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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2021.03.05 Fri みんなちきゅうのこどもたち 「能勢ルネッサンス」・難波希美子さんとともに 

ハガキ1

春は散り舞う桜の大地 夏はきらめく光の海
秋は色づく実りの広野 冬は透きとおる星屑の谷
途方もない時をこえて いのちたちもまたつぎのいのちたちに
時がくれたおくりものを手わたしてきたのでした
この星にだかれて平和な時を助け合って生きる
あなたもわたしも
みんなちきゅうのこどもたち
先日、以前制作したTシャツ「みんな地球のこどもたち」を、難波さんの事務所兼なんでも100円フリマショップ「ホップ・ステップ・のせ」に拠出しました。発売当時は2000円で販売していたもので、生地は1年間洗濯してもほとんど伸びない良質のものでした。
デザインは大阪市淡路の障害者団体の障害者約20人のイラストをぎゅっーと丸くレイアウトしたもので、久しぶりに在庫から取り出し、とてもなつかしく思いました。
わたしもあなたも、そしてずっと以前の先人たちも、おんなもおとこもそうでないひともおとなもこどもも、がいこくのひともしょうがいをもつひとも
みんなちきゅうのこどもたち。
能勢の今に叱られ、能勢の未来にはげまされて
難波さんは能勢の田畑のあぜ道を走ります。
自然を守り、次世代に里山を残すために
だれひとり取り残されない能勢をつくるために
わたしもあなたも、そしてまた行政さえも
夢見るために生まれ、幸せになるために生きてきたのだから。

Bob Dylan - The Times They Are A-Changin'


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2021.02.19 Fri 能勢町民を面でつなぐ地域交通 「能勢ルネッサンス」・難波希美子さんとともに 

