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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2021.01.22 Fri 井上陽水の「傘がない」とわたしの青春

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 1972年2月19日、長野県軽井沢町の保養所「浅間山荘」に、「連合赤軍」のメンバー5人が逃げ込み、山荘で留守番をしていた管理人の妻を人質に立てこもりました。事件発生から10日目、警察は人質救出のため「突入」を決断。作戦開始から8時間超…人質救出に成功、犯人全員が逮捕されました。その模様はテレビ中継され、最高視聴率は90%に達し、国民のほとんどがテレビを見ているという空前の出来事でした。
 その時、わたしは工場勤めにもようやく慣れ、5時に仕事が終わるといつものように同僚たちと卓球をして遊んでいました。その部屋にはテレビがあり、事件の一部始終を映していました。
 工場の年配の女性たちに、「あんたらも同じとちゃうか」と言われ、ぎこちなく「ぼくらはちがうで」と言い訳けするわたし自身に腹立たしく、言葉にできない寂しさや悲しさに襲われました。もちろん、わたしは彼女彼らとはちがうどころか、学生運動や70年安保闘争ともまったくかかわりがなかったにもかかわらず、なぜか同じ世代の人間として、彼女彼らと一緒に何か大きなものをなくしたような気がしたのです。
 寺山修司が「犯罪は失敗した革命である」と言い、「彼らをさばけるのは、コーヒーなどを飲みながらテレビを見ているわたしたちの国家ではなく、彼らが夢見た国家の中でしかないだろう」と言った言葉を覚えています。

 1969年の正月、わたしは22才になっていました。部屋の中はまだ暖房の残りで暖かそうでした。その部屋はともだちの部屋で、その日数少ない友だちが5、6人、わたしを待っていてくれるはずでした。
 このときわたしは風邪をこじらせ、吹田駅前裏のアパートに帰るところを咳がひどく、熱もいっこうに下がらない状態で、摂津市千里丘の実家でずっと寝ていたのでした。わたしは高校の頃からこの家を早く出たいと思っていました。36才でわたしを生んだ母も、たったふたりきりの兄弟の兄もけっしてきらいではなかったし、むしろ子どもの頃から世間になじまないわたしをとても心配してくれていました。でもわたしは、とにかくこの家から離れたかったのでした。
 父親がどんなひとなのかもわからない愛人の子…。そのことでわたしたち子どもがひけめを感じないように父親と別れ、養育費ももらわず朝から深夜まで一膳飯屋をしてわたしたちを育ててくれた母。その頃は店をたたみ、近所の工場の給食係として働き、自分が早くに死んだ時に息子たちが困らないようにと切ない貯金をしていた母。どれだけ感謝してもしきれない、いとおしい母のはずなのに、わたしはそのことすべてからさよならをしたかったのでした。わたしは不憫な子でも、母が苦労してよかった思える親孝行の息子でもありませんでした。
 わたしは高校卒業を待ってすぐ、家を出ました。

