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2016.07.31 Sun どものおっちゃんと助け合い経済 憲法とわたしの人生7

不思議のクニの憲法

 子ども頃、わたしの町に電器製品の修理をしていた「どものおっちゃん」がいました。どぶ川の上に建てたバラックで、ひとり住まいでした。大人たちの話によると、どもりがひどく、仕事につけなくて嫁さんに逃げられたらしい。電器製品がまだ全国に行き届いていなくて、ほとんどのひとたちはまだ新品を買うことはなく、彼はどこからか手に入れてきたこわれたラジオなどの修理品を売ったり、またそれらの修理を引き受けて生計を立てていました。わたしの家にはじめてやってきたラジオも、「どものおっちゃん」から280円で買ったものでした。
 わたしもまたどもりでした。わたしにとって父親がいない不運などどうでもいいぐらい、どもることを悩んでいました。どもることで自分の進路をかえたこともあったし、その悩みは結局いまでもひきずっています。ですから、「どものおっちゃん」のことが話題になると、わたしのことを言われているみたいでとてもいやでしたし、かかわりたくありませんでした。
 そんなわたしでしたが、ラジオがこわれて、一度だけ母に頼まれて修理をしてもらいにおっちゃんの家に行ったことがありました。六畳あるかないかの一部屋だけの棚に真空管や小さな部品がつめこまれ、布団らしきものがどす黒く外の光にさらされていました。
彼はどもりながら必死で故障の原因をしゃべるのですが、ひどいどもりでわたしにはぜんぜんわかりませんでした。「どものおっちゃん」と、どもりのわたしとの会話、そのときの切なさは逆光に浮かび上がるおっちゃんのシャツと短いズボン姿の輪郭とともに鮮明に覚えています。
 280円のラジオはそれから数年のちに中古のテレビがやってくるまでは、我が家の宝物でした。一息つく暇もつくらず必死で働きつづけた母でしたが、三橋美智也の歌が掛かるとラジオの前に耳をかたむけるのでした。時々「キューイン」という風がふきすさぶような音に三橋美智也の歌は一瞬かき消され、またどこからともなくやってきた雑音とともに聴こえてくるのでした。
 時々、このラジオからジャズやブルースが流れることもありました。母はもちろん、わたしにもその音楽のよさを知るにはまだ何十年もの時が必要でしたが、どこか途方もない世界の果てからはるばる海をわたり空を駆け抜け、中古の真空管の回路をすりぬけてきた不思議な音楽は、一枚へだてた外の光が節穴を通して入り込むバラックの空間に居場所をみつけたように、なつかしくしみこんでいくのでした。
 実は「どものおっちゃん」はそれほどくわしい電気の知識がないアマチュアのラジオマニアで、本を読んだり電器屋の見よう見まねで電器製品を修理再生していたらしい。実際修理をたのんでもすぐにこわれ、「やっぱりあのおっちゃんにたのんでもあかん」と、よく大人たちは言っていました。それでも、なぜか「これぐらいの修理やったら」と、「どものおっちゃん」のところにこわれたラジオなどを持っていきました。今思えば、そんな風にしてみんなが彼の生活を支えていたのだと思います。
 そのすぐ後にものすごいスピードでテレビ、洗濯機、冷蔵庫、いわゆる「三種の神器」が広まり、彼もテレビの修理をはじめたものの知識がともなわず、やがて町を去って行きました。