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 わたしの住む能勢町は大阪府の北端の小さな町で、全国の地方の町と同じく人口減少と高齢化、町の主な産業である農業を担う後継者不足にあえいでいます。
 関西で知られる能勢電鉄は実は能勢町を走っておらず、交通手段は路線バスが走っていますが、人口減少と高齢化の波は路線バスを直撃し年々利用者が減る中、運転手不足という構造的な問題も重なり減便や廃止が進んでいます。その結果として住民の移動手段は圧倒的に自家用車に依存している状態です。
 わたしはずいぶん前に合宿での運転免許の取得にチャレンジしたものの、精神的につらくなり、結局断念した苦い経験をしています。2011年に能勢に引っ越してきたとき、隣近所の人たちから「自動車の運転ができないのに能勢に来るなんて信じられない」と言われましたが、それでも「なんかあったら声かけてや」と親切に言ってくれました。
 わたしはそのころはまだ新大阪で働いていましたので、40年ぶりに路線バスで通勤することになりました。能勢電鉄の山下駅までたった10分ほどの時間がとても新鮮でわくわくしながら、その時間帯はほぼ満員で吊革を持ちながら窓の外の風景を見るのが仕事前の貴重な時間となりました。
 それまで北大阪急行の緑地公園駅の近くに住んでいましたから、マンションと会社のビルが立ち並ぶところとちがい、見渡す限り山に囲まれた能勢の風景は終の棲家にふさわしいワンダーランドと思いました。能勢電鉄山下駅に着くまでに何本もトンネルを通り過ぎ、最後に山下の町に出る最後のトンネルを通り過ぎると景色はがらりと変わり、それまでの木々のひそひそ話や鳥たちのはしゃぎ声から一転、地方の町の息遣いとともに人々の声が絡み合い、どこに急ぐのか車のざわめきが飛び交う空間に入る一瞬もまた、そのころよく見ていた中国や香港、韓国映画のワンシーンを見るようで、「今日も仕事がんばろ」と背中を押してくれているようでした。
 そのころも減便・廃止がつづき、不便になっていきましたが一方で乗客がないまま「空気を運んでいる」と揶揄されるほどの状況は深刻になり、ますます減便になるという悪循環が続いています。
 能勢町は路線バス事業者に赤字補填として今年度は当初3500万円の助成金を出していて、2019年3月に路線バス事業者より今後の運行について協議の申し入れがある中で、当初は1月より減便のところ助成金を急遽1700万円追加し、今年の3月までは現状を維持することになったのですが、4月からは大幅な減便が避けられない状況です。
 能勢町が昨年実施したアンケート調査によると、サンプリングの少なさは気になりますが、おおむね路線バスを利用するひとは2割にとどまり、残りの8割のひとはほとんど乗らないか全く乗ったことがないと応えています。そしてどちらも運行本数が少ないこと、バス停が遠いこと(乗っている人13.5%、乗らない人24.4%)、利用したい時間に走っていないことなどを改善してほしいと応えています。
 また、路線バスを維持、充実させるために町が経費を負担することについては、9割以上の人が容認し、一方で運賃の値上げや減便もやむをえないという回答もある中、6割の人が「今後も可能な限り財政負担すべき」と応えています。路線バスなど公共交通の必要性については若い人たちは通勤・通学、休日の外出に必要と応え、日中の外出に利用する高齢者をはじめ、今は自家用車の移動で困らなくても将来のことを思うと必要であると回答しています。
 しかしながら今後の改善どころか、今回のような大幅な減便は能勢町民にとって交通アクセスの崩壊そのもので、一時は半減かと思われましたがなんとか3分の2ほどの減便におさまりそうですが、それでも日中は約2時間に1本になり、通勤に影響を少なくすると言っても朝の通勤時間の1、2本と、最終バスが9時台になりそうで、これでは通勤での利用にも大幅な制限がかかることになります。そうなれば既存の住民はますますマイカー通勤となり、能勢の素晴らしい自然環境を求めて移住しようと考えていた人々も断念することになりかねず、それでなくても「大阪の孤島」と言われてきた能勢が孤立することは避けられないでしょう。
 わたしたち住民にとっては切実な問題で、減便を思いとどまってほしいと願っても、公共交通とはいえ私企業である以上、毎年の赤字の累積に耐えられないということであればその赤字分をすべて能勢町が補填するだけの財力も乏しく、また利用しない、利用したくてもバス停が遠く利用できない町民に思いをはせれば、それも現実可能な解決策ではないと思うのです。
 そこで能勢町は昨年の秋、路線バスとタクシー事業者、国交省近畿運輸局の担当者、都市デザインの学識経験者、豊能警察と能勢町職員、住民代表などを構成委員とする「能勢町地域公共交通会議」を立ち上げ、路線バスと連携できる能勢町内の地域交通網の確立に向けて動き出しました。
 能勢町においても、営業が目的でなく能勢町内に限り移動サービスを提供する「公共交通空白地有償運送」と、障害者、高齢者のみが町外の目的地でも利用できるドア to ドアの「福祉有償運送」があり、これらのサービスをボトムに乗合タクシー、コミュニティバスなどの併用により路線バスやタクシーと連携していくことで、今までは点と線だったものを能勢町全体を面にしたきめこまやかな交通網ができればいいなと思います。
能勢の場合、歴史も古く農耕文化の宝庫ともいえる東地区と、かつて能勢の中心・「森上銀座」といわれたと聞くところの交通・物流・庶民文化の拠点の面影を残す西地区との行き来が自由になり、町民同志の交流もふえ、車の運転ができなくなっても障害を持ってもだれひとり取り残されず、先人が守り、遺してくれた里山の自然と共に生きる「能勢ルネッサンス」が花開くことを夢見ています。
 わたしはこの会議を立ち上げると知ったとき、とても夢のある計画と思い、会議の傍聴に行きました。しかしながら、どこの町でもおそらく同じだと思うのですが、交通事業者の既得権を決して侵さない形で会議の内容もこれから作られる地域交通網のシステムの在り方も検討されていることを実感しました。それはもっともなことで、とくに今のようなコロナ禍で外出そのものが激減する中で、経営の困難を耐えて能勢町の公共交通を守っている事業者に感謝しつつ、それでも町行政と住民と事業者が助け合い、知恵を出し合って能勢町内の新しい地域交通網を作り上げることは能勢町のまちづくりのすべての課題とつながる夢の計画だと信じています。
 国交省も昨年改定した「自家用有償旅客運送ハンドブック」で、公共交通事業者が積極的に協力する「事業者協力型自家用有償旅客制度」を創設し、運行管理や車両整備管理、交通安全に精通する交通事業者(バス・タクシー)がそのノウハウを活用して協力し、住民ドライバーが運転する交通空白地域有所運送の在り方などを提案しています。近くでは猪名川町の試みのほか、兵庫県養父市では全体の運営管理をタクシー業者にゆだね、住民ドライバーのコーディネートまで一貫したサービスをしている例が紹介されています。
 能勢町にどの交通システムがいいのかはこれからの会議で検討されることになりますが、能勢町に限らず、これからの日本、いや世界の目指すものは「住民参加による助けあいと共に生きる社会」の実現とわたしは思っていて、まずはわたしたちの住む能勢町で、この町をこよなく愛し、自然を守り自然に助けられながら住民が助け合える能勢町をめざして行動する難波希美子さんとともに両手いっぱいの希望と切ない夢を分け合っていきたいと思います。

