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2017.05.23 Tue 新しい日本のソウル・ミュージック 島津亜矢「時には母のない子のように」

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 ここ最近、地域のイベント「ピースマーケット・のせ」と友部正人コンサートに必死で、島津亜矢の記事が十分に書けませんでした。その間、島津亜矢はNHKをはじめとするテレビ番組で刺激的な歌を熱唱していて、今でも私の番組録画にストックされたままです。
 イベントも終わりようやく落ち着いてきたのですが、友部正人の半世紀におよぶ歌の旅を追走しているうちに虜になってしまい、なかなか彼の麻薬のような歌の世界から抜け出せないでいます。
 わたしは島津亜矢にめざめ、美空ひばりから、まだ記事を書けていないのですが高橋優、SEKAI NO OWARI、エレファントカシマシなどのポップス、果てはジャズやブルース、ロックに至る音楽の荒野を広げてきたのですが、友部正人はその誰ともちがう荒野を孤高に旅してきたひとで、ある意味島津亜矢とはもっとも違う道のりを歩んできた人です。
 友部正人のファンからも島津亜矢のファンからも怒られることを覚悟でいえば、もし人類が誕生して以来、私はここにいるというつぶやきや悲鳴から、それを受け取る誰かが一人二人と現れて歌が生まれたのだとすれば、友部正人の歌の歌詞にあるように「歌は歌えば詩になって行き」、「君が歌うその歌は世界中の街角で朝になる」のだと思います。
 友部正人が歌の生まれる瞬間を旅し続けるシンガー・ソングライターなら、島津亜矢は歌の生まれる瞬間へと立ち戻り、歌そのものが持つ記憶を時代の共有財産としてわたしたちに届けてくれる稀有なボーカリストで、二人とも世界に広がる荒野をすすむ孤高の旅人であり続けることでしょう。

 今回は先日島津亜矢がNHKの「うたコン」で熱唱した「時には母のない子のように」について書きたいと思います。実はこの放送があった5月16日の夜、わたしは友部正人コンサートの後始末で見ることができず、ユーチューブに上げてくれるファンの方の録画を見ました。
 既に数多くの方々が報告されていますが、この数年間の島津亜矢のカバー曲にとどまらず、もしかするとオリジナルの歌唱を含めても最高の歌唱ではないかと思います。
 「時には母のない子のように」は1969年に発表された歌ですから、島津亜矢はまだ生まれていません。ですからこの歌をカバーすることになれば歌詞と楽譜とオリジナル歌手のカルメン・マキの歌唱を研究するところから始めることになるでしょう。
 すでに何人かの歌唱力のある歌い手さんがこの歌をカバーしていますが、どのカバーも当時17歳だったカルメン・マキが無表情で歌う暗い歌という印象をなぞり、少し変わった歌謡曲という範疇で歌われているようです。
 しかしながら、島津亜矢はまったくちがう歌唱でこの歌を私たちに届けてくれました。それは単に明るく歌うことではなく、1969年という彼女自身が生まれる前の激動の時代につくられた歌が持つ記憶に導かれ、半世紀後の今、21世紀の日本のソウル・ミュージックとしてよみがえらせたのでした。
 そしてこの歌が歌謡曲という体裁をつくろいながら、あらためて黒人霊歌をルーツとするソウル・ミュージックであったことを教えてくれたのでした。
 島津亜矢が古い歌をカバーする時に懐メロにならないのは、先述したように歌には歌そのものが持つ記憶がいくつも隠れていることを知っていて、その記憶のひとつひとつを解きほぐし、歌の生まれた時代をよみがえらせることができるからです。そして、今回歌った「時には母のない子のように」は、最高のパフォーマンスでそれを成し遂げた歌唱であったと確信します。

