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2021.01.18 Mon 共に生きるすべてのひとの希望を耕すために。阪神淡路大震災の教訓

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 阪神淡路大震災から26年が経ちました。大爆発するコロナ禍の中で迎える1月17日、誰もが様々な想いで迎えることになりました。
 いのちの儚さといのちの強さ、そして、非情な社会の矛盾やもろさとともに助け合うことの大切さを非日常の中で経験し、あの日からまだ止まったままの時とまた動き始めた時…、2つの時のはざまで日本社会も世界も、そしてわたしたちも簡単に明るい未来を夢見ることができないまま、今に至っていると感じます。
 わたしは当時、箕面の豊能障害者労働センターで働いていて、被災した障害者の救援活動の救援物資ターミナルとして全国から集まってくる救援物資を被災地に届けるための事務をしていました。地震から一週間後、被災地に届けてくれていた人の助手で被災地に物資を届けに行きました。
 阪急王子駅の近くで一軒だけ開いていた大衆食堂に入りました。食堂はところどころ水が落ちてきましたが満席で、豚汁と漬物とご飯があればごちそうでした。
 高いビルがいつ崩れてもおかしくないと思うほど斜めになっていて、まっすぐな道もゆがんでいて平衡感覚がなくなりました。
灘に入ると、家々の屋根だけが残り、一面ががれきの荒野で、その下にうずもれたかけがえのない命の声なき叫びと、生きた証が煙となって足元をもつらせたあの時の風景は、街がいくらきれいに見繕いをすませた今もその後ろ側に残されています。
 わたしたちはいくつかの救援拠点に物資を下した後、須磨の一軒のお宅にバザー用品を獲りに行きました。わたしたちは救援物資のターミナルとともに、3月には救援バザーをすることになっていました。機関紙の読者から電話がかかってきて「わたしは避難所にいるけれど、家の外に置いておくからバザー用品をついでに取りにきてほしい」と言われていたのでした。地震直後に交わす会話は「生きとった?」で始まり、「家も壊れ、これからどうしたらいいかわからへんけど、命だけは助かったわ」で終わるということでした。
 そして、「棚の上からいっぱい物が落ちてきて、もう何もいらん。あんたらが神戸の障害者の救援バザーをすると知って、いまはここでバザーなんて無理やけどあんたらの地域で開いてくれて、神戸の障害者を助けたってな」と言われました。
 実のところ、わたしたちの事務所には連日山になるほどのバザー用品が宅配便で送られてきましたが、その中には送り主の住所が被災地各地の避難所になっていることもたくさんありました。そして、送られてきたバザー用品に添えて、大切なひとをなくしたひとからも「こんな時こそ助け合いや」と、わたしたちを励ます手紙が入っていました。
 わたしたちは救援活動を通じて、被災地のひとびとからも共に生きる勇気を学びました。箕面で開いた「共に生きる、すべてのひとの希望をたがやすバザー」は100人ほどのボランティアの人たちに助けられ、救援金を届けることができたのでした。

 しかしながら1995年を今振り返ると、阪神淡路大震災と4月に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件によって、日本社会が大きく変わった年だと思います。
 ボランテイア元年と言われるように、「助け合い」や「共に生きること」や「市民の力」が社会をささえ、変えていく始まりの年であったことは間違いないのでしょうが、一方で今の鬱屈した社会へとつながる道もまた、この年からはじまったように思うのです。
 1995年はバブル崩壊後、金融機関の不良債権問題など、それまでの高度経済成長の夢を捨てられないまま少しずつ薄暗くなっていく日本社会への不安が渦巻きはじめていました。その中で起きた大災害と大事件は、それまでの経済成長と重なってみえた戦後民主主義のもとで、「世界一の経済大国と世界一安全な国」が転落していく始まりだったのではないでしょうか。
 新自由主義によって社会の基礎的な富は私有化され、社会保障など公的な安心が削られていく中で、個人も国も助け合うことよりも自分の身は自分で守る自己責任と国の防衛が前面に踊り出る社会に変わっていきました。助け合うことや多様な人々が共に生きる力と、自己責任を求める大きな力という二つの力がわたしたちを引き裂き、社会の分断が広がっていったのだとわたしは思います。
 それから16年後の東日本大震災でこの2つの力は共に大きくなりながら時にはぶつかりながらも住み分けが進み、社会の分断はより厳しいものになりました。
 ここでは今もまだたくさんのひとびとを苦しめながら、それでも戦後の国策としてきた原子力至上主義を守り、貫こうとする成長神話のプレイヤーである国や企業と、その神話にゆがめられた社会の深淵に落ち込んだわたしたちの悲鳴が共存しながらグローバルな荒野を駆け巡りました。
 そして今、世界で200万人を越え、これからもどれだけの命が犠牲になるのかわからないコロナショックは、わたしたちの社会の脆弱さを断罪する審判を下しました。
 ここまでの歴史の中で何度も警告を発せられても止まらない成長への欲望、日本でも保健、医療、教育、福祉の公的サービスを異常なまでに攻撃し、規制緩和と民間委託と徹底的に私有化し、「万が一」への施策を無駄としてコスト削減し、AI技術などイノベーションによる社会のDX化によって成長神話の引き延ばしを図ってきた結果が医療体制の崩壊を招いたことは専門家に聞くまでもないでしょう。
 わたしたちは長い間続いた分断の道を軌道変換し、ひとつの道へとつながることができるかも知れない、最後のチャンスの現場にいるのだと思います。気候危機とコロナショックと世界中の飢餓と個人を幽閉する国家が、たった一人のいのちなど調査報告の「1」にも満たないと通り過ぎようとする時、わたしたちは阪神淡路大震災で学んだもう一つの道、「助け合い」と「共に生きる勇気をたがやす」道を進んでいきたいと思うのです。