「心の四季」より「1.風が」「2.水すまし」「3.流れ」  詩・吉野弘 作曲・高田三郎 豊中混声合唱団第53回定期演奏会 2013年7月6日

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2021.02.05 Fri 希望をグローバル化するためにたたかいをグローバル化しよう。 斎藤幸平「人新世の『資本論』」

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「希望をグローバル化するためにたたかいをグローバル化しよう。」
(国際農民組織「ヴィア・カンペシーナ」のメッセージ しんぶん赤旗2008年7月17日 斎藤幸平「人新世の『資本論』」から引用)

 1966年、高校を卒業後半年働いた建築設計事務所をやめたわたしは、しばらくして大阪本町駅の近くのビルの清掃員に応募し、3年間働いていました。
 最初は7時半から3時半で、普通の仕事より早く終わるのが魅力で、同世代の若者のように政治的な行動に明け暮れるわけでもなく、夕方には心斎橋あたりをうろうろし、どこに行くあてもなく時間をつぶしてはアパートに帰る毎日でした。
 わたしの職業人生のはじまり、いや人生そのもののはじまりはビル清掃員で、わたし以外はおばあちゃんたちで、彼女たちは世間知らずで社会性の全くないわたしを温かく迎え入れてくれました。仕事することのほんとうの意味も人生のうれしさや悲しさも、それぞれの人生経験を通して教えてくれました。1967年、高度経済成長へと突入する日本経済では、ビルのメンテナンスの一つであるビル清掃も大きな成長産業だったようなのです。働きに来ていた数人の人たちは生活のためというよりはいわゆる「嫁姑」問題で「嫁」から逃げて自分の居場所を求めてやってきたひとがほとんどで、そのころで日給数百円程度の収入は生活費の負担など家庭内の人間関係のために使われているようでした。
 夜も働き始めるようになってしばらくたったある日、主任のおばあちゃんから「にいちゃん、わたしらな、事務所で出る段ボールや書類、新聞を売ってそのお金をみんなで分け合ってんねん。もしよかったらあんたも仲間になれへんか、若い人の力が加わると、段ボールをたたんで縛る仕事がらくになるんやけど」といいました。
 もちろん、それはやってはいけないことでしたが、このビルの清掃員数人だけの小さな会社で、その「非合法」なアルバイトでできるお金もおばあちゃんたちの孫への小遣いやおもちゃを買ったりする程度のささやかなものでしたから、社長さんも見逃してくれているようでした。ともあれ彼女たちにとってそのビルの会社にだけは知られないようにとこっそりつづけている、ひそやかな楽しみだったのです。
 わたしはしばらく考え、仲間になることにしました。実際の仕事はできるだけ早く8階建てだったその会社の各階フロアーのごみをすべて回収し、現状有姿で各机をふき、特に輸出入や国内出荷入荷に使用する段ボールの整理回収など、通常の仕事をできるだけ早く済ませ、その後みんなで仕分けが終わった頃に廃品回収のおじさんが引き取りに来てお金を払ってくれるというあんばいでした。
 そのころはまだどこの会社もセキュリティが甘く、わたしたちは社長室をはじめ重役室も秘書室も、また今では考えられない大きさのコンピューターを何台もおいてキーパンチャーが活躍していた電算室にも自由に入り、掃除を請け負っていました。
 各フロアーや重役室には毎日さまざまなジャンルの本や雑誌がたくさん送られてきて、それらの本の中には中国やソ連、北朝鮮関係の雑誌もあり、政治的なことも社会のことも全然知らなかったわたしが金日成の「主体(チュチェ)思想」を知ったのもそれらの雑誌からでした。
 そのころのわたしは社会主義も資本主義も何も知らない若者でしたが、アメリカをはじめとする自由主義経済とソ連や中国をはじめとする社会主義経済が、鉄鋼の生産高や経済成長率などをもとにどちらが発展しているかを競争しているのがとても不思議でした。正義ともう一つの正義が戦争を引き起こしてきたように、その競争はとても危険でむなしいものに思えました。どちらも当時のGNP、今のGDPでわたしたちの幸せや豊かさを測れるという、国家の押しつけがましい権力の匂いがしました。
 そして、わたしたちの小さな犯罪はこの経済競争のどこにあたるのかと、考えていました。

