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2021.02.05 Fri 希望をグローバル化するためにたたかいをグローバル化しよう。 斎藤幸平「人新世の『資本論』」

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「希望をグローバル化するためにたたかいをグローバル化しよう。」
(国際農民組織「ヴィア・カンペシーナ」のメッセージ しんぶん赤旗2008年7月17日 斎藤幸平「人新世の『資本論』」から引用)

 1966年、高校を卒業後半年働いた建築設計事務所をやめたわたしは、しばらくして大阪本町駅の近くのビルの清掃員に応募し、3年間働いていました。
 最初は7時半から3時半で、普通の仕事より早く終わるのが魅力で、同世代の若者のように政治的な行動に明け暮れるわけでもなく、夕方には心斎橋あたりをうろうろし、どこに行くあてもなく時間をつぶしてはアパートに帰る毎日でした。
 わたしの職業人生のはじまり、いや人生そのもののはじまりはビル清掃員で、わたし以外はおばあちゃんたちで、彼女たちは世間知らずで社会性の全くないわたしを温かく迎え入れてくれました。仕事することのほんとうの意味も人生のうれしさや悲しさも、それぞれの人生経験を通して教えてくれました。1967年、高度経済成長へと突入する日本経済では、ビルのメンテナンスの一つであるビル清掃も大きな成長産業だったようなのです。働きに来ていた数人の人たちは生活のためというよりはいわゆる「嫁姑」問題で「嫁」から逃げて自分の居場所を求めてやってきたひとがほとんどで、そのころで日給数百円程度の収入は生活費の負担など家庭内の人間関係のために使われているようでした。
 夜も働き始めるようになってしばらくたったある日、主任のおばあちゃんから「にいちゃん、わたしらな、事務所で出る段ボールや書類、新聞を売ってそのお金をみんなで分け合ってんねん。もしよかったらあんたも仲間になれへんか、若い人の力が加わると、段ボールをたたんで縛る仕事がらくになるんやけど」といいました。
 もちろん、それはやってはいけないことでしたが、このビルの清掃員数人だけの小さな会社で、その「非合法」なアルバイトでできるお金もおばあちゃんたちの孫への小遣いやおもちゃを買ったりする程度のささやかなものでしたから、社長さんも見逃してくれているようでした。ともあれ彼女たちにとってそのビルの会社にだけは知られないようにとこっそりつづけている、ひそやかな楽しみだったのです。
 わたしはしばらく考え、仲間になることにしました。実際の仕事はできるだけ早く8階建てだったその会社の各階フロアーのごみをすべて回収し、現状有姿で各机をふき、特に輸出入や国内出荷入荷に使用する段ボールの整理回収など、通常の仕事をできるだけ早く済ませ、その後みんなで仕分けが終わった頃に廃品回収のおじさんが引き取りに来てお金を払ってくれるというあんばいでした。
 そのころはまだどこの会社もセキュリティが甘く、わたしたちは社長室をはじめ重役室も秘書室も、また今では考えられない大きさのコンピューターを何台もおいてキーパンチャーが活躍していた電算室にも自由に入り、掃除を請け負っていました。
 各フロアーや重役室には毎日さまざまなジャンルの本や雑誌がたくさん送られてきて、それらの本の中には中国やソ連、北朝鮮関係の雑誌もあり、政治的なことも社会のことも全然知らなかったわたしが金日成の「主体(チュチェ)思想」を知ったのもそれらの雑誌からでした。
 そのころのわたしは社会主義も資本主義も何も知らない若者でしたが、アメリカをはじめとする自由主義経済とソ連や中国をはじめとする社会主義経済が、鉄鋼の生産高や経済成長率などをもとにどちらが発展しているかを競争しているのがとても不思議でした。正義ともう一つの正義が戦争を引き起こしてきたように、その競争はとても危険でむなしいものに思えました。どちらも当時のGNP、今のGDPでわたしたちの幸せや豊かさを測れるという、国家の押しつけがましい権力の匂いがしました。
 そして、わたしたちの小さな犯罪はこの経済競争のどこにあたるのかと、考えていました。

