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2021.12.13 Mon 北大阪の町・箕面に河野秀忠さんがいた。1986年10月の記録

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左から牧口一二さん、河野秀忠さん、小室等さん、小室ゆいさん
2015年4月19日 ゆめ風基金事務所にて、

 時々、河野秀忠さんの言葉が恋しくなります。2017年9月、彼はこの世を去りました。
 障害者問題総合誌「そよ風のように町に出よう」の編集長で、青い芝の会の横塚晃一さんとの出会いから全国的な障害者運動を続けてきた彼は、住んでいた大阪北の町・箕面でも地道な活動をしていました。
 その中でも豊能障害者労働センターの前代表でもあった彼にとって、豊能障害者労働センターは特別に愛おしい集団として見守っていてくれました。
 河野秀忠さんは、未成熟で貧困な当時の労働センターのスタッフに、身の回りの悲惨さこそが、ひととして生きる願いを叫ぶ世界の人々とつながっている証しなのだと教えてくれました。高邁な理想と見果てぬ夢…、言葉の魔術師でありながら、100万の言葉よりも言葉を発しにくい純な心を写し鏡とした障害当事者の運動を支えた河野秀忠さんがいなかったら、豊能障害者労働センターは存在しませんでした。
 雑誌編集のプロとしても、また60年代後半からの「反体制(?)」運動家としても多様な檄文を綴ってきた彼は、豊能障害者労働センターの機関紙「積木」には特別に力の入った文章を残しました。
 下の文章は、路地裏の民家で出発してから5年、新しい事務所建設基金を必死にひたむきに呼びかけたお願い文でした。
 この年の12月20日、豊能障害者労働センター5周年と基金を呼びかけるコンサートに河野さんの声かけで小室等さんと長谷川きよしさんが来てくださいました。
 小室等さんはそれが縁で箕面のみならず豊中の障害者グループの応援にも来てくださり、1995年の被災障害者支援「ゆめ風基金」の立ち上げにも永六輔さんとともに積極的に関わっていただき、今は同基金の代表をされています。


豊能障害者労働センター拡大移転基金500万円基金よびかけ文

鳥は大空へ 人間は社会へ
豊能障害者労働センターの拡大移転500万円基金実行委員会にあなたのご参加を!
                                   1986年10月 河野秀忠

 1980年、はなばなしくむかえられた国際障害者年のただ中、ひとりの脳性マヒといわれる障害者が、障害者用の学校、養護学校のなかから自分を拒否する世間をにらんでいた。
 彼には、彼を受け入れ働き、労働と生活を共有する場が用意されていなかった。彼の労働には、手垢にまみれた労働感によって(賃労働に見合う能率的な労働こそが社会を構成する要件である)けっとばされ、車イスの上で身もだえていた。
 彼は考えた。能率的な労働とは何だろうか?働くことによってしか市民生活を形づくられないとしたら、働けない俺は何だ。俺は、市民でも人間でもないのか。
 学校では、人間の本来的尊厳を教えてはくれたが、それはどこにあるのだ。あたたかいはずの市民社会の住民の俺を見る目の、あの冷たさは何だ。
 学校のバリアーの外では、人間が労働しているのではなく、労働が人間を働かせている。
 俺は、人間の労働がしたい!
 こうして、1981年に借金に借金を積み上げ、豊能障害者労働センターは、傾きかけた借家を船に1人の障害者と3人の健全者でヨロヨロと船出した。
 あれから5年、その航海は、人間のミレニアムを夢見てうまずたゆまず続けられている。
 この船に乗り込むクルーは、様々な市民、住民運動にかかわる人、差別と真っ向から向き合うひと、平和や愛を求める人、労働者の団体、障害者にかかわる人と増え続け、大きなウネリとなって船を進め、今日もあなたの住む街を、心よ、夢よ、冒険よ、愛よ、明日よと航海している。
 決して波が緩やかな日ばかりではなかった。航海長ともたのむ愛しい人を、死によって奪われ、涙が枯れたときもあった。資金という燃料が途絶え、停戦しかけたこともあった。人と人とのしがらみのなかで救命ボートを去った人もいた。しかしいつのときも悲しみや辛さの荒れる海から、我々を救い出してくれるのは、人としての尊厳を大切にする友人であった……。これからもずっとそうである。
 今や、全ての友人との共通の我々の船は、この豊能の地において全ての障害者と人間に関わる行為と営みの母船となった。我々の航海が地域と職場を変え、新しい航路を切り開いたのだ。
 我々は元気だ。我々の勇気と自由のオールは、人びとの息づく世界のすみずみにまで我々をいざなう。そして、世界を人間と愛とでカラーリングする。
 我々の旗印『人間まるごとの労働で、食える賃金を!』が青空にクッキリとひるがえっているのを、あなたには見えたか!
 5年目の航海の朝、我々のめざめの前に、巨大な嵐が見える。福祉切り捨ての大行進が、おしひしがれた世間の谷間が「障害者は、甘えるな。金を出してサービスを買え」と吠える。
 我々がいつ甘えたか。断じて言う「長い歴史のなか、障害者を甘やかしたときが一瞬でもあったか。障害者の現実を直視して、市民の良心が痛まなかった季節があったか」と……。
 我々は急がねばなるまい。我々の船とクルーの祭りを準備せねばならない。我々には、新しい船が、強くて大きい船が必要だ。多くの人々の心と暮しのよりどころとなる広い船が!

