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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2020.08.08 Sat ミレーの「落ち穂ひろい」のごとく、路上に置き捨てられた小さな手紙をひとつひとつ読むように 



わたしは街の子、巷の子
窓に明かりがともる頃
いつもの道を歩きます。
(美空ひばり「わたしは街の子」 1951年)

 「街」ということばをはじめて知ったのは、「平凡」、「明星」にのっていた美空ひばりの歌でした。「街」というにはほど遠かった「村」のあぜ道で、「帰ろ帰ろ」とかえるが歌うのです。そうして、夕暮れがわたしたちの後ろ姿におそいかかり、真っ黒な夜が家々の窓の明かりを四角に切り取るのでした。
 「街」は都会でも高速道路でもファミリーレストランやカフェでもありませんでした。ランニングシャツと半ズボンでそろばん熟に通うわたしのあこがれの「未来」だったのです。
 母と兄とわたしの三人は、雨露をしのぐだけのバラックで身を寄せて暮らしていました。わたしと兄を育てるために朝六時から深夜1時まで一膳飯屋を女ひとりで切り盛りし、必死に働いていた母のせつなさと反比例するように、わたしたちは圧倒的に貧乏でした。
 それでも中古ラジオから聞こえる美空ひばりの歌は、わたしに希望と夢を届けてくれました。それは学校の教科書で学んだ民主主義よりも強烈に、イワシを焼く七輪の煙が路地を埋め尽くすように暮らしの中ではぐくまれる「路地裏民主主義」への信頼であり、「福祉」もまた遠い空の飛行機雲ではなく、貧しいながらも、いや貧しいからこそ「助け合う」ことの大切さを教えてくれたのでした。
 
 1982年、わたしは思わぬきっかけで箕面の障害をもつ人たちと知り合いました。それまで障害者との出会いはありませんでしたが、わたしは彼女彼らと一緒に働いたり遊びに行ったりすることに夢中になりました。たとえれば、閉じ込められた部屋から突然朝日のあたる路上に飛び出したように心が解放されたというか、見るものすべてが今までとは違った新しいものに生まれ変わりました。実際、彼女彼らはひとりひとり少し際立った個性を持っていて、その個性をかくさず自己主張する中でぶつかることもいっぱいあるのですが、一方でとても他者への気配りに優れていて、助け合うことの楽しさを教えてくれるのでした。人生の匠というか、コミュニケーションの狩人とは、まさしく彼女彼らのことだと思いました。
 それまでも、そして今でもわたしは対人恐怖症で社会性がなく、小学校も一年の時はほとんど学校に行かなかった人間でしたが、彼女彼らは屈託なくわたしを受け入れてくれました。そして、わたしの第2の青春が箕面の街で始まりました。
 「国連障害者の10年」が始まった頃で、さすがに障害者市民の問題は障害者市民その人の問題ではなく、街の問題なのだと考える市民も少なからず現れ、わたしもまたその仲間に入れてもらうことができました。そして福祉もまた、そのあとを追うように少しずつ変わってきました。なによりも、障害者が地域で暮らしていくことが偏狭で過激と言われる運動に支えられていた時代から、街の中のさまざまな市民が共に暮らしていくために、当事者市民の思いを組みとりながら、当事者市民の当事者市民による当事者市民のための福祉サービスが市民権を獲得していきました。

