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2022.02.21 Mon 死にゆくための民主主義・映画「蕨野行(わらびのこう)」 追悼 恩地日出夫監督

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 1月20日、映画監督の恩地日出夫さんが亡くなられたと知りました。恩地日出夫さんは東宝青春映画を代表する監督でしたが、テレビドラマでも活躍し、特にオープニング映像が話題となった「傷だらけの天使」の萩原健一、水谷豊をはじめ、若い俳優を育てた方でした。
 少し時間がたってしまいましたが、恩地日出夫さんが監督された「蕨野行(わらびのこう)」の箕面での上映会に関わったことがあり、追悼の思いを書かせていただきます。

 2003年に発表された「蕨野行(わらびのこう)」は、芥川賞作家・村田喜代子の同名小説を映画化したもので、構想から8年、山形で1年に及ぶ長期ロケを敢行した渾身の力作でした。
 江戸中期、ある地方の寒村、その村には隠された掟がありました。60歳を迎えた者は家を出て、人里離れた原野に移り住まなければならないのです。そこは蕨野と呼ばれ、老人たちは里へ下って村々の仕事を手伝うことでのみ、その日の糧を得ることができます。この過酷で理不尽な掟は、数年に一度必ず訪れる凶作を乗り切り、若い者の食料を確保するために定められた昔からの知恵なのでした。
 60歳になったら身分や貧富などのどんな条件もなく、老人たちはわが身を蕨野に捨てに行きます。体力のないものからひとりふたりと死んで行きます。その過酷な状況の中で、老人たちは不思議なコミューンをつくっていきます。
 死んでいくための厳しい共同生活なのに、なぜかしら老人たちの心が解放され、助け合って生きるさまや、正直でこっけいで美しく、生き生きとした姿が目に痛いほどの自然の美しさに溶けていきます。とても悲しい物語なのに、映画は観る者の心をぐっと突き上げ、深い感動を残してくれます。
 恩地さんの盟友でもあった市原悦子さんや石橋蓮司さんなどベテランの俳優が出演し、オーディションにより1200人の応募者から選ばれた清水美那さんがその瑞々しい演技力で山路ふみ子新人女優賞に輝きました。
映画「わらびのこう 蕨野行」は、福祉が進んだといわれる現代にするどい問題をつきつけていると思います。福祉関係者にも高齢者にも受け入れがたいと拒否されるかも知れません。
 日本に伝えられる棄老伝説もヨーロッパにおける阿呆船も、不都合とされたひとびとを追放し、棄てるのは社会の方です。ところが「蕨野行(わらびのこう)」においては、追放し棄てることを決め、実行するのが他ならぬ老人たち自身なのです。長老達はこれから村を経営してもらわなければならない若い者たちに生きてもらい、自分たちは死んでいくことを選びます。
 思えば近代はこんなことがないようにと産業を興し、福祉を進めてきたのだと思います。障害があるから、年老いたからといって死ななければならないのは理不尽なことです。しかしながら高齢者の思いとかけはなれた福祉施設を充実し、保護することで、彼女彼ら自身が人生を設計し、生と死と向き合う勇気をも奪ってきたのかも知れません。この棄老物語は、福祉の充実そのものが当事者を不幸にしてしまう場合があることを気づかせてくれるのです。
 老人たちが死ぬ前に実現したコミュニティーは、人間の最後の希望ではありますが、蕨野のコミューンは、いわば死ぬための民主主義だったこともまた悲しい現実です。
 だからわたしたちの民主主義は生きるための民主主義でありたい。蕨野の近代化ではなく社会の蕨野化、蕨野を社会の周辺に作るのではなく社会のいたるところに蕨野という、人生を再設計し再発見する休憩場所を用意する福祉システム、どんな状況になっても助け合って生きていける本当に強くて豊かな社会こそが望まれるのではないかと思うのです。
 恩地日出夫監督はこの作品を発表された当時、「“介護”という考え方でしか、老人の死をとらえない社会常識は間違っていると思います。老人を“優しく扱う”ことが本人のためというより、老人を見送る側の人のために行われている。死んでいく人たちの意思や誇りについて考えるべきです」と語りました。

