争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

2017.04.14 Fri 島津亜矢・「明日にかける橋」と「いっぽんどっこの唄」

島津亜矢コンサート2016

 島津亜矢の音楽番組出演がつづくのと、それ以外のライブや活動記録と重なり、感想ブログが追いつかなくなり、いっそのこと飛ばしてしまってもいいかなとも思うのですが、それでも3月19日放送のNHKBSプレミアム「BS新日本のうた」のスペシャルステージでの「お吉」、「独楽」につづいて歌った「いっぽんどっこの歌」には格別の思い出があるため、おくればせながら書いてみることにしました。
 その間にも直近のNHK「うたコン」に島津亜矢が出演していたことを知らず、仕事をしていて見逃してしまい、録画もしていませんでした。ファンの方々の報告でサイモン&ガーファンクルの「明日にかける橋」を歌ったと聞き、残念に思っていたところ、最近はそれほどの縛りがないのか、ユーチューブに挙げている人のおかげで聴くことができました。彼女のブログによれば10日前にこの歌を歌ってほしいという要請があったということで、急仕込みとはいえ素晴らしい歌唱でしたが、もう少し歌いこめばこの歌の奥行きをとらえることができたのではないかと思いました。
 1970年に発表されたこの歌はポール・サイモンがゴスペルに影響を受けてつくった曲と言われていて、ちなみにこの曲に触発されたポール・マットニーが「レット・イット・ビー」をつくったと言われています。
 ベトナム戦争末期の反戦運動など激動のさ中、世界の人々が深く傷ついた時代、この曲にこめた祈りは、傷つき、損なわれてしまった時代そのものに捧げられていると思います。
 そして今、度重なる震災で日本社会そのものが損なわれ、シリアでは犠牲者のしかばねをどれだけ積み上げたら紛争とテロが収まるのか見当もつきません。さらに北朝鮮とアメリカの脅し合戦がエスカレートし、現実感のないまま巻き添えになる不安から、いわゆる「共謀罪」や憲法「改正」をわたしたちの社会が求めてしまう危うさを感じます。
 そんな時代だからこそ、この番組の制作チームは(おそらくいつも)島津亜矢に、傷ついた世界の人々、彼女の出身である熊本や東日本の人々、失われた無数のいのちへの鎮魂と祈りをこめたたましいの歌を歌ってほしいと願ったのだと思います。
 そこまでの思いにこたえるには、やはり急ごしらえの感はぬぐえないのもまた真実で、島津亜矢だからこそこの歌にもっとたましいを注入し、歌を必要とする世界の人々に届く歌として、これからも歌ってほしいと思うのです。
そしていつか、悲鳴を上げている世界と人々の心を癒す「大きな歌」をオリジナルで歌うために、もっといろいろな歌のつくり手が彼女の存在を知る機会が増えればと思います。
 いろいろ多方面から不満が聞こえる「うたコン」ですが、島津亜矢にとってはそんなチャンスと出会える大切な番組ではないでしょうか。