 「時には母のない子のように」は、寺山修司が作詞を手がけた初期のいくつかの歌の中でも大ヒットした曲で、カルメン・マキを一躍有名にした他、1967年に結成した劇団・天井桟敷の存在も広く世に知られるきっかけにもなりました。
 寺山修司はその著書で美空ひばりや畠山みどりなど、数多くの歌手を取り上げています。70年安保闘争の主軸の一つだった大学生の学生運動よりも、彼は集団就職で地方から東京などの都会にやってきた若年労働者やフリーター、ヒッピーといわれる若者など、社会の底辺でうごめく若者たちによる「もうひとつの革命」を夢見ていたのでした。
 そして当時発禁となった「家出のススメ」を読んで寺山を頼ってきた若者たちの活動の場として劇団をつくり、その劇団の資金作りのために次から次へと本を出版したり映画の脚本を書いたりしていました。寺山修司の本は少なからず当時の若者たちに圧倒的な支持を得ていました。私もまた、その中の一人でした。
 彼のアカデミックなものへの攻撃は当時の現代詩にもおよび、書斎で書く詩よりも競馬の1レース分の長さの歌謡曲の方が、現代を生きるたくさんの人々に生きる勇気を与えると主張し、現代詩人よりも歌謡曲詩人・星野哲郎を高く評価していました。
「時に母のない子のように」は、そんな寺山修司が自らの作詞とプロデュースで歌謡曲の世界に挑んだ最初の試みといってもいいでしょう。
 この歌は母の愛を賛美する歌ではなく、母親が子どもを精神的に拘束し、近親相姦に近い背徳と所有欲から逃れたい願望が歌われています。それはまた親子の愛で若者を手なづけ、国家や大人たちの都合のよい人間に調教しようとする社会への反逆でもありました。
 当時この歌が実際に親のいない子どもたちを傷つけると批判がありましたが、その批判の根拠となる「両親がいて子どもがいる家族愛」というスタンダードな社会規範こそが、そうでない子どもを差別し傷つけていると考えていたわけでしょう。
 それよりも、この歌が黒人霊歌「Sometimes I feel like a motherless child」にインスパイヤされてつくられていて、奴隷としてアメリカに連れて来られ、二度と母親に会うこともなく過酷な苦役と差別の中で「時には母のない子のように思う」と嘆く黒人奴隷のあきらめに似た嘆きを隠しています。いわば「時には母のない子のように」はそれ自体、世界の暗黒の歴史を記憶していて、寺山修司が日本の大衆音楽である歌謡曲の形を借りて世に送り出したソウル・ミュージックだったのではないでしょうか。
 島津亜矢がそんなことを思って歌ったのかといえば、そうではないでしょう。反対に「感謝状~母へのメッセージ」と同じように、「母のない子になったなら、誰にも愛を話せない」と歌うことで、母の愛を賛美する歌と思っていたのかもしれません。
 彼女の稀有の才能は、たとえ彼女がそう思っていたとしても、歌の持つ記憶が彼女にほんとうのことを伝えてくれるのでした。
 ちなみにわたしは、どちらかといえば「感謝状」は苦手な歌で、この歌に限らず母の愛や親子の情よりは、同じ星野哲郎でも「兄弟仁義」のような「友情」を歌った歌が好きなんですが…。
 島津亜矢に「時には母のない子のように」をうたうことを依頼した「うたコン」の制作チームに拍手を送りたいと思います。このチームの中にはこの歌が単に母の愛を賛美する歌ではなく黒人霊歌を本家どりする寺山修司の隠し玉であったことをよく知り、ソウル・ミュージックやリズム&ブルースを歌える島津亜矢に、「I Will Always Love You」の向こうを張る日本のソウルを歌ってもらいたいと思う人たちがいるのでしょう。
 この番組への批判が演歌ファンに多く、Jポップのファンはこの番組を見ない状況は、実は島津亜矢と彼女を長年ボーカリストとして高く評価してきたNHKの音楽番組制作チームにとっては絶好のチャンスだと思います。
 かつて「BSの女王」と言われたころとよく似ていて、バラエティ化した番組構成にかくれて、どんな音楽的冒険もできる環境にあると思います。美空ひばりに対してそうであったように、島津亜矢にどんな歌を歌わせるのかと心躍らせて企画を練るこのチームに乾杯です。

島津亜矢「時には母のない子のように」

カルメン・マキ「時には母のない子のように」

Odetta「 Sometimes I Feel Like a Motherless Child」

Janis Joplin「Summertime」
ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲した「サマータイム」もまた、この黒人霊歌にインスパイアされてつくられました。
カルメン・マキはジャニス・ジョプリンを聴き衝撃を受け、ロックバンド「OZ」を結成し、数々の名演を残しました。2年前、天六の古書店で開かれたライブは総勢20人ぐらいのお客さんで、わたしは彼女と1メートルないぐらいの距離の席にいました。
素晴らしいライブで、寺山修司の呪縛から解放され、さまざまな音楽的冒険を経て今、寺山修司をこよなく愛する彼女が歌った「時には母のない子のように」は、本来のソウル・ミュージックに戻ったやさしさのあふれた歌になっていました。