 豊能障害者労働センターは、1987年、匂い立つ春に、航海5周年拡大移転を実現しようとしています。この壮大な事業には、造船をともに担うあなたの、私達の、心とからだと夢とパトスが求められます。
 サァ、大きな船を一緒に創りましょう。ヨイショとあなたの太い腕と赤い血を私たちの造船所へ!

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2020.12.13 Sun 世界の果てはわたしたちの夢の中にある。豊能障害者労働センター機関紙「積木」300号を祝う。

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豊能障害者労働センター・積木屋


 わたしが在職していた豊能障害者労働センターから、機関紙「積木」が300号を迎えるにあたり、一文を寄せてほしいと依頼がありました。
 退職してから17年がたち、その後も現在に至るまでリサイクルの衣料や雑貨をいただいたり、去年まで開いてきた「ピースマーケット・のせ」に協賛していただいたりと、何かと世話になっているものの、はるか遠く現場を離れたわたしに声をかけてくれた「積木」編集部と豊能障害者労働センターに感謝します。
 わたしにとって「積木」は豊能障害者労働センターの機関紙というだけでなく、障害者の問題をはじめとするさまざまな出来事について語り、書いてくれるひとを探し、文章を寄せてもらうことでどれだけ幅ひろい読者を持てるかという「メディア」としての冒険の場でした。また、自分自身も文章を書くことで世の中に発信することを学び、育ててくれたのも「積木」でした。今もまがりなりに言葉を紡ぐことの楽しさや苦しさを味わえるのも「積木」のおかげで、それを許してくれた豊能障害者労働センターにあらためて感謝します。
 300号と聞き、そのうちの約半分を「積木」と格闘した様々なことを思い出し、胸がいっぱいになるのですが、とにもかくにも「ありがとう」と、竹中労がよく言っていた「イエローストリート・ジャーナリズム」の旗手として、これからの「積木」の活躍を期待しています。
 積木300号に寄せた一文です。

時のランプをかざしながら
豊能障害者労働センター機関紙「積木」300号を祝う

 1982年、豊能障害者労働センターは一人の少年の「どこにもいくところあらへん」という叫びを受け止め、障害のある人もない人も給料を分け合い、生きる場をつくろうと箕面市桜井の民家を拠点に静かな出発をしました。その38年に及ぶ労働センターの歴史は理不尽な差別と絶望を乗り越え、ほこりまみれの希望と切ない夢に彩られたものでした。
 「積木」はその格闘の日々の目撃者でもあり、遠くでうずくまる同時代のまだ見ぬ友の悲鳴を聞き逃さず、たった一粒の涙もむだにしない未来からの使者でもありました。
 わたしは開所当時より運営委員として、さらに1987年から2003年までの専従スタッフ在職期間を通じて21年間、「積木」の編集に関わらせていただきました。振り返ると「積木」の編集にかかわれた時間はかけがえのない宝物で、わたしの誇りでもあります。
 「積木」にまつわる笑い話がたくさんあります。そのうちのひとつとして開所当初は機関紙の発行が遅れがちで、ある年などは初代代表の河野秀忠さんの年頭所感が6月になってしまい、「6月に年頭所感というのもなぁ」とため息をつかれたことを覚えています。
 それでも「誰のために養護学校はあるのか」という特集や、箕面市庁内の部落差別落書き事件に抗議する署名を呼びかけると、読者から大きな反響があったことを思い出します。

