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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2019.11.11 Mon わたしの憲法月間・誰がために憲法はある

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 10月17日は箕面文化センターで「檻の中のライオン」、24日は豊能町西公民館で服部良一さんの講演「もし憲法が変わったら・日本の未来を考える」、11月3日は扇町公園で「おおさか総がかり集会・輝け憲法!いかそう9条!」、そして、11月4日は箕面市民会館で映画「誰がために憲法はある」(みのおピースフェスタ2019上映会)と、憲法についてのイベントが続きました。それぞれの催し物の主催者が友人で、その準備に長い時間を費やし、呼びかけてこられた熱意に思いをはせれば、出不精のわたしでも参加しないわけにはいかないと思いました。

 「檻の中のライオン」についてはフェイスブックに掲載しましたように、「檻の中のライオン」の著者・楾(はんどう)大樹さんがイラストを交え、権力を憲法で縛る立憲主義を「権力」=ライオン、「憲法」=檻のたとえ話で解説し、時には落語のような軽快な語り口で話されるので、とても解りやすい講演でした。
 ただ、近々の事態は深刻で、たとえば「あいちトリエンナーレ」の企画展だった「表現の不自由展その後」に対して匿名の抗議や脅迫電話が企画展を中止に追い込んだだけでなく、国が負担すべき助成金の不交付という理不尽な事態まで引き起こすことなりました。この事件は匿名の検閲によって「表現の自由」が侵されただけでなく、その先にある戦前にも似た密告社会がすぐそばにまでやってきたことを証明して見せました。
 ライオンはすでに「檻」から出てしまっただけでなく、小さな権力をのれん分けされた匿名の小さなライオンが、反対にわたしたちを檻の中に閉じ込めようとする改憲派の政治家たちを支えているのだと思います。

 10月24日の豊能町西会館での服部良一さんの講演は、自民党結党以来の「悲願」とする改憲は、ひとえに「押しつけられた憲法」ではない「自主憲法」制定と、「誇れる日本」を取り戻し、歴史を修正・改ざんしようと戦後社会の底辺でうごめき、画策を繰り返してきたものであることを分かりやすく解説・検証してくれました。
  お話を聞いて、自民党新憲法草案はかつての天皇や軍部ではなく、「匿名のみんな」という漠然とした国民国家による支配体制のもと、「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」という、日本国憲法の三原則を否定するものであるとあらためて思いました。
 そして、安倍さんの総裁任期の2021年9月、衆議院議員任期の同年10月をにらみ、これからの一年は新憲法制定を実現するためになりふりかまわず突き進む安倍政権と、それを阻止しようとする力が激突する一年になると話されました。
 わたし個人は9条に自衛隊を明記する重大な問題性は理解するものの、「緊急事態条項」がもっとも危険で、わたしたちの日常の隅々までを脅かすものと恐怖を感じます。
 ある意味、共謀罪や秘密保護法案、海外派兵を許してしまう安保法制など、憲法を変えなくてもすでに実力行使が進行する中、最後の仕上げが「緊急事態条項」と9条の形骸化なのでしょう。大災害が相次ぎ、自衛隊への好感度が増す一方、非常事態に国会を通さず、行政府がすべての権力を握り、国権を発動できる戒厳令の復活が現実味をましていると痛感します。
 直近の天皇即位やオリンピックのエンターテインメント化や、安倍首相が吉本新喜劇に出演するなど、あまり批判もなく吉本と政権との親密さがアピールされ、国家事業であることがおかしいかもしれない「さくらを見る会」やジャニーズ・AKBグループなどの芸能関係とメディアの体制翼賛的な同調圧力と排除圧力が蔓延し、とても息苦しく感じるのはわたしだけでしょうか。

 11月3日の扇町公園での「おおさか総がかり集会・輝け憲法!いかそう9条!」は、主催者発表で1万人参加と報じられましたが、その場にいたわたしにはとても1万人の人が参加したとは思えませんでした。外周の道路を右翼の街宣車がまわっていたのでしょうか、「君が代」がむなしく流れていました。
 香港や韓国では直接民主主義を貫こうとするのに対して、わたしたちの国では選挙による間接民主主義でしか事態が動かないのが現状です。しかしながら、世界の至るところで痛みを伴いつつも街頭行動が政権をひっくり返すなど、もっとも有効な民主主義である場合があり、かつてわたしたちの国でもそうであったことも事実で、サイレントマジョリィーがぐらっと動くことも必ずあると信じて、5月と11月の扇町公園の集会には必ず参加しようと思いました。