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2017.05.19 Fri 里山能勢に友部正人が現れた。5月14日「ピースマーケットのせ」スペシャルコンサート3

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この日のセットリストです

1.彼女はストーリーを育てる暖かい木
    彼女は海辺の町にいて 今日も流木を拾いあつめる
    それは彼女が愛した男たちの骨 彼女が育てた物語にくべる薪
2.歌は歌えば詩になって行く
    いつかこの食べきれないほどの悲しみを
    沈みゆく炎の船に託す時が来るだろう
3.はじめぼくはひとりだった
    生きていることは愛なんかよりずっと素敵なことだった
    話しかけるのもぼくならば それに答えるのも僕だった
4.愛について
    父のいない子は愛について考え続ける 夫のいない母も愛について考え続ける
    愛について考えることでふたりは結ばれている
5.マオリの女
    テフラは一人の女ではなくて ゴーギャンにとってはマオリそのもの
    だからテフラが悲しい歌を歌えば それはマオリの歌となる
6.クジャックのジャック
    離れたほうがよく見えるから 離れたほうがよく聞こえるから
    男の子は世界の中心から離れた所にたたずむ大人になりました
7.公園のD51
    どうしてこんなにきれいにしちまうんだ 塗り直された町の商店街
    走る特急列車の窓の中 まばゆいイルミネーションの真ん中で
8.モスラ
    東京だけが照らされて 僕らの町は真っ暗だ
    東北モスラ 東北モスラ
9.ニューヨークシティマラソンに捧げる
    ニューヨークシティマラソンのコースには ランナーのための劇場がある
    今僕はその楽屋口から 君の待つ場所へと戻るところ
10.ただそれだけのこと
    その時ぼくは聴いたんだ 若い男がこう叫ぶのを
    僕は白人じゃない ただそれだけのこと
11.銀の汽笛
    この世に住みついた罰として 愛を牢屋に閉じ込めた
    誰かに夢中にならぬように 鉄格子を三本はめた
12.隣の学校の野球部
    夜明けにカラスが鳴いている カラス鳴け鳴けもっと鳴け
    隣の学校の野球部が 怒鳴る声よりもっとまし
13.朝は詩人
    風は長い着物を着て 朝の通りをめざめさせる
    僕は朝と手をつなぎ 夜まで眠ることにした
14.一本道
    ひとつ足を踏み出すごとに 影は後に伸びていきます
    悲しい毒ははるかな海を染め 今日も一日が終わろうとしています
15.From Brooklyn
    ひとつの車両に幸せな ふたりが一組いれば
    それだけでこの電車は 幸せを運んでいるんだと思える

アンコール
16.遠来
    ぼくらはいつもどこか遠くから ぼくらのいる星を眺めている
    そして僕も君もこの地球の上で 分かり合えないまま距離ばかりを大切にしている
17.夕日は昇る
    ねえ、知ってるかい 日暮れにおりて来た太陽が
    また昇りはじめて 雲の中にかくれて夜が来た

 書き出してみると言葉の宝石のようにきらきらした言葉が歌になる奇跡に立ち会っていたのだと感じる一方、これらの言葉が決して言葉遊びではなく、その言葉たちの後ろにいろいろな事柄が隠れていることに気づきます。
 もちろん、それはとても個人的なこともありますが、たとえば「彼女はストーリーを育てる暖かい木」には東日本大震災が、「歌は歌えば詩になって行く」には、テレビから流れる大事件を傍観者のように見ながら日常の食事をする怖さが、「はじめぼくはひとりだった」では、他者と出会うことで襲われる孤独が言葉のスクリーンから浮かび上がってきます。
  「愛について」は戦後すぐ、シングルマザーとして毅然と生き、わたしと兄を育ててくれた亡き母におんぶされた時の震えるうなじと悲しみの形をした背中を私に思い出させてくれました。
 「モスラ」は福島原発事故を、「ただそれだけのこと」はトランプを大統領にしたアメリカで黒人9人が白人の警官に殺された事件を歌っています。
一方で、「クジャクのジャック」や「隣の野球部」の歌は軽快なテンポでアイロニーにあふれた歌になっていて、「乾杯」など友部正人の歌にあった「トーキングブルース」を思わせます。

