争う経済から夢見る経済へ。誰もが助け合って暮らせるゆたかな社会をめざすソーシャルビジネスを紹介しながら、演歌からポップスまで、好きな音楽への雑感や生活をつづる日記。

2017.06.01 Thu 「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」 河瀬直美監督作品・映画「光」

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 河瀬直美監督の「光」を見ました。公開されている間に、できれば映画館でぜひ観ていただきたいオススメの映画です。
 映画の音声ガイドを作成する仕事をしている美佐子(水崎綾女)はある日、仕事をきっかけに弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出逢います。
 子どもの頃に父親が失踪し、いなかで過ごす認知症の母親の介護を隣人にまかせていることを心苦しく思いながら生きる意味を求める美佐子と、カメラマンにとって致命的に視力を失いつつある雅哉。
 年齢も人生経験もまつたく異なる二人が、なくしたもの、なくしつつあるものへの喪失感を抱きながら、生きる意味を共に見つける大人の純愛映画ですが、この映画はなんと4本の映画を同時進行で観客に届けてくれるのです。
 あと3本の映画とは、音声ガイドを作成している劇中映画「その砂の行方」と、スクリーンに映らない美佐子たちが作成した音声ガイドによる映画「その砂の行方」、そして、この映画「光」それ自体の音声ガイドによるもう一つの映画「光」…。
 そして、これら別々の映画がシンクロナイズしながら、最後に共通してたどり着く「光」が美佐子と雅哉の新しい人生に届けられる時、この映画は珠玉の4重奏を奏でるのでした。

 映画は美佐子が街の中で目に入るものを言葉に置き換えるシーンから始まります。彼女は視覚障害者が映画を楽しむための音声ガイドを作成する仕事をしていて、その練習をしていたのでした。
 寡黙な登場人物と限りなく美しい映像をスクリーンにそっと焼き付ける河瀬直美監督の映画では珍しく言葉言葉言葉…。それは当然のことで、この映画は映像を言葉で表現する音声ガイドがテーマで、音声ガイドの作成とそれにかかわるひとたちのドキュメンタリー映画でもあると思います。
 このトップシーンでは美佐子の心を何一つ語らないのですが、見たもの、見えているものを言葉に変えていく作業の中で、事務的にたたみかける言葉にある種の虚しさ、そしてそれが音声ガイドという仕事の難しさからだけではなく、まだ人生の行方に逡巡する一人の若い女性・美佐子の焦りのようなものが伝わってきます。
 音声ガイドの制作現場では、その予感のようなあいまいな感覚は現実のものとなり、この映画のテーマが重く美佐子に覆いかぶさってきます。
 視覚障害者のモニター数名が美佐子の作成した音声ガイドへの意見や助言を言い、それを次の会までに修正するという作業を何回も重ねて、音声ガイドが完成します。
 美佐子と雅哉が出会う場となったそこではもちろん対象となる映画は完成していて、セリフの合間に視覚障害者に場面の説明をする作業は、目で見ることのできない視覚障害者の「欠如」を補う役目を負うことになります。そこで、「足りないものを補い、助ける」という、障害者への「やさしい気持ち」が純粋であればあるほど、時には映画の内容と無関係に音声ガイドが一人歩きし、押しつけがましく「希望」や「夢」を与えようとします。
 それを雅哉は「あんたのひとりよがりの解釈だ」と言い放ちます。他の人たちもそれまで遠慮していたのか、雅哉の発言をきっかけに本音の感想を言い始めます。
 「目の見えるひとはスクリーンに映る映画を観るでしょう。けれどもわたしたちは映画を観るのではなく、映画の中に入っていくんです」。
 わたしはこの言葉にハッとしました。わたしがスクリーンに映る映画を観ている時、彼女たち彼たちはたかだか数メートル×十数メートルの四角い平面ではなく、「世界でもっとも遠いところにある」心の中のそれぞれの映画を生きているのだということを知りました。
 もともと、すべての出来事や映像を言葉に換えることなどできるわけもなく、まして視覚障害者に映画を説明するなどというのは健全者の傲慢さ以外の何物でもないのでしょう。
 その時、音声ガイドはその映画を語るのではなく、視覚障害者の映画体験をプロデュースし、もうひとつの映画をつくっているのかもしれません。
 と同時に、音声ガイドの制作にあたる人々がとても困難な作業を強いられていることも知りました。映画を説明するだけでいいのか、そもそも映画を説明できるものなのか、それを楽しむ視覚障害者もまた、音声ガイドによって映画の何を知ることかできるのか、そこに音声ガイド制作者の独善的な意図がふくまれているのかいないのか。視覚障害者一人ひとりによって感じ方が違い、弱視のひとや弱視から全盲になったひと、幼いころから全盲のひとなど、視覚障害といっても様々であることなどから、音声ガイドのあり方についても様々な考え方があることでしょう。

