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2019.04.30 Tue ちがう扉から集まって来れる場所「せーのっ!」で開いた居酒屋「三日坊主」

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 リサイクルとフリースペース「せーのっ!」では、27日、28日、29日の3日間、居酒屋「三日坊主」を開きました。歩いて来れるごく近所に声かけのチラシをまき、後は口コミで知らせただけで、お客さんが来てくれるものやらわからないまま開店しましたが、3日間で60人を超えるお客さんが来てくださいました。
 2階もふくめて何とかテーブルを用意し、また以前箕面で居酒屋をしていた経験があるものの、にわか仕立てで段取りが悪く、お客さんに来てくれた人が急遽手伝ってくれて、やっと料理が出るありさまでした。
 お店を開いてから約6か月、月に一度の飲み屋をしてほしいとか、一週間に一度でいいから食べ物屋をしたらどうかとか、お客さんのアドバイスをいただく中で、やっと実現した三日坊主の飲み屋さんでした。
 歩くのもよちよちなのに懲りないしづ子さんを見かねた人生の達人3人に叱られ、指導を受けながらの怒涛の3日間ですが、日ごろ話したことがないひと同士で話に花が咲き、なかなかいい感じで終わりました。
 地域の自治会に入っていない人たちもふくめて、地域に住む人びとがちがう扉から集まってこれる場所として、うまく機能していけるきっかけになれたらと思います。
 もともとアウトローのわたしたちが地域に密着した活動をするには、ややもすると地域の常識とぶつかることもあるのですが、反対にわたしたちと同じようなアウトローが集まりやすい空気感が利点となることもあるのでしょう。
 また飲み屋さんながら、夕食を食べに来てくれた小さなお子さん連れの家族にも喜ばれました。フリースペースで開かれている絵画教室や英会話教室のメンバーがこぞって来てくれたのも、とてもうれしいことでした。
  「これからも月に一度開いてほしい」と熱いラブコールを受けながら、懲りない、ひたすら懲りないしづ子さんは、飲み屋だけでは酒が飲めないひとや子どもたちは参加しにくいので、これとは別に「一日子ども食堂」を開こうと企んでいます。
 わたしはただただその後ろを歩いていくだけですが、わたしもしづ子さんも箕面で20年やって来た活動のおさらいというか復習というか、就活のひとつなのだろうと思います。
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2018.11.01 Thu 委託リサイクルとフリースペースのお店「せ~のっ!」を開店しました。

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 お知らせです。
 昨日10月31日、自宅のすぐそばの民家で、リサイクルとフリースペースのお店「せ~のっ!」を開店しました。
妻の母親が亡くなって約7か月がすぎ、「母がわたしの人生の残り10年を残してくれた」と、大衆食堂やリサイクルショップ、飲み屋さんなど、いくつかのお店の店づくりと運営を担ってきた妻がその経験を活かし、終の棲家になるだろう能勢の地で開いたささやかなお店です。
 能勢に来て早7年が過ぎ、能勢の素晴らしい里山はわたしたちのワンダーランドですが、農業の後継者不足と高齢化、新しい産業が育たず雇用の場がなく、若いひとが町を離れ、人口減がすすむという、全国のどこにでもある構造的な課題をひとりの住民としてどう解決していけばいいのか、ほんとうのところはわからないでいます。
 少し前までは観光を育て、街の魅力をあげ、お金を能勢に落としてもらうとか、雇用の場をつくり出すために企業を誘致するとか、農業の担い手になる若いひとを迎え入れるための農業施策とか、さまざまな試みに希望を持ったり参加しようと考えたり、その方向にはいかない方がいいのではと斜めに見たりしていました。
 結局のところ、そんなにまちづくりや経営に疎いわたしには今のところわからないとしか言いようがありません。
それでも、7年の間に知り合ったひとたちがまっすぐに未来をみつめ、一生懸命その未来に向かって進んでいる姿に勇気をもらったのもまたほんとうのことでした。
 能勢で生まれ能勢で育ち、時には過酷な自然と向き合いながら、能勢を守り生きてきた人たちからは軽薄な新住民でしかないでしょうが、わたしたちなりに地域で生きる道を探す旅の一歩として、地域のひとたちの「ちょっと一服する居場所・フリースペース」として、また「くるくる回して楽しく生きる 物も地球もたいせつに どこのお宅にも眠っている使わないものを預かって販売する委託リサイクルショップと手づくりの店」として、このお店を開きました。
 マルティン・ルターの残した名言、「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」を胸に、ほこりまみれの希望でいい、ひとからひとへとその手のぬくもりが積み重なるようなささやかな希望を分かち合える居場所になれたらと願っています。
 お店の内容はチラシをごらんください。場所がわかりづらいので、後日もう少し詳しいご案内をつくります。

