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2020.04.09 Thu ささやかなマスクづくりとガンジーの糸車と中村哲さん

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 いよいよ非常事態宣言が出されました。
 都市部を中心に新型コロナウイルス感染者数が一気に増え、感染経路もわからない現状から、東京都や大阪府、民間の業者や経済団体、マスコミなどの催促包囲網の中で、遅すぎたという意見もふくめて緊急事態宣言に賛同する人が多いのも事実でしょう。
 世界であっという間に蔓延し、感染者数が4月7日現在で140万人、亡くなった人も8万人に及ぶ惨状を目の当たりにすれば、非常事態宣言は感染がこれ以上広がらず、死者を出さないためにわたしたち自身相当の覚悟が必要というメッセージなのでしょう。
罰則を伴わないものであっても非常事態宣言は国民の私権を制限するもので、今回の安倍政権の慎重な対応はたとえそれが補償を渋るものであったとしても妥当なものであったのかもしれません。しかしながら非常事態宣言を出さないまでも自粛要請に伴う休業補償や所得補償を同時にされていたら、事態は少し違っていたのではないかと思います。そして、非常事態宣言のもとでも補償がないのならこんなに理不尽なことはありません。
 一か月をめどに8割の接触をなくすという言い方よりも、所得補償をしてでも仕事に行くなという強いメッセージを出さないと感染爆発は免れないという声が高まる中、30万円の現金給付が全体の2割程度の所帯にしか届かず、また所帯単位でなく個人給付にしないとたとえば夫のDVから逃れている女性には届かないと思います。
 また、国や自治体から求められる前に客足が途絶えて休業に追い込まれるお店や営業不振で立ち行かなくなった個人事業主や零細企業、さらには私権を制限されることを受け入れ、未曽有の困難を乗り越えるために自主的に休業するお店に報いる休業補償がされないとしたら、国や政治の役割とは何なんでしょうか。
 とにもかくにも日本人の国民性に期待する自粛によってこの困難を乗り越えることができるのなら世界に類のないすばらしいことなのかもしれませんが、お店や映画館、ライブハウスなど日銭が入らず途方に暮れるお店や従業員、さらにはライブや舞台で収入を得るミュージシャンや役者など数えきれない人々の犠牲の上に成り立つ状況を政治の力で打ち破り、早急に補償を具体化してほしいと願うばかりです。
 先日の記事にも書きましたが、新型コロナウイルスの恐怖は感染する恐怖だけではなく、誰かを感染させる恐怖でもあります。すでに自粛だけでは抑えきれず都市封鎖に準ずるような強権の発動もやむなしという声も上がっています。国や自治体を批判しているうちに「強権の発動」を求めてしまう恐怖はずいぶん前に読んだつげ義春の「ねじ式」を想起させ、心の震えが止まりません。
 地域の子どもたちや大人たちの居場所として、妻がやりくりしているリサイクルと手づくりの店「せ~のっ!」では、近所のひとたちと妻がつくった手づくりのマスクが大ヒットしています。売り上げもさることながら、作り手もそれを買い求めに来るひとも、これをきっかけにグローバルな市場経済をかけめぐる商品やお金とちがい、作り手がまた買い手となり、買い手がまた作り手となる「顔の見える経済」を共につくりだしていて、コロナショックの後の世界経済もローカルな経済も、案外マスクづくりのようなささやかな作業が「もうひとつの市場」をつくり、ともに生きる希望をたがやすことになるのかもしれません。
 わたしは昔工場で働いていたことが嘘のように不器用で、はたで見てただただびっくりするばかりですが、そういえば箕面の豊能障害者労働センターで活動していた頃、2001年のアメリカ同時多発テロで世界が騒然としていた時、ガンジーの糸車に着想して「善きことはゆっくりとやってくる」というメッセージとともに「こころTシャツ」をつくったことを思い出します。
 植民地時代のインドでは、農民が作った綿をイギリスが安価で買い入れ、それをもとに英国の機械で作られた綿布を製品として輸入していました。ガンジーは、独立運動のビジョンとして、糸車をまわし、綿から糸を紡ぎ、手作業で綿布にし、自らの服を作ることをすすめました。一連の手作業を通してインドの人々の仕事を取り戻すことを実践して見せたのでした。
 昨年暗殺されてしまった中村哲さんのアフガニスタンでの用水路づくりもまた、毎日600人の農民たちが働き、スコップや鍬などによる手作業から始まったこともガンジーの糸車と同じく、ハイテクならぬローテクが労働をシェアし、利益や給料もわけあい、「より早く」から「よりゆっくり」、グローバリゼーションからローカルネットワーク、都市集中から地方の再生へと、長い間世界を席巻し続けてきたネオリアリズム・新自由主義からの解放が実現するために、今も奪われつづける無数のいのちと未曽有の苦しみという、こんなにも大きな代償をはらわなければならないのでしょうか。

