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2022.05.05 Thu 大椿ゆう子さんとわたしたちのあつい夏 憲法記念日に

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 憲法記念日の3日は、大阪扇町公園で開かれた憲法集会の後、大椿ゆう子さんのキックオフ集会に参加しました。ロシアのウクライナ侵攻により、日本でも「平和を守り、国を守る武力が必要」と、憲法を変えるのに賛成の人が反対を大きく上回る結果になりました。
 武力を持つことでしか平和は守れないと多くの人々が思い始めたら、世界は核兵器も含めて際限のない軍拡競争へと後戻りしてしまいます。地球よりも重いいのちが何千万も失われた戦争への反省から、二度と理不尽な暴力を行使せず、平和的で助け合う世界の実現を夢みてつくられた日本国憲法は、一国の憲法を越えた人類の宝物なのだと思うのです。
 さらには今回のロシアのウクライナ侵攻は、かつてわたしたちの国家もまた朝鮮半島から中国、東南アジアを侵略し、無数のいのちを奪ったことを忘れないためにこそこの憲法があることをあらためて教えてくれました。
 いま、戦争を体験したひとたちが、自分の家族や恋人、友人を守るためと言い聞かせて、自分の命までも差し出さざるを得なかったかなしみを受け止める政治家がどれだけいるでしょうか。いままたその大きなかなしみをわすれ、同じ轍を踏もうとする力に対置しなければ、数多くのつらい証言を残してこの世を去って行ったひとたちにも、これからの時代を担うひとたちにももうしわけがたたないと思います。
 わたしもふくめて戦争を知らない世代がほとんどになった今、社民党の存続をかけた今度の参議院選挙は、まさに武力に頼らず平和な世界をめざす日本国憲法を守り、先人たちの涙を無駄にしないための選挙でもあります。
正規労働者の雇止めを経験した当事者として労働者の使い捨てを許さない大椿ゆう子さんは、同時に国家のためにひとびとを使い捨てにしない政治を実現しようとする稀有の政治家のひとりだと思います。
 集会は大盛況で、たくさんのひとたちが大椿ゆうこさんに切ない夢と希望を託し、日々活動されていることを実感しました。わたしも、その中の一人になりたいと思います。
 大椿ゆう子さんとわたしたちのあつい夏は、もう始まっています。

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2022.03.29 Tue 身捨つるほどの祖国はありや どれだけの人が死ねば平和になるの?

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マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
(寺山修司)