 そして、11月4日は箕面市民会館で映画「誰がために憲法はある」(みのおピースフェスタ2019上映会)をみました。
この映画は松元ヒロが舞台で演じ続けている1人語り「憲法くん」を女優の渡辺美佐子が演じながら、彼女が中心メンバーとなり、ベテラン女優たちが33年にもわたり続けてきた原爆朗読劇を追いかけ、日本国憲法とは何かを改めて見つめなおすドキュメンタリー映画です。2019年で幕を閉じる原爆朗読劇をふりかえり、鎮魂の思いを込めて全国各地を回り、公演を続けてきた女優たちのそれぞれの思いが語られます。渡辺美佐子は初恋の人が疎開先の広島で原爆により亡くなっていたことを知り、この原爆朗読劇をはじめたといいます。
 また、映画の冒頭とラストに、日本国憲法の大切さを伝えるために日本国憲法を擬人化し、松元ヒロにより20年以上も演じ続けている1人語り「憲法くん」を、渡辺美佐子が、戦争の悲劇が二度とこの国に起こらないよう、魂を込めて演じた様子が映されます。
この映画は監督も出演者もこの映画を見るわたしたちも、迫りくる大きな力に踏みつぶされそうになる危機感に追い立てられ、共に切羽詰まった現実と映画が伴走しているようでした。監督にとって、映画の完成度などはどちらでもよく、むしろその危機感からくる息遣いがスクリーンからあふれ出て、現実が先か映画が先か、竹中労が残した「わたしたちに最後に残る自由は、自由になろうとする自由である」土壇場の現実にまで追い込まれる前に、わたしたちが憲法について、自由について、表現について考えなければならない正念場なのだと教えてくれたように思うのです。
 映画が終わり、監督あいさつがありましたが、あいさつとは思えないミニ講演で、機関銃のようにほとばしる言葉にたじたじとなりながらその言葉を受け止め、結局のところわたしたち自身が危ない現実を変えていくために勇気を持たなければと思いました。
 監督が「若松孝二の弟子だ」と聞いて、わたしはこの監督・井上淳一氏が若松プロの一員で、先日見に行った「止められるか、俺たちを」の脚本を書いた人だと知り、こんなに熱っぽく語るわけも知りました。
 ピンク映画と言われながら、同時代のわたしたちの青春を容赦なく切り刻み、いとおしくすくいあげた若松孝二の数々の映画がよみがえりました。時代に追いこされまいと疾走し、「俺は映画でたたかう」といった若松孝二の言葉が心にしみます。
 映画を見終わった後、「ピースマーケット・のせ」でお世話になっている長野隆さんと森川あやこさんのライブを聴くことができました。
 今回のライブでは、わたしが大好きなボブ・ディランの「時代はかわる」を独自の訳で歌ってくれました。この歌はわたしが高校を卒業してから足繁く通った、大阪の東通り商店街にあった「オウ・ゴウゴウ」という飲み屋兼ライブハウスでいつもかかっていました。
50年も前の曲なのにまったく色あせない歌ですが、長野さんたちの日本語訳でよみがえると、根拠もなく勇気が湧いてきました。

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2019.11.04 Mon 「村っこ太鼓」と映画「萌の朱雀」・ 奈良県十津川村 二村小学校の思い出2

