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2016.05.13 Fri ロックンロールは死なず・ピンクさんのこと2 PEACE MARKETへの道8 

ピンクさん

 ピンクさんが若いひとたちの演奏の場をつくることに熱心だったのは、おそらく自分の10代の頃の渇望から来ていたのだと思います。1951年の生まれで、わたしよりも4歳年下だった彼は1968年から69年の騒然とした社会情勢の中、当時の若者がそうであったように70年安保やベトナム戦争反対などの政治的な行動と別に、ビートルズやボブ・ディランに代表される海を渡ってきたプロテストソングやロックの洗礼を受けていました。世界の怒れる若者たちがそれぞれの国で異議申し立てをし、社会をちゃぶ台返ししようとする大きな波が、海を渡って日本にも押し寄せていました。
 10代のピンクさんの純な心にビートルズ以後のロックが沁みこんでいった様子が今でも目に浮かぶようです。既成の枠組みをこわし、自分のやりたい音楽と自分の聴きたい音楽を自分でマッチングさせプロデュースしていくことは、もしかするとアーティストとしての野心と同じぐらいに彼にとって刺激的なことだったのかも知れません。
 ともあれ、トキドキクラブはピンクさんたちに無条件に受け入れられ、面倒見のいいピンクさんは個々のメンバーともよく付き合い、彼の自宅に呼んだりもしていたようです。
 そして、トキドキクラブを母体にしたパンクロック(のような)バンド「PUMP」が生まれるとすぐに、グラスルーツコンサートでお披露目をすることになりました。
 「PUMP」はトキドキクラブの周辺にいた友人たちが「おれもおれも」と次々とステージになだれ込み、演奏するたびにメンバーが増殖していきました。ボーカル2人が叫びながら演劇的な空間にわたしたちを誘い、ギリシャ悲劇のコロスのような楽器集団が吹きまくり弾きまくるフリージャズのような演奏で、わたしたちを音楽のカオスに突き落とします。それらすべてがアドリブで、どこで終わるのか聴く者だけでなく、彼ら自身がわからないのでした。
 トキドキクラブはそれなりの様式を持ち、一般的な音楽ファンに受け入れられるバンドでしたが、PUMPになるとキワモノ扱いされることがありました。しかしながらピンクさんはPUMPを圧倒的に支持してくれました。何者でもなく、何者にもならない自由がPUMPにはあり、大阪弁のパンクロックというローカル性もふくめて、新しい音楽の可能性を見ていたのだと思います。「自由でありたい!誰も支配したくない」という、20世紀の谷間舎のメッセージをこれほど体現した音楽はないとピンクさんが感じていたとしたら、それは彼がかつてフォークゲリラの生みの親でもあり、梅田地下街から新宿西口へ発展した怒れる若者たちの音楽シーンを牽引したこととつながっていたのだと思います。
 
 やがてグラスルーツコンサートはピンクさんの中で役割を終え、能勢の「青天井」に引き継がれていきました。ピンクさんにはウッドストックの影響があったのかもしれません。夏だったと思うのですが、ある企業の能勢のキャンプ場を借り切って、大きなバンガローで夜通しライブをし、疲れたひとは各々のバンガローに雑魚寝したりその場で寝たりして、飛び入りありコラボありで、彼のもっとも好きな言葉どおり、自由でアナーキーなライブでした。
 「青天井」がきっかけで、ミュージシャン通しの交流もすすみ、コンビやバンドを組んだりした例もあるようです。その頃は豊中に住んでいて世間知らずのわたしは、能勢がとんでもなく遠い異国の地のように思ったものでした。それが今、能勢に住んでいて、能勢も能勢の人も大好きになり、PEACE MARKETという不思議な催しに参加することになるとは思いもしませんでした。
 そういえば入部香代子さんが豊中市会議員選挙に立候補することになった時、その前年の夏の「青天井」でぐでんぐでんに酔っぱらってしまったわたしは、かのSさんに「入部さんの選挙を応援してほしい」としつこくからんだことを思い出します。
 Sさんは怒りもせず、一度彼女に会ってみると言ってくれて、彼女の家に一緒に行き、入部さんの選挙の総合プロデューサーとなってくれたことや、彼のおかげで見事に当選し、その後も何期か、彼と、後に本人も市会議員になった連れ合いさんとともに入部香代子さんの議員活動を支えてくれたことを思い出します。その入部さんも亡くなりました。
 もうひとつ、ピンクさんにずいぶんお世話になったことがあります。それは箕面で3回ほど開いた「クリスマスパーティー」で、このパーティーは現在「ライトピア」と呼んでいる人権センターの前身、「萱野青少年会館」の3階ホールで開いたものです。
 日ごろ人権問題にかかわる人々と障害当事者の交流を深めるため、ロックを中心に韓国舞踊、ダンスを楽しんでもらう企画でしたが、これこそほんとうの手弁当でPA機材一式をピンクさんが持ってきてくれて自らオペレートもしてくれて、歌も歌ってくれました。会場にジョン・レノンの布看板をつるし、ピンクさんが訳詩した「イマジン」を歌ってくれました。ピンクさんに頼らなければ費用の方でもまたこのイベントのコンセプトの面でも実現しなかったイベントでした。

 それからまたずいぶん時が流れ、ある年のクリスマスイブの夜、ピンクさんから電話がかかってきました。実はその夜、障害者のグループ゛が共同で毎年制作販売していたカレンダーのことが夜のニュースで取り上げら、それを見ていた彼は「こんなニュース見たら、買わんわけにはいかんやろ」と注文してくれたのでした。この頃、彼はアルコール依存症でろれつがまわっていませんでしたが、もうろうとしながらもわたしの電話番号を探してかけてきてくれたあの夜のこともまた、忘れられません。
 彼のアルコール依存症は、立ち直ったと思ったらまた元に戻るというのをくりかえしていました。そのため、その頃の彼はピュアーな人格をなくしてしまったのかと思われることもたくさんあり、少なからず離れて行った友もいたことでしょう。わたしはある意味、それほどの間柄ではなかったので、噂に聴く程度でした。
 そして、ある日、トキドキクラブのメンバーだったTさんから、ピンクさんが亡くなったと聞きました。犬の散歩中に転倒し、頭を強く打ち、そのまま逝ってしまったということでした。
 くしくも2000年の秋深い時、彼がけん引した20世紀の谷間舎に誘い込まれるように49歳の若さで逝った彼は、「青春」そのものの輝きを最後まで心の奥にしまい込んだ人生を精いっぱい生きたのだと思います。何にもとらわれない柔らかい心は、やや口が悪い中に隠れていて、人なつっこい笑顔がお別れの会に行ったわたしに語っていたように思います。
ロックンロールは死なずと…。

さあ、輝く陽の光 たえまない水の流れに
生命の力が今よみがえるように 
ああ、限りない風の力
あかあか燃える木の炎
だけど原子力の炎とはさよならさ
    訳:PINK「POWER」
(PEACE MARKET・のせで、この歌を加納ひろみさんに歌ってもらいます。)
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