 それから何年たったことでしょう。わたしはその後一般企業で20年近く働いた後、豊能障害者労働センターで活動することになりました。今はともかく、そのころのセンターは戦後すぐの日本や世界のいたるところで飢餓が深刻化する絶対的貧困ではないものの、世の中が高度経済成長からバブルに突入してもなお、分け合う給料がつくれずにいました。それでも一年の終わりには障害のあるひともないひとも「今年もなんとか暮らしてこれたな」と幸運を喜び、応援してくれたひとびとへの「ありがとう」をかみしめながら笑いあっていました。
 そのころの合言葉は「もしも愛がすべてなら、愛しいお金はどないなる」、でした。実際、「お金じゃない、愛だろ」といえる余裕が経済的にも心にもなく、反対にみんなでつくりだしたささやかな十円、百円、千円、万円が涙や笑いや希望や夢がかくれんぼしている、とても愛おしい恋人に思えたのでした。そこにあるのは世界中をたった一秒で駆け巡る何千億というお金では決してなく、また国家社会主義や福祉国家による「富の分配」からこぼれおち、さみだれるお金でもない、世の中の袋小路と思われる通路の先の重い扉の向こうに突然ひろがる真っ青な海と空がまじりあう永遠のように、昔からわたしたちのすぐそばにいながら、遠い未来からやってくる「ともだち」というお金でした。
 そこからまた何十年も過ぎ、世の中も世界もこの星も、もうどうにも分かり合えない、愛し合えない、語り合えない、手をつなげない、さよならさえ言えないほど、わたしたちは引き裂かれ、自分の行方不明を知らせる手立てもないところにまで追い詰められた今があると感じます。
 斎藤幸平氏の「人新世の『資本論』」を読み、わたしの支離滅裂でやぶにらみの資本論はその読後感とともにわたしなりの人生のプラットホームへと導いてくれるようでした。
 それは希望の書であると同時に、今を生きるわたしたちが参加し、何かを始めなければ読み終えることができない禁断の書でもあると思います。

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2021.01.22 Fri 井上陽水の「傘がない」とわたしの青春

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 1972年2月19日、長野県軽井沢町の保養所「浅間山荘」に、「連合赤軍」のメンバー5人が逃げ込み、山荘で留守番をしていた管理人の妻を人質に立てこもりました。事件発生から10日目、警察は人質救出のため「突入」を決断。作戦開始から8時間超…人質救出に成功、犯人全員が逮捕されました。その模様はテレビ中継され、最高視聴率は90%に達し、国民のほとんどがテレビを見ているという空前の出来事でした。
 その時、わたしは工場勤めにもようやく慣れ、5時に仕事が終わるといつものように同僚たちと卓球をして遊んでいました。その部屋にはテレビがあり、事件の一部始終を映していました。
 工場の年配の女性たちに、「あんたらも同じとちゃうか」と言われ、ぎこちなく「ぼくらはちがうで」と言い訳けするわたし自身に腹立たしく、言葉にできない寂しさや悲しさに襲われました。もちろん、わたしは彼女彼らとはちがうどころか、学生運動や70年安保闘争ともまったくかかわりがなかったにもかかわらず、なぜか同じ世代の人間として、彼女彼らと一緒に何か大きなものをなくしたような気がしたのです。
 寺山修司が「犯罪は失敗した革命である」と言い、「彼らをさばけるのは、コーヒーなどを飲みながらテレビを見ているわたしたちの国家ではなく、彼らが夢見た国家の中でしかないだろう」と言った言葉を覚えています。

