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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2020.09.30 Wed 話し合い、分かち合い、助け合い、能勢の未来を共につくりだすために…。

ハガキ1

 10月18日投開票で、能勢町の町長選挙と町議会議員補欠選挙があります。
 その議員補欠選挙に、私たちのグループの難波希美子さんが立候補することになりました。突然なので丁寧に準備する余裕もありませんが、わたしたちには大きな夢があります。
 全国で24番目に消滅する町と指摘された能勢町ですが、その予測は都市集中型の成長至上主義の視点からであって、人口減少がもたらす税収不足を嘆くだけではなく、先人たちが100年も200年も豊かな農地と里山を生業の中で守ってきたからこそ能勢の自然はあり、自然を生かした能勢の未来は決して暗いものではないと確信します。
 コロナ禍の中、テレワークを導入する企業が増え、都会の職場に通勤するよりも自宅で仕事をし、豊かな自然環境で子育てしたいと郊外への移住を考える子育て世代が増えつつあります。大阪市内から1時間の、豊かな自然に抱かれた能勢の暮らしは、移住を考える人にとって大きな魅力であるとわたしたちは考えます。
 ところが能勢町は農地のまま工業用地にできるようにする国の法律改正に乗じて貴重な農地を提供し、企業誘致による税収の確保を求めています。その最初の計画が、棚田100選に選ばれている長谷の棚田の下に広がる一等地の水田の一部5ヘクタールをコンクリートでかため、企業による水耕栽培のスプラウト工場を建設するというものです。
 わたしたちはコロナ禍の元で企業誘致のありかた自体が変わらざるを得ない中、時代に逆行するこの計画に反対です。そして、高齢化と後継者不足に悩む個々の農家の頑張りだけでは農業が成り立たないところにある今、能勢町行政と能勢町民に提案します。
1. 後継者不足に悩む農家への支援
2. 若い就農者のネットワークづくりと農業政策提言の受け入れ
3. 就農をめざす移住希望者への農地のマッチングなどの支援
4. 移住希望者への積極的アプローチと、住宅のあっせんや福祉、教育・保育の充実
5. 地産地消をふくむ農産物の販路拡大、加工食品の開発
6. 環境景観条例の制定、気候危機宣言自治体に
7. 町議会のオンライン中継など、議会改革
 農業を営むひともそうでないひとも能勢町行政も、能勢の自然と農業を守るために共に助け合い、分かち合い、能勢の未来づくりに参加する仕組みをつくりだしたいものです。
 農業や里山林業への支援がなくては能勢のかけがえのない自然を守れないと切実に思う難波希美子さんが能勢町議会に入れば、町議会に風穴を開ける新しい風が吹くでしょう。
 能勢の自然への深い愛と純情な心と行動力を兼ね備えた難波希美子さんを候補者に持つことは、わたしたちの誇りです。そして、どんな打算も忖度もなく、難波希美子さんを議会に送り込みたいと必死に願うわたしたちもまた、とても幸せなのだと実感します。

ホップ・ステップ・のせ
細谷常彦
大阪府豊能郡能勢町149-1 090-9879-9994

難波希美子プロフィール
1961年、大阪市生まれ
公益社団法人大阪自然環境保全協会・里山保全管理・野生鹿調査能勢担当
一般社団法人縮小社会研究会理事
PEACE MARKET・のせ実行委員


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2020.09.22 Tue 歴史がもう一度歩みを始める瞬間に立ち会っているかのように。田島隆と池田安友子の「二人でうち合わせ」・桜の庄兵衛ギャラリー