 どれだけ待ったことでしょう。ともだちはいっこうに帰って来ませんでした。この日はとくに寒く、まして悪い咳が止まらず熱もあるわたしには、その寒さに耐える時間がそう長くあるわけではありません。
 「血のつながった親兄弟と、あかの他人のともだちとどっちが大事やねん。どっちがお前を大切にしてるねん」。約束だからと起きるわたしを羽交い絞めにおさえて叫んだ母と兄。
 「ともだちや」と叫び、「勝手にせえ、お前なんかもう知るか」と言った兄の声を背中に受けて家を飛び出してきたわたしは、もちろん実家に戻ることもできず、長い間留守にしていた吹田のアパートに帰りました。
 結局わたしはそれから一週間以上も寝込んでしまいました。実家にも知らせず、ともだちとも連絡をとりませんでした。テレビもなく、わたしをかろうじて社会につなぎとめていたラジオからは1月18日、東大構内の安田講堂に立てこもった全学共闘会議派の学生を排除しようと、機動隊によるバリケードの撤去が開始されたことを伝えていました。
 高度成長、ベトナム戦争、安保闘争、東京オリンピック、アメリカ公民権運動など、世界も日本も激動の時代だった1960年代を、ぼくは同世代の学生運動にシンパシーをもちながらも、パッとしない青春を悶々と過ごしていました。
 政治の季節といわれたその時に、わたしはと言えば高校の紹介で就職した会社を半年でやめ、ビルの清掃をしながら夜になると大阪の繁華街の片隅の「いかがわしい」お店に入りびたっていました。そこには薬とけんかとダンスと酒とたばこで退廃的な夜を費やす、学生運動の若者とはまったくちがう若者たちがいました。ある日、店員が「おまわりだ」と叫び、みんな一斉に逃げ出し、わたしも逃げました。あくる日、店に行くと、その店はもう閉店の張り紙があるだけでした。
 今でも思うのです。あの時たくさんいた若者たちはどこに行ったのでしょう。そして、路上で石を投げ、ゲバ棒を振り上げ、機動隊に痛めつけられた若者たちも、みんなどこに行ってしまったのでしょう。1970年、わたしもまたよど号事件とビートルズの解散とともに、神戸の須磨の砂浜に意味もなく大きな石を放り投げ、わたし自身の青春とお別れしたのでした。
 ついさっきまで吹き荒れた激動の嵐が一瞬にして納まり、何事もなかったように世の中が高度経済成長へとアクセルを踏み、バスに乗り遅れるなと誰もがその新しい風に巻き込まれていく時、何者にもなれなかったわたしもまた、納得できない現実と行方不明になった夢とのはざまでもがき、時代に取り残された寂寥感に包まれました。
 「傘がない」は、そんなわたしの心情にぴったりの歌でした。一般的に社会や政治の問題よりも、恋人に会いに行くのに傘がないことが問題だと歌うこの歌は、あれだけ若者の叛乱におびえていた大人たちを内心ほっとさせ、政治に関心がない自分本位の若者を批判するためのかっこうの歌と思われました。
 しかしながら、同じ世代の若者のひとりとして、絶望感と隣り合わせの新しく開かれた時代の扉の前に立ち、ボブ・ディランの歌がそうであるように、政治や社会の既成のタブローに収まらなくなった新しい時代をたぐりよせたのだと思います。時として恋歌が政治のはらわたをえぐり、社会の薄明るい未来を透かしてみせてくれることがある、初めての歌だったのかもしれません。
 そのことを敏感に感じ取ったジャーナリストが筑紫哲也さんでした。ずっと後に被災障害者支援「ゆめ風基金」のトークイベントでお世話になった筑紫さんは、1974年、朝日新聞の特派員を経て帰国した頃、銀座のシャンソンバーで「傘がない」を聴き、「すごいのが出てきた」と思ったそうです。筑紫さんは後に「これは足払いの歌なんだ。天下国家をしかつめらしく言う世の風潮に対する足払いなんだ」と語っています。
 そしてはキャスターを務めたテレビ朝日「日曜夕刊!こちらデスク」で「傘がない」を流しました。彼は深刻な顔で自国の将来を語るような憂国の番組にしてなるものかと思っていたのでした。陽水はその放送を観て「ちょっと生意気な言い方になりますが、ああ、この人は相当、わかってるなと思いました。ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と筑紫さんの死後、陽水は語っています。
 それからの深い縁の中で、TBS「ニュース23」の最初のエンディングテーマ「最後のニュース」が生まれたのでした。
 井上陽水の「傘がない」は、発売日は1972年ですが、つくられたのは1970年と聞きます。井上陽水もまた、政治の季節の真ん中で「何者かになろうとして何者にもなれなかった」当時のわたしをはじめとするたくさんの若者たちと共にいたのではないかと思います。

たとえば青春は
暗い路地を走り抜けた後に広がる青空
廊下に出るその一瞬に部屋に残した風
飛び乗った列車の窓から行方不明になった
もうひとりのぼく
長い時間を貯金した忘れ物の傘のように
たとえばそれがぼくの青春
長い非常階段の踊り場で
行方不明のぼくたちが手をふっている
洗いざらしのTシャツを着て
街に出て映画でも見に行こう
まばたきをするだけで世界は変わる

井上陽水「傘がない」

忌野清志郎・井上陽水・高中正義「傘がない」

 

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2021.01.18 Mon 共に生きるすべてのひとの希望を耕すために。阪神淡路大震災の教訓