 1969年の正月、わたしは22才になっていました。部屋の中はまだ暖房の残りで暖かそうでした。その部屋はともだちの部屋で、その日数少ない友だちが5、6人、わたしを待っていてくれるはずでした。
 このときわたしは風邪をこじらせ、吹田駅前裏のアパートに帰るところを咳がひどく、熱もいっこうに下がらない状態で、摂津市千里丘の実家でずっと寝ていたのでした。わたしは高校の頃からこの家を早く出たいと思っていました。36才でわたしを生んだ母も、たったふたりきりの兄弟の兄もけっしてきらいではなかったし、むしろ子どもの頃から世間になじまないわたしをとても心配してくれていました。でもわたしは、とにかくこの家から離れたかったのでした。
 父親がどんなひとなのかもわからない愛人の子…。そのことでわたしたち子どもがひけめを感じないように父親と別れ、養育費ももらわず朝から深夜まで一膳飯屋をしてわたしたちを育ててくれた母。その頃は店をたたみ、近所の工場の給食係として働き、自分が早くに死んだ時に息子たちが困らないようにと切ない貯金をしていた母。どれだけ感謝してもしきれない、いとおしい母のはずなのに、わたしはそのことすべてからさよならをしたかったのでした。わたしは不憫な子でも、母が苦労してよかった思える親孝行の息子でもありませんでした。
 わたしは高校卒業を待ってすぐ、家を出ました。

 どれだけ待ったことでしょう。ともだちはいっこうに帰って来ませんでした。この日はとくに寒く、まして悪い咳が止まらず熱もあるわたしには、その寒さに耐える時間がそう長くあるわけではありません。
 「血のつながった親兄弟と、あかの他人のともだちとどっちが大事やねん。どっちがお前を大切にしてるねん」。約束だからと起きるわたしを羽交い絞めにおさえて叫んだ母と兄。
 「ともだちや」と叫び、「勝手にせえ、お前なんかもう知るか」と言った兄の声を背中に受けて家を飛び出してきたわたしは、もちろん実家に戻ることもできず、長い間留守にしていた吹田のアパートに帰りました。
 結局わたしはそれから一週間以上も寝込んでしまいました。実家にも知らせず、ともだちとも連絡をとりませんでした。テレビもなく、わたしをかろうじて社会につなぎとめていたラジオからは1月18日、東大構内の安田講堂に立てこもった全学共闘会議派の学生を排除しようと、機動隊によるバリケードの撤去が開始されたことを伝えていました。
 高度成長、ベトナム戦争、安保闘争、東京オリンピック、アメリカ公民権運動など、世界も日本も激動の時代だった1960年代を、ぼくは同世代の学生運動にシンパシーをもちながらも、パッとしない青春を悶々と過ごしていました。
 政治の季節といわれたその時に、わたしはと言えば高校の紹介で就職した会社を半年でやめ、ビルの清掃をしながら夜になると大阪の繁華街の片隅の「いかがわしい」お店に入りびたっていました。そこには薬とけんかとダンスと酒とたばこで退廃的な夜を費やす、学生運動の若者とはまったくちがう若者たちがいました。ある日、店員が「おまわりだ」と叫び、みんな一斉に逃げ出し、わたしも逃げました。あくる日、店に行くと、その店はもう閉店の張り紙があるだけでした。
 今でも思うのです。あの時たくさんいた若者たちはどこに行ったのでしょう。そして、路上で石を投げ、ゲバ棒を振り上げ、機動隊に痛めつけられた若者たちも、みんなどこに行ってしまったのでしょう。1970年、わたしもまたよど号事件とビートルズの解散とともに、神戸の須磨の砂浜に意味もなく大きな石を放り投げ、わたし自身の青春とお別れしたのでした。
 ついさっきまで吹き荒れた激動の嵐が一瞬にして納まり、何事もなかったように世の中が高度経済成長へとアクセルを踏み、バスに乗り遅れるなと誰もがその新しい風に巻き込まれていく時、何者にもなれなかったわたしもまた、納得できない現実と行方不明になった夢とのはざまでもがき、時代に取り残された寂寥感に包まれました。
 「傘がない」は、そんなわたしの心情にぴったりの歌でした。一般的に社会や政治の問題よりも、恋人に会いに行くのに傘がないことが問題だと歌うこの歌は、あれだけ若者の叛乱におびえていた大人たちを内心ほっとさせ、政治に関心がない自分本位の若者を批判するためのかっこうの歌と思われました。
 しかしながら、同じ世代の若者のひとりとして、絶望感と隣り合わせの新しく開かれた時代の扉の前に立ち、ボブ・ディランの歌がそうであるように、政治や社会の既成のタブローに収まらなくなった新しい時代をたぐりよせたのだと思います。時として恋歌が政治のはらわたをえぐり、社会の薄明るい未来を透かしてみせてくれることがある、初めての歌だったのかもしれません。
 そのことを敏感に感じ取ったジャーナリストが筑紫哲也さんでした。ずっと後に被災障害者支援「ゆめ風基金」のトークイベントでお世話になった筑紫さんは、1974年、朝日新聞の特派員を経て帰国した頃、銀座のシャンソンバーで「傘がない」を聴き、「すごいのが出てきた」と思ったそうです。筑紫さんは後に「これは足払いの歌なんだ。天下国家をしかつめらしく言う世の風潮に対する足払いなんだ」と語っています。
 そしてはキャスターを務めたテレビ朝日「日曜夕刊!こちらデスク」で「傘がない」を流しました。彼は深刻な顔で自国の将来を語るような憂国の番組にしてなるものかと思っていたのでした。陽水はその放送を観て「ちょっと生意気な言い方になりますが、ああ、この人は相当、わかってるなと思いました。ジャーナリズムに身を置きながら、ジャーナリズムを突き放して見ることができる。ある意味で、ユーモアがわかる人なんだ」と筑紫さんの死後、陽水は語っています。
 それからの深い縁の中で、TBS「ニュース23」の最初のエンディングテーマ「最後のニュース」が生まれたのでした。
 井上陽水の「傘がない」は、発売日は1972年ですが、つくられたのは1970年と聞きます。井上陽水もまた、政治の季節の真ん中で「何者かになろうとして何者にもなれなかった」当時のわたしをはじめとするたくさんの若者たちと共にいたのではないかと思います。