●世界の果てはわたしたちの夢の中にある
 1988年、わたしたちはカレンダーの通信販売を始めました。もともと事務所で何か仕事をつくりだす必要に迫られ、オリジナル事業を展開し、「積木」で発信しようと考えました。その少し前に、障害者の働く場・生きる場をつくろうとする団体が集まって「障害者労働センター連絡会」を結成し、カレンダーの共同制作を始めていました。通信販売の実績は全くない中、障害のある子もない子も共に学ぶ教育のための「障害児教育自主教材」と一緒に、全国の学校の人権教育担当の先生にお願い文を添えて積木特集号を送りました。
 また、朝日、毎日、サンケイ、読売だけでなく、全国の地方新聞もカレンダーのことを掲載してくれました。障害者を保護、管理、訓練する福祉ではなく、障害のあるひともないひとも給料を分け合う労働センターそのものに強い関心を持ってくれました。
 そして、1995年の阪神淡路大震災がわたしたちの活動を大きく変貌させました。被災した障害者が取り残される現実を前にして、後に被災障害者支援・ゆめ風基金につづく障害者救援本部が立ち上がり、豊能障害者労働センターは救援物資の拠点となりました。
 「積木」で救援金を呼びかけると全国から600万円の救援金が送られ、救援バザーの売り上げ400万円とあわせて1000万円を救援本部に届けることができました。
 これをきっかけにリサイクル事業が立ち上がり、今では大衆食堂「キャベツ畑」以外のすべての店がリサイクルショップになり、地域での商品の回収、全国から送られる品物の値段付け、各お店での販売と、障害者スタッフがすべてを担う大事業になりました。
 1998年からは、「積木」が発信する春夏の事業として、Tシャツの制作販売をはじめました。この年にTシャツに込めたメッセージは「プラスWe」で、「違うことこそ力」というサブメッセージも加え、脳性まひの現代表・小泉祥一さんが描く渾身のロゴTシャツ・「プラスWe」は大ヒットし、翌年のゆめ風基金のイベントに出演された筑紫哲也さんが「『積木』でこのTシャツを見て感動したんだよ」と、ステージで着てくださいました。
 さらに2001年のアメリカ同時多発テロとアフガニスタン爆撃とイラク戦争、東日本大震災など世界各地の理不尽な仕打ちと悲惨な現実を前に、豊能障害者労働センターの活動もまた世界各地で眠れぬ夜に身を隠す子どもたちの悲鳴と共にあることを実感しました。

●わたしたちのロンググッドバイ
 それらの日常活動から救援活動に追われるスタッフを見守り、時代の予感に心を傾け、水先案内の役目を果たしてきた「積木」は、豊能障害者労働センター機関紙という枠組みを越えた「希望と再生のメデイア」としてこれからも多くの人々に愛されることでしょう。
 それを予感していたのは一昨年に亡くなった初代代表の河野秀忠さんでした。彼ほど「積木」を愛してくれたひとはいなかったかも知れません。河野さんは目線を遠く伸ばし、日本社会から世界にまで視野を広げ、障害者問題の普遍的な意味を伝えようとしました。
 彼は1990年の「積木」年頭所感で、1989年11月、ベルリンの壁が市民の手によって壊され、共産主義国家が次々と崩壊し、「共産主義VS民主化」という構図で世界が歓喜に包まれたその時に、ベルリンの壁をハンマーで壊す市民が手にする自由が、同時に障害者を差別してきた暗い歴史をも内包していると鋭く指摘しました。
 わたしはこの文章を読むたびに、豊能障害者労働センターも、そして退職してから17年が過ぎたわたしも、まだ河野秀忠さんの遺産の中にいるのかも知れないと思うのです。
 しかしながら、障害者がすべての事業に参加、「積木」の印刷から発送まですべてを担い、被災地と国際NGOをつなぎ、障害者が入力できる受注販売システムの開発をすすめるなど、たゆまず進化する豊能障害者労働センターと「積木」が、河野秀忠さんの遺産から一歩も二歩も踏み出し、未来の重い扉を開く時がすぐそこに来ていることを実感します。