 2005年、わたしは当時在住していた箕面で開かれたこの映画の上映会に関わりました。実は、豊能障害者労働センターの黎明期から応援して下さった恩人の一人、Hさんの娘さんが恩地監督の連れ合いさんで、Hさんより映画が完成する前からこの映画の製作撮影の経過を伺っていて、箕面で上映会をすることを計画していました。
 このころのわたしは高齢者の問題を家族介護から介護保険による制度としての介護の問題として語られてしまうことで、当事者である高齢者・老人の居心地が悪くなっていくことに疑問を持っていました。
 そんな想いから「老いることはいけないことなのか」と問い、「森の中の淑女たち」と「午後の遺言状」の上映会を開き、「人生は謎」と語る映画の中の老人たちにシンパシーを持ちました。
 しかしながら、山田太一のテレビドラマ・男たちの旅路シリーズの「シルバーシート」で、バスジャックをした笠智衆が鶴田浩二に「あんたはまだ若い、20年たったらわかる」といった言葉がずっとひっかかっていました。あれから17年、今年75歳になるわたしは、少しだけあの名言がわかりかけたような気がします。

 2005年10月22日(土)、映画「蕨野行(わらびのこう)」上映会は盛会で、恩地監督は記念の講演会も引き受けてくださいました。
 上映会の実現に力を下さったHさんは亡くなられましたが、箕面の桜ケ丘のご自宅に月に一度ほどお招きいただき、お茶をいただきながらいろいろなお話を聞かせてくださった時間は、今でも心に残るわたしの宝物です。
 恩地日出夫さんの訃報を知り、たくさんの思い出が次々と蘇ります。
 ここに心よりご冥福をお祈りしますとともに、いまさらながら改めて、この映画の上映会にご協力をいただいたことを感謝します。

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2022.01.17 Mon 映画「IP5」 純情だけをかばんに入れて 追悼・ジャン・ジャック・ベネックス

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 1980年代のフランスを代表する映画監督ジャン・ジャック・ベネックスさんが亡くなりました。81年に発表した初長編「ディーバ」で、独創的な映像美を評価され、86年の「ベティ・ブルー/愛と激情の日々」では、愛のために破滅していく男女を大胆なタッチで描き、仏映画界に旋風を巻き起こしました。
わたしは豊能障害者労働センター在職時の2000年6月3日に、今は廃館となった箕面市民会館で、彼の1992年の名作「IP5」の上映会をしました。
その縁で、当時の豊能障害者労働センターの機関紙「積木」で何度か紹介記事を書きました。その中の一文を、追悼文の代わりに掲載します。


純情だけをかばんに入れて、その映画はやってくる
村上春樹とジャン・ギャバンとイブ・モンタンと魚の腹
「IP5」上映会によせて
2000年2月24日発行 豊能障害者労働センター機関紙「積木」

 村上春樹の小説「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」では、「世界の終わり」の街から「夢読み」という仕事を与えられた「ぼく」は、毎日夕方に図書館に行く。
 その図書館の書庫にあるのは本ではなく、なぜか一角獣の頭骨が無数に並んでいる。「ぼく」がそれらの頭骨に手を触れ、目を閉じると、その透谷に映される人間たちの「古い夢」がかすかにあらわれ、消え去るのだった。
ぼくはこの小説を読みながら映画のことを思った。いくつもの映画館で映され、役目を終えた無数のフィルムたちが眠る倉庫。世界の果てのいたるところにそんな映画たちの墓場があるのだと思った。一度は通り過ぎた小さな映写窓で身を焦がし、光にあこがれ、恋をしたフィルムたち。その中には、一度もまばゆい光に裸身をさらしたこともなく、お蔵入りになってしまった映画もあることだろう。
 ぼくはそんなに映画にくわしいわけではない。ただ、日曜日に仕事をした後、夕方にちょっと出かけるだけで休んだという気分を味わわせてくれる、そんな映画館が大好きなのだ。
 ぼくの子どものころ、どの街の映画館も立ち見が出ていた時代、それでも映画館に行くお金もない人々もまた、たくさんいた。当然、ぼくもそのひとりだった。
 ある日、幸運がやってきた。母がしていた飯屋の前にポスターを張る代わりに、街の映画館のただ券をひと月4枚もらえるようになった。そんなわけで、ぼくが見た映画と言えば場末の映画館に流れ流れてくる傷だらけの3本立て。波が岩にあたり、三角マークが出る東映映画と、新しくもないニュース映画。これが映画との最初の出会いだった。
 高校生の時、はじめて洋画のおもしろさを知った。「映画は東映と日活や」と思っていたぼくに、「細谷、映画は洋画だよ」と同級生が言った。「言葉がわからん」というと、「おまえな、字幕っちゅうのがあるんや。洋画のおもしろさを教えたる」と、映画代をおごってくれて見た映画がジャン・ギャバンとアラン・ドロンのギャング映画「地下室のメロディー」だった。盗んだ札束が水に次々と浮かんでくるラストシーン。それを見つめるジャン・ギャバン…。そのとき、ぼくはもう一度映画と出会った。

