争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

2018.03.12 Mon 福島の障害のある子どもの保養プロジェクト「ゆっくりすっぺin関西」を応援するチャリティーコンサート

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 東日本大震災から7年が過ぎました。あらためて、犠牲になられた2万人以上のたましいに哀悼の意を表します。
わたしは豊能障害者労働センター在職時、阪神淡路大震災までは豊能障害者労働センターのお金づくりを何よりも優先し、他のことを考える余裕はありませんでした。
 豊能障害者労働センターは障害のあるひともないひとも共に働き、ほんとうに綱渡りのような運営で障害者スタッフもふくめたみんなでお金を分け合ってきたのでした。
 しかしながら、阪神淡路大震災で6500人に及ぶ命が奪われ、多数の人々が想像を越える困難な状況で苦しんでいるというのに、自分たちだけの活動を進めることなどできるはずもありませんでした。
それからの豊能障害者労働センターの救援活動と支援活動を通して、被災した人たちのほんとうの苦しさ、悲しさ、絶望をわかるはずはなくても、寄り添ったり想像することから「共に生き、幸せになる」遠く険しい道のりの一歩を歩みだすことはできるのではないかと思うようになりました。
 その思いは2011年から5年間、被災障害者支援「ゆめ風基金」のスタッフとして東日本大震災の被災障害者救援活動に参加することで、より強く感じるようになりました。
 東日本大震災から7年、被災地の地域性や経済格差などから復興や再建が進む町と難しい町との間の分断や格差が問題になっています。特に福島県では地震・津波に加えて原発事故により、今も5万人を越える方々が県内外で避難生活を強いられています。また県外に避難した子どもたちへのいじめが頻発し、社会問題化しています。
 昨年からは自主的に避難したひとたちが仮設住宅を追い出され、今年からは東電の賠償金も打ち切られ、生活を立て直すために借り入れたローンの支払い猶予の特例など少しずつ打ち切られ、当初の困難とは違った厳しい現実があると言います。
 それがもっともはっきりとわかるのは、原発事故による避難指示区域が解除され、「帰れますよ」ではなく、「帰りなさい」と言われ、避難先を追われて懐かしいはずの故郷に帰ろうと思っても、すでに帰るべき「故郷」はひとびとの心の中に怒りと悲しみと絶望と共によどみ、あったはずのコミュニティも大地も遠いかなたにかすむだけで、こんな状態で故郷に帰れるはずがないというのもまた真実だと思うのです。
 この7年間、賠償金をもらっていることをねたまれたり非難されたりと、原発避難地域に住んでいたことをひた隠しにし、身を潜めて生きてきた人びとにとって、「復興」とか「再建」とは縁がないどころか、彼女彼たちの現実をより厳しくするものですらあることでしょう。マスコミが「復興」や「再建」に焦点を当て、遠く離れたわたしたちもまた明るく希望を語る声にほっとする話題を求めるのは、単に誰もが幸せであってほしいと願う純粋な気持ちからだけでなく、その裏にあって、できるだけ早く復興という名の幕引きをしようとする国の思惑が見え隠れしています。
 福島の豊饒な大地と文化を壊した原発を再稼働し、一方で原発難民を生み出す「棄民」政策は、そのまま沖縄の人々にも刃を向け、さらに大きく見れば被災者全員を自己責任で暮らしを取り戻せという、「脅し」の政治だとしか思えません。
 これからの2年、東京オリンピックの開催までに原発による放射能汚染問題が一定の解決をするという国や安倍政権は、原発事故による放射能の被害者を隠すことで国の内外に原発安全宣言をしようとしているのでしょう。
 安倍首相がオリンピック招致のためのアピールで宣言した「アンダーコントロール」が、いかに無責任であったかは、実はおそらく海外のひとたちの方がよく知っているのかも知りません。