 さて、「いっぽんどっこの歌」ですが、島津亜矢にとって北島三郎の歌を歌う以上に感慨深いものがあったのではないでしょうか。 というのも、この歌は水前寺清子と星野哲郎の深い絆から生まれ、星野哲郎の大きな冒険と「たたかい」から生まれた歌だからです。
 それというのも1963年、レコード業界に君臨する日本コロンビアから経営陣の一部やディレクター、作詞家の星野哲郎、作曲家の米山正夫らがクラウンレコードを設立し、歌手の北島三郎や水前寺清子が移籍するという「大事件」があったからです。
 この頃はレコード会社がほぼ歌謡界を支配していて、各レコード会社に作詞家、作曲家、歌手が専属にいて、その枠組みから外れるとほぼ活動できなかったようです。ですから、新しいレコード会社の設立には当然強力な妨害が入り、星野哲郎は畠山みどりもクラウンに移籍してほしいと思い、話が決まる前にコロンビアによって阻止されたいきさつがあるようです。
 そこでコロンビアで何度もレコーディングするも日の目を見なかった水前寺清子をクラウンに移籍させ、1964年、畠山みどりが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更してデビュー曲としたのでした。
 星野哲郎にとってこの時代は大きな賭けに出た時で、何が何でもクラウンに移籍した歌手たちのためにヒット曲をつくらなければと特別な決意のもと、北島三郎の「兄弟仁義」をヒットさせ、1964年に水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」をヒットさせます。
 この頃のクラウン専属のテレビ番組には北島三郎、水前寺清子の他、美樹克彦、笹みどりなどが出演していましたが、とにかく過剰なまでの思いと心意気があふれていて、それがまた歌をヒットさせていたのだと思います。
 後で知ったのですが、五木寛之の「艶歌」シリーズの小説の主人公「艶歌の竜」こと「高円寺竜三」のモデルとして知られる名ディレクター・馬渕 玄三もまたクラウン設立の立役者の一人で、テレビドラマ化され、演歌の竜を演じた芦田伸介が強く記憶に残っています。
 1966年の「いっぽんどっこの唄」は、デビュー曲のいきさつを離れ、水前寺清子自身の歌の道を決定づけた曲で、それはまた星野哲郎にとっても彼のライフワークのひとつとなった「援歌」(応援歌としての演歌)のジャンルを確立するきっかけになったのでした。
 「ぼろは着てても心の錦、どんな花よりきれいだぜ」…。最初の二行にその歌のすべてを語る巷の詩人・星野哲郎は、かつて「やるぞみておれ口には出さず」と畠山みどりに歌わせた心情をそのままより進化させ、高度経済成長のベルトコンベアからはずれ、時代の風潮にあらがう生き方もあることを水前寺清子に歌わせたのだと思います。それは実は今、わたしたちが直面している現実を予想したものだったのだと痛感します。
 そして1986年、すでにフリーの作詞家となっていた星野哲郎はひとりの少女に見果てぬ夢を見ます。かつて寺山修司が嫉妬した詩人・星野哲郎が日本的なるもの(こう書けば右翼とよく間違えられるのですが)、民謡などをたどり、世界の大地とつながる音楽のたましいから立ちのぼる歌、それを新しい演歌とよんでもいい「援歌」を、その少女・島津亜矢に託し、彼女のデビュー曲を「袴を履いた渡り鳥」としたのです。
 そのことを骨身にしみてわかっている島津亜矢にとって、水前寺清子は格別の存在なのだと思います。島津亜矢のすごさというか歌唱力というか類まれな才能が発揮できる歌は案外、一般的に名曲と言われる歌、歌のうまい人がそのうまさを披露するときによく歌われる歌ではなく、実は「いっぽんどっこの唄」のように、星野哲郎の心意気や願い、祈りがこめられた、世間でド演歌とされる歌の方にあるのかも知れません。
 最近の著しい進化途上の珠玉の歌唱はもちろんのこと、時代をいくつも越えて星野哲郎の、畠山みどりの、水前寺清子の、島津亜矢の、そして日本社会のおよそ60年の急流に流されずその底にずっと変わらずある「ささやかな希望」をかみしめる名唱でした。

島津亜矢「明日に架ける橋」

島津亜矢「いっぽんどっこの唄」

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2017.04.11 Tue 小林陽一モンクストリオが60年前の路地を思い出させてくれた。桜の庄兵衛「菜の花スイングJAZZ」

