争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

2017.05.06 Sat 歌の旅人・友部正人と「祝!春一番コンサート」

5月5日、今年も箕面のKさんと毎年恒例の「祝!春一番コンサート」に行きました。
 車いすを利用しているKさんは車の運転ができるので、箕面駅で待ち合わせをして、会場の服部緑地野外音楽堂に向かいました。彼の車は上に降りたたんだ車いすを直せるようになっていて、近くの駐車場に車を止め、車いすを出す時と運転席から車いすに乗り移る時に少しだけ手助けする程度で、車いすもアシスト付きで自分で移動するため、ほとんど介護を必要としません。わたしにとっては車で連れて行ってくれる友人というわけでとてもありがたいのです。
 毎年一人で行っていたこのコンサートですが、彼と行き始めて今年で4回目になります。
 といっても11時から7時ぐらいまでずっとというのはさすがにきつく、いままでは昼から参加するようにしていました。
 今年は彼の体調がよく、昼の弁当とお茶を箕面のスーパーで買っておいて最初から参加することができました。3日間連続で開催されるコンサートですが、3日つづけてみる時間もお金もないため、おのずと3日間にわたる多数の出演者の内、お目当てのミュージシャンが出演する日に行くことになります。
 少し前は友部正人、木村充揮、山下洋輔、坂田明などがどの日に出演するか見て、当然みんな一緒に出ているわけがなく、悩みながら行く日を決めていました。
 ところが、「祝!春一番コンサート」のもうひとつの楽しみは、それほど音楽に詳しくないいわたしにとって、テレビなどの音楽番組では出会えない、「自分たちがやりたい音楽と自分たちが聴きたい音楽」をつなぐグラスルーツな場所で、素晴らしいミュージシャンと出会えることです。
 そこで出会った曾我部恵一やヤスムロコウイチは、どの日に行くか悩むぜいたくをまた一段とふやしてくれました。そして今年、わたしにとってのきら星に吉元優作が加わりました。
 今年は音楽を純粋に楽しむだけでなく、もう開催まで10日もない「ピースマーケット・のせ」のラストを飾る「友部正人コンサート」のための宣伝と、友部さんご本人への挨拶も兼ねて参加したので、特に会場の11時までに行き、チラシをまけたらと思っていました。ところが会場に着くと、友人の増田俊道さんが入場を待って並んでいるひとたちにチラシを撒いてくれているではありませんか。さらに、豊中の山口光枝さんがそれよりも早くから撒いてくれていて、とても勇気をいただきました。わたしも参加し、3人でほぼ入場するひとにチラシを撒くことができました。増田さん、山口さん、本当に感謝です。

 11時に「ぐぶつ」から始まり、豊田勇造、光玄、良元優作、友部正人、ヤスムロコウイチ、三宅伸治とつづき、最後の小川美潮まで、たっぷり7時までシャワーを浴びるように音楽が心と身体に溶け込んでいきました。
 なかでも、やはり友部正人!
 友部さんは2時くらいの一番暑い時に登場しました。
 歓声が上がり、ステージ前の広場にファンが座り込みました。
 圧倒的な存在感は、プロデューサーの福岡風太さんが呼び込みで話したように、1971年の春一番当時からのミュージシャンが亡くなっていく一方、年を重ねるごとに次々と新しいひとたちが参加してきたこのコンサートが、一般の音楽シーンにはない「あこがれ」でありつつづけていることと重なるのです。
 このコンサートに出演することが何かになるわけではないのに、ハードボイルドでありながら底抜けに優しく、音楽だけでないそのひとのすべてを受け入れ、出演者、スタッフ、観客がともにつくりあげる「市民の市民による市民のための音楽祭」に出演することがもうひとつのステイタスになっているこのコンサートそのものの存在感を、友部さんが体現しているからなのだと思いました。
あまり声の調子がよくないようでしたが、そんなことをまったく問題にしない観客の前で歌いはじめた友部さんの立ち姿は、ほんとうに春一番にふさわしいものでした。
 そして、うれしいことに演奏の間に2回も能勢のコンサートのことを話してくださり、彼にとってはめずらしいことで、感謝感謝でした。
 友部さんの歌を聴きながら、わたしは歌が誕生する泉へといざなわれていくように感じました。そこにはおよそ人間が歌を発明して以来満天の星屑の何倍ものおびただしい歌たちが眠っているのでした。友部さんはその泉から歌と言葉の破片をいとおしく掬い上げ、今また歌を必要とする心に届けてくれるのでした。
 若かった頃はひりひりとした醒めた熱情がほとばしる「青い歌」が、漂流する時代を生きる孤独な若者に勇気を届けてくれましたが、1990年代以降ますます過酷になる時代を生き抜くためには「物語」が必要で、友部さんの歌はまるで一本の映画の片隅に取り残された小さな物語のようで、わたしたちはその物語の彼方にささやかな希望を見つけることでしょう。
 半世紀に届く長い年月の間につくられ歌われた歌は時代を越えてまじりあい、いさぎよさと瑞々しさにあふれていました。とりわけこの日の2番目に歌った1990年代の名曲「月の光」が、わたしの心のもっとも柔らかい所にやさしい痛みを届けてくれました。

