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2017.11.19 Sun 2021年、青春は死んだのか。映画「あゝ、荒野」と寺山修司の時代2

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 映画「あゝ、荒野」は1966年の新宿を舞台にした寺山修司の同名小説が原作ですが、映画では2021年、東京オリンピックの翌年の新宿を舞台にしています。
 多ジャンルをまたぐ多作で知られる寺山修司のただひとつの小説で、その後すぐに演劇集団「天井桟敷」を設立、モノローグと書き言葉からダイアローグと街の演劇化(フィクションによる現実の革命)を夢見て駆け抜ける直前に書かれたこの小説をなぜ映画化することにしたのかその経緯を知る由はありません。
 しかしながら、1964年生まれの岸善幸監督をはじめ、若い世代が寺山修司の小説によって垣間見た1960年代の荒野に何を見たのか、そして近未来の2021年の荒野に50年の時は何を生み、育て、何を捨てたのか…。前編と後編に別れ、合わせて5時間を越える映画は、わたしのリアルな50年を色濃くスクリーンに映してくれました。

 幼い頃に自分を捨てた母を恨み、世間に牙をむく少年院上がりの新次(菅田将暉)と、吃音障害と対人恐怖症から、他者との関係をほとんど築けずに生きてきた健二(ヤン・イクチュン)。自分の居所がなく、社会に見捨てられた二人の若者がふとしたきっかけで出会い、元ボクサーの堀口(ユースケ・サンタマリア)に手を差し伸べられ、共に堀口のボクシングジムでプロを目指してトレーニングを始めます。
 誰にも解られることもなく、その存在すら認められず、自分のやるせない気持ちや怒りをぶつける相手もいなかった二人は、ボクシングによってはじめて自分を表現する世界が開け、プロになる夢に向かって人生の歯車が回り始めます。そして新次は「新宿新次」、散髪屋で働く健二は「バリカン健二」というリングネームでプロデビューします。
 おたがいを想う深い絆と友情を育み、自分を変えようと成長していく二人でしたが、ボクシングというリングの荒野でのみ許される殴り合い・暴力に新次は裏切られた仲間や母親や自分の人生そのものへの鬱積した激しい憎しみと恨みを爆発させ、一方の健二はそんな新次にあこがれ以上の愛情を感じながら、新次のように自分を取り巻く理不尽さに憎しみを駆り立てようとしますが、内気な彼にはどうしてもできず、憎しみによる殴り合いでしか他者とのコミュニケーションが取れないことにとまどうのでした。
やがて、二人は戦うことでしか繋がることのできない宿命に直面します。
 映画は2021年のネオンの荒野・新宿で、もがきながらも心の空白を埋めようと生きる二人の若者の奇妙な友情と、彼らを取り巻く人々との人間模様をていねいに写し撮るというよりは、登場人物たちが四角いスクリーンという荒野を駆け巡り暴走するのを必死に追いかけ、その疾走感が物語のデイティールをなぎ倒していくようでした。わたしはこの映画を見ていて、手法もコンセプトもまったく違うのに、なぜかしら石井聰亙監督の1982年の映画「爆裂都市 BURST CITY」を思い出しました。
 「暴動の映画ではなく、映画の暴動だ」という「爆裂都市」になぞらえれば、映画「あゝ、荒野」もまた「荒野の映画ではなく、映画の荒野」であり、さらに言えば時代の荒野も青春もなくなってしまったわたしたちの社会への挽歌なのかもしれないと思ったのでした。
1960年代は世界も日本も、第二次世界大戦後の政治・文化・社会のフレーム疲労から、若者を中心に新しい時代をつくりだすために社会が激動した時代でした。いわば、世界も日本も大戦から20年という青春の時代だったのだと思います。
 寺山修司はその時代を背負うようにアカデミックな権威を壊し、「書を捨てよ、町に出よう」と若者を「扇動」しました。小説「あゝ、荒野」のサブストーリーはすべてその時代の政治や社会の実相をジャズのアドリブの手法で書きなぐられたものでした。
 小説「あゝ、荒野」に限らず、寺山修司の全作品も寺山本人も若者を叱咤激励し、こじんまりとした予定調和的な人生ではなく、失敗を恐れず自己の解放と冒険を求める「青春」の異端者であり続けました。だからこそ、たくさんの若者が彼の言葉を生きる糧にするような、若者たちのカリスマであり続けたのだと思います。
 映画「あゝ、荒野」ではその猥雑な時代のアクティブなパーツを2021年の新宿に昇華させ、近未来の新しいパーツに置き換えました。振り込め詐欺や東日本大震災、介護事業などの今日的課題はもちろん1960年代の寺山の原作にはありませんが、ある意味もっとも原作に忠実なジャズのアドリブの手法で、現代の社会の実相をとらえました。
 その中でも私が興味深く感じたのものとして、1960年代に寺山がとらえた老人像です。寺山はその頃のエッセイでもこの小説でも、日本ではまだ福祉制度が貧困な中で、欧米の進んでいると言われる福祉制度を否定しています。