 「世界の終わり」の図書館は、レンタルビデオが整然と並ぶヒデオショップのたとえの方があたっているかも知れない。見逃した映画や、むかし映画館で見た感動をもう一度味わいたくてビデオを借りる習慣が、ぼくにもある。けれども見逃した後悔がより大きくなり、映画館で見た感動がよみがえるどころか消えてしまうこともしばしばある。
ビデオが映し出す夜はうす明るく、朝はどこかうす暗い。かつて映画が持っていた圧倒的な暗闇と突き刺さる光のナイフは、どこに行ってしまったのだろう。
 ビデオショップもまた、映画の墓場なのだと思う。光と闇をなくしてしまった時代を生きるぼくたちは、その墓場から頭骨を取り出し、「古い夢」という映画の記憶を読み取らなければいけないのだ。

 今年、映画会をするならこの映画と決めていた。深い森の湖に入るレオン老人の美しい裸体。唇がすこし斜めにめくれるようなトニーの顔。死んでしまったレオン老人にそっとサングラスをかけるジョジョ。いかにもフランス映画らしく、この映画の登場人物は車をおどしとったり盗んだりする悪いやつなのだが、それぞれの孤独と絶望がなければ決して生まれなかった「純な心」を持っている。愛を探す旅はそれ自身が世代をこえた友情、愛、コミュニケーションなのだと教えてくれる。
「IP5―愛を探す旅人たち」をぼくは1993年2月、梅田テアトルで見た。忘れていたこの映画の記憶が、ぼくの心にあざやかによみがえる。
 あの映画はいま、どこに行ったのだろう。あれからぼくがたどった7年の間にいくつの街に行き、どれだけの人々の心をせつなく染めたのだろう。公開直前に死んでしまったイブ・モンタンはスクリーンの中でいつ旅を終え、どこの倉庫で静かに眠っているのだろう。
 映画会を企画する幸運に恵まれ、何本か新しい映画ばかりをやってきたが、2000年の今年、この映画でなくちゃだめだと思った。
 倉庫に閉じ込められた映画が、ぼくたちを待っている。映写機のジリジリという音。小さな映写窓、光のナイフに泳ぐ暗闇、ちょっと照れながら、ぼくたちの前に再び現れる銀幕のスター。夜の海で一瞬白く光る魚の腹のように、この古い映画がぼくたちによって上映されるのを待っているのだと思った。
 ぼくにとってこの上映会は、映画との3回目の出会いになるだろう。
 「IP5」! 純情だけをかばんに入れて、その映画はやってくる。

*いまはすでに映画館の上映もDVDになり、見逃した映画もネット配信で見られるようになりました。20年で時代は大きく変わりました。そして、わたしも今は能勢に移り住み、フートワーク軽く映画を観に行くことでできなくなりました。

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2021.06.29 Tue 人間が最後に罹る病としての希望すら、戦後民主主義を何枚何十枚も衣替えしてきた「政治」による救済はあるのか? ドラマ「コントがはじまる」

