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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2021.09.27 Mon カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」 ラストストーリー

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2006年版から17年に及ぶ長い間、たくさんのひとたちに愛されてきたカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」は2022年版が最後になりました。ほんとうに長い間、毎年毎年の想いをこめてイラストを描き続けてくださった松井しのぶさんに、感謝の気持ちをどう伝えればいいのか言葉が見つかりません。

毎年6枚で17年間、102枚ものイラストを描いてくださったことになります。その間、本来のイラストのお仕事も数多くされていたと思いますし、毎年の構想から作成・校正まで、長い時間を拘束することになり、最初に声掛けさせていただいた者として大変申し訳なく思っています。
松井しのぶさんのライフワークは絵本などもう少し違った世界にあると思っていましたから、ずいぶん創作の芽を摘んでしまったと後悔しています。

しかしながら、松井しのぶさんの世界感が広く豊かであるからこそ、描き残してくださった102枚は単なるカレンダーのイラストにとどまることはありません。
世界のいたるところから聞こえてくる子どもたちの悲鳴と理不尽に失われていくおびただしい命に心痛めながら、だれひとり傷つけない平和と、自然との共生を願う松井しのぶさんのイラストは、わたしをはじめ数多くの人々に勇気を届けてくださいました。
 松井しのぶさん、ほんとうに長い間ありがとうございました。

「やさしいちきゅうものがたり」のラストストーリーとともに、
2022年が誰にとっても良い年でありますように…。                       
                                     細谷常彦

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2022年カレンダー「やさしいちきゅうものがたり」
1100円
お申し込みは
豊能障害者労働センター
TEL072-724-0324

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2021.09.22 Wed 300年の時をめぐり、桜の庄兵衛に降り立つ希望・ヴィヴァルディの「四季」

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 9月19日、豊中の「桜の庄兵衛」ギャラリーで、横山亜美さんのヴァイオリンと武田直子さんのピアノによる、ヴィヴァルディの「四季」の演奏会がありました。ヴィヴァルディの「四季」といえば、クラシックとほとんど縁のないわたしでさえ、「春」の第一楽章の最初の一節を何度も聴いたことがある有名な楽曲です。
 ヴィヴァルディは今ではバッハが強く影響を受けたバロック音楽の天才作曲家とされていますが、長い間歴史の底にうずもれていたひとで、500曲以上の楽曲をつくりながら彼自身の生涯はとても悲惨な晩年だったようです。
 ヴァイオリン協奏曲「四季」は300年も前に作曲されましたが再評価されたのは第二次世界大戦後で、とくに1959年のイ・ムジチ合奏団の演奏が世界的なブームになり、CDの売り上げが累計300万枚近くに及んでいるそうです。クラシック音楽を広く大衆に広めた偉大な功労者であるとされる反面、その大衆性から芸術的評価を低くされる場合もあるようです。
 歌謡曲とジャズ、ブルースになじんできたわたしにとっては、「大衆性」と「芸術性」を相対立するような考え方にはついていけず、わたしがクラシック音楽となじめなかった理由の一つでもあります。
 それもまたわたしの偏見で、そのかたくなさを壊してくれたのが「桜の庄兵衛」さんでした。2016年、ドイツで活動している友人のヴィオラ奏者のコンサートで桜の庄兵衛さんを訪れて以来、この稀有の場で何度もクラシックの室内楽を聴かせてもらいました。
 そして、いくつもの時代を潜り抜け、戦火の中でも大災害に見舞われても、悲しみをいつか大きな希望へと変えるために、わたしたち人間は音楽を必要としてきたことを教えてもらいました。ヴィオラ奏者の友人と桜の庄兵衛さんに出会わなければ、わたしはクラシックの奥深さを知らないまま人生を終えることになったかも知れません。
 クラシック最大のベストセラーのひとつといえる今回の楽曲「四季」も、わたしは恥ずかしながら聴いたことは一度もなく、今回の演奏がはじめてでした。