 わたしはこの映画を観て、若い頃に視覚障害者の友だちと映画を観に行き、私的なガイドをした経験を思い出しました
 1981年か82年で世の中が「国際障害者年」と湧き上がっていた時、「国際障害者年をぶっ飛ばせ」という映画祭が京大の西部講堂であり、わたしたちは原一男の名作「さよならCP」を観に行ったのでした。
 世の中の障害者観を指弾し、今でも輝きを増すこの映画は、脳性マヒ者集団「青い芝」の障害者たちが出演したドキュメータリーで、言語障害のある出演者たちへのインタビューに字幕を付けるべきかでも大論争がありました。彼らの主張は「字幕を付けたら字幕だけを見て、わたしの話を聞かなくなる」という、実にまっとうな意見でしたが、現実に脳性マヒ者の言葉は長い付き合いがないと理解できないということもあり、結局は字幕を付けることになりました。
 この映画の場合は話す言葉も伝えながら同時に町の風景などの映像も伝えなければならず、映画を説明する難しさを痛感した一方で、映画の場面場面を説明することでかえって当事者の想像力をさまたげてしまわないのかという疑問も持ちました。
 ともあれ、あれから40年近くの時が過ぎ、個人的な音声ガイドというボランティアではなく、まだまだ始まったばかりですがこの映画のように専門的なシステムによって音声ガイドのサービスが提供されるようになりつつあることは、ほんとうに喜ばしいことだと思います。
 そして、音声ガイドが「見えない」という、足らないものを補うためにあるのではなく、視覚障害者の伴走者として、当事者の想像力を妨げずに「もう一つの映画」を共につくることととらえる映画「光」は、映画づくりそのものがとても豊かであるばかりでなく、映画表現を通して障害を持つひとも持たないひとも共に助け合い、共に生きる社会の実現をわたしたちに提起しているとも感じました。
 音声ガイドを作成するひとたちが映画をつくるひとたちと同じように映画を愛する人たちであることが、そして音声ガイドを求める人たちもまた映画を愛する人たちであることが痛いほど伝わる映画でした。
 映画「光」は、キャチコピーにあるような「人生で多くのものを失っても、大切な誰かと一緒なら、きっと前を向けると信じさせてくれるラブストーリー」というより以上に、まさしく映画を愛するひとたちによってつくられ、映画を愛するひとたちに届けられた「映画への純愛」にあふれた名作だと思います。
 そして劇中映画「その砂の行方」の登場人物が語る、「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」という言葉は、映画への限りないオマージュとして、これからも私の心に残り続けることでしょう。

河瀬直美監督作品・映画「光」公式サイト

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2017.05.25 Thu わたしの「時には母のない子のように」

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友部正人「愛について」
 この歌を聴いていて、わたしは子どもの頃のある夜を思い出しました。わたしは母におんぶされているのでした。「なんでお店の物を盗むんや、自分の店の物でも盗んだら、おまわりさんのところにいますぐ行くよ」。
 わたしはその頃、友だちに仲良くしてもらうために、母が朝早くから深夜まで営んでいた一膳飯屋の店先のガムとかをたくさん盗んでは配っていたのでした。
 父親がいなくて、どもりの子どもがいじめられないための切ない行動でしたが、そんなことを母には決して言えませんでした。
 涙を汚い手でふきながら、それでもめったにおんぶなんかしてもらえなかったわたしは、母の震えるうなじとあたたかい背中にほほをぴったり引っ付けていました。