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 わたしはテレビドラマが好きで、妻から「時間の無駄遣い」という批判も受けながら、自分自身でも人生の残り時間がなくなってきているのにと思いながら麻薬のように見てしまい、後悔することが多いこの頃です。
 若いころは山田太一のドラマを見ては、あくる日に友だちと何時間も感想を語り合うのが楽しみでした。その中でもNHKの土曜ドラマ「男たちの旅路」シリーズの「車輪の一歩」(1979年)は障害者の問題を、「シルバーシート」(1977年)は高齢者の問題を描いた名作でした。「車輪の一歩」では「人に迷惑をかけるなという、社会が一番疑わないルールが君たちを縛っている。君たちが街へ出て、電車に乗ったり、階段を上がったり、映画館へ入ったり、そんなことを自由に出来ないルールはおかしいんだ。むしろ堂々と胸を張って、迷惑をかける決心をすべきだ」といった鶴田浩二のセリフは当時のわたしの心に突き刺さりました。また、「シルバーシート」では都電を占拠した老人たちを説得する鶴田浩二に「あんたはまだ若い、あと20年たったらわかる」という笠智衆のセリフもまた当時はもちろん、今まさにこのドラマの老人たちと同じ年齢になってより一層、わたしの心の奥深くにしみこんでいます。これらのドラマが発信したメッセージにいまだ社会が追い付いていないと強く感じる今、40年以上前のこれらのドラマがいかに時代をはるかに越えた未来を予見していたのかと、感じ入るばかりです。
 それから数年後、わたしは思いがけず障害を持つ人と出会い、以後わたしの人生の半分を障害者問題とともに生きることになりました。この2つのドラマに直接影響されてというのではなく、むしろテレビドラマがわたしの実人生を予見していたのでした。
わたしにとってドラマは社会の覗き窓でもあり、未来からの使者でもあったのです。