 月の光よ、見ていておくれ
 ぼくたちの姿をとらえておくれ
 一人の人の手足じゃないぼくたちを
 一人の人の顔じゃないぼくたちを
友部正人「月の光」1999年

 その他のどの出演者も春一番らしく素晴らしい演奏でしたが、中でも久しぶりに豊田勇造の歌が聴けたことも収穫でしたし、先ほど書いたようにヤスムロコウイチと今年初めて聴いた良元優作に惹かれましたが、なんといってもトリの小川美潮はこの日の最高のパフォーマンスの一つでした。小川美潮さんは能勢の「気遊」で一度聴きましたが、メルヘンともシュールレアリスムともジャズとも思える広がりのある歌と、シンプルで緩くポップで明るい小川美潮の歌の世界は不思議な魅力にあふれていました。
 その小川美潮のユニットに、小島良喜とともに井上陽水のツアーで何回か聞いている今堀恒雄が入っていて、どんな演奏を聴かせてくれのかと思っていましたが、かなりのロックサウンドでびっくりしました。今堀恒雄のギターはもちろんでしたが、小川美潮のボーカリストとしての力量にも圧倒されました。
 暑い一日で、暑さに弱いKさんが大丈夫かなと思いましたが、日陰を求めて移動し、途中では会場の外で涼みながらでしたが、最後まで楽しむことができました。

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2017.04.28 Fri 核抑止力より 仲良くし力  ピースマーケット音頭ができました!

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 「ピースマーケツト・のせ」のテーマソング、ピースマーケット音頭(世界仲良し音頭)ができました!
 「ピースマーケット・のせ」の実行委員会委員長・清州辰也さん(94歳)が作詞し、神戸のシンガーソングライター・加納ひろみさんが作曲しました。
 昨年の5月、わたしたちは心と物と夢が行き交う市場「ピースマーケット・のせ」を開きました。
それは能勢町内の新聞に折り込まれた一枚のチラシから始まりました。そこには高齢者住宅に住む清州辰也さんが、「孫や次の世代に戦争のない平和な世界を残したい!!」という、いのちを削ってまでも訴えようとする平和の願いが綴られていました。
清洲さんは1943年、20歳の時に学徒出陣し。南方軍に配属されました。1944年、フィリピンからベトナムへの輸送中、ボロ船のただ一隻の輸送船の機関が故障し漂流2週間、1000人余りの乗員が一滴の水も一粒の米もない絶飲食を強いられました。
敗戦をベトナムで迎え半年間の俘虜生活をへて1946年3月に帰国。大阪駅からは大阪城だけしか見えず、ひろがる一面の焼け野原に立ち、「戦争だけは二度としてはならない。」と強く決意したといいます。
戦後70年、第二次世界大戦による死者は5000万人とも8000万人ともいわれ、日本の地でもアジアの地でも理不尽に奪われたいのちが帰るべき故郷もなく、寄る辺ない夜と朝を漂泊しているというのに、世界は今また次の戦争の準備をし、他国の民を傷つけています。
軍事力を背景にした脅しの外交が国を守り平和への近道と考えた過去の過ちを忘れ、すべての国民を監視し、「国(国体)を守る」ためには多くの国民や一部の地域を犠牲にしてもかまわないと「前線基地」を沖縄に配備するわたしたちの国の姿は、戦争で犠牲になったおびただしいたましいが願い、清洲さんをはじめとする戦争を体験した人々が望んだ「未来」と言えるのでしょうか。
 軍事力を持たなければ国を守れないという観念にとりつかれた北朝鮮の止まらない暴走と、強大な軍事力で朝鮮半島を極度に緊張させるアメリカ…。その許しがたい行為の元で、数多くの人々が心を固くし、不安と恐怖の夜を過ごしていることに、心が張り裂けそうになるのはわたしたちだけでしょうか。
 世界で唯一の被爆を体験し、世界に先駆けて「二度と戦争をしない」と宣言したわたしたちの社会、東アジアの当事者としてなによりも話し合いで緊張を和らげようと呼びかけるべきわたしたちの国が、即座にアメリカの軍事戦略に積極的に参加し、北朝鮮の軍事力行使の標的となる道を選んでしまっていることを、わたしたちは許してしまっていいのでしょうか。
 わたしたちの国は沖縄を植民地としただけでなく、この国全体がアメリカの植民地になったと錯覚してしまうほどです。そしてバラエティと化した昼のニュース番組を他人事のようにぼんやり見ている自分自身の姿にうすら寒くなるのです。
 緊迫感と無力感に覆われる今だからこそ、わたしたちは「ピースマーケット・のせ」を開く意味がますます深くなったと思っています。
 