 中西とも子さんの市会議員選挙に少しだけかかわり、議会報告と彼女の想いや理念を伝える機関紙・チラシを配りに箕面の街並みを歩くと時の流れをキャンバスにした絵画を見るようで、箕面市民だった21年を思い出し、なつかしさとせつなさに胸が熱くなる一方で、新しいお店やお家や道のせいだけでなく、暑い中でも時折涼しさを運んでくれる新しい街の風に勇気をもらったような気持ちになりました。
 街は時を渡り時を越え、住む人たちのそれぞれの小さな思い出や夢や希望を抱きとめ、その街の歴史を語り続けているのだと思います。そして、その歴史の中に、箕面市民だったわたしの願いや、たった13日間だけの箕面市民だったわたしの母の人生もあったことを隠し持ってくれていることも…。
 中西さんの不器用なぐらいの地道で誠実な議員活動はすでに16年の歴史を持つまでになりました。その活動は多岐にわたっていて、ほんとうに(からだが)エライひとやなと思います。たった一粒の涙からこの街の未来をデザインし、本当に困っているひとの想いに寄り添いながら、箕面の街をよりだれもが安全に、だれひとり傷つかず、助け合いながら共に暮らせる市民の街に変えていく、「たたかう議員」だと思います。
 人は想像する以上の未来を得ることができないからこそ、多様な問題を抱えながらつつましく生きる市民の声とともに、より激しくよりやさしくより想像力の翼を広げ、ぶれないしなやかさを持ち続けてほしいと願うばかりです。
 折しも、くたびれ始めた東京に対抗し、東京に寄り添う政治勢力が大阪を席巻し、とうとうわたしの住む大阪北端の孤島と言われる能勢町にも忍び寄ってきています。
 箕面市もまたその例外ではなく、世界ではすでに過去のものになろうとしている「成長神話」というカンフル注射を打ちつづけ、コロナショックでインバウンドも期待できなくなってもまだ、「大阪を元気にする」と叫んでいます。
 その声は箕面市民をはじめ多くの大阪の市民を虜にするかもしれませんが、その舞台になる万博会場やカジノの下は、2008年に幻に終わった大阪オリンピックの過去の負債が埋まっています。マイナスの上にマイナスを足してもマイナスでしかないように、そう遠くない将来、この場所が「兵どもの夢のあと」になってまたぞろぺんぺん草に覆われないか、とても心配です。
 だからこそこの特別の夏に、中西とも子さんには体調に気をつけていただき、ミレーの「落穂ひろい」のごとく、路上に置き捨てられたくしゃくしゃの手紙、大きな政治勢力があてにしない小さな手紙をひとつひとつ拾い上げてほしいと思うのです。

ファイト!闘う君の歌を 闘わない奴らが笑うだろう
ファイト!冷たい水の中をふるえながらのぼって行け ファイト!
(中島みゆき「ファイト!」 1983年)

中西とも子公式ホームページ
【号外】元気に!とも子議会ニュース(2020年7月発行)

美空ひばり - 私は街の子 (1951)

吉田拓郎「ファイト!」 


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2020.08.06 Thu 大阪都構想は成長神話というアベノミクスの負債を背負わされるだけの地獄への旅