島津亜矢(カルメン・マキ)「時に母のない子のように」
 わたしは家を早く出たいと、高校生のころから思っていました。母と兄とわたしの過ごした子ども時代からさよならをしたかったのでした。36才でわたしを生んだ母も、たったふたりきりの兄弟の兄もけっしてきらいではなかったし、むしろ子どもの頃から世間になじまないわたしをとても心配してくれていました。
 でもわたしは、とにかくこの家から離れたかったのでした。父親がどんなひとなのかもわからない愛人の子。そのことでわたしたち子どもがひけめを感じないように父親と別れ、養育費ももらわず朝から深夜まで一膳飯屋をしてわたしたちを育ててくれた母。
 どれだけ感謝してもしきれない、いとおしい母のはずなのに、わがままで自分勝手とわかっているのに、わたしはそのことすべてからさよならをしたかったのでした。
 わたしは高校卒業を待ってすぐ、ともだちをたよる形で家を出ました。母は自立する息子のためにふとんをいっしょうけんめいつくってくれました。

島津亜矢「母ごころ宅急便」
 部屋の中はまだ暖房の残りで暖かそうでした。外の風は冷たく、窓ガラスは外気との温度差で曇っていて、部屋の中は楕円形にくりぬかれていました。
 その部屋は友だちの部屋で、その日わたしの数少ない友だちが5、6人、わたしを待っていてくれるはずでした。
 1969年の正月、わたしは22才になっていました。
わたしは風邪をこじらせ、年末から実家に帰っていて、正月に友だちの家に行く約束をしていたのでした。
 どれだけ待っていたことでしょう。友だちはいっこうに帰って来ませんでした。この日はとくに寒く、まして悪い咳が止まらず熱もあるわたしには、その寒さに耐える時間がそう長くあるわけではありません。
「血のつながった親兄弟と、あかの他人のともだちとどっちが大事やねん。どっちがお前を大切にしてるねん」。
 寝間から起きようとするわたしの体を羽交い絞めにおさえて叫んだ母と兄。
 泣きながら「ともだちや」と叫ぶと、「勝手にせえ、お前なんかもう知るか」と言った兄の声を背中に受けて家を飛び出してきたわたしは、いまさら実家に戻るわけにはいかず、長い間留守にしていた吹田のアパートに帰りました。
近所で買ってきたパンと牛乳をお腹に入れて、ぼくは布団を引いてもぐりこみました。暖房がなく、靴下を両手にはめて眠りました。冷たかった。悲しかった…。
その年の1月18日、わたしをかろうじて社会につなぎとめていたラジオからは、東大構内の安田講堂に立てこもった全学共闘会議派学生を排除しようと、機動隊によるバリケードの撤去が開始されたことを伝えていました。

島津亜矢「かあちゃん」
 1997年7月13日の早朝、母の病室から見える箕面の町は山の緑がきらきらかがやいていました。
母は一瞬、わたしの顔を見つめ、何か言いたそうな表情をしたと思うと、スーッと生きる気配を消しました。そして生きていた間の苦悩に満ちた年老いた表情が一瞬に消え、澱んだ瞳は碧く透き通りました。
 シングルマザーとしてわたしと兄を育てるためだけに生きてきたといえる30代から86歳までの彼女の人生は、私の想像もできない人生だったことでしょう。
 子どものわたしが言うのもおかしいですが、美人だった母に言い寄る男も、また好きだった男も何人かはいたはずです。
 そういえばタンスの奥にひそやかに一冊のポルノ雑誌をかくしているのを発見した時、子ども心にわたしのおよばない女性としての一面を垣間見たこともありました。
 そんな母が、わたしと兄を育てるためだけに生きぬいたことに、時がたつほどにどれほど感謝しても感謝しきれない母の愛を感じ、涙がこぼれます。しかしながらそれと同じ重さで、彼女の人生はほんとうにそれでよかったのかと考えてしまうのです。
 わたしは不憫な子でも、母が苦労してよかった思える親孝行の息子でもありませんでした。

島津亜矢「いのちのバトン」
 今年の7月、わたしは70才になります。
 先人が言う「人生はあっという間」という言葉が身に染みる今日この頃です。子どもの頃や青春時代にあこがれ、心をときめかせてくれた歌手や詩人、思想家などが次々とこの世を去っていき、ああ、わたしが生きてきた時代そのものが去っていくのだと痛感する今日この頃です。
 わたしは異性愛を絶対化し、親子の愛、母の愛を絶対化する社会の在り方に疑問を持っています。
 それがそのことだけにとどまらず、今ある国家や社会や世間が認める生き方を押し付けられ、またそれを他者に押し付けることに発展していくことに、とても危ういものを感じます。
 人類の長い歴史をふりかえれば、異端とされるものが次の時代をつくってきたことを想い起こしたいのです。
 だからこそ、「いのちのバトン」は、親や大人の心情や道徳律を押し付けることではなく、新しい時代をつくる子どもや孫の世代に希望をたくすことなのだと思います。