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2020.03.17 Tue 東日本大震災から9年とコロナショックから学ぶこと

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 東日本大震災から9年がすぎました。
 時が過ぎるにつれて被災地以外では9年前の記憶が薄れていくのはやむをえないのかもしれません。わたしもまた、年に一度訪れる3.11の日に各新聞やテレビなどマスコミが震災の記憶を残し、被災地の人々の苦闘と再生の9年を報じるのを見て忘れてはいけない記憶と記録を思い返すにとどまり、被災当事者の方々に申し訳なく思います。
 おりしも新型コロナウィルスの蔓延がとどまらず、だれもが見えない脅威におびえている今、放射能汚染という見えない脅威は特に福島県やその周辺地域だけの問題とされます。
 それも9年も経った今、県外に避難した人、福島にとどまる人、避難先での理不尽な差別、被災者同士の分断、支援金の打ち切りと抱き合わせの帰還困難区域の解除と、9年という時が過ぎるにつれて解決困難な問題がますます深刻になっていく中で、国はオリンピックの聖火リレーの出発地点とすることで復興を全世界に宣言しようとしています。
 新型コロナウイルス発生による世界的な大混乱と恐怖を前にして、安倍首相の突発的刹那的な対策はまるでオリンピックの開催中止を何としても避けたいという焦りと野心を感じるのはわたしだけでしょうか。
 オリンピックの開催に向けてムードを盛り上げ、またそれに躍らせるわたしたち国民が彼の狙い以上に独り歩きして大衆翼賛ともいえる「かつて歩いた道」を望んで突き進むのに「待った」をかけたのが、日本でも世界でもたくさんの命が奪われ続けるコロナウイルスであったということは、とても不幸で悲しい事実だと思います。
 阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など自然災害によって犠牲になった無数のたましいと、今も困難な生活を強いられる数多くの人々の無念や怒りを積み上げてもなお、わたしたちは原子力発電を必要とし、すでに神話となった経済成長にしがみつくしか道はないのでしょうか。

