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争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

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2021.06.21 Mon 微笑みのファシズムからの救済とシェルター・唐組の紅テント

 わたしが唐十郎を知ったのは1960年代にすでに世間で名前を知られるようになった少し後でのことで、おそらく「美術手帳」か「現代詩手帳」で状況劇場の記事を見たからだと思います。それから後、大島渚の「新宿泥棒日記」の劇中劇で見た「由比正雪」が衝撃的でした。
 そして1974年、状況劇場が大阪の天王寺野外音楽堂で「唐版 風の又三郎」を上演し、わたしははじめて紅テントの中に入ったのでした。麿赤児や四谷シモンはすでに退団し、李礼仙、大久保鷹、不破万作とともに、根津甚八と小林薫が人気を集めていました。たしか大阪に来たのは初めで、天王寺野外音楽堂は今はなく、それからずっと後に天王寺公園から猥雑でわくわくしたすべてが排除されてしまいました。
 最近は地方自治体の公園内にもカフェがつくられることが多くなり、たしかに地域コミュニティーの活性化のための行政サービスとして住民に喜ばれるところもあるのでしょう。
 しかしながら一方で、ミニアミューズメント施設やカフェなど、どこの町に行っても同じような公園になってしまう危険もまたあるとわたしは思います。ニュースやドラマまでもバラエティー化されてしまったテレビ番組をはじめ、すべてが均一で当たり障りのない「微笑みのファシズム」がじわりじわりと小さな叫びやつぶやきをかき消してしまう、そんな鬱屈した空気に包まれる今、公園もまた見通しの悪さや薄暗さ、夜には少し怖い場所になってしまうことのない、「安心・安全でおしゃれな空間」を要求されているのでしょう。
天王寺公園がクールなアミューズメントパークに変わるまでは、昼間から屋台の飲み屋さんでステージ衣装なるものを身にまとい、演歌を歌っていたおじさん、おばさんたちがいました。決してそれがいいとは思えませんでしたが、今ふりかえるととても懐かしく思うのです。
 もちろん、1974年当時の天王寺公園はまさに大阪を象徴するような猥雑さに満ち溢れていました。とくに野外音楽堂の付近はうっそうとしていて、夜になるとマッチがついている間だけスカートの中を見せる「マッチ売りの少女」が出没していて、その日も「兄ちゃんどうや?」と誘われたことを思い出します。
 当時は特に根津甚八ファンの若い女性が殺到していて、テントの横壁の近くで前かがみにならなければならない立ち見の状態でした。根津甚八がテントのうしろから花道に登場すると「甚八さん!」と黄色い声がキャーキャー飛び交い、わたしも苦笑しながらその熱気にあおられ、現実からあっという間に異世界に連れ去られた感じでした。
 わたしは子どものときに、たった一度ですが旧国鉄で二駅はなれた吹田駅そばの商店街の「角座」(大阪の有名な角座のパクリ)で、「瞼の母」だったか「国定忠治」だったか、大衆演劇を見に行ったことがありました。シングルマザーで朝早くから深夜まで大衆食堂を切り盛りしながらわたしと兄を育ててくれた母が、わたしたちのために用意してくれた楽しい一夜でした。
 日本中がそうであったように、子ども心に極貧で母と兄とわたしが身を寄り添って一日一日を食いつないでいたあの頃、何にも楽しいことがなく夢を見ることもなかったわたしにとって、その夜のことは忘れられません。黒い土と、電柱に付録のようにぶらさがり、カランコロンと頼りない明日を照らすだけの街灯…。どもりで学校にもまともにいかず、「いいことなんて何一つやって来ない」と暗い顔をしていたわたしにとって、芝居の中身はまだよくわからないものの舞台の光景は今まで見たこともない世界でした。
 きらきらまばゆい舞台はまわりの暗さ(それは時代そのものの暗さだったのかも知れないけれど)ににじんでいて、決してくっきりした空間を作ってはいません。それなのにどこかそのぼんやりとした光の向こうで、私をどこかに連れて行ってくれる希望が待っている気がしました。わたしは芝居が終わってもその場を立とうとせず、母から「いっぺん見たらもういいやろ」とむりやり引っ張られて芝居小屋を出ました。
 初めて唐十郎の芝居を観た時、いくつもの物語が錯綜しては引きはがされ、またひとつにつながっていく縦横無尽の展開と饒舌を越えた早口セリフの挑発的な熱量と圧倒的な難解さに取り残されるばかりでしたが、わたしはテントの中を別世界にかえてしまう灯りに、子どものときに見た芝居を思い出し、とても懐かしく思いました。
 その時以来、状況劇場から唐組になってずいぶん時が経ちましたが、毎年やってくる唐組の芝居をほとんど観てきました。紅テントの中にいると、わたしの心と体からもうひとりの自分が現れ、そのもうひとりの自分が芝居の中に溶け込んでいくような不思議な感覚になります。そうなってしまうとたとえ筋書きも芝居の背景も知らなくても、すでに観客ではなくなってしまったわたしは、不条理でも不可解でも理不尽でも、うろうろぼろぼろしながらも暗闇のかなたへとつき進むしかなくなるのです。
 そして、大団円を迎えると密室空間がぽっかりと開かれ、登場人物が現実の街の夜へと消えていこうとする時、わたしはテント小屋の中にもう一人の自分を置き忘れたまま、現実の街へと帰っていくのでした。そして、ひるがえる紅テントが去った後の物語の「その後」は巷の夜に放り出されたわたしの心のひだにべっとりとへばりついたままで、その物語の中で違う人生を生きるもう一人の自分と再会するために、わたしはまた紅テントの中へと迷い込むのでした。
 唐組は風のごとくその痕跡を消しながら街のいたるところに赤テントという異空のシェルターをつくってきました。目の前で繰り広げられる物語の展開の裏側に日本の近・現代史の暗闇が広がり、芝居の中で語られる事件や戦争や災禍がその暗闇の歴史のるつぼで再構成され、テント小屋の密室空間にせり上がってきます。
 ひるがえるマントにロマンティズムを忍ばせて唐十郎がのぞかせてくれるものは、新聞の三面記事に仕組まれた悪意に満ちた世界に抗う少年少女の純愛で、その純愛は国家もわたしたちも忘れてしまいたい日本の歴史の暗闇に見捨てられた理不尽な出来事をよみがえらせるのです。途方もない虚構から反歴史と呼べるもうひとつの歴史を呼び覚ますために…。わたしは唐十郎の芝居で、学校の教科書では学べなかった歴史を学んだのでした。