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 阪神淡路大震災から26年が経ちました。大爆発するコロナ禍の中で迎える1月17日、誰もが様々な想いで迎えることになりました。
 いのちの儚さといのちの強さ、そして、非情な社会の矛盾やもろさとともに助け合うことの大切さを非日常の中で経験し、あの日からまだ止まったままの時とまた動き始めた時…、2つの時のはざまで日本社会も世界も、そしてわたしたちも簡単に明るい未来を夢見ることができないまま、今に至っていると感じます。
 わたしは当時、箕面の豊能障害者労働センターで働いていて、被災した障害者の救援活動の救援物資ターミナルとして全国から集まってくる救援物資を被災地に届けるための事務をしていました。地震から一週間後、被災地に届けてくれていた人の助手で被災地に物資を届けに行きました。
 阪急王子駅の近くで一軒だけ開いていた大衆食堂に入りました。食堂はところどころ水が落ちてきましたが満席で、豚汁と漬物とご飯があればごちそうでした。
 高いビルがいつ崩れてもおかしくないと思うほど斜めになっていて、まっすぐな道もゆがんでいて平衡感覚がなくなりました。
灘に入ると、家々の屋根だけが残り、一面ががれきの荒野で、その下にうずもれたかけがえのない命の声なき叫びと、生きた証が煙となって足元をもつらせたあの時の風景は、街がいくらきれいに見繕いをすませた今もその後ろ側に残されています。
 わたしたちはいくつかの救援拠点に物資を下した後、須磨の一軒のお宅にバザー用品を獲りに行きました。わたしたちは救援物資のターミナルとともに、3月には救援バザーをすることになっていました。機関紙の読者から電話がかかってきて「わたしは避難所にいるけれど、家の外に置いておくからバザー用品をついでに取りにきてほしい」と言われていたのでした。地震直後に交わす会話は「生きとった?」で始まり、「家も壊れ、これからどうしたらいいかわからへんけど、命だけは助かったわ」で終わるということでした。
 そして、「棚の上からいっぱい物が落ちてきて、もう何もいらん。あんたらが神戸の障害者の救援バザーをすると知って、いまはここでバザーなんて無理やけどあんたらの地域で開いてくれて、神戸の障害者を助けたってな」と言われました。
 実のところ、わたしたちの事務所には連日山になるほどのバザー用品が宅配便で送られてきましたが、その中には送り主の住所が被災地各地の避難所になっていることもたくさんありました。そして、送られてきたバザー用品に添えて、大切なひとをなくしたひとからも「こんな時こそ助け合いや」と、わたしたちを励ます手紙が入っていました。
 わたしたちは救援活動を通じて、被災地のひとびとからも共に生きる勇気を学びました。箕面で開いた「共に生きる、すべてのひとの希望をたがやすバザー」は100人ほどのボランティアの人たちに助けられ、救援金を届けることができたのでした。

 しかしながら1995年を今振り返ると、阪神淡路大震災と4月に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件によって、日本社会が大きく変わった年だと思います。
 ボランテイア元年と言われるように、「助け合い」や「共に生きること」や「市民の力」が社会をささえ、変えていく始まりの年であったことは間違いないのでしょうが、一方で今の鬱屈した社会へとつながる道もまた、この年からはじまったように思うのです。
 1995年はバブル崩壊後、金融機関の不良債権問題など、それまでの高度経済成長の夢を捨てられないまま少しずつ薄暗くなっていく日本社会への不安が渦巻きはじめていました。その中で起きた大災害と大事件は、それまでの経済成長と重なってみえた戦後民主主義のもとで、「世界一の経済大国と世界一安全な国」が転落していく始まりだったのではないでしょうか。
 新自由主義によって社会の基礎的な富は私有化され、社会保障など公的な安心が削られていく中で、個人も国も助け合うことよりも自分の身は自分で守る自己責任と国の防衛が前面に踊り出る社会に変わっていきました。助け合うことや多様な人々が共に生きる力と、自己責任を求める大きな力という二つの力がわたしたちを引き裂き、社会の分断が広がっていったのだとわたしは思います。
 それから16年後の東日本大震災でこの2つの力は共に大きくなりながら時にはぶつかりながらも住み分けが進み、社会の分断はより厳しいものになりました。
 ここでは今もまだたくさんのひとびとを苦しめながら、それでも戦後の国策としてきた原子力至上主義を守り、貫こうとする成長神話のプレイヤーである国や企業と、その神話にゆがめられた社会の深淵に落ち込んだわたしたちの悲鳴が共存しながらグローバルな荒野を駆け巡りました。
 そして今、世界で200万人を越え、これからもどれだけの命が犠牲になるのかわからないコロナショックは、わたしたちの社会の脆弱さを断罪する審判を下しました。
 ここまでの歴史の中で何度も警告を発せられても止まらない成長への欲望、日本でも保健、医療、教育、福祉の公的サービスを異常なまでに攻撃し、規制緩和と民間委託と徹底的に私有化し、「万が一」への施策を無駄としてコスト削減し、AI技術などイノベーションによる社会のDX化によって成長神話の引き延ばしを図ってきた結果が医療体制の崩壊を招いたことは専門家に聞くまでもないでしょう。
 わたしたちは長い間続いた分断の道を軌道変換し、ひとつの道へとつながることができるかも知れない、最後のチャンスの現場にいるのだと思います。気候危機とコロナショックと世界中の飢餓と個人を幽閉する国家が、たった一人のいのちなど調査報告の「1」にも満たないと通り過ぎようとする時、わたしたちは阪神淡路大震災で学んだもう一つの道、「助け合い」と「共に生きる勇気をたがやす」道を進んでいきたいと思うのです。