 開演時間となり、司会者のあいさつの後、横山亜美さんと武田直子さんが登場しました。
普通ならそのまま演奏が始まるところですが、ヴァイオリン奏者の横山亜美さんがヴィヴァルディのことや「四季」のことを熱っぽく語り始めました。
 「演奏よりトークの方が長くて驚かれると思いますが」とご本人自らおっしゃるように、解説などとは言えないもので、この楽曲に添えられたソネットを朗読しながらまるで言葉でもうひとつの楽曲「四季」を演奏しているようでした。映画や芝居などでは「語るに落ちる」とか「ネタバレ」となるところですが、音楽の場合、とくに彼女の場合はどれだけ語っても語りつくせない「ヴィヴァルディ愛」と「四季」の風景がヴァイオリンとピアノ演奏の音の葉によって描かれて行くのでした。

 いざ演奏が始まると、わたしが何度も聴き流してきた「四季」のイメージを覆すものでした。それはすぐそばで生音を聴いているからだけではない、時代を越えて世界に遍在する人々の願いや祈りが託された、その「過激なやさしさ」に胸を突かれました。
 実際のところ「四季」の中でもっともさわやかでウキウキする「春」の演奏が始まったとたん、なぜかわたしは心が震え、涙がにじんできました。
 今回はじめて演奏者のすぐ横で、奥に窓で切り取られた庭が見える席にすわったのですが、秋になろうとしている窓から突然、満開の桜がこぽれました。
 わたしの心を埋め尽くした桜は、25年前に阪神淡路大震災で被災した神戸の障害者に救援物資を届けた時、まだがれきも片づけられず傾いた建物とやかんやテレビや生活用品が山と積まれた荒れ野に咲いていた桜でした。もうしわけなさそうに咲いていた桜を見て、その時わたしはどんなに悲しみが世界を覆っても季節は巡りゆくのだと思いました。
 今、コロナ禍で世界が沈黙する夜を何度もくぐりぬけ、能勢という緑あふれた里山の地に住みながらわたしの中で時間は止まり、季節はわたしの心を通らないまま過ぎ去っていたのでした。
 横山亜美さんと武田直子さんの演奏は、始まりの一音でわたしの凍てついた心を溶かし、25年後の「春」を届けてくれたのでした。
 実際、後日にさまざまな演奏の「四季」を聴きましたが、ヴァイオリンとピアノ、それもピアノの方はほぼ伴奏に徹する今回の演奏は、とても冒険的だったことがわかりました。
 もちろん、クラシックのことにまったく無知なわたしが語ることなど許されないことだと思いますし、演奏者のお二人にもとても失礼なこととお詫びした上であえて言わせてもらえれば、今回のお二人は「四季」を演奏したのではなく、「四季」をもう一度つくりなおしたのだと思います。
 演奏のすばらしさだけを言えば、アンコールに横山亜美さんのお姉さん・横山令奈さんが在住するイタリア・クレモナの病院屋上で演奏し世界のニュースにもなった「ガブリエルのオーボエ」だったと思うのですが、その一曲の演奏だけで十分すぎるほどです。
しかしながら、横山亜美さんは新型コロナ感染症がまん延し、亡くなったおびただしい魂とともに、世界中の人々が一日一日を生き延びる毎日を過ごす今、目に見えないがれきに覆われた世界の大地に立ち、粉々になったひとびとの「四季」を取り戻そうとしたのではないかと思うのです。
 それには彼女の思いに応える武田直子さんのピアノが必要で、お二人はまるで新しい楽曲を作曲し、プロデュースするように300年前のこの曲を全く新しい音楽に変え、世界中の悼む心を希望に変えてくれたのだと思いました。
 彼女のプロフィールを見ると、箕面市出身でおじい様もご両親も、そしてお姉さんもヴァイオリン奏者で、実家には100年前のおじい様の楽譜も残されているそうです。
 わたしも20年ほど箕面に住んでいて、箕面が第2のふるさとと言ってもよく、とても近しい存在に感じてうれしく思いました。
 そういえば、桜の庄兵衛さんを知るきっかけになったヴィオラ奏者の友人も箕面市出身で、不思議な縁を感じたコンサートでした。
あらためて、横山亜美さん、武田直子さん、そしてお二人の演奏の場を用意された桜の庄兵衛さんに感謝します。

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2021.09.19 Sun 護送されるサービスでない、夢見る移送サービスを。難波希美子さんと能勢ルネッサンス