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 ひとは長い歴史の途上で、いつ音楽を発見し、発明したのでしょうか。
 その起源についてさまざまな説があるものの確実な確証がないまま、音楽はわたしたちの暮らしになくてはならないものになっていきました。
 最近のコロナ禍のさ中、もっともその活動が困難なジャンルの一つとして音楽活動があります。人はパンのみで生きられないと知ってしまったわたしたち人間にとって、自由と隣り合わせにある音楽がどれだけかけがえのないものであるかを思い知ったこの世界的・歴史的な大惨事は、後世のひとびとに代々語り継がれることになるでしょう。
 9月20日、桜の庄兵衛ギャラリーで開かれた田島隆のタンバリンと池田安友子のパーカッションは、たとえば世界中の大地ががれきに埋め尽くされてしまった後、歴史がもう一度歩みを始める瞬間に立ち会っているかのように、静かに、とても静かに始まりました。
 「はじめに言葉ありき」になぞらえて言うならば、「はじめに沈黙あり」といえばいいでしょうか。言葉による音楽ではなく、田島隆が世界のいろいろなタンバリンをたたき、こすり、ゆすり、はじくと、このひとの指はどうなっているのかとびっくりしてしまう超高度な指さばきからこぼれ、湧き上がる音たちが長い眠りから覚めた沈黙の空間を繊細に震わせます。そこに池田安友子のコンボやジャンベや法輪などから生まれたいとおしい音たちがまるで待ち合わせしていたかのようにタンバリンの音たちと出会い、楽しくおしゃべりするのでした。
 それは愛の歌を朗々と歌い上げるよりも深く、言葉では決して届かない恋する者たちのコミュニケーションへの渇望が、壊れてしまった世界をもう一度つくりだそうとするようなのです。
 わたしたちは子どもの頃、親からも学校の先生からもまわりのおとなちたちからも、大きな声でさわいではだめ、静かにしなさいとか、物音を立ててはいけないとか言われてきましたが、二人の演奏を聴いていて、物音を立ててもいいんだと教えられたような気がします。二人の演奏は音楽のルーツを旅しながら、こんな音出そうかなとか、この楽器はこんな音が出るんだとか、まわりすべての物音は生きる喜びに満ち溢れていて、世界中のそんなプリミティブな音楽を発見することこそが、武器を持つことでは決してかなえられない平和への道につながるのだと実感したのでした。

 以前に一度、桜の庄兵衛ギャラリーでピアノ・宮川真由美、アコーディオン・佐藤芳明とトリオで演奏した田島隆のタンバリンを聴いた時もびっくりしたのですが、今回の池田安友子との夫婦共演による打楽器同士の演奏は、バイオリン、ギター、ピアノなどの楽器と共同でつくりあげる音楽とは別次元の、余分なぜい肉をそぎ落としたシンプルで緊張感にあふれたものでした。
 ずっと以前に、NHK・Eテレ「スコラ・坂本龍一 音楽の学校 アフリカ音楽」を観ていて、人類誕生の地ともいわれるアフリカで音楽も誕生したのではないかという仮説が真実かも知れないと思いました。
 広大なアフリカ大陸のかけ離れた集落で、さまざまな民族の宗教行事などで歌われ、奏でられた歌や音楽が共通のリズムを持っていて、それをポリリズム(複数のリズム)と呼ぶそうです。統一したリズムを五線譜にとじこめていく音楽ではなく、同じリズムを遅らせて重ねたり、ちがうリズムを同時に刻みながら高めていくような、ある種の祝祭性を持っていて、それは奴隷貿易によって南北アメリカにも伝播していったようです。
 人間が誰かに何かを伝えようとしたとき、あるいは「わたしはここにいる」と他者に伝えようとする時、例えば最初は人骨や動物の骨を叩いたり穴をあけて笛にしたり、森や山や大地や川と、鳥や風がかなでる地球の音楽を発見したのだとしたら、叩いたりはじいたりする行為で人間の心臓の鼓動を真似たとされる打楽器を発明したことは音楽そのものを発見したこととつながっているのだと思います。
 そして、タンバリンなど世界の打楽器の打面や三味線などに、猫や蛇やヤギや牛など、さまざまな動物の皮をはいで使われていることは、ある種の音楽が人も含むいきものたちの生死と深くむすびついていたり、祝祭や儀式や祈りから音楽が誕生したことを教えてくれます。だからこそ人は切実に愛と希望と夢に満ち溢れた、生きるための音楽を発明したのだと思います。
 音を出す楽しさとともに緊張の糸がはりめぐらされた桜の庄兵衛ギャラリーに身を置きながら、わたしはなぜかずっと以前にNHKで放送された初代高橋竹山のドキュメンタリーを思い出していました。「三味線はけもののいのちをいただいてできたものだから」と、いのちある三味線とふたりで何十年ものあいだ彷徨をつづけた高橋竹山もまた、生と死を大きくつつむ広大な音楽の荒野を旅したのだと思いました。
 二人の演奏は、そんな音楽のルーツや成り立ちをたどり、人間の殺伐とした争いと支配と征服の血塗られた歴史の地下深く、幾億ものひとびとが時も場所も違っていても、たったひとつの願い…、幸せでありたい、自由でありたいと願い、ここよりほかのもうひとつの場所、そこでは生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと不可能なもの、高い所と低い所、そうしたものがもはや互いに矛盾したものとしては知覚されなくなるような、精神のある一つの点(アンドレ・ブルトン)へとたどり着き立ち戻る旅に、わたしたちをいざなうのでした。