世界各地で紛争やテロが絶えない一方で、武力だけに頼らず紛争やテロをなくそうとする必死の努力もまた、日本をはじめ世界の人々によって進められていると信じています。
日本だけでなく、世界各地で異議申し立てをするひとびと、自由を求めて活動を続ける人々がいます。わたしたちもまた、「誰も傷つかない、誰も傷つけない」平和で安心できる社会を願って、彼女たち彼たちと青い空と心を共にしたいと思うのです。
「そんな甘い考えで、家族も国も自分も守れない」という声が大きくなっています。しかしながら、わたしは思うのです。
1962年、キューバに核ミサイル基地の建設が明るみになり、アメリカがカリブ海で海上封鎖、アメリカ合衆国とソビエト連邦との緊張が高まり、全面核戦争寸前まで達したキューバ危機が避けられたのは、最終的には当時のケネディ大統領とフルシチョフ首相との書簡のやりとりによる話し合いにあったことを…。
 ロバート・ケネディは著書「13日間 キューバ危機回顧録」で、「キューバ危機の究極的な教訓は、われわれ自身が他国の靴を履いてみる、つまり相手国の立場になってみることの重要さである。」と書いています。
 「武力なしで平和は守れない」という声高で乱暴な主張がもてはやされますが、武力によって平和が守られたことがないということもまた真実なのです。
そして、なによりも武力を行使してはいけないのは、その後の話し合いで平和が実現しても、一部の、いや多くの人々のいのちがその最初の武力によって奪われ、人々を傷つけてしまうことなのです。その事実を「多少の犠牲は仕方がない」と言い放つことは、決して許されないと私は思います。
 5月14日の「ピースマーケット・のせ」まであと2週間になりましたが、緊迫した状況の中で、里山能勢から声を限りに叫びたいと思います。

核抑止力より 仲良くし力
武器抑止力より 仲良くし力
21世紀は 仲良くし力
PEACE MARKETは 仲良し力
のせからのせのせのせまくれ
あっちでもこっちでものせまくれ
世界全部をのせまくれ のせまくれ
ハァイ ソレ ヨイショ

>「ピースマーケット音頭(世界仲良し音頭)」
作詞・清州辰也 作曲・加納ひろみ




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2017.04.25 Tue おお せつなやポッポー 友部正人の「乾杯」と浅間山荘事件

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乾杯 取り残されたぼくに
乾杯 忘れてしまうしかないその日の終わりに
乾杯 身もと引き受け人のないぼくの悲しみに

おお せつなやポッポー
500円分の切符をくだせえ
友部正人「乾杯」

 1972年に発表されたこの曲は、同年の連合赤軍浅間山荘事件を取り上げた、トーキングブルースです。
 あさま山荘事件は、1972年2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件です。
機動隊の人質救出作戦が難航し、死者3名(うち機動隊員2名、民間人1名)を出しました。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕されました。
2月28日は酷寒の環境における警察と犯人との攻防、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、NHK・民放を合わせたテレビの総世帯の視聴率は午後6時26分に89.7%に達し、国民のほとんどすべてがテレビを見ているという空前の出来事でした。
 わたしはこの頃、フーテンのような暮らしから小さな町工場に就職して2年がたった頃で、ようやく仕事にも慣れ、極度の対人恐怖症も工場の中では少しずつ解消されてきた頃でした。
 この日は仕事が終わった後、普通ならすぐに帰るところ、卓球をしながらテレビの中継を見ていました。そして、自分がこの社会のどこに立っているのか自問しつづけました。
 というのも、自分がお茶の間で、仕事場で、町の電器屋のテレビの前で、現実に今起こっている事件を卓球しながら、コーヒーを飲みながら、酒を飲みながらまるでドラマを見るように機動隊員の死までも傍観し、人質の女性の安否を気遣い、犯人たちの非道をなじる側の人間に洗脳されていく、もう少し正確に言えばそのようにふるまわなければならないと実感したからでした。
 テレビ報道は、「安全な場所」にいるわたしたちに犯人逮捕までの長い道のりを映しつづけることで、正義とやさしさをもって反社会的な行動を極悪人と断罪することを要求していました。
 思えば、今数多くの芸能人が時事評論家になり、「真実」より「印象」やパフォーマンスで大切なことがかくれたまま、薄明るい闇に次々と消えていくニュースバラエティが席巻していますが、あさま山荘事件の報道はその最初のひとつでした。
 この事件以来、マスコミ報道は事件をさまざまな角度から検証し真実にたどりつくことより、わたしたちをひとつの方向に誘導し、国や社会が「善良な市民」と認める人間になる「洗脳教育」をするようになったと思います。