たとえば青春は
暗い路地を走り抜けた後に広がる青空
廊下に出るその一瞬に部屋に残した風
飛び乗った列車の窓から行方不明になった
もうひとりのぼく
長い時間を貯金した忘れ物の傘のように
たとえばそれがぼくの青春
長い非常階段の踊り場で
行方不明のぼくたちが手をふっている
洗いざらしのTシャツを着て
街に出て映画でも見に行こう
まばたきをするだけで世界は変わる

井上陽水「傘がない」

忌野清志郎・井上陽水・高中正義「傘がない」

 

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2021.01.18 Mon 共に生きるすべてのひとの希望を耕すために。阪神淡路大震災の教訓

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 阪神淡路大震災から26年が経ちました。大爆発するコロナ禍の中で迎える1月17日、誰もが様々な想いで迎えることになりました。
 いのちの儚さといのちの強さ、そして、非情な社会の矛盾やもろさとともに助け合うことの大切さを非日常の中で経験し、あの日からまだ止まったままの時とまた動き始めた時…、2つの時のはざまで日本社会も世界も、そしてわたしたちも簡単に明るい未来を夢見ることができないまま、今に至っていると感じます。
 わたしは当時、箕面の豊能障害者労働センターで働いていて、被災した障害者の救援活動の救援物資ターミナルとして全国から集まってくる救援物資を被災地に届けるための事務をしていました。地震から一週間後、被災地に届けてくれていた人の助手で被災地に物資を届けに行きました。
 阪急王子駅の近くで一軒だけ開いていた大衆食堂に入りました。食堂はところどころ水が落ちてきましたが満席で、豚汁と漬物とご飯があればごちそうでした。
 高いビルがいつ崩れてもおかしくないと思うほど斜めになっていて、まっすぐな道もゆがんでいて平衡感覚がなくなりました。
灘に入ると、家々の屋根だけが残り、一面ががれきの荒野で、その下にうずもれたかけがえのない命の声なき叫びと、生きた証が煙となって足元をもつらせたあの時の風景は、街がいくらきれいに見繕いをすませた今もその後ろ側に残されています。
 わたしたちはいくつかの救援拠点に物資を下した後、須磨の一軒のお宅にバザー用品を獲りに行きました。わたしたちは救援物資のターミナルとともに、3月には救援バザーをすることになっていました。機関紙の読者から電話がかかってきて「わたしは避難所にいるけれど、家の外に置いておくからバザー用品をついでに取りにきてほしい」と言われていたのでした。地震直後に交わす会話は「生きとった?」で始まり、「家も壊れ、これからどうしたらいいかわからへんけど、命だけは助かったわ」で終わるということでした。
 そして、「棚の上からいっぱい物が落ちてきて、もう何もいらん。あんたらが神戸の障害者の救援バザーをすると知って、いまはここでバザーなんて無理やけどあんたらの地域で開いてくれて、神戸の障害者を助けたってな」と言われました。
 実のところ、わたしたちの事務所には連日山になるほどのバザー用品が宅配便で送られてきましたが、その中には送り主の住所が被災地各地の避難所になっていることもたくさんありました。そして、送られてきたバザー用品に添えて、大切なひとをなくしたひとからも「こんな時こそ助け合いや」と、わたしたちを励ます手紙が入っていました。
 わたしたちは救援活動を通じて、被災地のひとびとからも共に生きる勇気を学びました。箕面で開いた「共に生きる、すべてのひとの希望をたがやすバザー」は100人ほどのボランティアの人たちに助けられ、救援金を届けることができたのでした。