 あっというまに最後の曲も歌い終わり、アンコールで歌ってくれたのは「遠来」と「夕日は昇る」でした。ステージで言ってくれましたが、気持ちよく歌えたというお土産として、この2曲か選ばれたのでした。

 コンサートの後、カフェ「気遊」さんで打ち上げをしました。実は友部さんに連絡を取ってくれたのも「気遊」さんでした。気游さんの紹介ならばと友部さんが来てくれたわけで、最初から最後まで応援してくれた「気游」さんに感謝です。
 振り返ってみると、やはり能勢のアクセスの問題を軽く考えたわたしの企画の甘さを数多くの方々の応援で何とか成功へとこぎつけたのが実情です。
 応援してくださったみなさん、そしてなによりも能勢に来てくださった友部正人さん、ほんとうにありがとうございました。

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2017.05.19 Fri 里山能勢に友部正人が現れた。5月14日「ピースマーケットのせ」スペシャルコンサート2

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 5月14日、当日の能勢は前日の激しい雨が嘘のように上がり、真っ青な空に包まれていました。昼のイベントに来てくれたお客さんの数が昨年の半分ぐらいで、少し寂しい思いをしましたが、それでも農繁期で能勢の住民が出て来にくい中でこの町に近隣の町のひとたちが600人から700人の人が来てくれたことに感謝しかありません。
 わたしは夕方の友部正人コンサートの担当でしたので、1時半に別のスタッフに車の運転をしてもらい、能勢電鉄の山下駅に友部さんを迎えにいきました。
 2時11分、約束の時間に友部夫婦が現れました。このコンサートの打ち合わせなどで連れ合いさんにお世話になりましたが、このお二人は「夫婦」という以上にお互いに深い愛情と信頼と尊敬(?)を分ちあう特別なパートナーのようでした。
 車で会場の淨るりシアターに向かう途中、静かでほとんど話されない友部さんがポツリと「カエル」とつぶやきました。能勢は今田植えの時期で、田んぼに水が入るといっせいにカエルたちが歌いはじめ、おしゃべりに忙しい季節なんです。
 会場につき、控室に案内しました。すでに2時半をまわっていて3時のリハーサルまであまり時間がありませんでしたが、控室にいる友部さんは静かでステージに立つのとまったく変わりませんでした。

 会場は500人収容の大ホールに150人のお客さんで、友部さんが寂しい思いをしないかと心配しましたが、そっと客席を見るとちょうどいい感じになっていて、友部さんの歌をじっくりと聴こうと待っているお客さんの息づかいが聞こえるようでした。
 開演時刻になり、友部さんはいつものように静かにステージの真ん中に立ちました。あいかわらずで「愛想」がなく、「こんにちは」という一言ですぐに歌い始めました。
 わたしはその瞬間、涙が出てしまいました。1970年代のひりひりした青春の刃が心に突き刺さり、「柔らかい痛み」がいつまでも消えなかった友部さんのだみ声とダムが決壊するように次々とあふれ出る言葉と変わらない弾き語りのスタイル…、あの時、激動の季節が嘘のように消え去り、何事もなかったかのように高度経済成長のベルトコンベアから振り落とされまいとしがみついたわたしたちは、いくつもの大切なものを自分の代わりに捨てることでかろうじて生き延びたのかも知れません。
 道という道が黒い土からアスファルトに変わろうとしていたあの時、影という影をなくす巨大な光にさらされた時代の袋小路から、吟遊詩人・友部正人の旅は始まったのだと思います。そして、同じ時を生き同じ空気を吸ったわたしもまた、実人生とは別の「もう一つの人生」を生きるあかしとして、友部正人の歌に極度に感情移入していました。
 あれから45年が過ぎた2017年5月、ああ、友部さんの旅はまだ終わっていない。そして、わたしの旅もまた…。このひとのかたくななまでにすがすがしい歌がわたしの澱んでいた心の水を波立たせ、あの「やさしい痛み」がよみがえりました。