 けれども、たとえばその時代のスウェーデンの老人福祉は、「福祉の牢獄」というべき老人の居住施設が中心だったと思います。寺山はすすんだ福祉制度のもとで老人の自殺が多いことをとりあげ、福祉制度の充実が必ずしも老人の幸せと結びつかないと指摘しています。
 しかしながら、実はスウェーデンやデンマークの福祉制度は施設型から在宅型へと変わり、当事者の老人がサービスを選択し、地域で自立して暮らせるように変わっていきました。それは、寺山が指摘したように当事者を閉じ込めるためのサービスをいくら充実させても少しも幸せでないことを、自殺者の増加で気づいたからだと言われています。
 遅ればせながら日本でも介護サービスを量的に質的にも「充実」させてきましたが、残念ながら日本では一人暮らしをふくむ自立生活ができるサービスは、老人もまた家族と住むことを望むこともあり、貧困なままです。
 また、寺山の原作では映画館の大スクリーンの中でセックスする女優の裸体に興奮し、彼女が「逝く」瞬間にしか射精できない性的不能者・宮木。堀口のボクシングジムの支援者でもある彼がスーパーマーケットの経営者であるのに対して、2021年の宮木は介護施設の経営者になっているのも現代を表しています。
 原作では猥雑な都会でやはり居場所をなくしている老人が「話のネタになる本」を読み、話し相手をさがしたり何年もの自分の爪を空き缶にためていたり、「誰もわたしに話し掛けてくれない」という遺書を残して自殺するアメリカの養老院の老人たちのエピソードなど、生きがいを見つけられない老人をとりあげています。
 しかしながら寺山にとってはそれらが「福祉」への疑問につながっていて、彼の関心はもっぱらそんな老人の死にたいという欲求をかなえさせるための機械を作り、その効果を試す大学の自殺研究会のペシミスティックな若者たちの暗い青春エピソードの方に向かいます。映画ではそれをよりエンターテインメント化し、自殺願望を持ったひとたちを集めて死んでもらうイベントを企画し、だれもがその場に及ぶと死への恐怖におののき逃げる姿を見て、主催者のリーダーの大学生が「自殺の美学」を自らに課して死んでいくシーンがあります。
 わたしはこのシーンには違和感を持ちましたが、つい最近神奈川県座間市で9人の遺体遺棄容疑で逮捕された容疑者が、3月ごろからツイッターを使い自殺願望のある女性を言葉巧みに誘い出し、殺害したと供述しているとの報道を知り、寺山の想像力をはるかに越えてしまった現実に驚きます。原作と映画の間には新宿を舞台にした過去と近未来という50年の時の隔たり以上にまったく違った世界に生きていることを、わたしたちは映画の登場人物とともにあらためて知らされるのです。
 それでもなお、1960年代の寺山がこの小説で証言し、予言した日本社会の閉塞感とともに、彼もまた想像できなかったのかもしれない過酷で暗く、すでに日本社会がどこかに置き忘れてしまった社会的一体感(寺山が好きだった「同時代」)のみじんもない過酷な世界で孤立し、孤独を深く受け入れながら生きざるを得ない若者たちに果たして希望や夢はあるのか。昔も今も変わらない欲望の街・新宿の荒野から四角いリングの荒野へと向かうせつなくも残酷な青春物語の行きつく先に、闘うことを宿命づけられた二人の若者がただひたすら殴り合うその先にどんな世界が待っているのかいないのか…。
 実はこの二人が「明日のジョー」の矢吹と力石のように一人の若者の光と影であったとしたら、わたしはバリカン健二が新次との死闘の先に、殴り合うことでしか分かり合えない友情ではなく、他者の存在を認め合い確かめ合う友情こそがほんとうに時代を切り開く勇気をもたらすのではないかと思うのです。
 寺山修司は虚言で有名なひとで、残酷なまでに強いことを望み、「勝つこと」を願うこの人自身もまた、実はバリカン健二の切ない夢に己の本心を隠していたのではないでしょうか。そうでなければ「人は遊びでなら負けることができる」と競馬のCMの言葉を紡ぎ、血統に逆らって逃げ続ける逃げ馬の勝利を夢見たりしないと思います。
 そんな寺山修司が描いて見せた50年前の「昨日より今日、今日よりも明日」とだれもが凧揚げ幻想に酔いしれていた時代の青春や夢や希望が無くなってしまった今、オリンピック以後より荒廃するであろう社会で人々は二度と立ち上がれないのか、いやそこから立ち上がる人たちがこの50年でつくられたあらゆる権威を壊し、そんなに熱烈にならないかもしれないけれど手ごたえのある情熱を奮い立たせ、もう一度「誰も夢見たことがない新しい世界」を構築する一歩を踏み出しているのか、映画はその答えを出してはくれません。その答えは、映画を見終わったわたしたち自身が1960年代の荒野と2017年の荒野をつなぐ孤独な青春を突き抜けて、2021年の荒野へと一歩踏み出すところから探さなければならないのでしょう。

