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2020.01.09 Thu 武器ではなく鍬を持って平和を実現しよう! 中村哲さんが教えてくれたこと

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 米軍が1月3日、イラン革命防衛隊のスレイマニ司令官を殺害し、イランが報復としてイラク駐留の米軍の軍事拠点にミサイル攻撃し、一触即発の緊迫した状況になっています。イラクの駐留米軍が対象となったことは、イランが警告しているように日本の米軍基地もその対象になりうるわけで、中東への自衛隊派遣などもっての他と思うのはわたしだけではないでしょう。
 世界の権力者たちは自分の身は安全な場所に置き、チェスのゲームのように武力行使のボタンを押し、数多くの人々の命を奪っても何の痛みも感じることはないのでしょうか。

 昨年の12月4日、中村哲さんが銃撃され、亡くなられたニュースに驚きと悲しみに打ちひしがれた方々がたくさんおられると思います。私もそのひとりです。
 1984年、医師としてパキスタンのペシャワールに赴任し、以後アフガニスタンで医療支援活動をしていた中村哲さんは、病気の背景には干ばつによる食料不足と栄養失調があると考え、2003年より用水路の建設を始めます。ガンベリ砂漠を潤す総延長25・5キロに及ぶマルワリード用水路を整備、砂漠は1万6500ヘクタールの緑の大地に生まれ変わり、稲穂、麦が育ち、65万人が帰農しました。
 中村哲さんとぺシャワール会の活動を知ったのは、2001年のアメリカ同時多発テロと、その後のアメリカと有志連合国軍のアフガニスタンへの報復攻撃が始まった頃でした。
 2001年9月11日の夜、豊能障害者労働センターに在職していたわたしは、箕面の酒場にいました。テレビ画面にビルの側面からあふれる煙が見えました。大変な事故が起こったと思いました。しばらくしてそれがテロであることを知りました。アメリカはそれを「戦争」と呼び、「正義の戦争」を掲げて報復攻撃を同盟国に呼びかけました。
 わたしはそれまで、アフガニスタンのことを何一つ知りませんでした。内戦に追い打ちをかける干ばつで農地は荒廃し、危機的な食糧不足と栄養失調で明日の命もあやぶられるアフガニスタンのこどもたちと、箕面の酒場で酒を呑みながらテレビ画面を見ているわたしとの間には、とてもない距離が横たわっていました。

 わたしたちはこの日本で箕面の町で、「しあわせになる」ために活動をつづけてきました。障害者がほんとうに一人の市民として暮らしていくことは難しいけれど、昔にくらべればほんの少し「豊か」になっているのだと思います。わたしたちのほんの少しの「豊かさ」はわたしたちががんばってきたからかも知れない。
 けれども、その一方でわたしたちのほんの少しの「豊かさ」が、アフガニスタンのこどもたちの飢えをつくったのではないと言い切れるのでしょうか。あのこどもたちのかなしみと恨みにあふれたひとみが、わたしたちに向けられていないと言えるのでしょうか…。
 わたしたちはそれまでただひたすら一日一日を暮らしていくことに悪戦苦闘していて、世界各地の紛争で無数の人々が生活の基盤を奪われ、傷つけられ、命までも奪われる過酷な現実を自分のこととして受け止めることができませんでした。
 しかしながらあの夜、音のないテレビから今まで決して見ることのなかったもうひとつの世界があふれ、「助けて!」と叫ぶこどもたちの悲鳴が確かに聞こえたのでした。
 わたしたちは「つながりたい」と思いました。つながれないかなしさと、それでもつながりたいと願うこころを、とどかぬこころをとどけたい…。どの大地の上でもどの空の下にいても、すべてのこどもたちがわくわくするはずの明日を恐れないですむように、わたしたちはささやかな行動を起こしたいと切実に思いました。それはそのまま、箕面の町でだれもが自分らしく生きていくことを夢みるわたしたちの活動そのものだから…。
 わたしたちは、毎年開いてきた大バザーに平和の願いを込めました。北大阪の小さな町でどんなに声高に平和を叫んでも、時の権力者に届かないかも知れない。しかしながら、ひとりひとりの小さな願いが詰まったいとおしい物たちが集う市場・バザーは平和でなければ開けないけれど、さまざまな民族、文化が出会い、行き来することが平和への道の一歩であることもまた確かなことだと、中東の地域の人々が教えてくれたことでした。
 そして、国際貢献の名のもと武器で押さえつける「平和」ではなく、鍬を持ち、荒れた大地を耕し、用水路をつくり、農業を復活させて生活を取り戻そうとする中村哲さんとペシャワール会の活動こそが平和をつくることなのだと知り、貧者の一灯でしかないけれどバザーの売り上げの一部をペシャワール会に送金しました。
 たくさんの大切なことを教えてくださった中村哲さん、「戦争している暇はない」、「われわれは武器ではなく、鍬で平和を実現しよう」…、その活動から生まれた言葉は、世界中の平和を願うすべてのひとへの熱く強烈な遺言として、いつまでもわたしたちの心を勇気づけてくれることでしょう。中村哲さん、ほんとうにありがとうございました。

