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2021.12.27 Mon そして世界の希望の一年がやってくる。カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」

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クリスマスソングが街にあふれ
あわただしいときが走り抜けたら
もうお正月
かなしかったこともうれしかったことも
せつなかったこともおかしかったことも
さびしいわかれもたのしい出会いも
ささいなできごともおおきな紛争も
まるで一年のはじめからわかっていたように

がれきの下についさっきまでひろがっていた
コーヒーの香りと息づくいのちの朝が
凍りついたまま今もぼくたちを見つめている
ひとは夢をみるために生まれてきたのなら
死んでもなお必死に見つづける夢がある
がれきの下で止まってしまった時も
死者のひとみからこぼれる見果てぬ夢も
この大地を生きるぼくたちと共にあるのだと思う

1月1日から12月31日まで
時にはただの数字の並びが
知らない国の言葉に思えることがある
遠い遠いどこかの大地で同じ星を見ているあなた
夜のむこうの冷たさが頬を凍らせ
必死で声を出そうとしているあなたの
冬の心はまだ詩にもならず歌にもならず

爆弾でこわれてしまった部屋の壁には
いつかのアイドルと英雄の古びたピンナップと
肩を並べるように寄り添うカレンダー
あなたの記憶のぼんやりとした岸辺で
世界の悲しい一年がさよならしている
そして、ぼくはといえば元気を出して、さあ
と新しいカレンダーをめくる

1月1日から12月31日まで
時にはただの数字の並びが
不思議な物語に思えることがある
遠い遠いどこかの駅のホームに立っているあなた
そして世界の希望の一年がやってくる

カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」
2022年ラストストーリー
イラストレーション:松井しのぶ
製作:豊能障害者労働センター
カラー6枚つづり たて62cm よこ30cm
1100円 送料無料
豊能障害者労働センター
TEL072-724-0324

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2021.11.30 Tue 松井しのぶと阪神大震災と焚き火の思い出

松井しのぶ「風のメルヘン」

やがて悲しみは希望にかわり
新しい星が生まれます
生まれたての星はまだ
光ることができません
だから星は焚き火をして
光る練習をするのです
今夜もほら、あんなに赤く
星がにじんでいます

 その絵は焚き火の絵だった。四人の人間が焚き火をしている。その炎からいくつもの星が生まれる。そのうちのひとつの星が大地に堕ちてなお、きらきら光る。
 全体がオレンジ色の小さな絵の中で、果てしない大きな空間がわたしたちを包む。そこには無数の悲しみがかくれていて、焚き火はそのひとつひとつをいとおしくすくい上げるのだった。
 2003年、急逝された吉田たろうさんに代わってカレンダーのイラストを描いてくれるひとを探していたわたしの目に飛び込んできた一枚の絵が、松井しのぶさんとの出会いだった。

焚き火の思い出
 中学生の時、冬休みに一度だけアルバイトをしたことがある。僕の家には父がいなくて、母が飯屋をしながらわたしと兄を育ててくれた。今は中学生のアルバイトは禁じられているらしいが、そのころは家計を助けるために新聞配達をしたり知り合いのお店や工場でアルバイトをする友だちもいたように思う。僕の家の状況から言えば真っ先にアルバイトをしてもあたりまえだったが、母はそれを嫌っていた。店の手伝いをしてほしかったこともあるが、なによりも勉強してほしかったのだと思う。
 1960年には高校進学率は67%に達してはいたらしいが、それでも貧乏な家庭の子どもは就職して家計を助けるのがふつうだった。そんな時代に自分の身体がこわれても「高校だけは行かせたい」という母の切実な願いは、いわゆる私生児でよりどころがない子どもが生きていくには学問しかないという切なくて頑固な信念から来ていた。
 そんなわけでわたしは学校から帰るとお店の手伝いをしながら、空いたテーブルで勉強していた。そのおかげでわたしの教科書もノートも醤油やソースのこぼれたあとがいつもへばりついていた。
 どんないきさつだったのかおぼえていないが、アルバイト先はわたしの数少ない友人で、似たような境遇だった同級生の家がやっていた工務店だった。いまから思えばわたしたち家族の生活への気づかいと対人恐怖症で引っ込み思案のわたしを心配して、その友人の母親がわたしの母を説得してアルバイトをさせてくれたのだと思う。
 仕事は南大阪の大和川河川敷でのボーリング地質調査の手伝いだった。おそらく仕事にはならず、職人さんの足を引っ張って迷惑をかけたことと思う。ともあれわたしは冬休みのほんの一週間、働かせてもらった。
 寒い朝、工務店に着くと数人の職人さんが大きなドラム缶に廃材を放り込み、焚き火をしていて、「冷たいやろ、早よあったまり。」といつも声をかけてくれるのだった。身体がかちかちになっているわたしは焚き火に差し出した両手から、あたたかさを身体の中にゆっくりと流し込む。パチパチと木がはぜる音、ぼんやりとゆれる炎。顔のほてりを両手でこすりながら、わたしは心の中の何かかたくななものがとけていくのを感じていた。その15分ほどの時間がとてもうれしかった。わたしは焚き火の楽しさを教えてもらった。今思い返すとそのあたたかさは焚き火だけのせいではなく、特別な事情をかかえる子どもを温かく見守る職人さんたちの心づかいだったのだと思う。

