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2021.06.21 Mon 微笑みのファシズムからの救済とシェルター・唐組の紅テント

 わたしが唐十郎を知ったのは1960年代にすでに世間で名前を知られるようになった少し後でのことで、おそらく「美術手帳」か「現代詩手帳」で状況劇場の記事を見たからだと思います。それから後、大島渚の「新宿泥棒日記」の劇中劇で見た「由比正雪」が衝撃的でした。
 そして1974年、状況劇場が大阪の天王寺野外音楽堂で「唐版 風の又三郎」を上演し、わたしははじめて紅テントの中に入ったのでした。麿赤児や四谷シモンはすでに退団し、李礼仙、大久保鷹、不破万作とともに、根津甚八と小林薫が人気を集めていました。たしか大阪に来たのは初めで、天王寺野外音楽堂は今はなく、それからずっと後に天王寺公園から猥雑でわくわくしたすべてが排除されてしまいました。
 最近は地方自治体の公園内にもカフェがつくられることが多くなり、たしかに地域コミュニティーの活性化のための行政サービスとして住民に喜ばれるところもあるのでしょう。
 しかしながら一方で、ミニアミューズメント施設やカフェなど、どこの町に行っても同じような公園になってしまう危険もまたあるとわたしは思います。ニュースやドラマまでもバラエティー化されてしまったテレビ番組をはじめ、すべてが均一で当たり障りのない「微笑みのファシズム」がじわりじわりと小さな叫びやつぶやきをかき消してしまう、そんな鬱屈した空気に包まれる今、公園もまた見通しの悪さや薄暗さ、夜には少し怖い場所になってしまうことのない、「安心・安全でおしゃれな空間」を要求されているのでしょう。
天王寺公園がクールなアミューズメントパークに変わるまでは、昼間から屋台の飲み屋さんでステージ衣装なるものを身にまとい、演歌を歌っていたおじさん、おばさんたちがいました。決してそれがいいとは思えませんでしたが、今ふりかえるととても懐かしく思うのです。
 もちろん、1974年当時の天王寺公園はまさに大阪を象徴するような猥雑さに満ち溢れていました。とくに野外音楽堂の付近はうっそうとしていて、夜になるとマッチがついている間だけスカートの中を見せる「マッチ売りの少女」が出没していて、その日も「兄ちゃんどうや?」と誘われたことを思い出します。
 当時は特に根津甚八ファンの若い女性が殺到していて、テントの横壁の近くで前かがみにならなければならない立ち見の状態でした。根津甚八がテントのうしろから花道に登場すると「甚八さん!」と黄色い声がキャーキャー飛び交い、わたしも苦笑しながらその熱気にあおられ、現実からあっという間に異世界に連れ去られた感じでした。
 わたしは子どものときに、たった一度ですが旧国鉄で二駅はなれた吹田駅そばの商店街の「角座」(大阪の有名な角座のパクリ)で、「瞼の母」だったか「国定忠治」だったか、大衆演劇を見に行ったことがありました。シングルマザーで朝早くから深夜まで大衆食堂を切り盛りしながらわたしと兄を育ててくれた母が、わたしたちのために用意してくれた楽しい一夜でした。