 この事件から45年、わたしたちは見事に傍観者、サイレントマジョリティとして愛される存在とみなされるようになってしまいました。しかしながら、サイレントマジョリティという大衆がすでに崩壊してしまったことも事実で、分衆から孤衆へと追い詰められたわたしたちはサイレントマイノリティとして復活する時が近づいている予感もあります。
 たとえば、「世界の終わり」というバンドに集まる若い人たちにとって、このバンドは世の中の暴力から身を守るシェルターの役割を果たしていますし、高橋優に集結するひとたちもまた、自分の肉声であるべき人生をもとめていると思います。「エレファントカシマシ」もまた、ますます過酷になって追い詰められたわたしたちが、「さあ、がんばろう」と疲れた体を奮い起こす応援歌を歌いつづけています。
 45年も前に、友部正人の「乾杯」は、そんなメディアバイパスのもとで傍観者であることの危険を説得力のある語りで表現しています。そして、1970年代初め、まだ激しかった政治の季節のほてりが冷めやらぬ頃、考えるよりもまず行動することにあこがれた青春の青さを一気に凍らせた浅間山荘事件の人質が、実は「ヤスコ」さんだけではなく、テレビを見ていたわたしたち全員が国家の人質であったのだと、気づかせてくれたのでした。
 
おお せつなやポッポー
500円分の切符をくだせえ
 この歌詞は高田渡を中心に結成されたジャグ・バンド「武蔵野タンポポ団」の「ミッドナイトスペシャル」から引用されたもので、もともとアメリカ民謡を1934年にレッドベリーが作詞したものです。
 さらに、「500円の切符をくだせえ」という歌詞はラングストン・ヒューズの詩「75セントのブルース」から来ていて、浅川マキの「夜が明けたら」もこの詩に触発された歌だと思います。
 木島始の訳詞で紹介されたこの詩をわたしに教えてくれたのは寺山修司でした。黒人差別とたたかったラングストン・ヒューズのこの詩は海を越え、高度経済成長の華やかさの陰で鬱屈し、心を閉じ込めないと生きていけないと思ったわたしの1972年に届きました。
「どこへいくかなんて 知っちゃあいねえ ただもうこっからはなれていくんだ」
 ヒッピーでありませんでしたが、この世の中のすべてから脱出したい…。その思いはわたしだけではなく、たくさんの人々が持っていた感情で、友部正人は傍観者の心情を歌うだけでなく、傍観者から脱出する汽車に乗り込んだのだと思います。
 そして、今もまだ「銀河鉄道の夜」のカムパネルラのように、大人になったジョバンニを探して旅を続けているのだと思います。

おお せつなやポッポー
500円分の切符をくだせえ

友部正人「乾杯」

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2017.04.24 Mon 能勢を未来する!井戸端会議がはじまる。能勢町議会議員選挙に大平きよえさん当選!

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 4月23日に投開票された能勢町議会選挙で、大平きよえさんが当選を果たしました。341票と前回より110票ほど少なく、順位も9位と下位の当選ではありますが、400票以上の得票数の上位7名の候補者は公明党2人と、自民党系保守候補4人をふくむ各地区代表と言ってもよく、大平さんのように確固とした組織力のない町民手づくりの選挙で341票は誇っていい結果だと私は思います。
 前回の453票は新人の女性候補で、わたしの住む大票田の松風台を代表するイメージも重なりかなりの期待が寄せられた結果で、今回の得票数は実態にあったものだと思うのです。というのも、旧村地域の力が強い中で新興住宅地の松風台の地域代表というより、る能勢町全体の未来を生活者の視点・女性の視点から、町民参加で考える大平さんの提案が受け入れられるにはもう少し時間を必要とするのだと思います。
 今回の選挙の結果は、旧来の各地域主導の守りをがっちりと固めることを多くの町民が望んだ結果として厳粛に受け止める一方で、新しい風もまた吹き始める予感を感じさせます。
 ひとつは、400票以下の当選者が、「能勢らしく能勢を変える」ことを目指していることと、新しく誕生した若い議員が瑞々しい感性と行動力で能勢町の課題と立ち向かう意気込みに期待が持てるからです。彼女たち彼たちより年齢が高く経験も豊かな大平さんが、それぞれのめざす道は違っても、夢を語り合い、町民と共に切り開く未来を模索し、協働してくれることを願っています。その意味において、投票率が58.92パーセントと過去最低だったにも関わらず、無投票はよくないとぎりぎりに立候補した候補者が惜しくも落選したものの217票を獲得したことはいわゆる泡沫候補ではなく、しっかりとしたビジョンを持った立候補であったことは特記すべきことだと思います。
 投票用紙は小さな紙切れで、そこには投票した町民が能勢の未来を共に歩むべき違った候補者の名前が書かれているだけですが、それはまた我が町・能勢の未来からの手紙なのかも知れません。
 「能勢を未来する!里山井戸端会議」がはじまります。。