 震災直後、障害のある子どもたちが避難所ではなく、車の中や危険な自宅で過ごさざるを得ないことがありました。今でも福島県では障害のある子どもとその家族が放射能の不安を抱えながらも住み慣れた町を離れられず心を固くして暮らす現実があると聞きます。
 福島の障害のある子どもの保養プロジェクト「ゆっくりすっぺin関西」は、代表の宇野田陽子さんと豊能障害者労働センターの出会いをきっかけに、福島県の障害のある子どもたちが放射能をはじめとするさまざまな不安から離れて心身を休め、リフレッシュしてもらおうと2014年から活動を始めています。保養という本来の目的を大切にしつつ、福島県と関西の交流や出会いの場としての役割も果たしてきた実績に敬意を表します。
 「遠く離れて暮らしていると、私たちはどうしても「福島の子どもは」とか「東北の人は」などと人を束ねるような表現をしてしまいがちになるように思います。そうではなく、原発事故を防げなかった責任をどう引き受け、原発事故後の世界でどう生きていくのかを考え続けつつ、小規模でも人間関係と信頼感を大切にした関わりを育てていけたらと願っています」(宇野田陽子)。
 失礼ながら細々とした活動ではありますが、「ゆっくりすっぺin関西」は震災7年が過ぎたこれからが、とても大切な活動だと思います。
 そんな「ゆっくりすっぺin関西」を応援しようと、7月11日、不思議な縁と偶然が折り重なってチャリティー・コンサートを開くことになりました。箕面市出身でドイツで演奏活動をしている吉田馨さんの協力によるもので、彼女が演奏家の友人に声かけし、ボランティア活動として駆け付けてくれることになったのでした。
 彼女・彼たちがチャリティー・コンサートを開いてくれるのは奇跡といっていいでしょう。しかしながら、その奇跡を起こすのは、すべての音楽がいつの時代も自然災害や戦火やテロによって失われてきた無数のたましいが漂う大地や森や海や空と、愛を必要とする心から生まれ、愛を必要とする心に届けられてきたことを信じる演奏家たちの過激なやさしさと情熱以外の何ものでもないと確信します。
 7月11日、阪急箕面駅前のサンプラザ1号館の中の箕面文化交流センターでのコンサートは、わたしもそうですが日頃クラシックとはなじみのない人でも普段着で楽しめます。
 巷のクラシックのすばらしさを感じてもらい、あわせて福島の障害のあるこどもたちの保養プロジェクト「ゆっくりすっぺin関西」のことを一人でも多くの方に知ってもらいたいと思います。

忌野清志郎 LOVE ME TENDER 【放射能はいらねぇ!】

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2018.02.27 Tue 雪の静寂に影絵のように震える無垢な愛の歌。島津亜矢「雪の華」・うたコン

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 少し前になってしまいましたが、1月30日のNHK「うたコン」に島津亜矢が出演し、「雪の華」を歌いました。
 島津亜矢の歌を聴く楽しみのひとつは、彼女がまだ進化中で、同じ歌でもその進化の道のりが現在進行形で聴き分けられるところにあります。もちろん、その時々の体調や個々の状態で歌が変わるのは当たり前のことで、もっと時がたち年齢を重ねればどこかで衰えを感じる時が来るのも覚悟しなければならないのでしょう。
 しかしながら当面そんな心配は全くなく、未踏の高みに向かって一歩一歩彼女の歌が豊かに変わっていく様子をリアルタイムで見守る極上の楽しみはなにものにも代えがたく、彼女のファンであってよかったと思う瞬間でもあります。
 もちろん、オリジナルでもカバーでもその悦楽は変わらないのですが、世の中には何億以上の歌がうまれ、何年何十年もの間秘密の場所で眠っている歌たちを静かに、いとおしくよみがえらせるということでは、カバーの方がオリジナルよりもボーカリスト・島津亜矢の可能性が広がるのかもしれません。
 今回の「雪の華」は初めての歌唱のように思うのですが、数々のカバー曲の中でもとても刺激的な選曲だと思いました。昨年の紅白歌合戦の後の最初の出演なので、もしかすると紅白の歌唱曲だった「ローズ」かなと思ったのですが意外や意外の一曲で、島津亜矢がどう歌うのか、期待と興味も一段と膨らむ中での視聴でした。
 島津亜矢のカバーの歌唱はなによりも歌をどう詠むのか、その一点において失礼ながら他の歌い手さんとは違っています。彼女の場合、長い間その声量の豊かさのみを評価されてきたきらいがあり、またそれが批判的に見られたりしてきましたが、実はその頃すでに彼女はただ単に声がよく出るだけではもちろんなく、その声のレンジの広さと質感においてあまりにも他の歌い手さんとは全くレベルのちがう歌唱力をもっていました。
 ただ、あまりにもかけ離れた実力と、まだ演歌・歌謡曲のジャンルの中での歌唱であったたため、力強い「男歌」がよく似合う歌手としか理解されていなかったのだと思います。
 しかしながら、「現代演歌」が確立される1970年以前の歌謡曲にはクラシックの要素もジャズの要素も入ったものが多く、また野口雨情、北原白秋、西城八十をはじめとする日本の原風景を綴る作詞家や、中山新平にはじまり古賀政男、服部良一、万城目正など時代を彩る作曲家たちによって生まれ育ったそれらの歌謡曲は懐メロとかたづけてはいけない名曲ばかりです。日本古来の音楽と西洋音楽とが融合した大衆音楽は、戦前戦後の伝説的歌手たちによって血肉化され、時代の空気を吸い込み、吐き出しながら人々の心の奥に届いていったのだと思います。
 島津亜矢にとってそれらの歌との出会いはかけがえのないもので、歌を歌うのではなく、歌を詠み、歌に隠された物語を読み、イタコや瞽女のように口移し、口承による魂の叙事詩を語り継ぐ天命を得たのだと思います。
 実際、島津亜矢が「哀愁列車」や「船頭小唄」、「影を慕いて」などを歌うと、彼女が生まれるずっと前の歌なのに、歌が隠し持っている時代の記憶が解きほぐされ、歌でしか語れなかった言葉にならない切なさやかなしみ、恐れや不安、そして時代の地下水路を抜けた果てにあるはずの希望や夢がどっとあふれ出し、思わず涙が出てくるのです。
 さまざまな歌と出会い、歌い継ぐことで彼女の音楽的冒険は加速し、今ではJポップから洋楽にまでその冒険の荒野は広がりつづけ、その進化はとどまるところがありません。
 今回の「雪の華」も、島津亜矢の冒険心と探求心を駆り立てる一曲だと思います。