 日本中がそうであったように、子ども心に極貧で母と兄とわたしが身を寄り添って一日一日を食いつないでいたあの頃、何にも楽しいことがなく夢を見ることもなかったわたしにとって、その夜のことは忘れられません。黒い土と、電柱に付録のようにぶらさがり、カランコロンと頼りない明日を照らすだけの街灯…。どもりで学校にもまともにいかず、「いいことなんて何一つやって来ない」と暗い顔をしていたわたしにとって、芝居の中身はまだよくわからないものの舞台の光景は今まで見たこともない世界でした。
 きらきらまばゆい舞台はまわりの暗さ(それは時代そのものの暗さだったのかも知れないけれど)ににじんでいて、決してくっきりした空間を作ってはいません。それなのにどこかそのぼんやりとした光の向こうで、私をどこかに連れて行ってくれる希望が待っている気がしました。わたしは芝居が終わってもその場を立とうとせず、母から「いっぺん見たらもういいやろ」とむりやり引っ張られて芝居小屋を出ました。
 初めて唐十郎の芝居を観た時、いくつもの物語が錯綜しては引きはがされ、またひとつにつながっていく縦横無尽の展開と饒舌を越えた早口セリフの挑発的な熱量と圧倒的な難解さに取り残されるばかりでしたが、わたしはテントの中を別世界にかえてしまう灯りに、子どものときに見た芝居を思い出し、とても懐かしく思いました。
 その時以来、状況劇場から唐組になってずいぶん時が経ちましたが、毎年やってくる唐組の芝居をほとんど観てきました。紅テントの中にいると、わたしの心と体からもうひとりの自分が現れ、そのもうひとりの自分が芝居の中に溶け込んでいくような不思議な感覚になります。そうなってしまうとたとえ筋書きも芝居の背景も知らなくても、すでに観客ではなくなってしまったわたしは、不条理でも不可解でも理不尽でも、うろうろぼろぼろしながらも暗闇のかなたへとつき進むしかなくなるのです。
 そして、大団円を迎えると密室空間がぽっかりと開かれ、登場人物が現実の街の夜へと消えていこうとする時、わたしはテント小屋の中にもう一人の自分を置き忘れたまま、現実の街へと帰っていくのでした。そして、ひるがえる紅テントが去った後の物語の「その後」は巷の夜に放り出されたわたしの心のひだにべっとりとへばりついたままで、その物語の中で違う人生を生きるもう一人の自分と再会するために、わたしはまた紅テントの中へと迷い込むのでした。
 唐組は風のごとくその痕跡を消しながら街のいたるところに赤テントという異空のシェルターをつくってきました。目の前で繰り広げられる物語の展開の裏側に日本の近・現代史の暗闇が広がり、芝居の中で語られる事件や戦争や災禍がその暗闇の歴史のるつぼで再構成され、テント小屋の密室空間にせり上がってきます。
 ひるがえるマントにロマンティズムを忍ばせて唐十郎がのぞかせてくれるものは、新聞の三面記事に仕組まれた悪意に満ちた世界に抗う少年少女の純愛で、その純愛は国家もわたしたちも忘れてしまいたい日本の歴史の暗闇に見捨てられた理不尽な出来事をよみがえらせるのです。途方もない虚構から反歴史と呼べるもうひとつの歴史を呼び覚ますために…。わたしは唐十郎の芝居で、学校の教科書では学べなかった歴史を学んだのでした。