 ロシアによるウクライナ侵攻という暴挙から1か月、わたしはブログにもフェイスブックにも記事を書くことができませんでした。もちろん、ウクライナ各地で市民の命がうばわれることに憤り、すぐさま抗議の行動をおこした近くの友人たちに気後れしつつシンパシーを感じました。
 同時多発テロで始まった21世紀は、誰もが思い願ったはずの平和と人権の世紀とは程遠く、世界各地でのテロと国家による暴力で塗り替えられ、ついには冷戦時代に逆戻りするかのような侵略という形で、「国家」が自分に都合のいい正義に言い換えて人々の命を蹴散らしていく…、そのひとひとつがかけがえのない愛おしいたましいであることなど、国家を支配する権力にはなんの意味も持たないのでしょう。
 暮らしと街と家々を破壊され、家族や友だちの命を奪われ、今この瞬間にも自分のいのちさえ危ぶまれる状況にいるウクライナの人々が、「祖国」を守るために武器を持ち、戦場と化した街で戦い続けようと思うのは、あたりまえのことなのでしょう。たとえ武器を持って戦うことでさらに多くの命を奪い、自分の命さえも奪われるかもしれないとしても…。
事実、ウクライナ国民の半数が「国を守るために戦う」という報道もあります。
 遠く離れた安全な場所で何を言っても無責任だと無力につつまれる中、それでも誰もがそうであるようにひとりの独裁者の野望から始まったとされるこの戦争をどうすれば止められるのか、これ以上の犠牲者を出さないためにどうすればいいのかと、思いまどい考えこんでしまうのはわたしひとりではないと思うのです。経済制裁で止めることができるのか、というより、ロシアの人々が困窮して独裁政権を倒すことを期待してしまっていいのか、国家としてのウクライナの「正義の戦争」のために武器を提供し、ロシアの撤退を実現することで戦争を止められるのか、ウクライナの大統領が言うように、ウクライナの戦いを支援することが世界の「自由と人権と民主主義」を守ることなのか…。
 この一か月の間、家族のために、祖国のために戦うウクライナの人々に心揺さぶられる一方で、徹底抗戦する勇気を讃える報道に息苦しくなります。報じられているようにロシアの人々にこの戦争の真実が伝わっていないとしたら、わたしたちもまたバイアスのかかった情報を真実と思い込んでいないのかと、自分自身を疑ってしまうのです。ゼレンスキー大統領の異例の国会演説が行われ、国会議員がスタンディングオベーションする光景を見ていて、今までにない同調圧力に恐怖さえおぼえ、屈折した感情はますます深く広がっていく一方です。
 シリア、パレスチナ、ミャンマー、香港、イエメン…、世界各地の内戦や紛争について、わたしたちは今回のようにたくさんの情報を得ようとしてきたのでしょうか、おびただしい命が奪われ続けている現実に向き合ってきたのかと思うと心が寒くなります。
 世界戦争になるかもしれないウクライナの危険な現実を前に、他人ごとではないと日本の防衛力を強化し、憲法を変え、核の共有をも検討すべきだとするひとたちが声高に発言しています。とくに、チルノブイリ原発をロシアが攻撃したことから、原発の防御の脆弱さが指摘されていますが、原発にミサイルが落とされたら大惨事になることはわかっているのですから安全保障上、真っ先にすべきことは原発を即時廃止すべきなのではないでしょうか。それから後でもこの人類の負債をかえしていくために100年単位の時間が必要なのですから。
 そして、起こされてしまった戦争を人道上に立って止める呼びかけをロシアのプーチン大統領にできる日本独自の外交はなかったのでしょうか。安倍晋三氏が首相時代にプーチン大統領と20数回も会談した間柄なら、侵略行為をやめるように進言することはできなかったのでしょうか。それができない彼のロシア外交は何の意味も持たなかったことをきびしく検証すべきだと思います。
 今回のロシアの暴挙は、新自由主義とグローバリズムで一掃されかけたと思える「国家」という暴力装置が冷戦後も確かに存在し、世界はベルリンの壁の崩壊から実は変わっていないことを証明しました。ベルリンの壁の崩壊を「社会主義」の崩壊としてしまった西側の「自由と民主主義」もまた、そこから崩壊の道を歩んできたのではないかと思います。あの時、「西側」の人々は壁の向こうから押し寄せてきた人々を自分たちのシステムにはめこむことで迎え入れてしまったけれど、ほんとうは彼女彼らから学ばなければならないことがあったのではないかと思います。社会主義の夢はすべて悪夢であったとは言い難く、新自由主義の夢もまたいい夢ばかりではなかったのですから。世界中で膨大な死者と飢餓を引き起こし、格差が人々を苦しめてもまだ成長神話が豊かな自然を荒野と化していく…。
 わたしたちはかなわぬまでももう一度1989年に立ち戻り、社会主義の夢を貶めてしまった全体主義・国家主義からも、自己責任という言葉で簡単に人の一生をきりすててしまう新自由主義からも解放された新しい世界のあり方を探さなければならない時代を生きているのだと思います。
 日本政府はウクライナの避難民を受け入れることを決定しましたが、これを機にあらゆる地域の難民の受け入れと外国人労働者への差別的な政策をあらため、彼女彼らから新しい日本社会の在り方を学ぶきっかけになればいいと思います。
ふりかえれば私が生きてきたこの75年の間ですら、世界でも日本でもおびただしい数の命が奪われ、子どもたちの悲鳴がたえることはなかった。ましてや、わたしが生まれる前のずっと昔から、どうしてこうもわたしたち人間は武器を持ち暴力を振るい、他者をきずつけ自分もきずつけることをやめられないのかと、暗澹たる思いになります。
 また、気候危機のただ中で大きな自然災害が起きるたびに、「ひとは助け合わなければ生きていけない」と何度も何度も思い知らされるのに、どうしてこうもそのことを忘れ去り、「助け合うこと」や「ともに生きること」や「平和に生きること」は取るに足らない甘い幻想・理想と片づけてしまい、誰も助けてくれないし、誰も助けられないうすら寒い「厳しい現実」を掲げ、「自己責任」という牢獄に自らを閉じ込め、それに従わない者には命までも危うくなるような見えざる正義という暴力を平気でふるってしまうのでしょうか。
 失われた命と失われた未来、失われた夢と失われた希望がたどり着くはずだった行く先に思いを巡らし、この理不尽な現実を教訓にどんな社会をめざし、つくりだすのかは、今を生きるわたしたちの役割ではないかと思います。