ソウル・フラワー・ユニオン「満月の夕べ」
被災障害者支援「ゆめ風基金」の活動を訴える最初の拠点が長田神社でした。関西を中心に障害者の呼びかけに永六輔さんも小室等も、そしてソウル・フラワー・ユニオン(モノノケサミット)も長田神社に集まってくださいました。

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2021.01.14 Thu 島津亜矢「傘がない」

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 久しぶりに、島津亜矢について書こうと思います。
 1月7日に放送されたTBSの「UTAGE!」に島津亜矢が出演し、「傘がない」他3曲を歌いました。島津亜矢のことと言えば今更過ぎたことをほじくってもと思われることを承知で、やはり昨年の紅白歌合戦の不出演についても書いておかなければならないでしょう。
 昨年はどの歌い手さんやアーティストにとってそうであったように、全国各地のコンサート中心の島津亜矢の活動はコロナ禍で中止となり、残念なことになったと思います。
わたしも春と秋の2回楽しみにしていましたので、とても残念でした
ただ、わたしは紅白についてはぼつぼつ出演が途切れるのではないかと思っていました。むしろ、2015年より5年も、紅白のプロデューサーが島津亜矢を出演させてくれたものと思っています。
 もちろんこの数年間、「歌怪獣」という異名の元で「うたコン」などの番組に出演し、高い評価を得てきたことがあります。しかしながら、最初の頃は名付け親のマキタスポーツが証言したように、彼女の培ってきたオールレンジの歌唱の魅力がJポップや海外ポップスの領域にまで及び、「こんな(演歌)歌手がいたのか」という驚きをもって受け入れられました。
 しかしながらある時点で、正確には固有名詞を出して申し訳ないのですが、氷川きよしのポップスへの進出とジェンダーレスの生き方が話題を一気にさらってしまった時、やはりメジャーな発信力にはかなわないと思いました。
 島津亜矢の長年のボーカリストの実力はそれとは何の関係もないものの、島津亜矢を取り囲む世論?は、彼女により「歌怪獣」としての実力を求めるようになりました。
 そのため、Jポップの中でもバラードの名曲で豊かな声量を必要とする歌や、最近のJポップの早いテンポのヒット曲を依頼されることも多くなり、もとより器用な彼女は求められるまま難曲と言われる歌を歌いこなし、それがまた話題となることでその傾向に拍車をかけることになりました。コロナ禍の下でテレビの歌番組自身もあまり盛り上がらないまま、歌をじっくりと聴くというよりはすさまじい勢いで今の時代を生きる若者の心の裏側にピッタリと寄り添う若き才能たちが躍動する音楽シーンが、スマホを駆使したユーチューブなどで配信される大きな市場から、島津亜矢もまたどんどん遠ざかっていくように感じます。
 紅白に出場することを悲願としたり、「あの歌手が出てるのにあの歌手が出ないのはおかしい」とか、さまざまな批判、意見が飛び交うのもNHKが準国営放送だからですが、昔とは違い、年末の大型の音楽番組としてNHKがめざす音楽シーンの姿を自由にプロデュースしてくれたらいいとわたしは思います。その意味で、島津亜矢の合計6回、連続5回の出場は結構大変なことで、これからは呼ばれたら紅白に出演するというスタンスで、おそらくまだまだ厳しい状況が2年はつづくことを覚悟して、島津亜矢らしい独自の音楽活動を深めてくれたらと願っています。