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 少し前になりますが、8月2日、能勢町地域公共交通会議」が開かれました。
 以前にも記事にしましたが、能勢町では4月より阪急の路線バスが大幅に減便・廃止されました。わたしは能勢に来てちょうど10年になりますが、その間に路線バスはどんどん減便になりました。能勢電鉄は実は能勢町を走っておらず、交通手段は路線バスが走っていますが、人口減少と高齢化の波は路線バスを直撃し年々利用者が減る中、運転手不足という構造的な問題も重なり減便や廃止が進んでいるのです。
 今回のような大幅な減便と能勢電鉄妙見口からの東能勢線の休日廃止は能勢町民にとって交通アクセスの崩壊そのもので、ますますマイカー通勤となり、能勢の素晴らしい自然環境を求めて移住しようと考えていた人々も断念することになりかねません。
 能勢町は、路線バスと連携できる能勢町内の地域交通網の確立に向けて、路線バスとタクシー事業者、国交省近畿運輸局の担当者、都市デザインの学識経験者、豊能警察と能勢町職員、住民代表などを構成委員とする「能勢町地域公共交通会議」を立ち上げました。
 昨年10月の第一回会議から今年2月まで3回の会議が開かれ、その間に住民アンケートを実施したものの、住民への説明会など情報の周知が十分でないまま、4月からの大幅減便と一部路線廃止が阪急バスから通告され、初めて多くの住民が知ることになりました。
通勤・通学や通院、買い物など直接影響を受ける住民にとって、今回の減便・廃止は大きな問題で、ここに至るまで広く住民に知らせ、意見を聞く説明会もないことに行政への不信を募らせることになりました。
そこで能勢町は今年度から住民代表を2人公募し、6月の書面決議を経て、今回初めての顔合わせになりました。選ばれた2人の委員は多くの住民の不安や憤りを会議で吐露し、私は傍聴できませんでしたが昨年度とは様変わりの白熱した会議になったようです。
 町はこの会議でデマンド型乗り合いタクシーに絞り、運行区域と目的地(買い物、通院などの対象施設、医療機関など)を設定する方向で提案しましたが、2人の住民代表は路線バスの減便・廃止でどれだけの住民が困っているか、暮らしに直結する大問題を住民に知らせる説明会も意見をすくい上げる機会も用意せず、行政が勝手に決めていいのかと詰め寄りました。
 どこの町でも同じなのかはわかりませんが、まちづくりの企画をコンサルタントに任せ、住民に知らせることも意見を聞くことも一回のアンケートとパブリックコメントですまし、決められた原案を通してしまう手法は住民だけではなく行政職員も育たないのではないでしょうか。
 ともあれ、今回の会議では住民代表の委員から、住民への説明会と意見を拾い上げる機会を開いてほしいという猛烈な要望で町の思惑通りには行かず、デマンド乗り合いタクシーの導入までは(半ば強引に)かろうじて決まったものの、実証実験の運行区域や主な目的地にまでは議論が届きませんでした。
 立往生になった会議で、学識経験者でこの会議のまとめ役の副会長の大学教授は住民代表が提案した「分科会」の設置に賛同し、事務局である町に10月に開かれる次の会議までに幅広い住民の訴えをくみ取る新たな分科会の設置を検討することを指示しました。
 今回の出来事は、住民の代表委員が異議申し立てをすることで審議会やアンケートやパブリックコメントがアリバイになる危険性をはらむ今までの町の施策づくりの手法に一石を投じ、住民が主役のまちづくりへの一歩を踏み出した画期的な出来事だと思います。
 これから先、路線バスの減便・廃止を補完するだけでなく、バス停が遠いなど移動手段が困難な住民のための地域交通のあり方を検討するにあたり、この会議自体の在り方そのものが住民参加によって進められることが求められています。そのためにもこの会議の傍聴が5人しか認められないのも大きな問題で、広い会場を用意して傍聴人を制限しないところから始めていただきたい。
 また、町議会はまちづくりのすべての施策の最終的な決定をする場として、それぞれの議員が審議会の諮問の中にうずもれた課題までをも掘り起こし、徹底的な情報公開と住民参加のまちづくりをより進めてほしいと思います。その意味でも2人の新人議員井上加奈子さんと難波希美子さんが6月議会の報告会を開いたように、9月議会の報告会もぜひ開催していただきたい。
 
