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2019.11.04 Mon 「村っこ太鼓」と映画「萌の朱雀」・ 奈良県十津川村 二村小学校の思い出2

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二村小学校講堂

 川沿いのバス道から山の斜面を登り、学校に着きました。車いすに乗っているKさんを玄関までサポートしたはずなんですが、今ネットに上がっている二村小学校跡の学舎を見るとかなりの階段なので、おそらく別の入り口であまり段差のないところがあったのかも知れません。
 ともあれ、会議室のようなところに案内されると5人分の弁当が用意されていました。さっそくごちそうになり、その後、校長先生が教頭先生を紹介してくださり、教頭先生から二村小学校の話を聞かせてもらいました。
 1年生から6年生まで合わせて33人の子どもたちと11人の先生で、十津川村の中でも特に普通の勉強以外に、子供たちのお父さんやお母さんをはじめ、村のおとなたちに来てもらって村の暮らしの歴史を学んだり、学校の外に飛び出して味噌づくり、キノコの勉強、野鳥の勉強、木工所で昔のおもちゃづくりなど、子どもたちの生き生きした体験学習の写真が所狭しと貼ってありました。年に一度、各学校の校外学習の発表会もあるということで、教頭先生が誇らしげに話されたのを今でもおぼえています。
 わたしたちも箕面での活動をひととおり話した後、職員室の先生たちにカレンダーのお礼ともどもあいさつしました。こんなに小さな学校に毎年40本もカレンダーを届けていたことに申し訳ないやらありがたいやらで、なんとお礼を言えばいいのか言葉が見つかりませんでした。
 「歓迎の準備ができましたので、講堂に行きましょう」といわれ、何のことかあまり理解できずに言われたまま講堂に入りました。
 するとどうでしょう、子どもたち33人全員が太鼓を前に勢ぞろい、頭にハチマキをしてわたしたちを迎えてくれました。見れば先生方も全員講堂に集まってくれました。たった5人のわたしたちのために通常の授業を返上し、歓迎の太鼓をたたいてくれるというのです。
 6年生らしき子どもの、「二村小学校、村っこ太鼓」という大きな掛け声に合わせて、子どもたちの太鼓が講堂中に響き渡りました。わたしたちは感激しすぎて涙も出ませんでした。ただただびっくりして、ドキドキしました。
学校挙げての歓迎太鼓の音が緑いっぱいの山々と谷深い清流、厳しい冬の風と透き通る空を突き抜けていきます。お腹の底まで響く振動は、講堂の床を伝ってわたしたちの心臓と共振しました。子どもたちの太鼓から立ち昇るいのちの鼓動が心を奮い立たせ、わたしたちが思いもしなかった何か、それは生きる勇気のようなとても大切なものを、山里の小さな小学校の子どもたちからもらいました。
 わたしの住む能勢でも小・中学校が統合され、ひとつの小学校とひとつの中学校になってしまいましたが、それまではそれぞれの学校が地域のコミュニティーの拠点になっていました。
 二村小学校は2010年に統合されたということですが、わたしたちが大歓迎を受けたこの頃は、間違いなく1年生から6年生までの33人の子どもたちが11人の先生たちと奇跡のような学校で学んでいたことでしょう。(もっとも、統合された十津川第一小学校も現在全校生徒数が48人だそうで、この20年に過疎化が進むのは止められないのかも知れません。)その奇跡は太鼓によって結ばれた子どもたちと村のおとなたちのきずなが生み出したものにちがいないと思いました。
 事実、十津川村では太鼓に力を入れていて、毎年8月4日に谷瀬のつり橋の上で地元OMC十津川太鼓倶楽部「鼓魂」のエキサイティングな太鼓の演奏が行われる「吊り橋まつり(揺れ太鼓)」が開かれています。
もしかするとわたしたちに太鼓を聞かせてくれた子どもたちの中で、大人になって太鼓をたたいている人がいるかも知れません。また、十津川村から都会に出てきて、故郷を心の奥にしまいながら暮らすひとが年に一度あるかないか十津川村に帰郷した時、廃校になった二村小学校のみんなで叩いた太鼓の鼓動とともに、村での暮らしが豊かな時間だったことを懐かしく思い出すかもしれません。
 わたしたちもまた、あの時の太鼓の音と子どもたちの真剣な顔が今も心に残っています。
 いずれは消えていく運命にあった奇跡のような学校で、奇跡のような子どもたちが太鼓を叩く様子を、わたしの妻が買ったばかりのビデオで撮影したつもりでしたが、撮影ボタンを押し忘れて何一つ写っていないという大失敗のおまけがついた二村小学校の子どもたちとの出会いと別れの旅でした。