 今回の芝居は、いつも以上にせつなくかなしく寂しく感じました。それはコロナの影響で客席数をうんと減らさなければならなかったせいなのか、それとも演出を引き継ぎけん引する久保井研の変化なのかははっきりわかりませんが、わたしは久保井研の演出のギアが一段上がったような気がします。唐十郎の演劇空間を引き継ぎながらも、決して上塗りではなく、唐十郎へのオマージュを独自の演出であえて熱量を抑えて舞台化したように感じました。かつて、唐十郎が舞台に出られなくなった時にも感じたある種の覚悟を感じた芝居でした。そして、個人的には稲荷卓夫が戻ってきてくれたことがとてもうれしいことでした。

唐十郎「ジョン・シルバー」
作詞・唐十郎 作曲・小室等
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2021.06.16 Wed 36年前の警告が、コロナ禍のわたしたちのこれからを照らす。唐組「ビニールの城」

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助けて。ビニールの中で苦しいあたしを。あたしはいつもそうです。
あなたとお会いしてからも、二人の間にはビニールがあって、なにか言えない、思いのたけをあなたに告げられないと、いつも気が急いておりました。
ー朝ちゃん、ビニールを張った以上、ここはビニールの城ですー
「ビニールの城」パンフレット

 6月13日の日曜日、神戸新開地の湊川公園で唐組公演「ビニールの城」を見に行きました。緊急事態宣言下の元でのテント芝居なのでいつものように密閉にせず人数制限とマスク着用・手の消毒、そして検温して入場するなど万全の対策をされての公演でした。
 わたしは唐組の芝居を毎年観てきましたが、コロナの影響で昨年は大阪公演が中止となりました。今年も関西公演が中止にならないか不安でしたが、2年ぶりに神戸に場所を移して何とか上演されることになりました。
 入場整理券が発行される2時に合わせて会場に行き受付を済ませ、5時半の開場まで商店街の喫茶店で時間を過ごしました。友人たちと会うのも久しぶりで、よもやま話ですぐに時間が過ぎ、5時半にテント小屋に入り、開演を待つばかりになりました。
 舞台上はたくさんの人形で埋め尽くされています。そこは捨てられた人形たちの倉庫で、次の相棒になってくれる腹話術師がやってくるのを絶望的に待ち、身を潜めているのでした。後方から舞台へとひとりの男・腹話術師の朝顔が花道の途中で立ち止まり、客席を見渡すと、観客であるわたしたち自身が捨てられた人形のような感覚になりました。
 「ビニールの城」の開演です。

