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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2021.05.06 Thu 映画「初恋のきた道」 ひたむきな愛のおとぎ話と国家権力

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 ずいぶん前に録画していた「初恋のきた道」(原題:我的父親母親)を観ました。中国映画の巨匠、チャン・イーモウ監督の1999年公開のこの映画は、同年の「あの子を探して」や2002年の「至福のとき」と合わせ、「幸せ三部作」とも言われています。
 わたしは若いころはゴダールやトリュフォーなどフランスのヌーベルバーグや大島渚など、ATG配給の映画などを好んで見ていましたが、40代ごろからアジア映画をよく見に行った時期があり、今は閉じてしまった映画館もありますが町の映画館のいわゆる単館ロードショーに足しげく通いました。
 アジア映画と言えば香港映画が人気でしたが、わたしは中国映画と台湾映画が好きで、特に中国映画はほとんど監督の名前も俳優の名前すら知らないのによく見に行ったものでした。もちろん、この映画も公開時に見に行きました。
 映画は、中国北部の河北省の小さな村を舞台にした、おとぎ話のような純愛映画です。
爽やかな空の下を広大な草原と麦畑が広がり、小川が流れ、あふれる緑と秋の紅葉と、まるで何枚もの絵画を連射で見るような美しい風景のもと、一人の女性の愛の物語がつづられます。

 都会でビジネスマンとして働いているルオ・ユーシェン(スン・ホンレイ)が、父の急死の知らせを受けて数年ぶりに故郷の村へ帰ってくる。母(チャオ・ユエリン)は、古いしきたり通りに葬式をあげたいと願っていた。ユーシェンは部屋に飾られた父母の新婚当時の写真を見ながら、昔聞いた両親のなれそめを思い出していた。
 町から教師として赴任してきた20歳のルオ・チャンユー(チョン・ハオ)と、彼に恋い焦がれる18歳の娘チャオ・ディ(チャン・ツィイー)。ディはなんとか自分の想いを彼に伝えようとし、やがて二人の間には恋心が通じ合う。そんなある日、チャンユーは町へ呼び戻されることになり、村の学校から姿を消してしまう。チャンユーが帰ってくるのを、雪の降りしきる冬の道でひたすら待つディ。村と町をつなぐこの一本道は、二人にとって大切な愛の道となった。
 葬式が終わり、息子ユーシェンは、父が一生立ち続けた教壇で、こどもたちに父が初めての授業のために書いた教科書で授業をする。ディは、少女の日を思い出すように学校へ向って歩き出すのだった。 