 それから何年たったことでしょう。わたしはその後一般企業で20年近く働いた後、豊能障害者労働センターで活動することになりました。今はともかく、そのころのセンターは戦後すぐの日本や世界のいたるところで飢餓が深刻化する絶対的貧困ではないものの、世の中が高度経済成長からバブルに突入してもなお、分け合う給料がつくれずにいました。それでも一年の終わりには障害のあるひともないひとも「今年もなんとか暮らしてこれたな」と幸運を喜び、応援してくれたひとびとへの「ありがとう」をかみしめながら笑いあっていました。
 そのころの合言葉は「もしも愛がすべてなら、愛しいお金はどないなる」、でした。実際、「お金じゃない、愛だろ」といえる余裕が経済的にも心にもなく、反対にみんなでつくりだしたささやかな十円、百円、千円、万円が涙や笑いや希望や夢がかくれんぼしている、とても愛おしい恋人に思えたのでした。そこにあるのは世界中をたった一秒で駆け巡る何千億というお金では決してなく、また国家社会主義や福祉国家による「富の分配」からこぼれおち、さみだれるお金でもない、世の中の袋小路と思われる通路の先の重い扉の向こうに突然ひろがる真っ青な海と空がまじりあう永遠のように、昔からわたしたちのすぐそばにいながら、遠い未来からやってくる「ともだち」というお金でした。
 そこからまた何十年も過ぎ、世の中も世界もこの星も、もうどうにも分かり合えない、愛し合えない、語り合えない、手をつなげない、さよならさえ言えないほど、わたしたちは引き裂かれ、自分の行方不明を知らせる手立てもないところにまで追い詰められた今があると感じます。
 斎藤幸平氏の「人新世の『資本論』」を読み、わたしの支離滅裂でやぶにらみの資本論はその読後感とともにわたしなりの人生のプラットホームへと導いてくれるようでした。
 それは希望の書であると同時に、今を生きるわたしたちが参加し、何かを始めなければ読み終えることができない禁断の書でもあると思います。

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2020.01.16 Thu 一枚の絵が、秘密の扉を開ける……。村上春樹の小説「騎士団長殺し」は今を生きるわたしたちの救済の書

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 村上春樹の小説「騎士団長殺し」を読みました。2017年2月に発行されたこの小説は彼の14作目の小説で、話題になった「1Q84」から7年ぶりの長編小説です。
 わたしは村上春樹が好きで、ずいぶん昔に娘に「ノルウェイの森」を勧められて以来、ほぼすべてハードカバーを買って読んできましたが、「騎士団長殺し」はハードカバーを買わないまま時が過ぎ、文庫本が発行されてからもしばらく手に取ることができませんでした。昨年の暮れ、ようやく文庫本の4分冊を買い、わたしとしては目晴らしく一気に読み終えることができました。
 村上春樹といえば大ファンとアンチ派と見事に分かれ、わたしの友人の間でもどちらかと言えば嫌いという人が多いのですが、わたしは俗に言われる「ハルキスト」というほどではありませんが、大げさに言えばこの人の小説が国内外の数多くの老若男女に読まれている間は、まだ世界は大丈夫かもしれないと思っているのです。

 主人公の「私」は36歳の画家で肖像画を描いて生計をたてていたが、「私」はある日、妻・ユズに理不尽に離縁を申し渡される。いたたまれなくなり家を出た「私」は車で北海道と東北を放浪したあと、小田原の山中にある孤高の日本画家・雨田具彦の家に仮住まいする。雨田具彦は美大時代からの友人・雨田政彦の父で、その縁から借りられることになったのだ。雨田具彦は認知症が進み療養所に入っており、彼のアトリエは空き家になっていた。
 「私」は、アトリエの屋根裏に隠されていた雨田具彦の未発表の大作を発見する。「騎士団長殺し」と題されたその絵は飛鳥時代の恰好をした男女が描かれ、若い男が古代の剣を年老いた男(騎士団長)の胸に突き立てており、胸から血が勢いよく噴き出し、白い装束を赤く染めている。その様子を若い女性と小柄でずんぐりした召使いの若い男が傍観している。さらに画面の左下に地面についた蓋を押し開け首をのぞかせ、顔中が黒い鬚だらけで髪がもつれた男(顔なが)が、構図を崩すようなかたちで描き込まれている。
  「私」は年老いた男がモーツアルトの「ドン・ジョバンニ」における「騎士団長(コメンダートレ)」、刺殺する若い男が「ドン・ジョバンニ(ドン・ファン)」、若い女は騎士団長の娘「ドンナ・アンナ」、召使いはドン・ジョバンニに仕える「レポレロ」に相当すると推察した。
 「騎士団長殺し」の封印を解いたのと前後して、「私」は深夜に不思議な鈴の音を聞く。音の出所はアトリエ裏の雑木林の小さな祠と石積みの塚で、塚を掘ると地中から石組みの石室が現れ、中には仏具と思われる鈴が納められていた。
日本画と石室・鈴を解放したことで、「私」はさまざまな事象が連鎖する不思議な出来事へと巻き込まれてゆく…。
 そして、この物語が 東日本大震災の数年前という時代設定であることを、わたしたちはこの物語の最後に知ります。
 
