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2017.06.01 Thu 「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」 河瀬直美監督作品・映画「光」

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 河瀬直美監督の「光」を見ました。公開されている間に、できれば映画館でぜひ観ていただきたいオススメの映画です。
 映画の音声ガイドを作成する仕事をしている美佐子(水崎綾女)はある日、仕事をきっかけに弱視のカメラマン・雅哉(永瀬正敏)と出逢います。
 子どもの頃に父親が失踪し、いなかで過ごす認知症の母親の介護を隣人にまかせていることを心苦しく思いながら生きる意味を求める美佐子と、カメラマンにとって致命的に視力を失いつつある雅哉。
 年齢も人生経験もまつたく異なる二人が、なくしたもの、なくしつつあるものへの喪失感を抱きながら、生きる意味を共に見つける大人の純愛映画ですが、この映画はなんと4本の映画を同時進行で観客に届けてくれるのです。
 あと3本の映画とは、音声ガイドを作成している劇中映画「その砂の行方」と、スクリーンに映らない美佐子たちが作成した音声ガイドによる映画「その砂の行方」、そして、この映画「光」それ自体の音声ガイドによるもう一つの映画「光」…。
 そして、これら別々の映画がシンクロナイズしながら、最後に共通してたどり着く「光」が美佐子と雅哉の新しい人生に届けられる時、この映画は珠玉の4重奏を奏でるのでした。

 映画は美佐子が街の中で目に入るものを言葉に置き換えるシーンから始まります。彼女は視覚障害者が映画を楽しむための音声ガイドを作成する仕事をしていて、その練習をしていたのでした。
 寡黙な登場人物と限りなく美しい映像をスクリーンにそっと焼き付ける河瀬直美監督の映画では珍しく言葉言葉言葉…。それは当然のことで、この映画は映像を言葉で表現する音声ガイドがテーマで、音声ガイドの作成とそれにかかわるひとたちのドキュメンタリー映画でもあると思います。
 このトップシーンでは美佐子の心を何一つ語らないのですが、見たもの、見えているものを言葉に変えていく作業の中で、事務的にたたみかける言葉にある種の虚しさ、そしてそれが音声ガイドという仕事の難しさからだけではなく、まだ人生の行方に逡巡する一人の若い女性・美佐子の焦りのようなものが伝わってきます。
 音声ガイドの制作現場では、その予感のようなあいまいな感覚は現実のものとなり、この映画のテーマが重く美佐子に覆いかぶさってきます。
 視覚障害者のモニター数名が美佐子の作成した音声ガイドへの意見や助言を言い、それを次の会までに修正するという作業を何回も重ねて、音声ガイドが完成します。
 美佐子と雅哉が出会う場となったそこではもちろん対象となる映画は完成していて、セリフの合間に視覚障害者に場面の説明をする作業は、目で見ることのできない視覚障害者の「欠如」を補う役目を負うことになります。そこで、「足りないものを補い、助ける」という、障害者への「やさしい気持ち」が純粋であればあるほど、時には映画の内容と無関係に音声ガイドが一人歩きし、押しつけがましく「希望」や「夢」を与えようとします。
 それを雅哉は「あんたのひとりよがりの解釈だ」と言い放ちます。他の人たちもそれまで遠慮していたのか、雅哉の発言をきっかけに本音の感想を言い始めます。
 「目の見えるひとはスクリーンに映る映画を観るでしょう。けれどもわたしたちは映画を観るのではなく、映画の中に入っていくんです」。
 わたしはこの言葉にハッとしました。わたしがスクリーンに映る映画を観ている時、彼女たち彼たちはたかだか数メートル×十数メートルの四角い平面ではなく、「世界でもっとも遠いところにある」心の中のそれぞれの映画を生きているのだということを知りました。
 もともと、すべての出来事や映像を言葉に換えることなどできるわけもなく、まして視覚障害者に映画を説明するなどというのは健全者の傲慢さ以外の何物でもないのでしょう。
 その時、音声ガイドはその映画を語るのではなく、視覚障害者の映画体験をプロデュースし、もうひとつの映画をつくっているのかもしれません。
 と同時に、音声ガイドの制作にあたる人々がとても困難な作業を強いられていることも知りました。映画を説明するだけでいいのか、そもそも映画を説明できるものなのか、それを楽しむ視覚障害者もまた、音声ガイドによって映画の何を知ることかできるのか、そこに音声ガイド制作者の独善的な意図がふくまれているのかいないのか。視覚障害者一人ひとりによって感じ方が違い、弱視のひとや弱視から全盲になったひと、幼いころから全盲のひとなど、視覚障害といっても様々であることなどから、音声ガイドのあり方についても様々な考え方があることでしょう。

 わたしはこの映画を観て、若い頃に視覚障害者の友だちと映画を観に行き、私的なガイドをした経験を思い出しました
 1981年か82年で世の中が「国際障害者年」と湧き上がっていた時、「国際障害者年をぶっ飛ばせ」という映画祭が京大の西部講堂であり、わたしたちは原一男の名作「さよならCP」を観に行ったのでした。
 世の中の障害者観を指弾し、今でも輝きを増すこの映画は、脳性マヒ者集団「青い芝」の障害者たちが出演したドキュメータリーで、言語障害のある出演者たちへのインタビューに字幕を付けるべきかでも大論争がありました。彼らの主張は「字幕を付けたら字幕だけを見て、わたしの話を聞かなくなる」という、実にまっとうな意見でしたが、現実に脳性マヒ者の言葉は長い付き合いがないと理解できないということもあり、結局は字幕を付けることになりました。
 この映画の場合は話す言葉も伝えながら同時に町の風景などの映像も伝えなければならず、映画を説明する難しさを痛感した一方で、映画の場面場面を説明することでかえって当事者の想像力をさまたげてしまわないのかという疑問も持ちました。
 ともあれ、あれから40年近くの時が過ぎ、個人的な音声ガイドというボランティアではなく、まだまだ始まったばかりですがこの映画のように専門的なシステムによって音声ガイドのサービスが提供されるようになりつつあることは、ほんとうに喜ばしいことだと思います。
 そして、音声ガイドが「見えない」という、足らないものを補うためにあるのではなく、視覚障害者の伴走者として、当事者の想像力を妨げずに「もう一つの映画」を共につくることととらえる映画「光」は、映画づくりそのものがとても豊かであるばかりでなく、映画表現を通して障害を持つひとも持たないひとも共に助け合い、共に生きる社会の実現をわたしたちに提起しているとも感じました。
 音声ガイドを作成するひとたちが映画をつくるひとたちと同じように映画を愛する人たちであることが、そして音声ガイドを求める人たちもまた映画を愛する人たちであることが痛いほど伝わる映画でした。
 映画「光」は、キャチコピーにあるような「人生で多くのものを失っても、大切な誰かと一緒なら、きっと前を向けると信じさせてくれるラブストーリー」というより以上に、まさしく映画を愛するひとたちによってつくられ、映画を愛するひとたちに届けられた「映画への純愛」にあふれた名作だと思います。
 そして劇中映画「その砂の行方」の登場人物が語る、「目の前から消えてしまうものほど美しいものです」という言葉は、映画への限りないオマージュとして、これからも私の心に残り続けることでしょう。

河瀬直美監督作品・映画「光」公式サイト
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