 わたしは阪神淡路大震災の時も東日本大震災の時も、被災地の障害者の支援活動に参加させていただきましたが、そのたびにそれをきっかけに「誰もが住みやすく、安全に暮らせる社会」へとわたしたちも社会も変わるはずだ、また変わらなければならないと思いました。
 そうでなければ、理不尽にも突然夢を絶たれ、命を奪われたひとびとに申し訳ないと思いました。しかしながら、そんな思いもまた被災した人々には失礼な言い分で、彼女たち彼たちが受けた理不尽な暴力を踏み台にして新しい社会のありようが描かれるはずもなかったのでした。
 それでも9年の時が過ぎた今だからこそ被災地とつながり、もう一度これからの社会のありようを共に考え実行していくことは、生き残った者としてこどもたちに一縷の望みをたくすことなのではないかと思います。そして、長い目で見れば「より早く、より遠く」と暴力的に突き進んできたこれまでの経済ではなく、身近な暮らしとつながった「よりおそく、より近く、より寛容な」経済がわたしたちを豊かにするのではないかと思うのです。
 国が原発をやめないのは、いや、やめられないのは成長神話を捨てられないからだと思います。戦後すぐの生まれのわたしは進歩や成長は善で、後退することは悪だと教えられてきたように思います。努力することや一生懸命働くことのすばらしさを、進歩や成長にすり替えてきた資本主義経済は立ち止まることを許さず、その成長に役立たないとされ、「生産性がない」とされるひとびとを振り落としてきました。
 ともあれ、東日本大震災と原発事故は100年の成長神話がとても危うく、東北にとどまらず誰かを踏み台にしてなりたっていたことを思い知らされました。福島のひとびとの言葉では表せない窮状はこれからもますます過酷になっていくことが明らかなのに、原発を止められないわたしたちの社会は何なんでしょう。
 新型コロナウィルスの恐怖はどこかの誰かから感染する恐怖だけではなく、どこかの誰かを感染させる恐怖でもあります。世界的な拡散を前にして、どうしても一定期間、国も社会も個人も接触を避け出会いを避け、いわば心も体も「鎖国」状態にすることで身の安全を保とうとしますし、また国や社会からもそれを求められます。こんなに社会が恐怖と不安で覆われる中、緊急事態宣言は必要だと思ってしまうこともやむをえないのかもしれません。
 わたしは、当面はこの困難を乗り越えるために多くのことを受け入れるはやむをえないとしても、コロナショックの後の世界の在り方やわたしたちの暮らしの在り方を再度見つめなおすべきなのではないかと思います。
 ひとつは新自由主義のもとでのグローバリーションは今回のコロナショックのようにその副作用もまた世界中に蔓延してしまうことからの脱却です。すでに世界に広がる格差もまたのっぴきならないところにまで来てしまった今、ポスト・コロナショックの世界はお金や物やサービスや情報が利益や効率を求めて瞬時に世界を駆け巡るネットワークではなく、足元の暮らしから顔の見える関係を積み重ねるしなやかで取り返しのつく助け合いのネットワーク、誰かや何かを排除することで成り立つ社会ではなく、多様な人々が助け合って共に生きる持続可能な社会こそが、GDPで測る社会よりも豊かで幸せな社会であることを、もう一度かみしめたいと思うのです。
 もうひとつは、新自由主義のもとで公的なサービスの民営化、規制の緩和を進めることがよいこととされてきましたが、医療や保険、健康などの基礎的な基盤を削ってきたことや、種子法廃止や水道民営化などにも見直しが必要なのではないでしょうか。
 そして、金融政策では解決しない経済恐慌にも似た状況から、まずは需要の創出がもっとも優先されなければならないなら、消費税をまず5パーセントに引き下げることではないかと思います。現にコロナショックで忘れがちですが、それ以前に昨年秋の消費税の増税が経済を落ち込ませたことが数字に表れていました。消費税減税は増税と逆に低所得者にもっとも恩恵が行くことになるのではないでしょうか。それから所得税の減税か5万円の個人給付、休業補償や所得補償を組み合わせた「国民救済ミクス」を望みます。そして、内部留保が極端に多い大企業もまた自社株買いをするよりも日本社会で共に生きる企業として、今こそ本業の経営自体の社会貢献、富の分配を実行してもらえないものでしょうか。

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2020.02.19 Wed 中部障害者解放センターの歴史は日本の障害者運動の歴史

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 記事が後先になって申し訳ないのですが、2月11日、NPOちゅうぶ(中部障害者解放センター)の35周年記念イベントに参加しました。普通の道筋でいえば、豊能障害者労働センターか、被災障害者支援「ゆめ風基金」の方から情報を得るところでしたが、なんと能勢の町づくりなどでつながる知人からの思わぬお誘いでした。その知人が中部障害者解放センター設立時からのメンバーの障害を持つ女性と高校の同級生で、約20年ぶりに会いに行くのに、わたしを誘ってくれたのでした。
 この日は午前中にレセプションがあり、大阪をはじめとする障害者解放運動の闘士たちが集結していたようで、わたしは午後からの「さあ来い!インクルーシブな未来!!」と題したシンポジウムと、NPOちゅうぶの35年の軌跡を映像を中心に振り返り、次なる未来へと「たたかい」の一歩を共に踏み出そうとする彼女彼らのやけどしそうな体熱に圧倒された、活気にあふれたイベントでした。
「生きることはたたかいで、たたかいこそが生きることなのだ!」と、1984年に活動を始めた彼女彼らの歩みは、そのまま関西の障害者解放運動の歴史でもあります。
 