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 わたしがジャズをはじめて聴いたのは12歳のころだったと思います。
わたしが子どもの頃に住んでいた摂津市千里丘という町にも、まだ戦争の傷跡が残っていました。チャンバラごっこや缶蹴りをした近くの「御殿地山」と呼んでいた原っぱには小さな小屋やほら穴があり、焼け焦げたヤカンや割れた茶碗が転がり、ちぎれてしまった鉄条網が地面を這っていました。
 わたしと兄と母の3人が身を寄せるように暮らしていたバラックの壁の節穴からは外の景色といっしょに冬には冷たい風が入り込んでいました。母はわたしが生まれてすぐに私と兄の父親である愛人と別れ、シングルマザーとしてわたしたち子どもを育てることだけに生きようと決意したのでした。国道沿いにあったバラックの家の前で朝早くから深夜まで一膳飯屋をやりくりし、稼いだ日銭と残った食べ物で親子3人が食いつないでいました。
 バラックの店、鉄条網とガード下と原っぱと牛馬とメリケン粉と麦飯…。ドッジボールと日光写真とべったんと缶けりと七輪のいわしのけむり…。わたしの子ども時代の伝説の風景はいつも涙で輪郭をなくしてしまうのでした。
 そんなわたしの子ども時代は貧乏でしたが自由でもありました。界隈にお金持ちはほとんどいませんでした。父親がいないわたしの家族がまわりからどう見られていたのかよくはわかりませんが、まわりの家族たちもそれぞれの事情をかかえていたのだと思います。
 もちろん、さまざまな差別がたくさんあっただろうけれど、幸運にもまわりのどの家族もわたしたちに親切でした。生活の苦しさや個々の家族の事情が大人たちにあったはずですが、そんな事情をわたしたち子どもが読み取れるはずもありませんでした。
めまぐるしく走りぬける時代の風景は青い空につつまれ、わたしたちもまた貧乏とともにやってきた戦後民主主義の原っぱをかけめぐったのでした。
 ジャズはそんな私の子ども時代の街角、まだアスファルトに覆われる前の黒い土の路地を、イワシのけむりとともに流れ込んできました。
 それは280円で買った中古のラジオから、母が楽しみにしていた三橋美智也の「赤い夕陽の故郷」と広沢寅蔵の「清水の次郎長」の隙間を縫うようにやってきて、雑音と共に掻き消えたと思うと突然大きな音で鳴り響くのでした。
 歌謡曲しか聴いたことがないわたしには、遠い海をわたってきたその音楽はとても奇妙なものでしたが、それでもジャズは自由と手をつなぎ、暗い部屋をぼんやりと照らす裸電球のような根拠のない明るい未来を用意したのでした。
 
 4月9日、大阪府豊中市岡町のギャラリー「桜の庄兵衛」での小林陽一モンクストリオの演奏を聴きながら、わたしは子ども時代の黒い土の路地といわしのけむりを思い出していました。あれからの長い人生で左に行くか右に行くか立ち止まるか思いまどった時、いつもよみがえる子ども時代の風景は悲しくも切なくもありながら、貧乏と釣り合う夢と希望と青空と自由と民主主義に彩られ、わたしの行く道を照らしてくれました。そしてそこにはいつもジャズがありました。
 ジャズの中でもいろいろあるカテゴリーとかジャンルを知らないわたしですが、チャーリー・パーカーなどのビパップやソニー・ロリンズ、アート・ブレーキーなどのハード・パップの日本における第一人者といわれるドラムスの小林陽一とピアノの太田寛二と、ベースの金森もといの3人が奏でる音は専門的な知識がなくてもストレートに1950年代のわたしに連れ戻してくれたのでした。
 太田寛二のピアノは骨太でアドレッシブで、まるでわたしの心の非常階段を駆け上がるようなリズミカルなメロディで風景を描き、金森もといのベースがその風景にふくやかな色彩を丁寧に塗り、小林陽一のドラムスがその風景に奥行きのある空間を宿し、至高の時を刻むのでした。
 ドラムスが後ろに控えていると、ピアノもベースも本来の役割の一つであるリズムを刻むことからやや解放されてメロディをつくる自由を与えられ、音楽という時の芸術を絵画にしたり物語にしたりできると言いますが、まさに小林陽一のドラムスは正確なリズムを刻みながらピアノとベースをあおり、どこまでも遠くに音楽を連れて行くのでした。

 「桜の庄兵衛」のライブ空間は奇跡ともいえる場所で、古民家に宿る何百年の営みが白い壁や茶色の梁と柱や障子にしみ込んでいて、そこで演奏される音楽や落語とともに先人たちの暮らしから沸き立ち、受け継がれてきた文化もまた、わたしたちに語りかけてきます。
 今回のジャズもまた、奇跡の空間の隅から隅までしみわたり、とてもあたたかい時間をわたしたちに届けてくれました。アメリカの大地で、暗闇しかなかった人々の心から生まれ、麦畑や荒野を経てダウンタウンの路地にたどりつき、やがて海を渡り、日本の戦前から戦後の巷を流れ、60年前のわたしに届いたその音楽・ジャズは小林陽一モンクストリオによってよみがえり、わたしの心に「ただいま」と言ってくれたのでした。
 わたしもまた「お帰り」と言いながら、夕暮れの「桜の庄兵衛」の庭に見事に咲いたしだれ桜を見ていました。