ソウル・フラワー・ユニオン「満月の夕べ」
被災障害者支援「ゆめ風基金」の活動を訴える最初の拠点が長田神社でした。関西を中心に障害者の呼びかけに永六輔さんも小室等も、そしてソウル・フラワー・ユニオン(モノノケサミット)も長田神社に集まってくださいました。

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2018.01.17 Wed 阪神阿淡路大震災から23年・わたしたちは2つの時間を生きている

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 阪神淡路大震災から23年…。
 ずいぶん時が流れ、その後の時間がぼんやりとしているのに、23年前のあの時のことは些細なことまでくっきりと覚えています。
 わたしが住んでいた箕面市は神戸・阪神地区のような大きな被災もなかったのですが、それでも大きな揺れで一部の建物や部屋の中のものなどはひっくり返りました。
 当時在職していた豊能障害者労働センターの事務所はわたしの自宅に近く、その頃はまだ事務所で仮住まいしていた脳性まひの梶敏之さんがいて、夜の介護の人から電話があり、事務所の戸棚がひっくり返り、食器がたくさん割れたこと、その片づけはしたけれどもう仕事に出てしまうので、すぐに来てほしいと言われましたが、その後も激しく揺れるのが怖くて、生返事をしてまた布団にもぐってしまいました。
 妻にせかされ、やっと事務所に行くと、梶さんが入り口で待っていて、わたしと梶さんの間で、あれほど私の来るのを待ってくれたのはあの時だけでした。
 その日は仕事どころではなく、阪神方面から来ている障害者スタッフもいましたから、お互いの安否確認をし、全員運よく無事だったことを確認しました。
 それからの豊能障害者労働センターは被災障害者の救援物資のターミナルを引き受けた関係で、怒涛の日々が4月半ばまで続きました。
1月の末、わたしは救援物資を山と積んで運転してくれるスタッフとともにはじめて被災地に行きました。
 東灘地区で車から降りると、一面がれきの荒野で遠く所々に忘れられたようにビルのような建物が今にも崩れそうに斜めに立っているのがぽつりぽつりと見えました。
 目の前は屋根ばかりが建築図面の見取り図のように横たわり、あたり一面がかすみがかかったようになっていて、それはほこりが風に舞い、煙っているのだとわかりました。
 その煙ったほこりが、つい先日まで何百人何千人の人々がその屋根屋根の下で生きていた証なのだと思い、胸が締め付けられる思いでした。
 豊能障害者労働センターは1995年の被災障害者救援活動をへて、大きく変わりました。それまでは障害者の給料をつくりだすための自主事業を拡げることが一番でしたが、阪神淡路大震災の被災障害者の救援活動を通じて、社会福祉法人から自分たちのような任意団体まで運営の目的も利用する福祉制度の枠組も違っても、隣の町で困難な問題に苦しんでいる障害者の心と体の重荷を共に背負い、「みんなで幸せになる」ために、できるだけのことを助け合って生きていこうと思うようになったのでした。
 その想いは2011年の東日本大震災の時にはさらに大きな運動へとつながり、今の豊能障害者労働センターをつくったのでした。
 たしかに、ほかの障害者団体のように社会保険に入っていなかったり、NPO法人にもならず、組織体、事業体として未熟な団体かもしれませんが、そのために必要なお金を困っている仲間を助けるための救援活動、支援活動にまわしてしまい、年金のないスタツフの給料は約20年前から週5日で12万5千円のままで、青息吐息の運営を続けている豊能障害者労働センターは貧しい団体かもしれませんが、箕面市民だけでなく日本社会においても、また14年前に退職したわたしにとっても頼もしい存在だと思います。

 それはさておき、1995年1月17日からはじまった特別な時間は、何度も遠くに去っていきそうになりながらも、結局はわたしたちの心の底にへばりつき、5年、10年、20年、23年と忘れられないものになってきました。
 わたしたちはあの日からふたつの道、ふたつの時間を生きてきたのだと思います。
 ひとつはあの日以来、そのすぐ後のオーム真理教事件も合わさり、日本の社会が安全だという神話が壊れてしまいました。わたしたちは自分の身は自分で守らなければならなくなっただけではなく、自分が社会から安全な存在と見られるように努力しなければならなくなりました。実際時を追うごとに信じられない事件が次々と起こり、わたしたちはますます心の垣根を高くするしかありませんでした。
 あれから23年、心の垣根はとうとう国家レベルにまで高くなり、国家に守ってもらえるような国民になるために、戦争をしない国の憲法から戦争ができる国の憲法に変え、すぐ隣の朝鮮半島での武力衝突を避けるための話し合いよりも、武力で恫喝し、自衛隊の若者の命が犠牲になっても自分たちだけは安全な場所で安倍政権に守ってもらえると考えるまでになりました。
 けれども、わたしたちにはもうひとつの道があることも、あの大地震は教えてくれたました。それは「共に生きること」であり、「助け合うこと」なのです。
 あの日まではそれは道徳や倫理で「しなければならないこと」でした。けれども、あの日からつづく東日本大震災をはじめとする大きな災害を経験し、助け合うことの大切さや共に生きる勇気を持つこともまた学んだのでした。
 わたしたちは、どんな強力な武器よりも共に生きる勇気を育てること以外に「安全で平和な社会」をつくれないことを知っています。わたしたち人間は言葉も個性も希望も夢も国籍も民族も年代もちがっても、つながることができるのだということを。
 そしてそれはめんどうなことではなく、とてもうれしいことなのだということを…。
 残念ながら、まだわたしたちは助け合う勇気を十分に育てることができないのかもしれません。しかしながら、ひとは武器を持つこともできますが、楽器や鍬を持つこともできるのです。

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