細谷 常彦(ほそたに つねひこ)
ホップ・ステップ・のせ代表
1947年生まれ。73歳。
1987年から2003年まで、豊能障害者労働センターに在職。
2011年から2015年まで、被災障害者支援「ゆめ風基金」にアルバイト勤務。
2016年より大阪府能勢町の住民有志と「ピースマーケット・のせ」実行委員会に参加。

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2020.02.19 Wed 中部障害者解放センターの歴史は日本の障害者運動の歴史

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 記事が後先になって申し訳ないのですが、2月11日、NPOちゅうぶ(中部障害者解放センター)の35周年記念イベントに参加しました。普通の道筋でいえば、豊能障害者労働センターか、被災障害者支援「ゆめ風基金」の方から情報を得るところでしたが、なんと能勢の町づくりなどでつながる知人からの思わぬお誘いでした。その知人が中部障害者解放センター設立時からのメンバーの障害を持つ女性と高校の同級生で、約20年ぶりに会いに行くのに、わたしを誘ってくれたのでした。
 この日は午前中にレセプションがあり、大阪をはじめとする障害者解放運動の闘士たちが集結していたようで、わたしは午後からの「さあ来い!インクルーシブな未来!!」と題したシンポジウムと、NPOちゅうぶの35年の軌跡を映像を中心に振り返り、次なる未来へと「たたかい」の一歩を共に踏み出そうとする彼女彼らのやけどしそうな体熱に圧倒された、活気にあふれたイベントでした。
「生きることはたたかいで、たたかいこそが生きることなのだ!」と、1984年に活動を始めた彼女彼らの歩みは、そのまま関西の障害者解放運動の歴史でもあります。
 
 わたしが障害者問題と出会ったのは1980年に結成された「国際障害者年箕面市民会議」に参加した時からでした。「国際障害者年箕面市民会議」は翌年の「国際障害者年」を機に、障害者の問題は障害者にあるのではなく町や社会と、同時代を生きるすべての人の問題なのだと市民が集まり、箕面市で初めて障害者の教育を受ける権利、就労する権利、生活する権利、移動する権利の保障を箕面市行政と交渉した市民団体でした。
 箕面の障害者運動の黎明期に、障害当事者の生きる権利を強烈に主張した青い芝の会の運動を教えてくれたのは、障害者問題総合誌「そよかぜのように街に出よう」の編集長で、豊能障害者労働センターの代表でもあった河野秀忠さんでした。
 障害者運動のバイブルともいえる原和男監督作品「さよならCP」上映運動に深くかかわり、関西の障害者解放運動の記録映画を製作した彼は、その強烈な個性で箕面市の当時の行政職員、教員、そして一般市民を巻き込み、「国際障害者年箕面市民会議」の結成を呼び掛けました。そして、矢継ぎ早やの学習会や市役所への障害者市民の別枠採用の交渉、全国的な運動への積極的な参加などを呼び掛けました。
 私は市民運動とは無縁の人間でしたが、たまたま障害者との出会いから市民会議に参加し、のちに豊能障害者労働センターのスタッフになりました。
 豊能障害者労働センターの設立は1982年で、ちゅうぶとほぼ同じ頃に出発しましたので、今回あらためてちゅうぶの運動の歴史を振り返ると、同じ思いでちがった運動を豊能障害者労働センターも進めてきたことを実感します。
 しかしながら、大阪青い芝の運動を前史として、障害者の人権の全的な獲得をめざし、障害者当事者がけん引してきたちゅうぶの歴史はとても豊かなものであったことは間違いありません。言い換えれば、1980年代からの障害者にかかわる国の制度への異議申し立てや障害者差別とのたたかいなど、東京の障害者運動のリンクをふくめて、ちゅうぶの35年の活動は日本の障害者運動の歴史そのものであったといっていいでしょう。
 豊能障害者労働センターもまた青い芝の運動から出発したといえば、関係する団体や人々から「そうは思えない」という声が聞こえてきそうですが、わたしたちはその現場にリアルにいた河野秀忠さんから毎日のように青い芝の話を聞いていましたし、ちゅうぶをふくめて大阪の障害者運動、東京の障害者運動、さらにはアメリカやヨーロッパの障害者運動の現状を教えてくれたのも河野秀忠さんでした。
 豊能障害者労働センターは設立した時から障害者の就労と所得補償の制度化を箕面市に要求してきて、少しはその成果も実感できるのですが、24時間介護保障など障害者の生活にかかわる権利を全うする制度要求は、東京や大阪の障害者運動から学んだことを箕面市でも実現するといった形で、ちゅうぶや障大連の運動に助けてもらいました。