 ライブはいつものように淡々とすぎていきましたが、静かな演奏の中でも少しずつ友部さんの心が高まっていくように感じたのは、私だけではありませんでした。その変化はなんだろうと思っていたら、会場のお客さんが前のめりに聴き入り、おそらくはじめて聴く歌ばかりなのに友部さんの歌が生まれる場所から友部さんと一緒に旅をしているからなのでした。友部さんの歌が誕生する瞬間に彼が何を感じ、時代が彼に何を手渡したのか、その現場に友部正人と一緒に立っている感覚は、同時代に生きるわたしたちひとりひとりの心に記憶としての歌がよみがえる感覚なのだと思います。
 初めて聴く人たちが多いと感じたからでしょうか。この日の歌には新しい歌とともに、70年代からのたくさんの歌の中の名曲で構成されていたように感じました。
つづく
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2017.05.17 Wed 里山能勢に友部正人が現れた。5月14日「ピースマーケットのせ」スペシャルコンサート1

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 5月14日、能勢町の淨るりシアターの舞台に友部正人さんが現れました。
 わたしはいつか、こんな夜が来ることを20年以上前から夢見ていました。
 わたしが箕面の豊能障害者労働センターで活動していた時、年に一度、コンサートや映画会、講演会などを開いてきました。その当時、「心やさしい」福祉制度の中でひっそり活動することが普通だった時代、その「心やさしい」制度が障害者を閉じ込めていると考えたわたしたちは、福祉の枠組みの外、町のど真ん中で障害を「個性」として表現したいと思いました。
 その思いから地域でお店をはじめることになり、全国的に通信販売でカレンダーを販売し、そのうちにTシャツや雑貨も販売するようになりました。
 さらに毎年イベントをすることで日常活動を応援してくれる人々に助けられながら、新しい支援者を求めるという自転車操業でその収益を障害のあるひともない人もみんなで分け合っていました。
 小室等、長谷川きよし、山田太一、永六輔、筑紫哲也、桑名正博、小島良喜…、ほんとうに素晴らしいひとたちが箕面に来てくれました。大半が豊能障害者労働センターの元代表の河野秀忠さんが障害者問題の雑誌の編集長だったことで、そのつながりから来てくれました。
 また桑名正博さんや小島良喜さんは、たまたま現在松竹新喜劇・主宰の渋谷天外さんのお兄さんが開いておられたパン屋さんの店先で衣料品の販売をさせてもらっていた時、渋谷天外さんがその頃東京で活動されていた桑名さんに声をかけてくれたのが縁で、1990年から5回も箕面に来てくれました。
 実際のところ、日常活動をしながら毎年イベントを開くことは至難の業でしたが、その頃のわたしたちは世間や町から忘れられないように、「自分たちがここにいる」と声を限りにさけぶようにイベントをしていたのでした。
 そんな嵐のような時代でしたが、障害をもつひとが一人で暮らせるだけのお金をつくりだしながら、イベントなどに招待されるだけの存在から自らイベントを企画する集団として、見果てぬ夢と重なるようなアーティストに来てもらおうと、出演してくれるアーティストを探すアンテナをはっていました。そして、友部正人さんはいつか箕面に来てもらおうと思っていた一人だったのです。
 たしかに障害者に理解があり、支援してくれるアーティストがたくさんいる中で、なぜ友部さんかというと、聴く人の満足を求めてすり寄ることがなく、孤立も孤独も恐れない勇気を持った自由の精神から言葉が紡ぎ出され、メロディが生まれる彼の歌の行方そのものが、豊能障害者労働センターの終わらない旅の行方とつながっていると確信していたからでした。
 「自由より他に神はなし」、心の底よりまだ底へと降りていくと、そこに広がっているのは自分のものでも他人のものでもなく、また誰もが共有できる空と海と森と風と土と…、そこからふつふつと生まれる友部さんの言葉はそれ自体がすでにメロディを持っています。
 それを詩とよぶこともできるでしょうが、わたしは「歌」そのものとして、歌でなければならない歌、歌以外では表現できないたましいの発露が友部さんの歌なのだと思います。
 そして豊能障害者労働センターもまた、障害を持つというだけで理不尽な仕打ちを受けてきた障害者が、かけがえのない個性を持った一人の人間として全的な自由と市民権を求める「新しい歌」をせつなくも激しく求めつづけていたのでした。
 それを「やわらかなかくめい」と呼ぶこともできるでしょうが、それをロック音楽と呼んだ時、友部さんの歌がロックそのものなのだと知りました。