 この日はわたしに音楽を教えてくれた豊能障害者労働センターの石原さんと行ったのですが、わたしよりも30歳も若い彼をライブなどに誘っていく時は、彼がどう感じるのかなとか、楽しんでくれているのかなとか心配してしまうのですが、コンサートが終わった後、普段は決してしないアンケート用紙に何か書くほど喜んでくれたことをうれしく思いました。
 そのあと、酒を飲みながら、「こんなひとたちがいたんやね。災害を呼び起こすような演奏はやめてほしいわ」と、仕事のかたわら自然災害による被災障害者救援活動を続ける彼なりの変化球で最高の褒めことばを語ってくれました。
 こんな素敵な時間と場所を用意してくれた、桜の庄兵衛さんに感謝します。

 二人で打ち合わせ 池田安友子,パーカッション 田島隆,タンバリン

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2020.09.17 Thu 能勢の景観は先人たちが100年も200年も自然と向き合い、守り抜いてこられた宝物

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 40年以上も前になると思います。豊中市北部の少路地区にある自然の宝庫・羽鷹池が埋め立てられるという話があり、「羽鷹池を守る会」が結成され、わたしも参加させていただきました。その頃、よつば牛乳の会員だった私の妻が箕面にはじめてつくられた産直センターでアルバイトをしていた関係で、産直センターグループや能勢農場の人たちと親しくなり、グループの長老の一人だったSさんに誘われたのでした。
 会には豊中で書店をされていた野鳥の会のひとや粉石けんの運動を進めていたひとなど、自然保護に尽力されている地域のひとたち二十人ほどが集まりました。
 最初の集まりで、これまでの経緯の説明を聞きました。周辺ではすでに宅地開発が進み、マンションもたち始めていました。高度経済成長からバブルの時代で、豊中市に限らずどこの市町村で沼や池を埋め立て、公共施設の整備のための土地を確保していたようです。
 また、もう一つの切実な理由として、羽鷹池は農業用水地で周辺の田畑への水の供給の役割をになっていましたが、後継者不足と土地バブルで農家が農地を手放し、開発業者によるマンション建設など開発ラッシュのさ中でもありました。
 少路地区は豊中市の中でもまだ開発の手が入らず、農村時代の豊中の姿をそのまま残していました。わたしはその頃、少し離れた野畑小学校や野畑保育所、野畑図書館などの近所に住んでいて、たまたま羽鷹池周辺に行った時、まだ人間の手が入らず豊かな自然が残っていてびっくりしたことを思い出します。
 この運動は、豊中市の阪急電車の駅や北大阪急行の千里中央駅などでパネル展示をしたりチラシをまいたりする一方、何度も現地に行き、また豊中市との交渉をつづけました。
 そして、今まさに池に砂が入った瞬間に、埋め立ては中止となりました。
わたしはこの運動にかかわり、最初は羽鷹池の自然が残されることのみを願っていたのですが、周辺の農地が宅地開発された時点ですでに羽鷹池は自然の宝庫ではなくなってしまったことを知りました。そして、この池の自然を守ってきたのは他ならぬまわりの農家の人たちで、農業を営むことで少しだけ自然を壊し、反対に自然に脅かされながら共生してきた彼女彼らの何百年もの暮らしそのものだったのだと教えられました。農業の将来に希望を持てないまま後継者不足に悩む農家の人たちが土地を手放すことになってしまう苦渋の心情に思いをはせることもなく、自然を守ることが正義のように思ってしまっていたわたし自身を恥じました。
 もちろん、それはわたし自身の思慮のなさから来るものであって、長年自然環境を保護し守ることの難しさと向き合い、一生懸命活動されてきた人たちにとっては自明のことだったにちがいありません。
 ともあれこの運動がきっかけになり、豊中市行政と市民との協働で羽鷹池の自然を活用した環境保全型の公園として整備することになりました。池周辺には、既存の樹木を生かしつつ幅3mの散策路を設置し、ユーカリ材を使った木舗装のデッキや水辺が望める休憩場を整備するなど、池周辺をゆったりと散策できるようになっていて、自然に配慮した公園になっているようです。
 