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二村小学校講堂

 川沿いのバス道から山の斜面を登り、学校に着きました。車いすに乗っているKさんを玄関までサポートしたはずなんですが、今ネットに上がっている二村小学校跡の学舎を見るとかなりの階段なので、おそらく別の入り口であまり段差のないところがあったのかも知れません。
 ともあれ、会議室のようなところに案内されると5人分の弁当が用意されていました。さっそくごちそうになり、その後、校長先生が教頭先生を紹介してくださり、教頭先生から二村小学校の話を聞かせてもらいました。
 1年生から6年生まで合わせて33人の子どもたちと11人の先生で、十津川村の中でも特に普通の勉強以外に、子供たちのお父さんやお母さんをはじめ、村のおとなたちに来てもらって村の暮らしの歴史を学んだり、学校の外に飛び出して味噌づくり、キノコの勉強、野鳥の勉強、木工所で昔のおもちゃづくりなど、子どもたちの生き生きした体験学習の写真が所狭しと貼ってありました。年に一度、各学校の校外学習の発表会もあるということで、教頭先生が誇らしげに話されたのを今でもおぼえています。
 わたしたちも箕面での活動をひととおり話した後、職員室の先生たちにカレンダーのお礼ともどもあいさつしました。こんなに小さな学校に毎年40本もカレンダーを届けていたことに申し訳ないやらありがたいやらで、なんとお礼を言えばいいのか言葉が見つかりませんでした。
 「歓迎の準備ができましたので、講堂に行きましょう」といわれ、何のことかあまり理解できずに言われたまま講堂に入りました。
 するとどうでしょう、子どもたち33人全員が太鼓を前に勢ぞろい、頭にハチマキをしてわたしたちを迎えてくれました。見れば先生方も全員講堂に集まってくれました。たった5人のわたしたちのために通常の授業を返上し、歓迎の太鼓をたたいてくれるというのです。
 6年生らしき子どもの、「二村小学校、村っこ太鼓」という大きな掛け声に合わせて、子どもたちの太鼓が講堂中に響き渡りました。わたしたちは感激しすぎて涙も出ませんでした。ただただびっくりして、ドキドキしました。
学校挙げての歓迎太鼓の音が緑いっぱいの山々と谷深い清流、厳しい冬の風と透き通る空を突き抜けていきます。お腹の底まで響く振動は、講堂の床を伝ってわたしたちの心臓と共振しました。子どもたちの太鼓から立ち昇るいのちの鼓動が心を奮い立たせ、わたしたちが思いもしなかった何か、それは生きる勇気のようなとても大切なものを、山里の小さな小学校の子どもたちからもらいました。
 わたしの住む能勢でも小・中学校が統合され、ひとつの小学校とひとつの中学校になってしまいましたが、それまではそれぞれの学校が地域のコミュニティーの拠点になっていました。
 二村小学校は2010年に統合されたということですが、わたしたちが大歓迎を受けたこの頃は、間違いなく1年生から6年生までの33人の子どもたちが11人の先生たちと奇跡のような学校で学んでいたことでしょう。(もっとも、統合された十津川第一小学校も現在全校生徒数が48人だそうで、この20年に過疎化が進むのは止められないのかも知れません。)その奇跡は太鼓によって結ばれた子どもたちと村のおとなたちのきずなが生み出したものにちがいないと思いました。
 事実、十津川村では太鼓に力を入れていて、毎年8月4日に谷瀬のつり橋の上で地元OMC十津川太鼓倶楽部「鼓魂」のエキサイティングな太鼓の演奏が行われる「吊り橋まつり(揺れ太鼓)」が開かれています。
もしかするとわたしたちに太鼓を聞かせてくれた子どもたちの中で、大人になって太鼓をたたいている人がいるかも知れません。また、十津川村から都会に出てきて、故郷を心の奥にしまいながら暮らすひとが年に一度あるかないか十津川村に帰郷した時、廃校になった二村小学校のみんなで叩いた太鼓の鼓動とともに、村での暮らしが豊かな時間だったことを懐かしく思い出すかもしれません。
 わたしたちもまた、あの時の太鼓の音と子どもたちの真剣な顔が今も心に残っています。
 いずれは消えていく運命にあった奇跡のような学校で、奇跡のような子どもたちが太鼓を叩く様子を、わたしの妻が買ったばかりのビデオで撮影したつもりでしたが、撮影ボタンを押し忘れて何一つ写っていないという大失敗のおまけがついた二村小学校の子どもたちとの出会いと別れの旅でした。

 事務所に戻ると、年末大詰めに来ているカレンダーの発送に追われているうちに仕事納めとなり、年内最後の会議を待つ夕方、わたしは映画の配給会社に電話しました。この年のカンヌ映画祭で「萌の朱雀」の河瀬直美監督がカメラドール(新人監督賞)を受賞したという新聞記事を読み、わたしはこの映画の上映会をしたいと提案し、みんなの了解を得ていました。
 「萌の朱雀」は林業の低迷で暮らしが成り立たなくなった奈良県西吉野村を舞台に、少女とその家族のつつましい暮らしを通して、幾世代も受け継がれてきたいのちの営みと、家族が山を去って行くまでを静かに描く、哀しくもいとおしい映画です。
 その年の11月に公開された映画を見て、誤解を恐れずに言えば今までのわたしたちの活動がいわゆる「都会の運動」で、「富の分配」の権利要求が正当なものであったにしても成長神話に基づいたものであったことを痛感しました。
 経済成長のおこぼれを要求する「富」が都会でしか通じないのではと感じ始めていたわたしたちは、バリアフリーも困難で雇用の創出も難しく、過疎化が進む山里や海辺の村、経済成長から取り残されたように思える地域では、自然の厳しさと折り合いをつけて暮らしてきた先人たちの知恵を生かした、いわば里山障害者運動があるのではないか?
 その思いは能勢に住むようになってより強く感じるのですが、残念ながらそれをどうすれば実現できるのかいまだにわからず、わたしの生きている間に見つけることも不可能なのかなとも思っています。かろうじて2人の障害者議員を生み出した「れいわ新選組」の活動に最後の期待とシンパシーをもっているのですが…。
 ともあれ、わたしたちは「萌の朱雀」をたくさんの人々に見てもらいたいと思いました。
 まだ公開が始まったばかりなので難しいかなと思ったのですが、翌年の7月からは市民の上映運動でも配給できるということで、1998年7月18日、映画「萌の朱雀」上映会を開催しました。
 わたしはうかつにも今回の十津川村への旅で、はじめて「萌の朱雀」の西吉野村は十津川村よりずっと五條よりですが、新宮までのバス道から山間に入って行ったところで、同じ風土・地形であることを知りました。今から思えば、二村小学校の子どもたちの奇跡の太鼓が、「萌の朱雀」という映画にわたしたちを誘い込んだのかも知れません。
 わたしの住む能勢も例外ではなく、村おこしや地方再生が喫緊の課題と叫ばれて久しいですが、日本全体が人口減少を避けられない中、個々の村や町もまた過疎化を止めることはできないのかも知れません。しかしながら、それゆえに未来へつなぐ最後の希望としての教育の役割がとても大きいことを、消えゆく小さな学校の子どもたちの奇跡が教えてくれたのでした。