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2018.06.20 Wed 無事です。ありがとうございます。1995年1月17日、ブロック塀とおばあさんの死

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 6月18日の朝、ほんとうに大きな揺れでした。お気遣いくださった方には個別に報告させていただきましたが、わたしの住む能勢では思いのほか被害はなく、わたしたち夫婦も近隣に住む子供たちも無事でした。一安心しつつも、他の地域の被害に心が痛みます。また、余震が頻繁に起こり、不安な心持で過ごしています。
 妻の母親が亡くなってちょうど2か月になりました。最近、彼女をはじめとして身近な人が次々と亡くなり、いつのまにか自分の前に同時代を生きる人々が少なくなり、心を分かち合う友や先人がいなくなってしまった寂しさや孤独と、人間関係や仕事のわずらわしさから自由になったような不思議な感覚にとらわれます。
 それはほんとうの「老い」がいよいよ始まったことでもあり、生き急ぐことも死に急ぐこともできず、若い時には想像もできなかった「自由」を持て余すことでもあり、若い時に読んだサルトルの「人は自由の刑に処せられている」という言葉が心にしみる毎日です。

 わたしの年齢では阪神淡路大震災の体験が心にしみついていて、あの時以来、自分が大地にしっかりと根を下ろしている感覚がなく、浮遊している感覚に囚われたままなのですが、今回の地震はその感覚をあらためて鮮明に塗り重ねることになりました。
特に、高槻の小学校のプールのブロック塀が倒れて小学生の女の子が亡くなった痛ましいニュースを知り、阪神淡路大震災の時の記憶がよみがえりました。
 1995年1月17日の朝、激しい揺れの後の余震におびえながら、その頃住んでいた家が豊能障害者労働センターの事務所に近かったこともあり、当時は事務所で仮住まいをしていた脳性まひのKさんの様子を見に行きました。
 事務所の玄関を開けるとKさんは上り口のところで身を乗り出していました。その間にも頻繁に襲う余震でプレハブの事務所はガタガタ、バリバリとけたたましい音を出しながら小刻みに揺れ、そのたびにKさんとわたしは「アアッ、ヤアッ、オオッ」と意味の解らない叫び声を発しながら強く抱き合うのでした。
 しばらくして、朝ご飯を食べに行こうと外に出ると、隣の家のブロック塀が道の方に倒れていました。今回のニュースで見たのと同じで、崩れるのではなくそっくり倒れていて、ブロック塀がとてももろいものだと知りました。簡単につくれるものだからどこの家でも、 また今回のような学校のプールの目隠しのために多用されていますが、時には控え壁もなく、また鉄筋がとてもたよりなかったり、中には鉄筋を入れない違法な建築になってしまうのだと思います。
 倒れた塀のそばで、隣の家のおばあさんが立っていて、「こわかったね。大丈夫?」と、車いすに乗ったKさんに声をかけてくれました。わたしたちは「ありがとう」と言いながら道路に出て、朝ご飯を食べにいきました。
それから一週間後、そのおばあさんが亡くなりました。
 その年、豊能障害者労働センターは被災障害者の救援活動に明け暮れる毎日を過ごしましたが、その中にいたわたしは今でもそのおばあさんとの何気ない会話を忘れることができません。
 関連死もふくめて6434人の死者の中に、彼女の死はおそらく入っていないことでしょうし、関連死にさえ入らない彼女のたましいは、数えきれない多くのたましいとともに、生き残ったわたしたちの記憶の底に眠っているのだと思います。

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2018.05.22 Tue ひとりひとり小さな力を足し算してつくりあげたお祭り。「ピースマーケット・のせ」