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 8月2日、大阪都構想に反対する街頭行動に参加しました。大阪都構想は2015年の住民投票で否決されましたが、2019年4月の大阪府知事選で吉村弘文氏、大阪市長選で松井一郎氏が圧勝、統一地方選でも維新の会が躍進し、大阪府・大阪市特別区設置協議会(法定協)において審議が進み、11月1日にも2度目の住民投票が実施される見通しになっています。
 「二重行政をなくすことで無駄をなくし、大阪の成長をより進めるためにと維新の会が主張する都構想は、冷静に考えれば大阪市を4つの特別区に分割し、大阪府に権限を一本化するという話で、政令指定としての権限も税金も縮小され、大阪市民にとって行政サービスの低下の心配はあってもなんの得にもならない話です。
 ましてや今、コロナ禍のさ中、保健所や医療機関の縮小が事態を深刻にしてしまったことに学ぶならば、政令指定都市・大阪が国や府の及ばない医療体制の強化と町の経済を救う役割を果たさなければならない切羽詰まった状況なのではないでしょうか。
 しかしながら、「身を切る改革」として公務員や教職員の人数を減らすなど公的サービスをカットし、大阪市営交通の民営化など行政改革を進めてきたことを成果とする維新政治と、最近の吉村知事の異様な人気からでしょうか、大阪の成長を信じて東京中心の政治経済に対抗する都構想に賛成という声が大きいのも事実です。
 「身を切る改革」を維新の会の実績とするのは宣伝のたくみさで、大阪市の場合は2003年から2007年までの関淳一市長時代の改革を橋下氏及び維新の会が引き継いだという事情があります。2004年、大阪市の職員厚遇問題(カラ残業や、ヤミ年金・退職金の積み立て等、不正な金の流用)が発覚、関市長は上山信一氏ら外部有識者の助言を得て市政改革に取り組みました。橋下氏と維新の会の実績とするものの中味は、すでに関市長時代に実行されたり計画されていたものも数多く含まれています。しかしながら関市長時代は行政内部における抗争だったものを、橋下氏と維新の会は広く市民の支持を背負い、「既得権益を打ち破る正義の味方」とイメージづけることに成功したのでした。
 維新の会の政治理念は選挙と多数決の民主主義で、誰にも文句のつけようがないもののように思えます。しかしながら、それは時には他者への妬みすら道具とする「刹那的多数決民主主義」で、税金を納めている人々だけを構成員とする民主主義でもあります。
 公務員への「粛清」のあとは、生活が苦しくなる一方の市民の不満が生活保護をはじめとする福祉を必要とするひとや在日外国人へのヘイトにすり替えられる一方、自己責任を強いられ相互監視の中で心を縮ませて生きるこの社会では、大人だけでなく未来をたくす子どもたちですら、自殺に追い込まれてしまう悲惨な現実があります。
 「身を切る改革」と言い換えて小泉政権の聖域なき構造改革も自らの手柄にし、インバウンドに支えられた「成長」も自らの実績とする維新の会のたくみさには恐れ入ります。
 しかしながら、大阪維新の会もその支持者も都構想が実現し、2025年の万博とカジノで大阪の経済がもっと良くなると信じているとしたら、そのことの方が恐怖と言わざるをえません。コロナショックと消費税増税で安倍政権の成長戦略が破綻した今、維新の会がかかげる「大阪の成長」はアベノミクスの負債を背負うことにならないという保証はありません。
 コロナ恐慌の中で日本経済の一段の破綻が現実のものになる不安が渦巻く今、観光と浪費をあてこんだ万博イベントとカジノ・IR建設の地が、後の世にふたたびぺんぺん草に覆われた廃墟と荒野になってしまわないかとても心配です。
 コロナショックが教えてくれたことは、東京をはじめとする都市集中型のより早くより遠く、格差を広げるだけの無茶な成長戦略を捨て、さけることができない人口減少と経済停滞の社会になっても、助け合いと分かち合いによって「こんな暮らしもありか」と誰もが思える構造改革こそ今から準備しなければと思うのです
 むかしから大阪には東京にない「なにわ人情」があります。大阪は隣町の堺市をはじめ関西・近畿をゆるやかにつなぎ、政治的な制約を受けないで自由な文化を育てあってきた文化があります。維新の会は東京と張り合い、大阪を政治的な町にするため、関西の人権文化を切り捨ててきました。大阪都構想はそれに追い打ちをかけるように大阪のほんとうの元気の素を壊してしまうことになるとわたしは思います。
 その意味において、大阪都構想の是非を問う住民投票が再度あるとすれば、その選択は大阪市民だけにあるのではなく、わたしたちの心の中に巣くう「成長神話」を捨てられるかどうか、そして40代以下の若い世代による人口減少を当たり前とする新しくしなやかな日本経済、GDPで測れない豊かでやさしい経済に裏付けられた社会をデザインできるのかを試されるきわめて重要な選択になると思うのです。

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2020.07.31 Fri ひとつひとつのいおしいいのちたちに捧げるラブソング 小島良喜ピアノソロライブ

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 7月27日の夜、小島良喜のピアノソロライブに行きました。
 小島良喜もコロナウイルスの影響でコンサート、ライブの中止が相次ぎましたが、ようやくごく最近、感染予防対策を施したライブハウスなどで活動を再開したところです。
 久しぶりに大阪に来るということで、感染者数も増え始め、出歩いたら行けないといわれる高齢者で、しかもライブハウスに行くのですから、「自粛警察」に断罪されることを覚悟して参加することにしました。珍しく妻も行きたいとのことで、田舎の能勢に住んでいますのでライブハウスの上のビジネスホテルに泊まることにしました。

 小島良喜は自身のピアノはもちろん、アレンジにもプロデュースにも定評があり、また井上陽水のツアーなど、数々のライブシーンやスタジオセッションで活躍するピアニストです。わたしは1990年に豊能障害者労働センターが主催した、今は亡き桑名正博のチャリティコンサートの時にはじめて出会いました。その時はロックのピアニストだと思いこんでいたのですが、2002年に再会した時にはジャズ・ブルースのピアノを聴かせてくれて、音楽のことはさっぱりわからないわたしですが彼のピアノの虜になってしまったのでした。
 この日のお店はいつもとちがい3密をさけて予約した20人ぐらいのお客さんで、お店もミージシャンもお金にはならないけれど、少しでもライブを楽しんでもらおうという心意気だけで開かれたという感じでした。その代わり、聴く側のわたしたちにとってはめったにない特別に贅沢なライブになりました。

