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2021.09.10 Fri Yさんとボブ・マーレーとトキドキクラブ 大椿ゆうこさんのこと2

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エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
エレーン その答を誰もが知っているから 誰も問えない
中島みゆき「エレーン」 

 あれはたぶん1983年、Yさんが豊能障害者労働センターに現われてからまもない日曜日だったと思います。わたしの妻がYさんを誘い、3人で須磨の海岸に行きました。
 わたしと妻は、労働センターと関わったのと同じ頃、Tさんというステキな歌うたいと出会いました。
わたしたちは1972年頃に彼がまだ高校生だった頃、旧豊中市民会館のこけら落としのステージで彼の歌を聴いていました。その彼がバンドをつくってまた歌い始めた頃、わたしが箕面ではじめて開いたロックコンサートに参加してくれたのをきっかけに彼のバンド「トキドキクラブ」のファンになり、彼らの出演するライブに必ず出かけていたのでした。
 Yさんはおよそロックやレゲエを聴きに行くには似つかわぬいでたちで現われました。あの時は時代遅れと思いましたが、まわりまわって今は流行りのオールドファッションのブラウスにブリーツのスカート、真っ赤な口紅。ハイヒールは海岸の砂に足をとられ、足がいたいと何度も立ち止まりながら、やっと野外ステージにたどりつきました。
 その日はボブ・マーレーを偲び、1982年から始まった海辺のフリーコンサート「須磨の風」が開かれていて、トキドキクラブが出演したのでした。
 トキドキクラブのライブが始まると、Yさんは踊り始めました。それはなんとも言いがたい風景でした。レゲエの若者たちのカッコいいファッションの群れの中で、Yさんのまわりだけが古い日光写真の中にあるような、不思議な光景でした。
そのうち妻が一緒に踊り始めました。しばらくして気が付くと、わたしはやみくもに前に走り出てめちゃくちゃなラジオ体操をしていました。そして、わたしたちを遠巻きに笑ってみていた若者のひとりの手をつかみ、引きずり出そうとしました。実際その時のわたしは、その若者になぐりかからんぐらいの勢いだったのでしょう。彼らは心優しくて、わたしが近づくと逆らいもせずみんな逃げて行くのでした。
  「あっ、また悪い癖が出てしまった。」と思いました。この歳になっても時々わけもなく胸が高鳴り、とんでもない無茶をしてしまうことがあるのですが、40年前のわたしはすでに30代半ばになっても少し「アブナイ」人間だったのでしょう。
 周りを見ると、もうひとり男が踊っていました。労働センターの良き理解者だった神戸のスナック「メルヘン」のマスター、今は亡きマスモトさんでした。Yさんと妻、マスモトさんはトキドキクラブの音楽に酔いながら、しなやかに体を動かしていました。
 Yさんはまわりのことなど気にもせず、5月の風に身をゆだね、太陽をちりばめた光の粒のような波の階段の踊り場でスカートをひるがえし、それが遠い国の言葉であるかのように、トキドキクラブの音に耳をかたむけて踊り続けました。
 その時、わたしは思ったのです。Yさんの踊りが自分をとりもどしていく時速100キロの青春の救急車だったことを。そして障害があるというだけで、Yさんの青春は少女のままひん死の重傷だったことを…。あの時、真っ青な空と白い光とキラキラ輝く波と砂浜に包まれて、彼女は自由を手にした喜びにあふれていました。
 そして、マスモトさんもまたゲイであることをカミングアウトし、友人や彼を慕う若い人たちに囲まれてもなお、「深い人間関係」に焦がれるわが身を解き放つように、踊り続けました。
 トキドキクラブの演奏が終わり、ボブ・マーレーの「ノウ・ウーマン・ノウ・クライ」がかかった時、若者たちが一斉に踊り始めました。
Yさんはそれから2年ほどして、わたしたちが想像できないスピードで労働センターを去っていきました。きっとわたしたちは、どこかでさよならの仕方を間違えたのかも知りません。自分を取り戻していくYさんの変わりように、わたしたちはついて行けなかった。
 その時のYさんにとって、労働センターが自由への旅がはじまる青春のプラットホームだったのでしょう。