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2022.02.12 Sat 河野秀忠さんの遺言とベルリンの壁をこわして獲得した「自由」の行方と「ヘイ・ジュード」

Česká

 NHKプレミアムカフェ「世紀を刻んだ歌-ヘイ・ジュード・革命のシンボルとなった名曲」を見ました。この番組は2000年に放送され、大きな反響を呼んだ番組のアンコール放送でした。わたしはリアルにこの番組を見たひとりですが、今回改めて見るとその当時の熱気を思い出しながらも、いろいろなことを考えさせられました。
 ソ連の民主化の動きは東欧の社会主義諸国にも波及し、1989年にポーランド、ハンガリー、ルーマニアなどで相次いで共産党政権が崩壊しました。そうした「東欧革命」の頂点が東西冷戦の象徴だったベルリンの壁の崩壊でした。ソ連・東欧の共産主義独裁体制もその年崩壊へと向かい、戦後の世界を東西に二分してきた冷戦体制が終わりました。世界はこれから自由と人権が尊重される民主主義と市場経済によって平和で豊かな時代に入ると、多くの人は思ったことでしょう。
 冷戦が終わり、ソ連と東欧諸国が市場経済に組み込まれることで、世界市場が一気に拡大し、今日に至るグローバリゼーションが始まりました。かつての西側諸国の多くは、当時のレーガン米大統領やサッチャー英首相をはじめ、共産主義諸国の政治体制の崩壊を資本主義の勝利だと言いました。そして、共産主義を国家主義・全体主義と同一視し、共産主義そのものが民主主義と対極にあり、国家によって個人の自由が制限され、時には人々の命さえ奪われてしまう社会と決めつけてきたように思います。
 あれから30年たった今、確かにロシアや中国、北朝鮮という全体主義もしくはそれに近い強権国家が国内の人々のみならず、香港の人々への人権抑圧など武力によるプレザンスを誇示しています。一方で「民主国家」を名乗るわたしたちの社会ではますます共産主義イコール恐怖政治・全体主義というステロタイプな印象操作が極まり、「新冷戦時代」が始まっているのでしょう。
 しかしながら、共産主義かどうかよりも、全体主義国家はそれ以前も以後もさまざまな時代に世界のさまざまなところで誕生し、無数の命を今も奪っています。ほんの少し前のわたしたちの社会もその例外ではありませんでした。(わたしが子どもの頃、明治の最後の年に生まれたわたしの母は、「政治のことは家族同士でもしゃべってはいけない。特高警察に連れていかれる」と、そのトラウマは消えることはありませんでした。)
 そして今、30年前のバラ色に思えた資本主義や民主主義はすっかり色あせ、行き場のない袋小路から抜け出せず、とても危険な橋を渡っていると思うのはわたしだけではないでしょう。我が世の春とばかりに自らを正義とする新自由主義は、豊かな者は自分の能力や権力を誇示し、貧しいものを自己責任と決めつけ、「共産主義より優れている」はずの社会の中で格差と分断が取り返しのつかないところまで来ています。その結果7人に1人の子どもが貧困で、心休まるはずの家庭では虐待が絶えず、小学生までもが自ら命を絶ってしまう理不尽で悲惨な現実と、ヒステリックで刹那的な社会をつくりだしました。
 こんな社会を、30年前のわたしたちは望んでいたのでしょうか。
 30年前、そのことに警鐘を鳴らした河野秀忠さんの言葉を何度も何度も思い出します。ベルリンの壁が市民の手によって壊され、世界が歓喜に包まれたと報じられたその時に、ベルリンの壁をハンマーで壊す市民が手にする自由が、同時に障害者を差別してきた暗い歴史をも内包していると鋭く論じた河野さんが見すえた世界のありようは、昨今の世界と日本の現実そのものだと思います。1989年の天安門事件とベルリンの壁崩壊という、歴史上の大事件の余震が続く1990年1月、河野さんは次のように書いています。