 「雪の華」は独特の雰囲気とミステリアスな風貌で我が道を行く中島美嘉が2003年、10枚目のシングルとして発表したヒット曲で、第45回日本レコード大賞金賞および作詩賞を受賞しました。たくさんの歌手がカバーしていますが、韓国でもドラマの主題歌に選ばれ、大ヒットしたようです。
 ドラマ好きのわたしは、2001年にフジテレビ系で放送された「傷だらけのラブソング」で彼女を知りました。この年のソニーのオーディションに合格した彼女はドラマのヒロイン女優のオーディションにもチャレンジし、3000人が参加したオーディションを勝ち抜いてヒロインに抜擢され、そこで制作されたのが「傷だらけのラブソング」でした。
 かつて売れっ子だった音楽プロデューサーがヒロインの彼女を歌手としてデビューさせる物語で、1971年に放映された五木寛之原作「なみだの河を振り返れ」のJポップ版のドラマでした。
 このドラマは中島美嘉の歌手デビューのメイキングとも言える設定で、彼女のデビュー曲「STAR」はこのドラマ主題歌でもあり、ドラマの中のデビュー曲でもありました。
 その頃から独特の個性が際立っていましたがデビュー曲から次々とヒット曲を出し、人気歌手になりました。声があまり出なくて歌唱力がないという意見もありますが、わたしは好きです。
 わたしのような年老いた男が言うのも変ですが、彼女の場合、歌はどこか遠く風の丘からヒューヒューと流れてきて、生きまどい恋まどう少女の可憐で繊細な心がもうひとつの心とつながることを願い、見守るものなのかもしれません。
 凍る夜空を見上げ、手をかざしながら遠い恋人や友だちを思い、思いあう少女(女性)たちの心情や心象風景を歌う中島美嘉は、安室奈美恵とはまたちがった立ち位置で圧倒的なシンパシーを持たれている歌手だと思います。
 さて、島津亜矢の「雪の華」ですが、中島美嘉とは正反対のあふれる声量を封印し、どこまでも降り続く雪が町の形も色もすべて純白に染めていく中で、愛する人との葛藤や行き違いや欲望までもが雪の白さに溶けていくさまを密やかに歌い上げました。
そろそろこの街に 君と近付ける季節がくる。
今年、最初の雪の華をふたり寄り添って
眺めているこの瞬間(とき)に 幸せがあふれだす
島津亜矢がポップスを歌うとき、どうしても「ザ・熱唱」が求められ、いかにもという名曲を歌い上げることが求められる中、「雪の華」は名曲ではありますが、雪の静寂に影絵のように震える恋心や、ただそばにいるだけでいいと思う無垢な愛の歌で、声量のコントロールをより深くよりか細く、歌い上げないで、心でつぶやくような歌唱を聴かせてくれました。
 ここしばらく、またまた島津亜矢が目をみはる進化を見せてくれる時が来ているのではないでしょうか。彼女の場合、ポップスで培った表現力が演歌・歌謡曲に生かされ、たとえば別の番組で歌った「悲しい酒」や、もういい加減聴き飽きたと思われる「柔」でさえ、もう一段の高みにまでわたしたちを連れて行ってくれるのでした。