 大椿ゆうこさんにはじめて会った時、「ちがいは力、みんなちがってみんないい」という皮膚感覚が自然にしみわたっていることに感動しました。もって生まれた感性から、非正規の労働者たちに立ちふさがる問題が労働の場だけにあるのではなく、ひとりひとりの生い立ちや人間関係の背後にある同時代の社会全体にはびこる差別や格差や偏見や理不尽な仕組みから来ていることを、彼女は痛いほど学んだのでしょう。
 「ひとりぼっち、ふたりぼっち、3人ぼっち」と孤立が孤立を生み、「自己責任」という言葉で切り捨てられ、追い詰められた末に彼女の前に現れたひとりひとりの人生をまるごと受け入れる彼女の心には、数多くのひとびとの無念や悲しみや切ない希望ややるせない夢がとげのように刺さっているのです。そうでなければ雨の日も風の日も毎日路地に立ち、「大丈夫だよ、あなたがしんどいのはあなたのせいじゃない」と語り、「生存のための政権交代」を訴え続けることなどできないと思うのです。
 そんな大椿ようこさんを見ていて、わたしはなぜか40年前に出会い、別れて行ったYさんのことを思い出しました。Yさんはセンターをやめても生活保護で自立生活をしていましたが、あの時代はまだ就労の場はおろか公的な介護保障も脆弱で、家族に支えられて暮らす以外に地域で生活することは難しい時代でした。
 豊能障害者労働センターも生まれたばかりの頃でした。働くひとの権利の前に、「就労を拒まれる障害者の働く権利」を獲得するために、障害のあるひともない人も共に働きお金を分け合う、たとえばこんな働き方はどうだろうと労働センターの活動がはじまりました。
 理想は高く現実の奈落は深く、給料と言えないほどのお金しか手にできないふがいなさを抱えながらその日その日を生き延びていました。センターの自立障害者の命綱は生活保護とそれにともなう介護保障でした。それは障害者運動の先達・青い芝の障害者が命を懸けて勝ち取ってくれたものでした。
 時代はたしかに変わったのだと思います。40年前にくらべるとわたしの知り合いの障害者たちもグループホームで自立生活に準ずる暮らしをしていて、介護の保障もずいぶんよくなりました。しかしながら、障害者が当たり前の労働者として働き、所得を得ることは今でもかなり難しいことも事実です。
 だからこそ、障害者に限らず働く場にたどり着けないひとたちとともにある労働運動のあり方を探しながら、だれもが安心して暮らせるための政治、競い合いから助け合い、共に豊かさと貧しさを分かちあう社会を激しく求める大椿ゆうこさんの「たたかい」に、わたしたちの希望を託していきたいと思います。
 それはYさんがわたしに残してくれた青春の行方をたどることでもあるのです。

梓みちよ「エレーン」(作詞・作曲 中島みゆき)
かつて外国人が多く住むマンションで暮らしていた中島みゆきは、ある時、酔っ払いに絡まれている外国人女性を救ってあげたことがきっかけで、彼女と交流するようになる。ある時、この女性は殺害され裸の状態でゴミ捨て場に遺棄されていた。彼女は娼婦だった。この事件は新聞に数行書かれたのみで、警察の調べも虚しく迷宮入りとなったという。
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2021.08.18 Wed 箕面市立病院のこれからを考える集い 箕面市議会議員中西とも子さん

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 8月15日、箕面市立中央生涯学習センターで開かれた箕面市議会議員の中西とも子さんの集まりで、「箕面市立病院のこれからを考える集い」に参加しました。
 箕面市では新市長が打ち出した「箕面市新改革プラン」のもと、公立幼稚園の廃止、保育所の民営化、箕面市国際交流協会とメイプルホール財団の合併などとともに、新箕面市立病院についても民営化や統廃合を視野に入れた計画が検討されています。「財源健全化」のため民間委託などアウトソーシングによる(目先の)コストダウンを目的としています。