 事務所に戻ると、年末大詰めに来ているカレンダーの発送に追われているうちに仕事納めとなり、年内最後の会議を待つ夕方、わたしは映画の配給会社に電話しました。この年のカンヌ映画祭で「萌の朱雀」の河瀬直美監督がカメラドール(新人監督賞)を受賞したという新聞記事を読み、わたしはこの映画の上映会をしたいと提案し、みんなの了解を得ていました。
 「萌の朱雀」は林業の低迷で暮らしが成り立たなくなった奈良県西吉野村を舞台に、少女とその家族のつつましい暮らしを通して、幾世代も受け継がれてきたいのちの営みと、家族が山を去って行くまでを静かに描く、哀しくもいとおしい映画です。
 その年の11月に公開された映画を見て、誤解を恐れずに言えば今までのわたしたちの活動がいわゆる「都会の運動」で、「富の分配」の権利要求が正当なものであったにしても成長神話に基づいたものであったことを痛感しました。
 経済成長のおこぼれを要求する「富」が都会でしか通じないのではと感じ始めていたわたしたちは、バリアフリーも困難で雇用の創出も難しく、過疎化が進む山里や海辺の村、経済成長から取り残されたように思える地域では、自然の厳しさと折り合いをつけて暮らしてきた先人たちの知恵を生かした、いわば里山障害者運動があるのではないか?
 その思いは能勢に住むようになってより強く感じるのですが、残念ながらそれをどうすれば実現できるのかいまだにわからず、わたしの生きている間に見つけることも不可能なのかなとも思っています。かろうじて2人の障害者議員を生み出した「れいわ新選組」の活動に最後の期待とシンパシーをもっているのですが…。
 ともあれ、わたしたちは「萌の朱雀」をたくさんの人々に見てもらいたいと思いました。
 まだ公開が始まったばかりなので難しいかなと思ったのですが、翌年の7月からは市民の上映運動でも配給できるということで、1998年7月18日、映画「萌の朱雀」上映会を開催しました。
 わたしはうかつにも今回の十津川村への旅で、はじめて「萌の朱雀」の西吉野村は十津川村よりずっと五條よりですが、新宮までのバス道から山間に入って行ったところで、同じ風土・地形であることを知りました。今から思えば、二村小学校の子どもたちの奇跡の太鼓が、「萌の朱雀」という映画にわたしたちを誘い込んだのかも知れません。
 わたしの住む能勢も例外ではなく、村おこしや地方再生が喫緊の課題と叫ばれて久しいですが、日本全体が人口減少を避けられない中、個々の村や町もまた過疎化を止めることはできないのかも知れません。しかしながら、それゆえに未来へつなぐ最後の希望としての教育の役割がとても大きいことを、消えゆく小さな学校の子どもたちの奇跡が教えてくれたのでした。

たおやかな木立、むせぶ陽のにおい、あふれる哀しみ。
そして、家族たちは心に深く緑をしまい、山を去って行った。
(「萌の朱雀」上映会パンフレットより)

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映画「萌の朱雀」


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2019.11.01 Fri 奈良県十津川村 二村小学校の思い出