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2020.01.04 Sat 中村哲さんの遺言とほほえむファシズム

新しい年が始まりました。
あけましておめでとうございます。
昨年の12月4日、中村哲さんが銃撃され、亡くなられたニュースに驚きと悲しみに打ちひしがれた方々がたくさんおられると思います。私もそのひとりです。
1984年、医師としてパキスタンのペシャワールに赴任し、以後アフガニスタンで医療支援活動を続けていた中村哲さんは、病気の背景には食料不足と栄養失調があると考え、「100の診療所より、1本の用水路を」と、2003年よりアフガン東部で用水路の建設を始めます。ガンベリ砂漠を潤す総延長25・5キロに及ぶマルワリード用水路を整備。砂漠は1万6500ヘクタールの緑の大地に生まれ変わり、稲穂、麦が育ち、65万人が帰農しました。住民のよりどころであるイスラム寺院や学校も建設されました。
「戦争している暇はない」、「われわれは武器ではなく、鍬で平和を実現しよう」…、中村哲さんの活動から生まれた言葉は、世界中の平和を願うすべてのひとへの熱く強烈な遺言として、いつまでもわたしたちの心を励ましてくれることでしょう。
それにしてもバラエティー化してしまったテレビのニュース番組は、中村哲さんの死もM1グランプリも沢尻エリカさんの覚せい剤事件も「桜を見る会」もカジノ贈収賄事件もオリンピックも、日替わりメニューのようなご隠居談義とともに現れては消えていくだけの二時間ドラマの再放送のようです。
そして、知らず知らずのうちに同じように笑い、怒り、悲しみ、嘆き、「テレビの中の現実」、「スマホの中の実話」というフィクションに翻弄されて一年が始まり終わる「笑えない喜劇」が延々と続いていると感じるのはわたしだけでしょうか。
ほほえむファシズムは、すでにファッションとしてわたしたちの日常をコントロールしていて、思わずぞくっと寒気を感じます。
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2019.12.06 Fri 中村哲さんの箕面の講演会と「ピースマーケット・のせ」 中村哲さん追悼2

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アフガニスタンのこどもたち。
ぼくたちはあなたたちのことを知らない。
ぼくたちは思う。
あなたたちは、
いまどんな夢をみていのだろう。
ひときれのパンと、
つりあうだけの夢を見るために、
どれだけの暗い夜を、
くぐりぬけてきたのだろう。

ぼくたちは思う。
あなたたちの、
かなしみとえらみにあふれたひとみが、
ぼくたちにも向けられているのだと。

それでもぼくたちは思う。
いつの時代にも、
世界中のいたるところに、
あなたたちとつながりたいと、
必死に思うひとびとがいる。
あなたたちの村や町につながる、
せつない空をみつめている。
そしてぼくたちもそうであることを。

ぼくたちは思う。
爆弾といっしょに救援物資を落とす、
アメリカ軍のように、
助けるなんていえない。
ただ、生きていてほしい。

ぼくたちは思う。
あなたたちとつながれないかなしさと、
それでもつながりたいと願うこころを、
とどかぬこころを、
とどけたい。
(2001年11月 豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.140号)