 今回の芝居は、いつも以上にせつなくかなしく寂しく感じました。それはコロナの影響で客席数をうんと減らさなければならなかったせいなのか、それとも演出を引き継ぎけん引する久保井研の変化なのかははっきりわかりませんが、わたしは久保井研の演出のギアが一段上がったような気がします。唐十郎の演劇空間を引き継ぎながらも、決して上塗りではなく、唐十郎へのオマージュを独自の演出であえて熱量を抑えて舞台化したように感じました。かつて、唐十郎が舞台に出られなくなった時にも感じたある種の覚悟を感じた芝居でした。そして、個人的には稲荷卓夫が戻ってきてくれたことがとてもうれしいことでした。

唐十郎「ジョン・シルバー」
作詞・唐十郎 作曲・小室等
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2021.06.16 Wed 36年前の警告が、コロナ禍のわたしたちのこれからを照らす。唐組「ビニールの城」

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助けて。ビニールの中で苦しいあたしを。あたしはいつもそうです。
あなたとお会いしてからも、二人の間にはビニールがあって、なにか言えない、思いのたけをあなたに告げられないと、いつも気が急いておりました。
ー朝ちゃん、ビニールを張った以上、ここはビニールの城ですー
「ビニールの城」パンフレット

 6月13日の日曜日、神戸新開地の湊川公園で唐組公演「ビニールの城」を見に行きました。緊急事態宣言下の元でのテント芝居なのでいつものように密閉にせず人数制限とマスク着用・手の消毒、そして検温して入場するなど万全の対策をされての公演でした。
 わたしは唐組の芝居を毎年観てきましたが、コロナの影響で昨年は大阪公演が中止となりました。今年も関西公演が中止にならないか不安でしたが、2年ぶりに神戸に場所を移して何とか上演されることになりました。
 入場整理券が発行される2時に合わせて会場に行き受付を済ませ、5時半の開場まで商店街の喫茶店で時間を過ごしました。友人たちと会うのも久しぶりで、よもやま話ですぐに時間が過ぎ、5時半にテント小屋に入り、開演を待つばかりになりました。
 舞台上はたくさんの人形で埋め尽くされています。そこは捨てられた人形たちの倉庫で、次の相棒になってくれる腹話術師がやってくるのを絶望的に待ち、身を潜めているのでした。後方から舞台へとひとりの男・腹話術師の朝顔が花道の途中で立ち止まり、客席を見渡すと、観客であるわたしたち自身が捨てられた人形のような感覚になりました。
 「ビニールの城」の開演です。

 腹話術師の朝顔は、8ヶ月前に別れた相棒の人形・夕顔を探し続けている。バーで酒を飲んでいると、かつて朝顔と夕顔が暮らすアパートの隣に住んでいたと話す女、モモと出会う。
 モモは新聞を被って登場し、トンチンカンな言葉を発し、背中には「3日でこさえた」赤子をネンネコに背負っている。モモを愛する夫の夕一は、ままごとのような夫婦を懸命に演じているが、モモへの愛は報われず、人形の夕顔と自分を混同させている。
実はモモは朝顔が住んでいたアパートの一室に捨て置かれていたビニ本(ヌード雑誌、エロ本)のヌードモデルだった。隣の部屋をのぞき見し、朝顔が《ビニ本》を破りもせず、ただビニールに包まれたその《ビニ本》の女を抱きしめ、「愛してる」と言ったことを知っていた。モモもまた、そんな朝顔に恋していたのだった。
 モモは「あなたが、封を切らずに持っていた、ビニ本の女です!」と朝顔を求めるが、人形の夕顔に友達以上の感情を持つ朝顔はビニ本の女には劣情しても生身のモモには身も心も開かない。モモの夫・夕一もまた、片思い同士の朝顔とモモ、朝顔と夕顔のねじれた愛の荒野を共に彷徨い、嫉妬にさいなまれながらモモをひたすら愛している。
 この奇妙な三角関係はそれぞれが行き違いもつれあい、出会っているのに出会えない、ビニールの0.1ミリよりも薄い膜が壁となり、見えているのに近づけない、触れない、決して交わらない純愛のエロティシズムに引き裂かれているのでした。