 いつも感じるのですが、小島良喜のピアノは海のようです。砂浜に置き忘れられたピアノを彼が弾き始めると、荒れた海に向かい沖へ沖へ、太平洋を渡りジャズ発祥の地・ニューオーリンズやブルース発祥の地と言われるミシシッピー州へと還っていくようです。
 最初に出会った1990年頃の小島良喜のピアノは、軽やかで明るくてきらきらしていました。夕暮れの浜辺、銀色の波と沈みゆく太陽が溶け合い、波に取り残された貝殻や小石や砂粒たちが思い思いの音楽を奏で、夜の訪れを待っている…、といった雰囲気でした。
 それからずっとのち、2002年にあった時にはかなりちがったピアノに感じました。アンドレ・ブルトンの著書「ナジャ」の中で、マルセイユの旧港の埠頭で日没のすこし前、ひとりの画家がカンヴァスにむかい、沈みゆく太陽と闘っている。彼が描くよりも早く太陽はより沈み、それを追いかけている間に日が暮れ、水面の光もなくなり、やがてキャンバスは真っ黒になって完成するというエピソードがあります。
 ブルトンはその絵をとても悲しく、美しいものに思ったと書いていますが、小島良喜のピアノからはわたしの人生を追いかけてくる、真っ黒なキャンバスに塗り込められた空と海と「もうひとつの永遠」と悲しみと叶わぬ夢と堕ちていく失楽の恋と裏切りの青春…、その無数のひとつひとつに閉じ込められた音楽が黒い媚薬となってあふれ出て、わたしは落ち着いて聴くことができなくなるのでした。
 小島良喜のピアノに乗って海を渡り、ニューオーリンズから戻ってきた黒い音楽は、遠く長いアドリブを経て少し危ないにおいを漂わせながら今、バーボンに溶けていきます。わたしは世界中の海の中で涙の次に2番目に小さなその海をゆっくり飲み干します。
せきたてるように小島良喜が一段と厳しくそして柔らかく楽曲のテーマを弾きながら、昔と変わらずピアノに笑いかけるように何やら呻きながら語りつづけます。
 その時ふと気づくとここはもう海ではなく、わたしたちはいつのまにかどこかの教会の中にいるのでした。
この半年の間に世界中の墓場という墓場に向かって70万人の死者のたましいが走り抜け、しかもその数は日を追って増え続けることでしょう。この非情な世界がいつ静かな朝を迎えるのか見当もつきません。
 ほんとうに久しぶりに聴いた小島良喜のピアノはゴスペルソングのようで、奪われたいのちと引き裂かれたいのち、去り行くいのちと残されたいのち、それらのひとつひとつのいおしいいのちたちに捧げるラブソングのようでした。
 そして、世界中のピアニストが世界中のピアノの前で、無数のさまようたましいたちの止まることのない涙とあふれつづける音粒たちを拾い上げるように鍵盤をたたいていることでしょう。小島良喜もその中のひとりなのだと思いました。

 それにしても、これも何度も思い何度も書いてきましたが、ピアノはとてもエロチックなものだとあらためて思います。子どもの頃に同級生の女の子の家にあったきらきら輝く黒い肌のピアノを、見てはいけないものを見てしまった初めての性的な体験としてずっと心に残っていました。
 大人になって小島良喜のピアノに始まり、ジャズやクラシックの何人かのピアニストの演奏を聴くたびに、なまめかしい88の鍵盤がピアニストのしなやかな指と交わり、からみつき、重なり、ひとつにつながっていく快楽の場に立ち会っている錯覚に陥ります。
 普通は身体ひとつで全国を飛び回るピアニストと、全国いたるところ、たとえそこが裏町酒場の片隅でほこりをかぶったままのピアノであっても、恋人たちの一夜の逢瀬と刹那の恋にふるえるラストソングが聴こえてくるのでした。

少女の母親が死んだ日もあの曲がきこえました
少女の父親が死んだ日もあの曲がきこえました
少女が学校で叱られた日もあの曲がきこえました
少女が少年に心をうちあけて わらわれた日もあの曲がきこえました
少女はピアニストを撃てとつぶやいて
じぶんの耳にピストルをあてました
                       「ピアニストを撃て」 寺山修司

小島良喜&小林エミ kojima solo〜"A" Cat called "C"

コジカナヤマ(島英夫). Truth In Your Eyes .Live at ミスターケリーズ 2014.1/28

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2020.07.26 Sun 「子どもたちが肩身の狭い思いをしないですむように、福祉の世話にだけはなりたくない」と頑張った母 田村智子さんのお話で感じたこと。

