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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2021.04.02 Fri 山桜の律義さを! 難波希美子と能勢ルネッサンス

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 例年より早い桜前線にさそわれて、能勢もすっかり春から初夏のにおいすら感じられるほどです。家々や田畑を囲む里山は新しい緑が吹き出て、ずいぶん前から発声練習していた鶯も春本番にふさわしい歌声を聞かせてくれるようになりました。
 能勢にも桜の名所がいくつかありますが、わたしが毎年感動するのが里山にぽつぽつりと咲く山桜です。長い間、都市部で暮らしてきたわたしは山桜もハイキングの途中に見かけるだけでしたが、里山に囲まれた能勢では薄曇りのピンクの羽衣のように咲きはじめます。
 ピンク色に恥じらうその姿は、あざやかな花びらを誇らしげに開くソメイヨシノとはおもむきがちがい、純情な色気を漂わせています。それは春の一瞬に一年分の恋文を届けるために降りてきた天女のようでもあります。
わたしは能勢に住んで10年になります。言葉でうまく言えませんが能勢はほんとうにいいところです。ただ、鉄道が山下駅、日生中央駅、それと豊能町を通って妙見口までで、能勢の山へはバスも少なく、車か徒歩でしか移動できません。
バスの窓から見える緑いっぱいの山や田畑を見ていると、子どものころに見なれていた風景と似ていて、とても懐かしく思います。あれから半世紀を生きてきて、なんのことはない、またもとの場所に帰って来たのかなと思います。
どこの地域でもそうでしょうが高齢化が進み、若い世代が流出し、人口が減る一方で、長い歴史をたどり、かけがえのない自然を守ってきた小規模農業も後継者不足で先行きが見えないこともまた事実です。
 けれども、能勢の地をいろいろ歩いてみるとほんとうに素晴らしい所がたくさんあり、これからの社会のありようから言っても、能勢と同じく全国にたくさんあるいろいろな村が長い間培ってきた暮らしや文化が少しずつ見直されてもいいのではないかと思います。
 そんなかけがえのない自然を次の世代に残す能勢の農林業の過去と今に学び、未来を耕す人々と手をつなぎながら、一方で誰も取り残されず、いろいろな人が助け合って生きる多文化共生の町づくりをめざして、難波希美子さんは今日もひた走り、立ち止まります。
今日からとうとう、路線バスの減便がはじまりました。

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2021.03.28 Sun 雨にも負けず風にも負けず 難波希美子さんと能勢・ルネッサンス

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 先日は朝の見守りをしている地域の小学校の終業式の日でした。
 わたしたちの見回りチームは総勢4人で、とてもチームとは言えない個人的な活動ですが、それでも時々、「見守り」が監視にならないよう注意しながらつづけています。
 ややもすると、偏見でいろいろなひとを受け入れない地域にすぐになってしまう危険があると思うのです。
 それはさておき、背に余る大きな荷物を背負ったり抱えたりして、急坂を駆け下りていく子どもたちのはるか前方には、高くはないけれど緑こぼれる里山と、地球のはる彼方からやってきた朝の空が広がっています。こうして何年も何十年も、子どもたちはこの坂を下り、どこにいってしまったのだろうと思います。
 その姿を見つめるわたしもまた、子どもたちの年齢から老年の今にいたるまで都会を徘徊し、人を傷つけてしまったこともありましたが、大切な人たちと出会い、助けてもらいながら生きてきました。
 子どもたちもまた、これからの長い未来、大切な人たちとで出会いそれぞれの人生を共に生きていく姿を想像すると、意味もなく涙があふれてくるのです。
 「さよならだけが人生ならば、また来る春は何だろう」といった詩人がいましたが、まさしく、「さよなら」と一方の手を振りながら、わくわくする未来の輝きにもう一方の手を振るわせながら、過酷とされる時代を潜り抜けて生きていってほしいと願うばかりです。