 わたしは実は、フォークソングともロックともジャズとも縁がない人生を送ってきました。何度もこのブログで書いていますが、子どもの頃から歌謡曲の人間で、美空ひばりから畠山みどり、春日八郎から三橋美智也など1950年代から60年代にラジオから流れてきた歌謡曲から勇気をもらい、いつかはこの貧乏とこの黒い土だらけの町から脱出することをもくろんでいました。「リンゴ追分」と「この世の花」、「哀愁列車」と「出世街道」が小林旭の日活映画「ギターを持った渡り鳥」とともに、実際には明るいはずもなかった未来に夢を託していました。
 そんなわたしが高校生になり、友人たちからボブ・ディランとビートルズをおそわり、はじめて外国のポップミュージックに触れることになりました。そして、高校を卒業してからヒッピーまがいの暮らしを経て1970年代にいたる安保闘争とベトナム戦争反対といった激動の時代、同世代の若者たちが社会や政治に異議申し立てをすることに賛同しながらも、実際の行動には参加しなかったわたしにとって、皮肉にも激動の時代の終焉はよど号事件ではなく、ビートルズの解散でした。
 わたしの実人生も無職でぶらぶらしていたこの時代を終わらせるべく、今、森友学園問題で全国的に知られるようになった豊中市庄内の小さな町工場に就職したところでした。
 わたしにも青い時があったとしたら、まさにこの10年を語ることになるのですが、政治的な行動とは無縁であったはずのわたしですら自分の青春を語ろうとするとこの時代背景を抜きにはありえず、フォークソングやアンダーグラウンド芸術といわれたアートや演劇などに心を奪われるようになりました。
 それはまた、ビートルズという「精神的支柱」をなくしたわたしにとって、政治的な革命とは別のフォークやロックやジャズによる「もうひとつの革命」ともいえるもので、三上寛とジャックスやジョン・コルトレーンに酔いながら、その幻想を貪り食っていました。
 1969年の新宿フォークゲリラ集会とその後の中津川フォークジャンボーリー、春一番コンサートへとつづく、社会への異議申し立てに呼応するように次々とフォークシンガーが誕生する中で、友部正人はまったく独自な存在感を持ち、火傷しそうな青春という刃で時代の風と立ち向かい、変わりゆく風景を背景に極限にまで純化された若者の心を圧倒的な言葉で歌っていました。
つづく

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2017.05.06 Sat 歌の旅人・友部正人と「祝!春一番コンサート」

5月5日、今年も箕面のKさんと毎年恒例の「祝!春一番コンサート」に行きました。
 車いすを利用しているKさんは車の運転ができるので、箕面駅で待ち合わせをして、会場の服部緑地野外音楽堂に向かいました。彼の車は上に降りたたんだ車いすを直せるようになっていて、近くの駐車場に車を止め、車いすを出す時と運転席から車いすに乗り移る時に少しだけ手助けする程度で、車いすもアシスト付きで自分で移動するため、ほとんど介護を必要としません。わたしにとっては車で連れて行ってくれる友人というわけでとてもありがたいのです。
 毎年一人で行っていたこのコンサートですが、彼と行き始めて今年で4回目になります。
 といっても11時から7時ぐらいまでずっとというのはさすがにきつく、いままでは昼から参加するようにしていました。
 今年は彼の体調がよく、昼の弁当とお茶を箕面のスーパーで買っておいて最初から参加することができました。3日間連続で開催されるコンサートですが、3日つづけてみる時間もお金もないため、おのずと3日間にわたる多数の出演者の内、お目当てのミュージシャンが出演する日に行くことになります。
 少し前は友部正人、木村充揮、山下洋輔、坂田明などがどの日に出演するか見て、当然みんな一緒に出ているわけがなく、悩みながら行く日を決めていました。
 ところが、「祝!春一番コンサート」のもうひとつの楽しみは、それほど音楽に詳しくないいわたしにとって、テレビなどの音楽番組では出会えない、「自分たちがやりたい音楽と自分たちが聴きたい音楽」をつなぐグラスルーツな場所で、素晴らしいミュージシャンと出会えることです。
 そこで出会った曾我部恵一やヤスムロコウイチは、どの日に行くか悩むぜいたくをまた一段とふやしてくれました。そして今年、わたしにとってのきら星に吉元優作が加わりました。
 今年は音楽を純粋に楽しむだけでなく、もう開催まで10日もない「ピースマーケット・のせ」のラストを飾る「友部正人コンサート」のための宣伝と、友部さんご本人への挨拶も兼ねて参加したので、特に会場の11時までに行き、チラシをまけたらと思っていました。ところが会場に着くと、友人の増田俊道さんが入場を待って並んでいるひとたちにチラシを撒いてくれているではありませんか。さらに、豊中の山口光枝さんがそれよりも早くから撒いてくれていて、とても勇気をいただきました。わたしも参加し、3人でほぼ入場するひとにチラシを撒くことができました。増田さん、山口さん、本当に感謝です。