島津亜矢「雪の華」 (Utacon 2018.01.30)
彼女にしては珍しく、おそらくのどの調子があまりよくなかったのか、歌い始めの低音がかすれ気味になりましたが、そんなことはこの歌のグレードとはまったく関係なく、この歌は島津亜矢の新しい可能性を大きく広げたとわたしは思います。
中島美嘉 『雪の華』
中島美嘉は2010年10月22日、両側耳管開放症の悪化を理由に歌手活動を休止しましたが、翌年の春に復帰したものの、この病気は治らないということで、耳の障害を抱えながら歌い続けています。そのこともあり、音程が外れているとか言われていますが、わたしはだからこそ、「耳のせいにしたくない」と覚悟をもって歌いつづけている彼女の潔さに敬服します。そして、歌唱力が群を抜く島津亜矢がそうであるように、歌はいわゆるうまいへたではなく、もっと人の心にかかわるもの、勇気や希望や夢など、すぐには役に立たないと思われるものなのに、それがなくては生きていけないと思ってしまう人生の伴走者なのだと思います。


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2018.02.21 Wed 歌もまた時を駆け抜け、それぞれのひとのそれぞれの時を語り…。松井恵子さんのライブ

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 2月18日、大阪・中崎町のライブハウス「創徳庵」で松井恵子さんのライブがありました。この日は本来、末松よしみつさんとのユニットの予定でしたが、末松よしみつさんがインフルエンザで、急遽松井さんのソロライブになりました。
 実は松井恵子さんのライブは二十数年ぶりで、懐かしさとともに長い間ご無沙汰してしまったことへの申し訳なさとが混じった、ちょっとせつない気持ちで久しぶりの音楽を聴き入りました。
 ソロライブになったおかげで、本来のユニットでは聴けなかったかも知れない懐かしい曲をたくさん聴けました。リクエストさせてもらった「南風」や、「なくっちゃね」、「好奇心」、「月の裏側」などの名曲がわたしの心の中で一気によみがえりました。
 昨年の友部正人さんのライブの時にも感じたのですが、ある時期に濃密に音楽を聴く時があり、それ以後は音楽を聴く余裕のないまま目の前のことを一つずつクリアする毎日に明け暮れていて、知らぬ間にずいぶん長い時がたってしまったことを実感しました。
 松井さんの数々の名曲の中でもとびぬけたこれらの曲は、当時の世相から時の移り変わりを経てもなお今を感じる名曲で、歌もまた時を駆け抜け、それぞれのひとのそれぞれの時を語り、励まし、よりそって来たのでしょう。
 実際、久しぶりに聴いたこれらの曲は生まれたばかりの頃の瑞々しさを残したまま、弾き語るピアノもボーカルもより深く、より豊かな音を出してくれました。そして、松井恵子さんの楽曲の魅力の一つである言葉は時を越え、今の時代を生きるわたしたちの呟きや諦めや、ちょっとした勇気や切ない希望をやさしく抱きとめるように歌い、語ってくれるのでした。