 1989年、天安門事件による民主化運動の弾圧から10年。この映画が公開された1999年は、中国の市場経済が急成長し世界の工場と呼ばれ始めた頃で、自由経済の発展に伴って人々の考えも大きく変化した時代です。
しかしながら北部の寒村にはまだ経済発展の波が押し寄せておらず、社会の急激な変化に取り残されたままのようです。都会で裕福な暮らしを手にした息子・ユーシェンはおそらく子どものころから変わらない風景を懐かしく思いながらも、もうここには戻れないと思ったのではないでしょうか。それは彼だけではなく、その時代以降中国全体がもう後戻りできない高度経済成長へとつきすすんでいくことになるのでしょう。くしくも彼が乗ってきたクライスラー社製のジープ、チェロキーとともに…。
 チャン・イーモウ監督は国共内戦に敗れた国民党の軍人を父に持ち、中国共産党支配の下でイーモウの一家は、最下層の生活を余儀なくされました。文化大革命のときは7年間農村で働き、その経験が彼の農村映画の傑作を生んだといわれています。
辺境の村にも政治の力は確実にひとびとの暮らしの行方に影響を与えるようなり、「初恋のきた道」でも、父親はある日、文化大革命につながる反右派闘争にまきこまれ、突然に町へと連れ去られ、彼を追って高熱を押して走り続ける母親の姿が描かれます。
 しかしながら一方で、ひとりの女性のひたむきな思いもまた、大きな政治の力と対置できる「おとぎ話」をわたしたちに語ってくれるのでした。
 たしかに、母親の女性像は男に都合のよいものであることは否めないのですが、一方で1957年の中国の辺境の村にやってきた父親が40年以上、村人総出で建設した小学校をたったひとりで支えてきたことに感情移入してしまいます。わたしたち日本の社会でも子どもたちと大人たちのコミュニティーのよりどころとして学校があった同じ時代を通り抜け、学校の統廃合の末にやがて村そのものも消滅していきました。
 町から学校の先生が来るという大事件は、この映画ではその村が大きく変化していくことだけでなく、この村を支えてきた大自然のふところに「先生」、すなわち「教育」が溶け込んでくることを意味しているのだと思いました。
 先生が来るということで急遽、村総出で学校を作ります。わたしは実は対人恐怖症と吃音になやみ、小学校1年の時は3学期になってやっと学校に行き始めた子どもでしたが、この村の子どもたち、大人たちにとってはそんな悩みを持つ子供はいなかったかもしれません。それどころか、学校がただ単に「先に生まれた」だけの「先生」や「えらい先生」が子どもを教育するところではなく、いかにも青春映画そのままの「若い先生」を囲んで子どもたちが「学びあう」本来の「学校」として、毎日がわくわくする特別の場所だったに違いないのです。
 すでに18歳になった少女もまた学ぶこともなく字も読めないけれど、待ちに待った先生が村にやってくることに心ときめかせたとしても、それは当たり前のことだったのでしょう。と同時にその恋心は時には優しく時にはひめやかに時には切なく時にはかなしく彼女のほほを通り過ぎる風とともに、大自然の中でひたむきに解き放たれた愛となっていくのでした。実際、彼女と彼の心のふれあいのすべてはこの村の自然という共有財産の中ではぐくまれていきます。その出会いをつないだ一本の道を彼女彼たちは経済成長の歯車が加速し始めているだろう「町」がなくしかけている大切なものをひとつずつ拾いながら村へと帰って来るのでした。
 10年以上も前に見たこの映画を今見直し、棺に入った父親を車で運ぶことをこばみ、棺を担ぎながら大勢のひとたちが歩いて戻るこの道こそ、もしかすると中国全体、いやわたしたち日本全体、世界全体が遠くの辺境の里に捨て去られた大切なものをすでに取り返せないところに来てしまったのではないかと思いました。
 この映画は1999年の故郷をあえて白黒で描き、亡き父と母が出会い、夫婦となった1957年をカラーで描いています。当局の検閲で映画に限らずさまざまなジャンルの芸術が自由に表現できない中、チャン・イーモウは体制派と批判される場合もあるのかもしれないけれど、わたしはこの監督がそれらの検閲・弾圧を潜り抜け、ぎりぎりのところで表現してきたことを「初恋のきた道」でも実感しました。
 香港への中国の仕打ちやミャンマーの切迫した情勢の中にいて、言葉では語れない理不尽に奪われ続けた無数の魂と屍を累々と積み重ねてもなお、わたしたちは国家がふりかざす正義の下で自由を奪われ、いのちを危険にさらされ、心を固くとざさなければならないのかと思う時、その渦中でそれでも自由をとりかえそうとするたくさんのひとたちの存在を感じながら、この映画のエンドロールをみていました。

「どんなに自由をうばわれても人間には最後にひとつだけ自由がのこる。それは自由になろうとする自由です。」(竹中労)

竹中労語る 天安門事件 - YouTube
この映像は1988年10月11日から1992年10月16日まで放送されたテレビ朝日の深夜帯番組にレギュラー出演していた竹中労の発言記録です。この番組は一週間にあったさまざまな事件や政治的な問題を出席者が自分の意見を言う番組で、東京地域のみの放送だったらしいです。今聴けば竹中労の遺言のように聴こえます。このひとはほんとうに信頼に値するジャーナリストであったとつくづく思いました。