 交通問題に限らず企画を請け負うコンサルタント会社の仕事は決して悪いものではないと思いますが、おしゃれでそつのない資料をみていてひとつのことに気づきます。
 それは「夢がない」ということです。それは当たり前のことで、どんなにスキルが高くても能勢町の住民のほんとうに困っている現状を業者が肌身に感じられるはずはありません。
 結局のところ、夢がないのは町行政自身で町行政がほんとうに困っている住民の現状を知らないか、知る必要がないと思っていると言わざるをえません。地域交通の在り方においても人口減少の予測からこの新たなサービスも計画の段階から縮小していくことが前提で、サービスを利用する住民を増やしていく気がないのだと思います。
 ですから、本来「ドアからドアへ」は誰一人も移動困難な住民をつくらないという人権施策であるにも関わらず、既存の交通サービスと競合しないことを優先し、買い物や通院などの特定の目的に限ることを示唆していて、これでは既存の移動サービスを越えたものにはならず、サービスにふたをしているとしか思えません。
 たとえばアンケートで天王地区の住民がバスを利用しないと答えたことを「ニーズがない」ととらえてしまう行政のおごりと想像力のなさに愕然とします。ニーズがないのではなく、行政をあてにできないというあきらめや怒りまでもがその答えにあることは専門家でなくてもわかるはずです。家にこもりがちになってしまう住民が外出する楽しみを増やしていくようになる新しい地域交通サービスが、切実にもとめられているのです。
 そして、能勢町から山下駅や妙見口へと他市町村へと交通サービスを伸ばさなければ通院も買い物はもちろんのこと、もっとも問題となる通勤通学のための移動手段が保障されません。また、今は分断されている東能勢と西能勢の行き交いが深まる取り組みもまた、地域交通サービスに求められます。
 
 ずいぶん前でわたしの記憶違いかも知れませんが、台湾映画の名作・ホウ・シャオシェン監督の「悲情城市」でトニー・レオンが大きな旅行行李を持ってバスを待つシーンがありました。
 バスを待つトニー・レオンと妻が悲しみを湛えた表情が、1945年の日本からの解放から1949年の中華民国建国までの台湾の4年間、おびただしい台湾人が国共内戦から逃れてきた中国本土の人間に殺された悲しい歴史を物語っているようでした。
移動することは現実の心と身体を別の場所に移すだけではありません。変わらない自然と変わりゆく自然、壊れてしまった町と人々の記憶の中に残される町…、単なる移動の手段というだけではない、地域の人々の暮らしや心情、隠れた希望、思わぬ出会いと別れまでもが過去から現在、未来へとつながっていく、そんな夢見る交通システムが強く望まれているとわたしは思います。

Koji Tamaki「田園」

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2021.09.10 Fri Yさんとボブ・マーレーとトキドキクラブ 大椿ゆうこさんのこと2

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エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい
エレーン その答を誰もが知っているから 誰も問えない
中島みゆき「エレーン」 