 同時代に同じ思いでちがった形で運動を進めてきたちゅうぶと豊能障害者労働センターでしたが、1995年の阪神淡路大震災の時に、障害者救援本部として被災障害者の救援活動をともにすることになりました。わたしたちだけではなく、それまで運営の違いなどで分断されていた全国の障害者が自然災害に立ち向かうために助け合うことは、かつての「団結」という言葉とは違うしなやかなネットワークをつくることになり、それ以後の自然災害による被災障害者の救援活動の砦となった被災障害者支援「ゆめかぜ基金」に結集することになりました。それをけん引したのもまた、牧口一二さんと河野秀忠さんでした。
 そして、東日本大震災以後の自然災害において「ゆめかぜ基金」は全国の障害者団体に支えられ、困難な状況にある障害者に救援基金を一日でも早く届けただけでなく、発災時の救援活動から被災地の障害者の自立と再生を支える強いネットワークをけん引することになりました。それらの諸々の活動の中心にも、ちゅうぶの存在がありました。
 近年の日本社会がさまざまな位相で分断が進む中、ちゅうぶをはじめとする障害者当事者が助け合いと話し合いによるつながりを強めていることは、この社会の和解と夢と希望を生み出すことに寄与するものと信じてやみません。

 河野秀忠さんは2017年に亡くなりました。
 お互いにまだ若かったころ、飲み屋さんで何度も彼が言った言葉を思い出します。「細谷さん、たとえ回りがぺんぺん草に覆われても、豊能障害者労働センターは法人格にふりまわされず、何者にもなるまい。そして運動を引退したら、2人で映写機とフィルムを持って全国を回ろう」。
 その夢はとうとうかなわなかったけれど、もしフイルムを持っていくなら「さよならCP」でしょうか、「ローザ・ルクセンブルク」でしょうか、それとも「八月の鯨」だったでしょうか。


世情(中島みゆきカヴァー) / ひで&たま@東京(ハラカラ第3回Live)

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2019.11.04 Mon 「村っこ太鼓」と映画「萌の朱雀」・ 奈良県十津川村 二村小学校の思い出2

