FC2ブログ

ホーム > 豊能障害者労働センター

2019.06.22 Sat 助け合う勇気が新しい国家を未来する。 豊能障害者労働センターの慰安旅行

toyono2019-1.jpg

 少し前になりますが、6月8日、9日、豊能障害者労働センターの慰安旅行に誘っていただき、神戸の「しあわせの村」に行きました。
 退職して16年も経つのに今でも誘ってくれる豊能障害者労働センターに感謝しかなく、少し気後れするところもあるのですが、みんなの好意に甘えて参加させていただきました。
 16年も経てば、わたしが活動していた頃の人もいるものの、新しい人たちがほとんどです。この集団はいわゆる健全者はほとんど変わらず、障害者スタッフがどんどん入ってきて、現在障害のある人約40人を含めて約60人が活動しています。
 一般の会社なら最近はやった映画「終わった人」ではありませんが、10年ひと昔のごとく、やめた会社に出入りすることはないと思うのですが、障害者運動を担う労働センターの場合は専従スタツフをやめても年に一度の大バザーの手伝いをしたり、機関紙の発送作業を手伝ったりする人も多く、わたしもそのひとりです。
 新しいスタツフはほとんど障害者で、彼女彼らはほんとうに屈託がなく、めったにセンターに顔を出さないわたしにも実にやさしい声をかけてくれるのでした。
 労働センターの障害者スタッフは1982年の設立当時からのベテランから新人まで、「障害」というそれぞれの個性を十二分に発揮し、ベテランへの気遣いや新人への心配りをしながら対等に「助け合う」ことが日常になっていて、昔わたしや前代表の河野さんの口癖だった、「来るもの拒まず、去る者追わず」といった運営方針が理念をこえて彼女彼らの日常の行動指針になっているのでした。
 その根本には多岐にわたって自己責任論が声高に求められる今の時代に逆らい、圧倒的に他人を信じ、自分を信じ、他者(友人、仲間)に依存することでひとりひとりの人生を肯定し、助け合ってともに生きる勇気を持つという思想があります。
労働センターの慰安旅行は創設時からあり、最初の旅行は障害者2人、健全者3人のスタッフと周りの支援者を入れてせいぜい15人ほどの旅行でしたから、能勢農場や部落解放同盟北芝支部のマイクロバスを借り、河野さんが運転し、運営委員の浜辺さんの世話で全電通の白浜保養所に一泊しました。それからも毎年近辺の観光地に行きましたが、とにかくトイレを探すのが一番の目的でした。その頃は労働センターにもそれぞれ個人にもお金と言うものがなく、有料の観光施設に入ったことはなく、宿泊所で酒を飲むのだけが楽しみでした。もちろんカラオケもなく、みんなアカペラで歌い、さわいだものでした。
 結構長い間、脳性まひの小泉さんも梶さんも屈強な若者(私もまだその若者のひとりでした)が交代で抱っこしてバスの乗り降りをしたものですが、それが今ではどうでしょう、リフト付きの最新のバスで運転手さんの操作で乗り降りでき、それぞれに「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」からは派遣されたヘルパーさんが同行し、カラオケ設備も充実しているれっきとした観光旅館に泊まることができるようになりました。まさしく、イリイチの名言どおり、貧困もまた近代化したのだとつくづく実感します。
 そして、発足当時と今との決定的な違いは、旅行の計画から当日の段取りやアナウンスまで、障害者スタッフ数名の幹事さんたちが世話してくれることや、カラオケもまた障害者スタッフが歌いまくるのですが、もちろん演歌などはほぼなく、AKBなどのJポップとアニメソングで、わたしなどにはさっぱりわからない歌ばかりなのです。
 豊能障害者労働センターは一般的な障害者作業所のようにサービスを提供する健全者スタッフとサービスを利用する障害者のように内部的にも外部的にも別れていません。
一般的な福祉作業所などではサービスを利用する障害者は「労働者」ではなく、給料ではなく「工賃」としていくばくかのお金が支払われます。
  箕面市独自の制度を利用した事業所である労働センターの場合はリサイクルや通信販売、大衆食堂などの事業で得たお金と市独自の助成金を合わせたお金を障害者も健全者もみんなで分け合っています。
昨今、国が障害者の就労を水増ししていたことが発覚し、国は障害者手帳の有無を厳格にし、障害者雇用を増やしました。そのことで軽度と言われる障害者の雇用が進んだことは評価できるのでしょうが、豊能障害者労働センターの場合は一般企業や行政機関への就労を拒まれる障害者、一般企業が雇わない重度と言われる障害者、働くことは無理とされ、福祉サービスを受けるだけと言われる障害者の就労を実現しています。
 福祉作業所でせいぜい2万円程度の工賃しか得られない障害者が、労働センターでは親元から通う人で9万円、自立した人で12万円の給料が得られるわけは、年間1億円の売り上げがある事業収益と、健全者の給料が指導員と言われる作業所の健全者より格段に低く、自立する障害者の給料と同程度だからです。「共に助け合う」と言われますが、開所した時の赤貧状態の時も、事業所として成り立っている現在も、お金をみんなのお金として分け合うことが労働センターの障害者と健全者の対等性を担保しているのです。
 全国でもあまり例のない運営を約40年も続けてきた結果、障害者は自分自身を「労働者」と自覚することを通り越して、「経営者」として日常的に傾きがちな労働センターの経営を担うようになりました。この「経営を担う」という考えは一般企業の労働者と比べてもよりスキルが高いと言えるのではないでしょうか。しかも、労働センターの障害者は事業を通して箕面市内での露出度は高く、一億円を売り上げる事業は市民が買い手であるだけでなく、その事業に参加することによって成り立つ市民事業にまで成長しました。