 わたしが松井恵子さんを知ったのはおそらく1993年ごろだったと思います。わたしは箕面の豊能障害者労働センターに在職していたのですが、箕面市内のWさんという視覚障害を持つ青年に紹介されたのでした。Wさんはあの「24時間テレビ」で(昨年なくなった豊能障害者労働センターの元代表・河野秀忠氏のアイデアだと聞いていますが)、番組内で障害者が結婚式をあげる企画があり、その結婚式の新郎でした。
 彼は自分で作詞作曲し歌うシンガー・ソングライターとして、市内市外の小・中学校で障害者の問題を子どもたちに伝える人権講演&ライブを開いたり、いろいろな市民運動の集まりに呼ばれたりしていて、わたしはつたないPA(音響)を担当したこともあります。
 そんな彼から京都のライブハウスに行くサポートを依頼されました。誰のライブに行くのか聴くと、その人が松井恵子さんだったのです。その時は松井恵子さんのことは全く知らず、またサポートに選り好みができるわけでもなく、そのライブに同行することになりました。
 その頃は1990年から毎年桑名正博さんのコンサートを主催していて、その関係で桑名さんのライブに行く程度で、音楽といえばテレビの「ミュージックステーション」で聴くだけという暮らしでした。ライブハウスに行くのも20代の頃に白竜や三上寛のライブに行って以来でした。
 ライブハウスは閑散としていて、わたしたち2人をふくめても8人ぐらいのお客さんでした。松井恵子さんはもちろん、そんなことは気にせず、歌い始めました。
 Wさんのサポートで来ただけで、失礼ながらそんなに期待していなかったのですが、彼女の並々ならぬ音楽への情熱というか渇望というか、熱いものがあふれてきて、いつのまにか彼女の歌の世界に迷い込んでしまいました。
 彼女の歌は男に媚びる「かわいい女」の歌でもなく、かといって男と渡り合う「できる女」の歌でもなく、男社会で生きる平凡な女性の言葉にならない悲しさや孤独、失恋の痛みを友だちに頼らず自分ひとりで抱え込む女性、それでもまた新しい恋をさがし、切ない希望を心密やかに抱き続ける女性…。なぜか松井恵子さんの歌の中の女性像は、あこがれの対象でもなくまたどこまでも堕ちていく痛い女性でもなく、二十数年どころか100年過ぎても変わらない男社会で悔しい思いをしながら生きる女性たちの姿なのだと思います。
 今回のライブのMCで松井恵子さんはそれらの歌を「ダーク松井」と言いましたが、わたしが彼女の歌をはじめて聴いた時の驚きと不思議な感覚はその「ダーク松井」の歌たちだったのでした。キャピキャピした明るい歌の中にもその毒が隠れていて、わたしの心は平常心ではおれなくなり、毒矢が刺さるようにいつまでも彼女の歌が残っているのでした。
 1994年にはWさんと松井恵子さんのジョイントコンサートを開催し、それからしばらく豊能障害者労働センターのバザーの野外ステージに出演していただきましたが、わたしは2003年の暮れに豊能障害者労働センターを退職し、それからはずいぶんご無沙汰していました。
 ところが2年前にFACEBOOKをはじめ、松井恵子さんが今でも精力的に音楽活動をされていることを知りました。ライブのお誘いもいただいていたのですが、なにぶんわたしはいま能勢に住んでいて、夜のライブにはなかなか参加できませんでした。
 今回、昼間のライブでしたので参加することができました。
 ライブ会場の「創徳庵」は小さなどこか和風の小さな会場でしたが、オーナーさんなのかスタッフの方がPA(音響)をされていて、とてもいい音でライブを聴くことができました。残念ながら、3月いっぱいで締められるそうです。

2015 01 13 松井恵子と藤森るー at ブルーアイズ



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2018.02.06 Tue 辺野古のたたかいは民主主義の最後の砦か真の民主主義の最初の一歩か・沖縄県名護市市長選挙