 わたしが障害者問題と出会ったのは1980年に結成された「国際障害者年箕面市民会議」に参加した時からでした。「国際障害者年箕面市民会議」は翌年の「国際障害者年」を機に、障害者の問題は障害者にあるのではなく町や社会と、同時代を生きるすべての人の問題なのだと市民が集まり、箕面市で初めて障害者の教育を受ける権利、就労する権利、生活する権利、移動する権利の保障を箕面市行政と交渉した市民団体でした。
 箕面の障害者運動の黎明期に、障害当事者の生きる権利を強烈に主張した青い芝の会の運動を教えてくれたのは、障害者問題総合誌「そよかぜのように街に出よう」の編集長で、豊能障害者労働センターの代表でもあった河野秀忠さんでした。
 障害者運動のバイブルともいえる原和男監督作品「さよならCP」上映運動に深くかかわり、関西の障害者解放運動の記録映画を製作した彼は、その強烈な個性で箕面市の当時の行政職員、教員、そして一般市民を巻き込み、「国際障害者年箕面市民会議」の結成を呼び掛けました。そして、矢継ぎ早やの学習会や市役所への障害者市民の別枠採用の交渉、全国的な運動への積極的な参加などを呼び掛けました。
 私は市民運動とは無縁の人間でしたが、たまたま障害者との出会いから市民会議に参加し、のちに豊能障害者労働センターのスタッフになりました。
 豊能障害者労働センターの設立は1982年で、ちゅうぶとほぼ同じ頃に出発しましたので、今回あらためてちゅうぶの運動の歴史を振り返ると、同じ思いでちがった運動を豊能障害者労働センターも進めてきたことを実感します。
 しかしながら、大阪青い芝の運動を前史として、障害者の人権の全的な獲得をめざし、障害者当事者がけん引してきたちゅうぶの歴史はとても豊かなものであったことは間違いありません。言い換えれば、1980年代からの障害者にかかわる国の制度への異議申し立てや障害者差別とのたたかいなど、東京の障害者運動のリンクをふくめて、ちゅうぶの35年の活動は日本の障害者運動の歴史そのものであったといっていいでしょう。
 豊能障害者労働センターもまた青い芝の運動から出発したといえば、関係する団体や人々から「そうは思えない」という声が聞こえてきそうですが、わたしたちはその現場にリアルにいた河野秀忠さんから毎日のように青い芝の話を聞いていましたし、ちゅうぶをふくめて大阪の障害者運動、東京の障害者運動、さらにはアメリカやヨーロッパの障害者運動の現状を教えてくれたのも河野秀忠さんでした。
 豊能障害者労働センターは設立した時から障害者の就労と所得補償の制度化を箕面市に要求してきて、少しはその成果も実感できるのですが、24時間介護保障など障害者の生活にかかわる権利を全うする制度要求は、東京や大阪の障害者運動から学んだことを箕面市でも実現するといった形で、ちゅうぶや障大連の運動に助けてもらいました。