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二村小学校講堂

 川沿いのバス道から山の斜面を登り、学校に着きました。車いすに乗っているKさんを玄関までサポートしたはずなんですが、今ネットに上がっている二村小学校跡の学舎を見るとかなりの階段なので、おそらく別の入り口であまり段差のないところがあったのかも知れません。
 ともあれ、会議室のようなところに案内されると5人分の弁当が用意されていました。さっそくごちそうになり、その後、校長先生が教頭先生を紹介してくださり、教頭先生から二村小学校の話を聞かせてもらいました。
 1年生から6年生まで合わせて33人の子どもたちと11人の先生で、十津川村の中でも特に普通の勉強以外に、子供たちのお父さんやお母さんをはじめ、村のおとなたちに来てもらって村の暮らしの歴史を学んだり、学校の外に飛び出して味噌づくり、キノコの勉強、野鳥の勉強、木工所で昔のおもちゃづくりなど、子どもたちの生き生きした体験学習の写真が所狭しと貼ってありました。年に一度、各学校の校外学習の発表会もあるということで、教頭先生が誇らしげに話されたのを今でもおぼえています。
 わたしたちも箕面での活動をひととおり話した後、職員室の先生たちにカレンダーのお礼ともどもあいさつしました。こんなに小さな学校に毎年40本もカレンダーを届けていたことに申し訳ないやらありがたいやらで、なんとお礼を言えばいいのか言葉が見つかりませんでした。
 「歓迎の準備ができましたので、講堂に行きましょう」といわれ、何のことかあまり理解できずに言われたまま講堂に入りました。
 するとどうでしょう、子どもたち33人全員が太鼓を前に勢ぞろい、頭にハチマキをしてわたしたちを迎えてくれました。見れば先生方も全員講堂に集まってくれました。たった5人のわたしたちのために通常の授業を返上し、歓迎の太鼓をたたいてくれるというのです。
 6年生らしき子どもの、「二村小学校、村っこ太鼓」という大きな掛け声に合わせて、子どもたちの太鼓が講堂中に響き渡りました。わたしたちは感激しすぎて涙も出ませんでした。ただただびっくりして、ドキドキしました。
学校挙げての歓迎太鼓の音が緑いっぱいの山々と谷深い清流、厳しい冬の風と透き通る空を突き抜けていきます。お腹の底まで響く振動は、講堂の床を伝ってわたしたちの心臓と共振しました。子どもたちの太鼓から立ち昇るいのちの鼓動が心を奮い立たせ、わたしたちが思いもしなかった何か、それは生きる勇気のようなとても大切なものを、山里の小さな小学校の子どもたちからもらいました。
 わたしの住む能勢でも小・中学校が統合され、ひとつの小学校とひとつの中学校になってしまいましたが、それまではそれぞれの学校が地域のコミュニティーの拠点になっていました。
 二村小学校は2010年に統合されたということですが、わたしたちが大歓迎を受けたこの頃は、間違いなく1年生から6年生までの33人の子どもたちが11人の先生たちと奇跡のような学校で学んでいたことでしょう。(もっとも、統合された十津川第一小学校も現在全校生徒数が48人だそうで、この20年に過疎化が進むのは止められないのかも知れません。)その奇跡は太鼓によって結ばれた子どもたちと村のおとなたちのきずなが生み出したものにちがいないと思いました。
 事実、十津川村では太鼓に力を入れていて、毎年8月4日に谷瀬のつり橋の上で地元OMC十津川太鼓倶楽部「鼓魂」のエキサイティングな太鼓の演奏が行われる「吊り橋まつり(揺れ太鼓)」が開かれています。