 この日は豊能障害者労働センター製作のカレンダー「やさしいちきゅうものがたり」のイラストレーター・松井しのぶさんをお誘いしたのですが、亡くなられたお父さんの49日の法要と重なり、無理を押して来てくださったことを知りました。ほんとうに申し訳ないことをしてしまいました。

小林陽一モンクストリオ「ウンポコロポ(バド・パウエル)」

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季節季節で楽しめる桜の庄兵衛さんの庭ですが、この春は可憐なしだれ桜を見ることができました。

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2017.04.09 Sun 友部さんの歌は、70年以後の人生を生き続けなければならなかったわたしの伴走歌でした。友部正人ライブ

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マラソンがゴールに運べるものは
自分が持つささやかな空気だけ
その空気を計りに載せて
代わりに重たいメダルをもらう
友部正人作詞・作曲・歌「ニューヨークシティマラソンに捧げる」

 開演時間になると友部正人は静かに登場し、昨年発表された「ブルックリンからの帰り道」に収録されている、タヒチで2年間暮らしたゴーギャンが結婚していた島の少女・テフラとわかれ、フランスに帰る物語を歌う「マオリの女」を歌い始めました。
 歌い終わった後、彼には珍しく少し長めのMCが入り、植民地の人々と幸せな関係と思い込むフランスの人々と、長年抑圧されてきた植民地の人々との埋められない隔たりについて語りました。
 4月4日、大阪心斎橋のライブハウス「JUNUS」での友部正人のライブはこうして始まりました。最近はしばらく彼のライブに足を運ぶことをせず、毎年5月の「春一番コンサート」のライブしか聴いていませんでしたが、時の隔たりをまったく感じさせず、若い時からずっと変わらない弾き語りのスタイルと、そのだみ声で舌っ足らずの歌声はわたしの心に瑞々しい感覚をよみがえらせました。
ああ、友部さんの旅はまだ終わっていない。そして、わたしの旅もまた…。

 1966年、わたしは高校を卒業後、建築設計事務所に就職したものの半年でやめ、フーテンまがいの暮らしをしていました。時代は学園紛争と70年安保闘争にいたる異議申し立てと政治の季節でした。でも社会に順応できないわたしは、ただただ大人からも大人になることからも社会からも逃げ続ける毎日でした。時代の吹きすさぶ嵐が通り過ぎるまでのただひとつの隠れ家だった吹田の旧国鉄操車場の近くのアパートで息を殺し心を固くし身を潜めていました。
 そんなある日、「オー・ゴー・ゴー」という店を知りました。大阪梅田の歓楽街の細い路地を入ると、その店はまさに隠れ家のように立っていた。船室をイメージしてつくられた細長い店内は薄暗く汚くて、天井には網がめぐらされていました。
 入り口に近いほうにテーブルが並び、真ん中は踊れるようになっていて、その奥にも少しテーブルがありました。ここでも多くの若者たちがたむろしていました。
 雑音の多いスピーカーから、ビートルズやモンキーズ、そしてボブ・ディランがよく流れていました。わたしはその時はじめてボブ・ディランの名曲「時代は変わる」を聞きました。1970年に向かって街はますます騒然としていて御堂筋では学生のデモ隊と機動隊がにらみ合い、機動隊の盾とこん棒で学生たちがたおれる、そんな日々が続いていました。
 同年代の学生たちに心情的にはまったく賛同しながらもどうしてもその運動に参加するところまでは行かなかったのは、一方であの「オー・ゴー・ゴー」にたむろしていた若者たちもまたあの時代をたしかに生きていたのであり、わたしもまたそのひとりだったからなのだと思います。
 ある夜、「みなさん、警察の手入れです。今すぐ逃げてください」という店員の叫び声が聞こえるやいなや若者たちはいっせいに夜の闇に消えていきました。わたしも必死で梅田駅の方に走りました。あくる日にお店の前に行くと、そんなお店など最初からなかったようによそよそしい空き店舗の看板が風に揺れていました。