 同時代に同じ思いでちがった形で運動を進めてきたちゅうぶと豊能障害者労働センターでしたが、1995年の阪神淡路大震災の時に、障害者救援本部として被災障害者の救援活動をともにすることになりました。わたしたちだけではなく、それまで運営の違いなどで分断されていた全国の障害者が自然災害に立ち向かうために助け合うことは、かつての「団結」という言葉とは違うしなやかなネットワークをつくることになり、それ以後の自然災害による被災障害者の救援活動の砦となった被災障害者支援「ゆめかぜ基金」に結集することになりました。それをけん引したのもまた、牧口一二さんと河野秀忠さんでした。
 そして、東日本大震災以後の自然災害において「ゆめかぜ基金」は全国の障害者団体に支えられ、困難な状況にある障害者に救援基金を一日でも早く届けただけでなく、発災時の救援活動から被災地の障害者の自立と再生を支える強いネットワークをけん引することになりました。それらの諸々の活動の中心にも、ちゅうぶの存在がありました。
 近年の日本社会がさまざまな位相で分断が進む中、ちゅうぶをはじめとする障害者当事者が助け合いと話し合いによるつながりを強めていることは、この社会の和解と夢と希望を生み出すことに寄与するものと信じてやみません。

 河野秀忠さんは2017年に亡くなりました。
 お互いにまだ若かったころ、飲み屋さんで何度も彼が言った言葉を思い出します。「細谷さん、たとえ回りがぺんぺん草に覆われても、豊能障害者労働センターは法人格にふりまわされず、何者にもなるまい。そして運動を引退したら、2人で映写機とフィルムを持って全国を回ろう」。
 その夢はとうとうかなわなかったけれど、もしフイルムを持っていくなら「さよならCP」でしょうか、「ローザ・ルクセンブルク」でしょうか、それとも「八月の鯨」だったでしょうか。


世情(中島みゆきカヴァー) / ひで&たま@東京(ハラカラ第3回Live)

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2020.01.30 Thu 落語の笑いは優しい笑い・桂九雀の落語 桜の庄兵衛ギャラリー

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 少し前になりますが1月19日、豊中市岡町の桜の庄兵衛ギャラリーに行きました。桜の庄兵衛ギャラリーは江戸時代の庄屋さんのお屋敷で、阪神淡路大震災で屋敷の一部が崩壊し、再建するにあたって大広間を100席ほどのギャラリーに改造し、年に何度かジャンルにかかわらず数多くのプレイヤーが客席のすぐ近くで演奏する場を提供されています。
 わたしは2015年にはじめて訪れ、今までほとんど縁がなかったクラシックの演奏に触れ、それ以後何度も訪れているのですが、いつも素晴らしい演奏を聴きながら、時間に追われるように行き急ぐ暮らしから解放され、心が洗われるのでした。
 桜の庄兵衛ギャラリーの出し物は音楽だけでなく落語もあり、これがまた不思議に古民家の風情にぴったりで、今回もとてもいい時間を過ごすことができました。
 今回の演者は桂九雀さんとお弟子さんの桂九ノ一さんで、お囃子も生演奏で岡野鏡さんでした。1979年2代目桂枝雀に入門と芸歴40年を超える九雀さんですが、落語以外に小劇場の演劇に出演しています。2018年にはわたしの住む能勢の淨るりシアターで、「桂九雀で田中啓文こともあろうに内藤裕敬」というユニークな芝居がありました。
 