 わたしたちが呼吸している、時代と歴史というナンギなシロモノは、どうしてこうも「赤い血」を要求したがるのだろうか。中国で流された多くのひとたちの血は、それが歴史を選択したひとたちの意志であったとしてもいたましい。
「共産主義VS民主化」という構図で語られている、激動のヨーロッパや、日本以外の諸国の動きが、流された血の重さとは関係なくひとり歩きしているように思われるのは、うがち過ぎのカングリだろうか。共産主義イコール悪、民主化イコール善という、日本人好みの勧善懲悪論で語られる程、コトは簡単ではなかろう。
 では、民主化は正しい方法なのか、当然生活者たるひとびとの生活の中から生まれたチエとしての、方法選択として民主化があり、その方法が批判と反批判のシステムを持ち、自らを変革し続ける限りにおいて、おおむね正しいといわねばならない。しかし、自己を変革する意志を放棄すれば、例えそれが民主化であろうと、ひとびとの頭上に君臨するだけだろう。
 障害者運動は、いつもそこのところを主張してきたといっても過言ではない。
 障害者といわれるひとびとが、単に「資本の能力主義」によってのみ疎外されてきたのなら、コトは簡単で、資本の論理のみが敵として、ひとびとによって打倒されればいいのだから。
 だが、障害者を疎外する差別の論理は、資本のみにあらず、ひとびとのあらゆる生活場面に根づき、リキを持ち、ひとびとの支持を獲得している事実がある。
 愛とやさしさの名において、障害者を「普通の社会」から放逐してきたのは、他ならないひとびとなのだから。歴史の論理として、そういうひとびとは、打倒されなければならないとわたしたちは、考えるのだがいかがなものだろうか。
 その際に流される血は、健全者社会を構成するひとびとの側から出るのではなく、放逐され続けてきた障害者側から流されてしまうことを防ぐのが、わたしたちの「運動」というものだ。
                    (豊能障害者労働センター機関紙「積木」1990年年頭所感(抜粋) 河野秀忠)

 そんなことを思い出しながらこの番組をあらためて見ていると、なぜか涙が止まらなくなりました。30年前、ソ連をはじめとする一国社会主義の牢獄に閉じ込められ、長い苦しみとたたかいの果てに、ベルリンの壁のがれきから立ち上がった人々が夢見た社会は、エリートや特権階級を利するだけで不平等を拡大するばかりの新自由主義に支配される社会ではなかったはずです。あの時、彼女彼ら、そしてわたしたちは共産国家からあふれ出た人々の自由への切望と民主化が「こちら側」で終わるのではなく、実はわたしたちの社会のありようもまた変わらなければならない始まりだったことを学び損なったのでした。
 時代の扉が開き、光が差し込む朝にひと切れのパンとともに獲得した自由は、ひとびとがあたりまえに暮らし、安全で平和で、だれもがこの世界のかけがえのない個性を持ち、民族や性別や性的思考や出自などをアイデンティテイにとどめず、ちがいを力として助け合う、そんな数世紀を渡って途切れそうになりながらつないできた切ない夢を実現するためにこそ、わたしたちに手渡されたものなのだと思います。
 そんな大きなクエスチョンを飲み込んだ上で、それでもこの番組から改めて聴こえてきたビートルズの「ヘイ・ジュード」も、マルタ・クビショヴァの「ヘイ・ジュード」も、わたしの心を激しく突き動かしました。流れる涙には悲しさと希望が入り混じっていました。
 革命のシンボルとなった「ヘイ・ジュード」は、たったひとりのひとのために歌われたラブソングだからこそ、若きマルタの心の奥深くに届いたのだとわたしは思うのです。
 わたしに「歌には力がある」と確信させ、「音楽は必要とする人の心に届く」ことを教えてくれたのは、この番組で流された「ヘイ・ジュード」でした。
 そして、すべての革命歌はラブソングであることも…。