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2021.05.01 Sat 能勢農場とピースマーケット・のせと希望という落穂拾い 能勢ルネッサンス 難波希美子とともに

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 難波希美子さんが町議会議員選挙において276票で初当選したことは、それを目指した選挙活動を続けてきた結果として、とてもうれしいことです。
昨年秋の補選の時は、難波さんが発信した「きねんだ」の問題と、難波さんの自然保護への理念、女性議員への期待などが重なった「小さな風」が生まれかけましたが、維新推薦の候補者の圧倒的な得票数にはまったくおよびませんでした。
今回は40歳の子育て中の女性、29歳の農業支援者の立候補など、補選のときの難波さんに集まった風が去った後にもかかわらず、支持を得ることができました。
まずはなによりも難波さんの環境保全を訴える訴えがまったくぶれずに能勢の人たちに届いたのだと思います。よくも悪くも、彼女の主張は他の候補者と一線を画していたため、わたしたちに聞こえてくるのはよくない声も多かったのですが、それ以上にわたしたちがまだ出会えていないひとたちからの支持をいただくことができたことに感謝しています。
難波さんを議会に送り出したいというわたしたちの願いが能勢の人々の心を動かす力になったのだとすれば、なによりも難波さんのひたむきさ、率直さと純粋で裏表のない人柄が、理念や主張、言葉を越えて受け入れられたのだと思います。難波さんの「ひたむきさと大胆さと確かな理念」は、だいすきな能勢の豊かな未来を耕したい一心から来ていて、政治的野心とは無縁であることが認知され、鬱屈し、密閉された議会に新しい風を吹き込む期待となったことが結果につながったのだと思います。
 実際のところ、新型コロナ感染症の拡大とコロナ失業者や企業の廃業も増える中、大幅な減便となった路線バスや移動困難な地域の問題、未曽有の事態が追い打ちをかける農林業従事者の問題、一人暮らしの高齢者所帯が増え、医療・福祉サービスによるセーフネットへの懸念など、暮らしにかかわる重大かつ喫緊の課題が山積みする中で、今の生活には直接つながらないと受け止められかねない気候危機と環境保全の訴えがどれだけの人々の心に届くのか、不安に思うこともありました。
 ですから、今回の結果はたしかに私たちと難波さん自身、そして彼女を支えてくださった人々の努力の結果であるとともに、能勢町の住民が気候危機や環境保全について一定の認識と危機感を持っていたことの結果ともいえます。一見、都会のひとの言い分と思われる気候危機と環境保全が、里山能勢に住むひとびとの関心事のひとつとしてあることをこの選挙で確認できたことは、能勢に住む者として誇りに思います。
 と同時に、難波さんに投票してくれた人たちは、環境保全や気候危機の訴えに反発もあるものの一方でそのことを肌で感じている農業従事者で、案外旧住民の方々も少なからずおられたのではないかと思います。もちろん、若い人たちには届けられなかったかもしれませんが、能勢の自然が好きな方々にも難波さんの訴えが届いたのだと思います。

 反省点としては、難波さんとまわりのわたしたちが、なかなか選挙という武器を持たないたたかいに一体感を持てなかったこと。まわりのわたしたちが難波さんの行動の指針を作るところまで機能しなかったこと。選挙をたたかいぬくそれぞれの思いがなかなかつながらず、最後の最後でやっと間に合った…。などの感想を出し合いましたが、総体としては今回はじめて選挙を経験した若い人たちにとっては無理のないことだったと思いますし、限られた時間の中で右往左往しながら、それぞれのひとがたしかな手ごたえをつかむプロセスとして、それらの反省点は選挙に限らずこれからの活動に生かされることでしょう。