 わたしが数回にわたってこんな昔話を書いたのは古きよき時代をなつかしむためではありません。わたしだけのワンダーランドの数々のエピソードをつらぬくたったひとつのキーワードは、「助け合い」ということになります。たしかにこの時代からグローバルな現代まで、わたしたちは時代に取り残されまいと必死にしがみついてきましたが、一段と加速度が増す時代を越え、ひとは結局シンプルに助け合う勇気を持ち合わせているのだと確信します。そして、時代が経済が政治がスピードを求めれば求めるほど、時には激しい叫びとして、時には切ない歌として、時にはゆるやかな風として、時には立ち止まる夢として、だれかに手を差し伸べたり、だれかの力を借りたりできることこそ豊かなことなのだと、わたしたちは気づきはじめています。
 たとえば箕面の豊能障害者労働センターのリサイクル事業は品物を提供してくれるひとの気持ちと、障害のあるひともない人もともに生きる社会を願う豊能障害者労働センターの気持ちと、品物を買ってくれるひとの気持ちがつながることで成り立っています。その小さな市場(いちば)を流れるお金は、グローバルな市場から迷い込んだとたん、「にんげん」の顔を持ったお金として、ワンダーランドの幾多のエピソードを語る詩人となり、ひとびとの願いや希望の歌となるのです。そんな市場(いちば)をつくりだすことが、わたしたちのコミュニティビジネス、「恋する経済」であることに気づいたとき、60年前にわたしが体験した伝説は、実はそのことをいま教えてくれているのだと思います。
 無数の命が奪われた焦土から必死に働き、必死に生きてきた戦後71年という長い時は、世界から奇跡といわれる豊かさを日本社会にもたらしたことは間違いのないことでしょう。
 しかしながら、非正規雇用が4割にもなり、毎年自殺者が2万人を超え、6人に1人の子どもが貧困という格差社会で息を殺し、すでに遠いかなたの幻想と化した経済成長という悪夢から逃れられずに底なしの奈落に落ちていく不安におびえる今、わたしは子どもの頃を思い出しています。
 破れた鉄条網と焼け焦げた建物の残骸、コンクリートで固められたほら穴…、戦争の傷跡がまだ残っていた原っぱを走り回った子どものころ、貧乏と自由と青空がわたしの友だちでした。その戦後の風景が日本国憲法そのものだったのだと思います。
 あのころ、「今日よりいい明日がやって来る」とわたしたち子どもに信じさせたのは、ただ単に経済成長がもたらしたものではなく、忌野清志郎の「イマジン」ではないですが、天国も地獄もなくただ空があるだけと歌い、ひとはそのままでかけがえのない存在で自由なんだよと、憲法と民主主義と学校が教えてくれたからだと思います。私生児でどもりで対人恐怖症のわたしでも自分らしく生きる道があると応援してくれたのが日本国憲法だったのだと、69歳にもなった今、あらためてかみしめています。

 今回の参議院選挙で自民党も公明党も憲法論議を封じ、経済成長へのはかない夢をばらまくアベノミクスの成果を誇り、景気をよくすることができるのは自分たちしかいない、黙って自分たちにまかせておけばよいと声高に言い、おおさか維新の会もさらなる成長を目指すと宣言しました。それに対して野党共闘は与党の狙いは改憲にあると主張しましたが、与党のたくみな選挙戦略に巻き込まれ、争点にならないまま改憲勢力の圧勝となり、さっそく自民党は選挙で問わないまま改憲へと走り出しています。
 安倍首相をはじめとする「憲法を変えたい」と戦後ずっと思い続けてきた人々の執念と覚悟はすごいものだと思います。わたし自身、今頃になって憲法のありがたさを知ったものの、その恩恵にあずかりながら憲法をないがしろにしてきたというか、おせっかいで口うるさい母親のようにしか思っていなかったことに気づいています。逆説的言えば改憲派の熱心な情熱のおかげで、憲法の大切さを教えてもらった気がします。そして、ここまで追い詰められて、ようやく71年分の憲法の愛情に恩返しをしなくてはと思うのです。
 願わくば、改憲派とされる政党の議員さんたちも党の束縛から解き放たれて、ひとりひとり真剣に考えていただければと思います。
 そしてまた、なによりもサイレントマジョリテイと称されるわたしたち庶民ひとりひとりが何かに依存したりしないで、国民投票権という小さな紙切れにわたしたちと子どもたちの未来が決まってしまうことを肝に銘じたいと思うのです。
 出自や障害という際立った個性や性的マイノリティなど、多様なひとびとが共存し、助け合える社会、国と国が、人と人が二度と傷つけあうことのない平和で豊かな世界を目指し、国境を越えたネットワークを提案した日本国憲法は、70年前の世界のひとびとの叡智と切ない夢によって記述されたことを今こそもう一度思い返そうではありませんか。
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