 1970年、わたしの青春をはげましてくれたビートルズが解散しました。わたしにとってはぼ同じ時に起こったよど号ハイジャック事件よりもショックが大きく、ますます時代の袋小路に迷い込んでしまいました。わたしは生きることに未練が強く死ぬことは考えませんでしたが、ひとが自分の命を絶つ決定的な夜のすぐ隣にいたのかも知れません。
 ともあれ、殺伐とした青い時をへて大人として夫として、そして父親として生きなおす出発点にわたしは立っていました。
 そのころわたしがその日その日を生きていくためにすがりついたものが三上寛と友部正人と寺山修司と山田太一でした。
 わたしはそのころはフォークソングが苦手だったのですが、三上寛の追っかけをしていた時に友部正人もよく出演していて、三上寛とはスタイルがちがうもののその歌は心に深く突き刺さり、そのやさしい痛みがいつまでも心に残ったのでした。
 関西のフォークシーンのようなメッセージソングでもなく、また最近のJポップへとつながる個人の感情をストレートに歌う歌でもなく、日常の心象風景の背後にひそむ時代の闇を淡々と歌う友部さんの歌は、70年以後の人生を生き続けなければならなかったわたしの伴走歌でした。
 ひさしぶりにライブを聴いて、このひとのかたくななまでにすがすがしい歌がわたしの澱んでいた心の水を波立たせ、あの「やさしい痛み」がよみがえりました。
 「それでも人生はつづく」、その長い時間を彩る大長編映画がまだ終わっていないのだとしたら、友部さんの歌は「お前はどんな人生を生き、どんな人生を生き続けるのか」と歌いつづけるテーマソングなのだと思いました。
 そして…、「一本道」。若い頃とはちがう思いがあふれてきました。「ひとつ足を踏み出すごとに 影は後ろに伸びていきます」、思えば友部正人はすでに青春のまっただ中で、はるかに遠く過ぎさった青い時の砂浜に散在する「思い出」という石ころさえも見届けていたのでしょうか。
 新しい歌が旅はまだまだ続くと歌っているように、これまで歌いつづけてきた数々の名曲もまた世代を越えて新しい出会いを続けているのだと思うと、涙が出てきました。心密やかに、自分自身につぶやきました。「さあ、さあ、元気出して」と。
 会場には50人を越える人たちがいました。若い世代もたくさんいて、友部正人さんの歌がどの世代にも受け入れられる「青春」の歌なのだと実感しました。

 この日、3人の友人とライブに行ったのですが、なんとわたしが手配していたチケットを家に忘れてきてしまいました。ダメモトと思いつつ会場で説明したところ、当日は当日券で入場し、主催の「グリーンズ」に返券するとお金を返してもらえるとのことでした。
 とてもありがたく感謝する一方、ほんとうに情けない失敗で、一緒に行った友人が心配してくれました。

友部正人「愛について」

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2017.04.08 Sat ああ、友部さんの旅はまだ終わっていない。そして、わたしの旅もまた…。 友部正人ライブ

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 4月4日、大阪心斎橋のライブハウス「JUNUS」で友部正人さんのライブがあり、友人3人で行きました。5月14日に能勢で開くコンサートを開く挨拶も兼ねていたのですが、最近は毎年5月の「春一番コンサート」の時の30分程度のライブしか聴いていなくて、ファンとは言えない後ろめたさを抱えて会場に行きました。
開演時間になると友部さんは静かに登場し、昨年発表された「ブルックリンからの帰り道」の最初に収録されている「マオリの女」から歌い始めました。
 若い時からずっと変わらない弾き語りのスタイルと、そのだみ声で舌っ足らずの歌声は年を重ねたわたしの心に瑞々しい感覚をよみがえらせ、ああ、友部さんの旅はまだ終わっていないのだと思いました。そして、わたしの旅もまた…。
 つい最近の歌と「一本道」や「こわれかけた一日」などの名曲を次々と歌い、ほとんどMCはなく、歌い終えた後に「ありがとう」と静かに話す友部さんの姿に、なぜか涙が出てきました。その涙は昔をふりかえる涙でもなく、また歌の内容から流れる涙でもなく、ただ友部正人という一人の男が少年のような柔らかい心と孤独な夜を持ち続け、半世紀も歌いつづけていることのいとおしさが胸に迫ってきたのでした。
 1970年代、政治の季節が通り過ぎた後の無力感は政治活動とまったく無縁な町工場で働いていたわたしの心までも覆いつくしていました。
 そんな時、関西のフォークシーンのようなメッセージソングでもなく、また最近のJポップへとつながる個人の感情をストレートに歌う歌でもなく、時代の闇を色濃く隠している日常の心象風景を淡々と歌う友部さんの歌は、70年以後の人生を生き続けなければならなかったわたしの伴走歌でした。
 「それでも人生はつづく」、その長い時間を彩る大長編映画がまだ終わっていないのだとしたら、友部さんの歌は「お前はどんな人生を生き、どんな人生を生き続けるのか」と歌いつづけるテーマソングなのだと思いました。
 会場には50人を越える人たちがいました。若い世代もたくさんいて、友部正人さんの歌がどの世代にも受け入れられる「青春」の歌なのだと実感しました。
 くわしいことはまた次の機会とさせていただきます。