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2017.05.23 Tue 新しい日本のソウル・ミュージック 島津亜矢「時には母のない子のように」

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 ここ最近、地域のイベント「ピースマーケット・のせ」と友部正人コンサートに必死で、島津亜矢の記事が十分に書けませんでした。その間、島津亜矢はNHKをはじめとするテレビ番組で刺激的な歌を熱唱していて、今でも私の番組録画にストックされたままです。
 イベントも終わりようやく落ち着いてきたのですが、友部正人の半世紀におよぶ歌の旅を追走しているうちに虜になってしまい、なかなか彼の麻薬のような歌の世界から抜け出せないでいます。
 わたしは島津亜矢にめざめ、美空ひばりから、まだ記事を書けていないのですが高橋優、SEKAI NO OWARI、エレファントカシマシなどのポップス、果てはジャズやブルース、ロックに至る音楽の荒野を広げてきたのですが、友部正人はその誰ともちがう荒野を孤高に旅してきたひとで、ある意味島津亜矢とはもっとも違う道のりを歩んできた人です。
 友部正人のファンからも島津亜矢のファンからも怒られることを覚悟でいえば、もし人類が誕生して以来、私はここにいるというつぶやきや悲鳴から、それを受け取る誰かが一人二人と現れて歌が生まれたのだとすれば、友部正人の歌の歌詞にあるように「歌は歌えば詩になって行き」、「君が歌うその歌は世界中の街角で朝になる」のだと思います。
 友部正人が歌の生まれる瞬間を旅し続けるシンガー・ソングライターなら、島津亜矢は歌の生まれる瞬間へと立ち戻り、歌そのものが持つ記憶を時代の共有財産としてわたしたちに届けてくれる稀有なボーカリストで、二人とも世界に広がる荒野をすすむ孤高の旅人であり続けることでしょう。

 今回は先日島津亜矢がNHKの「うたコン」で熱唱した「時には母のない子のように」について書きたいと思います。実はこの放送があった5月16日の夜、わたしは友部正人コンサートの後始末で見ることができず、ユーチューブに上げてくれるファンの方の録画を見ました。
 既に数多くの方々が報告されていますが、この数年間の島津亜矢のカバー曲にとどまらず、もしかするとオリジナルの歌唱を含めても最高の歌唱ではないかと思います。
 「時には母のない子のように」は1969年に発表された歌ですから、島津亜矢はまだ生まれていません。ですからこの歌をカバーすることになれば歌詞と楽譜とオリジナル歌手のカルメン・マキの歌唱を研究するところから始めることになるでしょう。
 すでに何人かの歌唱力のある歌い手さんがこの歌をカバーしていますが、どのカバーも当時17歳だったカルメン・マキが無表情で歌う暗い歌という印象をなぞり、少し変わった歌謡曲という範疇で歌われているようです。
 しかしながら、島津亜矢はまったくちがう歌唱でこの歌を私たちに届けてくれました。それは単に明るく歌うことではなく、1969年という彼女自身が生まれる前の激動の時代につくられた歌が持つ記憶に導かれ、半世紀後の今、21世紀の日本のソウル・ミュージックとしてよみがえらせたのでした。
 そしてこの歌が歌謡曲という体裁をつくろいながら、あらためて黒人霊歌をルーツとするソウル・ミュージックであったことを教えてくれたのでした。
 島津亜矢が古い歌をカバーする時に懐メロにならないのは、先述したように歌には歌そのものが持つ記憶がいくつも隠れていることを知っていて、その記憶のひとつひとつを解きほぐし、歌の生まれた時代をよみがえらせることができるからです。そして、今回歌った「時には母のない子のように」は、最高のパフォーマンスでそれを成し遂げた歌唱であったと確信します。