 石塚の穴、鈴、妻との突然の別れ、自分探しの旅で出あう女性、車、音楽など村上ワールド全開で、登場する人間も物も奇想天外な物語も嫌いな人にはマンネリと感じられるのでしょうが、熱烈なファンにとってはその既視感から今度はどんな物語が展開され、どこに連れて行ってくれるのかとわくわくするのでした。
 久しぶりに村上春樹を読んで改めて感じるのは、読んでいる間も読み終えた今も、小説で展開される物語がどんなに荒唐無稽に思えても揺らぐことのないリアリティーがあり、今わたしたちが生きている時代と、その中で生きるひとりひとりの人生を数少ない登場人物たちがもう一度生きなおすというか、あの時あの場所で、あたかも横尾忠則がよく描くモチーフ・Y字路で、わたしが選ばなかった道を歩いてきたわたしがその物語の中でもう一度生きなおすようなのです。
 ここでいう現実とは目に見える事実ではなく、たくさんのもうひとりの自分がたくさんのもうひとりの他者と出会い、時には愛し合い、また時には自分が生まれるずっと前の戦争があり虐殺があり、いのちを交換する異界であったりして、わたしたちが望んでも望まなくてもそれらの一切合切の総体としての現実があり、読み終えた後もその物語がわたしの心にへばりついたままなのです。
 村上春樹は当初は時代や社会とコミットしないといいましたが、そのころの刺激的な作品でさえ、極私的個人的な生き方が時代の暗闇と深くつながり、切り離せないことを暗示していました。
 そして、世界の表現者が多かれ少なかれそうであったように、彼もまた1995年の阪神淡路大震災とオーム真理教事件を経て、どんなに拒んでも時代や社会と切り離されて生きることができないことと、あらゆる表現がそこから再構築されることを自ら確認し、証明してきました。実際、あの未曾有の被害をもたらした地震の前まで刻んでいた時計に閉じ込められたままの「時」と、破壊しつくされた家々や町やほこりやがれきや無数の屍から立ち上る大きな悲しみと後悔と語られない記憶とともに刻み始めた「時」、わたしたちは2つの時の間を行き来しながら今にたどり着いています。
 そして、阪神淡路大震災とオーム真理教事件以来、日常と非日常、善と悪、「私」と「他者」、真実と嘘、対置するこちら側の世界があちら側の世界を、かつてのヨーロッパの「阿呆船」のように異質なものをすべて船に乗せて追放することが不可能になった今、私たちは村上春樹が扇動するもう一つの現実がわたしたちの日常に溶け込んでくるのを何度も何度も目撃するだけでなく、わたしたち自身がその物語の当事者になっていくのでした。
 
 ほんとうに久しぶりに小説を読み終えて気づいたのですが、わたしは村上春樹以外の小説をまったくといっていいほど読んでいません。というか、小説以外の本といえば阿久悠や松本隆などの歌謡曲関係や、寺山修司や唐十郎や平岡正明の本と、水野和夫、白井聡と何回もチャレンジして読破できないアントニオ・ネグリとマイケルハートなどで、その中で村上春樹の小説は純粋な小説体験ではなく、時代の記憶と予感を物語に仕組んだ、わたしにとっては思想書に近いものなのだとあらためて思いました。
 大衆的でわかりやすい文体と「ひらがなことば」で神話的で壮大な物語を生み出す彼の小説が芥川賞を受賞せず、また毎年騒がれるノーベル文学賞も受賞しないことは、却って彼の小説が世界中の若者たちに圧倒的な支持を受ける理由になっていると思います。それだけ彼の小説が過去のものではなく今を生きる青春の書でありつづけている証拠なのですから。
 わたしと2歳違いの村上春樹がこれから何冊の小説を世に出すのかわかりませんが、少なくとも同時代のわたしにとって残り少ない人生の道しるべになることだけはまちがいないと思います。