たおやかな木立、むせぶ陽のにおい、あふれる哀しみ。
そして、家族たちは心に深く緑をしまい、山を去って行った。
(「萌の朱雀」上映会パンフレットより)

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映画「萌の朱雀」


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2019.11.01 Fri 奈良県十津川村 二村小学校の思い出

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十津川村・谷瀬のつり橋

 10月27日、28日と、奈良県十津川村に行きました。朝早くに能勢を出てバスと電車を乗り継ぎ、奈良五條駅に到着。近鉄大和八木駅からやってきたバスに乗りました。
 そこから日本一長い長距離路線バスの旅。山高く谷深い渓谷を縫うように続くバス道を走り、JR新宮駅に至る全長168キロ。バスは五條を出発しておよそ2時間半、天辻(てんつじ)峠を超え、十津川村役場前に到着しました。
 このバス路線は2014年に一度存続が危ぶまれましたが、この地域の人々の生活を支えるたったひとつの交通手段であることから県や周辺自治体の助成もあり、また、ちょうどこのころから観光客の利用も徐々に増えはじめ、今に続いています。
 車窓をなでる透き通った風、そびえたつ山の緑、深い谷底を流れる川のきらめきに心がおどりながらも、厳しい自然と寄り添い、たたかい、取り戻せない記憶と果たせなかった夢を抱きながら生きてきた人々の矜持と歴史を感じさせる2時間半のバスの旅でした。
 十津川村は、和歌山・三重両県に接する奈良県最南端、紀伊半島のほぼ中央に位置し、面積は672.38k㎡と、琵琶湖とほぼ同じ大きさです。奈良県全体の約1/5を占め、村としては日本一の広さで、その96%が山林で中央部を十津川が南流しています。
 紀伊山地の急峻な地形のため、周囲とは隔絶した村落共同体として存在し、独特の文化、気風があり、日本の三大秘境の一つといわれていました。 2004年にユネスコ世界遺産登録された二つの道「熊野参詣道小辺路」、「大峯奥駈道」や「日本の滝百選」に選ばれた滝川渓谷の上流にある「笹の滝」など史跡や名勝も数多く点在しています。