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十津川村・谷瀬のつり橋

 10月27日、28日と、奈良県十津川村に行きました。朝早くに能勢を出てバスと電車を乗り継ぎ、奈良五條駅に到着。近鉄大和八木駅からやってきたバスに乗りました。
 そこから日本一長い長距離路線バスの旅。山高く谷深い渓谷を縫うように続くバス道を走り、JR新宮駅に至る全長168キロ。バスは五條を出発しておよそ2時間半、天辻(てんつじ)峠を超え、十津川村役場前に到着しました。
 このバス路線は2014年に一度存続が危ぶまれましたが、この地域の人々の生活を支えるたったひとつの交通手段であることから県や周辺自治体の助成もあり、また、ちょうどこのころから観光客の利用も徐々に増えはじめ、今に続いています。
 車窓をなでる透き通った風、そびえたつ山の緑、深い谷底を流れる川のきらめきに心がおどりながらも、厳しい自然と寄り添い、たたかい、取り戻せない記憶と果たせなかった夢を抱きながら生きてきた人々の矜持と歴史を感じさせる2時間半のバスの旅でした。
 十津川村は、和歌山・三重両県に接する奈良県最南端、紀伊半島のほぼ中央に位置し、面積は672.38k㎡と、琵琶湖とほぼ同じ大きさです。奈良県全体の約1/5を占め、村としては日本一の広さで、その96%が山林で中央部を十津川が南流しています。
 紀伊山地の急峻な地形のため、周囲とは隔絶した村落共同体として存在し、独特の文化、気風があり、日本の三大秘境の一つといわれていました。 2004年にユネスコ世界遺産登録された二つの道「熊野参詣道小辺路」、「大峯奥駈道」や「日本の滝百選」に選ばれた滝川渓谷の上流にある「笹の滝」など史跡や名勝も数多く点在しています。

 実は、わたしが十津川村を訪れるのははじめてではありませんでした。
 1997年12月22日、箕面の豊能障害者労働センターに在職していた時、Kさん、Yさん、Hさん、細谷しず子(ひろ子)さん、そしてわたし・細谷の5人で、2010年に廃校となった十津川村の二村小学校に、カレンダー40本を届けに行ったのでした。通常は宅急便で送るところ、40本のカレンダーを届けるために十津川村の小学校に箕面からはるばる配達することになったのは、その数年前から校長先生と約束していたからでした。
 豊能障害者労働センターは、「指導員」の給料や作業場の家賃、車の維持費を助成対象とされる障害者作業所ではありません。障害のあるひともないひとも共に働き、給料を分け合ってきた豊能障害者労働センターは、「指導員」として保障される主に健全者の給料だけが確保され、事業によって得たお金を「工賃」として分配する作業所制度(今の「障害者雇用支援継続事業」)ははっきり言えば差別的制度としか思えず、制度の枠に入ることを拒否したのでした。そして後に、箕面市との長い協働の成果として、障害者作業所では禁じられている助成金をどれだけ障害者に分配してもかまわない、全国でも珍しい「障害者事業所制度」を箕面市に誕生させました。
