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2018.01.17 Wed 阪神阿淡路大震災から23年・わたしたちは2つの時間を生きている

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 阪神淡路大震災から23年…。
 ずいぶん時が流れ、その後の時間がぼんやりとしているのに、23年前のあの時のことは些細なことまでくっきりと覚えています。
 わたしが住んでいた箕面市は神戸・阪神地区のような大きな被災もなかったのですが、それでも大きな揺れで一部の建物や部屋の中のものなどはひっくり返りました。
 当時在職していた豊能障害者労働センターの事務所はわたしの自宅に近く、その頃はまだ事務所で仮住まいしていた脳性まひの梶敏之さんがいて、夜の介護の人から電話があり、事務所の戸棚がひっくり返り、食器がたくさん割れたこと、その片づけはしたけれどもう仕事に出てしまうので、すぐに来てほしいと言われましたが、その後も激しく揺れるのが怖くて、生返事をしてまた布団にもぐってしまいました。
 妻にせかされ、やっと事務所に行くと、梶さんが入り口で待っていて、わたしと梶さんの間で、あれほど私の来るのを待ってくれたのはあの時だけでした。
 その日は仕事どころではなく、阪神方面から来ている障害者スタッフもいましたから、お互いの安否確認をし、全員運よく無事だったことを確認しました。
 それからの豊能障害者労働センターは被災障害者の救援物資のターミナルを引き受けた関係で、怒涛の日々が4月半ばまで続きました。
1月の末、わたしは救援物資を山と積んで運転してくれるスタッフとともにはじめて被災地に行きました。
 東灘地区で車から降りると、一面がれきの荒野で遠く所々に忘れられたようにビルのような建物が今にも崩れそうに斜めに立っているのがぽつりぽつりと見えました。
 目の前は屋根ばかりが建築図面の見取り図のように横たわり、あたり一面がかすみがかかったようになっていて、それはほこりが風に舞い、煙っているのだとわかりました。
 その煙ったほこりが、つい先日まで何百人何千人の人々がその屋根屋根の下で生きていた証なのだと思い、胸が締め付けられる思いでした。
 豊能障害者労働センターは1995年の被災障害者救援活動をへて、大きく変わりました。それまでは障害者の給料をつくりだすための自主事業を拡げることが一番でしたが、阪神淡路大震災の被災障害者の救援活動を通じて、社会福祉法人から自分たちのような任意団体まで運営の目的も利用する福祉制度の枠組も違っても、隣の町で困難な問題に苦しんでいる障害者の心と体の重荷を共に背負い、「みんなで幸せになる」ために、できるだけのことを助け合って生きていこうと思うようになったのでした。
 その想いは2011年の東日本大震災の時にはさらに大きな運動へとつながり、今の豊能障害者労働センターをつくったのでした。
 たしかに、ほかの障害者団体のように社会保険に入っていなかったり、NPO法人にもならず、組織体、事業体として未熟な団体かもしれませんが、そのために必要なお金を困っている仲間を助けるための救援活動、支援活動にまわしてしまい、年金のないスタツフの給料は約20年前から週5日で12万5千円のままで、青息吐息の運営を続けている豊能障害者労働センターは貧しい団体かもしれませんが、箕面市民だけでなく日本社会においても、また14年前に退職したわたしにとっても頼もしい存在だと思います。

 それはさておき、1995年1月17日からはじまった特別な時間は、何度も遠くに去っていきそうになりながらも、結局はわたしたちの心の底にへばりつき、5年、10年、20年、23年と忘れられないものになってきました。
 わたしたちはあの日からふたつの道、ふたつの時間を生きてきたのだと思います。
 ひとつはあの日以来、そのすぐ後のオーム真理教事件も合わさり、日本の社会が安全だという神話が壊れてしまいました。わたしたちは自分の身は自分で守らなければならなくなっただけではなく、自分が社会から安全な存在と見られるように努力しなければならなくなりました。実際時を追うごとに信じられない事件が次々と起こり、わたしたちはますます心の垣根を高くするしかありませんでした。
 あれから23年、心の垣根はとうとう国家レベルにまで高くなり、国家に守ってもらえるような国民になるために、戦争をしない国の憲法から戦争ができる国の憲法に変え、すぐ隣の朝鮮半島での武力衝突を避けるための話し合いよりも、武力で恫喝し、自衛隊の若者の命が犠牲になっても自分たちだけは安全な場所で安倍政権に守ってもらえると考えるまでになりました。
 けれども、わたしたちにはもうひとつの道があることも、あの大地震は教えてくれたました。それは「共に生きること」であり、「助け合うこと」なのです。
 あの日まではそれは道徳や倫理で「しなければならないこと」でした。けれども、あの日からつづく東日本大震災をはじめとする大きな災害を経験し、助け合うことの大切さや共に生きる勇気を持つこともまた学んだのでした。
 わたしたちは、どんな強力な武器よりも共に生きる勇気を育てること以外に「安全で平和な社会」をつくれないことを知っています。わたしたち人間は言葉も個性も希望も夢も国籍も民族も年代もちがっても、つながることができるのだということを。
 そしてそれはめんどうなことではなく、とてもうれしいことなのだということを…。
 残念ながら、まだわたしたちは助け合う勇気を十分に育てることができないのかもしれません。しかしながら、ひとは武器を持つこともできますが、楽器や鍬を持つこともできるのです。

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