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 名護市長選挙は新基地建設に反対する翁長雄志知事ら「オール沖縄」勢力が推す稲嶺進氏が3選を果たすことができず、とても残念な結果になりました。
 辺野古新基地建設問題を最大の争点と掲げ、「基地と引き換え」の再編交付金に依存しない経済振興や教育福祉の充実を訴えた稲嶺進氏でしたが、辺野古沖での護岸工事を国が強引に進め、「もう止められない」との諦めムードをつくり、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を争点から外し、経済振興を前面に押し出した渡具知武豊氏に敗れてしまいました。
 公明党が前回の自主投票から今回は渡具知武豊氏を推薦、選挙戦に参戦したことや、菅官房長官や自民党の大物代議士や小泉進次郎氏まで投入し、徹底した組織選挙を展開した 結果、企業や団体などの組織固による期日前投票が4割を越えました。
 早速政府は5日、在日米軍再編への協力に応じて自治体に交付する「再編交付金」を巡り、支給が止まっている沖縄県名護市に交付する方向で検討するということです。
 「国に逆らうやつにはムチを、国に従順なやつにはアメを」という、とても分かりやすい仕打ちは、そもそも国の未来をデザインする「政策」などは存在しないのでしょう。
 苦渋の想いで投票せざるを得なかった名護市のひとびとの心情に思いをはせつつ、6割以上のひとびとが辺野古の基地建設に反対している事実を忘れてはいけないと思いますし、名護市や沖縄県の人々だけの問題ではなく、日本社会で生きるわたしたちの民主主義の危機であると強く思います。

 わたしは正直のところここ2、3年、「憲法カフェ・のせ」の学習会で学ぶまで、沖縄のことを知りませんでした。それまで、先の戦争で沖縄が本土防衛の犠牲になり、10万人とも12万人ともいわれる沖縄のひとびとが亡くなったことや、1972年の本土復帰、米兵による性暴力などを知っていましたが、それらをつなぐ沖縄のひとびとの度重なる長い苦難の歴史を知らずにいたこと、知ろうとしなかったことをとても恥ずかしく思います。
 古くは薩摩の琉球処分、そして本土防衛の犠牲になった沖縄戦、戦後の占領政策をへて日本が主権回復したとされる1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約によって、沖縄はアメリカを唯一の施政権者とする信託統治制度の下におかれました。当初は一部では日本の支配から解放され、独立する契機ととらえるひとたちもいたと言いますが、その後の沖縄は本州の基地が少なくなっていくことに反比例するように基地が増えていきました。(現在、在日アメリカ軍専用施設の7割が、日本の国土の0.6%の面積しかない沖縄に存在しています。また沖縄本島の2割、沖縄県全土1割を米軍基地が占めています)
 しかも、基地にされた土地は本州に比べて私有の農地が多く、土地を奪われることは職を失うことでありました。基地によって経済が潤ってきたではないかと言われますが、実際のところ沖縄県民の総所得に占める基地関係収入の割合は5%過ぎず、基地が沖縄経済を圧迫しているといっていいでしょう。
 平均年収全国ワースト1位、失業率と非正規雇用率全国1位と、沖縄県の経済と暮らしが他府県との間に地域格差がある理由の大きな一つに基地の存在があります。地域創生が叫ばれる中、国は地域での創意工夫を求めますが、これだけの面積を基地に奪われていては、観光を中心とする産業振興もままならないことでしょう。
 その上、民主主義の基本中の基本である「自分たちのことは自分たちで決める」という自己決定権までも奪われた上に、この72年間でアメリカ軍基地に関連する多くの事件・事故が起こり、そのたびに加害者のアメリカ兵が責を負うことも裁かれることもなく、沖縄のひとびとの人権はことごとく奪われてきました。一方、思いやり予算として施設にかかわる費用は日本政府が負担しつづけてきました。沖縄が法治国家・日本に所属する一地域であるとはとうてい言えず、信託統治の時代から本土復帰後現在に至るまで理不尽なことが72年も放置され、増殖されてきたことを痛感します。
 日本政府からもアメリカからも土地を奪われ、あたりまえの切ない夢も希望も未来も人権も、そして命までも踏みにじられてきた沖縄…。戦後すぐに生まれたわたしの生きて来た民主主義が、沖縄の人々を踏みにじり、その犠牲の上につくられた砂上の楼閣と言っても過言ではないと思い知りました。
 1972年の本土復帰は、信託統治という実質の植民地政策から解放され、平和憲法のもとで日本社会に復帰し、民主主義を取り戻すことと信じた沖縄の人々を裏切り、選挙の結果すら無視される実質の日本の植民地に代わっただけだったのでしょうか。