723講演会

 1997年7月13日の早朝、市民病院の母の病室から見える箕面の町は山の緑がきらきらかがやいていました。母は一瞬わたしの顔を見つめ、何か言いたそうな表情をしたと思うと、スーッと生きる気配を消しました。そして生きていた間の苦悩に満ちた年老いた表情が一瞬の歌に消え、澱んだ瞳は碧く透き通りました。
 福祉サービスを利用してもらうことを躊躇する兄の家から箕面に来てもらい、老人保健センターのデイケアサービスと訪問介護を利用しながらのたった13日間の箕面市民だった母を抱きしめ、ありがとうとごめんなさいをかわるがわるにつぶやきながら泣きました。
 シングルマザーとしてわたしと兄を育てるためだけに生きてきたといえる30代から86歳までの彼女の人生は、私の想像もできない人生だったことでしょう。
 母に言い寄る男も、また好きだった男もいたかも知れません。そういえばタンスの奥に一冊のポルノ雑誌を発見した時、子ども心にわたしのおよばない女性としての一面を垣間見たこともありました。
 「子どもたちに肩身の狭い思いをさせたくないから、福祉の世話だけにはならない」と、たった一人で朝早くから深夜まで大衆食堂を切り盛りしていた母は、片手に山ができるぐらいの薬を飲みながら、兄とわたしを高校に行かせてくれました。
 そんな母が、わたしと兄を育てるためだけに生きぬいたことに、どれほど感謝しても感謝しきれない母の愛を感じ、涙がこぼれます。しかしながらそれと同じ重さで、彼女の人生はほんとうにそれでよかったのかと考えてしまうのです。わたしは不憫な子でも、母が極貧の中で苦労して育ててよかった思える親孝行の息子でもありませんでした。
 黒い土と牛フンと鉄条網と280円のラジオと添加物いっぱいのみかん水。進駐軍のジープとアメリカ兵とキャデラックとドッジボールとキャッチボールとチューインガムと…。
 わたしが物心ついたころは貧乏ながらも明日へのおぼろげな希望と夢をふりかけた戦後民主主義の幻想と、まだ戦争の傷跡が残る風景とが入り混じっていました。そして、「福祉」はぼんやりとした空を不安定に飛ぶグライダーのようにくるくる旋回していましたが、わたしたち親子の元にはおりてきませんでした。
 先日の共産党の演説会で田村智子さんが語ってくれた生活保護の話を聞きながら、わたしは子どもの頃の遠い思い出をなぞっていました。「福祉の世話にだけはなりたくない」という必死に働き必死に生き、薬漬けになってしまった母への感謝は忘れるものではありませんが、あの時代、困っているひとに「福祉の世話にだけはなりたくない」と言わせてしまう、そんな「福祉」しかなかったのだと思います。
 たしかに時代は変わり、今はあのころとは比べ物にならない「福祉制度」をこの国はつくってきたのかもしれません。しかしながら、数えきれないカタカナ言葉でメニューはいっぱいでも、生活保護をめぐる田村智子さんの国会での質問や先日のお話を聞けば、福祉が進むとか遅れているということではなく、もっとも大切なことであるはずの当事者へのまなざしと、福祉が特別な人のためのものというところは何ひとつ変わっていないと言っても過言ではありません。
 田村智子さんは国会質問でも先日の演説会でも長野県のパンフレットを紹介し、「生活保護は国民の権利を保障するすべての方の制度」と読み上げ、特に「すべての方の」ということが重要であると指摘されました。わたしたちもまた箕面市行政に、福祉はそれを利用する人のための特別なものではなく、すべてのひとのためのもので、福祉を必要とする当事者が未来の福祉制度をつくり、担うのだと主張してきました。
 2012年、芸人の母親が生活保護を不正に受給したのではないかとマスコミが取り上げ、それを受けて自民党の議員が国会で追及し、芸人が記者会見で謝罪し一部を返還するも、最終的に母親が受給申請を取り下げるということがありました。
 この騒動は、母親への生活保護の受給は違法ではなかったのですが社会的制裁を受ける結果になってしまいました。わたしはそもそもこの国では公的にも私的にも家族単位を基本にしていて、家族の絆を過度に美談としたり家族への社会的責任を要求する風潮のもとでDVや家庭内暴力でつらい思いをしたりと、深刻な問題が起こっています。
 生活保護の制度も少しずつ改善されてきましたが、親族の扶養のしくみは廃止されていません。わたしは親と子は別人格で、あくまでも本人の現実から出発するべきで、ましてや窓口でできるだけ申請をさせないようなことはあってはならないと思います。