 わたしは1984年から2003年までの20年を箕面ですごしました。その間、高槻の兄のもとにいた母が年に何度か箕面に来ては1、2か月ほど一緒に暮らしていました。
 戦後の混乱期を潜り抜け、シングルマザーで大衆食堂を切り盛りしながら兄と私を育ててくれた母…、そんな母が脳梗塞で倒れ、箕面市立病院に入院しました。そのころ、箕面市は箕面市立病院に先駆的なリハビリ病棟をつくり、「ライフプラザ計画」のもとで医療と福祉が連動する先進的な施策を始めていました。母の住民票を移し、意欲的なリハビリ診療からわたしの家に戻り、老健施設でのデイケアサービスと訪問看護サービス、ホームヘルプサービスを受けていましたが、2週間ほどで再度倒れて入院、一か月半後に母は亡くなりました。
 その日の朝早く、ひときわ強く雨が降り、雷がとどろきました。付き添いのベッドで眠ってしまったわたしが目を覚ますと、母はわたしのほうに顔を向けていました。口からは、いつもとちがう「ぶるぶる」という音とともに、つばがあふれ出ました。おかしいと思いつつ一時間ほどたったでしょうか。突然またつばがあふれ、顔の血の気がすっとなくなり、わたしの前から、母のいのちは遠くへ旅立っていきました。
 8月1日には86才の誕生日を迎えるはずの1997年7月13日、日曜日の朝でした。病室の窓から何度も見た箕面の山々は降りしきる雨にぬれてぼんやりとくもり、その下に広がる街並みは、一日の生活をはじめようとしていました。
 苦労ばかりの人生だった母は2週間だけの箕面市民でしたが、最期に手厚い医療と福祉サービスを受けられたことを今でも感謝しています。

 市町村など地方行政の財政はさらに大きな問題を抱える国の動きにほんろうされ、目先も先行きも厳しい現状で、財政調整基金(市の貯金)の目減りをせき止めるために最初に手を付けやすいのが民間委託ということでしょう。
 ゲストの川西市議会議員の谷正充さんから、川西市立病院が指定管理者制度という、事実上民営化になった経過とその後の現状を報告していただきましたが、公的サービスの民営化で得られるコストの削減とひきかえに、民間企業の労働者を劣悪な条件で働かせ、建物・設備の維持管理もふくめたサービスの低下は避けられないでしょう。
 そもそも医療などいのちにかかわる事業を収益事業として「黒字」をめざすのがほんとうの経営と言えるのかということもあります。今度のコロナ禍での医療切迫・医療崩壊は、万が一のために医療資源を手厚くしていたものを「無駄」と削減してきた結果であることは紛れもない事実でしょう。
 お話を聞いていて、生身の一人の患者にとってすべて公立や公的サービスでまかなえないのなら、そのコストがどれだけかかりそのための財源をどこで用意するかなど、この問題は一市町村だけで解決できることではなく、国の施策の在り方ともかかわる大きな課題だと思いました。
 わたしは、病院だけにとどまらず、公的サービスのコスト削減を民間委託やアウトソーシングで切り抜けて来た段階はもう限界で、そのひずみが結局また社会全体のコストとリスクを増やしていくと思います。これからは、企業経済の成長をあてにしたGDP主導の経済政策に費やす資金を、命にかかわる医療・福祉・保健や市民共通の財産・資源の管理に生かすべきだと思います。それはいままでさんざん言われた「無駄遣い」ではなく、将来のこの国、この社会への社会的投資とするコンセンサスが求められるのではないかと思います。
 実際、新たな経済成長の本命とされるグリーン・ビジネスなどに投資する政策は企業主導のGDP神話を温存するだけで、結局のところ格差を広げることにしかならないと思うのです。
 医療・福祉・保健・社会保障はコストではなく、実は先人から引き継がれた社会共通の富・財産として、自然財産とともに維持管理していくことが将来の産業の担い手を持続的に確保することになり、ほんとうの意味で次の世代に安心安全で豊かな社会を残すことだと思います。そして、それを可能にするのはその共有財産を国や行政だけに任せず、わたしたちが共に担い、その中身の(企業的コストパフォーマンスではなく)社会的コストパフォーマンスを点検し、助け合うことが必要で、その仕組みを作るのが政治の役割だと思うのです。
 例えば、すくなくともいち早くオリンピックを取りやめて、その巨額なお金をコロナ禍でいのちを守る医療・保険体制につぎ込んでいたら、今のような危機的状況にはならなかったと思うのです。