 つい最近になって、日本の棚田百選に選ばれている長谷の棚田の下の「岐尼ん田」と呼ばれる水田に、面積5ヘクタールのスプラウト工場をつくる計画があることを知りました。スプラウトとは主に穀類、豆類、野菜の種子を人為的に発芽させた新芽で、発芽野菜または新芽野菜ともいいます。
 この水田地域は能勢でもっとも優良と言われる農地ですが、高齢化と後継者不足が深刻で、農作業を肩代わりする人材を確保することも困難な状況です。そこで、国の制度変更で農地を農地のままで工場をつくることができるようになったため、能勢町は国の地方創生推進交付金を活用した「能勢町高度産業化推進プロジェクト」を立ち上げ、この計画を進めています。
 水田をコンクリートでかためて工場をつくる計画を知った町民からの見直しの声が上がる中、農家の後継者不足を解消しかつ税収獲得をねらい、能勢町はこの計画を皮切りに農地を使った企業誘致を進めようとしています。
 わたしはこの計画を知り、40年前の豊中の羽鷹池のことを思い出したのでした。

 能勢を訪れた誰もが感動する豊かな自然は、先人たちが100年も200年も自然の脅威とたたかい、また自然に助けられながら田畑を耕すことで守り抜いてこられたおかげたと思います。
 しかしながら、高齢化や後継者不足で、個々の農家の努力だけでは農業がなりたたなくなった今、個々の農家の農地を含む能勢町の自然財産の保全を町行政と住民が協働して担わなければならないと思います。能勢町は国の地方創生推進交付金を活用する農地の転用による企業誘致を打ち出しましたが、コロナ禍のもとで企業活動の在り方が大きく変わり、今後企業誘致はますます困難になると思います。
 むしろどの企業もテレワークを進める方向にあり、それならば都会の職場に通勤するよりも自宅で仕事をして、豊かな自然環境で子育てをしたいと郊外への移住を考える現役世代が増えつつあります。能勢町は大阪市内から1時間という立地条件から今後、移住先として注目を浴びる可能性があります。また、能勢町の農家にとっても新規に農業をしたいという若者にとっても、週に何日かは企業活動、後の何日かは農業をすることが可能になります。現在でも、能勢には若い就農者が近隣の地域よりも多いと聞いています。
 企業誘致に力を入れるよりも移住と定住を支援し、後継者不足に苦しむ農家の田畑を就農を希望する若者に肩代わりするための支援と、農産物の販路の拡大への支援策が求められるのではないでしょうか。
 地域の問題と向き合い、解決していく担い手を能勢の若い人たちにゆだね、町行政はそれを全面的にバックアップする施策の方は時間がかかり、また町の経済効果もすぐには表れないかもしれませんが、企業誘致よりも「顔の見える改革」として、これからの日本社会の地域創生のひとつの道筋になるのではないかと思うのです。
 農業を営むひともそうでないひとも能勢町行政も、能勢の農地を守るために共に汗をかき、能勢の未来づくりに参加、投資する仕組みをつくりだしたいものです。