 腹話術師の朝顔は、8ヶ月前に別れた相棒の人形・夕顔を探し続けている。バーで酒を飲んでいると、かつて朝顔と夕顔が暮らすアパートの隣に住んでいたと話す女、モモと出会う。
 モモは新聞を被って登場し、トンチンカンな言葉を発し、背中には「3日でこさえた」赤子をネンネコに背負っている。モモを愛する夫の夕一は、ままごとのような夫婦を懸命に演じているが、モモへの愛は報われず、人形の夕顔と自分を混同させている。
実はモモは朝顔が住んでいたアパートの一室に捨て置かれていたビニ本(ヌード雑誌、エロ本)のヌードモデルだった。隣の部屋をのぞき見し、朝顔が《ビニ本》を破りもせず、ただビニールに包まれたその《ビニ本》の女を抱きしめ、「愛してる」と言ったことを知っていた。モモもまた、そんな朝顔に恋していたのだった。
 モモは「あなたが、封を切らずに持っていた、ビニ本の女です!」と朝顔を求めるが、人形の夕顔に友達以上の感情を持つ朝顔はビニ本の女には劣情しても生身のモモには身も心も開かない。モモの夫・夕一もまた、片思い同士の朝顔とモモ、朝顔と夕顔のねじれた愛の荒野を共に彷徨い、嫉妬にさいなまれながらモモをひたすら愛している。
 この奇妙な三角関係はそれぞれが行き違いもつれあい、出会っているのに出会えない、ビニールの0.1ミリよりも薄い膜が壁となり、見えているのに近づけない、触れない、決して交わらない純愛のエロティシズムに引き裂かれているのでした。

 唐十郎の芝居はどれだけあらすじや結末を言っても何の意味もないのですが、その時その時の三面記事から壮大な想像力でいくつもの物語が立ち現われ、観客であるわたしたちは加速し爆走する物語に巻き込まれ、フィクションの行く手に政治、経済、世情など現実の過酷さや悪意に心穏やかにはおられません。過剰で行き当たりばったりと思える長セリフ・言葉の叛乱は今でいうラップのように鋭く時代の闇を浮かび上がらせてくれます。
 この芝居は1985年に第七病棟のために唐十郎が書き下ろしたもので、石橋蓮司と緑魔子の熱演とともに、アンダーグラウンド演劇の最高傑作と言われています。
 1985年は高度経済成長のさ中、現物経済から金融経済へと資本の行く先が変化し、金利引き下げから株高、地価上昇と、日本経済の転換点となったバブル前年にあたります。
 金の詐欺商法で社会問題になった豊田商事事件、そして豊田商事会長刺殺事件の年でもあります。独居老人をターゲットに家に入り込み、線香をあげたり身辺の世話をしたり「息子だと思ってくれ」と言って人情に訴えるなど相手につけ込む手口は、今の振り込め詐欺へと続いています。また、校内暴力やいじめなどが社会問題化したのもこの年からで、陰湿化したいじめから不登校が増え、今では小中学生の自殺や年代を越えた引きこもりが問題になっています。
 芝居のモチーフとなった「ビニ本」は古本屋の平棚に積まれていて、ビニールにつつまれてくっきり見えないヌード写真の表紙が生々しく肉感的で、それでいてとても寂しく感じたものです。思えば電電公社が民営化されてNTTになり、通信の自由化がはじまり、その後のインターネットの普及やスマホからSNSとデジタル社会が始まったこの年、社会の急速な動きについていけないアナロググッズの典型のようでした。
 唐十郎は、「ビニ本」に抵抗や反乱、社会が期待する人間にはなれない、いや絶対にならないと覚悟するわたしたちのサイレントマジョリティを人形に託し、腹話術師がしゃべるのではない、人形が腹話術師の口を借りてしゃべる倒錯した世界を垣間見せてくれたのだと思います。
 水に沈められた人形を救出しようと、朝顔が巨大な水槽に潜ろうとする前に水槽の上から朝顔が演説ともいえる長いセリフで「諸君、豊田商事の詐欺師にお茶を出して歓迎する老人たちに、いじめに追い詰められ孤独な夜にひとり鉛筆を削っている少女に対して、それでもあなた方は何もしゃべらないのか」と物言わぬ人形たちを扇動する時、その「諸君」の中にわたしたち観客もいたのでした。人形たちはいっせいに動きながら歌を歌い、声にならない声を上げ、私たち観客と言えばコロナ禍の観劇でいつもなら「イナリ」というところを何も言えなかったものの、感動の涙が出ました。
 そしてラスト近く、ビニールの衝立をはさんでモモが朝顔に切ない心を言葉にし、私を助けて、ビニールを破ってこちらに来てと必死に訴えるのですが、朝顔はなまなましいものを避けようとします。思い余ったモモは、あなたが破れないのならとビニールに空気銃を打つのでした。「バン!」と轟くその銃撃音は二人が結ばれるのではなく、永遠にひとつになれないと別れを決断する朝顔への最後の愛の言葉だったのかもしれません。
 わたしはよく「純情な芝居観に行けへんか」と唐組の芝居を誘ったものですが、実際、彼の芝居は異性同志、同性同士、時には兄と妹との傷つきやすい純情な恋と、「時代」や「黒歴史」を演じる何人もの狂言回しとの間のバトルが繰り広がれ、時には愛が勝ち、時には引き裂かれたまま忽然と芝居空間そのものが消えてしまう通称「屋台崩し」によって、テントの外の夜の町にわたしたち観客を放り投げて終わります。そのたびにわたしは、テントの中にいた私を見失うのでした。
 少し長くなってしまいましたが、次の記事も今回の公演も含めた唐組のことを書こうと思います。もう少しお付き合いください。