 さて、昼の部の上演時間になり出囃子とともに、まずは桂九ノ一さんが登場しました。わたしの思い違いかも知れませんが、おそらくピアノを囲む形でつくられた高座は今までよりも高く感じました。演者さんは天井を気にしながらその名の通りの高座に上がりました。
 九ノ一さんの演目は「七度狐」で、旅の途中で狐にだまされる定番ともいえるお話でしたが、2016年に九雀さんの元へ弟子入りされた20代半ばの九ノ一さんは、修行をはじめてまだ5年のほんとうにフレッシュな落語を聞かせてもらいました。
 そして、九雀さんは「六文銭」、「風呂敷」と、どちらも庶民の暮らしの中のちょっとしたトラブルやよくある話を登場人物の会話と絶妙な語りで面白可笑しく演じてくれて、わたしのような初心者にも落語本来の面白さを教えてくれました。
 落語はたった一人の話芸だけで、聴く者を異空間に招き入れる総合芸術の極みと言えるでしょう。声質とセリフの抑揚などの表現力で登場人物を語り分け、扇子を箸に見立ててうどんやそばを食べるしぐさなど、芝居とはまったくちがう身体表現は落語でしか味わえないものです。その上に、落語特有の「間」は短いと演者の焦りが感じられ、反対に長いと間延びしてしまって緊張感をこわしてしまう、ほんとうに難度の高い落語ならではの芸だと思います。
 わたしは九雀さんの落語を聴いていて、わたしたちの日常会話や歌・ミュージカル、芝居のせりふ、選挙などの街頭演説、ニュースのアナウンス、テレビのバラエティー番組の言葉、そしてふたたびブームになっている漫才の言葉など、そのどれとも違う落語の言葉の不思議さを感じました。
 噺の内容も登場人物も語り手もお客さんもリラックスしていて、とことん追い詰められてしまう悲劇もありませんし、滅びゆくカタルシスもありません。時の権力が庶民を苦しめたり時には圧殺したりする理不尽なことがいっぱいあっても、それらのかなしみや怒りや絶望や勧善懲悪は浄瑠璃や歌舞伎に任せて、落語はもっぱら権力と直接立ち向かうことも、悲惨な事実をストレートに語ることもしません。
 落語は日々平穏な暮らしの中にあるちょっとした楽しみ、そんなに華やかではない日常の幸せ、平凡な暮らしの中にある小さな悪意など、ストレートに語ることができない実人生や本音を登場人物に語らせます。お客さんは心の中で「アルアル」とうなづき、見栄や建前でオロオロする登場人物たちを笑いながら自分自身にだぶらせるのでした。
 落語は、わたしたちがどこかで体験したことや選ばなかった人生を笑いとともに再現してくれるようです。そこでは肩の力を抜いて自分を追い詰めてしまわず、静かに笑いながら「だいじょうぶ、無理せずに」と一息つかしてくれるのです。
 「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」と、ヘーゲルからマルクスへと語り継がれた名言は、まるで落語の持つ諧謔を指しているようです。

 一部が終わり、20分の休憩をはさんで二部は、一介の按摩が検校に出世する「三味線栗毛」という人情噺でした。
 角三郎は[酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)という大名の末っ子で父から疎まれ、下屋敷に遠ざけられていましたが、根っからの楽天家でそれなりに自分の境遇を楽しんでいました。ある日、肩凝りがひどいので按摩の錦木(にしきぎ)を呼ぶと、話がおもしろいので毎晩呼ぶようになります。あるとき錦木が角三郎の骨格は大名になる骨組みと言います。うれしくなった角三郎は、万一大名になったらお前を検校にしてやると約束します。
 錦木が大病にかかり屋敷に出入りしないうちに酒井家当主が隠居し、病身の長男に代わり、角三郎が雅楽頭の跡目を継ぐことになりました。
 これを聞いた錦木は起き上がり、むさい身なりのまま上屋敷へ駆けつけると、中へ招き入れた上、約束通り検校になるよう計らってくれた、という話です。
 総録に千両納めないとなれない検校は雲の上の存在ですが、それが実現してしまうのは、角三郎の不遇な時代にもみ療治をしながら励ました恩によるものだというわけです。
 九雀さんの落語では、わたしの聞き違いかも知れないのですが、殿様になった角三郎が寝込んでいる錦木の長屋に訪ねてくるとなっていたように思います。
 荒唐無稽ながらも思わぬ幸運であり得ない奇跡が起きることもあるというお話で、そんなに都合よく幸運が舞い降りるはずはないとわかっていても、人生それほど捨てたものでもなく、少しは自分にも運が向いてくるかも知れないと甘い期待を持たせてくれる話でもあります。
 落語の笑いはどんなに大笑いしてもそれほど人が傷ついたりいじめられたり自虐的になったり、だれかや何かを貶めたりする笑いではありません。また最近のなんでもバラエティー化する世の中の風潮から、笑いをとらなければとやみくもに必死になる「痛い笑い」、時には煽情的で暴力的と思えるような笑いではありません。
 どこか醒めていて、それでいて少しだけ胸が熱くなる「優しい笑い」、それこそが落語の神髄なのかなと思いました。
 寄席や演芸場に行かないわたしには、「桜の庄兵衛ギャラリー」で聴く落語はとても身近で楽しく、心地よい時間を過ごすことができました。