 1988年、豊能障害者労働センターは今まで地域で販売してきたカレンダーの通信販売を始めました。当時このカレンダーは大阪を中心とした障害者の自立をめざす障害者運動グループによって共同制作していて、販売もまたそれぞれの地域に限定されていた事情がありました。わたしたちは地域に縛られずに販路を広げるため、障害のある子もない子も共に学ぶ教育運動で利用してもらう障害児教育自主教材と抱き合わせで全国展開することにしたのでした。
 助成金もなかったこの頃、わたしたちは貧しいながらも障害者も健全者も生活に応じて給料を分け合うために、地域でお店の運営やバザーだけでなく、カレンダーの通信販売でもっと多くの収入を得る必要がありました。
 もちろん、通信販売ははじめてのことでどのように営業すればいいのかもまったくわからない中で、障害児教育自主教材との抱き合わせで、全国の学校に働きかけることを思いつきました。
 全国の教員組合や自治労などの労働組合だけでなく、わたしたちは機関紙の見本を全国津々浦々の学校に送りました。それは郵送料などの費用がかかりすぎる無謀ともいえる営業活動で、突然送られてきた北大阪の小さな障害者団体からの手紙を読んでくれる可能性も少なく、たとえ読んでくれたとしてもそれぞれの地域の障害者団体を差し置いてわたしたちの販売するカレンダーに協力してくれる可能性はほとんどないと覚悟していました。
 それでもわたしたちには夢がありました。障害児教育自主教材ともども、このカレンダーがわたしたちの知らない地域の知らない学校に届けられ、障害があるということで普通に学ぶことからも普通に働くことからも遠ざけられる理不尽な現実を変えていくきっかけになれたら…、と、そんな夢を手紙に託したのでした。
 すると、どうでしょう。手紙を送った全国の学校からぽつりぽつりと返事が返ってきました。都会の学校、山里の学校、海辺の学校、大きな学校、小さな学校…、周りの風景も学校の校舎も、子どもたちの笑顔も知らないけれど、ひとつひとつの手紙の封を開けるとそれぞれの学校の空気が飛び出しました。そして、障害のあるひともないひとも給料を分け合うわたしたちの活動を応援するメッセージを添えて、カレンダーの注文数が書かれていました。
 その中に、十津川村立二村小学校からの手紙もありました。前の年に注文を頂いた学校には次の年からは電話でお願いするようになり、毎年注文してくださるのが校長先生と知りました。そして、山深いところにある小さな学校で子どもたちが自然の厳しさもやさしさも学びながら生き生きと育っている、その姿をぜひ見に来てほしいと言ってくださいました。
 お誘いを受けながら日々の活動に追われてなかなか行けなかったのですが、翌年に校長先生が定年退職されると聞き、今までの感謝の気持ちを伝えたいという思いもあって、この年の冬、ほぼ仕事が終わった年末ぎりぎりに二村小学校を訪れたのでした。
 おそらく、今回バスで行ったのと同じ道を走ったと思います。川に沿った曲がりくねった道とトンネルをいくつか越えて、校長先生との約束通り、昼頃に二村小学校に到着しました。(つづく)