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2021.06.11 Fri ニューノーマルとのたたかいからコモンウェルスの世界へ Jポップの覚悟

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僕はいま無口な空に
吐き出した孤独という名の雲
その雲が雨を降らせて
虹が出る どうせ掴めないのに
石崎ひゅーい「さよならエレジー」

以前にも書きましたが、コロナ禍の真っただ中を生きるわたしは、それまで聴いてきた「音楽」との付き合い方を忘れてしまったようなのです。そしてあらためて、今までそんなに音楽を聴いてこなかったことを実感しています。
 子どもの頃は戦後の歌謡曲が中古のラジオからも町の商店街からも近所の鉄工所や大衆食堂からも流れていました。あの悲惨な戦争がまだ遠い出来事ではなく、町のいたるところにその爪痕がのこり、大人たちもまたとりかえしのつかない後悔と戦後の混乱から抜け出せない時代、わたしにとって音楽とのつきあいはよくも悪くも戦後民主主義の儚く根拠のない夢ととともにやってきた流行歌からの出発でした。
中学から高校生になって、少し上の年代の若者がロカビリーに心酔するのを白黒テレビで見ていましたが、そのうちにアメリカンポップスを日本語で歌う和製ポップスがやってきて、わたしはザ・ピーナッツ、弘田三枝子、伊東ゆかり、中尾ミエが歌う恋の歌に胸を弾ませました。一方で、畠山みどりの「出世街道」、西田佐知子の「アカシヤの雨に打たれて」を愛唱歌にしていました。
 高校を卒業してすぐに家を出て友だちと3人暮らしをはじめた時からわたしの人生が始まりました。ビートルズと森進一、遠い空を駆けあがる高度経済成長と地方の町の黒い土が共存する混沌とした時代の風とともにやってきたわたしの青春は、同世代の若者たちの異議申し立ての運動にも、薄暗い穴倉のような喫茶店「オーゴーゴー」にたむろする若者たちのドロップアウトにも参加できず、いら立ちすさむ傲慢な心を持て余していました。
 若者の自由への欲求から次々と新しい音楽が町中にあふれかえる中、わたしはビートルズ以後の音楽と向き合うこともせず、また子どもの頃に親しんだ日本の歌謡曲も遠い彼方へと通り過ぎていきました。結局のところわたしは音楽そのものがすきなわけではなく、はやり歌が流れ流れて行き止まる袋小路にたまった時代の残りかすにわたしの心情を映し出すことで、青春のアリバイを確かめたかったのかもしれません。
 そのあいだにもさまざまな音楽が海のむこうからやってきましたし、まるで60年代末期の政治闘争の嵐が消えさった後を埋めるように、日本語によるオリジナルのロック、フォークがつぎつぎと生まれ、それが今のJポップへとつながっていきました。わたしはといえば日々の暮らしから音楽はますます遠くなっていきました。
 そんな日々を重ねて前のめりに生き急いだわたしは2007年、自分の人生すべてがむなしくなり、うつ病になりました。まるで砂漠の真ん中で砂に埋もれていくような毎日を過ごしていた私はある日、何気なくテレビをつけ、モンゴル800のドキュメンタリーを見ました。乾ききったスポンジのような心に彼らの音楽が優しく水を運んできてくれて、わたしの心はいつのまにか水をたたえ、緑の草原に生まれ変わったようでした。
 わたしは号泣しました。彼らの音楽を聴きながら、音楽が人を救うことがあることを身をもって体験しました。