マッチ擦るつかの間海に霧ふかし 身捨すつるほどの祖国はありや  (寺山修司)

映画「あゝ、荒野」

浅川マキ 「 かもめ(歌詞付) 」(作詞:寺山修司&作曲:山木 幸三郎)

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S.N : URL

2017.11.20 Mon 18:13

tunehiko様
前回の記事を読んで、you tubeで黒柳徹子さんの番組に出演した寺山修司さんを見ました。若い時の私にとって寺山修司さんは、近づきがたいというか理解しがたい人でした。しかし、この年になってはじめて記事で紹介し解説してもらって、惹きつけられる魅力を持った深い人だったんだなあと思いました。自分の人生を振り返ってみると、本当に薄っぺらなものだったような気がします。でもこれから、残された自由な時間で少しでも、いろいろなことを考えて感じて生きていければいいなあと思いました。いつも、いい記事をありがとうございます。

話は変わりますが、今年も紅白に島津亜矢さんが出場できてよかったですね。どんな曲を歌われるか楽しみです。

tunehiko : URL お久しぶりです

Edit  2017.11.20 Mon 22:41

S.N様、ありがとうございます。
寺山修司について書こうと思うと、若い頃を思い出して心が震えるようです。ずいぶん、長い時間が過ぎてしまいました。
わたしも、人生をふりかえると身が細ります。
けれども「人生はやらなかったことで満ち溢れている」という言葉に励まされて、自分らしく一日一日を大切に生きていこうと思っています。
今年も島津亜矢さんが紅白に出演できることになつて、ほんとうによかったです。

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