 あれはたぶん1983年、Yさんが豊能障害者労働センターに現われてからまもない日曜日だったと思います。わたしの妻がYさんを誘い、3人で須磨の海岸に行きました。
 わたしと妻は、労働センターと関わったのと同じ頃、Tさんというステキな歌うたいと出会いました。
わたしたちは1972年頃に彼がまだ高校生だった頃、旧豊中市民会館のこけら落としのステージで彼の歌を聴いていました。その彼がバンドをつくってまた歌い始めた頃、わたしが箕面ではじめて開いたロックコンサートに参加してくれたのをきっかけに彼のバンド「トキドキクラブ」のファンになり、彼らの出演するライブに必ず出かけていたのでした。
 Yさんはおよそロックやレゲエを聴きに行くには似つかわぬいでたちで現われました。あの時は時代遅れと思いましたが、まわりまわって今は流行りのオールドファッションのブラウスにブリーツのスカート、真っ赤な口紅。ハイヒールは海岸の砂に足をとられ、足がいたいと何度も立ち止まりながら、やっと野外ステージにたどりつきました。
 その日はボブ・マーレーを偲び、1982年から始まった海辺のフリーコンサート「須磨の風」が開かれていて、トキドキクラブが出演したのでした。
 トキドキクラブのライブが始まると、Yさんは踊り始めました。それはなんとも言いがたい風景でした。レゲエの若者たちのカッコいいファッションの群れの中で、Yさんのまわりだけが古い日光写真の中にあるような、不思議な光景でした。
そのうち妻が一緒に踊り始めました。しばらくして気が付くと、わたしはやみくもに前に走り出てめちゃくちゃなラジオ体操をしていました。そして、わたしたちを遠巻きに笑ってみていた若者のひとりの手をつかみ、引きずり出そうとしました。実際その時のわたしは、その若者になぐりかからんぐらいの勢いだったのでしょう。彼らは心優しくて、わたしが近づくと逆らいもせずみんな逃げて行くのでした。
  「あっ、また悪い癖が出てしまった。」と思いました。この歳になっても時々わけもなく胸が高鳴り、とんでもない無茶をしてしまうことがあるのですが、40年前のわたしはすでに30代半ばになっても少し「アブナイ」人間だったのでしょう。
 周りを見ると、もうひとり男が踊っていました。労働センターの良き理解者だった神戸のスナック「メルヘン」のマスター、今は亡きマスモトさんでした。Yさんと妻、マスモトさんはトキドキクラブの音楽に酔いながら、しなやかに体を動かしていました。
 Yさんはまわりのことなど気にもせず、5月の風に身をゆだね、太陽をちりばめた光の粒のような波の階段の踊り場でスカートをひるがえし、それが遠い国の言葉であるかのように、トキドキクラブの音に耳をかたむけて踊り続けました。
 その時、わたしは思ったのです。Yさんの踊りが自分をとりもどしていく時速100キロの青春の救急車だったことを。そして障害があるというだけで、Yさんの青春は少女のままひん死の重傷だったことを…。あの時、真っ青な空と白い光とキラキラ輝く波と砂浜に包まれて、彼女は自由を手にした喜びにあふれていました。
 そして、マスモトさんもまたゲイであることをカミングアウトし、友人や彼を慕う若い人たちに囲まれてもなお、「深い人間関係」に焦がれるわが身を解き放つように、踊り続けました。
 トキドキクラブの演奏が終わり、ボブ・マーレーの「ノウ・ウーマン・ノウ・クライ」がかかった時、若者たちが一斉に踊り始めました。
Yさんはそれから2年ほどして、わたしたちが想像できないスピードで労働センターを去っていきました。きっとわたしたちは、どこかでさよならの仕方を間違えたのかも知りません。自分を取り戻していくYさんの変わりように、わたしたちはついて行けなかった。
 その時のYさんにとって、労働センターが自由への旅がはじまる青春のプラットホームだったのでしょう。

 大椿ゆうこさんにはじめて会った時、「ちがいは力、みんなちがってみんないい」という皮膚感覚が自然にしみわたっていることに感動しました。もって生まれた感性から、非正規の労働者たちに立ちふさがる問題が労働の場だけにあるのではなく、ひとりひとりの生い立ちや人間関係の背後にある同時代の社会全体にはびこる差別や格差や偏見や理不尽な仕組みから来ていることを、彼女は痛いほど学んだのでしょう。
 「ひとりぼっち、ふたりぼっち、3人ぼっち」と孤立が孤立を生み、「自己責任」という言葉で切り捨てられ、追い詰められた末に彼女の前に現れたひとりひとりの人生をまるごと受け入れる彼女の心には、数多くのひとびとの無念や悲しみや切ない希望ややるせない夢がとげのように刺さっているのです。そうでなければ雨の日も風の日も毎日路地に立ち、「大丈夫だよ、あなたがしんどいのはあなたのせいじゃない」と語り、「生存のための政権交代」を訴え続けることなどできないと思うのです。
 そんな大椿ようこさんを見ていて、わたしはなぜか40年前に出会い、別れて行ったYさんのことを思い出しました。Yさんはセンターをやめても生活保護で自立生活をしていましたが、あの時代はまだ就労の場はおろか公的な介護保障も脆弱で、家族に支えられて暮らす以外に地域で生活することは難しい時代でした。
 豊能障害者労働センターも生まれたばかりの頃でした。働くひとの権利の前に、「就労を拒まれる障害者の働く権利」を獲得するために、障害のあるひともない人も共に働きお金を分け合う、たとえばこんな働き方はどうだろうと労働センターの活動がはじまりました。
 理想は高く現実の奈落は深く、給料と言えないほどのお金しか手にできないふがいなさを抱えながらその日その日を生き延びていました。センターの自立障害者の命綱は生活保護とそれにともなう介護保障でした。それは障害者運動の先達・青い芝の障害者が命を懸けて勝ち取ってくれたものでした。
 時代はたしかに変わったのだと思います。40年前にくらべるとわたしの知り合いの障害者たちもグループホームで自立生活に準ずる暮らしをしていて、介護の保障もずいぶんよくなりました。しかしながら、障害者が当たり前の労働者として働き、所得を得ることは今でもかなり難しいことも事実です。
 だからこそ、障害者に限らず働く場にたどり着けないひとたちとともにある労働運動のあり方を探しながら、だれもが安心して暮らせるための政治、競い合いから助け合い、共に豊かさと貧しさを分かちあう社会を激しく求める大椿ゆうこさんの「たたかい」に、わたしたちの希望を託していきたいと思います。
 それはYさんがわたしに残してくれた青春の行方をたどることでもあるのです。