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 5月20日、能勢町淨るりシアターで3回目となる「ピースマーケット・のせ」が開催されました。実行委員会のメンバー数人だけでは力量を越える催しですが、当日のボランティアスタッフの方々やこの催しへの熱いシンパシーをくださるステージの出演者、少し趣の違うフリーマーケットに出店してくださる方々、ステージの合間での短い時間を利用していただき、日常の活動や思いを語ってくださるみなさん、わたしたちの企画が実現できるように可能な限りのサポートをしてくださる淨瑠璃シアターのスタッフ、そしてなによりもわたしたちの願いをくみ取っていただき、この催しに参加してくださるみなさんによって実現できた、稀有の一日でした。
 お祭りにかぎらず、なにか集団で行動する場合、よくも悪くもリーダーが必要で、一つのコンセプトのもとで統一的に行われる場合が多いのですが、このお祭りは戦争体験者で95歳の清洲辰也さんの「戦争のない、平和な世界」を望む切実な願いからはじまり、ひとりひとり小さな力を足し算してつくりあげたお祭りです。
 それまで生きてきた人生も年齢もちがうひとりひとりがそれぞれの夢を持ち寄り、語り、時にはまとまり、時にはまとまらなくても自らの責任でやろうと思うことを実現できる、そんな体験をさせてもらえる催しです。
 今年は直前まで雨予報で、特に野外で食べ物を提供する出店者の場合、保健所や消防署の指導でホール内では出店が許可されないため、そのまま野外で出店していただくことになってしまいます。
 しかしながら、直前になって奇跡のように晴れの予報に変わり、実際、朝方は風が強かったものの雨上がりの五月晴れで、能勢の里山の新緑がひときわ輝き、お祭り日和の天候に恵まれました。
 このお祭りは大きくわけて野外と調理室を中止とする食べ物ブースと、心を込めた手作り雑貨やフェアトレード商品などのフリーマーケットブース、そして野外ステージとロビーステージでの音楽と舞踊、出店参加者によるアピールで成り立っていて、それらが同時並行で行っているため、特にロビーと野外ステージで聴きたい音楽が重なるケースもあり、それは仕方がないことでした。出演者の数を抑えようと計画するのですが、出演したいというグループが現れて、結局は今年も13グループが出演してくれました。
 少ない礼金で、しかも交通アクセスがよくないのに、遠くは京都からかけつけてくれた出演者も多く、申し訳ないきもちです。彼女彼たちの演奏や舞踊は、テレビには出ないひとたちですが、世の中の風潮を憂うひとたち、自分やまわりの人たちの切ない心情を歌う曲を自らつくり、歌うひとひとたちが集い、そんなに多いとは言えない来場者の心に届けとひたむきに歌う姿に胸を打たれます。
  わたしはあまり政治的な行動をとることに臆病な人間ですが、政治集会にとどまらず、こういうライブや路上ライブにまで国家が規制するようになるとすれば、それには断固たたかわなければと思います。
 戦前、政治的行動をしたわけではないシュールレアリストの滝口修三が国家を転覆する危険思想だという理由で投獄されたように、いつの時代も国家の想像力はわたしたちの想像力をはるかに超越して、現代においても憲法改正の国民投票の情報宣伝によって数多くのアーティストや歌手が色分けされたり、自分で自分を色分けしてしまう危険があります。
 自由であるために自由であることを表現し、自分の歌いたい歌を歌い、自分の聴きたい歌を聴く、グラスルーツな音楽の場をつくり広げることもまたもうひとつの政治活動であることを、ピースマーケットのステージは教えてくれるのでした。
 それは、買い物かごの中にも平和と自由があることをフリーマーケットという、心と物と夢が行きかう市場(いちば)が教えてくれることとつながっているとわたしは思うのです。
 お祭りの最後に、昨年は走り書くように清洲辰也さんが作詞し、加納ひろみさんが作曲し、豊能障害者労働センターの田岡ひろみさんが踊りの振り付けをした「ピースマーケット音頭」を、今年は長野たかしさんのベースとスカピンのギターリスト・大音智史さんがリードギターとコーラスで参加してくださり、踊ってくれる人々も昨年よりはるかに多く、何度も演奏し、踊ってくれて大変盛り上がりました。お願いするわたしが踊りはまったくダメなのと恥ずかしくて参加しなかったので申し訳なかったです。

 大ホールで上映された映画「ごはん」にも160人以上の人が来てくださり、全体としてもまずまずの賑わいで、ほんとうによかったと思います。
 また、能勢高校の生徒さんたちが映画を観たり、手伝いをしてくれたことや、出演者にこのお祭りに参加することになったきっかけや感想などをインタビューしてくれました。
 実はまだ、出演者たちが何を語ったのか知らないのですが、時代や世代を越えたつながりをねがうわたしたちにとって、どんなことが語られ、それを若い人たちがどう受け止め感じたのか、とても関心があります。
 運営費の問題でより厳しくなってきていることや、数人の実行委員のメンバーが増えないことなど、ほんとうに問題が山積みで、来年も開催できるかわからないのが正直なところですが、このお祭りが市井の人々によって開かれ市井の人々が参加できる稀有の祭りとして、能勢の地に定着できればと思います。