もう一つの大きな訴えだった「住民が主役」については、能勢の町づくりの重要な担い手である議会に新しい風を起こしうるとの期待が、別の二人の新人候補と同じように難波さんにも向けられたと思いますが、「常設型の住民参加条例」が何を意味するのかについては伝えられなかったと思います。もっとも、気候危機宣言についてはすでに町長の表明で実現していますし、環境景観条例についてもその実現には多くの議論が必要なのではないかと思います。
 町行政への批判はともかく、行政との対置型、告発型の運動が重要なモーメントではあるものの、一方で行政との協働型の運動が行政にからめとられてしまった住民運動の歴史に学び、行政との緊張関係を持ちつつ、住民主役の行使が選挙だけにとどまらず、また住民アンケートや住民がひとりふたり入るだけの審議会ではなく、住民が議会も行政も動かせるような仕組みとして、住民参加条例の意味が伝えられたらよかったと思います。
 最後に、難波さんという逸材を押し上げて、能勢農場・産直グループが40代のひとたちを中心に自分たちの選挙としてかかわってくれたことが最大の成果となって現れたことがとてもうれしいことでした。その意味において、今回の選挙を通してわたしたちはかけがえのない経験・成功体験を得ることができました。振り返ると、難波さんが新人では一番の得票数で当選したことは奇跡ですが、それよりもこれを機会に能勢農場・産直グループのこれまでの歴史が再認識され、新しい歴史を歩み始めたこともまた、奇跡なのだと思います。
前回と同じく、選挙期間中の町外の議員さんたちが応援に駆けつけてくれて、難波さんのこれまでの長い活動と情熱のすさまじさを実感しました。
 今後、わたしたちは「ホップ・ステップ・のせ」の会員として、今後の活動を進めていくことなりました。次回からは一か月の一度の会議となりますが、次の会議ではひとりひとりが持ち寄って、これからの活動について夢を語り合えたらと思います。

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば、
できもしないことを考えているといわれるならば、
何千回でも答えよう。
「その通りだ」と。
(チェ・ゲバラ)

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2021.04.20 Tue 18日投開票の能勢会議員選挙で、難波希美子さんは276票をいただき当選しました。

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 いろいろな方々からのご報告でご存じのように、18日投開票の能勢会議員選挙で、難波希美子さんは276票をいただき当選しました。昨年9月から補欠選挙をはさんだ半年間、怒涛のような日々でしたがうれしい結果になり、感激しています。
 実際のところ、新型コロナ感染症拡大のさ中、日々の生活に今すぐ直結するとは思われにくい気候変動や環境保全の訴えがどれだけの共感を得られるのか、とても不安でした。
 しかしながら、能勢の自然が農林業を生業とする先人たちによって守られてきたこと、そこには幾多の困難と危機を乗り越えてきた歴史がかくれていることを実感し、だからこそかけがえのない自然を守ることが次の世代の農林業をそだて、能勢の未来をたがやすことになると訴え続けた難波さんの一途でひたむきな姿勢に共感してくだる方がおひとりおふたりと現れました。そして、とうとう町議会の重い扉をこじ開けることができました。
 政治は純粋な心や理想でなされるものではないと言われますが、夢を語らなくなった今の政治が腐敗を蔓延させ、社会を息苦しくしている現実があります。
 今の政治、まちづくりに求められるものは難波さんの底抜けの純粋さと忖度なしに発言する率直さ、そして、ひとの話を何時間でも聞き、痛みをわかり、痛みに寄り添う過激なやさしさだと確信します。
 大好きな能勢、夢みる能勢の未来をゆたかにするための第一歩を今、難波さんは歩み始めたところです。
 応援してくださったすべてのひと、そして、難波希美子さんを選んでくださったすべてのひとに感謝します。
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2021.04.02 Fri 山桜の律義さを! 難波希美子と能勢ルネッサンス