 そんな労働センターの活動は事務所を含め4つのリサイクル店と食堂、それに移動販売と各所に別れていて日常ではわからないのですが、年に一度の慰安旅行の時にその全貌が現れます。事業と経営を障害者自身が担うという、彼女彼らにとって当たり前の日常はそのまま、「旅行」という事業をプロデュースすることになり、だれひとり取り残されないそのプロデュース力は素晴らしいもので、彼女彼らに任せればはっきり言ってそんなに豪華な旅行でなくても、飛び切り楽しい特別の時間に変貌するのでした。
ひとりひとりの障害者が旅行と言うサービスの利用者にとどまらず、幹事だけに任さず全員が年に一度の大事業を最後まで事故の起こらないように助け合う姿は、4割を超す非正規労働者の切ない権利を踏みにじり、移民として日本社会に迎え入れないで外国人労働者を使い捨てしようとする国に抗して、国家・集団・組織運営の未来の在り方への究極の提案の一つと言えるのではないでしょうか。
 そんなことを感じながら、こんないとおしいひとたちがいるかぎり地域社会も国家もまだ捨てたものでもないなと勇気をもらった旅行でした。
 こんな素敵な体験をプレゼントしてくれた豊能障害者労働センターのみなさん、ありがとうございました。

toyono2019-2.jpg
web拍手 by FC2

2017.07.04 Tue たった一粒の涙からはじまる革命、豊能障害者労働センター35年と河野秀忠さん

toyono35.jpg

 7月1日、豊能障害者労働センターの35周年パーティーに参加しました。
 豊能障害者労働センターの35年という長い時の間で、わたしは1987年から2003年までの16年間、活動を共にしました。110人をこえる参加者の方々の中には懐かしい顔が半分、知らない顔が半分と、わたしが在職した16年と、その活動から去った14年という年月につりあうようでした。

シュプレヒコールの波通り過ぎていく 変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて変わらない夢を 見たがる者たちと戦うため

 と歌う中島みゆきの名曲「世情」の歌詞さながらに、豊能障害者労働センターは時の荒野を疾走してきました。
 社会を形成・支配する権力のみならず、それに抵抗する人権運動や平和運動にもぬぐいがたく隠れている「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる」巨大な力にあらがい、アナーキーな純情という変わらない夢を(時代の)流れに求めて35年。
 世界に一つしかないかけがえのない個性を尊敬し、助け合い、補い合い、どこまでも自由に悪戦苦闘しつづける豊能障害者労働センターはこれからも箕面のみならず、日本社会、さらには世界の声なき叫びが流す無数の涙をきらめく星座に滲ませ、輝き続けることでしょう。

