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2016.08.22 Mon 映画「不思議なクニの憲法」上映会を終えて

不思議なクニの憲法

 8月21日の映画「不思議なクニの憲法」上映会の来場者は10人という残念な結果となりました。能勢地域の新聞折り込みチラシとフェイスブックのみの情報宣伝では、こういう結果になることはわかりきったことでもありました。
能勢町民の方々の心に触れるような催しとはならず、また他地域からの参加は交通の便があまりにも悪い上に、この映画は今まで近隣の市町村で何回も上映されていて、私たち自身も参議院選挙前日に無料上映会をしていること、さらには盆明けの行楽はいざしらず、暑い最中の催しというのも響いたのでしょう。
 それを承知で開催しましたので散々な結果と嘆くこともなく、むしろ10人もよく来てくれたと思う気持ちもまた正直なところです。
 それはそれとして、ご来場の方のお1人がおっしゃったご意見が少し気になりました。その方は10月にこの映画の上映会を計画されていて、それまでにどんな映画なのか見ておこうと、遠方から来てくださったのでした。
 来場者が少ないのは主催者の力量だけではなく、この映画そのものに疑問があるというご意見でした。短い時間のやりとりなので行き違いもあると思いますが、いままで憲法のことなど考えたこともない人には難しく、市民活動や政治的活動をしている人間にはいまさらという感じで、対象が限られているのではないか。この映画を見て、何か一歩を踏み出すような動きというか、三宅洋平のようなエンターテインメント性に欠けるのではないか。ただのドキュメンタリーで終わっていて、夢を見させてくれるようなフィクション・物語がない。参議院選挙前に作られた映画で、その後の続編を撮ってもらいたい、正直この映画を上映する意味があるのか…。
 ここまではっきりと話されていないかもしれないのですが、先の参議院選挙で「兵庫ミナセン」という野党共闘と市民活動をすすめ、一定の成果があったことなども話され、ご自身やその政党の政治活動をアピールするためにこの映画の上映を計画しているというお話でした。
 わたしはこの映画にまったく違う感想を持っています。そもそもこの映画を政治的な活動への参加を促したり次の選挙への起爆剤にしようと考えておられるなら、やめたほうがいいと思います。もちろん、この映画の感想はそれぞれのひとによってちがって当たり前なのですが、三宅洋平などのアーティストのライブやトークイベントとはちがい(ほんとうはそれらもふくめて)、映画や演劇や美術などの表現行為を、とくにある一定の政治的な方向性を示したり政治的な活動の方法としてしまってはいけないと思うのです。といって、何も芸術や音楽やロックに政治を持ち込むなという意味ではありません。
 反対に、わたしはこの映画は映画だけで十分政治的で、それを目前の政治活動や選挙運動の道具や方法と考えてしまうのはこの映画に失礼なだけでなく、映画を見たひとたちにも失礼だと思います。何も誰かやどこかの団体の活動に勧誘されるためにこの映画を観にきたわけでもなく、その役割をこの映画が果たさなければならない義務もないのですから。
 芸術を国家権力によって統制する歴史は古く、表現の自由はいつの世も危機に瀕してきたといっても過言ではありません。その中でも一番やっかいなものは国家による統制を恐れて自主規制することや、ひとつの表現行為を政治的な力の行使の道具としてしまうことで、それはそれらの行為がもっとも否定してきたはずの国家の統制となんら変わりのないものだと思います。かつてのソビエト国家による「国家にもひとびとにもわかりやすく、ひとつの目的に準ずる」社会主義リアリズム、スターリニズムは終わったのかもしれませんが、ひとびとの社会主義リアリズムは高度資本主義を生きるわたしたちの心の底辺で今も増殖しているのだと、彼の話を聞きながらあらためて実感しました。

 そのうえで、この映画をその内容ではなく映画そのものとしてわたしがどう感じたかをお話ししたいと思います。
 監督の松井久子さんは「ユキエ」や「折梅」でアルツハイマーを抱える女性とその家族の心情をドキュメンタリータッチで描き、どちらも大きな反響を起こした監督で、わたしはかつて大阪府箕面市で「折梅」を上映する実行委員会に参加したことがあります。
 松井久子さんが「不思議なクニの憲法」という映画を参議院選挙までに完成させ、たくさんのひとに見てもらいたいという強い想いは、先ほどの方のようにこの映画を政治的な活動に利用しようとするひとたちに反応されやすいものではあります。
 しかしながら、この映画は松井久子さん自身の心情や考え方を表現するための映画ではなく、むしろそれらを横に置き、さまざまなひとに憲法と民主主義とそれにまつわるその人自身の人生や願いを加重なく真摯に聞き取って見せた、最近少なくなったドキュメンタリーの王道を行く映画だと思います
 出来事をライブに伝えたり過去を振り返るのではなく、できるだけ多くの人間にただひたすらインタビューするこの映画は、登場する世代も思想信条も違うひとびとの個々の言葉とその表情の向うに、いまこの時の時代の全体像が浮かび上がってくる興奮に包まれます。おそらく監督もカメラもマイクも、もっと踏み込むことをじっと我慢しているのだと思います。それよりも先は、相手の心の揺らぎを土足で踏みにじることになることを知っているから…。そしてその我慢がこの映画全体を時代の深層へとわたしたちを案内してくれるのでした。例えば辺野古や高江のたたかいを描くのならば映像になりやすいでしょうが、憲法という、動きも具体的な形象もなく映像的に何も期待できないものを題材に、ただひたすら話を聞き、表情を正面から映し続けることで不在の主人公である憲法と民主主義、そして時代そのものを浮かび上がらせたこの映画はエンターテインメイトを必要としない冒険にあふれていると思うのです。
 さきほどの彼の言葉を引用すれば、この映画はわたしたちをかき立てるのではなく、わたしたちに立ち止まる勇気をくれる映画だと思います。
 そう考えると、この映画はなかなか映画そのものとしては見てもらえない不幸を持ち続けることでしょう。そしていつも目先の政治性を求められ、失望させることになるのかもしれません。

 今回の上映会をふくめて、わたしは7回もこの映画を観ました。ひとつの映画をこれだけ何回も見たことはありません。しかしながらいつ観ても新しい発見がある不思議な映画です。たしかに「憲法」というだけで間口は狭くなるのはやむを得ないと思いますが、憲法のことをよく知っているひとこそ、もう一度真っ白な心でこの映画を観てもらいたいと思います。また、憲法というと少し身構えるけれどちょっとした勇気を出してこの映画を観たひとは、この監督の意図通り、憲法が自分の人生を支えてくれたり励ましてくれていたことに気づくと思います。
 そして、他ならぬ観客のわたしたちひとりひとりにマイクとカメラが向けられたところで、映画は終わります。現実に戻ると、この映画の終わりと参議院選挙とはつながっていて、その結果を知っているわたしたちはこの映画の続編のインタビュアーに何を語り、どんな表情を見せることになるのでしょう。

映画「不思議なクニの憲法」公式サイト
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