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2021.08.14 Sat あなたの弱音こそが政治の課題 大椿ゆうこさんのこと

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 大椿ゆうこさんを知ったのはそんなに前ではなく、たしか2018年ごろだったと思います。古い友人のひとり、増田俊道さんのフェイスブックの記事で、大阪教育合同労組が芝居をするという案内があり、大阪市内まで出向いたのがきっかけでした。
増田俊道さんとは組合活動とは無縁な付き合いで、彼が箕面東高校の教員だった時に知り合い、箕面の障害者問題の集まりでいつも一緒に行動してくれた友人です。
 また大阪教育合同労組は、わたしが箕面で障害者の事業所で働いていた時に、障害者スタッフの泊まり介護(そのころは無償介護で知り合いや友人に働きかけしていました)に来てくれた鶴丸春吉さんを通して、結成されたばかりの組合運動の話を聞いたり、障害者の問題なども話したりしました。
 わたしは組合のない職場でずっと働いていたこともあり、障害者の活動を支援してくれた日教組とは仕事上で大変お世話になったにも関わらず、労働組合とそれほど親しくお付き合いしたことはありませんでしたが、鶴丸さんのおかげで教育合同労組は心情的にとても近い存在になりました。
 当日の芝居については、申しわけないのですがほとんど記憶に残っていないのですが、集まりの最後に委員長の大椿さんがあいさつされました。
 話の内容とかは芝居と同じようにほとんど記憶にないのですが、行く手の闇を手繰り寄せ、切羽詰まった心情を隠して淡々と話す彼女の声がいつまでも心に残りました。
教育合同労組や北大阪合同労組など「一人でも入れる組合」の特徴なのかもしれませんが、困難に見舞われているひとりの人間に「その問題はあなたのせいではない」と励まし、寄り添い、その問題を押し付ける相手に向かって共にたたかってきたことが身体全身にあふれ、言葉の端々ににじんでいました。
 次に会ったのは、箕面の友人たちとLGBTQのパレードに行った時、増田さんと一緒に大椿さんも参加していました。その時の彼女の印象は組合の集会とはまったく違っていました。
 組合の集会ではやや硬い表情の中で、遠くを見つめるように組合運動から政治活動へと活動の場を移す切実な覚悟のような強さを感じさせましたが、パレードでは柔らかくしなやかな表情からこぼれ落ちる笑顔がすてきでした。
 「ああ、このひとはこの路上から立ち上がり、それぞれひとりひとりちがうところで生まれ育ち、かけがえのない個性を持つひとびとが当たり前に暮らし、助け合って生きる街や社会や国をつくる夢を持てる、稀有の政治家になれるひとなのだと思いました。
そして、彼女と一緒に大阪の街を歩いていることがうれしくて、誇りに思いました。
 不正や理不尽なこと、差別を許さないと、心を揺さぶられる鋭く熱い言葉でひとびとと彼女自身をも鼓舞する大椿さんと、こぼれ落ちる笑顔で人の心を懐深く受け止めるしなやかで庶民的な大椿さん…。わたしはそのふり幅の広い大椿さんの両端を2度の出会いで垣間見て、それ以来気になる存在になりました。
 ロストゼネレーションで就職氷河期に大学を卒業した大椿さんは、観光地での写真屋のアルバイト、パン屋、ブティック、喫茶店、駐車場の誘導、倉庫での検品にレタスの出荷作業、保育士、ホームヘルパー、大学事務、セクハラとパワハラを受けて辞めた雑貨店、朝・昼・晩と、バイトを3つ掛け持ちする日もあったという彼女は、2006年、ある大学の障害者の学生をサポートする非正規雇用の仕事につき、継続雇用を求めましたが受け入れられず、大阪教育合同労組の門をたたきました。
 彼女の話を聞いてくれたひとが言いました。「大椿さんの時には勝てないかもしれない。でも次の人の時には勝てるかもしれない。それが労働運動だから」と…。
 この言葉に激しく胸を打たれた彼女は労働組合に入り闘うことを決意したといいます。実際彼女自身の労働争議は実を結びませんでしたが、それを機に組合の専従職員を経て委員長になりました。
 わたしはその頃のことはまったく知らないのですが、数々の理不尽な仕打ちを企業から男から社会から国から受けてきた当事者の痛みが心に突き刺さったままの彼女だからこそ、たったひとつぶの涙も見逃さず、問題を解決していった姿が目に浮かびます。
そして今、政治の場で当事者の肉声を届け、誰も取り残されない国づくりをすすめようとひたむきに前を向く大椿さんの存在が、これから後につづくひとたちにどれだけの勇気を届けることでしょう。
 春に話題になったNHKドラマ「半径五メートル」で、氷河期世代のインフルエンサー野良犬こと須川恵美子は、「非正規だからと、会社の備品も使わせて貰えない。社員がやりたがらない仕事は全部回されて、8年間で昇給はたったの50円!その上、契約期間を更新されず、社員証を返却しろって言われた。こんな不当な対応をこのまま受け入れるべきではない、戦う」と言いました。そして主人公の記者が「須川さんが今、一番望んでいることは何か教えて頂けますか?」と聞くと、「謝ってほしい。」「それは、会社に対してということですか?」「違う。全日本国民に謝ってほしい。」と言い放ちました。この言葉は、自己責任と押さえつけられてきた非正規雇用の女性たちの怒りが一企業にとどまらず、社会全体に向けられていることを教えてくれます。
 大椿ゆうこさんはこの言葉の先の、新自由主義のもとで広がる格差と妬みと監視と差別の終着駅からこぼれ落ちる命を救済するために立ち上がる、わたしたちの希望そのものなのです。そして、その希望が現実のものにするために、わたしたちはあきらめないでこの厳しい荒野を共に走り抜けなければならないのだと思います。
 