 時はめぐり、2011年からの東日本大震災など自然災害の被災障害者支援「ゆめ風基金」のアルバイトを終えた2015年8月22日、大阪府箕面市のメイプルホールで「中村哲さん講演会 in 箕面」が開かれました。
 その年の春、中村哲さんの講演会に協力してもらえないかと箕面の友人から電話があり、わたしも実行委員会に参加しました。  
 実行委員の人たちの中に、わたしが箕面で働いていたころの旧知の人々が少なからずいて、なつかしさとともに箕面を離れてずいぶん時間がたちましたが、箕面の市民活動の広がりと豊かさを実感しました。
 講演会は準備期間が短かったにもかかわらず盛況で、500席ある箕面メイプルホールが満席になりました。
地元の人が何を求めているのか、そのためにできることを、現地に根を下ろして理解し、現地の人といっしょに活動してきた中村哲さんの言葉は深く、先入観や常識とされてきたことがいかに机上の空論かと思い知らされました。
 井戸掘りから始まり、渇水と洪水を繰り返す大地に川からの用水路を建設し、用水路を完成させました。その工法はハイテクではなく超ローテクで、先進的な機械による工法ではなくアフガニスタンのひとたちが得意とする石積みや、日本の伝統的な工法で堰をつくったりと、アフガニスタンの現地の人々で維持、補修できるものでした。それはまた、一日600人もの人々を雇用することになり、戦争の傭兵になることでしか生活が成り立たなかったひとびとの生活を支えることにもなりました。また用水路の建設が進むにつれて、建設に携わっていないひとびとも本来の農民となって帰ってきました。

 「アフガニスタンで事業をおこなうことによって、少なくとも私は日本、そして世界中を席巻している迷信から自由でいられるのです。一つには、お金さえあれば、幸せになれる、経済さえ豊かであれば幸せになれる、というものです。 
 もう一つは、武力があれば、軍事力があれば自分の身を守れるという迷信です。武力が安全をもたらすものかどうか、丸腰でおこなう用水路建設での私たちの経験が教えてくれます。このような実体験によって、私たちは幸いにも、この強力な迷信から自由です」

 わたしの子ども時代から70歳を超える今まで、政治家に限らず大人たちが「武力を持たないで平和を守るなんて空想だ」といわれつづけてきたけれど、紛争の地で活動する中村哲さんの「武力でつくれる平和なんかない、わたしは武力を持たないと宣言する日本国憲法のおかげで安全でいられる」という言葉に勇気づけられたものでした。
 そんな中村さんの死から、「やはり武力を持たないとだめ」という声が聞こえてくるようですが、わたしはむしろ長い年月ほんとうに危険な地域で武器を持たず、アフガニスタンの農地を再生する活動をつづけてきたからこそ、地域の人たちの深い理解と信頼を得て、今日まで無事に来られたのだと思います。
 しかしながら、その活動すら抹殺してしまう理不尽な暴力がアフガニスタンや周辺地域に広がっていることを、またその暴力を誇示し、ひとびとを支配し権力を誇示する力が世界をおびやかそうとしていることもまた、かなしみと憤りと恐怖とともに知らされました。
 講演会の後、中村哲さんを囲んで実行委員会の写真を写しました。
 今あらためてその写真を見ると、実行委員会のメンバーだったひとたちのそれぞれの想いが集まって、珠玉の時間を共にしたのだとつくづく思いました。
 講演後に記録を冊子にしようという話があり、わたしとSさんとNさんの3人で編集することになり、わたしは冊子の作成もさせていただきました。それが縁でSさんには能勢での活動を助けてもらっています。
 Sさんの他にもこの講演会で再会した箕面のひとたちとクラシックコンサートを開いたり、能勢のイベントに参加してくれたりと、ある意味豊能障害者労働センター在職時よりも親しくなったと感じています。わたしは豊能障害者労働センター在職時はかなり偏向していて、最近になってようやく箕面の友人たちそれぞれの想いを理解できるようになったのだと思います。
 ともあれ、中村哲さんへのリスペクトと再会した箕面の友人に教えてもらったことが心にずっと残っていて、翌年2016年から始まった「ピースマーケット・のせ」の活動に参加するきっかけになりました。
 「ピースマーケット・のせ」は実行委員がそれぞれのこだわりや想いを持ちながら続けているのですが、わたしの心の中では来年の「ピースマーケット・のせ」を、中村哲さんの追悼とすることを決めました。

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2019.12.05 Thu 「武器や戦車では解決しない。農業復活こそがアフガン復興の礎だ」 中村哲さん追悼1

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 中村哲さんが銃弾に倒れ、亡くなられました。
 彼に銃を向けたひととその周辺の人たちに声を限りに言いたい。
 あなた方はもっとも向けてはならない人に銃をむけたのだと…。