 わたしが豊能障害者労働センターに足を踏み入れたのは、1982年の春でした。箕面市桜井の路地裏の突き当り、その頃で築20年の民家に入ると、現代表の小泉祥一さんと、かつて箕面の共に学ぶ教育運動の先頭にいた梶敏之さんという脳性麻痺者2人と、今は箕面市障害者の生活と労働推進協議会の理事長・武藤芳和さん、被災障害者支援ゆめ風基金事務局長・八幡隆司さんと、あとひとり女性スタッフの5人が粉せっけんを詰めていました。
 35歳のその時まで世の中の理不尽な出来事に憤り、いろいろな市民運動に参加しようと思っても、子どもの頃からの対人恐怖症で吃音のわたしはひとと話すことが苦手で打ち解けられませんでした。
 もうひとつ正直に言えばどんな小さな組織にも権力が存在し、その権力に依存することで運動が成り立っている姿を目の当たりにすることが多く、なじめないでいたのでした。
 そんなわたしがもぐもぐと自分の名前もろくに言えないでいると、小泉さんがブレイクダンスのように体を捻じ曲げ、足を挙げながら、「どっ…、どうも」と小泉語で話しかけてくれました。その瞬間、どもりで苦しみ続けた35年間の桎梏から解き放たれた思いでした。
 たったひとつの言葉が言えないためにたくさんの言葉を乱発し、言葉に翻弄されてきたわたしはこの時、言葉は口からだけ発せられるものではなく、伝えたいと思う気持ちと分かり合いたいと願う純情な心と身体によって生まれるものなのだと教えてもらいました。
 ちなみに小泉語は今も健在で、今回のパーティーでも絶妙なタイミングで間を入れる挨拶を聴きながら、「ああ、この人もまたコミュニケーションの達人だった」とあらためて感じました。
 静かでゆっくりした時間が流れていたあの頃から豊能障害者労働センターは大きく進化しました。事業の広がりもスタッフの人数もさることながら、一般企業への就労を拒まれる障害者の所得を保障するためにみんなで給料を分け合う活動を箕面市独自の障害者雇用施策にまで普遍化し、制度の成果を箕面市が国に提案するまでに育て上げた実績は高く評価されるべきだと思います。
 設立当初は年間120万円の運営資金をつくるために毎日曜日、大阪梅田でのカンパ活動で補てんしていたものが、今では地域事業と通信販売で年間1億円を売り上げるまでなっています。
 そして労働センターのすばらしいところは、これだけの進化を遂げても設立当初の理念が消えてしまうどころか、運営のありようが全く変わらない所にあります。

1.障がいのあるひともないひとも共に働き、得た収益をみんなで分け合うこと。
2.すべてのスタッフは対等で、利用者と職員というように分けないこと。
3.障がいのあるないにかかわらず、誰かの問題をそのひと抜きで決めないこと。
4.月に一度の運営会議で活動方針を決め、会議には障害者を含む全員が参加できること。

 豊能障害者労働センターの根幹をなすこれらの約束は、センターの設立以前に全国の障害者解放運動の一端を担い、けん引してきた前代表の河野秀忠さんなくしてはできませんでした。
 河野さんはさまざまな人権・平和運動や労働組合運動をしてきた経験から、豊能障害者労働センターをほんとうに民主的な運営形態にしようと夢見たのだと思います。建前と本音を使い分けず、得たお金はみんなで分けるという「財布はひとつ」も、利用者と職員という分け方をしないことも、会議には全員が参加でき、全員でセンターを担うという考えも長い間理想と言われながらも、豊能障害者労働センターの障害者スタッフがけん引する形で河野さんの夢を実現させたのでした。
 昔話だけれど、はじめてワープロを手に入れた時、小泉さんが担当したレジメの表題が「出城」となっていて、「これなーに」と聞くと「レジメ」の入力間違いとわかり大笑いしたのが昨日のようです。
 こんな笑い話をつづけながら、豊能障害者労働センターの障害者スタッフは自分の仕事を開拓し、獲得していきました。今ではお店の切り盛りから機関紙「積木」の印刷・発送まで障害者スタッフが担い、河野さんが夢見た新しい組織運営のありようが現実のものになっています。
 あの頃、月末になると河野秀忠さんがやってきて運営会議が始まるのですが、総勢6人に運営委員2、3人が参加し、障害者スタッフの生活状況から粉せっけんの販売状況、そしていつも真っ赤っ赤の会計報告と半月遅れの給料遅配など、傍から見れば楽しくないはずのこの会議が当時のわたしたちの楽しみのひとつでした。
 というのも、箕面の町からほとんど出たこともなく、月に一度やって来る河野さんが全国の障害者運動の話や、1970年代から始まる障害者解放運動の歴史、そして時には60年安保、70年安保闘争、労働組合運動からマルクス、レーニン、トロツキーのことを、まるで新作落語のような語り口で物語ってくれるのを楽しみにしていたのでした。運営委員を名乗って押しかけてたわたしは、ドイツの革命家・ローザ・ルクセンブルクを河野さんから教えてもらいました。
 どんどん仲間の団体が福祉法人やNPO法人になり、資金繰りや設備投資資金の調達が楽になっていく中でも、「豊能障害者労働センターは何者でもない集団でありたい」と話した河野さんの夢の中では、労働センターは「たった一粒の涙からはじまる革命」でした。ちょうど戦艦ポチョムキンの「たった一杯のスープ」のように…。