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2013.10.30 Wed 恋する農園番外編・恐怖の稲刈り2

恋する農園

 10月28日の月曜日、一週間ぶりに畑に行きました。というより前回の続きで、Iさんの田んぼの稲刈りの続きです。
 前回、先週の日曜日と月曜日の稲刈りの様子を書きましたが、あれから台風があり雨も降り、作業がとまっていたところ、わたしは参加しなかったのですが日曜日に前回一緒に作業したSさんたちとIさん、そしてIさんの息子さんが作業し、かなり進んだようです。妻が様子を見に行き、「明日少しでもやっとくわ」と約束したそうで、その結果、わたしも行くことになりました。
 ほんとうは借りた畑の仕事をしたいのですが、稲刈りが終わらなければ畑どころではないと思ってしまう自分がトホホのホで、今日は絶好の稲刈り日和と張り切って作業を始めたのでした。
 実は稲刈りする田んぼは2つあり、今日はわたしたちの畑のすぐそばのもち米ばかりの田んぼの稲刈りをすることにしました。前回の田んぼのように迷うことなく、すべての稲を片っ端から刈り取ればよいので、サクサクと気持ちよく稲刈りができました。
 もっとも、雨のせいもあって下がぬかるみで、場所によってはかなり深く長靴がはまってしまって歩きづらいのが難点で、時々足をとられて尻もちをついてしまい、泥だらけになってしまいました。
 なんとか順調に稲刈り作業は進んだものの、妻の母親がデイサービスから帰ってくるまでに家に戻る時間を逆算していくと、このあたりで束ねていかないと干すところまでいかないと判断しました。刈り取った稲を束ねてひもでくくり、それをかける所も用意しながら作業していくと、ぎりぎりの時間になってしまいました。
 ふりかえって田んぼを見てみると6分の1ぐらいしか刈り取れませんでした。もう一つの田んぼも3分の1ぐらいしか済んでいないので、まだまだ先が長いと感じました。

 本来は小さな田んぼでも機械で刈り取る予定だったのですが、田植えの段階でもち米と普通の米が混じってしまったこと、機械を知り合いの農家から借りることになっていたのがうまくいかなかったこと、それに機械が借りれたとしても天候が悪くて田んぼがぬかるみ状態で機械が入りにくいことから、結局は昔ながらの手作業ですることになってしまいました。
 Iさんが働きに出ていることもあって稲刈りの計画を立てることができず、少ないながらも熱心なボランテイアの人たちがかかわっているにもかかわらず応援を頼むのが遅れてしまったことなど、いろいろな事情が重なってしまった結果が今の現状で、これを教訓にして、これからはIさんとボランティアのひとたちが早くからいっしょに計画を立てて行ければいいなと思いました。