 「時には母のない子のように」は、寺山修司が作詞を手がけた初期のいくつかの歌の中でも大ヒットした曲で、カルメン・マキを一躍有名にした他、1967年に結成した劇団・天井桟敷の存在も広く世に知られるきっかけにもなりました。
 寺山修司はその著書で美空ひばりや畠山みどりなど、数多くの歌手を取り上げています。70年安保闘争の主軸の一つだった大学生の学生運動よりも、彼は集団就職で地方から東京などの都会にやってきた若年労働者やフリーター、ヒッピーといわれる若者など、社会の底辺でうごめく若者たちによる「もうひとつの革命」を夢見ていたのでした。
 そして当時発禁となった「家出のススメ」を読んで寺山を頼ってきた若者たちの活動の場として劇団をつくり、その劇団の資金作りのために次から次へと本を出版したり映画の脚本を書いたりしていました。寺山修司の本は少なからず当時の若者たちに圧倒的な支持を得ていました。私もまた、その中の一人でした。
 彼のアカデミックなものへの攻撃は当時の現代詩にもおよび、書斎で書く詩よりも競馬の1レース分の長さの歌謡曲の方が、現代を生きるたくさんの人々に生きる勇気を与えると主張し、現代詩人よりも歌謡曲詩人・星野哲郎を高く評価していました。
「時に母のない子のように」は、そんな寺山修司が自らの作詞とプロデュースで歌謡曲の世界に挑んだ最初の試みといってもいいでしょう。
 この歌は母の愛を賛美する歌ではなく、母親が子どもを精神的に拘束し、近親相姦に近い背徳と所有欲から逃れたい願望が歌われています。それはまた親子の愛で若者を手なづけ、国家や大人たちの都合のよい人間に調教しようとする社会への反逆でもありました。
 当時この歌が実際に親のいない子どもたちを傷つけると批判がありましたが、その批判の根拠となる「両親がいて子どもがいる家族愛」というスタンダードな社会規範こそが、そうでない子どもを差別し傷つけていると考えていたわけでしょう。
 それよりも、この歌が黒人霊歌「Sometimes I feel like a motherless child」にインスパイヤされてつくられていて、奴隷としてアメリカに連れて来られ、二度と母親に会うこともなく過酷な苦役と差別の中で「時には母のない子のように思う」と嘆く黒人奴隷のあきらめに似た嘆きを隠しています。いわば「時には母のない子のように」はそれ自体、世界の暗黒の歴史を記憶していて、寺山修司が日本の大衆音楽である歌謡曲の形を借りて世に送り出したソウル・ミュージックだったのではないでしょうか。
 島津亜矢がそんなことを思って歌ったのかといえば、そうではないでしょう。反対に「感謝状~母へのメッセージ」と同じように、「母のない子になったなら、誰にも愛を話せない」と歌うことで、母の愛を賛美する歌と思っていたのかもしれません。
 彼女の稀有の才能は、たとえ彼女がそう思っていたとしても、歌の持つ記憶が彼女にほんとうのことを伝えてくれるのでした。
 ちなみにわたしは、どちらかといえば「感謝状」は苦手な歌で、この歌に限らず母の愛や親子の情よりは、同じ星野哲郎でも「兄弟仁義」のような「友情」を歌った歌が好きなんですが…。
 島津亜矢に「時には母のない子のように」をうたうことを依頼した「うたコン」の制作チームに拍手を送りたいと思います。このチームの中にはこの歌が単に母の愛を賛美する歌ではなく黒人霊歌を本家どりする寺山修司の隠し玉であったことをよく知り、ソウル・ミュージックやリズム&ブルースを歌える島津亜矢に、「I Will Always Love You」の向こうを張る日本のソウルを歌ってもらいたいと思う人たちがいるのでしょう。
 この番組への批判が演歌ファンに多く、Jポップのファンはこの番組を見ない状況は、実は島津亜矢と彼女を長年ボーカリストとして高く評価してきたNHKの音楽番組制作チームにとっては絶好のチャンスだと思います。
 かつて「BSの女王」と言われたころとよく似ていて、バラエティ化した番組構成にかくれて、どんな音楽的冒険もできる環境にあると思います。美空ひばりに対してそうであったように、島津亜矢にどんな歌を歌わせるのかと心躍らせて企画を練るこのチームに乾杯です。