共に生きる勇気を育てるために
 阪神大震災の時、公園や学校などの避難所ではどこでも焚き火をしていた。5500人以上のかけがえのないいのちがうばわれ、あたり一面が瓦礫の荒野となってしまったその地で凍てつく冬の夜を照らす焚き火は、体をあたためることや灯りをとることや炊き出しをするためだけに必要だったのではない。多くの証言が語るように焚き火は被災地のひとびとの心をあたため、癒してくれたのだと思う。
 余震の恐怖、肉親や恋人、友人を失った無念、生き残ったがゆえにおそいかかる死の予感…。廃材といっしょに何度も何度もそれらをドラム缶の中に投げ込み、ひとびとは焚き火をしつづけたのだった。それは5500を超えるたましいを見送る儀式でもあったが、それと同時に生き残ったひとびとが助け合って生きる以外に道はないことを教えてくれる、だれもが必要とした道しるべでもあった。
 阪神大震災はこの社会が安全ではないことを教えてくれたことで、直接被災しなかったひとびとにも深い傷を残している。その後次々と起こる大災害、無差別テロ、信じられない事件…。今振り返るとあの地震はその後のとてつもない悲しみと無数の死を予感していたのだと思う。そしてわたしたちの社会はまだ、「安全で平和な社会」のあり方を見つけ出せないでいる。
 けれども、どんな強力な武器よりも、共に生きる勇気を育てること以外に「安全で平和な社会」をつくれないこともまた、たしかなことなのだと思う。わたしたち人間は言葉も個性も希望も夢も国籍も民族も性別も年代もちがっても、つながることができるのだ。それがとてもうれしいことなのだと、焚き火が教えてくれた。
 地震から一週間後、被災障害者に救援物資を届けるためにはじめて被災地に入った。川のそばの大きな公園で焚き火を見た瞬間、子どもの頃のあの焚き火とそれをかこむやさしいまなざしを思い出した。
 ひとはずっと昔から焚き火をすることで、小さな悲しみも想像を越える大きな悲しみも分かち合い、共に生きる勇気を育ててきたのかも知れない。
 松井しのぶさんの焚き火の絵は、まるでずっと前からわたしを待っていたかのように「冷たいやろ、早よあったまり。」とやさしくささやいた。わたしは焚き火に両手を差し出して、「ただいま」と言った。

やがて悲しみは希望に変わり
新しい星が生まれます

(採録2004年HPより 2014年ブログ校正)

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2021.11.15 Mon 時のラブソングは終わらない

カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」が2022年で終わるということで、松井しのぶさんにお声掛けさせていただいた縁から、豊能障害者労働センター機関紙「積木」編集部が寄稿を依頼してくれました。
先の記事と重複するところは容赦いただき、「積木」NO.305号に掲載された全文です。
豊能障害者労働センターを離職してからすでに17年の月日が経ちました。それからも何度も寄稿させていただきましたが、これが最後の寄稿文になると思います。
豊能障害者労働センターのみなさん、ほんとうにありがとうございました。


