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2017.05.17 Wed 里山能勢に友部正人が現れた。5月14日「ピースマーケットのせ」スペシャルコンサート1

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 5月14日、能勢町の淨るりシアターの舞台に友部正人さんが現れました。
 わたしはいつか、こんな夜が来ることを20年以上前から夢見ていました。
 わたしが箕面の豊能障害者労働センターで活動していた時、年に一度、コンサートや映画会、講演会などを開いてきました。その当時、「心やさしい」福祉制度の中でひっそり活動することが普通だった時代、その「心やさしい」制度が障害者を閉じ込めていると考えたわたしたちは、福祉の枠組みの外、町のど真ん中で障害を「個性」として表現したいと思いました。
 その思いから地域でお店をはじめることになり、全国的に通信販売でカレンダーを販売し、そのうちにTシャツや雑貨も販売するようになりました。
 さらに毎年イベントをすることで日常活動を応援してくれる人々に助けられながら、新しい支援者を求めるという自転車操業でその収益を障害のあるひともない人もみんなで分け合っていました。
 小室等、長谷川きよし、山田太一、永六輔、筑紫哲也、桑名正博、小島良喜…、ほんとうに素晴らしいひとたちが箕面に来てくれました。大半が豊能障害者労働センターの元代表の河野秀忠さんが障害者問題の雑誌の編集長だったことで、そのつながりから来てくれました。
 また桑名正博さんや小島良喜さんは、たまたま現在松竹新喜劇・主宰の渋谷天外さんのお兄さんが開いておられたパン屋さんの店先で衣料品の販売をさせてもらっていた時、渋谷天外さんがその頃東京で活動されていた桑名さんに声をかけてくれたのが縁で、1990年から5回も箕面に来てくれました。
 実際のところ、日常活動をしながら毎年イベントを開くことは至難の業でしたが、その頃のわたしたちは世間や町から忘れられないように、「自分たちがここにいる」と声を限りにさけぶようにイベントをしていたのでした。
 そんな嵐のような時代でしたが、障害をもつひとが一人で暮らせるだけのお金をつくりだしながら、イベントなどに招待されるだけの存在から自らイベントを企画する集団として、見果てぬ夢と重なるようなアーティストに来てもらおうと、出演してくれるアーティストを探すアンテナをはっていました。そして、友部正人さんはいつか箕面に来てもらおうと思っていた一人だったのです。
 たしかに障害者に理解があり、支援してくれるアーティストがたくさんいる中で、なぜ友部さんかというと、聴く人の満足を求めてすり寄ることがなく、孤立も孤独も恐れない勇気を持った自由の精神から言葉が紡ぎ出され、メロディが生まれる彼の歌の行方そのものが、豊能障害者労働センターの終わらない旅の行方とつながっていると確信していたからでした。
 「自由より他に神はなし」、心の底よりまだ底へと降りていくと、そこに広がっているのは自分のものでも他人のものでもなく、また誰もが共有できる空と海と森と風と土と…、そこからふつふつと生まれる友部さんの言葉はそれ自体がすでにメロディを持っています。
 それを詩とよぶこともできるでしょうが、わたしは「歌」そのものとして、歌でなければならない歌、歌以外では表現できないたましいの発露が友部さんの歌なのだと思います。
 そして豊能障害者労働センターもまた、障害を持つというだけで理不尽な仕打ちを受けてきた障害者が、かけがえのない個性を持った一人の人間として全的な自由と市民権を求める「新しい歌」をせつなくも激しく求めつづけていたのでした。
 それを「やわらかなかくめい」と呼ぶこともできるでしょうが、それをロック音楽と呼んだ時、友部さんの歌がロックそのものなのだと知りました。

 わたしは実は、フォークソングともロックともジャズとも縁がない人生を送ってきました。何度もこのブログで書いていますが、子どもの頃から歌謡曲の人間で、美空ひばりから畠山みどり、春日八郎から三橋美智也など1950年代から60年代にラジオから流れてきた歌謡曲から勇気をもらい、いつかはこの貧乏とこの黒い土だらけの町から脱出することをもくろんでいました。「リンゴ追分」と「この世の花」、「哀愁列車」と「出世街道」が小林旭の日活映画「ギターを持った渡り鳥」とともに、実際には明るいはずもなかった未来に夢を託していました。
 そんなわたしが高校生になり、友人たちからボブ・ディランとビートルズをおそわり、はじめて外国のポップミュージックに触れることになりました。そして、高校を卒業してからヒッピーまがいの暮らしを経て1970年代にいたる安保闘争とベトナム戦争反対といった激動の時代、同世代の若者たちが社会や政治に異議申し立てをすることに賛同しながらも、実際の行動には参加しなかったわたしにとって、皮肉にも激動の時代の終焉はよど号事件ではなく、ビートルズの解散でした。
 わたしの実人生も無職でぶらぶらしていたこの時代を終わらせるべく、今、森友学園問題で全国的に知られるようになった豊中市庄内の小さな町工場に就職したところでした。
 わたしにも青い時があったとしたら、まさにこの10年を語ることになるのですが、政治的な行動とは無縁であったはずのわたしですら自分の青春を語ろうとするとこの時代背景を抜きにはありえず、フォークソングやアンダーグラウンド芸術といわれたアートや演劇などに心を奪われるようになりました。
 それはまた、ビートルズという「精神的支柱」をなくしたわたしにとって、政治的な革命とは別のフォークやロックやジャズによる「もうひとつの革命」ともいえるもので、三上寛とジャックスやジョン・コルトレーンに酔いながら、その幻想を貪り食っていました。
 1969年の新宿フォークゲリラ集会とその後の中津川フォークジャンボーリー、春一番コンサートへとつづく、社会への異議申し立てに呼応するように次々とフォークシンガーが誕生する中で、友部正人はまったく独自な存在感を持ち、火傷しそうな青春という刃で時代の風と立ち向かい、変わりゆく風景を背景に極限にまで純化された若者の心を圧倒的な言葉で歌っていました。
つづく
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