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 例年より早い桜前線にさそわれて、能勢もすっかり春から初夏のにおいすら感じられるほどです。家々や田畑を囲む里山は新しい緑が吹き出て、ずいぶん前から発声練習していた鶯も春本番にふさわしい歌声を聞かせてくれるようになりました。
 能勢にも桜の名所がいくつかありますが、わたしが毎年感動するのが里山にぽつぽつりと咲く山桜です。長い間、都市部で暮らしてきたわたしは山桜もハイキングの途中に見かけるだけでしたが、里山に囲まれた能勢では薄曇りのピンクの羽衣のように咲きはじめます。
 ピンク色に恥じらうその姿は、あざやかな花びらを誇らしげに開くソメイヨシノとはおもむきがちがい、純情な色気を漂わせています。それは春の一瞬に一年分の恋文を届けるために降りてきた天女のようでもあります。
わたしは能勢に住んで10年になります。言葉でうまく言えませんが能勢はほんとうにいいところです。ただ、鉄道が山下駅、日生中央駅、それと豊能町を通って妙見口までで、能勢の山へはバスも少なく、車か徒歩でしか移動できません。
バスの窓から見える緑いっぱいの山や田畑を見ていると、子どものころに見なれていた風景と似ていて、とても懐かしく思います。あれから半世紀を生きてきて、なんのことはない、またもとの場所に帰って来たのかなと思います。
どこの地域でもそうでしょうが高齢化が進み、若い世代が流出し、人口が減る一方で、長い歴史をたどり、かけがえのない自然を守ってきた小規模農業も後継者不足で先行きが見えないこともまた事実です。
 けれども、能勢の地をいろいろ歩いてみるとほんとうに素晴らしい所がたくさんあり、これからの社会のありようから言っても、能勢と同じく全国にたくさんあるいろいろな村が長い間培ってきた暮らしや文化が少しずつ見直されてもいいのではないかと思います。
 そんなかけがえのない自然を次の世代に残す能勢の農林業の過去と今に学び、未来を耕す人々と手をつなぎながら、一方で誰も取り残されず、いろいろな人が助け合って生きる多文化共生の町づくりをめざして、難波希美子さんは今日もひた走り、立ち止まります。
今日からとうとう、路線バスの減便がはじまりました。

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2021.03.28 Sun 雨にも負けず風にも負けず 難波希美子さんと能勢・ルネッサンス

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 先日は朝の見守りをしている地域の小学校の終業式の日でした。
 わたしたちの見回りチームは総勢4人で、とてもチームとは言えない個人的な活動ですが、それでも時々、「見守り」が監視にならないよう注意しながらつづけています。
 ややもすると、偏見でいろいろなひとを受け入れない地域にすぐになってしまう危険があると思うのです。
 それはさておき、背に余る大きな荷物を背負ったり抱えたりして、急坂を駆け下りていく子どもたちのはるか前方には、高くはないけれど緑こぼれる里山と、地球のはる彼方からやってきた朝の空が広がっています。こうして何年も何十年も、子どもたちはこの坂を下り、どこにいってしまったのだろうと思います。
 その姿を見つめるわたしもまた、子どもたちの年齢から老年の今にいたるまで都会を徘徊し、人を傷つけてしまったこともありましたが、大切な人たちと出会い、助けてもらいながら生きてきました。
 子どもたちもまた、これからの長い未来、大切な人たちとで出会いそれぞれの人生を共に生きていく姿を想像すると、意味もなく涙があふれてくるのです。
 「さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう」といった詩人がいましたが、まさしく、「さよなら」と一方の手を振りながら、わくわくする未来の輝きにもう一方の手を振るわせながら、過酷とされる時代を潜り抜けて生きていってほしいと願うばかりです。