「心の四季」より「4.山が」「5.愛そして風」「6.雪の日に」「7.真昼の星」
豊中混声合唱団第53回定期演奏会 2013年7月6日 ザ・シンフォニーホール


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2020.09.05 Sat 「上を向いて歩こう」は世界のどこの地域のどこのひとびとにも届く夢と希望と自由と愛への渇望としてのジャズ

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 朝のニュース番組で、9月1日、韓国の超人気グループ「BTS(防弾少年団)」が「ビルボード1位」の快挙を成し遂げたと報道されました。アジアの音楽シーンとしては、日本の坂本九が1963年、名曲「上を向いて歩こう」の英語タイトル「SUKIYAKI」でビルボード1位になって以来の快挙で、韓国のエンターテインメントが日本はもちろんのこと世界の音楽シーンを席巻する象徴的な出来事だと思います。
 しかしながら、それにもまして1963年から57年間、日本をはじめとするアジアの音楽シーンが目覚ましい進化を遂げてきたにもかかわらず、「上を向いて歩こう」に並び立つことがなかったこともまた特筆すべきことだと思います。

 1961年に発表された永六輔作詞・中村八大作曲による「上を向いて歩こう」は、NHKの伝説的な番組「夢で逢いましょう」で放映されると爆発的なヒットになりましたが、当時不良の音楽とされたロカビリー出身の坂本九の独特の歌い方から、当時の日本の保守的な歌謡界での評価は高くなかったそうです。
 ところがこの歌は海を渡り、最初はイギリスで「SUKIYAKI」というタイトルのインストルメンタルとしてヒットします。アメリカでは、あるラジオ番組でこの曲を流したDJのもとにスナーの高校生から坂本九の原盤が贈られ、「SUKIYAKI」というタイトルで紹介すると、ティーンエイジャーから一気に火がついて大ヒットになったそうです。
 いまのように用意周到に仕組まれ、ドラマの主題歌にしてもらうために2、3百万円のお金がいるという話もあるぐらい、楽曲も歌手もすべてがぎちぎちにプロデュースされてしまう今とはちがい、まだ巷に流れるひとつの歌が一気に海を渡り、世界的なヒット曲になる夢にあふれた時代がたしかにあったのです。
 「上を向いて歩こう」が阪神淡路大震災、東日本大震災と大きな災害が起きるたびに誰からともなく、どこからともなく歌いつがれるのは、何よりも稀有のピアニストで作曲家・中村八大のジャズテイスト、世界のどこの地域のどこのひとびとにも届く夢と希望と自由と愛への渇望としてのジャズがあるからだと思います。そのメッセンジャーとして、坂本九は恐らく日本ではじめてジャズやリズム&ブルースやロックを日本語で世界に届けたボーカリストだったことをあらためて知りました。
 1963年当時のアメリカ人にとって戦争で敵対した日本人が謎めいた民族ではなく、自分達と同じく美しく繊細な感情を表現できる人達と気付かせてくれた曲と評されたこの歌は、憲法9条とともに日本の戦後民主主義を曲がりなりにも世界に発信した最初で最後の楽曲だったのかもしれません。

 1961年、わたしは中学2年生でした。中古テレビの灰色のブラウン管の中で、坂本九が「上を向いて歩こう」を歌っていました。60年安保闘争の嵐の忘れ物のようなつむじ風が路地を走り抜け、貧困と欲望と希望と後悔が渦巻き、時代は墜落しそうになりながら重たい翼を明日に向かって必死に持ち上げていました。母と兄とわたしの3人は、雨露をしのぐだけのバラックで身を寄せて暮らしていました。わたしと兄を育てるために朝六時から深夜1時まで一膳飯屋を女ひとりで切り盛りし、必死に働いていた母のせつなさと反比例するように、そして日本全体がそうであったように、わたしたちは圧倒的に貧乏でした。そしてわたしはといえば、この暮らしから脱出することを夢見ていました。
 「上を向いて歩こう」は単なる流行り歌という以上にどもりの少年にすぐそこまで来ている青春の甘い夢と根拠のない野心を駆り立て、「ここよりほかのもう一つの場所」へと心を急がせました。隣近所から街中が、日本全体が「戦後」から離陸しようともがいていた1961年、雑音だらけのラジオと、画面がゆれては時々真っ黒になるテレビから聴こえてきたその歌は、摂津市千里丘の暗い路地から見上げた空の青さを希望に変えてくれたのでした。
上を向いて歩こう なみだがこぼれないように
なきながら歩くひとりぼっちの夜…。