 それでも、わたしだけでなくボランティアのひとたちみんなが田んぼに入るのがはじめての経験で、農家のひとたちの大変さを身に染みて感じることができました。
 ひとつの作物が自然の力を助けにしながら、同時に自然の力に逆らえないという逆説的な真実は、人間社会のありようを教えてくれていると思います。わたしはある時期、機械メーカーに勤めていた頃、「こうあったらいいな」と思う人間の欲望や夢を現実の機械や道具によって実現できることをすばらしいと思ってきました。今でもそれ自体はすばらしいことで、社会はそのようにして昨日よりも今日、今日よりも明日と進化してきたのだと思います。
 しかしながら、その一方で地震などの災害によって突然築き上げてきたものが破壊され、運不運や偶然で命が奪われ、命が助かるという、説明のできない理不尽で不条理な現実を前にして、ひとの夢や欲望の実現は何になるのか、幸せとは何なのか、そして、奪われた命と生き残った命のちがいは何だったのかと、大きな悲しみの中で次々と質問があふれるように押し寄せてきます。
 もとより、わたしはその質問に答える術をもちませんが、ひとつだけわかったと思うのは、人間の社会でもまた自然とのかかわりでも、自分の思い通りに物事は行かないこと、さらに言えばその「自分の思い」はほんとうに自分の思いなのか、良くも悪くも他者や社会や、もっと大きな命のリレーから託された伝言なのかも知れないと実感したことでした。
 長い間、人間の社会は工業的な考えやシステムで歴史をつくってきました。日本という社会に目をやっても工業化と近代化は一つのものでした。そして、農業などの一次産業は産業の中心から周辺へと追いやられてきました。さらに農業の再生は工業化しかありえないと大規模化や遺伝子組み換えなどが推奨され、TPPが日本全体の経済成長につながると言われます。
 しかしながら、能勢の誇る棚田農業など「小さな農業」は地産地消の担い手であり、食糧自給率が4割にも満たず、米などの穀物にいたっては3割にも満たない危機的な現状を救う担い手でもあると思うのです。
 さらに、わたしが最近こだわっているアントニオ・ネグリとマイケル・ハートによれば(あまり理解できていないのですが)、工業が社会のシステムの中心であった時代はすでに終わっていて、家事労働や介護労働や、感情や情緒などこれまでの近代化が追いやってきたものが社会のシステムの中心となっていくとされています。
 彼らの主張もまた、多少インターネットなどへの期待や夢の部分が多いかも知れませんが、わたしは世界の食糧メジャーが「種」を支配し、時には略奪しているという話を聞き、身近な暮らしの中で少しでも自分の作ったものを食べ、足らない部分の方が大半であっても作っている人の顔が浮かぶような農業の大切さを知るようになってきました。

 ここ何週間の、まったく予想もしなかった「恐怖の稲刈り」を体験しながら、こんな肉体労働をしながら無農薬有機農業にこだわるIさんをエライと思いました。

恋する農園
稲刈り終えて、あらためてどれだけ進んだかなと写真を写してみました。帰り際にわたしたちの畑の様子を見に行くと、白菜はますます葉っぱを広げていました。種をまいた畝も立派に芽をふいていてうれしかったです。
ヤギのメイちゃんは作業の疲れを癒してくれます。

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2013.10.23 Wed 恋する農園・番外編 恐怖の稲刈り

 10月19日、2列目の畝ができあがり、3列目を大まかに耕しているうちに4時になり、妻の母親がデイサービスから帰ってくるまでに家に戻る仕度をしていると、畑の大家さんで、竹パウダーの共同事業のパートナーでもあるIさんと親しい農家の人が、すぐ横の田んぼのそばで何やら話し込んでいました。
 話の内容から、どうも稲刈りのことらしいと見当が付きました。まわりの田んぼどころか、わたしが通ってくる間のどこでもすでに稲刈りは終わっていて、Iさんの田んぼだけがまだ稲刈りをしていません。田植えが遅かったこともあるのですが、それが理由ではなく、稲刈りをする人手も機械もないということらしいのです。
 妻が言うには、ずっと前から稲刈りを手伝ってほしいとIさんから頼まれているのに、「いつやるの?」と聞くと、「それは人間が決めることではなくて、自然が決めることや」と、もっともらしい理由でなかなか日程を決めることができなかったようです。
 いくら自然が相手とはいえ、もともと自分と家族だけでははかどらないところを少ないボランテイアのひとに頼って稲刈りをするのなら、あらかじめ予定を立てて手伝いを頼まないとまずいと思うのですが、Iさんは現金収入を得るために今年の春から介護の仕事をしていて、そのことで頭が回らないようなのです。
 そうこう言っている間に、農家の仲間の人から「もう刈らないとだめになる」と言われ、Iさんが困っているのを横で見ていたら、ついつい、「ぼくにできることがあったら手伝おうか」と言ってしまうじゃありませんか。それに、Iさんの畑のボランティアを熱心にしている若いひとも見かけるので、他にも手伝ってくれるひとが結構いるような印象もありました。
 「明日は日曜日だから〇〇さんは仕事が休みだけど、雨だからできないし」とIさんは言い、ぼくはまたまた「それならもし雨でもするのなら電話してくれ」と言ってしまったのでした。
 翌日の朝、やっぱり電話がかかってきました。「雨が小ぶりの間に少しでもしておきたい」という話でしたので9時に行く約束をして、いそいでIさんの家の横の田んぼ、つまりわたしが借りている畑の隣に向かいました。
 ちょうどIさんと息子さんが田んぼに入ろうとしている時で、わたしも雨合羽と長靴の格好で田んぼに行き、「さあ、生まれてはじめての稲刈りだ」と意気込んでいくと、Iさんがとてもややこしい話を始めるのでした。
 「実は、田植えの時、わたしは仕事に行かなければならず、ボランティアのひとにまかせたために、もち米と普通の米が混じってるんです。それで、普通の米だけを刈り取るんですわ。その見分け方は…」。
 「エーッ!!、そんなご無体な」。初めて田んぼに入る人間にそれを見分けるのは難しすぎる、無茶苦茶や、と思い、「ぼくは束ねる方をしますわ」と、もっぱらIさんと息子さんが刈り取ったものを束にする仕事をさせてもらいました。
 息子さんは高校生なんですが、とても寡黙なひとで、もくもくと稲を選別して刈り取っていき、農家の子どもとはいえ、偉い子やなと感心しました。
 ともかくこの日は午後3時で昼ごはんも食べずに雨の中の作業を続けましたが、こんなへんで堪忍してと帰らせてもらいましたが、彼女たちはご飯も食べずにやりつづけたことでしょう(?)。