 TBSの「UTAGE!」は中井正広が司会で不定期に放送される歌番組で、実力派のボーカリストがカバー曲をソロやコラボで披露し、オリジナル曲に最大のリスペクトを捧げながら自分なりに歌うパフォーマンスが魅力の番組です。
 この番組の更なる魅力は、「宴」というタイトル通り、実力歌手が安全に自分の領域で歌いこなす予定調和より、時には批判が飛び交うことになってもそれぞれの歌い手の今以上の領域に足を踏み入れる音楽的冒険と、様々なコラボによってそれぞれの領域を越えた新しい表現への強い渇望、そして出演者がライバルとしてではなく共に番組を作っていく同志としての信頼があることです。この番組に出演することは歌唱力や表現力は最初からあるものとしてお互いがお互いの表現を認め合い、新しい発見や才能に驚きわくわくできる番組として、今の島津亜矢にとってとてもありがたい番組なのだと思います。
 実際、最近の隠れた名曲「君と見てるから」の今井了介がプロデュースした「ベイビー・アイラブユー」の大ヒットで知られるTEEは「UTAGE!」の常連で、島津亜矢のポップス観を刺激し、わたしがこの番組で聞き逃せないシンガ・ソングライターです。
 さて、島津亜矢の「傘がない」は、単にその声量のすごさ以上に素晴らしい歌唱だったと思います。「傘がない」は井上陽水の1972年のアルバム「断絶」からシングルカットされ、初期の代表曲といわれるようになりましたが、世代を越えて数多くの歌手がカバーしているだけでなく、陽水自身も年代に応じて歌唱は変わっていったもの、セルフカバー以上の思いがあるようです。
 発売当時が連合赤軍のあさま山荘事件により、70年安保闘争を中心とした学生運動の終焉が決定的となったことで、それ以後の若者の政治離れや無関心、社会問題より個人の恋愛などに重きを置く風潮を「ミーイズム」と言い、嘆きとある種の断罪を交え、皮肉にも社会問題となった歌でした。それについては今回の記事の余白が少なく、当時のリアルな世代だったわたし自身のことと、後に被災障害者支援ゆめ風基金のイベントで箕面に来たもらった筑紫哲也さんのことを含めて次回に書こうと思います。
 今回の島津亜矢の歌唱に、この歌をリアルに聴いていたわたしにはもしかすると若い井上陽水自身も説明ができなかった感情…、日本社会がまるで荒波が大きな罠が仕掛けられた不確かな未来へと一瞬にして去ってしまった後の胸のうずきそのもののように思えた、あの頃の風景がよみがえるようでした。
 過去のいくつかの名曲を誰が歌うかに興味がわくコーナーで、過去の映像で中島みゆきの「時代」が流れ、またかと少しがっかりしていた時、画面のネクストソングに「傘がない」と出て、普通ならこの歌を歌えるそうそうたる歌手がずらりといる中で、もしかするとこの番組ならではの音楽的冒険があるかも知れないと思ったそのままに、島津亜矢が大声量で「都会では…」と歌い始めました。このまま大声量病に取りつかれてしまうのでないかと心配していたら、「自殺する…」と声を落とし、この歌の源流に一気に私を連れて行ってくれました。正直、涙が出てきました。若かった井上陽水の、そして若かった同世代のわたしの、二度と戻らない、取り返しのつかない、ほぼ同じ世代の村上春樹のいう「損なってしまった」大きな大きなさよならがあの頃の街角に取り残されているような、意味不明の涙でした。
 最近の島津亜矢をとりまく世間の重圧に嫌気がさし、彼女のせいではないのにわたしが求める歌から離れていくように思えて、島津亜矢の記事を書くことができなかったわたしに、もう一度彼女の厳しすぎる歌の道を後ろからついていこうと思いました。

島津亜矢「傘がない」 1月7日TBS「UTAGE!」
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2021.01.09 Sat 「我々は幸せになるために地球上にやってきた」。映画「ムヒカ 世界で一番貧しい大統領から日本人へ」