 今年の春は、心に残るドラマがいくつかありました。「イチケイのカラス」、「大豆田とわ子と三人の元夫」、「コントが始まる」、「ハルカの光」、「半径5メートル」と、いつも以上にいそがしく、その上最近は深夜のドラマがかなり良くて、「あの時キスしておけば」まで見ると寝る間もないほどでした。もっとも、わたしが好きな番組は一部の偏ったひとたちにしか好まれず、視聴率がよくないものが多いみたいです。
 今回の春のドラマも「イチケイのカラス」以外は視聴率を求めるドラマとは言えなかったかも知れません。テレビ離れが進み、その中で20代から40代をターゲットにして視聴率を求めれば、ドラマもまたイケメンによる「胸キュン」中心になるのはやむをえないのでしょう。
 先にあげたドラマはそれぞれ心に残るドラマでしたが、そのなかでも「コントが始まる」について感じたことを書こうと思います。
 「コントが始まる」は、1993年生まれの菅田将暉、中野大賀、神木隆之介、有村架純に、古川琴音、芳根京子が加わった今が旬の人気俳優をそろえた豪華なキャストでした。
 ドラマは「売れないコントグループの解散」の物語です。
 お笑い芸人グループ「マクベス」のメンバーはハルト(菅田将暉)、ジュンペイ(仲野大賀)、シュンタ(神木隆之介)の三人。ハルトとジュンペイが文化祭でコントを披露し、卒業してもコントをやって生きていこうと決意したのが高三の時でした。高校卒業して10年は夢を追うことにしました。5年後にシュンタも加わり「マクベス」は三人組となります。
 10年目の春、大躍進を予感させることは何も起こらず、話合いのすえ夢から撤退し、2か月後にグループを解散することになります。
 そんな彼らがいつもネタ合わせの後に毎週通うファミレスのアルバイト店員・中浜さん(有村架純)は三人の熱気と楽しそうな雰囲気に惹かれ、「マクベス」のファンになります。彼女は働いていた企業に裏切られ、ほぼ生きる気力をなくして引きこもりだったところを同居する妹(古川真琴)の助けでやっとファミレスのアルバイトができるまでに回復したところでした。
 彼女はマクベスのコントが面白くてファンなったのではなく、反対に「面白くないコント」を不器用に必死に続ける彼らに自分を重ね、傷ついた心をゆっくりと癒やしていくのでした。青春ドラマというよりは、青春の終わりをリアルに描き、「すでに若くない」若者のひとりひとりの人生と、それでも友だちと共に生きていく人生、彼女彼らにとって後につづく途方もなく長い二つの人生を生きなおす決心をする…、とても痛くて切ないドラマでした。
 実際、18歳から28歳という10年は、誰にとってももっとも輝き、そしてまたしばしば輝きをなくしていく10年でもあると思います。
 すでに何度も書いてきたことですが、わたしの場合はマクベスのようなある意味過酷な10年とはけた違いで、友だちとの6人暮らしに甘えながら天秤皿の一方に見たくない、さけて通り過ぎたい現実のすべてを乗せ、もう一方に何の根拠もない夢と切ない希望のありったけを乗せて、なんとか生きてきた10年でした。
 そんなひとりよがりの人生が長くつづくわけはなく、友だちとの共同生活は3年と持ちませんでした。その後の長い時間は、おりしも世の中が高度経済成長の荒波におぼれそうになりながらも他人の夢と、いつかは行き詰る切ない希望に身を任せた、今から思えば身震いするほど恥ずかしい人生を生きてきたように思います。
 それに引き換え、彼女彼らはバブルがはじけた就職氷河期に生まれ、失われた20年、いや失われた30年を個人の事情だけでは切り抜けられないところに社会全体が追い込まれてしまった時代を生き抜かなければなりません。
 いつのまにか、明日にもう、なんの夢も希望もないことを知ってしまった世代が社会の担い手になろうとする今、彼女彼らの夢や野心や欲望や絶望や、人間が最後に罹る病としての希望すら、戦後民主主義を何枚何十枚も衣替えしてきたこれまでの「政治」では救済できないところに来てしまいました。こんな時代を用意してしまったわたしの世代の罪をいくらここで書いてみても、言い訳にもならないことを実感します。
 こんな過酷な時代を担わなければならない彼女彼らには、「マクベス」の10年は決して夢を追い続けた10年でも夢を失いつづけた喪失の10年でもありません。その10年に甘い夢などこれっぽちも持たず、むしろ高校時代の淡い夢を厳しい現実で検証し、時間をかけて目を覚ました、愛おしい10年だったと思います。いつの時代でもどの世代でもやってくる青春の儚い光は、回を重ねるごとに彼女彼らを通して、70歳を過ぎたわたしにも暖かいひとのぬくもりを感じさせてくれます。このドラマの視聴率が低かったのは、 こんな過酷な現実をこれ以上見たくない人たちがたくさんいて、ある時は心を縮ませ、またある時は世界の果てまでも欲望の翼を広げる毎日を生きているからなのだと思います。
 グループを解散しないでいいような一発逆転の展開もなく、実人生の10年をかけて恋を実らせたジュンペイ、解散後世界一周のあてのない一人旅に向かうシュンタ、そして中浜さんもまた勇気を出して再度企業に就労へと踏み出す中で、シュンタだけは現実をまだ受け入れられず取り残されたように思います。「マクベス」へのこだわりで友だちの10年を奪ってしまったことへの後悔が残るシュンタに、中浜さんは自分も含めてお客さんを幸せにしてきたこと、ぎすぎすした暴力的な世の中を生きるためのささやかな勇気をくれたこと、100人のファンより100回ライブを見に来てくれる一人のファンを持つ「マクベス」の10年は豊かな時間だったと話してくれます。
 物語の展開から視聴者が期待する2人の恋がまったく芽生えなかったことがこのドラマを名作にしたひとつですが、その分だけ有村架純がとてもまぶしく、いい女優さんになったなと思いました。
 それにしても、今のバラエティーブーム、お笑いブームは私が思ってきた諧謔を仕込んだ「笑い」ではなく、金太郎あめのような同調圧力による微笑みのファシズムのようで少し恐怖を感じていたわたしは、このドラマで「マクベス」が演じるコントがまったく面白くなかったことが逆説的で、救われました。

あいみょん – 愛を知るまでは「コントが゛はじまる」主題歌

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2021.05.06 Thu 映画「初恋のきた道」 ひたむきな愛のおとぎ話と国家権力

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 ずいぶん前に録画していた「初恋のきた道」(原題:我的父親母親)を観ました。中国映画の巨匠、チャン・イーモウ監督の1999年公開のこの映画は、同年の「あの子を探して」や2002年の「至福のとき」と合わせ、「幸せ三部作」とも言われています。
 わたしは若いころはゴダールやトリュフォーなどフランスのヌーベルバーグや大島渚など、ATG配給の映画などを好んで見ていましたが、40代ごろからアジア映画をよく見に行った時期があり、今は閉じてしまった映画館もありますが町の映画館のいわゆる単館ロードショーに足しげく通いました。
 アジア映画と言えば香港映画が人気でしたが、わたしは中国映画と台湾映画が好きで、特に中国映画はほとんど監督の名前も俳優の名前すら知らないのによく見に行ったものでした。もちろん、この映画も公開時に見に行きました。
 映画は、中国北部の河北省の小さな村を舞台にした、おとぎ話のような純愛映画です。
爽やかな空の下を広大な草原と麦畑が広がり、小川が流れ、あふれる緑と秋の紅葉と、まるで何枚もの絵画を連射で見るような美しい風景のもと、一人の女性の愛の物語がつづられます。