恋する農園

 そして、あくる日、Iさんは「8時になったら仕事に行かないと行けないので、その後の段取りを説明するので7時に来てくれたらうれしい」ということで、なんとか7時過ぎに行きました。
 前日に刈り取った稲の束をかける、専門的には「はさがけ」というのですが、家のまわりに竹を3段にぶらさげたり、ちょっとした場所を利用して竹を渡したりしました。
 「今日は3人のボランティアさんが来てくれる」と聴いて、神様仏様と思いました。それにきょうは妻も来てくれるので、昨日のような悲惨な目には合わないだろうとほっとしました。
 しばらくして、その3人がやってきました。この人たちも一度も田んぼに入ったことがない人たちでしたが、ほんとうにいい人たちでした。Iさんはわたしたちを引き合わした後、やはり3人にももち米と普通の米が混在していると説明し、その違いも説明し、そそくさと仕事に行ってしまいました。
 果たして、何も知らない、はじめてのボランティアだけで、それももち米に混在した普通の米だけを稲刈りするという、無茶苦茶な仕事が始まりました。
 わたしは選別に自信がなく、3人のうちのひとりともっぱらはさがけに徹していたのですが、後の2人は結構稲刈りをしていて、「すごいな」と思ったのですが、後で聴くと「この範囲はすべて刈り取っていい」と聴いていたということでした。
 昼休みを取り、妻が弁当を買い込んできたものをみんなで食べながら、Iさんとのかかわりをそれぞれ話しました。「こんな無茶苦茶なボランティアの求め方もないですよね」と言いながらも、どこかIさんの行き当たりばったりの中にも一生懸命に無農薬の作物をつくり、一生懸命に短大に通う娘さんと高校生の息子さんを育てている姿を見て、なんか応援しようと思ってしまうそれぞれの気持ちが伝わってきました。
 実際のところ、少ない人数ですが、ここにあつまってくる人たちはみんなとてもいい人たちで、誰かの私有の畑とか、誰かの収穫だとか、そんなことよりも、Iさんを応援しながら、Iさんの家の代々続いてきた田畑をみんなで守っていきたいと思ってかかわっている人たちばかりです。
 わたしもその仲間に入ってしまったのだと思うのですが、最近ずっとこだわっているアントニオ・ネグリの「コモンウェルス」(共の富)の、つつましやかな実践であると納得しています。
 ふりかえれば豊能障害者労働センターでの16年間も、障害者問題から始まる「共に生きる社会」への挑戦であったことを思いおこします。その時間がなんだったのか、つまりはわたしの人生はなんだったのかと問うにはまだ早いのかも知れません。その結果が貧乏であることしか残さないのか、これからの新しい人生から少しは答えが得られるかも知れないと思っています。 
 午後も同じ作業をつづけましたが、せめてサクサクと稲刈りできたらストレス解消になるのにと思いました。帰る時間になり、田んぼを見るとほんの一部しか刈り取れない状態です。この後、いったいどうなるんでしょうね。
普通の米だけを刈り取ったら、残りは機械を貸してもらって一気にするという話もあるのですが…。
 それに台風が来て、はさがけした稲が雨に濡れて重くなり、風も吹くと、素人がつくったものなのでひもが切れてつぶれてしまわないかと心配です。