 その河野秀忠さんが今、病と闘っています。河野さんを友人とも恩人とも思うたくさんのひとびとの中に豊能障害者労働センターもわたしもいます。また箕面市人権宣言の採択をはじめ、河野さんは箕面市の人権・福祉施策に少なからず役割を果たしたといっても過言ではないでしょう。
 わたしたちの元に帰って来れる日はまだまだ遠いかもしれませんが、必ずや帰って来てくれるものと信じ、願っています。その時が来たら久しぶり酒を飲みかわしながら、ゲバラの話などを聞かせてください。

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば、
できもしないことを考えているといわれるならば、
何千回でも答えよう。
「その通りだ」と。(チェ・ゲバラ)

中島みゆき「世情」
web拍手 by FC2

2016.10.10 Mon 秋の天神さんの風物詩 「天神さんの古本まつり」 11日最終日

2016年天神さんの古本まつり

 昨日は「天神さんの古本まつり」に行ってきました。
 この催しは大阪古書研究会が大阪の古書文化の聖地といえる大阪天満宮の協力を得て1998年から毎年開いているもので、豊能障害者労働センターは最初から参加させてもらっています。
 豊能障害者労働センターのリサイクル事業は1995年の阪神淡路大震災の救援バザーをきっかけに大きな事業になりました。  箕面市内はもとより、いまでは付近の町からもバザー用品の回収のお声がかかり、それを4つのお店と移動バザーで販売して障害者の所得をつくりだしているだけでなく、それらのお店はすべて障害者スタッフが切り盛りしていて、働く場をつくりだす大切な事業になりました。
 古本の回収も多いのですが、回収の手間の割にほとんど商売にならない状態でした。また、回収した本の中には値打のありそうな本もあり、それらは売らないまま倉庫に眠っていました。
 1998年のことでした。当時のスタッフのひとりが大阪かっぱ横丁の古本屋さんに値打のありそうな本を持っていきました。そのお店の店主・Sさんに豊能障害者労働センターの活動を説明すると好意的に話を聞いて下さり、ストックしているたくさんの本を高い値段で買って下さいました。
 それからしばらくして再度本を買い取っていただこうと連絡すると、Sさんは「これらの本を私が引き取ってもいいのですが、今度わたしたちが開く古本まつりに出店して直接売ったらどうですか?特別出店で費用が掛からないように仲間に協力をお願いします」と言ってくださいました。思いがけないお話をいただき、大阪古書研究会のみなさんに感謝しつつ、このお祭りに参加させていただくことになりました。
 今でこそ古本屋さんと変わらない店構えになりましたが、当初は本棚もろくになく、あり合わせの棚をつくり、いよいよ初日を迎えました。
 その日はあいにくの雨でしたが、たくさんのお客さんであふれました。わたしは今でもその日の雨の音と、お客さんたちが神社の境内の砂地を踏むひたひたという音を覚えています。音楽などはいっさいかからないのですが、ただひたすら雨音と足音が奏でるハーモニーはどんなBGMよりも素敵な音楽でした。それはこのおまつりにためにやってきた無数の本たちとお客さんたちとの出会いの音楽でした。
 あるひとから別れた本がまた別のひとと出会うことができる古本は、新刊よりもはげしくその本を必要とするひとを待ちつづけているのでしょう。ひともまた、誰かから手渡されたその本が自分の人生の道しるべになる、そんな切実な願いをかなえてくれる本を求めて、このおまつりに来るのだと思います。
 それから毎年、豊能障害者労働センターはこのおまつりに参加させていただき、今ではわたしもふくめていきさつを知っている当初のスタッフはほとんどいないのに、若いスタッフが古本屋さんの仲間になっていて、愛されていることがとてもうれしいです。また、このおまつりがきっかけで、豊能障害者労働センターは箕面で独自に古本市を毎年2回開いています。
 