 唐十郎の芝居はどれだけあらすじや結末を言っても何の意味もないのですが、その時その時の三面記事から壮大な想像力でいくつもの物語が立ち現われ、観客であるわたしたちは加速し爆走する物語に巻き込まれ、フィクションの行く手に政治、経済、世情など現実の過酷さや悪意に心穏やかにはおられません。過剰で行き当たりばったりと思える長セリフ・言葉の叛乱は今でいうラップのように鋭く時代の闇を浮かび上がらせてくれます。
 この芝居は1985年に第七病棟のために唐十郎が書き下ろしたもので、石橋蓮司と緑魔子の熱演とともに、アンダーグラウンド演劇の最高傑作と言われています。
 1985年は高度経済成長のさ中、現物経済から金融経済へと資本の行く先が変化し、金利引き下げから株高、地価上昇と、日本経済の転換点となったバブル前年にあたります。
 金の詐欺商法で社会問題になった豊田商事事件、そして豊田商事会長刺殺事件の年でもあります。独居老人をターゲットに家に入り込み、線香をあげたり身辺の世話をしたり「息子だと思ってくれ」と言って人情に訴えるなど相手につけ込む手口は、今の振り込め詐欺へと続いています。また、校内暴力やいじめなどが社会問題化したのもこの年からで、陰湿化したいじめから不登校が増え、今では小中学生の自殺や年代を越えた引きこもりが問題になっています。
 芝居のモチーフとなった「ビニ本」は古本屋の平棚に積まれていて、ビニールにつつまれてくっきり見えないヌード写真の表紙が生々しく肉感的で、それでいてとても寂しく感じたものです。思えば電電公社が民営化されてNTTになり、通信の自由化がはじまり、その後のインターネットの普及やスマホからSNSとデジタル社会が始まったこの年、社会の急速な動きについていけないアナロググッズの典型のようでした。
 唐十郎は、「ビニ本」に抵抗や反乱、社会が期待する人間にはなれない、いや絶対にならないと覚悟するわたしたちのサイレントマジョリティを人形に託し、腹話術師がしゃべるのではない、人形が腹話術師の口を借りてしゃべる倒錯した世界を垣間見せてくれたのだと思います。
 水に沈められた人形を救出しようと、朝顔が巨大な水槽に潜ろうとする前に水槽の上から朝顔が演説ともいえる長いセリフで「諸君、豊田商事の詐欺師にお茶を出して歓迎する老人たちに、いじめに追い詰められ孤独な夜にひとり鉛筆を削っている少女に対して、それでもあなた方は何もしゃべらないのか」と物言わぬ人形たちを扇動する時、その「諸君」の中にわたしたち観客もいたのでした。人形たちはいっせいに動きながら歌を歌い、声にならない声を上げ、私たち観客と言えばコロナ禍の観劇でいつもなら「イナリ」というところを何も言えなかったものの、感動の涙が出ました。
 そしてラスト近く、ビニールの衝立をはさんでモモが朝顔に切ない心を言葉にし、私を助けて、ビニールを破ってこちらに来てと必死に訴えるのですが、朝顔はなまなましいものを避けようとします。思い余ったモモは、あなたが破れないのならとビニールに空気銃を打つのでした。「バン!」と轟くその銃撃音は二人が結ばれるのではなく、永遠にひとつになれないと別れを決断する朝顔への最後の愛の言葉だったのかもしれません。
 わたしはよく「純情な芝居観に行けへんか」と唐組の芝居を誘ったものですが、実際、彼の芝居は異性同志、同性同士、時には兄と妹との傷つきやすい純情な恋と、「時代」や「黒歴史」を演じる何人もの狂言回しとの間のバトルが繰り広がれ、時には愛が勝ち、時には引き裂かれたまま忽然と芝居空間そのものが消えてしまう通称「屋台崩し」によって、テントの外の夜の町にわたしたち観客を放り投げて終わります。そのたびにわたしは、テントの中にいた私を見失うのでした。
 少し長くなってしまいましたが、次の記事も今回の公演も含めた唐組のことを書こうと思います。もう少しお付き合いください。

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2019.05.03 Fri 「愛するのもみな他人 覗くのは僕ばかり そこに見てはいけない 何があるのか」 唐組「ジャガーの眼」

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-肉体の一部を追うものはなく、追われようとする一部もない-
この言葉とともに、あの「ジャガーの眼」が帰ってきた!
物語は、しがない青年・しんいちが、肉体市場で角膜を購入し、移植したことから始まる。
その角膜が、かつての持ち主の恋人のくるみを呼び寄せ、青年を平凡な日常から、冒険的な非日常へと導く。
サンダル探偵社の田口は、助手くるみの依頼を受け、“幸せのリンゴ”を追って路地に立つ。
その前に現れた男・扉の押す車椅子には、田口がかつて愛した等身大の美しい人形・サラマンダが乗せられていた……。
外科病棟で移植手術を繰り広げる、肉体植民地・Dr.弁。
所有者の人生に関与し、人の体で三度も生きる“ジャガーの眼”はそんな彼らを取り込んで鋭く輝いてゆく……。
(唐組第63回公演「ジャガーの眼」パンフレットより)