 「わたしは街の子巷の子 窓に灯がともる頃」と美空ひばりの歌が真空管ラジオから流れていた子ども時代、シングルマザーの母が兄と私を育てるために必死に働く姿をみて育ちました、そのころ、福祉という言葉は墜落しそうなグライダーさながらに曇り空を漂っていました。「誰も助けてくれないのだから」と弱い体と強い心を併せ持った母は、近所の工員さん相手に食堂を切り盛りしていました。それでもそんな母と私たち子どもにひそやかに手を差し伸べるひとたちがいました。年に二度の中元と歳暮だけで道路際の小さな土地をただで貸してくれたひと、裕福な家の同級生の服を分けてくれたひと、バラックの住居兼お店を安い費用で作ってくれた大工さん、そして、わたしをふくめて町の子どもたちに英語を教えてくれたひと…、わたしは彼女彼たちに助けてもらえる安心とうれしさに包まれていました。今振り返るとあの時代、日本全体が貧乏でしたが、「私は街の子巷の子」と美空ひばりが歌う時、わたしたち子どもはそれぞれの家族の中にいながら、「街の子」として、緩やかであっても助け合いのコミュニティに見守られていたのだと思います。
 それでもわたしはいつかその街を出たいと思いつづけていました。何もその町がきらいなわけではなかった、ただあたらしい町で別の人生を送って見たいと思っていました。私は高校を卒業するとともに、大阪市内のアパートに友達と3人で暮らし始めました。
 対人恐怖症のわたしにとって、数少ない友人と始めた人生はその後大阪府内を何度も引っ越しながらも子ども時代の故郷には帰れず、その町のごく近くの能勢の地に落ち着きました。能勢の地は私の子ども時代の風景が色濃く残っていて、わたしには故郷に帰ってきたような既視感があります。
 今の子どもたちもきっと能勢の町を出ていくことでしょう。それは何も、電車も通らず、頼みの綱の路線バスも減便、廃止が続き、バス停に行けない地域がほとんどで車の運転ができなければ通勤通学、買い物もおぼつかない過疎化の波と、長い間生業とされてきた農林業も高齢化と後継者不足に悩まされ、町内の雇用の場がほとんどないなど、能勢町が抱える問題だけが理由ではないと思います。かつての高度経済成長のもとでの人口の都市集中は終わりを告げつつあっても、若い人たちの都市へのあこがれがきえてしまったわけではなく、ちがった街でちがった自分を探し、新しく出会う友人たちと「青い時」を生きることになるのでしょう。
 それをわたしたちは止めることはできませんし、また止めてはならないと思います。
 しかしながら、子どもたちもまた大人になり、子ども時代に見慣れ、焼き付いた能勢の自然と大人たちの助け合いのネットワークが生きる支えになっていく、そんな能勢の町を残しておきたいと切実に思うのです。まちづくりは当然のことながら未来の方向へと夢を語ることになりますが、わたしは記憶もまた町の大切な財産だと思っています。
 
 今日はなんばきみこさんの事務所開きで、30人の人たちが駆けつけてくれました。難波さんと知り合って多くのことを学びましたが、何よりも彼女は能勢の町が大好きで、大好きだからこそ、能勢のかけがえのない自然を子どもたちに残したいと願う、そのまっすぐで率直で純粋な心に惹かれます。コロナ禍のさなかで自粛の波が押し寄せ、心まで硬く縮ませる日々が続き、その波は子どもたちの自死にまで及んでいます。この町の、この社会のすべてのことにアンテナを張り巡らし、宮沢賢治の詩のように「雨にも負けず風にも負けず」、能勢の町をときには自転車で、時には歩きながら、道ゆく人とも何時間も語り掛け、そのひとの悲しみや憤り、能勢の町への希望と絶望を聞き続けることのできる難波さんに、「ああ、このひとはこのように能勢の自然の声を聞き続けてきたのだ」とつくづく思います。自然のまったなしの悲痛な叫びを聞くことと、この町で暮らすひとびとの涙を受け止めることは、心の地平線でつながっているのでしょう…。
 そのことを痛いほどわかっているから、わたしたちは武器を持たない「たたかい」に臨みたいと思うのです。いつか子どもたちに「お帰りなさい」といえる能勢の町であるために…。

友部正人 MASATO TOMOBE - 愛について
壁に二つの影が映っている
子と母の二つの影が映っている
二人は自転車をこいで今 家へ帰るところ
子は母に話しながら 母は子にうなずきながら(友部正人「愛について」)

美空ひばり - 私は街の子 (1951)

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2021.03.12 Fri 脱炭素社会は原子力パラダイスではない。東日本大震災10年。