 先日たまたま観ていたドラマ「警視庁第一捜査課長」で、石崎ひゅーいが出演し、路上ライブでこのドラマの主題歌「アヤメ」を歌いました。石崎ひゅーいのことはそれまでまったく知らず、こんな人がいたのかと衝撃をうけました。
このドラマはどちらかというとわたしのような高齢者向きのドラマですが、なぜか主題歌に前作まではGLIM SPANKYを採用していて、今シリーズも意外なタイアップでした。
 わたしはテレビっ子なので情報源はテレビで、わたしが大発見したように思う人はすでにブレイクしていることが多いのですが、それにしてもこの人がすでに10年近くの活動歴があり、菅田将暉の「さよならエレジー」、2020年のドラえもんの映画の主題歌「虹」の作詞作曲などで活躍していることをはじめて知りました。
 かつて阿久悠は、Jポップのシンガーソングライターに対して「自分のことや自分に近いことしか歌ってない」と批判的なコメントを残しましたが、わたしも演歌がそうであったように類型的で手垢のついた恋愛感情を吐き出すだけの音楽としか聴こえてこなかったJポップの個人的と思える歌の中に、今の時代を生き抜かなければならない若い人たちの悲鳴と、とぎれとぎれになりながら幾時代もかけてつながってきた希望が隠れていることを教えてもらいました。
 宇多田ひかる、エレファントカシマシ、高橋優、SEKAI NO OWARI、米津玄師、あいみょん、「ずっと真夜中でいたい」などなど節度のない好みですが、ここ10年あまりに彼女彼らの音楽と出会えたことはとてもうれしいことでした。
 石崎ひゅーいもまたその一人として、わたしの心に届いてくれたことは今年の数少ない幸運の一つになりました。
アメリカやイギリスなど欧米諸国でワクチン接種が進み、マスクもせずにコロナ前のようにひとびとが集う楽しさを取り戻すようすがニュースに流れ、わたしたちにもまたそんな日がやってくるのかと思う反面、こんなに悲惨な経験をしてしまった世界が元通りになることもまたあり得ないと思うのです。
 コロナはわたしたちの世界を変えたというよりも、いままで隠れていた世界のありようをえぐり出し、わたしたちが当たり前としてきた世界資本主義の終末を予言しているように思います。経済格差だけではないあらゆる格差が取り返しがつかないところにまで来ていて、もしかすると今現実と思う国家や社会は、わたしたちの日常とは絶縁された別の国家や社会なのかもしれません。
 そのことを切実に感じているのは厳しく暴力的な今を生き続けなければならない若い人たちで、彼女彼らの叫びや悲しみやささやかな願いを等身大を越えて表現する音楽が、この理不尽な世界から身を守るシェルターの役目を担っているのかもしれません。
しかしながら、ニューノーマルを合言葉に世界の支配勢力は最後のフロンティアを若者たちの瑞々しい感性に求め、終末の残りかすを食いつぶそうと野望を膨らませ、東京オリンピックの開催や大阪万博、グリーンビジネスと肥大する欲望は、若者たちのシェルターを壊してしまうかもしれません。
 そのことに気づき始めた人たちがつくりだす音楽は、壊される前に自らシェルターを廃棄し、いよいよ戦後民主主義の欺瞞から脱出し、自分たちの歌う歌を自分たちでつくってきたように、自分たちの生きる社会を自分たちでつくる覚悟をメッセージにした音楽へと進化し始めたように思うのです。
 阿久悠が70年代に挑戦し続けた時代へのアブローチは、皮肉にも彼が批判していたJポップのシンガーソングライターたちによって引き継がれていることを実感します。
 そして彼女彼らの新しい音楽を体感しながらわたしもまた、人生最後の時間を貧者による「コモンウェルス(共の富)」のネットワークにつなぎ、わたしなりに年寄りらしく生きていきたいと思うのです。

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2021.05.29 Sat 普段着の自然を堪能できる能勢に感謝!