 平凡な男しんいちのもとに不思議な女探偵くるみが現れる。肉体市場で角膜を購入し、移植した角膜のもとの持ち主の妻だったというくるみと出会うことで、しんいちは角膜に違和感を覚え始める。角膜を追うくるみと接するうちに、うずく角膜に導かれるように、しんいちのなかで婚約者との平凡な未来を生きようとしていた自分が捨ててしまったものが湧きあがる。一方、くるみの上司である探偵・田口は、くるみが来る前に共に生きたダッチワイフのサラマンダーの幻想に悩まされつつ、部下のくるみを追うのであった。

 1980年代、臓器移植は「脳死」の判定や倫理上に大きな問題を含みながらも、臓器の提供を待ち望む人の切羽詰まった願いから制度化され、現在はドナー登録を募る啓発広告がテレビで放映されるなど、社会的認知を得るところまで来てしまいました。
 寺山修司は「臓器交換序説」という演劇論をのこしていて、唐十郎が三面記事から時代の空気を芝居に取り込んだのとは対照的に、その時代のアカデミックな「ブーム」に潜む社会的な問題を彼の演劇装置の中で増幅・伝染させるような、社会や街の劇場化を試みる実験をしていました。その点では演劇への影響力とは反対に、社会的な影響力は唐十郎よりも大きく、彼が試みた街の劇場化は、例えば最近ではオーム真理教の地下鉄サリン事件などの劇場型犯罪や小泉劇場から始まる劇場型政治などを予言しました。
 サンダル探偵社の田口の「死ぬのはみな他人ばかり」から始まる歌が終わり、寺山修司に覗かれたとする長屋の住人たちとのドタバタ掛け合いの後、しんいちと婚約者の夏子が登場するところから物語が始まります。
 寺山修司が機械の部品が交換可能なように、人間の臓器も交換可能になる社会を予見し、そんな社会において「わたしやわたしの肉体」は個人に帰するものではなくなり、わたしの精神もわたしの人生すらも交換可能なのではないかと想像力を膨らませるのに対して、唐十郎は移植された角膜が今の持ち主の言う通りにはならず、前の持ち主の人生を生きようとする物語を膨らませていきます。
 前の持ち主の妻だったくるみが現れ、しんいちは夏子との平凡な日常の愛とくるみがもたらす非日常の激しい愛の間で引き裂かれ、次第にくるみにひかれていくのでした。
 しかしながら、くるみとの愛の暮らしを交通事故による死で引き裂かれた前の持ち主の眼もまた角膜移植された眼で、最初は元の持ち主はわからないのですが、人の体で三度も生きる「ジャガーの眼」が、かつて少年倶楽部の小説やテレビドラマの世界で、ジンギスカンの秘宝を求めてアジア大陸を疾走した冒険の記憶を呼び起こし、しんいちとくるみを日常では許されない激しい愛へと掻き立てます。
 肉体の一部を追うものはなく、追われようとする一部もない臓器交換の現実に抗い、死者の肉体の一部が別の肉体の一部として生き、新しい持ち主に逆らい、やがて新しい持ち主の人生までも変えてしまうという切ない物語は、そうはさせまいとする退屈な現実と激しくたたかいながら、やがて紅テントの彼方のもうひとつの暗闇へと去って行きます。
 怪優・辻孝彦が亡くなり、赤松由美が退団するなど、個人的にとても残念な思いですが劇団の離合集散は避けられるものではなく、若い役者を育てながら劇的空間を維持することはとても大変だと思うのですが、個人的には今回の芝居は切なさだけが膨張した、すこし寂しい芝居だったように思います。
 しかしながら、この芝居は唐十郎が寺山修司にリスペクトした芝居で、唐十郎本来のドラマツルギーとは少し違う異色の作品だったことから、そう感じたのかも知れません。
 ラストになって、田口はジャガーの眼の最初の持ち主であったことを打ち明け、くるみがしんいちをおいかけたように、田口もまた自分の眼の新しい持ち主・くるみの夫とくるみの愛の生活を覗き見していたことを打ち明けます。そして、くるみが幸せのりんごという愛の記憶を探す依頼を田口にするように仕向け、助手として雇い入れたのも、くるみを愛していたからでした。
 それはまた、住民の悪感情から今でいうバッシングを浴びせられた寺山修司ののぞきという行為が、「愛するのもみな他人、覗くのは僕ばかり」と、「みてはいけない何か」を見てしまうエロスなのだと、唐十郎は田口にいわせるのでした。
 思えば演劇では、寺山修司は唐十郎に嫉妬していたのだと思います。唐十郎が芝居を始めた時から、寺山修司は嫉妬という形で唐十郎を最大限に評価し、援護してきました。寺山修司が天井桟敷を旗揚げすることになったのも唐十郎の影響からで、それがゆえに唐の劇的空間とは違うアプローチをしてきたのだと思います。
 そして、唐十郎もまたそんな寺山修司を、ほんとうはとても深いところで共にたたかう兄貴分の同志と慕っていて、寺山が亡くなって2年と言うタイミングで寺山修司をきちんと評価し、心の中で別れを告げたのではないでしょうか。
それがゆえに40年の時を隔てた今、唐組の若い役者たちはこの芝居を必要以上にノスタルジックに感じたのかもしれません。