もしかするとわたしたちに太鼓を聞かせてくれた子どもたちの中で、大人になって太鼓をたたいている人がいるかも知れません。また、十津川村から都会に出てきて、故郷を心の奥にしまいながら暮らすひとが年に一度あるかないか十津川村に帰郷した時、廃校になった二村小学校のみんなで叩いた太鼓の鼓動とともに、村での暮らしが豊かな時間だったことを懐かしく思い出すかもしれません。
 わたしたちもまた、あの時の太鼓の音と子どもたちの真剣な顔が今も心に残っています。
 いずれは消えていく運命にあった奇跡のような学校で、奇跡のような子どもたちが太鼓を叩く様子を、わたしの妻が買ったばかりのビデオで撮影したつもりでしたが、撮影ボタンを押し忘れて何一つ写っていないという大失敗のおまけがついた二村小学校の子どもたちとの出会いと別れの旅でした。

 事務所に戻ると、年末大詰めに来ているカレンダーの発送に追われているうちに仕事納めとなり、年内最後の会議を待つ夕方、わたしは映画の配給会社に電話しました。この年のカンヌ映画祭で「萌の朱雀」の河瀬直美監督がカメラドール(新人監督賞)を受賞したという新聞記事を読み、わたしはこの映画の上映会をしたいと提案し、みんなの了解を得ていました。
 「萌の朱雀」は林業の低迷で暮らしが成り立たなくなった奈良県西吉野村を舞台に、少女とその家族のつつましい暮らしを通して、幾世代も受け継がれてきたいのちの営みと、家族が山を去って行くまでを静かに描く、哀しくもいとおしい映画です。
 その年の11月に公開された映画を見て、誤解を恐れずに言えば今までのわたしたちの活動がいわゆる「都会の運動」で、「富の分配」の権利要求が正当なものであったにしても成長神話に基づいたものであったことを痛感しました。
 経済成長のおこぼれを要求する「富」が都会でしか通じないのではと感じ始めていたわたしたちは、バリアフリーも困難で雇用の創出も難しく、過疎化が進む山里や海辺の村、経済成長から取り残されたように思える地域では、自然の厳しさと折り合いをつけて暮らしてきた先人たちの知恵を生かした、いわば里山障害者運動があるのではないか?
 その思いは能勢に住むようになってより強く感じるのですが、残念ながらそれをどうすれば実現できるのかいまだにわからず、わたしの生きている間に見つけることも不可能なのかなとも思っています。かろうじて2人の障害者議員を生み出した「れいわ新選組」の活動に最後の期待とシンパシーをもっているのですが…。
 ともあれ、わたしたちは「萌の朱雀」をたくさんの人々に見てもらいたいと思いました。
 まだ公開が始まったばかりなので難しいかなと思ったのですが、翌年の7月からは市民の上映運動でも配給できるということで、1998年7月18日、映画「萌の朱雀」上映会を開催しました。
 わたしはうかつにも今回の十津川村への旅で、はじめて「萌の朱雀」の西吉野村は十津川村よりずっと五條よりですが、新宮までのバス道から山間に入って行ったところで、同じ風土・地形であることを知りました。今から思えば、二村小学校の子どもたちの奇跡の太鼓が、「萌の朱雀」という映画にわたしたちを誘い込んだのかも知れません。
 わたしの住む能勢も例外ではなく、村おこしや地方再生が喫緊の課題と叫ばれて久しいですが、日本全体が人口減少を避けられない中、個々の村や町もまた過疎化を止めることはできないのかも知れません。しかしながら、それゆえに未来へつなぐ最後の希望としての教育の役割がとても大きいことを、消えゆく小さな学校の子どもたちの奇跡が教えてくれたのでした。