 中村哲さんとぺシャワール会の活動を知ったのはそんなに前からではなく、2001年のアメリカでの同時多発テロと、その後のアメリカをはじめとする有志連合国軍のアフガニスタンへの爆弾投下などの攻撃が始まった頃でした。
 わたしはその頃箕面の豊能障害者労働センターに在職していて、ただひたすら一日一日を暮らしていくことに悪戦苦闘していて、世界各地の紛争で無数の人々が生活の基盤を奪われ、傷つけられ、命までも奪われる過酷な現実をほんとうに自分のこととして受け止める余裕がありませんでした。
 わたしはテロについては断固許せないとする一方、アメリカの「正義」をふりかざした空爆などの軍事攻撃によって、アフガニスタンの人々の命が奪われることにもまた断じて許せないと思いました。そしてなによりもわたし自身、このことがあるまでアフガニスタンの大かんばつや難民のことを知らなかった、知ろうとしてこなかったことにも申し訳なく、自分に対して腹立たしく思ったのでした。
 その時、中村哲さんの活動を知りました。中村哲さんは1984年から現地に入り、最初は医療活動を展開してきたものの、「病気を治す前に命を救わなければ」と、かつては豊かな作物でほぼ100%の食糧自給率だった瓦礫を農地へとよみがえらせる活動をはじめました。
 井戸掘りから始まり、渇水と洪水を繰り返す大地に川からの用水路を建設し、その建設に毎日600人々を雇用し、用水路を完成させました。建設に携わった人々だけでなく、戦争の傭兵になることでしか生活が成り立たなかったひとびとが本来の農民となって帰ってきました。
 やがて植えつけた野菜が収穫され、自給自足はもちろん、市場への出荷も始まったと聞きます。
 わたしたちは中村さんの地道な活動こそが、集団的自衛権や国際貢献の名のもとでの自衛隊の派遣による軍事力で押さえつける平和より、はるかに有効な平和活動だと思いました。
 そして、貧者の一灯でしかないわずかな支援金をペシャワール会に送金した他、機関紙「積木」紙上でペシャワール会の活動とわたしたちの思いを綴り、募金のよびかけをしました。
 下記の文章は、その時の豊能障害者労働センターの機関紙に寄せた記事です。


2001年11月 豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.140号より

アフガニスタンのこどもたち ぼくはあなたたちの顔を知らない
                                             細谷常彦

 9月11日の夜、ぼくはいつものように市民酒場「えんだいや」にいた。音のないテレビのブラウン管に、細長いビルの側面からあふれる煙が見えた。大変な事故が起こったと思った。それから1時間ぐらいして、それがテロであることを知った。
 ぼくはアフガニスタンのことをほとんど知らない。阪神淡路大震災の時にテレビにうつった風景と、被災地の立った時の風景がまったくちがったように、テレビにうつるアフガニスタンのひとびとのくらしを垣間見ただけでは、ほんとうのすがたはわかるはずがないのだ。アフガニスタンのこどもたちのひとみと、それを酒場で見ているぼくのひとみとの間には、とてもない距離が横たわっている。
 ぼくたちはこの日本で、この箕面の街で「しあわせになる」ために活動をつづけてきた。障害者がほんとうに一人の市民として暮らしていくことは難しい。しかしながら、19年前にくらべればたしかにほんの少し「豊か」になっているのだと思う。
 ぼくたちのほんの少しの「豊かさ」はぼくたちが「がんばってきたからかも知れない。けれども、その一方で日本の経済システムの中にいるぼくたちのほんの少しの「豊かさ」が、アフガニスタンのこどもたちの飢えをつくったのではないと言い切れるのだろうか。あのこどもたちのかなしみと恨みにあふれたひとみが、ぼくたちには向けられていないと言えるのだろうか。それが、ぼくの感じたとてつもない距離だった。
 それを承知で、ぼくたちはアフガニスタン難民支援金を送ることを決めた。ぼくたちはついこの間運営に行き詰まり、「積木」読者の方々に応援金をお願いしたばかりだ。いまも決して楽ではない。読者の方々から「そんなに余裕があるの?」と、お叱りを受けることを承知している。けれども、お許しいただきたい。どの大地の上でもどの空の下にいても、すべてのこどもたちがわくわくするはずの明日を恐れないですむように、ぼくたちはささやかな行動を起こしたいと切実に思った。
 それはそのまま、日本の村や町で、この箕面の地でだれもが自分らしく生きていくことを夢みるぼくたちの活動そのものだから…。そして、アフガニスタンのこどもたちへ、ただ、生きていてほしい。その思いをお金にかえることしかできないくやしさをかみしめ…。