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2019.05.02 Thu 死ぬのはみな他人ならば 生きるのもみな他人・唐十郎が寺山兄貴に贈った棘のある花束「ジャガーの眼」

 唐組「ひみつの花園」

 一年ぶりにまた、唐組の芝居を観に行きました。
 色あせた布一枚で下界と隔てられた紅テントの中はお客さんが続々と入ってくるのに従って少しずつ空気を換え、気が付くとひしめき合うお客さんの熱気と期待が渦巻く悪夢の劇場へと変貌していました。
 ああ、またここへ帰って来た…、開演間近になると、いつもわたしは思います。1974年の状況劇場「風の又三郎」以来、もう40年以上もここから唐十郎のたくらみに乗せられ、「こことちがうもうひとつの場所、もうひとりのわたし」を探しに暗闇をさまよってきたことだろうと…。
 ひるがえるマントにロマンティズムを忍ばせて唐十郎がのぞかせてくれるものは、たとえば新聞の三面記事から立ち上がり、悪意と忘却が渦巻く現実に翻弄されながら必死に何者かになろうと自分を探しつづける少年少女の純愛が、国家もわたしたちも忘れてしまいたい日本の近・現代史の暗闇を呼び起こし、芝居の中で語られる事件や戦争や災禍が歴史のるつぼで再構成され、葬られた理不尽な出来事をよみがえらせるのでした。
 そして紅テントの劇的空間が解体され、芝居が終わると少年少女も純愛も引き裂かれ、街の闇に消えてしまうのですが、わたし自身も行方不明になってしまい、毎年わたしは昨年に行方不明になったわたしとわたしの純情を探しにまた、紅テントの中にもぐり込むのでした。
 「ジャガーの眼」は1985年に状況劇場が初演して以来、唐組をはじめいくつもの劇団が再演する状況劇場後期の名作です。
この芝居は寺山修司が1983年に亡くなった2年後、唐十郎が兄貴と呼んでいた寺山修司へのオマージュと追悼を込めたつくりあげた作品です。
 わたしは唐十郎の前に高校生の頃から寺山教の信者で、彼の「家出のすすめ」に突き動かされて家出をしようと試みたことがあるほどでした。こう書けばとても前向きに思われるでしょうが、実際はわたしの高校時代は暗黒の年月でした。というのは、中学3年生でどもりが再発し、それなりのいじめに遭い、本当は経済的に行けるはずもなかった大学を断念して工業高校に進みましたが、ほんとうは学校をやめて誰ともしゃべらなくていい仕事につき、細々とくらしていけたらと思っていました。自分のそんな情けなさを隠すように世の中がどうだとか、サルトルやマルクスの名前を連ね、数少ない友だちと授業をさぼり、デパートの屋上でいきがっていたどうしようもない高校生でした。兄とわたしを高校だけには行かせたいと片手に山盛りの薬を飲み、朝5時から深夜1時まで働いて死んで行った母に、本当に申し訳なかったと今では悔やんでも悔やみきれないでいます。
 ともあれ、実際は彼自身も「不言実行よりは有言不実行が社会を変革する」といった虚言をばらまくけっこうさびしい人間だったと知り、今では「なあんだ」と思う一方、ますます寺山教の信者OBになっています。
 寺山修司が巷の言葉を拾い上げ、彼特有のこじつけでその言葉に新しい意味を植え付けるアフォリズムの才能は際立っていますが、その中でも口癖のごとく好んだのが「死ぬのはみな他人ばかり」というマルセル・デュシャンの言葉でした。
 誤解と偏見を楽しみ、罵倒ですらオマージュとする寺山修司に最大の賛辞を送りながらも、唐十郎はよく比較されてきたお互いの演劇論を視野に入れた唐版寺山修司というべき芝居を試み、演じて見せたのが「ジャガーの眼」だったのではないでしょうか。