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先日、妻と能勢農場が開いているいちご狩りに行きました。梅雨に入ってすぐで、前日まで強い雨が2、3日続き、やっと晴れ間になった時で、私たち以外は数人の女性のグループと子ども連れのグループの2組でした。
 実はこの半年余り、難波希美子さんの能勢町議会議員選挙で七転八倒の日々で、また昨年からの新型コロナ感染症の蔓延もあり、ゆっくりとどこかに出かけることがまったくありませんでした。春に桜を眺める間もなく、梅雨から初夏を迎えようとしています。
 そんなわけで、少し寂しいいちご狩りでしたが、露地植えのいちごはそんなに甘くはなかったのですが、土の下の水をいっぱい含んだ瑞々しい味がしました。
 こうして久しぶりに能勢の里山を眺めていると、わたしのように農業がまったくできない者にでも、自然はわけへだてなくとっておきの恵みを与えてくれます。
 観光の自然ではなく、普段着の自然を堪能できる能勢に感謝!です。

The Beatles - Strawberry Fields Forever

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2021.05.22 Sat 鶴瓶さんと難波さん  能勢ルネッサンス 難波希美子とともに

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 もうずいぶん前、阪神淡路大震災の2、3年前だったと思います。
 設立されたまだ日が浅かった箕面市障害者事業団の学習会に牧口一二さんが招かれた時のことでした。大阪の地下鉄にエレベーターを設置する運動など、障害者運動の創成期を担い、今も現役で活動されている牧口さんはわたしが在職していた豊能障害者労働センターの代表だった河野秀忠さんの親友で、河野さんを通じて箕面の人権講座やイベントにたびたび招かれていました。わたしも長い間お付き合いさせていただき、東日本大震災の時は2016年まで、牧口さんが代表理事をされている被災障害者支援「ゆめ風基金」で働いていました。
 その日の学習会で、「この話をすると、鶴瓶さんを変に持ち上げることになるかもしれないけれど」と、ある出来事について話をされました。
 障害者問題の番組にたびたび出演していた牧口さんにある夜、NHKから今すぐ来てもらえないかと連絡が入りました。当時NHKで若者がやってみたいことを体験し、その報告を受けながらスタジオで鶴瓶さんを囲んで若者たちが対話する番組があり、「車いすを利用する障害者と一日旅を経験する」というテーマで鶴瓶さんと話が折り合わず、牧口さんにアドバイスが欲しいというのです。
 牧口さんがNHKに駆けつけると、激高する鶴瓶さんと担当ディレクターが大声でやりあっている最中で、彼は部屋の隅でその言い合いを聞いていました。
  「ぼくは障害者のこと何も知らへんのに、そんな番組をやったらまるでぼくが障害者のことに理解がある人間と思われてしまうやないか。そんなうそのイメージ広めとうない」と言う鶴瓶さんと、番組を実現したいディレクターの言い合いは平行線で埒があかず助けを求めるようにディレクターが「牧口さん、どう思いはります?」と尋ねました。
 「鶴瓶さんのお話はもっともと思いますが、一方でわたしたち障害者はいつもそのように特別な存在、配慮しなければならない存在とされることで、世の中や社会から排除されてきたのではないかと思います。そんなに身構えないで、また番組がどうなるかとあれこれ考えず、ごく当たり前の人間として同世代の若者たちの一日の体験で感じたことをみんなで共有出来たら素晴らしい番組になると思いますよ」。
 それを聞いた鶴瓶さんは、「あっ、そうか、そうなんや。お互いにありのままを受け入れたらいいんやな」とあっさりと承諾し、番組の企画を進めることになりました。
さて、番組収録の日、100人ほどの若者たちが集まる中、まずは車いすを利用する障害者と5人の若者たちの一日旅行の様子がビデオ上映されました。当時はまだバリアフリーになっていない駅も多かった時代で、段差や階段は4人がかりで上がり降りするシーンもありました。その後、鶴瓶さんが体験した若者からの報告を聞いていくのですが、最後に障害を持つ若者に話を聞こうとしました。
 その時でした。彼の介護者が話そうしたら、「あんた(介護者)に聞いてるんやない。あんた(障害者)に聞いてるんや」と、鶴瓶さんは強い調子で言いました。 
 「あんたと直接話したい」とする鶴瓶さんに、本人は体をねじり、絞り出すように話そうとするのですが、なかなか言葉か出てきません。実は重度と言われる脳性まひで言葉が聞き取りにくく、付き合いの長い介護者でも会話に時間がかかるので、あらかじめ本人が長い時間をかけて介護者に伝えたものを代弁することになっていたのかもしれません。
 しかしながら、彼の想いを直接聞きたいと思う鶴瓶さんは納得しませんでした。長い沈黙の間に単発的に放つ彼の言葉を聞き取ろうとするのですが、まったく何を言おうとしているのか、鶴瓶さんのみならず会場にいる若者たちも、また後日に放送された番組の視聴者であるわたしたちにも、残念ながらわかりませんでした。
 「ほんとうにごめん。ぼくにはあんたの言ってることがわからへん。もう一度言ってくれへんか」。こんなやりとりが何度かあり、とうとう本人が介護者に伝えてくれと大きなゼスチャーで指示するのを見て、「ごめんな、ほんとうに彼から話してもらっていいんやな」と謝りながら介護者の若者に話してもらうことになりました。
 その間のやりとりから、「わたしたちは日本語で話してるんだから、通訳も代弁も必要ない」と強く主張した障害者運動の先人たちの言葉の意味を改めて学びました。
 あらかじめ用意されたストーリーを受け入れず、行き当たりばったりのアナーキーな出会いを求める鶴瓶さんの感性はその後、1995年から始まったNHKの長寿番組「鶴瓶の家族に乾杯」へと引き継がれていきました。