 一部の政治家やマスコミが「生活保護は不正だらけ」と、生活保護受給者への偏見と差別を煽り、問題にされた芸人は一時仕事がまったくなくなり、今でも深夜のバラエティー番組ぐらいしか出演しなくなりました。最近、芸能人の不倫が異様にバッシングの対象になっていますが、その芸人の場合は本来なら賠償請求を自民党の議員とマスコミにしてもいいのに、一方的に彼の問題とされてしまっています。
 2012年という年は2008年のリーマンショックからようやく抜け出したものの、非正規雇用が4割近くと経済格差が広がり、所得の低い生活困窮者から、生活保護などの福祉助成を受けている人に対するねたみのような感情がくすぶり始めていました。この年の12月に自民党が総選挙で圧勝し、第二次安倍政権が発足、アベノミクスによる経済復興を掲げましたが、結局は格差が広がるばかりで、現在でもなんとか今の生活を維持するのが精いっぱいというひとたちにとって、その感情はより高まっているように思います。
 2012年5月の事件はちょうど民主党政権末期でもあり、自民党の議員にとっては一生懸命働いても報われず、その仕事にしがみついていなければ自分の生活も家族の生活も成り立たないと身をかがめて暮らすひとたちの鬱屈した不満のはけ口としては絶好の事件だったのでしょう。2015年には維新の会が発足しますが、この事件で噴出した「ねたみ」を利用した政治は「身を切る改革」と称して公務員を切り捨ててきた維新の政治手法と重なって見えます。結局のところ、役所の窓口も委縮し申請許可を減らし、今日明日の生活のめどが立たない生活困窮者には生活保護の敷居が高くなり、あいつぎ自殺に追い込まれたひとも少なからずいたはずです。
 田村智子さんの「生活保護は国民みんなの権利で、躊躇せず権利をかちとろう」という主張を、ずいぶん前から実行してきた人たちがいます。1970年代から活動してきた障害者運動の先達です。彼女彼らは、もし働く者食うべからずというなら、社会が自分たちに働く権利を用意できないのだから、自立生活をするために生活保護をとるのは当然の権利だといい、ある人は「今日から区役所に住む」と区役所のロビーに布団と七輪を持ち込み、魚を焼いて役所を煙だらけにしたそうです。
 彼女彼らにとって、母の言葉ではないですが、「福祉の世話にはなりたくない」と躊躇する必要も余裕もなかったのでした。かつてイギリスの一人の女性が女性の参政権を求めてダービーの競技場に飛び込み抗議の自殺をしたと聞きますが、その過激な行動が何十年もたって参政権を実現させたように、彼女彼らの過激と言われた行動が今、障害者に限らず一般の生活保護を申請しようとする人々の生きる勇気を耕したのだと私は思うのです。
 あとひとつ、田村智子さんは2013年と2019年に国立感染研究所の職員と予算を削減してきていることに、国境を越えた人と物の移動はますます拡大し、新たな感染症が発生するリスクが高まっていて、感染症対策は国の安全保障政策そのものではないのかと、国会質問をされていて、今年のコロナショックで予言が的中したと海外のマスコミでも話題になっています。
 この問題も彼女は国立感染研究所だけではなく、新自由主義のもとで公務員をどんどん削減してきていることに警鐘をならしていると話されていました。
 保健所の数も職員も減らし、病院にも独立採算を求め医療体制の削減の結果、コロナショックにおける無数の死者と失業者を生み出した世界のグローバリズムと新自由主義は、この災害が人災であることを教えてくれています。
 わたしたちは今こそ路石の下の大地の声に耳を傾け、里山のみどり豊かな香りにいざなわれ、誰ひとり置き去りにしない優しい町箕面をつくりだそう。明日に希望をもてる政治を箕面の町から広げていこうと、田村智子さんの力強いメッセージがグリーンホールにいつまでも響いていました。
 わたしはこの演説会に参加してみて、「いのちとくらしを守り、子どもたちの冒険を応援し、保健医療を立て直す安心安全の町づくり」が国の未来を耕すことを学びました。
 そして、夢見る共産党が好きになりました。
 誰の身を切る改革なのかよくわからず、実は20世紀型の成長神話をふりまく維新の会が能勢の町にもひたひたと迫ってきている今、箕面の市長選がとても心配です。
 ますだ京子さん、中西とも子さんとともに、共産党の奮起に期待して、できることはほとんどないけれど、応援したいと思います。