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 1月3日、映画「ムヒカ 世界で一番貧しい大統領から日本人へ」を観るため、阪急電車売布神社そばの「シネ・ピピア」に行きました。不要不急の外出を控えるように言われていたのですが、年末年始家にこもっていて、妻がこの映画をぜひ観に行きたいとわたしも誘ってくれたのでした。
 タイトルの「ムヒカ」とは南米ウルグアイの政治家で、2009年11月の大統領選挙に当選し、2010年3月1日より2015年2月末までウルグアイの第40代大統領を務めたホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダーノで、報酬の大部分を財団に寄付し、その清貧な暮らしぶりから「世界一貧しい大統領」と呼ばれました。
 世界的に有名になったきっかけは、2012年にブラジル・リオデジャネイロで開かれた国連持続可能な開発会議のスピーチでした。消費社会に異議を唱え、本当の幸福とは何かを語り、世界中に衝撃と感動を与えました。
「我々は発展するために地球上にやってきたのではありません。幸せになるためにやってきたのです。」リオ会議のスピーチをもとにした絵本『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』(汐文社)が15万部超のベストセラーになりました。
 映画は、そのスピーチに心を動かされたテレビディレクターの田部井一真監督がアポなしで取材を申し込むところから始まります。
 見渡す緑の大地の道をトラクターに乗りながら、ムヒカはわたしたちに語りかけます。
 「君が何かを買うとき、お金で買っているのではない。お金を得るために費やした人生の時間を買っているのだ」。

 ウルグアイ(ウルグアイ東方共和国)は1828年にラスペインから独立した南アメリカ大陸で2番目に面積が小さな国です。独立後も長らく内乱が続きましたが、20世紀初頭のホセ・バッジェ・イ・オルドーニェス大統領の大改革により、「南アメリカのスイス」とも評される稀有な民主主義国家となりました。ほとんどの土地は平らな荒れ地と、緩やかな丘の風景が広がっています。また、海岸近くには肥沃な耕作地帯が広がっています。国土の多くは草原となっており馬や牛や羊が飼育されています。
 しかしながら、1960年代には深刻化する経済危機を背景に都市ゲリラトゥパマロスとの抗争が続き、1973年にトゥパマロス鎮圧を果たした軍部によってクーデターが実施され、軍事政権になります。ムヒカはその間トゥパマロスに加入、ゲリラ活動に従事し、軍事政権が終わるまで13年近く収監されていました。
 ムヒカは出所後、ゲリラ仲間と左派政治団体を結成し1995年の下院議員選挙で初当選し、2005年にウルグアイ東方共和国初の左派政権となる拡大戦線のタバレ・バスケス大統領の下で農牧水産相として初入閣します。そして2009年11月の大統領選挙戦で勝利し、 2010年3月1日より2015年2月末までウルグアイの第40代大統領を務めました。ムヒカに限らず、かつての極左ゲリラ活動家が中道左派政権を樹立し、また国民がかつてのゲリラ集団の政治家を支持したことも、政情不安や軍事政権の抑圧、理不尽な暴力など非情な時をくぐり抜けて獲得したウルグアイの民主主義の底力を感じます。

 ムヒカを取材した.映画は他にもありますが、田部井監督はテレビ番組の若いディレクターらしく、ドキュメンタリーというよりテレビ番組のロングインタビューという感じで、観客のわたしたちと同じ場所からカメラを向けます。ムヒカの言葉をただひたすらまっすぐに待ち続ける真摯な姿勢や、自分の子どもに「ホセ(歩世)」と名付けるなどムヒカへのリスペクトがなみなみならず、映されたスクリーンからはみだしたというよりは、スクリーンの映像がまさしくムヒカの家や農園、付近の風景と立ち込め緑とむせ返る匂いとさわやかな風を映画館に運んできたようなのです。
 意外にも一度も日本を訪れたことのないムヒカが、日本の歴史や文化にとても詳しいことに驚かされます。ムヒカは子どもの頃、近くに住んでいた日本人移民のひとたちに菊づくりなどを教わっていたのでした。
 田部井監督は何度もウルグアイへと渡り、大統領退任後のムヒカへの取材を重ね、多くの日本人にムヒカの言葉を聞いてほしいと願いました。その思いに応えてムヒカは妻のルシア・トポランスキーとともに日本を訪れます。
広島を訪れた彼は「日本に来てここを訪れなかったら、日本の歴史への侮辱だと思う。」と語ります。そういえば彼の部屋に貼ってあるゲバラもまた革命政権が成立した直後の1959年に広島を訪れ、「君たちはアメリカにこんなひどい目に遭わされて、怒らないのか」と言い残したことが有名です。
 日本の高度成長の姿と技術の進歩を賞賛しながらも、彼は言います。
「とても長い、独自の歴史と文化を持つ国民なのに、なぜ、あそこまで西洋化したのだろう。衣類にしても、建物にしても。広告のモデルも西洋系だったし。あらゆる面で西洋的なものを採り入れてしまったように見えた。日本には独自の、とても洗練されていて、粗野なところのない、西洋よりよっぽど繊細な文化があるのに。その歴史が、いまの日本のどこに生きているんだろうか」。
 日本の若者に会いたいという彼の願いから、東京都内の大学で講演し、若者に語りかけました。
「日本では若者の30パーセントしか投票に行かないと聞きました。政治を放棄すれば少数の人々がそれをコントロールすることになります。魔法が世界を変えてくれるなんて思わないでください。同じ考えを持つ誰かと共に行動することで望みが叶うのです。
 「若いみなさん、ふたつの選択肢がある。ひとつは『生まれたから生きる』、もうひとつはそこから出発して、私たち自身の人生というものを方向づける。すなわち、この奇跡のような生をうけたということの大義のために生きるのであります」。
「人生で一番大事なことは成功することじゃない。歩むことだ。転んでも再び立ち上がることだよ。打ち負かされる度にまた一から始める勇気を持つことだ」。