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 東日本大震災から10年の月日が流れました。
 戦後最大の自然災害で19744人、行方不明の2256人…、犠牲になった方々に哀悼の意を表します。
 テレビや新聞では、大地の底からひっくり返されたように壊された町、困難を極めた避難所、仮説住宅、復興住宅、時と体と心を移しながら、ひとくくりにはできない復興と再生の10年、その膨大な記録と記憶を早送りする報道があふれています。
あらためて津波が押し寄せる光景を目の当たりにした途方もない恐怖と悲しみがよみがえります。まして、その当事者であった被災者の方々の胸中は他人が言葉にできるものではないでしょう。
 大災害の後の町の復興と再建はいつも困難を伴いながらも前向きに生きようとする心に寄り添い、時として被災地の担い手の方々の困難な道のりを経た再建・復興・再生のサクセスストーリーが求められます。たしかに町の復興と社会の再生への困難な道を振り返り、これからの夢をともに作り出すための希望の光として報道されることはとても意義のあることと思います。
 しかしながら、10年という時で復興に一区切りをつけたようなアナウンスは恣意的で、いまだに42000人の方々の避難者がおられること、その人々に国と行政が一区切りをつけたとして支援の打ち切りを後押しするような空気に憤りを感じます。
それどころか、福島原発事故による被災者は行政発表では36000人ですが、実際はその倍近くの避難者が全国に散在しているといわれています。生まれ育った故郷に帰る決意で生きてきた10年がそれを許さず、避難先を転々として戻れないことをかみしめてきたひとたちがひとり、またひとりと人知れず夢半ばで亡くなられたこともまた、今回の報道で知りました。
 わたしは当時、被災障害者救援活動団体「ゆめ風基金」のアルバイトスタッフとしてしかかかわっていませんので、被災地の支援活動をしたとはいえませんが、当時のメール連絡が1000件に達することもあり、各地で広がる被災状況が刻一刻と変わっていくのに対処することで精いっぱいでした。
 それでも一度だけ、仙台の障害者団体とゆめ風基金が仮説住宅の広場で開いた、永六輔さんと小室等さんのイベントのスタッフとして参加した時のことを鮮明に覚えています。
 1995年に立ちあがった時からゆめ風基金の活動をささえてこられたお二人でしたが、永六輔さんはこの時すでにパーキンソン病で歩くのも話すのもかつての立て板の水といった語り口ではありませんでした。しかしながら自分の障害が進んでいく姿をかくさずにできうる限りラジオの仕事をされていて、その姿勢に長年の永さんのファンは一段とシンパシーを感じ、このイベントの時も雨模様の中、仮設住宅の人々を中心に広場がいっぱいになりました。
 仮設住宅に入られている方々はそれぞれ、だれにも言えない背丈を越える悲しみを抱え、まだ涙を流すほどの心の落ち着きもない心境だったと思います。こんな時は笑いを自粛せよという空気に猛反撃し、「こんな時だから笑いが必要なんです」と語る永さんの話に笑い転げながら、途中から降り始めた雨にせかされるように思わず涙が溶けていく様子でした。
 後ろで立ってご覧になっている方を座席にご案内しようとすると、「あと少しで行かないといけないので。でも永さんのラジオは何十年も聞いていて、さっき握手してくださって感激です」と言われた後、津波が来た時、後ろから津波が追いかけてきて、もう一分遅かったら命がなかったこと、友達が10人もなくなったことを話してくださいました。

 1995年の阪神淡路大震災とオウム真理教の事件によって、わたしたちは戦後日本社会の安全神話が壊れ、国家による監視とわたしたち自身の相互監視が強められる結果になりました。しかしながら一方でわたしたちは多様なひとびとが共に助け合うことの大切さ、ありがたさも発見しました。
 そして2011年の東日本大震災によって、戦後日本の経済成長神話と原発の安全神話は壊れました。チェルノブイリで世界が学んだ経験を無視し、世界で最も安全な原発と豪語してきたおごりは未曽有の自然災害によって打ち砕かれたばかりか、安全対策を怠ったつけをも大災害のせいにしました。
 わたしの友人が働いているドイツの会社は東京の会社を引き上げて大阪に仮移転し、会社が費用を負担し家族も全員避難した他、ドイツの正社員に帰国を命じました。
 ドイツに限らず、東日本大震災を機に「フクシマ」に学ぼうと欧米諸国は原発を減らし、なくしていく政策に大きく変更しました。日本は、自分の地域で起きたこの大事故の教訓さえ受け止めず学ばず、いまもまだ原発マネーが経済を暴力的に支配し、翻弄しつづけています。
 わたしは東日本大震災によって長い間世界を席巻していた新自由主義の勢いが止まり、日本においても「経済成長」によってしか社会も個人も豊かになれないと信じてきたわたしたちのマインドコントロールが破れるのではないかと期待していました。
 しかしながら、それはとても甘い希望だと思い知りました。
 反対に、日本の支配層はそれを機に一段とギアを上げ、一部のグループに属するひとたちへの利益確保のために政治も経済も支配し、それからはずれているたくさんの人々には「幸せも豊かさも自己責任」を押し付けてきたように思うのです。
 その表れのひとつが福島原発の被災者への支援の打ち切りや、残る人、避難したままの人、帰ってきた人との取り返しのつかない分断を放置し、それを利用して原発の再稼働どころか、新規建設をすすめようとしています。菅政権の2050年脱炭素宣言は、再生エネルギーと省エネルギーだけではなく、原発促進によって実現するとしています。
 東京オリンピックを復興の象徴とし、さらにコロナに打ち勝った人類の勝利として東京オリンピックの開催を強行しようとしているのも、また大阪に目を移せばインバウンドに期待した万博やIRに焦点を据えた大規模開発のために大阪市の財源まで大阪府が取り上げるという、こんな理不尽なことをすすめようとしているのも、どれだけ何度も人々の意志が明らかになっても、当初の予算を大幅に逸脱してもなお辺野古の建設をつづけるのも、わたしたちの社会が根底から分断され、すでに修復不可能なところに追い込まれてしまった表れなのだと思うのです。
 さらに進化し、世界でもっとも安全な原子力と胸を張るひとたちにとって、この国に住むたくさんのひとびとは「棄民」でしかないのでしょうか。
 今回の一連の報道番組の中で、NHKが連日放送したドキュメンタリーのひとつ、NHKスペシャル「私と故郷と原発事故」で、浪江町から避難した当時小学生だった女性の言葉が突き刺ささります。
浪江町から車で1時間ほど離れた町の仮設住宅で暮らし、通った小学校で「放射線がうつる、汚い」、「あいつと目を合わすと腐るぞ」と、いじめと差別が日に日にエスカレートしました。「つらかったけれど、この経験を前向きにとらえて生きていこうと思います」と彼女はいいました。
 原発事故の避難者に浴びせられた差別と偏見は今でも全国各地に蔓延していますが、彼女彼たちがこの10年で受けた傷は計り知れず、もしかすると一生消えることはないのかもしれません。
 いま、新型コロナ感染症が暴き出した「自粛警察」などヘイトスピーチが暗躍するわたしたちの社会は、彼女たちの証言を受け止めることも、謝罪することも反省することも学ぶこともないまま、どこまで、いつまで漂流しつづけるのでしょう。

