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2017.04.14 Fri 島津亜矢・「明日にかける橋」と「いっぽんどっこの唄」

島津亜矢コンサート2016

 島津亜矢の音楽番組出演がつづくのと、それ以外のライブや活動記録と重なり、感想ブログが追いつかなくなり、いっそのこと飛ばしてしまってもいいかなとも思うのですが、それでも3月19日放送のNHKBSプレミアム「BS新日本のうた」のスペシャルステージでの「お吉」、「独楽」につづいて歌った「いっぽんどっこの歌」には格別の思い出があるため、おくればせながら書いてみることにしました。
 その間にも直近のNHK「うたコン」に島津亜矢が出演していたことを知らず、仕事をしていて見逃してしまい、録画もしていませんでした。ファンの方々の報告でサイモン&ガーファンクルの「明日にかける橋」を歌ったと聞き、残念に思っていたところ、最近はそれほどの縛りがないのか、ユーチューブに挙げている人のおかげで聴くことができました。彼女のブログによれば10日前にこの歌を歌ってほしいという要請があったということで、急仕込みとはいえ素晴らしい歌唱でしたが、もう少し歌いこめばこの歌の奥行きをとらえることができたのではないかと思いました。
 1970年に発表されたこの歌はポール・サイモンがゴスペルに影響を受けてつくった曲と言われていて、ちなみにこの曲に触発されたポール・マットニーが「レット・イット・ビー」をつくったと言われています。
 ベトナム戦争末期の反戦運動など激動のさ中、世界の人々が深く傷ついた時代、この曲にこめた祈りは、傷つき、損なわれてしまった時代そのものに捧げられていると思います。
 そして今、度重なる震災で日本社会そのものが損なわれ、シリアでは犠牲者のしかばねをどれだけ積み上げたら紛争とテロが収まるのか見当もつきません。さらに北朝鮮とアメリカの脅し合戦がエスカレートし、現実感のないまま巻き添えになる不安から、いわゆる「共謀罪」や憲法「改正」をわたしたちの社会が求めてしまう危うさを感じます。
 そんな時代だからこそ、この番組の制作チームは(おそらくいつも)島津亜矢に、傷ついた世界の人々、彼女の出身である熊本や東日本の人々、失われた無数のいのちへの鎮魂と祈りをこめたたましいの歌を歌ってほしいと願ったのだと思います。
 そこまでの思いにこたえるには、やはり急ごしらえの感はぬぐえないのもまた真実で、島津亜矢だからこそこの歌にもっとたましいを注入し、歌を必要とする世界の人々に届く歌として、これからも歌ってほしいと思うのです。
そしていつか、悲鳴を上げている世界と人々の心を癒す「大きな歌」をオリジナルで歌うために、もっといろいろな歌のつくり手が彼女の存在を知る機会が増えればと思います。
 いろいろ多方面から不満が聞こえる「うたコン」ですが、島津亜矢にとってはそんなチャンスと出会える大切な番組ではないでしょうか。

 さて、「いっぽんどっこの歌」ですが、島津亜矢にとって北島三郎の歌を歌う以上に感慨深いものがあったのではないでしょうか。 というのも、この歌は水前寺清子と星野哲郎の深い絆から生まれ、星野哲郎の大きな冒険と「たたかい」から生まれた歌だからです。
 それというのも1963年、レコード業界に君臨する日本コロンビアから経営陣の一部やディレクター、作詞家の星野哲郎、作曲家の米山正夫らがクラウンレコードを設立し、歌手の北島三郎や水前寺清子が移籍するという「大事件」があったからです。
 この頃はレコード会社がほぼ歌謡界を支配していて、各レコード会社に作詞家、作曲家、歌手が専属にいて、その枠組みから外れるとほぼ活動できなかったようです。ですから、新しいレコード会社の設立には当然強力な妨害が入り、星野哲郎は畠山みどりもクラウンに移籍してほしいと思い、話が決まる前にコロンビアによって阻止されたいきさつがあるようです。
 そこでコロンビアで何度もレコーディングするも日の目を見なかった水前寺清子をクラウンに移籍させ、1964年、畠山みどりが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更してデビュー曲としたのでした。
 星野哲郎にとってこの時代は大きな賭けに出た時で、何が何でもクラウンに移籍した歌手たちのためにヒット曲をつくらなければと特別な決意のもと、北島三郎の「兄弟仁義」をヒットさせ、1964年に水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」をヒットさせます。
 この頃のクラウン専属のテレビ番組には北島三郎、水前寺清子の他、美樹克彦、笹みどりなどが出演していましたが、とにかく過剰なまでの思いと心意気があふれていて、それがまた歌をヒットさせていたのだと思います。
 後で知ったのですが、五木寛之の「艶歌」シリーズの小説の主人公「艶歌の竜」こと「高円寺竜三」のモデルとして知られる名ディレクター・馬渕 玄三もまたクラウン設立の立役者の一人で、テレビドラマ化され、演歌の竜を演じた芦田伸介が強く記憶に残っています。
 1966年の「いっぽんどっこの唄」は、デビュー曲のいきさつを離れ、水前寺清子自身の歌の道を決定づけた曲で、それはまた星野哲郎にとっても彼のライフワークのひとつとなった「援歌」(応援歌としての演歌)のジャンルを確立するきっかけになったのでした。
 「ぼろは着てても心の錦、どんな花よりきれいだぜ」…。最初の二行にその歌のすべてを語る巷の詩人・星野哲郎は、かつて「やるぞみておれ口には出さず」と畠山みどりに歌わせた心情をそのままより進化させ、高度経済成長のベルトコンベアからはずれ、時代の風潮にあらがう生き方もあることを水前寺清子に歌わせたのだと思います。それは実は今、わたしたちが直面している現実を予想したものだったのだと痛感します。
 そして1986年、すでにフリーの作詞家となっていた星野哲郎はひとりの少女に見果てぬ夢を見ます。かつて寺山修司が嫉妬した詩人・星野哲郎が日本的なるもの(こう書けば右翼とよく間違えられるのですが)、民謡などをたどり、世界の大地とつながる音楽のたましいから立ちのぼる歌、それを新しい演歌とよんでもいい「援歌」を、その少女・島津亜矢に託し、彼女のデビュー曲を「袴を履いた渡り鳥」としたのです。
 そのことを骨身にしみてわかっている島津亜矢にとって、水前寺清子は格別の存在なのだと思います。島津亜矢のすごさというか歌唱力というか類まれな才能が発揮できる歌は案外、一般的に名曲と言われる歌、歌のうまい人がそのうまさを披露するときによく歌われる歌ではなく、実は「いっぽんどっこの唄」のように、星野哲郎の心意気や願い、祈りがこめられた、世間でド演歌とされる歌の方にあるのかも知れません。
 最近の著しい進化途上の珠玉の歌唱はもちろんのこと、時代をいくつも越えて星野哲郎の、畠山みどりの、水前寺清子の、島津亜矢の、そして日本社会のおよそ60年の急流に流されずその底にずっと変わらずある「ささやかな希望」をかみしめる名唱でした。

島津亜矢「明日に架ける橋」

島津亜矢「いっぽんどっこの唄」
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