世の中はいつも 変わっているから 
頑固者だけが 悲しい思いをする
変わらないものを 何かにたとえて 
その度崩れちゃ そいつのせいにする
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため (中島みゆき「世情」)

安藤裕子 世情(中島みゆきカバー)




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2021.07.25 Sun 2つの「もうひとつの国家」 東京オリンピック

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 梅雨明けとともに猛暑が続く中、隣の空き地に笹が生い茂り、さすがにこれはまずいと草刈りをしています。わたしは情けないことに草刈り機の操作ができず、手鎌で少しずつ刈り取っているのですが、なにぶんこの暑さでは体がもたず、朝の間に30分程度の作業にしています。それでも雨合羽の上下を着ていますので中のシャツもズボンもびしょぬれになり、汗が引くまでしばらくじっとしていて、それからシャワーを浴びています。それからまた大椿ゆうこさんのチラシやなんばきみこ通信をまくと毎日2回シャワーかお風呂という、風呂ギライの私が妙に清潔になり、さすがに4キロほど一気に減量にも成功しました。

 そんな能勢での隠居生活をしている間に、とうとうオリンピックが始まりました。コロナ禍の中、かなりの人たちがオリンピックの中止・延期を望んでいたと思うのですが、政府も大会組織委員会も東京都も、またスポーツ団体もまるで何かにとりつかれたように「アスリートファースト」という名目でIOCの言うままに何が何でも開催するという暴挙に出ました。
 オリンピックの中止や延期を主張しているのは一部の人たちという情報操作の元で、マスコミ報道もオリンピックにシフトしていますが、予想されていた最悪に近いコロナ新感染者数が急増という状況の中、開会式や閉会式などエンターテインメント部門の担当者の辞任や解任がつづき、選手の関係者の方々以外は盛り上がりに欠けるというのが実情でしょう。とくに、コロナで大切なひとをなくされた方や、今闘病中の方々、日々患者さんと向き合う医療関係者の方々の心情がどれほどのものか、思いが届かないのが正直な気持ちです。
 どう考えてみても、パンデミック下でオリンピックを開催することは歴史上ありえないことで、ひとの命よりもオリンピックを優先したということなのでしょう。
 もともと昨年、オリンピックの中止・延期が叫ばれ、一年延期を決定した時、専門家でなくても一年では収まるとは思えないところ、レガシーを望む前安倍政権の強い意向で一年延期になったともいわれています。「一年たったら何とかなる」といういい加減な神頼みのような分析で、専門家の提言を無視し、後手後手の対策に明け暮れ、オリンピックの中止もしくは延期は絶対にしないという強い「決意」だけでコロナ対策に使うべき多額のお金と尽力をオリンピックにつぎ込んだことは、後々まで大きな禍根を残すことでしょう。
 それを予測するようにコロナの勢いは止まらず、今度の波はいままでとはあきらかにちがう大きなもので、東京の非常事態宣言、大阪などのまん延防止等重点措置の再延長もありうる状態です。ここ2年、手洗いとマスクの着用、不要不急の外出自粛、会食禁止や三密防止などの行動規制を伴う非常事態宣言、まん延防止の繰り返しに疲れと慣れが重なり、人流(変な言葉ですね)の歯止めが利かなくなっています。また十分な補償なき締め付けをつづける国と行政に振り回され、困難な状況にある居酒屋や飲食店、ライブハウスなどのエンターテインメントに携わる人たちにとっては、オリンピックだけが許される矛盾に絶望と怒りを抑え込めないところに来ています。