 天神さんの古本まつりも、今年で19回になりました。時の過ぎて行くのはほんとうに早いものですが、今も変わらずにぎわうこのおまつりは、秋の天神さんの風物詩になっています。
 そして、いまもまた、お客さんの足音がひたひたと境内に静かに響いています。

 天神さんの古本まつりは11日(火)まで開かれています。
 今日は夕方5時まで、最終日の11日は4時までになっています。
 みなさんのご来場を心よりお待ちしています。

2016年天神さんの古本まつり


web拍手 by FC2

2016.04.27 Wed 自由になるための自由、自由になろうとする自由・豊能障害者労働センターの慰安旅行

豊能障害者労働センター旅行

 4月23日、24日と、豊能障害者労働センターの旅行に参加させてもらいました。
 豊能障害者労働センターの旅行はまさしく「ザ・慰安旅行」の極め付けのような旅行で、なんといっても総勢41人の中に世間でいうところの「障害者」が何人いるかということなどどうでもよくて、障害者スタッフのテンションの高さは生半可ではなく、そのひとりひとりのテンションの高さが共鳴したりぶつかったりして総体のテンションの異様な高さを生み出しています。実際のところ、旅程そのものは一泊二日であまり冒険をするわけにはいかない旅行なんですが、この旅行を思いっきり楽しみにして日が近づくにつれてずいぶん入れこんできた障害者スタッフのテンションが旅行当日に爆発するという感じなんです。
 今回は岡山県赤磐市の農業公園ドイツの森から和気町の和気鵜飼谷温泉、あくる日にイチゴ狩りを楽しみ、昼食後岐路に着くという旅程でした。
 バスの中、ドイツの森での見物や体験、旅館に着いてからのお風呂、食事とカラオケタイム、その後の二次会、あくる日のイチゴ狩りと、そんなにアトラクションがあるわけではないのですが、とにかくみんな楽しそうでワイワイガヤガヤ、「自分にやさしく、他人にきびしく」障害者のひとたちが旅行を引っ張って行きます。
 寝る時の部屋割りと別に昼間の行動を共にする6チームがあり、「笑うようなチーム」、「楽しいチーム」、「世界の夢チーム」、「おどるチーム」、「酔っているチーム」などユニークな名前のチームに分かれて行動するのですが、わたしは「にじチーム」に入れてもらいました。
 ドイツの森につくとそれぞれのチームに分かれましたが、わたしたちのチームはTさんがワインを飲みたいと言い出し、早速ボトル1本を四人でわけて飲みました。チームは7人いて、他の3人は気の毒にもわたしたちが飲み終わるまで待たせる結果になりました。
 Tさんとは以前にあったことがありましたが、今回の旅行で親しくなり、彼女はフェイスブックの達人みたいで、初心者のわたしは大変勉強になりました。
 また体験コースとして万華鏡をつくりました。店員さんの説明では簡単で10分ほどでできるとなっていたのですが、実際にやり始めると不器用なわたしたちに急きょ3人の店員さんがつきっきりで指導してくれました。ひとりは外側の表面に張り付ける色紙に大量の接着剤をつけ、ひとりは何もせず、しかたなく店員さんが説明しながら作るのを「次はどうするの?」と急かしました。わたしが「最強の不器用チームでしょ」と言うと、「そんなことないですよ」とやさしい声と裏腹に顔の表情が硬いので思わず笑ってしまいました。
 旅館に着くとそれぞれ助け合いながら風呂に入り、食事の後のカラオケタイムは障害者の独壇場です。KOさんの「愛人」と、KAさんの「与作」、Yさんの「モーニング」(岸田智史)は今も健在の中、びっくりするのが若い障害者のパフォーマンスです。
 今回の旅行ではMさんがすごかった。Mさんはお父さんが箕面市役所に勤めていて、毎年のバザーやイベント、カレンダーの販売などで協力してくれる豊能障害者労働センターの良き理解者のひとりです。彼女がまだ赤ちゃんだった時から知っていましたので、彼女が労働センターのスタッフになったと聞いた時、世代の移り変わりとともに世代をこえて伝わって行く労働センターの活動を誇らしく思ったものです。
 彼女は「ダウン症」で、やはりダウン症のひとは芸術の才能に優れているひとが多く、彼女も歌といいダンスといい目をみはるものでした。
 彼女たち彼たちの歌を聴いているとカラオケ文化もまんざら悪くはないなと思ったのと同時に、やはり歌は歌いたい人が歌い、その歌を受け止める心に流れてこそ歌になることを教えてもらいました。まさしく島津亜矢が歌う阿久悠作詞の「思い出よありがとう」のように、「歌よりも歌らしく 心を揺さぶる」とは、このことなのだと思います。
 楽しい宴も終わり風呂に入り、二次会部屋で少し時間をつぶしてから寝る部屋に戻りました。3人で寝たのですが、これがまたわたしもふくめて変な3人組で、Wさんはなぜかひとりで現地に来て合流し、食事の時に豪勢なオードブルを振る舞い、あくる日またホテルからタクシーで去って行くという人物。
 もうひとりのHさんは小柄な青年で、熊本地震が一面に掲載されている新聞を片手に、いつも一生懸命に言葉を繰り返すのですが、余程の付き合いがないと何のことを言ってるのかよくわからないのです。ただ、今回少し長く一緒にいて、彼にとってのいろいろな事件を伝えたいと必死に言葉を繰り返しているのだと知りました。
 Hさんに限らず彼女たち彼たちはコミュニケーションの達人たちで、究極のコミュニケーションは言葉だけにあるのではなく、必死に伝えたいと思う心にあるのでしょう。そして、伝えたい心が依って立つところは相手や仲間に対する底抜けの信頼にあり、自分が何者かをさらけ出し、他者の存在を全面的に受け入れることにあるのです。
 実際、今回の旅行でも何回か口喧嘩がありましたが誰も止めに入らず、結局のところは当事者同士の和解への努力にゆだねたり、自己主張が行き過ぎると結構激しく障害者同士でバッシングし、本人がそれを受け入れるといった自浄作用がここにはあります。豊能障害者労働センターのひとたちの猥雑さ、テンションの高さはそこからくるのであり、それは何者によっても整然と抑え込まれたりしない、いやできない自由そのものなのだと思います。
 いま安保法制への異議申し立てや「責任を伴わない自由」をだめだとする自民党の憲法草案への異議申し立てをする時、民主主義にとって最も大切なものは多数決などではもちろんなく、たったひとりの人間の自由であり、だからこそ他者の自由もまた大切なものなのだと、豊能障害者労働センターの障害者の言葉と行動から学ばせてもらった旅行でした。