 恋する農園

恋する農園
最後に少し時間をもらい、妻はわたしたちの畑の方に移り、わたしが作った畝にいちごを植えました。一冬をこの畑で過ごし、春に家の方に移すそうです。イナゴの餌食にならないように、すぐに網をかけました。
3列目の畝は少しおそくなってもいいものをと、えんどう豆や玉ねぎなどを植えるそうです。わたしにはそこのところがさっぱりわからず、勉強しなくちゃと思います。本来の畑仕事に入る前に、Iさんの田んぼの稲刈りの手伝いが入るかもしれません。

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2013.10.23 Wed 恋する農園4

恋する農園

 台風26号が関東地方を襲い、伊豆大島では多くの被害をもたらしました。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。また、続く27号、28号が接近していて、とても心配です。
 10月16日は26号台風の影響で、能勢町でも雨風ともに強く、また台風がかなり遠くに行ってしまっているのに、長い時間風が強く、最近多発している竜巻かと心配するほどでした。
せっかく虫よけの網をかぶせたのが飛んでしまっていないかと、雨がやんだのを見計らって畑に行きました。
 ありがたいことにそんなに被害はなく、少しはずれたりしているところを直し、2列目の畝づくりに入りました。少し前に土を掘り起こすところまではしていたので、この日は耕しながら草の根っこを抜く作業を繰り返しました。最初は掘るところすべてに太い根が張りめぐらされていて、なかなか手ごわかったのですが、そのうちにその作業もなんとか終わり、その次は何度も何度も土を掘り返し、ならし、残っていた根を取り除き、土を細かくしていきます。
 それから有機石灰を混ぜながら、いよいよ畝をつくっていきます。まわりから土を上げていき、また上の方をならし、最後に残っている小さな草をぬいていくと、少しずつ畝の形ができてきました、
 最初の一畝はわたしが耕した後、妻が畝をつくったのですが、この日はひとりで、わたしの役割はあくる日に妻が苗を植える作業ができるように、少なくとも一畝を仕上げておくことでした。
 この作業ももちろんはじめてでしたが、とりあえずはできあがり、ほっとしました。畑作業をしていると思いのほかすぐに時間がたち、やり残してしまうことも多いのですが、この日は時間がまだ少しありましたので、3列目の畝の準備で、土を掘り起こすところまで仕事が進みました。
 時間がたつとともに台風の影響だった風もおさまり、晴れ間が出てきました。

 19日は、妻が娘の仕事の手伝いで箕面に行く日で、わたしは夕方に妻の母がデイサービスから帰ってくるまで、畑仕事に出かけました。いままで「能勢暮らし」のカテゴリーでは里山探索の記事がほとんどでしたのに、最近は畑仕事に追われています。
 そもそも、急に思い立ったのがTPPと消費税値上げのニュースからでした。もちろん、能勢に来た以上、いつかはこんな暮らしになると思ってはいたのですが、いちばんの理由は来年の春からは現金収入がなくなり、少しずつ減額される年金だけではなかなかきびしい生活になるので、お金を使わない暮らしに切り替えなければならないと思ったからでした。TPPの影響でますます安全な食べ物が手に入らないようになることもあります。
 というのはほとんど屁理屈で、たかだか市民農園よりは多少広い畑でそんなに収穫できるわけでもなく、また妻はそれなりのベテランではありますが、わたしはまったくの素人ですから、そんなに作物が取れるわけでもないでしょう。
 それでも、またまたおおげさに言えば、わたしの最後かも知れない「人生を変える」プロジェクトが始まった実感があります。
 その最初の事件がやってきたのは、その日の帰り際のことでした。
 そのことについては「恋する農園・番外編」として、次回に報告します。

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