 なにがなんでもオリンピックを強行するこの国の権力にとってもまた、ワクチンを頼りにしたこのタイミングでコロナが爆発的にまん延する事態までは予測していなかったと思われ、これまで以上に安心安全なオリンピックを強調するものの、オリンピック関係者の感染も増えていて、正直なところ速く終わってほしいと思っているのではないでしょうか。
 オリンピックを強行する一方、強力な自粛を求める強権政治は一見支離滅裂なメッセージを送っているようにみえるのですが、ほんとうはわたしたちは今、この国の中に仮想植民地と呼べるような「もうひとつの国」の建設に立ち合わされているのかもしれません。
 わたしは若い頃より、誰もが自分らしく自由で、助け合って暮らせる「もうひとつの国」を夢見てきました。この年齢になるまで、理不尽で悲しい出来事がいっぱいありました。そのたびにそのひとつひとつと向き合い、きちんと自分の意見を伝え、共に行動を起こす努力もせず、心の中で「もう一つの国」を夢見ることで自分に言い訳をしてきたのでした。
 70年安保もそれ以後の連合赤軍事件さえも、「もうひとつの国」でしか審判を下すことはできないと思うことで、サイレントマジョリティーといわれるわたしは逃げていたのだと思います。「もうひとつの国」という幻想はいつのまにか、わたしが暴力的な現実から身を隠す核シェルターになってしまっていたのでした。
 そして、SEKAI NO OWARI、あいみょん、米津玄師、King Gnu、YOASOBI、など、次々と生まれる音楽と出会うと、少なからず1960年代以来の若者文化が花開く今、若者たちもまたこの国にいくつものシェルターを築き、彼女彼らがつくりだす音楽に隠し持つ、この国の言葉では理解できないシグナル・合図を遠く離れた世界の果てにまで送り合っている気配がします。
 阪神淡路大震災、アメリカ同時多発テロ、そして東日本大震災などなど、おびただしいいのちが奪われ、取り返しのできない傷を負ってしまったことで、日本も世界も変わるのではないか、変わらなければならないのではないか、わたしもまたそのために何か行動を起こさなければと思いました。
 しかしながら、東日本大震災の時、「これを機会に社会がより良い方向に変わるというのはあなたたちの幻想だ」とある評論家が言った通り、日本も世界もますます悪い方向に突き進んできたと思います。
 戦後民主主義の幻想の下で戦前のような国家の再建を粘り強く進めるひとたちは、10年前を境に一気に地上にその蓄えた力を爆発させ、「決められない政治」から「決断する政治」へ、強権政治を頼れる政治と喧伝し、わたしたちもまたサイレントマジョリティーの声なき声を強い力の行く先に同調することで、今の社会をつくってきてしまったのだと思うのです。それは同時にこの10年のより際立った格差社会がつくりあげてきた仮想植民地・「もうひとつの国」がその姿を現しつつあるともいえます。
 パンデミック下のオリンピックの強行は、その強い国家の最初の仕事なのだと思います。過去の歴史を見ても、自粛が迫られているエンターテインメントが独裁国家の大切な道具であったことは間違いがなく、1964年のオリンピックがその役割をテレビにもとめたように、今回のオリンピックはSNSにその役割を求め、新しい恐怖国家の住民になるように誘導されているように思うのです。
 わたしがそう思うように、若者の中にもシェルターに入り身を隠すだけではこの恐怖国家に通じる道をさけて通れないと気づきはじめたひとたちがいるかもしれません。
 だからこそ、わたしたちはその「もうひとつの国家」からはじき出される雑民、貧民、窮民として、わたしたちの夢見る「もう一つの国家」、「救済国家」を実現するための窮民政治を求めて、政治を変えるぎりぎりのチャンスかもしれないせまりくる衆議院選挙にかかわりたいと思います。