Paul McCartney - Hey Jude(Live)

Hey Jude -- by Marta Kubišová
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2022.01.14 Fri 孤立と分断の社会から助け合い社会へ 『相棒season20』元日スペシャル『二人』

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12歳の少年が心の底にある悲しみや憤りをはき出すように言うのでした。
「貧乏人といると、一緒に恐ろしいはめにあうか、おそろしいことをする羽目になるかどっちかだって。うちには祖母ちゃんしかいないし、塾とかにも行けないし、あと住民税が免除されているし…」
「そんなの君の責任じゃない」
「じゃ、誰の責任なんだよ、世の中みんな自己責任なんだよ。俺たちみたいなのは、どこまで行っても努力がたりないんだよ」
(『相棒season20』元日スペシャル『二人』)

わたしはテレビドラマ「相棒」のファンで、元旦に放送される正月スペシャルも毎年見てきました。優秀なキャリアだが変人で、警視庁の追い出し部屋と揶揄される「特命係」に所属している杉下右京とその相棒が難事件の捜査を展開し、謎を解き明かしていきます。特に正月スペシャルでは警察組織との摩擦や、それらに複雑に絡み合う官僚・政治家の陰謀など、日本の政治的・社会的な問題を対国家権力の視点で「ここまでやるか」というところまで描くこのドラマがつづく限りは、まだもう少し日本も大丈夫かなと思わせます。

 「あなたのいう国益とはいったい誰のための益でしょう。一部の官僚や為政者がこのような親子から奪い取った利益を国益とはいえません。ジャーナリストの核にあるのは、ふつうの人々に対する信頼です。この苦しみを知ればほっておけないはず、この理不尽をしれば怒りを感じるはず、その想いが世の中を変えていく、そう信じるからこそ、彼らは銃弾の飛び交う戦地にも立って報道をつづけているんです。そして、桂木りょうさんもまたこの国の前線に立っていました。ふつうに生きている人々のために、この国の巨大な権力を敵に回して、たたかいました!!」
 この長いセリフは2014年「相棒 元日スペシャル」で杉下右京が犯人の公安幹部に向かっていうセリフです。権力の犯罪をあばく物語がマンネリだというひともいますし、反感を感じる人たちもいるようです。しかしながら、わたしは毎回その時々の社会問題を積極的に取り上げ、それを娯楽大作としてプロデュースするこの番組にいつも共感しています。
この時は前年暮れに成立した特定秘密保護法を背景にしていることはあきらかで、シングルマザーの貧困問題とそれにからんだ国家の犯罪を暴こうとするジャーナリストとそれを封殺、隠ぺいするために殺人まで犯す警察権力との攻防を娯楽作品にまとめ、とてもたいせつなメッセージを届けてくれたことを今も記憶しています。

 今回のドラマは、自分の置かれている状況を「自己責任」だと思わされ、それでも必死に生きる子どもを通して、非正規雇用や低賃金労働によって成り立つ新自由主義経済に痛烈な警告をしました。低賃金で働く人々を「国民」ではなく「もの」としか考えないと政治家に放った杉下右京の言葉は、多くの人々の心に届いたのではないでしょうか。