 1995年の阪神淡路大震災をきっかけに永六輔さんの話を間近に聞く機会に恵まれ、「あの歌は明るい歌なんかじゃない。60年安保の挫折感から作った歌なんだ」と聴かされ、永さんの挫折感が戦後日本社会の挫折感とつながり、世界の音楽シーンを席巻したこの歌には切ない感情とささやかな希望が込められていることを知りました。
 永さんは、大災害の時にこの歌がまた歌われることに少し違和感を感じておられたようですが、一方で理不尽にも悲しみに打ちひしがれる時にこそ多くのひとに生きる勇気を届けられる歌として、「上を向いて歩こう」が世界のひとびとの心に深く広く届けられてきたのだと思います。

 そして今年、コロナ禍のなかで「上を向いて歩こう」がオンライン発信で制作されています。実はわたしは、今回に限っては「ステイホーム」と自粛を呼びかけることに使われてしまう歌の怖さを感じるのです。わたしたちの心のファシズムは監視や強制、拷問によらず、微笑みながらそっとささやくようにやってきます。
 底抜けに心やさしい永さんでしたが、政治的な問題よりも大衆芸能の中に潜む体制翼賛的な権力、権威に対して最後まで鋭く糾弾しつづけた人でした。
 今回は演歌・歌謡曲の歌手が一堂に揃った動画も公開され、島津亜矢も参加しています。以前から国内外のさまざまなカバーの中で、欧米のアーティストはもとより、日本でもポップスやブルーズ、リズム&ブルースの歌手は中村八大のメロディーラインとリズムがその人なりの表現で歌われているのですが、なぜか演歌・歌謡曲の歌手のカバーにはほとんど中村八大の音楽的野心を読み取れず、世界のスタンダードとしての匂いを感じることができません。それはきっと歌い手さんのせいではなく、その時代からずっと続く歌謡曲の古い体質のせいだとわたしは思います。
 残念ながら島津亜矢もその鎧を脱ぎ捨てるところまでは至っていないと思われますが、かろうじてこの動画の中でやや異質に感じるのは、これからの島津亜矢のブルーズやジャズとの深い出会いを暗示するもののように思います。ちなみに、演奏は歌謡曲のアレンジのままなのに、美空ひばりだけは世界に通じるジャズのような歌になっています。
 島津亜矢のためにつくられた今回のオリジナル曲「君と見てるから」は、その意味でも彼女を安易なJポップではなく、本格的なジャズやブルーズのボーカリストに進化させる可能性を秘めていて、今井了介との出会いがしらのちょっとした違和感とおそるおそるの歌唱から、やがて大きくはばたくことになるとわたしは思います。