「どんなに自由をうばわれても人間には最後にひとつだけ自由がのこる。それは自由になろうとする自由です。」(竹中労)

「自由になる自由がある 立ち尽くす 見送りびとの影」
(宇多田ヒカル「真夏の通り雨」)

宇多田ヒカル「真夏の通り雨」
宇多田ヒカルの復帰作はこの曲とNHK朝のドラマの主題曲「花束を君に」は、どちらもとてもはっとする言葉メロデイが刺激的な楽曲です。このひとはJポップといえるのかどうかわからないですが、この2曲を聞いていると、このひとに島津亜矢の曲をつくってほしいなとつくづく思います。島津亜矢を日本のボーカリストとして正しく評価されるきっかけになるのではないかと思うからです。

竹中労語る 天安門事件
この映像は1988年10月11日から1992年10月16日まで放送されたテレビ朝日の深夜帯番組にレギュラー出演していた竹中労の発言記録です。この番組は一週間にあったさまざまな事件や政治的な問題を出席者が自分の意見を言う番組で、東京地域のみの放送だったらしいです。わたしはこんな番組があったことも全く知らず、今回竹中労についてネット検索して発見しました。かなりの数の記録があり、今聴けば竹中労の遺言のように聴こえます。このひとはほんとうに信頼に値するジャーナリストであったとつくつぐ思いました。