袴田代議士「警察官ごときに何がわかる。この国の経済を動かすには、低賃金で働く労働者が不可欠なのだ。」
杉下右京「国の経済…、僕にはあなたとあなたのお友だちの経済としか思えませんがね。」
袴田「国力を高め、国を豊かにするために必要なものを確保する。それが為政者の仕事だ」
右京「なるほど、あなたがたにとって低賃金で働く労働者は国民ではなく、ものというわけですか。たしかに彼らはあなた方のように何かあれば病院の特別室に入れるわけではない。しかしそんな人々にも大事な家族や生活がある。どんな人にも守りたいと願う、それぞれの幸せがあるんですよ」
袴田「それこそ自分でどうにかしたらいいんじゃないのか」
右京「そうでしょうか、12歳の少年が何もかも受け入れてあきらめて、この世は自己責任だという。困ったときに助けを求めることすら恥ずかしいことだと思い込まされている。それが豊かな国だといえるでしょうか。公正な社会と言えるでしょうか。
袴田さん、あなたのように自分たちの利益しか考えない愚かな権力者たちがこのようなゆがんだ社会をつくったんですよ。」
(『相棒season20』元日スペシャル『二人』)

 実際、「分配から成長」という「新しい資本主義」を岸田政権が形だけでも掲げざるを得ないほどに経済格差は広がる一方です。安倍政権から菅政権と、新自由主義のもとで非正規雇用が4割に達し、低賃金で「景気」の調整弁のように働くひとを使い捨てにしてきたことで、わたしたちの社会は引き返せないほどの経済格差による「分断」と「孤立」と「自己責任」という言葉に引き裂かれました。そして、他者への想像力を欠いたいじめや憎悪や妬みがうずまき、幼い子どもが輝くはずの未来から滑り落ちて自殺してしまう、悲しい社会になってしまいました。
 世界を見渡せばこの20年の間に賃金が上昇し、雇用も進んでいるのに、日本では実質賃金も一人当たりGDPのランクも下がり続けている現実を見れば、利益を海外に移転する企業の内部留保は増えても、日本の国内は低賃金のまま国内消費にはお金が回りません。
 昨年の衆議院選挙では、まさに岸田政権が新自由主義に修正を加えようとした間隙を縫って、さらなる構造改革によってこそ成長できるとした維新の会が躍進しました。
 しかしながら、「失われた30年」を取り返すためにと新自由主義を掲げ、構造改革を正義としたリストラ、非正規雇用を推し進め、外国人を研修という名目で低賃金と劣悪な労働環境に貶め、公的サービスを削減し、そのつけを民間委託に回した結果、豊かで幸せで安心できる社会になったのでしょうか。2年にわたる新型コロナ感染症の猛威によって大切なひとをなくして生き延びたわたしたちは、こんなに大きな犠牲を払ってもまだ、新自由主義の悪夢から醒めることができないのでしょうか。
 人件費をコストとする経営ではなく、人件費を経営成果とする経営を、わたしは障害のある人もない人も共に経営を担い、給料を共に分け合う豊能障害者労働センターで学びましたが、それだけではなく、競い合う社会より助け合う社会、奪い合う経済より共に分け合う経済こそが、たとえGDPなどの経済指標では成長しなくても、豊かで公正で安心できる社会だと学びました。
 今回の「相棒」は、まさにそのことを強く訴え、今の経済や社会の仕組みに警鐘を鳴らしたドラマでした。
 今回のドラマではプラカードを掲げ、拡声器で「格差をなくせ!」と企業に抗議する場面があり、脚本を書いた太田愛さんが「非正規雇用の人々をヒステリックな人々として描かれるとは思ってもいなかった」と異例の記事をご自身のブログに発表しました。
 そして、「今、苦しい立場で闘っておられる方々を傷つけたのではないかと思うと、とても申し訳なく思います。どのような場においても、社会の中で声を上げていく人々に冷笑や揶揄の目が向けられないようにと願います。」とつづけています。
 わたしはこの脚本家がテレビドラマという枠の中で、一人でも多くの人たちに現実を知ってもらい、共感してもらいたいという強い願いを持って脚本を書かれたのだと思いました。ただ、現実問題として労働者が企業を相手に闘うことは強い決意が必要なこともまた事実で、実際の抗議行動はもっと切実ではげしいものになると想像します。
 それでも、わたしは「相棒」の脚本を書いている太田愛さんが大好きです。彼女が描く「相棒」では、政治家や官僚や国家の不正や犯罪を暴く時、必ずひとりの市民、それもしばしばいたいけな子どもの心の奥のひだにこぼれる一粒の涙を決して無駄にしない物語となり、それを水谷豊演ずる杉下右京に託します。現実にはほとんどそれらが暴かれないまま闇に葬られることを痛いほど知っているからこそ、そこに彼女の強い願いが込められているのだと思います。
 ですから、今回の件で、彼女が「相棒」から降板しないかとても心配しています。
 そして、個人的には和泉聖治が監督に復帰し、太田愛脚本というゴールデンコンビが復活することを切に願っています。