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2021.01.09 Sat 行動変容で感染を抑えることを期待するならば、オリンピックの即時中止とそのお金をすべてコロナ対策に!

 今年初めての記事です。新型コロナ感染拡大のさ中、ややもすると体も心も引きこもりがちです。しかしながら、その危険を救ってくれるのは友人からの「どないしてる?」の一言で、こんな時だからこそ共に助け合うことがほんとうの安心につながることを実感しています。
 年相応の勇気をふりしぼって、新しい一年を過ごしたいと思います。
 今年もよろしくおねがいします。

 折しも新型コロナ感染症の拡大が爆発的になり、1月8日現在、東京で2400人を越える感染者、全国でも7700人、大阪でも654人と報じられました。
 どこの国においても未曽有の事態で、政治が間違うことは避けられないとは思いますが、間違いを認めないまま対策が小出しで、これでは封じ込めは困難とどなたも思われるのではないでしょうか。
 安倍政権を引き継いだ現政権は感染対策よりも経済対策の方に傾いていると思います。それも、飲食店や居酒屋、そこで働く非正規雇用の人々、個人事業主の悲痛な叫びに十分な補償をせず彼女彼らの悲鳴を盾にして「GOTOキャンペーン」を強行しました。
 たしかにそれで経済は回ったのかも知れませんが、人の移動を後押しし、感染拡大につながったことは間違いないと思います。因果関係がないと強弁する向きもありますが、同じような経済対策をとったイギリスでは検証チームによって実証されたという報道もあります。
 結局ところ、菅政権の「自助、共助、公助」の言葉どおり、感染症拡大による医療関係者やエッセンシャルワークに携わる人々への補助も十分でなく、また非常事態宣言の下でも要請に応じることができない店の公表という罰則でさらに窮地に追い込み、また自粛要請とは裏腹に店を訪れる「お客さん」の財布をあてにし、耐えられないお店は自助努力が足らないと切り捨てる政策なら、公助を受け持つ政治は何のためにあるのかと愕然とします。
 中国の「ゼロコロナ」のような強権による封じ込めではなく、あくまでも要請でしかない今の法から、強権を発令する法を求める声とその声を利用して法整備をしようとする動きにファシズムの匂いを感じます。
 ここまで感染が拡大する中で、強権発動ではなくこの国に住むわたしたちひとりひとりの行動変容を真剣に求めるならば、わたしはオリンピック、パラリンピックの中止を内外に表明し、いままで投じてきた莫大なお金が無意味になったとしても、これからの資金すべてを医療や保健、エッセンシャルワークに携わる人々や本当に切羽詰まっている町の経済と8万人を越えるコロナ失業者への思い切った給付や助成につぎ込み、この国で生きていてよかったと思えるような、政府や権力層の本気と覚悟を示してほしいと思います。
 オリンピックに向けて期待を背負い、自分を追い込んできたスポーツ選手たちの落胆と憤りは相当なものかも知れませんが、世界各地からたくさんのひとびとが集まり、日本からまた世界各地に「命の危険」を拡散する可能性が高いことは、すでに外国では指摘されています。また今のオリンピックには本来のスポーツの在り方とは程遠いものがあると思われ、世界が抱えるいくつもの問題とおなじように、オリンピックの在り方も見つめなおす機会ではないとか思うのです。
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