 阪神大震災の時、わたしたちの救援活動は「助ける」ことではなく、被災障害者自身が町を復興、再生していくことにつながろうとした活動でした。
あの時、全国の「積木」読者の方々がわたしたちの行動を支援してくださいました。神戸の読者の方の家で、壊れかけている家に救援バザーの用品を取りにうかがったこともありました。
 遠い空の下で、いのちが危険にさらされているアフガニスタンのこどもたちとわたしたちが簡単につながれるとは思いません。わたしたちはわたしたちの地をはなれることはできません。でもわたしたちは祈っています。ただ、生きていてほしい。
 その思いをお金にかえることしかできない悔しさと一緒に、アフガニスタンで活動されているNGO「ペシャワール会」に支援金を送りました。


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2019.11.11 Mon わたしの憲法月間・誰がために憲法はある

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 10月17日は箕面文化センターで「檻の中のライオン」、24日は豊能町西公民館で服部良一さんの講演「もし憲法が変わったら・日本の未来を考える」、11月3日は扇町公園で「おおさか総がかり集会・輝け憲法!いかそう9条!」、そして、11月4日は箕面市民会館で映画「誰がために憲法はある」(みのおピースフェスタ2019上映会)と、憲法についてのイベントが続きました。それぞれの催し物の主催者が友人で、その準備に長い時間を費やし、呼びかけてこられた熱意に思いをはせれば、出不精のわたしでも参加しないわけにはいかないと思いました。

 「檻の中のライオン」についてはフェイスブックに掲載しましたように、「檻の中のライオン」の著者・楾(はんどう)大樹さんがイラストを交え、権力を憲法で縛る立憲主義を「権力」=ライオン、「憲法」=檻のたとえ話で解説し、時には落語のような軽快な語り口で話されるので、とても解りやすい講演でした。
 ただ、近々の事態は深刻で、たとえば「あいちトリエンナーレ」の企画展だった「表現の不自由展その後」に対して匿名の抗議や脅迫電話が企画展を中止に追い込んだだけでなく、国が負担すべき助成金の不交付という理不尽な事態まで引き起こすことなりました。この事件は匿名の検閲によって「表現の自由」が侵されただけでなく、その先にある戦前にも似た密告社会がすぐそばにまでやってきたことを証明して見せました。
 ライオンはすでに「檻」から出てしまっただけでなく、小さな権力をのれん分けされた匿名の小さなライオンが、反対にわたしたちを檻の中に閉じ込めようとする改憲派の政治家たちを支えているのだと思います。

 10月24日の豊能町西会館での服部良一さんの講演は、自民党結党以来の「悲願」とする改憲は、ひとえに「押しつけられた憲法」ではない「自主憲法」制定と、「誇れる日本」を取り戻し、歴史を修正・改ざんしようと戦後社会の底辺でうごめき、画策を繰り返してきたものであることを分かりやすく解説・検証してくれました。
  お話を聞いて、自民党新憲法草案はかつての天皇や軍部ではなく、「匿名のみんな」という漠然とした国民国家による支配体制のもと、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」という、日本国憲法の三原則を否定するものであるとあらためて思いました。
 そして、安倍さんの総裁任期の2021年9月、衆議院議員任期の同年10月をにらみ、これからの一年は新憲法制定を実現するためになりふりかまわず突き進む安倍政権と、それを阻止しようとする力が激突する一年になると話されました。
 わたし個人は9条に自衛隊を明記する重大な問題性は理解するものの、「緊急事態条項」がもっとも危険で、わたしたちの日常の隅々までを脅かすものと恐怖を感じます。
 ある意味、共謀罪や秘密保護法案、海外派兵を許してしまう安保法制など、憲法を変えなくてもすでに実力行使が進行する中、最後の仕上げが「緊急事態条項」と9条の形骸化なのでしょう。大災害が相次ぎ、自衛隊への好感度が増す一方、非常事態に国会を通さず、行政府がすべての権力を握り、国権を発動できる戒厳令の復活が現実味をましていると痛感します。
 直近の天皇即位やオリンピックのエンターテインメント化や、安倍首相が吉本新喜劇に出演するなど、あまり批判もなく吉本と政権との親密さがアピールされ、国家事業であることがおかしいかもしれない「さくらを見る会」やジャニーズ・AKBグループなどの芸能関係とメディアの体制翼賛的な同調圧力と排除圧力が蔓延し、とても息苦しく感じるのはわたしだけでしょうか。