たおやかな木立、むせぶ陽のにおい、あふれる哀しみ。
そして、家族たちは心に深く緑をしまい、山を去って行った。
(「萌の朱雀」上映会パンフレットより)

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映画「萌の朱雀」


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2019.06.22 Sat 助け合う勇気が新しい国家を未来する。 豊能障害者労働センターの慰安旅行

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 少し前になりますが、6月8日、9日、豊能障害者労働センターの慰安旅行に誘っていただき、神戸の「しあわせの村」に行きました。
 退職して16年も経つのに今でも誘ってくれる豊能障害者労働センターに感謝しかなく、少し気後れするところもあるのですが、みんなの好意に甘えて参加させていただきました。
 16年も経てば、わたしが活動していた頃の人もいるものの、新しい人たちがほとんどです。この集団はいわゆる健全者はほとんど変わらず、障害者スタッフがどんどん入ってきて、現在障害のある人約40人を含めて約60人が活動しています。
 一般の会社なら最近はやった映画「終わった人」ではありませんが、10年ひと昔のごとく、やめた会社に出入りすることはないと思うのですが、障害者運動を担う労働センターの場合は専従スタツフをやめても年に一度の大バザーの手伝いをしたり、機関紙の発送作業を手伝ったりする人も多く、わたしもそのひとりです。
 新しいスタツフはほとんど障害者で、彼女彼らはほんとうに屈託がなく、めったにセンターに顔を出さないわたしにも実にやさしい声をかけてくれるのでした。
 労働センターの障害者スタッフは1982年の設立当時からのベテランから新人まで、「障害」というそれぞれの個性を十二分に発揮し、ベテランへの気遣いや新人への心配りをしながら対等に「助け合う」ことが日常になっていて、昔わたしや前代表の河野さんの口癖だった、「来るもの拒まず、去る者追わず」といった運営方針が理念をこえて彼女彼らの日常の行動指針になっているのでした。
 その根本には多岐にわたって自己責任論が声高に求められる今の時代に逆らい、圧倒的に他人を信じ、自分を信じ、他者(友人、仲間)に依存することでひとりひとりの人生を肯定し、助け合ってともに生きる勇気を持つという思想があります。
労働センターの慰安旅行は創設時からあり、最初の旅行は障害者2人、健全者3人のスタッフと周りの支援者を入れてせいぜい15人ほどの旅行でしたから、能勢農場や部落解放同盟北芝支部のマイクロバスを借り、河野さんが運転し、運営委員の浜辺さんの世話で全電通の白浜保養所に一泊しました。それからも毎年近辺の観光地に行きましたが、とにかくトイレを探すのが一番の目的でした。その頃は労働センターにもそれぞれ個人にもお金と言うものがなく、有料の観光施設に入ったことはなく、宿泊所で酒を飲むのだけが楽しみでした。もちろんカラオケもなく、みんなアカペラで歌い、さわいだものでした。
 結構長い間、脳性まひの小泉さんも梶さんも屈強な若者(私もまだその若者のひとりでした)が交代で抱っこしてバスの乗り降りをしたものですが、それが今ではどうでしょう、リフト付きの最新のバスで運転手さんの操作で乗り降りでき、それぞれに「箕面市障害者の生活と労働推進協議会」からは派遣されたヘルパーさんが同行し、カラオケ設備も充実しているれっきとした観光旅館に泊まることができるようになりました。まさしく、イリイチの名言どおり、貧困もまた近代化したのだとつくづく実感します。
 そして、発足当時と今との決定的な違いは、旅行の計画から当日の段取りやアナウンスまで、障害者スタッフ数名の幹事さんたちが世話してくれることや、カラオケもまた障害者スタッフが歌いまくるのですが、もちろん演歌などはほぼなく、AKBなどのJポップとアニメソングで、わたしなどにはさっぱりわからない歌ばかりなのです。
 豊能障害者労働センターは一般的な障害者作業所のようにサービスを提供する健全者スタッフとサービスを利用する障害者のように内部的にも外部的にも別れていません。
一般的な福祉作業所などではサービスを利用する障害者は「労働者」ではなく、給料ではなく「工賃」としていくばくかのお金が支払われます。
  箕面市独自の制度を利用した事業所である労働センターの場合はリサイクルや通信販売、大衆食堂などの事業で得たお金と市独自の助成金を合わせたお金を障害者も健全者もみんなで分け合っています。
昨今、国が障害者の就労を水増ししていたことが発覚し、国は障害者手帳の有無を厳格にし、障害者雇用を増やしました。そのことで軽度と言われる障害者の雇用が進んだことは評価できるのでしょうが、豊能障害者労働センターの場合は一般企業や行政機関への就労を拒まれる障害者、一般企業が雇わない重度と言われる障害者、働くことは無理とされ、福祉サービスを受けるだけと言われる障害者の就労を実現しています。
 福祉作業所でせいぜい2万円程度の工賃しか得られない障害者が、労働センターでは親元から通う人で9万円、自立した人で12万円の給料が得られるわけは、年間1億円の売り上げがある事業収益と、健全者の給料が指導員と言われる作業所の健全者より格段に低く、自立する障害者の給料と同程度だからです。「共に助け合う」と言われますが、開所した時の赤貧状態の時も、事業所として成り立っている現在も、お金をみんなのお金として分け合うことが労働センターの障害者と健全者の対等性を担保しているのです。
 全国でもあまり例のない運営を約40年も続けてきた結果、障害者は自分自身を「労働者」と自覚することを通り越して、「経営者」として日常的に傾きがちな労働センターの経営を担うようになりました。この「経営を担う」という考えは一般企業の労働者と比べてもよりスキルが高いと言えるのではないでしょうか。しかも、労働センターの障害者は事業を通して箕面市内での露出度は高く、一億円を売り上げる事業は市民が買い手であるだけでなく、その事業に参加することによって成り立つ市民事業にまで成長しました。

 そんな労働センターの活動は事務所を含め4つのリサイクル店と食堂、それに移動販売と各所に別れていて日常ではわからないのですが、年に一度の慰安旅行の時にその全貌が現れます。事業と経営を障害者自身が担うという、彼女彼らにとって当たり前の日常はそのまま、「旅行」という事業をプロデュースすることになり、だれひとり取り残されないそのプロデュース力は素晴らしいもので、彼女彼らに任せればはっきり言ってそんなに豪華な旅行でなくても、飛び切り楽しい特別の時間に変貌するのでした。
ひとりひとりの障害者が旅行と言うサービスの利用者にとどまらず、幹事だけに任さず全員が年に一度の大事業を最後まで事故の起こらないように助け合う姿は、4割を超す非正規労働者の切ない権利を踏みにじり、移民として日本社会に迎え入れないで外国人労働者を使い捨てしようとする国に抗して、国家・集団・組織運営の未来の在り方への究極の提案の一つと言えるのではないでしょうか。
 そんなことを感じながら、こんないとおしいひとたちがいるかぎり地域社会も国家もまだ捨てたものでもないなと勇気をもらった旅行でした。
 こんな素敵な体験をプレゼントしてくれた豊能障害者労働センターのみなさん、ありがとうございました。

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