友部正人×森山直太朗「こわれてしまった一日」

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2017.04.02 Sun いよいよ新しい時代の入り口に立った島津亜矢と「BS新日本のうた」

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 島津亜矢の3日連続出演の2番目は3月19日放送のBSプレミアム「新・BS日本のうた」で、この日はスペシャルステージで、なんと島津亜矢にとっては2回目目の「演歌名人戦」でした。この企画は地上波のNHK総合「うたコン」の前身・「歌謡コンサート」の人気の企画でした。島津亜矢は2015年2月3日にこの企画で出演し、地上波ではじめて「I will Always Love you」を熱唱して話題を呼んだ他、昨年の10月9日のBSプレミアム「新・BS日本のうた」のスペシャルステージ・演歌名人戦に出演しました。
 この時は、吉幾三、中村美律子、氷川きよし、島津亜矢が競演するという趣向でしたが、特に中村美津子と島津亜矢の「乱れ髪」は歌の心を知る二人ならではの熱唱で、中村美津子が島津亜矢の歌唱を絶賛されたのをよく覚えています。
 あれからまだ日が経っていないにもかかわらず、この企画に出演することになったのは、やはりこの番組の制作チームが島津亜矢を高く評価している証といって間違いないでしょう。
 彼女の20代後半から30代の頃の「BSの女王」と異名をとった時代に培われた信頼関係もあると思います。あの頃はBS放送がまだ普及しておらず、若手の実力歌手を求めていたニーズに島津亜矢がぴったりはまったのでしょう。地上波の番組のような波及効果がないことを逆手にとり、この番組チームは歌唱力も声量も抜群で勢いもあった島津亜矢に演歌・歌謡曲の名曲を次々と歌わせました。この頃の島津亜矢はまさに怖いもの知らずで、朗々と歌い上げる貴重な映像が残っています。島津亜矢のカバー曲の幅広いレパートリーと底なしの表現力はこの頃の番組スタッフの冒険によって培われ、番組で歌われた膨大な楽曲をレコーディングしたアルバム「BS日本のうた」も8シリーズを数えます。
 しかしながら、BS放送が普及する一方、とくに90年代からのJポップの席巻により演歌・歌謡曲が退潮を極めるようになるにつれて、ベテランの歌い手さんが続々とBS放送に参入し、島津亜矢の音楽的冒険の独壇場だったこの番組への出演回数も次第に少なくなってきました。わたしが島津亜矢のファンになった2009年にはすでにその状況が加速されていたと記憶しています。
 わたしの記憶違いか思い込みかも知れませんが、この頃は島津亜矢にとって、思いまどいながら新しい道に向かう準備の時期だったのかも知れません。というのも、若い頃のように有り余る声量とひとつの音程もはずさず、歌いあげる歌唱から、肉感的な低音を獲得し、「男歌」とか「女歌」とかにとらわれず、聴く者の心のひだにしみ込むように「歌い残す」歌唱へと進化する数年間であったと思います。既成の演歌の歌唱法のうなりやこぶしなどそぎ落とすだけそぎ落とし、よりシンプルに歌いながら西洋音楽の旋律に記された音と音の間に「日本の音」をよみがえらせる新しい演歌への模索、そのプロセスの中で彼女にとっての歌・大衆音楽は演歌の領域を一方では広げ、一方ではそれを越えた幅広いレンジのJポップやシャンソン、ジャズやブルースなど、世界のポップス音楽との出会いを用意したのでした。
 あの頃は若い時の声量で歌ってほしいという声も聞こえてくることもあったようですし、実際、若い頃のリサイタルの映像やユーチューブの貴重な映像で残されている、恐れるもの何もなしというような圧倒的な歌唱がなつかしいと話されるファンの方々もいました。
 ちょうどその時期から座長公演が始まり、それまでの名作歌謡劇場で極めた一人芝居に似た疑似演劇とは似て非なる本格的な芝居で、自分がすべて語り尽くすのとはちがい、たくさんの人たちと大きな物語を語り、つくりだす経験が、彼女の歌のスケールを大きくしました。また、座長公演の2部の歌謡ショーではそれぞれの演出家が島津亜矢の音楽的な可能性を広げ、さまざまな魅力を引き出そうと素晴らしいステージを構成・演出してくれました。それまでもポップスを数多く自分のレパートリーにしてきた彼女ですが、座長公演の歌謡ショーでより広く認知されたのではないでしょうか。ポップスの音楽評論家や音楽番組のパーソナリティから松山千春、マキタスポーツなど、影響力の高い論者やアーティストに高く評価されるようになったのもこのころからだと思います。残念ながら演歌・歌謡曲の論客では小西良太郎が高い評価をした以外にあまり記憶がありません。もっとも演歌のジャンルの退潮とともに演歌を論じ語る人もまた少なくなった事情もありますが…。

