で快諾の返事をいただきました。うれしかった。
 こうして、カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」が誕生しました。

至上の愛へと わたしたちの旅はつづく

松井しのぶさんのイラストからあふれてくるこのせつなさはなんだろうと、わたしはずっと考えていました。今はそれが孤独な心、つながろうとする心の手紙なのだと思っています。真っ青な空、限りない緑、暖かい赤…、小さな一枚の絵の隅から隅まで、この世界の、空の、海の、森の、すべてのいのちのいとおしさ…。
だきしめたくなるノスタルジーの中に、小さないのちのひとつひとつがいっしょうけんめい生きる静かな意志、きずつくことをおそれずに人と人がつながり、平和な世界を分かち合い、共に生きる希望を育てる強い意志があふれでるのでした。
2006年から今までの長い年月の間に世界で起きたさまざまなできごと、そしてわたしたちそれぞれの身の上に起きた出会いや別れ…。
2022年の「やさしいちきゅうものがたり」は、イラストの外側の厳しい現実、理不尽な暴力、かなわぬ夢と遠ざかる希望、そして地球の気候変動のもとで危機に瀕している生きとし生きるものたちの悲鳴が聞こえる、愛おしくも哀しいラストストーリーになりました。
しかしながら、誰もが共に幸せに生きる至上の愛へと急ぐわたしたちのリュックサックには、松井しのぶさんが届けてくれた102枚のイラストと言葉がぎっしり詰まっています。そのやさしさとあたたかさを背中に背負い、わたしたちは旅を続けようと思うのです。

松井しのぶさん、ほんとうに長い間ありがとうございました。そして、ご苦労さまでした。

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