 実は、わたしが十津川村を訪れるのははじめてではありませんでした。
 1997年12月22日、箕面の豊能障害者労働センターに在職していた時、Kさん、Yさん、Hさん、細谷しず子(ひろ子)さん、そしてわたし・細谷の5人で、2010年に廃校となった十津川村の二村小学校に、カレンダー40本を届けに行ったのでした。通常は宅急便で送るところ、40本のカレンダーを届けるために十津川村の小学校に箕面からはるばる配達することになったのは、その数年前から校長先生と約束していたからでした。
 豊能障害者労働センターは、「指導員」の給料や作業場の家賃、車の維持費を助成対象とされる障害者作業所ではありません。障害のあるひともないひとも共に働き、給料を分け合ってきた豊能障害者労働センターは、「指導員」として保障される主に健全者の給料だけが確保され、事業によって得たお金を「工賃」として分配する作業所制度(今の「障害者雇用支援継続事業」)ははっきり言えば差別的制度としか思えず、制度の枠に入ることを拒否したのでした。そして後に、箕面市との長い協働の成果として、障害者作業所では禁じられている助成金をどれだけ障害者に分配してもかまわない、全国でも珍しい「障害者事業所制度」を箕面市に誕生させました。
 1988年、豊能障害者労働センターは今まで地域で販売してきたカレンダーの通信販売を始めました。当時このカレンダーは大阪を中心とした障害者の自立をめざす障害者運動グループによって共同制作していて、販売もまたそれぞれの地域に限定されていた事情がありました。わたしたちは地域に縛られずに販路を広げるため、障害のある子もない子も共に学ぶ教育運動で利用してもらう障害児教育自主教材と抱き合わせで全国展開することにしたのでした。
 助成金もなかったこの頃、わたしたちは貧しいながらも障害者も健全者も生活に応じて給料を分け合うために、地域でお店の運営やバザーだけでなく、カレンダーの通信販売でもっと多くの収入を得る必要がありました。
 もちろん、通信販売ははじめてのことでどのように営業すればいいのかもまったくわからない中で、障害児教育自主教材との抱き合わせで、全国の学校に働きかけることを思いつきました。
 全国の教員組合や自治労などの労働組合だけでなく、わたしたちは機関紙の見本を全国津々浦々の学校に送りました。それは郵送料などの費用がかかりすぎる無謀ともいえる営業活動で、突然送られてきた北大阪の小さな障害者団体からの手紙を読んでくれる可能性も少なく、たとえ読んでくれたとしてもそれぞれの地域の障害者団体を差し置いてわたしたちの販売するカレンダーに協力してくれる可能性はほとんどないと覚悟していました。
 それでもわたしたちには夢がありました。障害児教育自主教材ともども、このカレンダーがわたしたちの知らない地域の知らない学校に届けられ、障害があるということで普通に学ぶことからも普通に働くことからも遠ざけられる理不尽な現実を変えていくきっかけになれたら…、と、そんな夢を手紙に託したのでした。
 すると、どうでしょう。手紙を送った全国の学校からぽつりぽつりと返事が返ってきました。都会の学校、山里の学校、海辺の学校、大きな学校、小さな学校…、周りの風景も学校の校舎も、子どもたちの笑顔も知らないけれど、ひとつひとつの手紙の封を開けるとそれぞれの学校の空気が飛び出しました。そして、障害のあるひともないひとも給料を分け合うわたしたちの活動を応援するメッセージを添えて、カレンダーの注文数が書かれていました。
 その中に、十津川村立二村小学校からの手紙もありました。前の年に注文を頂いた学校には次の年からは電話でお願いするようになり、毎年注文してくださるのが校長先生と知りました。そして、山深いところにある小さな学校で子どもたちが自然の厳しさもやさしさも学びながら生き生きと育っている、その姿をぜひ見に来てほしいと言ってくださいました。
 お誘いを受けながら日々の活動に追われてなかなか行けなかったのですが、翌年に校長先生が定年退職されると聞き、今までの感謝の気持ちを伝えたいという思いもあって、この年の冬、ほぼ仕事が終わった年末ぎりぎりに二村小学校を訪れたのでした。
 おそらく、今回バスで行ったのと同じ道を走ったと思います。川に沿った曲がりくねった道とトンネルをいくつか越えて、校長先生との約束通り、昼頃に二村小学校に到着しました。(つづく)

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十津川村立二村小学校跡 2010年、上野地小学校、三村小学校と統合され、十津川第一小学校となり、廃校となるが、保存されている。


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2019.10.23 Wed 「風雪ながれ旅」はワールドミュージック 島津亜矢大阪新歌舞伎座コンサート2