 都会でビジネスマンとして働いているルオ・ユーシェン(スン・ホンレイ)が、父の急死の知らせを受けて数年ぶりに故郷の村へ帰ってくる。母(チャオ・ユエリン)は、古いしきたり通りに葬式をあげたいと願っていた。ユーシェンは部屋に飾られた父母の新婚当時の写真を見ながら、昔聞いた両親のなれそめを思い出していた。
 町から教師として赴任してきた20歳のルオ・チャンユー(チョン・ハオ)と、彼に恋い焦がれる18歳の娘チャオ・ディ(チャン・ツィイー)。ディはなんとか自分の想いを彼に伝えようとし、やがて二人の間には恋心が通じ合う。そんなある日、チャンユーは町へ呼び戻されることになり、村の学校から姿を消してしまう。チャンユーが帰ってくるのを、雪の降りしきる冬の道でひたすら待つディ。村と町をつなぐこの一本道は、二人にとって大切な愛の道となった。
 葬式が終わり、息子ユーシェンは、父が一生立ち続けた教壇で、こどもたちに父が初めての授業のために書いた教科書で授業をする。ディは、少女の日を思い出すように学校へ向って歩き出すのだった。 

 1989年、天安門事件による民主化運動の弾圧から10年。この映画が公開された1999年は、中国の市場経済が急成長し世界の工場と呼ばれ始めた頃で、自由経済の発展に伴って人々の考えも大きく変化した時代です。
しかしながら北部の寒村にはまだ経済発展の波が押し寄せておらず、社会の急激な変化に取り残されたままのようです。都会で裕福な暮らしを手にした息子・ユーシェンはおそらく子どものころから変わらない風景を懐かしく思いながらも、もうここには戻れないと思ったのではないでしょうか。それは彼だけではなく、その時代以降中国全体がもう後戻りできない高度経済成長へとつきすすんでいくことになるのでしょう。くしくも彼が乗ってきたクライスラー社製のジープ、チェロキーとともに…。
 チャン・イーモウ監督は国共内戦に敗れた国民党の軍人を父に持ち、中国共産党支配の下でイーモウの一家は、最下層の生活を余儀なくされました。文化大革命のときは7年間農村で働き、その経験が彼の農村映画の傑作を生んだといわれています。
辺境の村にも政治の力は確実にひとびとの暮らしの行方に影響を与えるようなり、「初恋のきた道」でも、父親はある日、文化大革命につながる反右派闘争にまきこまれ、突然に町へと連れ去られ、彼を追って高熱を押して走り続ける母親の姿が描かれます。
 しかしながら一方で、ひとりの女性のひたむきな思いもまた、大きな政治の力と対置できる「おとぎ話」をわたしたちに語ってくれるのでした。
 たしかに、母親の女性像は男に都合のよいものであることは否めないのですが、一方で1957年の中国の辺境の村にやってきた父親が40年以上、村人総出で建設した小学校をたったひとりで支えてきたことに感情移入してしまいます。わたしたち日本の社会でも子どもたちと大人たちのコミュニティーのよりどころとして学校があった同じ時代を通り抜け、学校の統廃合の末にやがて村そのものも消滅していきました。
 町から学校の先生が来るという大事件は、この映画ではその村が大きく変化していくことだけでなく、この村を支えてきた大自然のふところに「先生」、すなわち「教育」が溶け込んでくることを意味しているのだと思いました。
 先生が来るということで急遽、村総出で学校を作ります。わたしは実は対人恐怖症と吃音になやみ、小学校1年の時は3学期になってやっと学校に行き始めた子どもでしたが、この村の子どもたち、大人たちにとってはそんな悩みを持つ子供はいなかったかもしれません。それどころか、学校がただ単に「先に生まれた」だけの「先生」や「えらい先生」が子どもを教育するところではなく、いかにも青春映画そのままの「若い先生」を囲んで子どもたちが「学びあう」本来の「学校」として、毎日がわくわくする特別の場所だったに違いないのです。
 すでに18歳になった少女もまた学ぶこともなく字も読めないけれど、待ちに待った先生が村にやってくることに心ときめかせたとしても、それは当たり前のことだったのでしょう。と同時にその恋心は時には優しく時にはひめやかに時には切なく時にはかなしく彼女のほほを通り過ぎる風とともに、大自然の中でひたむきに解き放たれた愛となっていくのでした。実際、彼女と彼の心のふれあいのすべてはこの村の自然という共有財産の中ではぐくまれていきます。その出会いをつないだ一本の道を彼女彼たちは経済成長の歯車が加速し始めているだろう「町」がなくしかけている大切なものをひとつずつ拾いながら村へと帰って来るのでした。
 10年以上も前に見たこの映画を今見直し、棺に入った父親を車で運ぶことをこばみ、棺を担ぎながら大勢のひとたちが歩いて戻るこの道こそ、もしかすると中国全体、いやわたしたち日本全体、世界全体が遠くの辺境の里に捨て去られた大切なものをすでに取り返せないところに来てしまったのではないかと思いました。
 この映画は1999年の故郷をあえて白黒で描き、亡き父と母が出会い、夫婦となった1957年をカラーで描いています。当局の検閲で映画に限らずさまざまなジャンルの芸術が自由に表現できない中、チャン・イーモウは体制派と批判される場合もあるのかもしれないけれど、わたしはこの監督がそれらの検閲・弾圧を潜り抜け、ぎりぎりのところで表現してきたことを「初恋のきた道」でも実感しました。
 香港への中国の仕打ちやミャンマーの切迫した情勢の中にいて、言葉では語れない理不尽に奪われ続けた無数の魂と屍を累々と積み重ねてもなお、わたしたちは国家がふりかざす正義の下で自由を奪われ、いのちを危険にさらされ、心を固くとざさなければならないのかと思う時、その渦中でそれでも自由をとりかえそうとするたくさんのひとたちの存在を感じながら、この映画のエンドロールをみていました。