この路地に来て思いだす
あなたの好きなひとつの言葉
死ぬのはみな他人ならば
生きるのもみな他人
死ぬのはみな他人
愛するのもみな他人
覗くのは僕ばかり
そこに見てはいけない 何があるのか
「ジャガーの眼」挿入歌 唐十郎作詞・小室等作曲

 幕が開くと、そこは唐の芝居でおなじみの、さびれた街の忘れられた袋小路。並ぶ長屋の中央の路地からけたたましく現れる大きなサンダルに振り落とされまいとしがみつく一人の探偵・田口が歌う歌には、「死ぬのはみな他人ばかり」と「私という内面」の否定を逆手に取り、三つの肉体を渡り歩く「ジャガーの眼」と共振しながら路地の向こうになくしたリンゴと言う真実を探す物語として、寺山が三面記事をにぎわしたのぞきを芝居に組みこんでいます。
 寺山の「私と言う内面」からの超克はデカルトからサルトルまでの人間主義にもとづいた近代からの超克を意味していて、寺山修司の演劇論でもあるのですが、唐十郎は「覗くのは僕ばかり、そこに見てはいけない何があるのか」と、さびしい男・寺山修司ののぞきをいわば「哲学化」して見せたのではないでしょうか。
 わたしはこの事件を新聞で読み、のぞかれたと主張する住民たちの悪意を感じる一方、次回の作品のための路地の研究とする前衛の立場からの擁護にも違和感を覚えたことを思い出します。実際、わたしは路地や袋小路や三段先が暗闇になる地下室、向かいの窓に映る人影やベランダでなまめかしくゆれる洗濯物に見てはいけないものを感じてどきどきするのを告白しなければなりません。
 「見られるのは嫌だが見るのは好き」という感情は現代ではSNSの普及でますます増幅されています。唐十郎は30年も前にそのことを「哲学化」し、のぞきのアナキスムを紅テントの密室に持ち込むことで登場人物はおろか、観客にまで「のぞきの悦楽とさびしさ」を味合わせ、去り行く彼女彼らとともに「ジャガーの眼」の収集不可能な旅へと向かわせたのでした。
 寺山修司と唐十郎という、わたしの人生の存在証明となる2大アイコンを語ろうとすると、それほど深い見識もないわたしには荷が重く、一回の記事では芝居の中身にも入れませんでした。
 許しを乞いつつ次回につづきます。

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2019.04.30 Tue Yさんとわたしの出会いは、「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」・島津亜矢と唐十郎