 11時に「ぐぶつ」から始まり、豊田勇造、光玄、良元優作、友部正人、ヤスムロコウイチ、三宅伸治とつづき、最後の小川美潮まで、たっぷり7時までシャワーを浴びるように音楽が心と身体に溶け込んでいきました。
 なかでも、やはり友部正人!
 友部さんは2時くらいの一番暑い時に登場しました。
 歓声が上がり、ステージ前の広場にファンが座り込みました。
 圧倒的な存在感は、プロデューサーの福岡風太さんが呼び込みで話したように、1971年の春一番当時からのミュージシャンが亡くなっていく一方、年を重ねるごとに次々と新しいひとたちが参加してきたこのコンサートが、一般の音楽シーンにはない「あこがれ」でありつつづけていることと重なるのです。
 このコンサートに出演することが何かになるわけではないのに、ハードボイルドでありながら底抜けに優しく、音楽だけでないそのひとのすべてを受け入れ、出演者、スタッフ、観客がともにつくりあげる「市民の市民による市民のための音楽祭」に出演することがもうひとつのステイタスになっているこのコンサートそのものの存在感を、友部さんが体現しているからなのだと思いました。
あまり声の調子がよくないようでしたが、そんなことをまったく問題にしない観客の前で歌いはじめた友部さんの立ち姿は、ほんとうに春一番にふさわしいものでした。
 そして、うれしいことに演奏の間に2回も能勢のコンサートのことを話してくださり、彼にとってはめずらしいことで、感謝感謝でした。
 友部さんの歌を聴きながら、わたしは歌が誕生する泉へといざなわれていくように感じました。そこにはおよそ人間が歌を発明して以来満天の星屑の何倍ものおびただしい歌たちが眠っているのでした。友部さんはその泉から歌と言葉の破片をいとおしく掬い上げ、今また歌を必要とする心に届けてくれるのでした。
 若かった頃はひりひりとした醒めた熱情がほとばしる「青い歌」が、漂流する時代を生きる孤独な若者に勇気を届けてくれましたが、1990年代以降ますます過酷になる時代を生き抜くためには「物語」が必要で、友部さんの歌はまるで一本の映画の片隅に取り残された小さな物語のようで、わたしたちはその物語の彼方にささやかな希望を見つけることでしょう。
 半世紀に届く長い年月の間につくられ歌われた歌は時代を越えてまじりあい、いさぎよさと瑞々しさにあふれていました。とりわけこの日の2番目に歌った1990年代の名曲「月の光」が、わたしの心のもっとも柔らかい所にやさしい痛みを届けてくれました。

 月の光よ、見ていておくれ
 ぼくたちの姿をとらえておくれ
 一人の人の手足じゃないぼくたちを
 一人の人の顔じゃないぼくたちを
友部正人「月の光」1999年

 その他のどの出演者も春一番らしく素晴らしい演奏でしたが、中でも久しぶりに豊田勇造の歌が聴けたことも収穫でしたし、先ほど書いたようにヤスムロコウイチと今年初めて聴いた良元優作に惹かれましたが、なんといってもトリの小川美潮はこの日の最高のパフォーマンスの一つでした。小川美潮さんは能勢の「気遊」で一度聴きましたが、メルヘンともシュールレアリスムともジャズとも思える広がりのある歌と、シンプルで緩くポップで明るい小川美潮の歌の世界は不思議な魅力にあふれていました。
 その小川美潮のユニットに、小島良喜とともに井上陽水のツアーで何回か聞いている今堀恒雄が入っていて、どんな演奏を聴かせてくれのかと思っていましたが、かなりのロックサウンドでびっくりしました。今堀恒雄のギターはもちろんでしたが、小川美潮のボーカリストとしての力量にも圧倒されました。
 暑い一日で、暑さに弱いKさんが大丈夫かなと思いましたが、日陰を求めて移動し、途中では会場の外で涼みながらでしたが、最後まで楽しむことができました。

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