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2011.06.25 Sat さらば、わが青春 映画「マイ・バック・ページ」

映画「マイ・バック・ページ」
たとえば青春は
暗い路地を走り抜けた後に広がる青空
廊下に出るその一瞬に部屋に残した風
飛び乗った列車の窓から行方不明になった
もうひとりのぼく
長い時間を貯金した忘れ物の傘のように
たとえばそれがぼくの青春
長い非常階段の踊り場で
行方不明のぼくたちが手をふっている
洗いざらしのTシャツを着て
街に出て映画でも見に行こう
まばたきをするだけで世界は変わる

 1970年4月10日、ビートルズが解散しました。ビートルズが解散するほんの数日前、羽田空港発の日航機「よど号」が、飛行中に日本刀や爆弾で武装した9人の赤軍派にハイジャックされる事件が起きました。
 被害者の方々には申しわけないが、ぼくの中でよど号事件とビートルズの解散は切り離せず、解散の直前に発売された実質上最後のアルバム「アビーロード」の一曲で、ジェット機の轟音が流れる「アイ ウォンツ ユー」を聞くと反射的によど号事件を思い出します。
 僕はその時、友人数人で須磨の海岸に行きました。今から思えば滑稽ですが、ぼくたちはみんなで大きな石を海になげて、ビートルズの解散をぼくたちなりの儀式で見届けたのでした。
 その滑稽な儀式はビートルズへの別れだけではなく、ぼくの1960年代への別れでもありました。妻と結婚し、それから18年も働くことになった工場勤めをすることになりました。
 それはちょうど学生運動をしていた大学生が社会に出て行くのと時を同じくしていて、ぼくもまたへたくそなりにも社会に順応するための努力をはじめなければならなかったのでした。
 さびしくもあったしなぜかかなしくもありましたが、同時によくも悪くも大人になろうとする自分を認めるもうひとりの自分がいました。
 あたりまえのことですが、妻との暮らしをはじめるには安定したお金を得なければなりませんでした。70年安保闘争で騒然としていた世の中は、運動に参加しなかったぼくでさえ納得できない鬱屈な感情を押し込め、理不尽さと静けさを取り戻していました。
 対人恐怖症にくわえて不器用なぼくにとって工場勤めは苦痛でした。それまでの3年間、青臭く「自分たちだけの経済、社会と関わりない暮らし」をめざして友人6人と暮らし、夢破れて「怖い社会」に紛れ込もうとする緊張で心はハリネズミのようでした。

 映画「マイ・バック・ページ」のラストシーンで、沢田がふらりと飲み屋に入ると、その店主は映画の冒頭で沢田がルポを書くために身分を隠して潜入したテキヤのタモツでした。タモツは結婚し、子供までいます。屈託なく、再会を喜んでくれたタモツが「あれからどうしてたの?ジャーナリストにはなれたの?」と訊かれて、沢田は「いや、なれなかった」と答えます。飲み屋のカウンターごしに、映画はゆっくりと沢田を映し続けます。沢田はやがて涙を流し、そして激しく慟哭するのでした。
 もちろん、この語り継がれるだろうラストシーンは、映画だからこそすくい上げられたものでしょう。この沢田の涙をどう感じるかは、観るひとそれぞれでしょう。
 社会正義に燃え、社会を自分のペンで変える野心を持った沢田と、社会を変えるためには誰かの命を犠牲にしてもしかたがないと主張する梅山。本物になりたい、何者かになりたいと夢見て、なり損ねた3年間。それは沢田にとっても梅山にとっても、代償が大きすぎた「青春」そのもので、同じ時代のたくさんの沢田、たくさんの梅山、たくさんの人びとが、そして時代をこえてだれもが一度は通りすぎる冥府なのだと思います。
 そして、タモツと再会することで、ほんとうは巷の路地裏で必死に生きている人々、地道に貧しいながらも生きる人々の方にこそ時代の真実があったのかも知れないと思った時、沢田のひとみから流れた涙は、深いむなしさと絶望の底から、人生のほんとうの意味をつかんだことへのほろ苦いうれし涙でもあったのではないでしょうか。
 川本三郎のそれからの活動の根源を示すようなこのシーンに、わたしもぐっと涙をこらえました。
 青春という海岸線があるとしたら、波が引いた後の砂浜にとり残された記憶の破片を拾いながら、わたしもまたいつのまにかおとなになっていたのでした。わたしの60年代はおよそ政治活動とは縁がなかったけれど、この映画に映しだされた街の袋小路で息をして、時代の階段の踊り場に座り、サルトルを読みながら、「ぼくはまわりのおじいちゃんやおばあちゃんみたいにはならないぞ」と青臭くうぬぼれ、イキガッテいたビル清掃員の孤独とともに終わったのでした。
 ふりかえると時代はわたしたちのそれぞれの青春を遠くに残して走りはじめていました。
 わたしはといえば、慣れないながらもサラリーマンの知恵をようやく身につけていました。仕事が終わりパチンコ屋にかけこむと森進一、前川きよし、藤圭子、北島三郎、青江美奈の歌がガンガンかかっていました。はじめてもらったボーナスでステレオを買い、ボブ・ディラン、ジョン・コルトレーン、三上寛、小室等などのレコードを買いあさっては聴きました。FMからはジョン・レノンの「イマジン」が流れていました。

 そして、長い年月が流れ、1982年、わたしは豊能障害者労働センターと小泉さん、梶さんと出会いました。彼らとの出会いで、わたしははじめて若い時から逃げつづけてきた社会とコミットすることを学びました。それからの16年間、豊能障害者労働センターで「貧乏」と「差別」と向かい合う日々は、1960年代に「何者」かになりそこねた人間の「もうひとつの青春」でした。
 そして、そんなに音楽のことなどくわしくないわたしですが、多くのひとに教えられて、アメリカのブルーズ、ジャズ、イギリスのロックなどと出会い、小室等、桑名正博、長谷川きよし、小島良喜、近藤房之助、鶴谷智生、金澤英明など、すぐれたミュージシャンのライブやコンサートを開くこともできました。
 いま、実は島津亜矢のニューアルバムを聴きながらこの記事を書いているのですが、島津亜矢のファンになれたのも、いまから思えばあの60年代から70年はじめの青春を生きたからなのだと思うのです。
 映画「マイ・バック・ページ」は、あの特別な時代を映画の中で泳がせながらも、どの時代にも通じる、そして今につながる「青春のページ」を開いた名作として、観た人の心に残ることでしょう。たとえそれが、ひとりひとりの暗闇をてらすものであっても…。

 つぎの記事は興味のない方には申し訳ないのですが、島津亜矢のニューアルバムのことになってしまいます。いま、こころ切なく聴いています。
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