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2017.11.07 Tue わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.4

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エライひとやったなあ 梶尚子さん
河野秀忠

 人の評価は、棺をおおいて後定まるといわれる。僕ごときに評価を受けることは、梶さんにとって迷惑至極のことかも知れない。
 そこのところは、あの世の梶さんに許してもらって、書かせてもらおう。
 僕にとって、(梶さんが亡くなった)今年の8月31日は、いつのことなのか定かに見すえることができない日となってしまった。とても遠い日のことのようにも思えるし、昨日のことのようにも思えるのだ。それほど、梶さんの死は、突然に僕の胸の扉をたたいた。
 ぼくと梶さんがはじめて出会ったのは、1980年、つまり、国際障害者年がスタートする前年であった。いつの会合でも、普段の言葉使いで、パキパキとものをいう親やなあと思わせる、もの言いと態度だった。決していろんな活動の先頭には出ることがなかったが、必ず最後にはとりまとめ役を買ってでる気っぷの人だった。
 子どもの就学についても、普通校への入学を、ひとりの力で実現してしまうような人であった。
 国際障害者年箕面市民会議を作り、子どもの卒業と市役所への就労運動をへて、豊能障害者労働センターを作るすべての過程で僕たちはいっしょだった。今もはっきりおぼえているのは、労働センターで開いた手話講座「積木フーテナニー」のいちばん最初の講座当日の梶さんである。人が集まるだろうかとオロオロ心配し、家から扇風機わ運んでくれた。
 「オバちゃんのつくる料理は、安くてオイシイでえ」と、労働センターの昼ごはんをパツパと作っていた梶さん。
 僕は思う。障害児の親というより、ひとりの女性として、労働センターの仲間のオバサンとして、エライひとやったなあ。梶さんは。
 僕は、梶さんの棺なんかおおいたくなかった。
 ほんとうに今は、言葉がない。残念や。
 ほんとうに残念や。
 合掌。

 この梶尚子さんへの追悼文は、河野さんが1984年10月27日発行の豊能障害者労働センターの機関紙「積木」17号に寄稿したものです。
 河野さんが箕面で障害者運動を始めたころは、「青い芝」や「全障連」とかかわる過激派といわれ、当時の市民、とくに障害児者の親や行政にとても怖がられていました。
 「障害者の問題は障害者自身とその親の問題であり、社会の問題ではない」とし、今より以上に行政施策の貧困を障害者自身と親に覆いかぶせ、福祉施策そのものが障害者の人権を侵害していたともいえる時代でした。
 健全者社会の差別を体現し、障害者の自立をはばむもっとも近い健全者として「障害者の親は敵だ」とする青い芝の運動は、親にとっては許せないことだったのでしょう。
 しかしながら、親子心中や親による障害児殺しが社会的問題となる中で、子供のころから「いつ親に殺されてもおかしくない」とジャックナイフをしのばせていたという障害者の証言がたくさんあった時代でした。親の背後で障害者を排除してきた健全者社会に立ち向かい、「親は敵だ」と叫ぶことは、自分のいのちを守るぎりぎりの行動だったのだと思います。
 河野さんの口癖だった「差別まむし」(差別まみれ)の中にあって、当初はとことん嫌われていた河野さんでしたが、国際障害者の始まりとともに「施設から在宅、街へ」と行政施策の転換がすすめられたことや、障害のある子もない子も共に地域の学校で学ぶ教育運動の中から、障害者の親の中でも障害者差別とたたかう親も現れ、ひとりふたりと河野さんと豊能障害者労働センターの活動に参加してくれる仲間が増えていきました。
 当初のことがうそのように、「箕面市障害者事業団」の設立をはじめ行政施策においても頼りにされ、障害者関係の行政施策に関する組織や、市民の組織の役職や委員をたくさん引き受けるようになりました。その中でもずいぶん以前から箕面市人権啓発推進協議会の活動に積極的にかかわり、亡くなるまで会長をつとめた他、被災障害者支援「ゆめ風基金」の副代表でもありました。