時のラブソングは終わらない!
カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」ラストストーリー

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 2006年版から17年に及ぶ長い間、たくさんのひとたちに愛されてきたカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」は2022年版が最後になりました。
 ほんとうに長い間、毎年毎年の想いをこめてイラストを描き続けてくださった松井しのぶさんに、感謝の気持ちをどう伝えればいいのか言葉が見つかりません。
 毎年6枚で17年間、ふりかえれば102枚ものイラストを描いてくださったことになります。その間、本来のイラストのお仕事も数多くされていたと思いますし、毎年の構想から作成・校正まで長い時間を拘束することになり、最初に声掛けさせていただいた者として大変申し訳なく思っています。
 というのも、松井しのぶさんのライフワークは絵本などもう少し違った世界にあると思っていましたから、ずいぶん創作の芽を摘んでしまったのでないかと後悔しています。
 しかしながら、松井しのぶさんの世界感が広く豊かであるからこそ、描き残してくださった102枚は単なるカレンダーのイラストにとどまるものではありません。
 世界のいたるところから聞こえてくる子どもたちの悲鳴と理不尽に失われていくおびただしい命に心痛めながら、だれひとり傷つけない平和と自然との共生を願う松井しのぶさんのイラストは、わたしをはじめ数多くの人々に勇気を届けてくれました。

カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」の誕生

 2003年秋、初代カレンダーのイラストレーター・吉田たろうさんが急逝されました。カレンダー制作にかかわらず関西の障害者運動によりそい、ともに闘ってきた仲間でもあった吉田さんの死をすぐには受け入れられず、しばらくは途方にくれながら大きな悲しみに心が締め付けられる毎日でした。しかしながら、厳しい現実はわたしたちが立ち止まるのをゆるしてくれませんでした。わたしたちは吉田たろうさんの死を悼みながらも新しいイラストレーターを探さなければなりませんでした。一時は5万部も制作したカレンダーの収益は全国各地の障害者のかけがえのない所得となり、カレンダー制作をやめてしまうことはできなかったのです。
 吉田たろうさんが並々ならぬ情熱で描き続けてくださったイラストの熱量を引き受け、しかもいままでとちがう魅力を兼ね備えたイラストレーターを探すのは至難のわざでした。
 身近なコネクションから最後は毎日インターネットで、新しいカレンダーにふさわしいイラストレーターを探しつづけました。
 そしてとうとうそのひと、松井しのぶさんを発見しました。彼女のイラスト作品を見た瞬間、「これだ」と思いました。このイラストと出会えた幸運に感謝しました。2003年暮れのことでした。
 しかしながら、松井しのぶさんにコンタクトがとれる人はわたしたちのまわりにはおらず、見ず知らずの人間からの突然のお願いに警戒されても不思議ではありません。断られたらどうしようという不安が先立ち、お願いのメールを出すのをためらっていました。
 2004年5月、わたしは決心して長いメールを送りました。今までのこと、これからのこと、ほんとうに精一杯の気持ちをこめてお願いしました。信頼される紹介者がいるわけではなく、メールを送ったもののほとんどあきらめていたのですが、なんと数日で快諾の返事をいただきました。うれしかった。
 こうして、カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」が誕生しました。

至上の愛へと わたしたちの旅はつづく

松井しのぶさんのイラストからあふれてくるこのせつなさはなんだろうと、わたしはずっと考えていました。今はそれが孤独な心、つながろうとする心の手紙なのだと思っています。真っ青な空、限りない緑、暖かい赤…、小さな一枚の絵の隅から隅まで、この世界の、空の、海の、森の、すべてのいのちのいとおしさ…。
だきしめたくなるノスタルジーの中に、小さないのちのひとつひとつがいっしょうけんめい生きる静かな意志、きずつくことをおそれずに人と人がつながり、平和な世界を分かち合い、共に生きる希望を育てる強い意志があふれでるのでした。
2006年から今までの長い年月の間に世界で起きたさまざまなできごと、そしてわたしたちそれぞれの身の上に起きた出会いや別れ…。
2022年の「やさしいちきゅうものがたり」は、イラストの外側の厳しい現実、理不尽な暴力、かなわぬ夢と遠ざかる希望、そして地球の気候変動のもとで危機に瀕している生きとし生きるものたちの悲鳴が聞こえる、愛おしくも哀しいラストストーリーになりました。
しかしながら、誰もが共に幸せに生きる至上の愛へと急ぐわたしたちのリュックサックには、松井しのぶさんが届けてくれた102枚のイラストと言葉がぎっしり詰まっています。そのやさしさとあたたかさを背中に背負い、わたしたちは旅を続けようと思うのです。