 そしてここ数年、島津亜矢がまた大きく変わったと思います。その前の数年の準備期間を経て、いよいよ新しい演歌・新しい歌唱へと少しずつ表現力を身に着け、とても刺激的な歌手・ボーカリストに変身しようとしています。
 いまだ途上ですが、たとえれば歌の荒野にただ一人立ち、荒野を走る風に耳を傾け、心をアナーキーな真綿の純白に浸し、何十年何百年何千年もの長い時の一瞬一瞬に生まれ消えていった何億という歌たちをいとおしくすくい上げる稀有の歌姫として、歌うことから逃れられない宿命を背負わされた者だけに降りてくる歌を、近い将来島津亜矢は歌い始めることになるでしょう。すでに歌がうまいとか、表現力が並外れているとか、声量のコントロールも音程も完璧だとか歌唱力で彼女を評価する時代は終わり、彼女の存在が歌の作り手にどれだけの想像力をかき立てるのか、作詞家は彼女の肉体を媒体にしてどんな風景と夢を描くのか、作曲家は彼女の心を媒体にしてどんな心情と希望を奏でるのかが問われるようになるでしょう。かつて美空ひばりが大衆音楽のミューズであったように…。
 その流れのひとつとして島津亜矢がこの番組にたびたび出演する機会が増えているとしたら、巡り巡って一段とビッグになって帰ってきた島津亜矢が、この番組の音楽的冒険を実現する役割を担うことになるでしょう。
表情も豊かに、長年の肩の荷をおろしたようにリラックスしている彼女はとてもチャーミングになりました。ハリネズミのように緊張していた以前にくらべて歌にも心にも余裕があり、その安心感が共演者にも伝わって、彼女をいわゆる「いじる」ことも増えてきたように思います。
 今回の記事では番組で歌われた「お吉」、「独楽」、「一本どっこの歌」について触れられないまますでに紙面が埋まってしまいました。私的な事情でなかなかブログが書けず、またそれに反比例するように島津亜矢の出演が立て続けにあり、とても追いつけない状態です。それでもあと少し、とくに「一本どっこの歌」については書こうと思っています。
 また、3月26日の「昭和の歌人-船村徹」は、先ほど亡くなられた船村徹の追悼番組として制作されたものではないと聞きましたが、出演歌手も制作スタッフも、この偉大な作曲家への感謝の気持ちと心から追悼する想いにあふれた素晴らしい番組でした。島津亜矢をはじめ、他の共演者のこともふくめて書いてみたいと思っています。
 そうこう思っている間に、本日4月2日のNHK・BSプレミアムの「BS新日本のうた」に早くも出演するとのことで、ますます記事が古くなってしまいますがおゆるしください。

島津亜矢「いっぽんどっこの唄」
この歌はわたしにとって思い出がいっぱいつまったもっうひとつの青春の歌です。できればこの歌の想いでなどを次回に書きたいと思います。

島津亜矢「お吉」
座長公演以前と後では、圧倒的にセリフの深みがちがうと思います。歌もまたいわゆる定型ではなく、お吉のはかなさ、くやしさ、そしてそれらすべてを人生の終わりに呑み込む「ゆるし」がセリフと一体となって聴く者の心を揺さぶります。

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