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十津川村立二村小学校跡 2010年、上野地小学校、三村小学校と統合され、十津川第一小学校となり、廃校となるが、保存されている。


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2019.06.22 Sat 助け合う勇気が新しい国家を未来する。 豊能障害者労働センターの慰安旅行

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 少し前になりますが、6月8日、9日、豊能障害者労働センターの慰安旅行に誘っていただき、神戸の「しあわせの村」に行きました。
 退職して16年も経つのに今でも誘ってくれる豊能障害者労働センターに感謝しかなく、少し気後れするところもあるのですが、みんなの好意に甘えて参加させていただきました。
 16年も経てば、わたしが活動していた頃の人もいるものの、新しい人たちがほとんどです。この集団はいわゆる健全者はほとんど変わらず、障害者スタッフがどんどん入ってきて、現在障害のある人約40人を含めて約60人が活動しています。
 一般の会社なら最近はやった映画「終わった人」ではありませんが、10年ひと昔のごとく、やめた会社に出入りすることはないと思うのですが、障害者運動を担う労働センターの場合は専従スタツフをやめても年に一度の大バザーの手伝いをしたり、機関紙の発送作業を手伝ったりする人も多く、わたしもそのひとりです。
 新しいスタツフはほとんど障害者で、彼女彼らはほんとうに屈託がなく、めったにセンターに顔を出さないわたしにも実にやさしい声をかけてくれるのでした。
 労働センターの障害者スタッフは1982年の設立当時からのベテランから新人まで、「障害」というそれぞれの個性を十二分に発揮し、ベテランへの気遣いや新人への心配りをしながら対等に「助け合う」ことが日常になっていて、昔わたしや前代表の河野さんの口癖だった、「来るもの拒まず、去る者追わず」といった運営方針が理念をこえて彼女彼らの日常の行動指針になっているのでした。
 その根本には多岐にわたって自己責任論が声高に求められる今の時代に逆らい、圧倒的に他人を信じ、自分を信じ、他者(友人、仲間)に依存することでひとりひとりの人生を肯定し、助け合ってともに生きる勇気を持つという思想があります。
労働センターの慰安旅行は創設時からあり、最初の旅行は障害者2人、健全者3人のスタッフと周りの支援者を入れてせいぜい15人ほどの旅行でしたから、能勢農場や部落解放同盟北芝支部のマイクロバスを借り、河野さんが運転し、運営委員の浜辺さんの世話で全電通の白浜保養所に一泊しました。それからも毎年近辺の観光地に行きましたが、とにかくトイレを探すのが一番の目的でした。その頃は労働センターにもそれぞれ個人にもお金と言うものがなく、有料の観光施設に入ったことはなく、宿泊所で酒を飲むのだけが楽しみでした。もちろんカラオケもなく、みんなアカペラで歌い、さわいだものでした。
 結構長い間、脳性まひの小泉さんも梶さんも屈強な若者(私もまだその若者のひとりでした)が交代で抱っこしてバスの乗り降りをしたものですが、それが今ではどうでしょう、リフト付きの最新のバスで運転手さんの操作で乗り降りでき、それぞれに「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」からは派遣されたヘルパーさんが同行し、カラオケ設備も充実しているれっきとした観光旅館に泊まることができるようになりました。まさしく、イリイチの名言どおり、貧困もまた近代化したのだとつくづく実感します。
 そして、発足当時と今との決定的な違いは、旅行の計画から当日の段取りやアナウンスまで、障害者スタッフ数名の幹事さんたちが世話してくれることや、カラオケもまた障害者スタッフが歌いまくるのですが、もちろん演歌などはほぼなく、AKBなどのJポップとアニメソングで、わたしなどにはさっぱりわからない歌ばかりなのです。
 豊能障害者労働センターは一般的な障害者作業所のようにサービスを提供する健全者スタッフとサービスを利用する障害者のように内部的にも外部的にも別れていません。
一般的な福祉作業所などではサービスを利用する障害者は「労働者」ではなく、給料ではなく「工賃」としていくばくかのお金が支払われます。
  箕面市独自の制度を利用した事業所である労働センターの場合はリサイクルや通信販売、大衆食堂などの事業で得たお金と市独自の助成金を合わせたお金を障害者も健全者もみんなで分け合っています。
昨今、国が障害者の就労を水増ししていたことが発覚し、国は障害者手帳の有無を厳格にし、障害者雇用を増やしました。そのことで軽度と言われる障害者の雇用が進んだことは評価できるのでしょうが、豊能障害者労働センターの場合は一般企業や行政機関への就労を拒まれる障害者、一般企業が雇わない重度と言われる障害者、働くことは無理とされ、福祉サービスを受けるだけと言われる障害者の就労を実現しています。
 福祉作業所でせいぜい2万円程度の工賃しか得られない障害者が、労働センターでは親元から通う人で9万円、自立した人で12万円の給料が得られるわけは、年間1億円の売り上げがある事業収益と、健全者の給料が指導員と言われる作業所の健全者より格段に低く、自立する障害者の給料と同程度だからです。「共に助け合う」と言われますが、開所した時の赤貧状態の時も、事業所として成り立っている現在も、お金をみんなのお金として分け合うことが労働センターの障害者と健全者の対等性を担保しているのです。
 全国でもあまり例のない運営を約40年も続けてきた結果、障害者は自分自身を「労働者」と自覚することを通り越して、「経営者」として日常的に傾きがちな労働センターの経営を担うようになりました。この「経営を担う」という考えは一般企業の労働者と比べてもよりスキルが高いと言えるのではないでしょうか。しかも、労働センターの障害者は事業を通して箕面市内での露出度は高く、一億円を売り上げる事業は市民が買い手であるだけでなく、その事業に参加することによって成り立つ市民事業にまで成長しました。