 梶尚子さんは河野さんと共に障害者運動を担った数少ない親のひとりでした。
 尚子さんは、幼い時から敏之さんの将来はこの街に解き放つことで見えてくる、そう確信し、行動しました。それはまず、地域の  保育所入所をへて地域校区の小学校への入学でした。彼女は市役所にかけあい、教育委員会につめよってそれを実現しました。箕面ではまだめずらしかった障害児の地域校区の小学校への入学は、あとにつづく障害児とその親たちをどんなに勇気づけたことでしょう。
 1981年、地域校区の中学校卒業を来年に控えて、敏之さんの進路を見つめる尚子さんの目には、この街で生きる敏之さんの姿しか映りませんでした。普通高校への就学運動も考えないわけではなかったでしょう。しかしながら、高校の門が障害者に対して固く閉じられていた現実以上に尚子さんは心臓病と言う爆弾をかかえていて、敏之さんが少しでも早くこの街で暮らしていけるようにと考えたのでした。
 「この子を市役所でやとってくれへんやろか」。他人に言われるまでもなく無理なことだと思いました。けれども、市役所に障害者がいてもいいじゃないか、いや、いなければならないのではないか。彼女の確信は、現実がそれをこばもうとすればするほど、たしかなものとなっていきました。
 彼女の決意は河野さんをはじめ国際障害者年箕面市民会議のひとたちとの出会いを呼び寄せ、梶敏之さんの市役所への就労運動が始まりました。その運動は箕面市の障害者別枠採用制度へとつながり、市役所への障害者雇用の道が開くことになりました。
 しかしながら、敏之さんの市役所への就職は実現しませんでした。しかしながら尚子さんはそのことの残念さよりもっと大きなものを手に入れたことに満足していました。
 ひとつは、この運動の中でひとりの障害者を市役所に送りこめたし、なによりもその中でたしかなものとなった市民会議のひとたちとの人間関係を敏之さんに手わたせたことでした。
 敏之さんの進路が新たに模索される中で、敏之さんは設立準備中の豊能障害者労働センターをのぞきにきました。当時は失礼ながら言えなかったけれど、ほぼ廃屋といっていい労働センターの事務所を、敏之さんはたいそう気に入りました。
 「ぼく、ここで働く」。敏之さんの希望を聞いた尚子さんは、まだ形もできていないというよりは、これからも形になるかどうかもわからない豊能障害者労働センターに、子どもの将来をたくすことを決めたのでした。
 こうして1982年の春、豊能障害者労働センターは養護学校を卒業した小泉祥一さんと、地域の学校で共に学ぶ運動の先頭にいた梶敏之さんを迎え入れ、活動をはじめたのでした。

 1984年の夏、梶尚子さんは心臓発作で突然この世を去りました。くしくも市民会議主催の「第一回子ども縁日まつり」(通称唐池まつり)が唐池公園で行われる前日の朝のことでした。
 お祭り当日、尚子さんの葬儀が終わるとわたしたちは大急ぎでTシャツとジーパンに着替え、出ない力をふりしぼり、祭りの準備をしました。
 夏の終わりとは言え残暑はきびしい中、去っていく夏を惜しむように蝉が合唱していました。数少ない売店を用意し、「お客さん来てくれるかな」と空を見上げました。
 お祭りが始まる時間になると、なんと公園にいっぱい子どもたちも大人たちも来てくれました。焼きそば、綿菓子、たこ焼きの前は長い列ができました。
 豊能障害者労働センターが活動を始めて3年になっていましたが、こんなにお客さんが来てくれた催しはありませんでした。
祭りが終わり、後片付けをしながら、誰かがポツンといいました。「梶君のお母さんがたくさんの子どもたちをよんできてくれたんやな」。
 時がたち、梶敏之さんは自立しました。そして、梶尚子さんの追悼を込めた唐池まつりは2014年、第30回をもって終了したのでした。

夏、ぼくたちはとてつもなく大きい
大切ななにかをなくすことで
あたらしい夢をつくるのかもしれない
それを知っているから蝉たちは
今朝もあんなにさけんでいる
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