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2017.04.22 Sat 能勢町議会選挙と映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」

 1999年に制作され日本でも2000年に公開された映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は、アメリカを代表するギターリスト・ライ・クーダーが国際舞台から忘れられていたキューバの老ミュージシャン達と演奏、制作した同名のアルバム『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が大ヒットとなったのがきっかけで制作されたドキュメント映画です。
 ライ・クーダーの友人で「ベルリン・天使の詩」の監督・ヴィム・ヴェンダースによって、キューバ国外にほとんど知られていなかった老ミュージシャン一人一人の来歴、演奏・収録シーン、キューバの光景を織り交ぜたドキュメンタリー映画となっています。アムステルダム公演のシーンに始まり、カーネギーホール公演まで、海外公演の様子も映し出されています。
 彼らがカーネギーホールを最後に華やかな演奏旅行を終え、自由の女神と、そびえたつ繁栄の町・ニューヨークの夜景を見つめます。
 それまでの貧しいキューバの町並みと路地とこわれかけた建物を見続けてきた観客のわたしは、彼らがこのまま亡命するのではないかと思いました。
 若い頃はアメリカに経済的にも文化的にも支配されていた中で彼らの音楽があったはずで、久しぶりに繁栄するアメリカ文化に触れ、彼らの心がなつかしさとせつなさに埋め尽くされるのが画面から伝わりました。
 けれども、彼らはキューバに帰ってきます。そして、薄汚れた壁には「革命は永遠だ」という言葉がにじんでいるのでした…。
 わたしはなぜか、今回の能勢町議会議員選挙で、大平きよえさんの街宣車を見てこの映画を思い出したのです。
 大平さんの街宣車のスピーカーから聞こえてくるのは、この町に暮らす女性のとつとつとした訴えで、大平さんの演説もまた失礼ながら他の候補者の流ちょうな話し方とは程遠く、それがわたしには快く聴こえる以上に涙が出てきました。ずっと昔、箕面の八幡たかしさんや豊中の入部香代子さんの選挙をした時のことです。言語障害を持つ脳性マヒの障害者が街宣車や電話で訴えるのですが、何を言っているのかわからないのです。それでもひとが必死で何かを訴える時、多くの人に無視されても何人かのひとが必死でその話を聞こうとするのを目の当たりにし、まだまだ人の世は捨てたものではないと思ったものです。

 能勢町は消滅可能性都市として全国24位にランクされています。町を活性化し人口減少を食い止め、農業など地域の産業を興し雇用創出をはかる…、それらが急務であることは間違いないのかも知れません。
 しかしながら、日本社会全体で人口が減少していくとされている中、どの地域社会においても、他の地域から人もお金も流入させ、他の地域に人もお金も仕事も流出させない競争にのみ駆り立てられるのは、少し違うようにも思うのです。
 キューバの老ミュージシャンが華やかなアメリカから、貧困でも自分の町に帰ってきたのは我が町に誇りを持っているからなのだと思います。
 能勢町を支えてきた旧村と言われる地域の住民も、わたしのように能勢の自然に魅入られてやってきた新住民も、誇るべき我が町・能勢を愛する気持ちに違いはありません。
 そして、消滅可能性都市と認定される我が町・能勢は、そのような認定をする都市型の繁栄に憑りつかれた20世紀のビジョン、成長率ではかる豊かさではなく、わたしたち住民自身が里山能勢をささえてきた先人たちの知恵を生かし、生活者の目線で助け合える地域社会を町行政と町民と町議会の協働でつくりだす、いわば里山民主主義の入り口に立っているのではないでしょうか。
 大平さんはまさにそのことを一期目の町会議員としてこの4年間、「協働とは何か」と訴えてきたのだと思います。
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