松井しのぶさん、ほんとうに長い間ありがとうございました。そして、ご苦労さまでした。

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2021.11.02 Tue 2003年秋、吉田たろうさん追悼

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今回の衆議院選挙について思うところがありますが、それは次回以後の記事にすることにします。
2022年版が最後になるカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」について、ホームページからの転載もありますが何回かの記事にさせていただきます。今回は初代イラストレーター・吉田たろうさんの回顧録です。

吉田たろうさん追悼 2003年秋

そのひとの目は細く小さかった
最初に発明された写真機が人間の目だとしたら
四季の花々、雪景色、山、河、海・・・
この星のちいさないのちたちが
いっしょうけんめい生きる一瞬一瞬のかがやきを
いとおしくそのレンズは見つめつづけた
彼にとって描くという行為は
この星で共に生きるかけがえのない小さないのちたちを
抱きしめることだった 

 1988年の秋だったと思います。吉田たろうさんから電話をいただきました。その年、豊能障害者労働センターはカレンダー「季節のモムたち」を通信販売で売ることを決めました。
 それまでは応援してくれる数少ないひとたちや団体にカレンダーを預け、そのひとたちに販売をお願いすることがほとんどでした。「もっと知らないひとたちにこのカレンダーを届けたい。このカレンダーを通して、わたしたちの活動を伝えたい」と、書籍販売用の学校や個人の名簿、地域で運営していたお店のお客さんなど、豊能障害者労働センターとかかわりのある方々に、カレンダー特集号の機関紙「積木」を発送しました。
 レイアウトの工夫もなく印刷も汚れていてみすぼらしいものでしたが、伝えたいことははっきりしていました。このカレンダーを必死に売ることで年末資金をつくりたい。「障害のあるひともないひとも共に生きる社会は、ちいさないのちのかがやきを大切にする社会なのだ」と教えてくれる小さな妖精モムのメッセージを、ひとりでも多くの方々に届けたいと思いました。
 吉田たろうさんはその機関紙を読んで電話してくれたのでした。「あなたたちの必死さにとても感激した」と…。
 また、この年から「積木」の読者の方々に電話で注文をとることもはじめました。1982年設立以来、限られた人々に支えられることでしか活動できていないことに気づき、わたしたちは一般の事業者がしのぎを削って事業されている現場に躍り出て、わたしたちの思いを伝えようと考えたのです。
 この時から、楽しいこともしんどいこともみんなで分かち合おうと、障害者スタッフも電話かけを始めました。その中には言語障害を持つ人もいて最初は唐突な電話でびっくりされましたが、その内にお客さんの方もそれが普通と感じてくれるようになりました。
 設立して6年、ようやく豊能障害者労働センターが旧来の「福祉」の枠組みから大きくはみ出し、市民の暮らしのただ中で活動するきっかけをつくったのがカレンダー事業でした。その経験の積み重ねが、後のリサイクル事業のように障害当事者スタッフが何から何まで切り盛りするようになっていったのだと思います。

 2003年10月15日のことでした。カレンダーのイラストレーターである前に、牧口一二さんや河野秀忠さんなど数多くの先輩のひとりだった吉田たろうさんの死はほんとうに悲しかった。20世紀の夕暮れから21世紀の夜明けへと、歴史はより多くの血と涙で染まってしまった。未来そのものである子どもたちの命すら危機に瀕し、そのひとみにはかなしみと恨みが満ち溢れている。わたしたちはこれからもまだまだ殺伐とした暗い河をわたらなければならないのかも知れない…。
 しかしながらその同じ時代を、吉田たろうさんの想像力の森で生まれた小さな妖精・モムたちは、「共に生きる世界」を夢みるひとびとの心の中で育てられ、生きてきたのだと思います。それは吉田たろうさんにとってもわたしたちにとっても途方もなくせつない夢でした。その夢はいまだに実現してはいないけれど、少なくともその夢を共に見るたくさんのひとたちとこのカレンダーによって出会い、つながってきたことだけは真実でした。吉田たろうさんがモムたちにたくしたメッセージは、残されたわたしたちの宝物でした。