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 4月28日、毎年恒例の「唐組」公演に行きました。今年の芝居は「ジャガーの眼」で、1983年に亡くなった寺山修司の追悼を込めて1985年に状況劇場で初演した芝居です。高校時代から今も、いわゆる寺山教の信者だったわたしにとって感慨深い芝居でしたが、芝居のことは次の記事とするにして、その前に同好の士・岡山のYさんご夫婦とたっぷり3時間飲みながらいろんな話ができた大事件について書いておこうと思います。
 Yさんは岡山の大学の先生で、ふつうなら全く出会うはずもなかったのですが、数年前になるでしょうか、わたしの島津亜矢に関するブログをごらんになり、メールをいただいたのがきっかけで、ブログとフェイスブックで交流してきました。
 しかも島津亜矢だけでなく、わたしが唐組の芝居を毎年楽しみに観に来ていて、Yさんもまた毎年わざわざ岡山から唐組の芝居を観るために大阪に来ていたという、あまりにも不思議な偶然が重なり、もう何十年も前からの親友のように思ってしまいました。
 わたしが島津亜矢の存在を知りファンになった10年前は、長い歌手歴がありながらまだ演歌のジャンルの小さな枠の中で不遇ともいえる環境の中、熱烈なファンに支えられ、地道に歌手の道を一歩一歩その足跡を確かめながら突き進んでいた頃でした。
 それから現在に至るまでの進化はめざましく、そんな彼女の進化をYさんとわたしはお互いのことを知らないまま共に見届けてきたのだと思うと、あらためて驚きとともに誇りにさえ感じました。
 島津亜矢の熱烈なファンというだけでも、きわめて特異な同志だと思うのですが、なんと唐十郎の追っかけを何十年も続けてきたということになると、不思議な偶然を通り越した運命的な出会いとしか言いようがありません。しかも、お話を聞くと1970年代からと言われていて、わたしもまったく同じころからのファン歴で、積もる話どころではありませんでした。
 わたしの人生の中で唐十郎と寺山修司は特別な兄貴分で、彼らを知らない人生などありえず、いわば現実の人生とは別のもうひとつの人生、空想の人生で、わたしは何者か、何者になりえるのかと問いつづけ、彼らの後を追いかけてきたのでした。
 Yさんもまた青春時代に唐十郎の芝居と出会い、もうひとつの人生をひた走って来られたのでしょう。
 そう思うと、Yさんとわたしの出会いは、シュールレアリスムにならえば「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」ほどの偶然と宿命がないまぜになった奇跡、大事件だと思います。
 3時に唐組の紅テントの前で待ち合わせし、天満宮の近くの飲み屋さんに入りました。
わたしはここ数年、前の職場の同僚だった女性の友だちと唐組の芝居を一緒に見に行っていて今年も彼女と一緒だったのですが、Yさんも連れ合いさんと来られていました。
4人とも島津亜矢と唐十郎のファンという不思議が重なり、他の人たちとは話題にならない会話を延々と3時間もしながらもまったくあきることがありません。
その上に、Yさんの連れ合いさんがまた素敵な人で、Yさんの話では大学院生の時にYさんが見染め、それからずっと今も連れ合いさんに恋しているのがわかり、Yさんが連れ合いさんと共に生きてきた人生が、唐十郎と島津亜矢によって彩られている「もうひとつの人生」なんだと、とてもうらやましく思いました。
 わたしはといえば、ほんとうに奇跡といえるYさんと連れ合いさんとの出会いに酔いしれてしまい、いまとなっては何を話したのかもはっきり覚えていないほど舞い上がってしまったひとときでした。
 ほろ酔い気分でテントにもどり、世界のもうひとつの暗闇と薄皮一枚でつながっているテントの空間で繰り広げられるもう一つの現実にたましいがさらわれたまま、幕が下りた芝居の外でYさんとお別れしました。
 来年も逢いたいなと思いながら、また少し寒くなった春の風にほほを打たれながら帰りました。
 唐版「ジャガーの眼」と寺山修司については、次の記事とします。

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