 1月28日、兵庫県の川西能勢口駅前のホールで開かれた「命どぅ宝!知ろう!感じよう!沖縄のこころ」という催しで講演された宮城恵美子さんのお話を聞き、そんな沖縄の歴史の果てに今の辺野古基地建設反対のほんとうの民意があり、今回の選挙結果に左右されることのない一貫した粘り強くあきらめない「たたかい」が沖縄のひとびとだけでなく、わたしたちの「たたかい」でもあることを強く感じました。
 実際のところ、日本政府とアメリカに蹂躙され、理不尽な暴力に耐え忍んできた沖縄のひとびとの堪忍袋が切れても不思議ではないところに来ています。歴史的に見ても、琉球処分からつづく植民地政策によって沖縄はむりやり日本社会に組み込まれ、固有の民族としての誇りを踏みにじられてきた結果が今の姿だとも思うのです。
 沖縄で何度も論議されてきた「琉球独立」がいつか現実のものになるかもしれないし、そうでなくても今までの「植民地政策」をあらため、沖縄固有の独立した文化と社会システムを補償しながら日本社会にとどまるという選択肢もあるかもしれません。
 あくまでもそうでなく、日本社会の一員として辺野古をはじめとする沖縄のひとびとの運動が継続されるとしたら、それはわたしたちもまた沖縄を排除することで加担してきた一員として、高度経済成長を謳歌してきた日本社会の民主主義の最後の砦でもあり、またそれは72年前に戻り、瓦礫の中にあったはずの希望と夢を沖縄の人々と共有し、世界の宝・日本国憲法をのもとで、ひとを傷つけることもひとに傷つけられることもなくしていく努力とともに生まれるほんとうの民主主義をわたしたち自身がつくることなのだと思います。
 沖縄の辺野古は基地建設は宮古島など先島の自衛隊配備とともに、東アジアにおけるアメリカの軍事戦略のもとで日本そのも全体が前衛基地となり、ある意味アメリカの植民地になる第一歩なのだと思います。

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2018.01.27 Sat 安室奈美恵、小室哲哉の引退と島津亜矢・時代が変わる大きな潮目。