島津亜矢「時には母のない子のように」

カルメン・マキ「時には母のない子のように」

Odetta「 Sometimes I Feel Like a Motherless Child」

Janis Joplin「Summertime」
ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲した「サマータイム」もまた、この黒人霊歌にインスパイアされてつくられました。
カルメン・マキはジャニス・ジョプリンを聴き衝撃を受け、ロックバンド「OZ」を結成し、数々の名演を残しました。2年前、天六の古書店で開かれたライブは総勢20人ぐらいのお客さんで、わたしは彼女と1メートルないぐらいの距離の席にいました。
素晴らしいライブで、寺山修司の呪縛から解放され、さまざまな音楽的冒険を経て今、寺山修司をこよなく愛する彼女が歌った「時には母のない子のように」は、本来のソウル・ミュージックに戻ったやさしさのあふれた歌になっていました。

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2017.05.22 Mon 自由を広げるための想像力が国家の監視の道具になる共謀罪の恐怖

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瀧口修造とアンドレ・ブルトン

 シュルレアリスムを日本に紹介し、アンドレ・ブルトンやマルセル・デュシャンなど現代芸術の先駆者と交流を持ち、戦後は大岡信、草間彌生、武満徹など他分野に渡り数多くの作家を育てた瀧口修造は1941年、シュルレアリスムの前衛思想を危険視され、治安維持法違反容疑で特高に逮捕、拘留されました。
 わたしは高校生の時、絵を描かない美術部員で「美術手帖」を愛読し、戦後の芸術をけん引した瀧口修造にあこがれていました。そして、その瀧口修造を危険人物とした特高とその背後の国家に、過去の事ながら恐怖を感じました。
 シュルレアリスムの理論的支柱だったフランスの詩人アンドレ・ブルトンは、当時の政治的変革をめざす国際共産主義に共鳴しながらも、政治的変革だけでは人間は解放されず、その政治的な力が人間を抑圧すると、後のスターリニズムを予言していました。
 瀧口修造もまた、政治的な変革よりも人間解放をめざす芸術に夢を膨らませていたのだと思います。当時の特高は共産主義革命による国家転覆を恐れていたのですが、彼らの監視の刃が政治的活動だけではなく、瀧口修造などの芸術家にまで向けられたことを、あらためて思い返さざるを得ません。
 今、さまざまな理由をつけて「共謀罪」を成立させようとしているこの国は、またしても国家に異議申し立てをしたり、国家の望む道徳律からはずれる自由な国民を危険人物とみなし、人間の心を牢獄に閉じ込めようとしています。
当時の国民の大半がおそらく知らなかっただろう瀧口修造を逮捕・拘束する国家の「想像力」にわたしは恐怖します。
わたしは共謀罪の本当の恐ろしさのひとつは、本来人間を解放する道具であるはずの「想像力」が監視の道具として国家にはく奪され、利用されることにあると思っています。
 そして、想像することが犯罪になるかも知れないという不安と恐怖は、わたしたちから想像力を奪い自由を奪うのと引き換えに、友人や親や妻子にすら猜疑心を持ち、自分の思いを他者に話さない、いや話せないまま口をつぐみ、国が用意する「善良な国民」という牢獄に閉じこもることになるのでした。
 芸術の中でも大衆芸術としての歌謡曲や芝居に押し寄せる抑圧は、大政翼賛会運動や国家総動員法のもと、軍による検閲や自主検閲により表現行為が狭められて行きました。
 共謀罪のターゲットは「危険な集団」で自分は守られる側にいると思っていたら、いつのまにか自分自身が「危険な人物」とされているという笑えない喜劇は、すでにはじまっているのだと思います。

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2017.05.19 Fri 里山能勢に友部正人が現れた。5月14日「ピースマーケットのせ」スペシャルコンサート3