 そんな労働センターの活動は事務所を含め4つのリサイクル店と食堂、それに移動販売と各所に別れていて日常ではわからないのですが、年に一度の慰安旅行の時にその全貌が現れます。事業と経営を障害者自身が担うという、彼女彼らにとって当たり前の日常はそのまま、「旅行」という事業をプロデュースすることになり、だれひとり取り残されないそのプロデュース力は素晴らしいもので、彼女彼らに任せればはっきり言ってそんなに豪華な旅行でなくても、飛び切り楽しい特別の時間に変貌するのでした。
ひとりひとりの障害者が旅行と言うサービスの利用者にとどまらず、幹事だけに任さず全員が年に一度の大事業を最後まで事故の起こらないように助け合う姿は、4割を超す非正規労働者の切ない権利を踏みにじり、移民として日本社会に迎え入れないで外国人労働者を使い捨てしようとする国に抗して、国家・集団・組織運営の未来の在り方への究極の提案の一つと言えるのではないでしょうか。
 そんなことを感じながら、こんないとおしいひとたちがいるかぎり地域社会も国家もまだ捨てたものでもないなと勇気をもらった旅行でした。
 こんな素敵な体験をプレゼントしてくれた豊能障害者労働センターのみなさん、ありがとうございました。

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2017.07.04 Tue たった一粒の涙からはじまる革命、豊能障害者労働センター35年と河野秀忠さん

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 7月1日、豊能障害者労働センターの35周年パーティーに参加しました。
 豊能障害者労働センターの35年という長い時の間で、わたしは1987年から2003年までの16年間、活動を共にしました。110人をこえる参加者の方々の中には懐かしい顔が半分、知らない顔が半分と、わたしが在職した16年と、その活動から去った14年という年月につりあうようでした。

シュプレヒコールの波通り過ぎていく 変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変わらない夢を 見たがる者たちと戦うため

 と歌う中島みゆきの名曲「世情」の歌詞さながらに、豊能障害者労働センターは時の荒野を疾走してきました。
 社会を形成・支配する権力のみならず、それに抵抗する人権運動や平和運動にもぬぐいがたく隠れている「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」巨大な力にあらがい、アナーキーな純情という変わらない夢を(時代の)流れに求めて35年。
 世界に一つしかないかけがえのない個性を尊敬し、助け合い、補い合い、どこまでも自由に悪戦苦闘しつづける豊能障害者労働センターはこれからも箕面のみならず、日本社会、さらには世界の声なき叫びが流す無数の涙をきらめく星座に滲ませ、輝き続けることでしょう。

 わたしが豊能障害者労働センターに足を踏み入れたのは、1982年の春でした。箕面市桜井の路地裏の突き当り、その頃で築20年の民家に入ると、現代表の小泉祥一さんと、かつて箕面の共に学ぶ教育運動の先頭にいた梶敏之さんという脳性麻痺者2人と、今は箕面市障害者の生活と労働推進協議会の理事長・武藤芳和さん、被災障害者支援ゆめ風基金事務局長・八幡隆司さんと、あとひとり女性スタッフの5人が粉せっけんを詰めていました。
 35歳のその時まで世の中の理不尽な出来事に憤り、いろいろな市民運動に参加しようと思っても、子どもの頃からの対人恐怖症で吃音のわたしはひとと話すことが苦手で打ち解けられませんでした。
 もうひとつ正直に言えばどんな小さな組織にも権力が存在し、その権力に依存することで運動が成り立っている姿を目の当たりにすることが多く、なじめないでいたのでした。
 そんなわたしがもぐもぐと自分の名前もろくに言えないでいると、小泉さんがブレイクダンスのように体を捻じ曲げ、足を挙げながら、「どっ…、どうも」と小泉語で話しかけてくれました。その瞬間、どもりで苦しみ続けた35年間の桎梏から解き放たれた思いでした。
 たったひとつの言葉が言えないためにたくさんの言葉を乱発し、言葉に翻弄されてきたわたしはこの時、言葉は口からだけ発せられるものではなく、伝えたいと思う気持ちと分かり合いたいと願う純情な心と身体によって生まれるものなのだと教えてもらいました。
 ちなみに小泉語は今も健在で、今回のパーティーでも絶妙なタイミングで間を入れる挨拶を聴きながら、「ああ、この人もまたコミュニケーションの達人だった」とあらためて感じました。
 静かでゆっくりした時間が流れていたあの頃から豊能障害者労働センターは大きく進化しました。事業の広がりもスタッフの人数もさることながら、一般企業への就労を拒まれる障害者の所得を保障するためにみんなで給料を分け合う活動を箕面市独自の障害者雇用施策にまで普遍化し、制度の成果を箕面市が国に提案するまでに育て上げた実績は高く評価されるべきだと思います。
 設立当初は年間120万円の運営資金をつくるために毎日曜日、大阪梅田でのカンパ活動で補てんしていたものが、今では地域事業と通信販売で年間1億円を売り上げるまでなっています。
 そして労働センターのすばらしいところは、これだけの進化を遂げても設立当初の理念が消えてしまうどころか、運営のありようが全く変わらない所にあります。