 実はこの話を書いたのは、能勢町議会議員選挙の最中で、わたしは難波希美子さんのことをおひとりでもおふたりでもわかってもらうにはどうすればいいのか考えていました。
 彼女と知り合い、たくさんのことを学ばせてもらいましたが、同時にあまりにも歩いてきた道が違いすぎて、実際のところ今でもなかなかわかりあえないところも多々あります。
 しかしながら、今はわかりあえなくても、学校で学んだだけの標準語では決して語られることがない自然が届けてくれる生きとし生けるものたちのざわめきやつぶやきや悲鳴やはげましを聞き、言葉にならない「伝えたい、分かり合えたい」と思う気持ちがあれば、いつかひとびとの心はつながっていくとわたしは思います。
 あらゆる偏見やあたりまえと言われるものから解き放たれ、限りなく開いた心にふつふつと湧き上がる瑞々しい言葉たちがかたくなな社会の扉をゆっくりと開く時、時代もまたゆっくりと動き、愛おしい未来を用意してくれる…、その時に流れる涙はうれし涙!
 わたしが難波さんの選挙にかかわったのは成り行きからともいえるのですが、難波さんの自然へのこだわりが、それどころではない困難なくらしを強いられているひとびとには耳障りでしかなく目先の選挙では不利なものであっても、能勢の将来を考える時、自然を守ることが次の世代の暮らしを守ることであると私も思うからでした。
 そしてまた、わたしは告発型の行政批判よりも、行政と住民が協働して施策を選択し、失敗したときは共に認め、また新しい道を一緒に考えるような「まちづくり」になっていったらと願っています。もちろん、それが理想論だといわれることもわかっていますが…。
 議員になった難波さんはこれまでの慣例を重んじる議会のさまざまなあつれきや不協和音、場合によって注意勧告なども受けるかもしれません。しかしながら、これまでの予定調和的ではなく議会が活性化し、また難波さん自身もほんとうに大切なものを実現するために能勢の住民のたくさんの願いを受け止め、環境保全から住民の暮らしにまで視野をもっと広げた議員になってくれると信じています。

 うれし涙が流れる時まで、わたしたちはみんな旅人です。

小室等「 いま 生きているということ 木を植えよう 」
作詩・谷川俊太郎 作曲・小室等
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