「どんなに自由をうばわれても人間には最後にひとつだけ自由がのこる。それは自由になろうとする自由です。」(竹中労)

竹中労語る 天安門事件 - YouTube
この映像は1988年10月11日から1992年10月16日まで放送されたテレビ朝日の深夜帯番組にレギュラー出演していた竹中労の発言記録です。この番組は一週間にあったさまざまな事件や政治的な問題を出席者が自分の意見を言う番組で、東京地域のみの放送だったらしいです。今聴けば竹中労の遺言のように聴こえます。このひとはほんとうに信頼に値するジャーナリストであったとつくづく思いました。

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2021.01.09 Sat 「我々は幸せになるために地球上にやってきた」。映画「ムヒカ 世界で一番貧しい大統領から日本人へ」

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 1月3日、映画「ムヒカ 世界で一番貧しい大統領から日本人へ」を観るため、阪急電車売布神社そばの「シネ・ピピア」に行きました。不要不急の外出を控えるように言われていたのですが、年末年始家にこもっていて、妻がこの映画をぜひ観に行きたいとわたしも誘ってくれたのでした。
 タイトルの「ムヒカ」とは南米ウルグアイの政治家で、2009年11月の大統領選挙に当選し、2010年3月1日より2015年2月末までウルグアイの第40代大統領を務めたホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダーノで、報酬の大部分を財団に寄付し、その清貧な暮らしぶりから「世界一貧しい大統領」と呼ばれました。
 世界的に有名になったきっかけは、2012年にブラジル・リオデジャネイロで開かれた国連持続可能な開発会議のスピーチでした。消費社会に異議を唱え、本当の幸福とは何かを語り、世界中に衝撃と感動を与えました。
「我々は発展するために地球上にやってきたのではありません。幸せになるためにやってきたのです。」リオ会議のスピーチをもとにした絵本『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(汐文社)が15万部超のベストセラーになりました。
 映画は、そのスピーチに心を動かされたテレビディレクターの田部井一真監督がアポなしで取材を申し込むところから始まります。
 見渡す緑の大地の道をトラクターに乗りながら、ムヒカはわたしたちに語りかけます。
 「君が何かを買うとき、お金で買っているのではない。お金を得るために費やした人生の時間を買っているのだ」。