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2019.11.04 Mon 「村っこ太鼓」と映画「萌の朱雀」・ 奈良県十津川村 二村小学校の思い出2

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二村小学校講堂

 川沿いのバス道から山の斜面を登り、学校に着きました。車いすに乗っているKさんを玄関までサポートしたはずなんですが、今ネットに上がっている二村小学校跡の学舎を見るとかなりの階段なので、おそらく別の入り口であまり段差のないところがあったのかも知れません。
 ともあれ、会議室のようなところに案内されると5人分の弁当が用意されていました。さっそくごちそうになり、その後、校長先生が教頭先生を紹介してくださり、教頭先生から二村小学校の話を聞かせてもらいました。
 1年生から6年生まで合わせて33人の子どもたちと11人の先生で、十津川村の中でも特に普通の勉強以外に、子供たちのお父さんやお母さんをはじめ、村のおとなたちに来てもらって村の暮らしの歴史を学んだり、学校の外に飛び出して味噌づくり、キノコの勉強、野鳥の勉強、木工所で昔のおもちゃづくりなど、子どもたちの生き生きした体験学習の写真が所狭しと貼ってありました。年に一度、各学校の校外学習の発表会もあるということで、教頭先生が誇らしげに話されたのを今でもおぼえています。
 わたしたちも箕面での活動をひととおり話した後、職員室の先生たちにカレンダーのお礼ともどもあいさつしました。こんなに小さな学校に毎年40本もカレンダーを届けていたことに申し訳ないやらありがたいやらで、なんとお礼を言えばいいのか言葉が見つかりませんでした。
 「歓迎の準備ができましたので、講堂に行きましょう」といわれ、何のことかあまり理解できずに言われたまま講堂に入りました。
 するとどうでしょう、子どもたち33人全員が太鼓を前に勢ぞろい、頭にハチマキをしてわたしたちを迎えてくれました。見れば先生方も全員講堂に集まってくれました。たった5人のわたしたちのために通常の授業を返上し、歓迎の太鼓をたたいてくれるというのです。
 6年生らしき子どもの、「二村小学校、村っこ太鼓」という大きな掛け声に合わせて、子どもたちの太鼓が講堂中に響き渡りました。わたしたちは感激しすぎて涙も出ませんでした。ただただびっくりして、ドキドキしました。
学校挙げての歓迎太鼓の音が緑いっぱいの山々と谷深い清流、厳しい冬の風と透き通る空を突き抜けていきます。お腹の底まで響く振動は、講堂の床を伝ってわたしたちの心臓と共振しました。子どもたちの太鼓から立ち昇るいのちの鼓動が心を奮い立たせ、わたしたちが思いもしなかった何か、それは生きる勇気のようなとても大切なものを、山里の小さな小学校の子どもたちからもらいました。
 わたしの住む能勢でも小・中学校が統合され、ひとつの小学校とひとつの中学校になってしまいましたが、それまではそれぞれの学校が地域のコミュニティーの拠点になっていました。
 二村小学校は2010年に統合されたということですが、わたしたちが大歓迎を受けたこの頃は、間違いなく1年生から6年生までの33人の子どもたちが11人の先生たちと奇跡のような学校で学んでいたことでしょう。(もっとも、統合された十津川第一小学校も現在全校生徒数が48人だそうで、この20年に過疎化が進むのは止められないのかも知れません。)その奇跡は太鼓によって結ばれた子どもたちと村のおとなたちのきずなが生み出したものにちがいないと思いました。
 事実、十津川村では太鼓に力を入れていて、毎年8月4日に谷瀬のつり橋の上で地元OMC十津川太鼓倶楽部「鼓魂」のエキサイティングな太鼓の演奏が行われる「吊り橋まつり(揺れ太鼓)」が開かれています。
もしかするとわたしたちに太鼓を聞かせてくれた子どもたちの中で、大人になって太鼓をたたいている人がいるかも知れません。また、十津川村から都会に出てきて、故郷を心の奥にしまいながら暮らすひとが年に一度あるかないか十津川村に帰郷した時、廃校になった二村小学校のみんなで叩いた太鼓の鼓動とともに、村での暮らしが豊かな時間だったことを懐かしく思い出すかもしれません。
 わたしたちもまた、あの時の太鼓の音と子どもたちの真剣な顔が今も心に残っています。
 いずれは消えていく運命にあった奇跡のような学校で、奇跡のような子どもたちが太鼓を叩く様子を、わたしの妻が買ったばかりのビデオで撮影したつもりでしたが、撮影ボタンを押し忘れて何一つ写っていないという大失敗のおまけがついた二村小学校の子どもたちとの出会いと別れの旅でした。