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 30分の休憩をはさんで第二部が始まると、尺八の素川欣也ともうひとり三味線奏者(ごめんなさい、名前はわかりません)が現れ、上手に尺八、下手に三味線の演奏、そしてバックバンドのイントロとともに中央のセリが上がり、島津亜矢が登場しました。
 そして、「津軽じょんがら節」、「風雪ながれ旅」、「津軽のふるさと」と、いわゆる津軽3部作から演歌歌手・島津亜矢のなじみのコンサートが始まりました。
 合間を縫うように会場のいたるところから「亜矢ちゃーん」と掛け声が響く中、会場の期待に応えるようにコブシをふり、体を前後左右にゆらしながら彼女は歌い始めました。
 わたしは一部の戸惑いがちの新鮮なステージとはまたちがう、久しぶりの演歌歌手・島津亜矢の舞台に心がゆすぶられ、思わず涙を流してしまいました。
 わたしはずっと以前から島津亜矢の今の姿、ポップスのボーカリストとして現在の大衆音楽のメインストリームに踊り出ることを願ってきましたが、それが現実のものになろうとする今、そのわたしでさえもポップスだけでは物足りず、ライブで島津亜矢の演歌を聴くことを心から待ち望んでいることに気づきました。
 演歌が大衆音楽の中ではごく限られた領域であることと裏腹に、音楽のメインストリームはすでに70年代からポップスに移っていて、その広大な領域からは若い才能が次々と現れ、新しいポップスが若者だけでなく、わたしのような高齢者にまですそ野を広げています。ずいぶん前から、いわゆる「懐メロ」と呼んできた歌が演歌・歌謡曲からポップスに移っていることでもあきらかです。
 島津亜矢のポップスは最近の演歌歌手の付け焼刃のような歌唱ではなく、おそらく歌手として活動をはじめたころからの努力が実を結び、すでに十分すぎるパフォーマンスを獲得していることは事実です。
 しかしながらそれでもなお、ファンの方には叱られるかも知れませんが、島津亜矢本人にとってポップスはまだエチュード(練習曲)の段階だとわたしは思います。歌唱力や声量、声質などのハード面では少なくとも他のポップス歌手に引けはとりませんが、まだもうひとつ、演歌を歌う時のように聴く者の心に突き刺さり、心のひだにいつまでも歌が残る情念のようなものが足りないと感じます。
 もちろん、それは彼女の一ファンであるわたしのわがままと承知していますが、彼女の稀有な才能はこの程度の開花で発掘されつくされるはずがないと思うのです。
 いまもてはやされている「歌怪獣」というニックネームがどこかで色あせてしまうときが必ず来るはずで、その時までにポップスのボーカリストとしての確たる立ち位置を獲得してほしいと願っています。
 それもまた、そんなに心配しないでいいのかも知れません。わたしは見逃したのですが、「さんまの東大方程式」という番組で、東京芸術大学音楽部生が選ぶ、歌が上手い歌手TOP10の9位に島津亜矢がランクインしたそうです。
 もともと、バラエティー番組の企画もので、深い意味のあるものではありませんが、それでもこの事実は若い人をターゲットとする音楽番組で、「歌怪獣」というニックネームとともに島津亜矢がブレイクしたことを意味しています。彼女彼らは島津亜矢の演歌を聴いたことはほとんどないと思われ、純粋に島津亜矢のポップスを評価した結果でしょう。ポップスを歌える演歌歌手ではなく、演歌を歌えるポップス歌手として島津亜矢が音楽シーンに躍り出た瞬間に立ち会えたことは一ファンとして何物にも代えられない喜びです。
 そして、彼女のポップスへの挑戦は演歌歌手としてのグレードをも高めることになりました。もともと演歌のジャンルでの彼女の歌唱力は高く評価されていたものの、演歌よりもはるかに広大なポップスの荒野には時代を超えたアーティストたちの格闘の記憶を蓄えた無数の歌たちが眠っていて、その多彩な表現をひとつひとついとおしくすくいあげるボーカリストもまた、歌唱力や声量、声質だけでなく、歌を詠み、歌を残すデリケートかつ大胆で多彩な表現が求められます。
 いま、島津亜矢が水を得た魚のようにしなやかさと大胆な表現力でポップスに挑戦することで、島津亜矢の演歌は大きく進化する途上にあります。以前にも書きましたが、自由詩のポップスから定型詩の演歌へのブーメラン効果から、長年夢みてきた新しい「島津演歌」が生まれようとしています。
 セットリストは忘れてしまいましたが、「愛染かつらをもう一度」、「帰らんちゃよか」、「海鳴りの詩」、「女にゃ年はいらないよ」、「大器晩成」、「凛」、「秋桜」、「娘に」「感謝状~母へのメッセージ~」など、長い歌手歴で蓄積されたオリジナルの「かくれた名曲」をうたいました。
 わたしはあらためて「風雪ながれ旅」に心を打たれました。
 「風雪ながれ旅」については何度か記事にしてきましたが、この曲は島津亜矢の恩師・星野哲郎が、門付けからカーネギーホール公演にまで昇りつめた初代高橋竹山をモデルにした作詞に、船村徹が作曲した渾身の名曲です。
 初代高橋竹山の生涯に演歌・歌謡曲のルーツを重ねることで壮大な詩を生み出した星野哲郎と、盟友・高野公男の死後、その友情と志を抱いて「演歌巡礼」と称して自ら全国各地で演歌を歌ってきた船村徹が人生の一つの到達点・集大成として生み出した「風雪ながれ旅」は、北島三郎の幾多のヒット曲の中でもとびぬけた名曲として後世に残ることになるでしょう。この歌に流れるものは川原乞食や門付け、瞽女と呼ばれた吟遊詩人たち、時代と社会の底辺でうごめきながらひとびとの悲しい夢や埃まみれの希望や切ない友情を歌い継いで来た大衆芸能の歴史そのものだと思います。
 島津亜矢は北島三郎と星野哲郎への最大のリスペクトを胸に、この魂の一曲をまさに歌の隅々、一つの言葉と一つの音にまで思いを巡らし、渾身の力で歌ってきました。
 わたしは島津亜矢がもし海外で公演することになった場合、北島三郎の許しさえ得られれば、彼女が尊敬する3人の先達の深く熱い思いを持って、日本の演歌を超えたワールドミュージックとして歌うことになるでしょう。
 あっという間に第2部のステージも歌謡名作劇場「おりょう」を最後におわりました。
 久しぶりにライブで聴いた島津亜矢は新鮮で、多少のぎこちなさはあったものの、とても大きくて大切な一歩を踏み出したすがすがしさと、さらなる可能性を感じさせたステージでした。
 この記事を書いている間にも「UTAGE!」、「新BS日本のうた」、「うたコン」と、島津亜矢が出演するテレビ番組があり、露出度が高くて追いかけられません。
 それらについては次の機会に報告します。