1.障がいのあるひともないひとも共に働き、得た収益をみんなで分け合うこと。
2.すべてのスタッフは対等で、利用者と職員というように分けないこと。
3.障がいのあるないにかかわらず、誰かの問題をそのひと抜きで決めないこと。
4.月に一度の運営会議で活動方針を決め、会議には障害者を含む全員が参加できること。

 豊能障害者労働センターの根幹をなすこれらの約束は、センターの設立以前に全国の障害者解放運動の一端を担い、けん引してきた前代表の河野秀忠さんなくしてはできませんでした。
 河野さんはさまざまな人権・平和運動や労働組合運動をしてきた経験から、豊能障害者労働センターをほんとうに民主的な運営形態にしようと夢見たのだと思います。建前と本音を使い分けず、得たお金はみんなで分けるという「財布はひとつ」も、利用者と職員という分け方をしないことも、会議には全員が参加でき、全員でセンターを担うという考えも長い間理想と言われながらも、豊能障害者労働センターの障害者スタッフがけん引する形で河野さんの夢を実現させたのでした。
 昔話だけれど、はじめてワープロを手に入れた時、小泉さんが担当したレジメの表題が「出城」となっていて、「これなーに」と聞くと「レジメ」の入力間違いとわかり大笑いしたのが昨日のようです。
 こんな笑い話をつづけながら、豊能障害者労働センターの障害者スタッフは自分の仕事を開拓し、獲得していきました。今ではお店の切り盛りから機関紙「積木」の印刷・発送まで障害者スタッフが担い、河野さんが夢見た新しい組織運営のありようが現実のものになっています。
 あの頃、月末になると河野秀忠さんがやってきて運営会議が始まるのですが、総勢6人に運営委員2、3人が参加し、障害者スタッフの生活状況から粉せっけんの販売状況、そしていつも真っ赤っ赤の会計報告と半月遅れの給料遅配など、傍から見れば楽しくないはずのこの会議が当時のわたしたちの楽しみのひとつでした。
 というのも、箕面の町からほとんど出たこともなく、月に一度やって来る河野さんが全国の障害者運動の話や、1970年代から始まる障害者解放運動の歴史、そして時には60年安保、70年安保闘争、労働組合運動からマルクス、レーニン、トロツキーのことを、まるで新作落語のような語り口で物語ってくれるのを楽しみにしていたのでした。運営委員を名乗って押しかけてたわたしは、ドイツの革命家・ローザ・ルクセンブルクを河野さんから教えてもらいました。
 どんどん仲間の団体が福祉法人やNPO法人になり、資金繰りや設備投資資金の調達が楽になっていく中でも、「豊能障害者労働センターは何者でもない集団でありたい」と話した河野さんの夢の中では、労働センターは「たった一粒の涙からはじまる革命」でした。ちょうど戦艦ポチョムキンの「たった一杯のスープ」のように…。

 その河野秀忠さんが今、病と闘っています。河野さんを友人とも恩人とも思うたくさんのひとびとの中に豊能障害者労働センターもわたしもいます。また箕面市人権宣言の採択をはじめ、河野さんは箕面市の人権・福祉施策に少なからず役割を果たしたといっても過言ではないでしょう。
 わたしたちの元に帰って来れる日はまだまだ遠いかもしれませんが、必ずや帰って来てくれるものと信じ、願っています。その時が来たら久しぶり酒を飲みかわしながら、ゲバラの話などを聞かせてください。