上を向いて歩こう - 'Sukiyaki' - Kyu Sakamoto (坂本 九) 1961.avi
作詞した永さんですら「なんだその歌い方は。絶対にヒットしない」と言ったこの歌が坂本九の独特の歌い方で世界的ヒットにつながりました。
上を向いて歩こう / 忌野清志郎&甲本ヒロト
忌野清志郎が「日本の有名なロックンロール」とリスペクトをこめてこの歌を紹介して歌いだすと、わたしはなぜか涙が出てきます。
上を向いて歩こう / 美空ひばり
美空ひばりはこの曲をジャズとして歌っていると思います。演奏はもちろんスタンダードジャズそのものです。
上を向いて歩こう / 近藤房之助
これはまた素晴らしいブルーズで、わたしは箕面に小島良喜のゲストとして来ていただいた時、この歌をリクエストしたところ、「了解です。僕の歌い方は永六輔さんから許しを得ています」と言われたことを覚えています。
上を向いて歩こう /宇多田光 Utada Hikaru
これはまたびっくりでした。「SUKIYAKI」の英語版歌詞で歌っていると思うのですが、ブレイクしてすぐの10代で、リズム&ブルスがアメリカ在住の彼女の身体的文化になっているのでしょう。
上を向いて歩こう /SEKAI NO OWARI
これもまた不思議で、もっとも伝統的な歌謡曲として歌っているのに、なぜか深瀬くんの透明な声が宮沢賢治の「やまなし」の世界から聞こえてくるようで、永さんと八大さんの世界観とかさなって聞こえるのです。
上を向いて歩こう /島津亜矢【公式】歌怪獣チャンネル
島津亜矢の進化がはっきりわかる歌唱だと思います。彼女のこの歌のお手本が昔ながらの歌謡曲にあるのはやむをえないと思います。しかし、そこから出発してどちらかと言えばブルースではなく、ジャズになっていると思います。彼女がこの分野で大きく化けることを夢見ています。

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2020.08.31 Mon 同時代の予言と予感に満ちた希望の歌 島津亜矢の「君と見てるから」

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 楽しみにしていた9月28日の京都の島津亜矢コンサートも中止になってしまいました。
 彼女の場合、全国津々浦々のコンサートを長年地道に開くことで固定ファンが生まれ育ち、支えられて今年35周年を迎えたわけで、コンサートができないというのは経済的な問題もさることながら、彼女のコンサートを待ちわびる各地のファンに歌を届けられない切なさがいかほどのものか、思いはかるすべもありせん。
 またテレビの音楽番組も3密をさけるため再開できず、しばらくは過去の記録資産を活用するしか仕方がない状態が続きましたが、最近やっとコロナウイルス感染予防対策を施し、無観客で放映できるようになりました。
 しかしながら当然のこととしてひとつの番組で出演者数に限りがあるため、島津亜矢の出演機会もおのずと少なくなるのはやむをえないことでしょう。コンサートがない上に音楽番組への出演も限られ、また彼女の場合、ポップスの歌唱も望まれるとなれば、35周年記念曲「眦」(まなじり)のプロモーションもおぼつかない状況が続いています。
 そのような状況から、島津亜矢自身が開いたYouTubeチャンネル「島津亜矢【公式】歌怪獣チャンネル」は、コンサートが開けない島津亜矢にとって、彼女のファンとの絆を深めながら、最近のポップスの歌唱で興味を持ったひとにパフォーマンスを提供できる新しいメデイアになりました。
 わたしは当初それだけのものではなく、島津亜矢が新しい楽曲の発表やカバーを含む楽曲への新しいアプローチなど、ステージや音楽番組では挑戦できない冒険を試みる場としての可能性を夢見ていたのですが、まだ、わたしが当初期待したほどには刺激的なものにはなっていません。それはやむをえないことで、これだけ今までの表現手段が閉ざされ、それがどれだけ続くかわからない状況では、YouTubeチャンネルがファンのよりどころとして重要な位置を占めることになり、そうなれば新しい冒険よりもまずはファンの渇望を満たせるような彼女の定番曲にウェイトが置かれることにならざるを得ないのでしょう。
 当然、ジャンルとしては演歌・歌謡曲が中心にならざるを得ませんが、幸か不幸かそのおかげで、デビュー曲の「袴を抱いた渡り鳥」や「出世坂」、「大器晩成」、「海鳴りの詩」、「感謝状~母へのメッセージ~」、「帰らんちゃよか」など、若いころから何度も歌ってきたこれらの歌に今、島津亜矢の歌心はどんな物語を感じ、どんな物語を綴るのか、その進化が過去の映像の記録と照らし合わせることができます。
 また、「歌路遙かに」や「想い出よありがとう」などの隠れた名曲や「月がとっても青いから」、「桜」、「アイノカタチ」、「糸」、「木蘭の涙」などの定番のカバー曲、さらにはCDに収録されたものの、コンサートでは歌われないままの楽曲を再発掘し、聴くことができる喜びもあり、ファンにはたまらないサプライズを提供できる場になっていると思います。