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2019.10.17 Thu ロック編成のバックバンドと島津亜矢の覚悟 大阪新歌舞伎座コンサート

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 10月13日、大阪新歌舞伎座で開かれた島津亜矢のコンサートに行きました。
 わたしにとって2017年6月以来、約2年ぶりのコンサートで、その間に大きくブレイクした島津亜矢がどんなステージパフォーマンスを繰り広げるのか、期待を胸に会場に入りました。
 率直に言って様変わりの舞台設営にびっくりしました。わたしが2年前まで足繁く見てきたコンサートは演歌中心で、その中で何曲かをドレス姿で歌うのがお決まりでした。
 最近のテレビの音楽番組で絶賛されるポップス歌唱やアルバム「SINGER6」の発売、今年で3回目となる「SINGERコンサート」など、ポップスのボーカリストへと音楽表現の翼を広げる彼女ですから、少しは変化があると予想したものの、これほどまで思い切ったステージになっているとは思いませんでした。
 会場に入り、客席からステージを見てまずびっくりしたのが、緞帳が上がったままで、照明を落とした状態で編成バンドの立ち位置に合わせて機材がセットされていました。
 下手はピアノ、ギター2本、ベース、ドラムス、上手はサックス、トランペット、キーボード、シンセサイザー(正確ではないかも知れません)とロックやポップスでは当たり前のセットですが、これまでの演歌のステージとはちがい、ポップス対応のバンド編成でどんな歌を何曲歌うのか、またオープニング曲は何かとより一層の期待でわくわくしました。
 やがてバンドの演奏者がそれぞれの演奏位置に座り、しばらくして下手から島津亜矢が現れました。
 オープニング曲は「時代」でした。1975年、中島みゆきの2作目シングルとして発表されたこの曲は、「今はこんなに悲しくて涙もかれ果てて、もう二度と笑顔にはなれそうもないけど」と、ひとりの少女が背丈をこえるかなしみと絶望に打ちひしがれながら、「そんな時代もあったねと、いつか話せる日がくるわ」と時代の写し鏡に映る自分を励ます…、その再生と転生の物語を23歳でつくってしまった中島みゆきの歌人生がたどった旅はすでにこの歌によって暗示されていたのでしょう。
 彼女の歌は心の闇や切ない夢、はかない恋の地平に時代の匂いを漂わせ、それでも必死に生きようとするひとびとの応援歌となりました。そして同時代に阿久悠がめざした「新しい歌謡曲」が中島みゆきをはじめとするシンガーソングライターにしっかりとひきつがれることになった記念碑的な歌が「時代」だったと思います。
 この歌は数多くの歌手がカバーしてきましたが、島津亜矢も2013年でしたでしょうか、NHKの「BS日本のうた」で歌ったのが最初ではないかと思います。その時は心の奥に秘めたものを感じさせつつ、ニューミュージックのテイストで歌っていました。
 今回、坂本昌之の斬新なアレンジで生まれ変わった「時代」は専門的にはヴァースというのでしょうか、その中でも変則的で歌の冒頭部の一回しかメロデイーが出てこないため、その余韻を効果的にするためにアカペラで歌っていて、島津亜矢の歌唱力と声量に圧倒されます。それは衝撃的で、絶望とかなしみにあふれた歌詞と相まって昨年の紅白では絶賛の嵐となりました。これまでたくさんの歌い手さんが好んで歌ってきましたが、島津亜矢の新しい「時代」を聴いてしまったら、新たにカバーするのに少し勇気を必要とするかも知れません。
 その評価は賛否両論で、この歌を「語りの歌」ととらえるひとにはその歌い出しでひいてしまうかも知れませんが、「平成最後の紅白」というステージで、島津亜矢はいくつもの批判を引き受ける覚悟でこの歌を彼女のもう一つのオリジナル曲として歌ったのでした。
 それは同時に、演歌歌手・島津亜矢が日本を代表するボーカリストへの険しい道に踏み入れる覚悟をすることでもありました。