豊能障害者労働センター旅行

豊能障害者労働センター旅行

豊能障害者労働センター旅行








web拍手 by FC2

2016.01.17 Sun 阪神淡路大震災と豊能障害者労働センターと村上春樹

 阪神淡路大震災から21年目の1月17日を迎えました。
 その日の朝、経験したことのない大きな衝撃に目を覚ましたものの、わたしは揺れる天井をただただ眺めるだけしかできませんでした。
 当時わたしは豊能障害者労働センターで働いていて、家も箕面市の近くのかなり古い平屋の家を借りて暮らしていました。娘は東京で働いていて、息子は大学生で同居していました。そのうち息子がどうなったか心配になって名前を呼ぶと、「テーブルの下にいるで。ガスの栓も閉めたから」という返事に、おろおろしているぼくとちがい、しっかりしてるなと感心しました。
 そのうちに、事務所で仮住まいをしていた脳性マヒのKさんの介護者から、「食器棚が倒れた程度で大丈夫ですが、職場の学校に行かなければなりませんので後はよろしくお願いします」と電話が入りました。「わかりました。ご苦労様でした。すぐに事務所に向かいます」といったものの、余震がはげしくふとんに潜り込んでしまいました。「あんた、なにしてんねん、早よ行かなあかんやろ」と妻に叱咤激励され、ようやく事務所に行きました。
 事務所に着くと、Kさんが心配そうな顔で待っていました。「おそなってごめんな」といいながら靴を脱ぐまもなく、プレハブの事務所は余震の揺れとともに、窓ガラスやかべは「ガタガタ、バリバリ」と奇妙な叫び声を上げ、そのたびに2人で「ワオー、ワオー」と叫びながら抱き合いました。
 事務所の中にいると余計に恐怖心がつのるばかりなので、朝ごはんを食べに出かけました。途中、箕面市役所の窓ガラスがこわれ、散乱していました。 
 マクドナルドを出て事務所に戻ると、センターのみんなが少しずつ集まってきました。みんな青ざめた顔をしていました。事務所の周りの路地といっていい道路がすべて車で一杯になっていたし、電話ボックスには長蛇の列ができていました。被災地のまわりの街の風景は、おそらくどこも同じだったことでしょう。家族は、親戚は、友人は、恋人は…、安否を知りたくて日本中、場合によっては世界の果てからも被災地へと無数の心が急いでいたと思います。
テレビは信じられない崩壊の風景を映しはじめました。そのテレビの外側で、6400を越える死のカウントがはじまっていたのでした。
 すでに多くのひとたちがリュックを背負い、被災地へと歩きはじめていました。
わたしたちもまた仕事どころではありませんでした。けれどもわたしたちは箕面を離れるわけには行きませんでした。特別の朝だからこそ、豊能障害者労働センターという日常活動をはじめなければいけないと思いました。と同時にまだ何の情報もないけれどわたしたちに想像できない悲惨で困難な状況になっているはずの被災地を思うと、胸が痛くなりました。やっぱりいつもと同じような日常活動なんかできるはずもなかったのでした。
 その時、一枚のFAXが届きました。何度も何度もFAXの機械を通ってきたために、文字はつぶれてしまって細かいところはわからないけれど、そこにはけっしてテレビではわからなかった、被災地の障害者の安否と被害のひどさが伝わってきました。
 「救援バザーをしよう」と、誰かが言いました。実はわたしたちは毎年、年の初めから約三ヶ月かけて春の大きなバザーを開いてきました。「自分たちの運営がどうとか言ってる状況じゃない。とにかく、春のバザーの売上はすべて救援金にしよう。それならこの場所から離れないで救援活動に参加できる。」
 そして大阪を中心にした当時の全国的な救援組織「障害者救援本部」が結成され、わたしたちもその活動に参加することになりました。
 わたしたちの救援活動は、わたしたちが一方的に誰かを助けるということではありませんでした。かろうじて被害をまぬがれたわたしたちの方こそ終わらない余震におびえ、「次は自分たちかも知れない」という恐怖におちいっていました。死のふちをくぐりぬけてきた被災地の障害者のメッセージは明確でした。一瞬のうちに無数の命がうばわれ、無数の家と無数の生活がこわれてしまった。だからこそ被災地の復興は、共に生きる社会への再生でなければならないのだと。救援活動を通してわたしたち自身の街のあり方、社会のあり方を考えました。
 それからの約二ヶ月の間、毎朝わたしたちのプレハブの事務所は全国から届けられる救援物資とバザー用品で一杯になりました。全国の障害者運動団体からは救援本部のよびかけに応えて救援物資が届けられ、豊能障害者労働センターの機関紙「積木」の読者からはバザー用品をいただきました。
 公的な機関の場合は送料がいらないが、自主的な救援活動の場合は送料がかかる。それでも1人の人がダンボール箱三つも四つも送ってくださり、その中には救援金とともに心のこもった手紙が添えられていました。中でもおどろいたのは、被災地の方々から多くのバザー用品が送られてきたことでした。差出住所が避難所だったこともありました。「地震以後、朝のあいさつは『あんた生きとったか?』です。手をにぎりあって、無事を喜んでいます。あの朝、使わんものが棚からいっぱい落ちてきました。もういのちだけでけっこうや。ここではバザーもまだでけへんやろから、そちらで金に換えてここの障害者のために使うてな。わたしらがこんなに困ってるんやから、障害者は大変やと思う。」みんなで読んで、泣きました。毎朝こんな言葉をいっぱいもらって勇気をもらい、わたしたちは救援物資を被災地の障害者に届ける一方で、バザー用品の仕分けをつづけました、いつのまにか、ぼくたちの回りにはいつも二、三十人のボランティアの方々が来てくださり、バザー用品の置き場所は箕面市が事務所の裏にあった古いプレハブを提供してくれました。