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 安室奈美恵の引退と小室哲哉の文春報道をきっかけにした引退。90年代を席巻したJポップをけん引した2人の引退は、時代の潮目が大きく変わろうとしていることを暗示していると思います。
 1970年代の阿久悠から80年代の松本隆を経て90年代の小室哲哉と、この3人はくしくも10年ごとに日本の大衆音楽を大きく変革した人たちですが、その中で小室哲哉はダンス音楽を持ち込むことで、まだ歌謡曲の域を完全には抜けきれなかったポップスに、世界に通じるまったく新しい若者文化を誘発したプロデューサーとしての才能が抜きんでた人だと思います。
 そして、小室哲哉の音楽が世間に躍り出ることになったのが安室奈美恵であったことを思うと、引退の理由はそれぞれ違い、特に小室哲哉の場合はすでにお腹いっぱいになっている「不倫騒動」が直接のきっかけになっているとしても、一つの時代がまた終わったという感があります。
 というのも、90年代は小室哲哉一色のように見えましたが、松本隆や松任谷由美など80年代の詩的でメロディアスな名曲が時代に溶け込んでいった時期でもあります。
そこから一方ではシンガー・ソングライターの本格的な台頭とバンドブームがあり、さらにはヒップホップが定着し、戦前から戦後の長い間、欧米の音楽に対するコンプレクスをばねにつくられてきた日本の音楽シーンがいい意味で自立し、成功体験はないものの世界の音楽シーンにデビューしたり、反対に世界を気にしないで自分の音楽を発表する若者が台頭してきました。
90年代末に現れた宇多田ヒカルによって自分の音楽的冒険が終わったと証言している小室哲哉はその時点でいつ引退してもおかしくなかったのだと思います。
 90年代の小室哲哉の音楽の巫女的存在だった安室奈美恵はリズム&ブルースやヒップホップなど、ブラックミュージックのにおいの強い音楽でトップスターになりました。実際は小室哲哉のプロデュースは1995年から2001年までで、それ以後は小室哲哉から離れてセルフプロデュースでヒット曲を連発するようになりました。
 引退ということで、いろいろなマスメディアが取り上げるのはどうしても小室哲哉プロデュース時代で、ほとんど彼女の歌についていけなかったわたし自身もなんとなくその時代に目が向きますが、今回彼女の活躍の歴史を振り返ると、むしろ小室哲哉から離れてからの方がその人気の絶大さもさることながら、音楽のクオリティもライブのパフォーマンスもはるかに優れていることを知りました。
 年代的にも15歳でデビューし、40歳までの25年間の中でも2001年からのセルフプロデュースの期間の方が長く、彼女の評価はすでに小室哲哉時代では測れないことを知りました。
 とくに、テレビへの出演をなくし、ライブ一本で活動を続けてきたことや、そのライブでもMCがなく、初めから終わりまで歌とダンスのパフォーマンスだけで桁違いの観客動員と、彼女の音楽に対するシンパシーを高め続けてきたことに、まさしく平成の歌姫と呼ぶにふさわしい存在であったことをあらためて知りました。
 引退表明後のベストアルバムもダブルミリオンとなり、史上初となる10代・20代・30代・40代の4つの世代でのミリオンを達成しました。
 わたしは島津亜矢のファンとして、どちらのファンの方々にもひんしゅくを買うかもしれませんが、ジャンルもファン層もセールスの規模もまるで違いますが、音楽に対する真摯な姿勢やライブを一番とする活動など、安室奈美恵もまた島津亜矢とつながる音楽の冒険の森にいたる果てしない道を歩んできたのだと思います。
 昨年の紅白への出場を最終的に受け入れたのも、引退のライブツアーに来れないファンためだとされていますが、そのあたりもファンへの感謝を持ち続け、決しておごらず愚直に歌を歌うことでしかその気持ちを表せないと考えるところや、ベストアルバムの収録曲を手抜きせずわざわざ歌いなおしたと聞くにおよび、島津亜矢の歌への覚悟と心情につながっていると思いました。ほぼ同時代をまったく違った道を歩いてきた安室奈美恵の歌心と音楽的冒険もまた、まだまだつづく島津亜矢の旅のリュックに大切にしまっていってほしいと思います。
 わたしはくわしく知る機会がないのですが、リズム&ブルースの奥底にある悲しみと怒りを感じる感性が安室奈美恵にあり、それは本土を守るために沖縄の人々を犠牲にし、戦後は沖縄を踏み台にした戦後民主主義の矛盾に育てられた少年少女の一人であったことと無関係ではないと思うのです。
 ともあれ、島津亜矢がたとえば「一本刀土俵入り」や「瞼の母」を歌う時、今までどちらかというと「男歌」としてとらえられてきましたが、わたしは生まれ育ちから決して「期待される親子像」や「期待される家族像」とは縁遠い人生を送らざるを得なかった青年(少年)、非情な世界で生きざるを得なかった青年のかなしさと、それでもなくさなかった純情を、凛とした立ち振る舞いと少し遠くを見つめる瞳にかくしてまっすぐに歌いきります。
 それはそのまま、これらの芝居を書いた長谷川伸の表現の核心でもあります。
 長谷川伸の世界から生まれ、語り継がれてきたこの物語は、島津亜矢の歌の中でもう一度、傷つきやすい少年時代の官能的とも言える心の叫びとなってよみがえるのでした。
 長谷川伸の描く義理人情の世界は、いつのまにかあまり表だったものではなくなりましたが、いまだに歌や大衆演劇などで語り継がれているのもまたたしかなことで、いま、もしかするとわたしたちの心の底で、もう一度長谷川伸を必要としているのかもしれません。
 島津亜矢の場合も安室奈美恵の場合も、受け継がれてきた先人たちの歌の中にある歴史を知らなくても、歌そのものが歌うひとにもその歌を聴くひとにもダイレクトに純な心に届けてくれるのだと思います。
 島津亜矢が最近また「一本刀土俵入り」をコンサートで歌っていると聴き、3月のフェスティバルホールで歌ってくれるかわからないのですが、とても楽しみにしています。
 先日のNHKのBS放送の「BS新にっぽんの歌」で久しぶりに「一本刀土俵入り」を歌いましたが、ユーチューブなどで若い頃から最近までの音源がたくさんありますが、今回の番組での「一本刀土俵入り」はより進化しているように思います。
 恩師・星野哲郎もそうでしたが、虐げられたり理不尽な悲しみに打ちひしがれているひとびとと同じ場所に立ち、その隠れた心情を歌うとき、島津亜矢の歌はもっとも輝き、もっとも遠くの心に届くとわたしは思います。

安室奈美恵「Hero」NHKオフィシャル・ミュージックビデオ

島津亜矢「一本刀土俵入り」

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