 ファンの方々には叱られそうですがわたしは最近、彼女のポップス歌唱が大きな反響を呼ぶ中、そのことだけが取りざたされることにやや満たされないものを感じています。
 若かりし頃、彼女の演歌の歌唱に多くの方が度肝を抜かれたように、最近のポップスでもその歌唱力に衝撃と共に高い評価が与えられています。しかしながら、ポップスの領域は奥深く、実は演歌よりもはるかに長い歴史があり、楽曲の数もさることながらそれらの無数の楽曲と格闘し、歌ってきた数々の歌手たちが今も燦然と輝いています。
 島津亜矢のボーカリストとしての才能が底知れないことはわかった上で、オリジナル曲がほとんどない現状では選曲の段階で予定調和的な名曲になってしまい、カラオケ文化が要求する高音で歌いあげる高揚感と自己陶酔を求められる中、わたしが一番期待している美空ひばりに通じるソウルやブルーズになかなかたどり着かないジレンマがあります。ないものねだりのわがままファンの独り言ですが、演歌で培ったソウルの魂はカラオケ文化に凌駕されたJポップでは発揮されず、出口が見つからないように思います。
 また最近の人気演歌歌手によるポップス歌唱が、ポップスのボーカリストとして島津亜矢が地道に鍛錬し、独自の音楽性を獲得しようとしてきた努力を見えなくさせ、またぞろ「演歌歌手のポップス歌唱」へと世間の評価が逆戻りする印象があり、とても残念です。

 そんなときに、とても刺激的な楽曲が彼女にもたらされました。今井了介作詞作曲「君と見てるから」です。この楽曲はNHKラジオ第1「ラジオ深夜便」(月~日曜午後11時5分)の6~7月の曲として制作されたもので、安室奈美恵の「HERO」やLittle Glee Monster「ECHO」などで知られるヒットメーカーの今井了介氏が書き下ろしたものです。
 島津亜矢は「直接お目にかかったのはレコーディングの当日となってしまいましたが、今井さんの熱量が伝わり、この歌に大きな可能性を感じました。コロナ禍の状況だからこそ、求められる“歌”がある。深夜のラジオを通して、お聴きいただく“君”に何かを届けたい。そんな思いを共有させていただき、吹き込みに臨みました」とコメントしています。また、今井了介も自身のツイツターで「なんと、島津亜矢さんの楽曲を書かせて頂きました! 演歌では無いのですが、島津さんの『歌ヂカラ』というものを強く感じた素晴らしい体験となりました。今の時代を生きる全ての人々に贈るつもりで書かせて頂きました。」とコメントしています。
 1995年よりプロデューサーとしてヒップホップ、R&Bを中心に数多くの作品を生み出してきた今井了介をわたしは不明にも知しりませんでしたが、「君と見てるから」を聴き、これは最近のJポップにありがちな「歌い上げるだけの名曲」とはちがう、深く静かに心の地下室へと続く階段をひとつひとつ降りていくような内省的な調べ、自分へのまなざし、他者へのまなざしを愛と友情へと導く祝歌、時代の予言と予感にあふれ、心の底のもっとも柔らかい部屋から明日への夢を切なく願う恋歌、そしてそれらを大きく含みながら同時代を生きるわたしたちに、共に泣き共に笑い共に生きる勇気を育てる希望の歌…、たかだか数分の時を旅するだけの歌に込められた今井了介の想いは、島津亜矢の心と体の中で共鳴し、そのたぐいまれな人間楽器から時代の隅々までを照らし、取り残された悲しみと不安を拾い集めながら「だいじょうぶ」と語りかけるのでした。この歌は手垢のついた名曲とは程遠く、島津亜矢に歌われることによって名曲になるのでした。
 この歌に関してはまだまだ思うことがたくさんありますので、続きの記事を書こうと思います。

島津亜矢 『君と見てるから』
作詞作曲:今井了介

TEE - ベイビー・アイラブユー
作詞作曲:TEE、MIHIRO、今井了介 プロデュース:今井了介



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