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば、
できもしないことを考えているといわれるならば、
何千回でも答えよう。
「その通りだ」と。(チェ・ゲバラ)

中島みゆき「世情」
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2016.10.10 Mon 秋の天神さんの風物詩 「天神さんの古本まつり」 11日最終日

2016年天神さんの古本まつり

 昨日は「天神さんの古本まつり」に行ってきました。
 この催しは大阪古書研究会が大阪の古書文化の聖地といえる大阪天満宮の協力を得て1998年から毎年開いているもので、豊能障害者労働センターは最初から参加させてもらっています。
 豊能障害者労働センターのリサイクル事業は1995年の阪神淡路大震災の救援バザーをきっかけに大きな事業になりました。  箕面市内はもとより、いまでは付近の町からもバザー用品の回収のお声がかかり、それを4つのお店と移動バザーで販売して障害者の所得をつくりだしているだけでなく、それらのお店はすべて障害者スタッフが切り盛りしていて、働く場をつくりだす大切な事業になりました。
 古本の回収も多いのですが、回収の手間の割にほとんど商売にならない状態でした。また、回収した本の中には値打のありそうな本もあり、それらは売らないまま倉庫に眠っていました。
 1998年のことでした。当時のスタッフのひとりが大阪かっぱ横丁の古本屋さんに値打のありそうな本を持っていきました。そのお店の店主・Sさんに豊能障害者労働センターの活動を説明すると好意的に話を聞いて下さり、ストックしているたくさんの本を高い値段で買って下さいました。
 それからしばらくして再度本を買い取っていただこうと連絡すると、Sさんは「これらの本を私が引き取ってもいいのですが、今度わたしたちが開く古本まつりに出店して直接売ったらどうですか?特別出店で費用が掛からないように仲間に協力をお願いします」と言ってくださいました。思いがけないお話をいただき、大阪古書研究会のみなさんに感謝しつつ、このお祭りに参加させていただくことになりました。
 今でこそ古本屋さんと変わらない店構えになりましたが、当初は本棚もろくになく、あり合わせの棚をつくり、いよいよ初日を迎えました。
 その日はあいにくの雨でしたが、たくさんのお客さんであふれました。わたしは今でもその日の雨の音と、お客さんたちが神社の境内の砂地を踏むひたひたという音を覚えています。音楽などはいっさいかからないのですが、ただひたすら雨音と足音が奏でるハーモニーはどんなBGMよりも素敵な音楽でした。それはこのおまつりにためにやってきた無数の本たちとお客さんたちとの出会いの音楽でした。
 あるひとから別れた本がまた別のひとと出会うことができる古本は、新刊よりもはげしくその本を必要とするひとを待ちつづけているのでしょう。ひともまた、誰かから手渡されたその本が自分の人生の道しるべになる、そんな切実な願いをかなえてくれる本を求めて、このおまつりに来るのだと思います。
 それから毎年、豊能障害者労働センターはこのおまつりに参加させていただき、今ではわたしもふくめていきさつを知っている当初のスタッフはほとんどいないのに、若いスタッフが古本屋さんの仲間になっていて、愛されていることがとてもうれしいです。また、このおまつりがきっかけで、豊能障害者労働センターは箕面で独自に古本市を毎年2回開いています。
 
 天神さんの古本まつりも、今年で19回になりました。時の過ぎて行くのはほんとうに早いものですが、今も変わらずにぎわうこのおまつりは、秋の天神さんの風物詩になっています。
 そして、いまもまた、お客さんの足音がひたひたと境内に静かに響いています。

 天神さんの古本まつりは11日(火)まで開かれています。
 今日は夕方5時まで、最終日の11日は4時までになっています。
 みなさんのご来場を心よりお待ちしています。

2016年天神さんの古本まつり


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