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2021.11.14 Sun 自己責任の政治から助け合える政治に 大椿ゆうこさんのたたかい

 2年前の春、大阪府知事・大阪市長選挙が大阪維新の会の圧勝になった時、わたしは「身を切る改革」と民間委託を進め、公務員たたきや他者へのねたみを味方にした維新の会の政治手法は民主主義を煽情的かつ刹那的なものにしてしまったと書きました。そして、大阪維新の会もその支持者も2025年の万博とカジノで大阪の経済がもっと良くなると信じているとしたら、それは恐怖と言わざるをえないと…。
 安倍政権がデフレ経済にカンフル注射を打ち続けたアベノミクスは、成長どころか経済格差を広げただけでなく、経済的にも精神的にも困難な状況に陥っても決して助けを求めてはいけないという自己責任モラトリアムを日本社会に植え付けてしまいました。
 一方、大阪維新の会は「大阪の成長を止めるな」というキャッチフレーズのもと「身を切る改革」と称して公務員の所得も人数も減らし、公的医療の縮小と保健所の統廃合の結果、新型コロナ感染症による死者が全国一になってしまいました。今回の選挙で「大阪の実績」とされた「改革」はアベノミクスと同じく、広がっていく一方の格差がとうとう命にまで及んでしまったとわたしは思います。
 今回の総選挙において、コロナ禍でより鮮明になった格差の広がりから信頼を取り戻すために、自民党の岸田さんは「新しい資本主義」と「分配」を唱え、新自由主義からのソフトランディングを提案しました。それはこれからの社会ありようへの重要な問題提起であったはずですが、すぐに「分配」は「ばらまき」に取って代わられました。
 その合間を縫ってただ一人「分配よりも成長と改革」と標榜し、公的サービスの削減をしてきた「大阪の実績」をバラ色のように喧伝した日本維新の会は大躍進し、地域政党から全国政党へと踊り出ることに成功しました。そして、いつのまにか岸田さんもまた当初は踏み出そうとしていたのかもしれない忍び足を引っ込め、「新しい資本主義」は新自由主義のさらなる進化を求めるものになりました。維新の会の大躍進と、終わってみれぱ単独過半数以上の議席を守った自民党の善戦は、野党共闘へと導いた命のかかった悲痛な叫びが届かないところで、結局は有権者の多くが新自由主義の継続を望んだことになるのでしょうか。
 非正規雇用が4割にも達し、不安定な労働環境で働かざるを得ないひとたち、コロナ禍で失業し生活のめどが立たなくなったひとたち、7人に1人が貧困状態にあるとされる子どもたち、まわりで困難を抱えているひとたちがいても自己責任と片づけてしまう心寒い社会で、明日は我が身と心を固くする人たちも数多くいるはずです。それでもわたしたち自身が戦後のがれきからさまざまな政治的バイアスを潜り抜け、心の中に巣くう「成長神話」を捨てられないことが維新の会の躍進をおびきよせたのだと思います。
 大阪をほぼ制覇し、公的サービスの民営化を広げてきた維新の会の政治は、一方では比較的政治の助けを必要とせず、自分たちが納めた税金が公務員の給料になり、障害者や老人のための社会保障に使われることに不満を持つ人々、また一方では不安定な生活を強いられる中で、生活保護受給者や福祉助成を必要とする障害者や老人に対して「あの人たちは守られていいよな」と思う、ぎりぎりの生活を強いられている人々からの圧倒的な支持を得ていることもまた事実でしょう。
 教育への過剰な介入や、人権にかかわるような保健医療の縮小・削減、万全ではなかったコロナ対策、インバウンドに救われていた経済成長、全国一の失業者数、公的サービスの民営化による経費節減の陰にサービスの低下と民間企業の労働者へのしわよせなど、決して「大阪の実績」と自らが主張できるような状況ではないにも関わらず、大阪のマスコミ、特にテレビ各局はコロナによる死者が全国一であることにはふれず、東京への妬みもあるのか吉村知事のコロナ対策をほめたたえ続け、今ではどんな不都合なデータや真実があっても吉村さん人気をあおり続けています。それは、維新の会が「それに引き換え自分だけ」と嘆き、他者を妬み他国を妬み、「自分だけよい目にあっている人をやっつけてほしい」と望む人々の心をコントロールする巧みな情報管理と、地域から積み上げていく地道に政治活動、そこからはぐくまれた機動力の結果でもあると思います。
 わたしは今回の選挙で、維新が大阪の小選挙区での圧勝もさることながら、大阪以外の全国に吉村人気が広がり、「妬みの民主主義」がパンドラの箱をひらいてしまったかのように「ミニ大衆翼賛」をひきおこしつつあるのではないかと、とても心配です。
かれこれ半世紀以上もつづく新自由主義は今や維新の会に引き継がれ、自民党の補完勢力どころか自民党の安倍派などと連携し、新自由主義にもとづく「新しい国体」をつくりだし、個人の自由を著しく制限する改憲への最終的な局面をけん引する力になろうとしています。その行き着く先は確実に戦前の政治状況と似ていると思います。
 大椿ゆうこさんはその激流の真っただ中で悪戦苦闘を続けてきました。その激流は、実は維新の会をささえる膨大な人数のひとたちが「次は自分」と待ち続けるせつない願望が押し寄せる激流で、その破滅的な流れに抗い、「妬みあう民主主義」から「助け合う民主主義」へ、「自己責任の社会」から「だれもが安心できる社会」へとつくりかえようと訴えてきました。そうしなければわたしたちの社会は行き詰ることを痛いほど感じているから…。