 「売上げなんぼあると思う?」
知的障害といわれる仲間のHさんがわたしに話しかけました。「どうかなぁ」と、ぼんやり答えるぼくに、「1億円あると思うねん。」とHさんは目を真っ赤にして言いました。あの時、彼の1億円はきっと、障害者をふくむ被災地のすべての人々に届けたいというありったけの気持ちだったのだろう。過酷な状況とたたかっている被災地の障害者とつながろうとする気持ちが、1億円のバザーを夢見たのだと思います。その1億円は救援本部全体の救援金総額として現実のものになったのでした。
 阪神淡路大震災から21年、東日本大震災と同時多発テロ、そして戦争と、わたしたちも世界もこの地球も悲鳴を絶やすことがありません。そして多くの命、幼い命までもが傷つき、息絶えていく過酷な現実がこの世界を覆っています。
 けれどもその一方で、この21年は絶望を語るだけではなかったと信じたい心があります。いろいろな民族、文化、個性が助け合い、共に生きる勇気を育てる社会。武器を持たなければ食べ物を得られない悲惨から子どもたちを解放する平和な社会。世界のどこで生まれても「しあわせになる権利」を子どもたちに手渡せる社会。理想といわれても夢といわれても、そんな夢みる社会への希望をたがやす世界の人々のたゆまぬ努力もまた、この21年につめこまれているはずなのだと…。
 わたしたちはあの寒い朝以後、2つの時を生きているのだと思います。止まってしまった時と激しく刻み始めた21年の時。2つの時がひとつになるのには、もっと多くの時を必要としているのだと思います。

 村上春樹の六編の連作短編小説「神の子どもたちはみな踊る」のひとつに「アイロンのある風景」という小説があります。家出して海岸の街に住み着いた若い女と、大学を卒業する見込みも意志もなくバンドをつづける同居人の若い男、妻と子どもを阪神地区に残して漂流した果てにたどり着いた海岸で焚き火をし続ける中年の画家。
 冬の夜、孤独という言葉では語れない大きな何かをそこなった心は、死の予感と生きることの空虚感に包まれています。焚き火は、それをしつづけなければ生きることもつながることもできない切実な儀式となっています。「火が消えるまで眠ろう。目がさめたら死のう」という会話は、反対に焚き火が終わればいや応なく寒さで目をさまし、この現実を引き受けてそれぞれが生きていくしかないという静かな決意にも聞こえます。
 阪神大震災の時、公園や学校などの避難所ではどこでも焚き火をしていました。6400人以上のかけがえのないいのちがうばわれ、あたり一面が瓦礫の荒野となってしまったその地で凍てつく冬の夜を照らす焚き火は、体をあたためることや灯りをとることや炊き出しをするためだけに必要だったのではありません。多くの証言が語るように焚き火は被災地のひとびとの心をあたため、癒してくれたのだと思います。
 余震の恐怖、肉親や恋人、友人を失った無念、生き残ったがゆえにおそいかかる死の予感…。廃材といっしょに何度も何度もそれらをドラム缶の中に投げ込み、ひとびとは焚き火をしつづけたのでした。それは6400を超えるたましいを見送る儀式でもありましたが、それと同時に生き残ったひとびとが助け合って生きる以外に道はないことを教えてくれる、だれもが必要とした道しるべでもあったのだと思います。

やがて悲しみは希望にかわり 新しい星が生まれます
生まれたての星はまだ 光ることができません
だから星は焚き火をして 光る練習をするのです
今夜もほら、あんなに赤く 星がにじんでいます

web拍手 by FC2