 事務所に戻ると、年末大詰めに来ているカレンダーの発送に追われているうちに仕事納めとなり、年内最後の会議を待つ夕方、わたしは映画の配給会社に電話しました。この年のカンヌ映画祭で「萌の朱雀」の河瀬直美監督がカメラドール(新人監督賞)を受賞したという新聞記事を読み、わたしはこの映画の上映会をしたいと提案し、みんなの了解を得ていました。
 「萌の朱雀」は林業の低迷で暮らしが成り立たなくなった奈良県西吉野村を舞台に、少女とその家族のつつましい暮らしを通して、幾世代も受け継がれてきたいのちの営みと、家族が山を去って行くまでを静かに描く、哀しくもいとおしい映画です。
 その年の11月に公開された映画を見て、誤解を恐れずに言えば今までのわたしたちの活動がいわゆる「都会の運動」で、「富の分配」の権利要求が正当なものであったにしても成長神話に基づいたものであったことを痛感しました。
 経済成長のおこぼれを要求する「富」が都会でしか通じないのではと感じ始めていたわたしたちは、バリアフリーも困難で雇用の創出も難しく、過疎化が進む山里や海辺の村、経済成長から取り残されたように思える地域では、自然の厳しさと折り合いをつけて暮らしてきた先人たちの知恵を生かした、いわば里山障害者運動があるのではないか?
 その思いは能勢に住むようになってより強く感じるのですが、残念ながらそれをどうすれば実現できるのかいまだにわからず、わたしの生きている間に見つけることも不可能なのかなとも思っています。かろうじて2人の障害者議員を生み出した「れいわ新選組」の活動に最後の期待とシンパシーをもっているのですが…。
 ともあれ、わたしたちは「萌の朱雀」をたくさんの人々に見てもらいたいと思いました。
 まだ公開が始まったばかりなので難しいかなと思ったのですが、翌年の7月からは市民の上映運動でも配給できるということで、1998年7月18日、映画「萌の朱雀」上映会を開催しました。
 わたしはうかつにも今回の十津川村への旅で、はじめて「萌の朱雀」の西吉野村は十津川村よりずっと五條よりですが、新宮までのバス道から山間に入って行ったところで、同じ風土・地形であることを知りました。今から思えば、二村小学校の子どもたちの奇跡の太鼓が、「萌の朱雀」という映画にわたしたちを誘い込んだのかも知れません。
 わたしの住む能勢も例外ではなく、村おこしや地方再生が喫緊の課題と叫ばれて久しいですが、日本全体が人口減少を避けられない中、個々の村や町もまた過疎化を止めることはできないのかも知れません。しかしながら、それゆえに未来へつなぐ最後の希望としての教育の役割がとても大きいことを、消えゆく小さな学校の子どもたちの奇跡が教えてくれたのでした。

たおやかな木立、むせぶ陽のにおい、あふれる哀しみ。
そして、家族たちは心に深く緑をしまい、山を去って行った。
(「萌の朱雀」上映会パンフレットより)

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映画「萌の朱雀」


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