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2021.03.07 Sun 立ち止まる時間と勇気と助け合う豊かさ 「能勢ルネッサンス」・難波希美子さんとともに

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 新型コロナ感染症はあまりにも大きすぎる代償とひきかえに、今を生きるぼくたちに立ち止まる時間と勇気とかけがえのないひとたちと生きる大切さを教えてくれたのかもしれない。
 時代が経済が政治がスピードを求めれば求めるほど、時には激しい叫びとして、時には切ない歌として、時にはゆるやかな風として、時には立ち止まる夢として、だれかに手を差し伸べたり、だれかの力を借りたりできることこそ豊かなことなのだと、ぼくたちは気づきはじめている。
 たとえば「ホップ・ステップ・のせ」の100円フリーマーケットは品物を提供してくれるひとの気持ちとぼくたちの気持ちと、品物を買ってくれるひとの気持ちがつながることで成り立っている。
 その小さな市場(いちば)を行きかう100円たちは、グローバルな市場から迷い込んだとたん、「にんげん」の顔を持ったお金として、助け合いワンダーランドの幾多のエピソードを語る詩人となり、ひとびとの願いや希望の歌になっていくのだと思う。
なんばさんとぼくたちが政治に求めるものは、どんなに現実離れした理想と思われようと、「自然を守ることが次の時代の農業を守り、子どもたちの暮らしを守り、そだてること」と信じる純粋な夢に一歩一歩近づくことなのだと思う。
なんばきみこ事務所兼100円フリーマーケット「ホップ・ステップ・のせ」は毎週月・火曜日と土曜日、10時から4時まで開いています。
掘り出し物もいっぱいありますが、買い物されなくてもバスの時間待ちや銀行のお帰りに、お気軽にお立ち寄りください。お待ちしています。

同じ丘に立って 長野たかし・あやこ

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2021.03.05 Fri みんなちきゅうのこどもたち 「能勢ルネッサンス」・難波希美子さんとともに 

ハガキ1

春は散り舞う桜の大地 夏はきらめく光の海
秋は色づく実りの広野 冬は透きとおる星屑の谷
途方もない時をこえて いのちたちもまたつぎのいのちたちに
時がくれたおくりものを手わたしてきたのでした
この星にだかれて平和な時を助け合って生きる
あなたもわたしも
みんなちきゅうのこどもたち
先日、以前制作したTシャツ「みんな地球のこどもたち」を、難波さんの事務所兼なんでも100円フリマショップ「ホップ・ステップ・のせ」に拠出しました。発売当時は2000円で販売していたもので、生地は1年間洗濯してもほとんど伸びない良質のものでした。
デザインは大阪市淡路の障害者団体の障害者約20人のイラストをぎゅっーと丸くレイアウトしたもので、久しぶりに在庫から取り出し、とてもなつかしく思いました。
わたしもあなたも、そしてずっと以前の先人たちも、おんなもおとこもそうでないひともおとなもこどもも、がいこくのひともしょうがいをもつひとも
みんなちきゅうのこどもたち。
能勢の今に叱られ、能勢の未来にはげまされて
難波さんは能勢の田畑のあぜ道を走ります。
自然を守り、次世代に里山を残すために
だれひとり取り残されない能勢をつくるために
わたしもあなたも、そしてまた行政さえも
夢見るために生まれ、幸せになるために生きてきたのだから。

Bob Dylan - The Times They Are A-Changin'


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