梓みちよ「エレーン」(作詞・作曲 中島みゆき)
かつて外国人が多く住むマンションで暮らしていた中島みゆきは、ある時、酔っ払いに絡まれている外国人女性を救ってあげたことがきっかけで、彼女と交流するようになる。ある時、この女性は殺害され裸の状態でゴミ捨て場に遺棄されていた。彼女は娼婦だった。この事件は新聞に数行書かれたのみで、警察の調べも虚しく迷宮入りとなったという。
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2021.09.07 Tue 自由より他に神はなし cafe「気遊」30周年記念フリーコンサート番外編2

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 わたしは関西フォーク・ロックと同時代を生きながら、彼女彼らの音楽をほとんど知らずに過ごしてきましたが、春一番と気遊さんのおかげで70の歳を重ねて恥ずかしながら初めて、「音楽」と出会うことができました。ほんとうに、間に合ってよかった。
 ヤスムロコウイチの皮膚がむせび泣くような愛の歌、ロケット・マツのシンプルで繊細でもの哀しいピアノ、吉元優作の路地裏から聴こえる懐かしい「だいじょうぶ」ブルース、光玄の神戸の震災のがれきから風に吹かれ聴こえるひとびとの歌たち、松井文のくせになる声が以外にも都会ではなく草いきれと風のにおいを感じさせる歌、NIMAのダンスと川崎知のフリージャズサックスが時の記憶のふたを開ける怖い快楽、大塚まさじの歌は長い時のページを今の時代の表紙にゆっくりと書きうつすようでした。
 そして、サプライズで現れた木村充揮の「天王寺」は、東京のような都市には決してならない大阪の街のワンダーランドを歌い、有山じゅんじは木村充揮とその後に登場する金森幸介と「自由より他に神はなし」とギターを響かせ、大切な宝物・音楽を愛おしい友と分け合えるうれしさをわたしたち観客に教えてくれました。
 そして、金森幸介。この人のことも全く知らないまま気遊さんでのライブではじめて聴き、驚きともにアッという間に彼の歌に引き込まれました。自問するような珠玉の言葉は「約束の地」へとおもむく青春の道しるべのようにわたしの心に残っています。
 渋谷毅はすっと現れピアノの前に座ると唐突に演奏が始まるのですが、演奏中まったく微動だもしないのにジャズ・ブルーズのグルーブ感にあふれ、骨太なのにしなやかなピアノを聴かせてくれました。小川美潮と金子マリは、渋谷さんのピアノで歌える幸運と信頼感から立ちのぼる音楽を聴かせてくれました。
 アンコールは渋谷毅、小川美潮、金子マリに加えて有山じゅんじ、光玄、金森幸介、大塚まさじが登場し、金森幸介の「もう引き返せない」を歌いました。ここでも有山じゅんじが先導し、繰り返しのパートを全員が少し戸惑いながら、この日の長いライブの最後をこんな素敵な場を用意してくれた「気遊」のオーナー・井上さんご夫婦にささげるように歌い、聴いているわたしも涙ぐんでしまいました。
 最後にあいさつされた気遊のオーナー・井上隆史さんが話されたように、わたしも人生の最後のステージをいっしょうけんめい生きようと思いました。
 勇気をいっぱい頂いた、素晴らしいコンサートでした。

♪夢は色あせていく僕は年老いていく でもまだへこたれちゃいない
 夕陽を追いかけていく 奴の歌が聞こえる
 もう引き返せない (金森幸介「もう引き返せない」)

もう引き返せない 金森幸介 with 有山じゅんじ

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