 しかしながら1995年を今振り返ると、阪神淡路大震災と4月に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件によって、日本社会が大きく変わった年だと思います。
 ボランテイア元年と言われるように、「助け合い」や「共に生きること」や「市民の力」が社会をささえ、変えていく始まりの年であったことは間違いないのでしょうが、一方で今の鬱屈した社会へとつながる道もまた、この年からはじまったように思うのです。
 1995年はバブル崩壊後、金融機関の不良債権問題など、それまでの高度経済成長の夢を捨てられないまま少しずつ薄暗くなっていく日本社会への不安が渦巻きはじめていました。その中で起きた大災害と大事件は、それまでの経済成長と重なってみえた戦後民主主義のもとで、「世界一の経済大国と世界一安全な国」が転落していく始まりだったのではないでしょうか。
 新自由主義によって社会の基礎的な富は私有化され、社会保障など公的な安心が削られていく中で、個人も国も助け合うことよりも自分の身は自分で守る自己責任と国の防衛が前面に踊り出る社会に変わっていきました。助け合うことや多様な人々が共に生きる力と、自己責任を求める大きな力という二つの力がわたしたちを引き裂き、社会の分断が広がっていったのだとわたしは思います。
 それから16年後の東日本大震災でこの2つの力は共に大きくなりながら時にはぶつかりながらも住み分けが進み、社会の分断はより厳しいものになりました。
 ここでは今もまだたくさんのひとびとを苦しめながら、それでも戦後の国策としてきた原子力至上主義を守り、貫こうとする成長神話のプレイヤーである国や企業と、その神話にゆがめられた社会の深淵に落ち込んだわたしたちの悲鳴が共存しながらグローバルな荒野を駆け巡りました。
 そして今、世界で200万人を越え、これからもどれだけの命が犠牲になるのかわからないコロナショックは、わたしたちの社会の脆弱さを断罪する審判を下しました。
 ここまでの歴史の中で何度も警告を発せられても止まらない成長への欲望、日本でも保健、医療、教育、福祉の公的サービスを異常なまでに攻撃し、規制緩和と民間委託と徹底的に私有化し、「万が一」への施策を無駄としてコスト削減し、AI技術などイノベーションによる社会のDX化によって成長神話の引き延ばしを図ってきた結果が医療体制の崩壊を招いたことは専門家に聞くまでもないでしょう。
 わたしたちは長い間続いた分断の道を軌道変換し、ひとつの道へとつながることができるかも知れない、最後のチャンスの現場にいるのだと思います。気候危機とコロナショックと世界中の飢餓と個人を幽閉する国家が、たった一人のいのちなど調査報告の「1」にも満たないと通り過ぎようとする時、わたしたちは阪神淡路大震災で学んだもう一つの道、「助け合い」と「共に生きる勇気をたがやす」道を進んでいきたいと思うのです。

ソウル・フラワー・ユニオン「満月の夕べ」
被災障害者支援「ゆめ風基金」の活動を訴える最初の拠点が長田神社でした。関西を中心に障害者の呼びかけに永六輔さんも小室等も、そしてソウル・フラワー・ユニオン(モノノケサミット)も長田神社に集まってくださいました。

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