生活保護は国民の権利 2020年6月15日参議院決算委員会 田村智子(日本共産党)

国立感染研の質問をした理由 田村智子(日本共産党)
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2020.07.25 Sat 五年前まで絶対に考えられないことでしたが、共産党の演説会に行きました。

723講演会

田村智子議員
健康で文化的な生活…、食事ができてお風呂にも入れて、清潔に暮らせる、そういう当たり前の生活がたちゆかない時には、生活保護はあなたの権利です、誰にでも認められているあなたの権利です。ためらわずに相談し、申請してほしい。わたしはこういう広報を政府がコマーシャルもやって、呼びかけるべきだと思うのですが、いかがでしょうか総理。
安倍内閣総理大臣
当然これは田村議員がおっしゃるように、文化的な生活を送る権利があるわけですから、ぜひためらわずに申請していただきたいと思いますし、われわれもさまざな手段を活用してですね、国民のみなさんに働きかけをおこなっていきたい。
田村智子議員
住まいを失ったり所持金がゼロになる前に相談してもらえたら、生活の立ち直りができるという声がいっぱ出てきてるんですよ。これまでの福祉行政をこのコロナの対応で大きく変える必要がある、このことを求めまして質問を終わります。
(6月15日 参議院決算委員会)
 7月23日、箕面市民会館(グリーンホール)で日本共産党演説会が開かれ、参加しました。ますだ京子さん、中西とも子さんの2人の市民派議員をゲストに、共産党の神田たかおさん、名手ひろきさん、村川まみさん、市長候補の住谷のぼるさん、そして応援に駆け付けた共産党副委員長・参議院議員の田村智子さんのお話を聞くことができました。
 箕面の友人と待ち合わせをしていて、入場するには検温と消毒、そしてマスク着用、ホール内は人座席ずつ開け、コロナ感染防止が徹底されていました。
 時間になり、最初に登場されたのは保育士の男性で、熱中症対策として屋外温度が28度になると部活動も含めて禁止という「暑さ指数28度」が、子どもたちの運動不足とゲーム漬けの一つの遠因になっている、特にプールに入れるのは肌寒い日だけとなっていると話され、そんなことになっているのかと驚きました。
 共産党の演説会に参加することがあるなんて、数年前までは思いもしませんでした。中央集権的で上位下達な組織形態に思えたり、障害児教育の在り方で共に学ぶ教育を求めるわたしたちと、養護学校での別学教育を求める共産党の組織とは相いれない時代が続きました。しかしながら、少し前になりますが沢口靖子が主演した映画「東風の風に吹かれて」では、地域の学校で子どもたちが共に学ぶすばらしさが描かれていて、時代は変わったと思いました。また、1995年の阪神淡路大震災をきっかけに、誰一人取り残されることのないように共に救援活動をすることも多くなったことも、かつてのような机上の空論に過ぎない論争をしてる場合じゃないと思うようになりました。
 ここ最近、全国各地の現場では早くから共に活動をしていこうとする動きも定着してきた中で、わたしは共産党が党利党略ではなく野党共闘に真摯に取り組んできたのだと思います。その動きを後押ししているのが地域の担い手たちで、箕面では神田さん、名手さん、村川さんの絶妙なチームワークで、地域での理不尽な出来事に立ち向かいながら、共にたたかう市民派議員とも連携し、市民ひとりひとりと心を開くところから人権、平和、福祉のまちづくりを進めるようになってきたのでしょう。
 それらのひとつひとつが住谷のぼるさんを市長に押し上げる力になっていくのだと思いました。ひとりひとりの力も声も小さいけれど、そのひとつひとつが精いっぱい手をのばして、箕面の空を希望と安心に満ちあふれることを願っています。
 そして、最後に田村智子さんが登場し、テレビの国会中継で見た通りというか、生のお話はよりソフトなんだけど聞く者を勇気づける素晴らしいお話でした。こんな風に話されたら、安倍首相も勇気づけられ、「生活保護は国民すべての権利」と思わず言ってしまったのかも知れません。
田村智子さんのお話については次の記事にさせていただきます。
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