 「わたしは街の子巷の子 窓に灯がともる頃」と美空ひばりの歌が真空管ラジオから流れていた子ども時代、シングルマザーの母が兄と私を育てるために必死に働く姿をみて育ちました、そのころ、福祉という言葉は墜落しそうなグライダーさながらに曇り空を漂っていました。「誰も助けてくれないのだから」と弱い体と強い心を併せ持った母は、近所の工員さん相手に食堂を切り盛りしていました。それでもそんな母と私たち子どもにひそやかに手を差し伸べるひとたちがいました。年に二度の中元と歳暮だけで道路際の小さな土地をただで貸してくれたひと、裕福な家の同級生の服を分けてくれたひと、バラックの住居兼お店を安い費用で作ってくれた大工さん、そして、わたしをふくめて町の子どもたちに英語を教えてくれたひと…、わたしは彼女彼たちに助けてもらえる安心とうれしさに包まれていました。今振り返るとあの時代、日本全体が貧乏でしたが、「私は街の子巷の子」と美空ひばりが歌う時、わたしたち子どもはそれぞれの家族の中にいながら、「街の子」として、緩やかであっても助け合いのコミュニティに見守られていたのだと思います。
 それでもわたしはいつかその街を出たいと思いつづけていました。何もその町がきらいなわけではなかった、ただあたらしい町で別の人生を送って見たいと思っていました。私は高校を卒業するとともに、大阪市内のアパートに友達と3人で暮らし始めました。
 対人恐怖症のわたしにとって、数少ない友人と始めた人生はその後大阪府内を何度も引っ越しながらも子ども時代の故郷には帰れず、その町のごく近くの能勢の地に落ち着きました。能勢の地は私の子ども時代の風景が色濃く残っていて、わたしには故郷に帰ってきたような既視感があります。
 今の子どもたちもきっと能勢の町を出ていくことでしょう。それは何も、電車も通らず、頼みの綱の路線バスも減便、廃止が続き、バス停に行けない地域がほとんどで車の運転ができなければ通勤通学、買い物もおぼつかない過疎化の波と、長い間生業とされてきた農林業も高齢化と後継者不足に悩まされ、町内の雇用の場がほとんどないなど、能勢町が抱える問題だけが理由ではないと思います。かつての高度経済成長のもとでの人口の都市集中は終わりを告げつつあっても、若い人たちの都市へのあこがれがきえてしまったわけではなく、ちがった街でちがった自分を探し、新しく出会う友人たちと「青い時」を生きることになるのでしょう。
 それをわたしたちは止めることはできませんし、また止めてはならないと思います。
 しかしながら、子どもたちもまた大人になり、子ども時代に見慣れ、焼き付いた能勢の自然と大人たちの助け合いのネットワークが生きる支えになっていく、そんな能勢の町を残しておきたいと切実に思うのです。まちづくりは当然のことながら未来の方向へと夢を語ることになりますが、わたしは記憶もまた町の大切な財産だと思っています。
 
 今日はなんばきみこさんの事務所開きで、30人の人たちが駆けつけてくれました。難波さんと知り合って多くのことを学びましたが、何よりも彼女は能勢の町が大好きで、大好きだからこそ、能勢のかけがえのない自然を子どもたちに残したいと願う、そのまっすぐで率直で純粋な心に惹かれます。コロナ禍のさなかで自粛の波が押し寄せ、心まで硬く縮ませる日々が続き、その波は子どもたちの自死にまで及んでいます。この町の、この社会のすべてのことにアンテナを張り巡らし、宮沢賢治の詩のように「雨にも負けず風にも負けず」、能勢の町をときには自転車で、時には歩きながら、道ゆく人とも何時間も語り掛け、そのひとの悲しみや憤り、能勢の町への希望と絶望を聞き続けることのできる難波さんに、「ああ、このひとはこのように能勢の自然の声を聞き続けてきたのだ」とつくづく思います。自然のまったなしの悲痛な叫びを聞くことと、この町で暮らすひとびとの涙を受け止めることは、心の地平線でつながっているのでしょう…。
 そのことを痛いほどわかっているから、わたしたちは武器を持たない「たたかい」に臨みたいと思うのです。いつか子どもたちに「お帰りなさい」といえる能勢の町であるために…。

友部正人 MASATO TOMOBE - 愛について
壁に二つの影が映っている
子と母の二つの影が映っている
二人は自転車をこいで今 家へ帰るところ
子は母に話しながら 母は子にうなずきながら(友部正人「愛について」)

美空ひばり - 私は街の子 (1951)

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