ピースマーケット音頭 2018

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2018.04.25 Wed 「人は不完全な死体として生まれ、完全な死体となって死ぬ」。妻の母親が亡くなりました。

 私事ですが、妻の母親が4月18日の朝に亡くなりました。91歳でした。
 義母のことはこのブログで何度も書いてきましたので、報告させていただきます。
 3月28日に川西市立病院に救急搬送されましたが、胃腸炎ということで家に帰され、食べ物を受け付けなくなる一方なので急遽、能勢町東診療所の先生に往診してもらい、訪問看護とホームヘルプを週に2回ずつ来てもらう手配ができてすぐのことでした。 いよいよ食べることも水分の補給もできなくなり、再度お医者さんと訪問看護師さんの手配で川西市多田のベリタス病院に救急搬送された時点で、母の命はすでに生きる気配をなくしていたのでした。
 ほんとうにあっけない最後でしたが、一方で緑地公園近くの家に一人暮らしをしていた60代後半から認知症になり、約25年という長い時間をたたかうように生きてきた果ての往生とも言えます。
 わたしたち夫婦が箕面に住むようになったのが1984年、2人の子どもがまだ小学生の時でした。1991年、上の娘が短大に入学する時に義母の隣の家に間借りさせてもらい、それとなく義母の様子を見てくれていましたが、彼女が卒業して東京に就職した頃から様子がおかしくなっていったようです。
 1996年に息子が家を出て京都で下宿するようになり、しばらくはわたしの母が家にいて、1997年に母を見送ってからは、妻が週に2回ほど通うようになりました。
 そして、いよいよ一人暮らしは無理になり、2001年だったと思うのですが箕面市西小路に少し大きめの家を借りて義母と同居するようになったのですが、妻もまだ働いていてヘルパーさんに来てもらっていたのですが、緑地公園の自分の家にたびたびタクシーで行っては帰りの箕面の家がわからないということがありました。
 そこで、わたしたちが緑地公園の義母の家で同居するようになったのが2003年の暮れのことでした。
 2001年からの2年間ほどの箕面での行動がうそのように、義母は急に寝ている時間が増えはじめ、帰りたがっていた家に帰れてホットしたのだろうと思いましたが、実はその頃から体の方も少しずつ動かなくなっていったのでした。
 桜とコスモスが好きで、春には桜の名所でもある緑地公園に何日も行ったものですが、年々歩けなくなり、やがて外出の時に車いすを利用してもらうようになりました。
 わたしとちがって自分の死生観をきっちりと持っている妻は、すでにこのころから義母が在宅で過ごすために長い計画と準備をすすめていきました。ですから、要支援から要介護度5になるまで、途中でわたしたち自身の人生もあって2011年に能勢に引っ越してもなんとか在宅で過ごしてきました。実際、老人施設に入る方が幸せだったのか在宅でよかったのかは義母にも妻にもわからないというのが正直なところでしょう。
 ただ、能勢に来てからは優れたケアマネージャーやデイサービス・ショートステイ事業者に恵まれたことで、これまで3回ほど命が危ない事態も乗り越えられ、また最後の最後で能勢の在宅医療、訪問看護、ホームヘルプと、実際のところ緑地公園周辺の都会よりも、義母にとっては充実した福祉・医療サービスに見守られていたのだと思います。

 ここからは「おかあさん」と呼びますが、お母さんの人生はおおむね4つの時代がありました。大阪大空襲で命を落とす寸前に助けられた戦前、戦中の娘時代。お父さんと結婚し、お父さんが始めた会社を必死で支えた戦後。その会社が軌道になり、社長夫人として豊かな暮らしを手にした時代。そして、わたしたち夫婦と同居し、自分の心と体が思うようにいかなくなった最後の25年…。
 正直に言うと、社長夫人だったころの彼女はやや鼻持ちならない「成金」趣味にやや辟易することもありましたが、根っこのところでは大正区三軒家から中津のガード下をへて豊中庄内と、大阪の下町で苦労してきた庶民的な人でした。
 かつて寺山修司は「人は不完全な死体として生まれ、完全な死体となって死ぬ」といいましたが、彼女と過ごした25年はほんとうにわたし自身の老いや死と向き合うことになった25年でした。
 その意味において、おかあさんに「ありがとう」と別れを告げ、いよいよわたしのラストステージが始まったのだと思います。
 ほんとうに、久しぶりの妻と二人だけの静かな暮らしにやや戸惑いながら、新しい一歩を踏み出そうと思います。

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90歳の誕生日のお祝いの思い出です。

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