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この日のセットリストです

1.彼女はストーリーを育てる暖かい木
    彼女は海辺の町にいて 今日も流木を拾いあつめる
    それは彼女が愛した男たちの骨 彼女が育てた物語にくべる薪
2.歌は歌えば詩になって行く
    いつかこの食べきれないほどの悲しみを
    沈みゆく炎の船に託す時が来るだろう
3.はじめぼくはひとりだった
    生きていることは愛なんかよりずっと素敵なことだった
    話しかけるのもぼくならば それに答えるのも僕だった
4.愛について
    父のいない子は愛について考え続ける 夫のいない母も愛について考え続ける
    愛について考えることでふたりは結ばれている
5.マオリの女
    テフラは一人の女ではなくて ゴーギャンにとってはマオリそのもの
    だからテフラが悲しい歌を歌えば それはマオリの歌となる
6.クジャックのジャック
    離れたほうがよく見えるから 離れたほうがよく聞こえるから
    男の子は世界の中心から離れた所にたたずむ大人になりました
7.公園のD51
    どうしてこんなにきれいにしちまうんだ 塗り直された町の商店街
    走る特急列車の窓の中 まばゆいイルミネーションの真ん中で
8.モスラ
    東京だけが照らされて 僕らの町は真っ暗だ
    東北モスラ 東北モスラ
9.ニューヨークシティマラソンに捧げる
    ニューヨークシティマラソンのコースには ランナーのための劇場がある
    今僕はその楽屋口から 君の待つ場所へと戻るところ
10.ただそれだけのこと
    その時ぼくは聴いたんだ 若い男がこう叫ぶのを
    僕は白人じゃない ただそれだけのこと
11.銀の汽笛
    この世に住みついた罰として 愛を牢屋に閉じ込めた
    誰かに夢中にならぬように 鉄格子を三本はめた
12.隣の学校の野球部
    夜明けにカラスが鳴いている カラス鳴け鳴けもっと鳴け
    隣の学校の野球部が 怒鳴る声よりもっとまし
13.朝は詩人
    風は長い着物を着て 朝の通りをめざめさせる
    僕は朝と手をつなぎ 夜まで眠ることにした
14.一本道
    ひとつ足を踏み出すごとに 影は後に伸びていきます
    悲しい毒ははるかな海を染め 今日も一日が終わろうとしています
15.From Brooklyn
    ひとつの車両に幸せな ふたりが一組いれば
    それだけでこの電車は 幸せを運んでいるんだと思える

アンコール
16.遠来
    ぼくらはいつもどこか遠くから ぼくらのいる星を眺めている
    そして僕も君もこの地球の上で 分かり合えないまま距離ばかりを大切にしている
17.夕日は昇る
    ねえ、知ってるかい 日暮れにおりて来た太陽が
    また昇りはじめて 雲の中にかくれて夜が来た

 書き出してみると言葉の宝石のようにきらきらした言葉が歌になる奇跡に立ち会っていたのだと感じる一方、これらの言葉が決して言葉遊びではなく、その言葉たちの後ろにいろいろな事柄が隠れていることに気づきます。
 もちろん、それはとても個人的なこともありますが、たとえば「彼女はストーリーを育てる暖かい木」には東日本大震災が、「歌は歌えば詩になって行く」には、テレビから流れる大事件を傍観者のように見ながら日常の食事をする怖さが、「はじめぼくはひとりだった」では、他者と出会うことで襲われる孤独が言葉のスクリーンから浮かび上がってきます。
  「愛について」は戦後すぐ、シングルマザーとして毅然と生き、わたしと兄を育ててくれた亡き母におんぶされた時の震えるうなじと悲しみの形をした背中を私に思い出させてくれました。
 「モスラ」は福島原発事故を、「ただそれだけのこと」はトランプを大統領にしたアメリカで黒人9人が白人の警官に殺された事件を歌っています。
一方で、「クジャクのジャック」や「隣の野球部」の歌は軽快なテンポでアイロニーにあふれた歌になっていて、「乾杯」など友部正人の歌にあった「トーキングブルース」を思わせます。

 あっというまに最後の曲も歌い終わり、アンコールで歌ってくれたのは「遠来」と「夕日は昇る」でした。ステージで言ってくれましたが、気持ちよく歌えたというお土産として、この2曲か選ばれたのでした。

 コンサートの後、カフェ「気遊」さんで打ち上げをしました。実は友部さんに連絡を取ってくれたのも「気遊」さんでした。気游さんの紹介ならばと友部さんが来てくれたわけで、最初から最後まで応援してくれた「気游」さんに感謝です。
 振り返ってみると、やはり能勢のアクセスの問題を軽く考えたわたしの企画の甘さを数多くの方々の応援で何とか成功へとこぎつけたのが実情です。
 応援してくださったみなさん、そしてなによりも能勢に来てくださった友部正人さん、ほんとうにありがとうございました。

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