 こんなにも深く子どもを愛し、小さないのちを愛し、平和な世界を願ったひとりのイラストレーターがたしかにいた。そして、彼が描くモムたちを愛してくださり、共に育ててくださった全国のたくさんの方々がたしかにいた。わたしたちはそのことを決してわすれない。ありがとう、さようなら、吉田たろうさん、そしてモムたち。

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2021.10.26 Tue カレンダー「季節のモムたち」誕生・吉田たろうさんのこと

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ななつの海をとおりすぎてきたモムたちよ
ゆくえふめいの風景と、こどもたちのもつれた地平線を
届けるために帰ってきたのか
ななつの海をしなやからつらぬいた自由の風が
このほしに住むひとびとの心を染めるために
どんなたんじょうとどんな死が用意されていたのか
どんな愛とどんな決意がおまえたちの行き先をてらしたのか

はる、土の楽器がこのほしをふるわせ
なつ、光のくわがこのほしをたがやし
あき、風の声がこのほしをよび
ふゆ、氷の糸がこりのほしをぬいとめ

そして、モムたちよ
このほしをほんやくすることなどないことを
つたえるために、もういちどおまえたちの旅ははじまる

カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」は2022年版が最後になりました。そこで、わたしのホームページからの転載がほとんどになるかも知れませんが、初代イラストレーターの吉田たろうさん、吉田たろうさんの後を引き継いでいただいた松井しのぶさんとの長きにわたるカレンダー制作の思い出をつづりたいと思います。

 「年末の運営資金をつくるために、カレンダーをつくりたいんです。」
 1984年のことでした。障害者の生きる場づくりをすすめる団体が集まり、障害者市民運動を切り開いてこられた大先輩である牧口一二さんのデザイン事務所に相談に行きました。

 障害があるということだけで働くこともできず、家族に生活の基盤をゆだね、いつ施設に入れられるかわかりません。身をかたくし、心をちぢませている障害者の現実は今以上に切実なものでした。
 夢も希望も世界の果てまで広がっていくのですが、それと反比例するようにわたしたちはまったくの貧乏で、いくら食べても夢と希望ではお腹がふくれないのでした。
 つたなくせつなく青臭く、わたしたちは牧口さんに訴えました。その時牧口さんと一緒にお願いを聞いてくださっていた吉田たろうさんが、「ぼくが大切にしてきたキャラクターで、小さな妖精・モムを提供するよ」と申し出てくれたのでした。
 こうして、小さないのちのひとつひとつが大切にされることを願う吉田たろうさんと、だれもが生き生きとくらしていける社会を願うわたしたちとの出会いから、カレンダー「季節のモムたち」が誕生しました。

 それから20年間、吉田たろうさんは並々ならぬ情熱とやさしさで小さな妖精・モムたちを描きつづけてくださり、わたしたちもまた必死でカレンダーを販売してきました。最初5000部でそれでもたくさん売れ残ったカレンダーは、1997年には筑紫哲也さんがとりあげてくださったりして55000部を販売するまでになり、多くの団体がその収益で年を越すことができたのでした。
 2003年10月15日、吉田たろうさんの突然の死に、わたしたちは呆然としました。数年前から体調を崩されてはいたのですが、まさかこんなに早く亡くなられるとは思いもしませんでした。ほかのお仕事もいっぱいかかえながら、このカレンダーのイラストをライフワークとして一年かかって描き続けてくださった吉田たろうさんに、わたしたちは感謝の気持ちを伝えても伝えきれません。
 こんなにも深く子どもを愛し、小さないのちを愛し、平和な世界を願ったひとりのイラストレーターがたしかにいました。そして、彼が描くモムたちを愛してくださり、共に育ててくださった全国のたくさんの方々がたしかにいました。わたしたちはそのことを決してわすれません。
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