 11月3日の扇町公園での「おおさか総がかり集会・輝け憲法!いかそう9条!」は、主催者発表で1万人参加と報じられましたが、その場にいたわたしにはとても1万人の人が参加したとは思えませんでした。外周の道路を右翼の街宣車がまわっていたのでしょうか、「君が代」がむなしく流れていました。
 香港や韓国では直接民主主義を貫こうとするのに対して、わたしたちの国では選挙による間接民主主義でしか事態が動かないのが現状です。しかしながら、世界の至るところで痛みを伴いつつも街頭行動が政権をひっくり返すなど、もっとも有効な民主主義である場合があり、かつてわたしたちの国でもそうであったことも事実で、サイレントマジョリィーがぐらっと動くことも必ずあると信じて、5月と11月の扇町公園の集会には必ず参加しようと思いました。

 そして、11月4日は箕面市民会館で映画「誰がために憲法はある」(みのおピースフェスタ2019上映会)をみました。
この映画は松元ヒロが舞台で演じ続けている1人語り「憲法くん」を女優の渡辺美佐子が演じながら、彼女が中心メンバーとなり、ベテラン女優たちが33年にもわたり続けてきた原爆朗読劇を追いかけ、日本国憲法とは何かを改めて見つめなおすドキュメンタリー映画です。2019年で幕を閉じる原爆朗読劇をふりかえり、鎮魂の思いを込めて全国各地を回り、公演を続けてきた女優たちのそれぞれの思いが語られます。渡辺美佐子は初恋の人が疎開先の広島で原爆により亡くなっていたことを知り、この原爆朗読劇をはじめたといいます。
 また、映画の冒頭とラストに、日本国憲法の大切さを伝えるために日本国憲法を擬人化し、松元ヒロにより20年以上も演じ続けている1人語り「憲法くん」を、渡辺美佐子が、戦争の悲劇が二度とこの国に起こらないよう、魂を込めて演じた様子が映されます。
この映画は監督も出演者もこの映画を見るわたしたちも、迫りくる大きな力に踏みつぶされそうになる危機感に追い立てられ、共に切羽詰まった現実と映画が伴走しているようでした。監督にとって、映画の完成度などはどちらでもよく、むしろその危機感からくる息遣いがスクリーンからあふれ出て、現実が先か映画が先か、竹中労が残した「わたしたちに最後に残る自由は、自由になろうとする自由である」土壇場の現実にまで追い込まれる前に、わたしたちが憲法について、自由について、表現について考えなければならない正念場なのだと教えてくれたように思うのです。
 映画が終わり、監督あいさつがありましたが、あいさつとは思えないミニ講演で、機関銃のようにほとばしる言葉にたじたじとなりながらその言葉を受け止め、結局のところわたしたち自身が危ない現実を変えていくために勇気を持たなければと思いました。
 監督が「若松孝二の弟子だ」と聞いて、わたしはこの監督・井上淳一氏が若松プロの一員で、先日見に行った「止められるか、俺たちを」の脚本を書いた人だと知り、こんなに熱っぽく語るわけも知りました。
 ピンク映画と言われながら、同時代のわたしたちの青春を容赦なく切り刻み、いとおしくすくいあげた若松孝二の数々の映画がよみがえりました。時代に追いこされまいと疾走し、「俺は映画でたたかう」といった若松孝二の言葉が心にしみます。
 映画を見終わった後、「ピースマーケット・のせ」でお世話になっている長野隆さんと森川あやこさんのライブを聴くことができました。
 今回のライブでは、わたしが大好きなボブ・ディランの「時代はかわる」を独自の訳で歌ってくれました。この歌はわたしが高校を卒業してから足繁く通った、大阪の東通り商店街にあった「オウ・ゴウゴウ」という飲み屋兼ライブハウスでいつもかかっていました。
50年も前の曲なのにまったく色あせない歌ですが、長野さんたちの日本語訳でよみがえると、根拠もなく勇気が湧いてきました。

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