 ウルグアイ(ウルグアイ東方共和国)は1828年にラスペインから独立した南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国です。独立後も長らく内乱が続きましたが、20世紀初頭のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領の大改革により、「南アメリカのスイス」とも評される稀有な民主主義国家となりました。ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっています。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がっています。国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されています。
 しかしながら、1960年代には深刻化する経済危機を背景に都市ゲリラトゥパマロスとの抗争が続き、1973年にトゥパマロス鎮圧を果たした軍部によってクーデターが実施され、軍事政権になります。ムヒカはその間トゥパマロスに加入、ゲリラ活動に従事し、軍事政権が終わるまで13年近く収監されていました。
 ムヒカは出所後、ゲリラ仲間と左派政治団体を結成し1995年の下院議員選挙で初当選し、2005年にウルグアイ東方共和国初の左派政権となる拡大戦線のタバレ・バスケス大統領の下で農牧水産相として初入閣します。そして2009年11月の大統領選挙戦で勝利し、 2010年3月1日より2015年2月末までウルグアイの第40代大統領を務めました。ムヒカに限らず、かつての極左ゲリラ活動家が中道左派政権を樹立し、また国民がかつてのゲリラ集団の政治家を支持したことも、政情不安や軍事政権の抑圧、理不尽な暴力など非情な時をくぐり抜けて獲得したウルグアイの民主主義の底力を感じます。

 ムヒカを取材した.映画は他にもありますが、田部井監督はテレビ番組の若いディレクターらしく、ドキュメンタリーというよりテレビ番組のロングインタビューという感じで、観客のわたしたちと同じ場所からカメラを向けます。ムヒカの言葉をただひたすらまっすぐに待ち続ける真摯な姿勢や、自分の子どもに「ホセ(歩世)」と名付けるなどムヒカへのリスペクトがなみなみならず、映されたスクリーンからはみだしたというよりは、スクリーンの映像がまさしくムヒカの家や農園、付近の風景と立ち込め緑とむせ返る匂いとさわやかな風を映画館に運んできたようなのです。
 意外にも一度も日本を訪れたことのないムヒカが、日本の歴史や文化にとても詳しいことに驚かされます。ムヒカは子どもの頃、近くに住んでいた日本人移民のひとたちに菊づくりなどを教わっていたのでした。
 田部井監督は何度もウルグアイへと渡り、大統領退任後のムヒカへの取材を重ね、多くの日本人にムヒカの言葉を聞いてほしいと願いました。その思いに応えてムヒカは妻のルシア・トポランスキーとともに日本を訪れます。
広島を訪れた彼は「日本に来てここを訪れなかったら、日本の歴史への侮辱だと思う。」と語ります。そういえば彼の部屋に貼ってあるゲバラもまた革命政権が成立した直後の1959年に広島を訪れ、「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」と言い残したことが有名です。
 日本の高度成長の姿と技術の進歩を賞賛しながらも、彼は言います。
「とても長い、独自の歴史と文化を持つ国民なのに、なぜ、あそこまで西洋化したのだろう。衣類にしても、建物にしても。広告のモデルも西洋系だったし。あらゆる面で西洋的なものを採り入れてしまったように見えた。日本には独自の、とても洗練されていて、粗野なところのない、西洋よりよっぽど繊細な文化があるのに。その歴史が、いまの日本のどこに生きているんだろうか」。
 日本の若者に会いたいという彼の願いから、東京都内の大学で講演し、若者に語りかけました。
「日本では若者の30パーセントしか投票に行かないと聞きました。政治を放棄すれば少数の人々がそれをコントロールすることになります。魔法が世界を変えてくれるなんて思わないでください。同じ考えを持つ誰かと共に行動することで望みが叶うのです。
 「若いみなさん、ふたつの選択肢がある。ひとつは『生まれたから生きる』、もうひとつはそこから出発して、私たち自身の人生というものを方向づける。すなわち、この奇跡のような生をうけたということの大義のために生きるのであります」。
「人生で一番大事なことは成功することじゃない。歩むことだ。転んでも再び立ち上がることだよ。打ち負かされる度にまた一から始める勇気を持つことだ」。

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