Hey ho stormy sears
誰かからのSOS
ずっと耳をふさいできたこの僕に whoa-oh-oh-oh
Hey ho stormy sears
誰かからのscream of silence
この嵐の中 船を出す勇気なんて 僕にあるのかい
SEKAI NO OWARI 「Hey Ho」(2016年)


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2021.07.06 Tue これ以上、ガマンする必要はない! 大椿ゆうこさん決起集会

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7月4日、茨木市のクリエイトセンター(茨木市市民総合センター)で開かれた「大椿ゆうこ総合選対本部立ち上げ決起集会」に参加しました。
「生存のための政権交代」と銘打ったこの集まりは、衆議院選挙大阪9区で立候補を予定している社民党の大椿ゆうこさんの強い決意を共にする人たち150人の参加を得て、「生存のため」と言わなければならないところにまで追い詰められた政治、社会を変えるために、今すぐ行動を起こそうと約束した、すばらしい集まりになりました。
凛と立つ彼女の後ろには、新自由主義がもたらした格差社会によって生存権すら脅かされる人びと、「明日への希望よりも今日のパン」を求めて劣悪な環境で働かざるを得ないたくさんの人びと、企業への就労を拒まれ、福祉という名の牢獄に閉じ込められた障害をもつひとびと、外国人技能実習という名目で劣悪な労働を強いられ、使い捨てにされるひとびと、女性というだけで賃金格差と非正規雇用を受け入れ、コロナ禍で雇止めになり暮らしが成り立たなくなってしまったひとびと、未来が暗闇でしかなくなり、いのちを捨てる決心をしてしまったこどもたち、助けを求めることもなく「自己責任」という言葉にしばられたわたしたちの叫びと悲鳴がぎっしりつまっています。
不祥事の謝罪の練習ばかりしている政治家が権力を振りかざす政治が政治であるはずがありません。
脅かされるいのちと暮らしを救済する、本来政治が果たすべき役割を掲げ、実行する大椿ゆうこさんは、わたしたちの最後のよりどころになることでしょう。
「変わるのは私たち、変えるのも私たち。これ以上、ガマンする必要はない」と、大椿ゆうこさんの強い決意に心を動かすわたしたちもまた、この思いを、この願いを、この勇気を一人でも多くのひとたちとを分かち合いたいと思うのです。
梅雨の一瞬の晴れ間に心柔らかく彼方へ飛ばした、特別な出発の一日になりました。

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