東京をはじめとする都市集中型の社会ではなく、小規模な町の「顔の見える経済・社会・文化」をゆるやかに築く地方分散型の社会はできないのか。
「年老いることや介護を必要とすること」がいけないことと当事者に思わせる福祉サービスしか用意できないのか。
学校が子供たちを調教する教育の場ではなく、さまざまな個性を持つ子どもたちが学びあう場になることは理想でしかないのか。 

 さまざまな問題をひとつずつ解決するために話し合い、助け合うことは、実はとても勇気のいることだけれど、今生きているわたしたちはもちろんのこと、かつてこの町で生き、恋し、夢見てきた数多くのひとたちが残した記憶も、またこれからこの町で生きていくだろう子どもたちの切なく幼い夢も大地の下にいっぱいつまっていることを信じて、大椿ゆうこさんはこれからも街角に立ち、SNSで訴え、争いの現場に赴き、たった一粒の涙も見逃さず、悲しみを希望に変えるために歩き走り這い続けることでしょう。
 今までの政治にはまったく向かない政治家、しかしながら今の政治、これからの政治にもっとも必要とされる政治家、大椿ゆうこさんはそういう政治家であることをひとりひとりに丁寧に伝えていくことしかわたしにはできませんが、願わくば心の重い扉の向こうで苦しんでいるひとにこそ、大椿ゆうこさんの言葉が届きますように…。

立憲野党・政党インタビュー(第3回)社会民主党・大椿ゆうこ副党首 市民連合

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