 一部はラストの「I Will Always Love You」まで、30分のステージでしたが、今の島津亜矢にとって、ちょうどいいバランスだったと思いました。これ以上短いと前のままですし、これ以上長いと演歌ファンが欲求不満になったことでしょう。
 それにしても、観客のほとんどは熱心な島津亜矢のファンの方々と思われますが、一部のステージでは「亜矢ちゃん!」という掛け声を自粛されていて、彼女はいいファンにめぐまれていると思いました。
 「SHALLOW」、「アイノチカラ」、「我がよき友よ」、「蘇州夜曲」などを見事に歌いましたが、その中で「リンダリンダ」、「行かないで」が特筆ものでした。
 「リンダリンダ」は伝説のパンクバンド、ザ・ブルーハーツのメジャーデビュー曲で、1987年の作品です。アルバム「SINGER6」にも収録されたパンクロックナンバーと島津亜矢と組み合わせは意外と思われるかも知れません。たしかに以前は横乗りのR&Bやソウルは得意とするものの、縦のりのロックは難しい印象でしたが、ロックバラードから練習し、今ではテンポの速いロックナンバーも歌いこなせるようになったのではないでしょうか。
 ただし、「リンダリンダ」に限らずですが、ザ・ブルーハーツの曲はとてもシンプルなロックでありながらボーカルの甲本ヒロトの個性があふれるかなりの難曲です。
 「ドブネズミみたいに美しくなりたい 写真には写らない美しさがあるから…」。
 最初テレビには出なかった彼らがたまたまテレビでこの歌を歌った時、そのストレートな歌詞とヒロトの激しい動きに初めはびっくりしたものの、高校生だった時にあこがれたシュールレアリズムの詩人、アンドレ・ブルトンの「美は痙攣的である、さもなくば存在しない」という言葉とリンクし、涙があふれたことを思い出します。
 ザ・ブルーハーツ、とくに甲本ヒロトの歌心と島津亜矢の歌心はとても共通しているとわたしは思います。彼の歌は純情で直接的、一見暴力的に見えて実はとても繊細で心優しいパンクロックの王道を行く歌で、たとえば「瞼の母」の番場の忠太郎、「大利根無情」の平手造酒、「一本刀土俵入り」の駒形茂平など、純な心を抱きながら世間の風にさらされ、自分が望まない方へと進むしかない宿命を背負って散っていく若者の心情を歌う島津亜矢と重なっています。
 もっとも、島津亜矢の「リンダリンダ」は高校を舞台に女子高校生バンドの青春を描いた2005年の山下敦弘監督の映画「リンダリンダリンダ」に近い歌唱で、観客席も一体となり、会場が大いに盛り上がりました。
 一方、「行かないで」は玉置浩二の歌ですが、島津亜矢が好んで歌ってきた玉置浩二のカバー曲の中でもっともすぐれた歌唱だと思いました。
 あくまでもわたしの好みと感じ方と断った上で、彼女がポップスを歌う時、かつて演歌を圧倒的な声量と歌唱力で席巻していた時のように、歌いすぎて絶唱型になってしまう危険をはらんでいると思っています。たしかにそれを喜ぶ人たちもたくさんいるとは思うのですが、今はとにかく自由にいろいろな歌を歌える喜びにひたっている時で、それを通り過ぎた後にはじめて、「徹子の部屋」で黒柳徹子から手渡された彼女のお母さんの手紙にあったように、日本を代表する歌手のひとりとして、世界の舞台で活躍できる時がやってくると信じています。「行かないで」の素晴らしい歌唱は、その一つの兆しだと思います。
 歌い込まれ、ますます進化していく「I Will Always Love You」の余韻を残して一部のステージが終わりました。
 30分の休憩をはさみ、演歌のステージとなる2部については次の記事とします。

2019島津亜矢「時代」2019

ザ・ブルーハーツ「リンダリンダ」

玉置浩二「行かないで」

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