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2015.07.09 Thu 島津亜矢・神戸コンサート3

 さて、2部の始まりは「お染」。落語からつくられたこの軽快で滑稽な歌は、男と女の哀しくさびしく、おろかで性懲りもなくつづく人間模様が島津亜矢の新しい声色によって表現されていて、これもまた芝居体験から生まれたものだと思います。
 この日は、久しぶりに豊能障害者労働センターのFさんと行きました。彼女とは2011年、秋の予定が延期になって年末ぎりぎりに梅田芸術劇場で開かれたリサイタルに行った以来でした。2011年から島津亜矢のコンサートに行くようになったわたしは、最初の頃はよく友人を誘って行きました。
 それまでわたしは演歌に限らずコンサートに出かけることはほとんどありませんでした。仕事の関係で長い間チャリティコンサートを主催してきましたので、周りのひとや友人には音楽好きだと思われてきたのですが、実の所そんなに音楽好きとは程遠く、そんなわたしがコンサートに行く…、しかもよりにもよって演歌のコンサートに行くと聞いて、とても信じられないと言われました。
 ある友人は、「いつ島津亜矢に飽きるかな」と斜めに見られていましたし、ある友人は恐る恐る聴いてみて、「Hさんが言うほどのこともないな」と言いました。またある友人からは「Hさんも歳をとってんな」とも言われました。
 けれども、今もこのブログで書き続けているように、わたしにとって島津亜矢の音楽との出会いは衝撃的で、わたしの少ない音楽的な体験をすべて飲み込むような出来事でした。
 わたしがあまりしつこく島津亜矢、島津亜矢というものですから、「そんなに言うなら一度コンサートに行ってみようか」と言ってくれる何人かの友人と続けさまに行くことになったのでした。その友人たちはポップのファンやロックファン、さらにアメリカのブルースのファンなどすべて演歌とはかけ離れたひとたちで、実はわたしもついこの間まで彼女たち彼たちと同じでしたので、はたしてこんなミスマッチの極みで島津亜矢を評価してくれるのか心配しましたが、あるひとは彼女の「与作」を聴き涙を流し、あるひとは過激なまでの歌のうまさにびっくりし、みんなとても喜んでくれました。
 そうは言ってもわたしほどには「亜矢ちゃん命」になるほどではなく、それから後はあまり押し付けがましいのもなと思い、コンサートは一人で行くことにしていました。
 今回は2月の歌謡コンサートでの「I Will Always Love You」を聴いた彼女が、ぜひ行きたいと言ってくれて、一緒に出掛けたのでした。
 その彼女はたしかにポップスをもっと聞きたかったという一方で、「大器晩成」、「みだれ髪」など、はじめて演歌を歌う島津亜矢に感動してくれた他、客席まわりにも感心していました。わたしも、他の演歌歌手の客席まわりを知らないので何とも言えないのですが、時には小走りしながらも音程もリズムも変わらず、圧倒的な歌唱力を披露できるのは、彼女だけのように思います。そして、ずっと以前にも書いたことがありますが、多分マネージャーだと思うのですが、階段もある広い会場を彼女をサポートするために膝をついて小走りに動く彼にも、ほんとうに頭が下がります。
 島津亜矢のコンサートに行ってつくづく感じるのは前回書いた「島津亜矢スペシャルバンド」だけでなく、彼女のチームスタッフが仕事として以上に彼女を気遣い、彼女が歌だけに集中できるように一生懸命サポートする姿です。
 客席まわりの後、新曲「独楽」を歌いました。発売されてからすでに何度も歌い込まれたこの歌の「独楽は心棒、こころも心棒」の歌詞に、島津亜矢の心情が日を追って深く強く注ぎ込まれていくのが伝わってきました。
 そして、わたしはまたまた「瞼の母」で涙を流してしまいました。「かあちゃん」、「帰らんちゃよか」、「感謝状 母へのメッセージ」と、コンサートの定番となっている母物、家族物は島津亜矢のもっとも得意とする.人気のジャンルですが、その中でも「瞼の母」は1992年の名作歌謡劇場のトップを飾ったセリフ入りの楽曲で、この歌ほど息長く歌いつづけることで進化してきた歌は他にはないかも知れません。
 1930年に発表された長谷川伸の「瞼の母」は戦前戦後をまたぎ、高度経済成長の3合目まで、まだ「大衆」という言葉が生きていた時代に、芝居や映画で日本人の心情をすくい上げた名作です。今では「やくざ」を描くドラマや映画は自粛されている感がありますが、「家族」から「ニューファミリー」、さらには「個族」へと変化するプロセスで、戦前から根強く日本人の心をとらえていた「人情」が過去の遺物として消え去ろうとしている今、島津亜矢があたかも時代の風に立ち向かうように「瞼の母」を歌いつづけていることに拍手をおくりたいと思います。
 ちなみに江戸時代の封建社会の厳しい階級と「見張り社会」から追い出された者は「やくざもの」になるか「役者」になっていったと歴史が伝えるように、近代国家の福祉よりもはるか前に、「前近代」はやくざ者や旅芸人として食いつなげるセーフティネットを用意していたのだと思います。それは一方で「人情」でつながり、一方で個人の自由をうばう「義理」に支配されていたのでしょう…。
 以前にも書きましたが、「戦友」が「お国のために」命を散らす美学をたたえる歌なら、「瞼の母」は国家に反逆し命を散らす美学をたたえる歌で、どちらにも共通するものは理不尽な宿命によって報われざる青春を死に急ぐ青年の無垢な心の歌で、島津亜矢はその滅びゆく純情をいとおしくすくいあげるように歌っています。
 日本社会全体が行きまどい、近代の成長主義の果実が遠い過去になった今、かつて高度経済成長のジェットコースターに振り落とされた「人情」や「助け合い」がビットコインならぬ「もう一つの通貨」としてよみがえる予感を、島津亜矢の「瞼の母」は感じさせてくれるのでした。
 ところで、わたしがこの歌を聴くと反射的に泣けてしまうのはそんな論理ではなく、わたしと母の切ない物語を思い出すからです。わたしは今では死語となった「私生児」で、母は別に家族を持っていた父との間に生まれた兄とわたしを育てるためだけに人生を生きた女性でした。子どもの教育に悪いからと生まれてすぐに父と別れ、一膳飯屋を営み、朝は5時から町の工場の工員さん相手の「和食モーニング」に始まり、昼夜と定食を出し、深夜の夜食まで提供しながら兄とわたしを育ててくれたのでした。
 手のひらに山と積まれた薬を飲み、髪振り乱してその日その日を食いつなぎ、わたしと兄を守ってくれた母にどれだけ感謝しても足りないはずでしたが、彼女の晩年は、決してわたしたち子どもによって報われたとは言い難く、反対に自分が脳梗塞で体が動かなくなり、言葉も出なくなってからも最後の時までわたしと兄を気遣い、愛してくれたのでした。
 1997年の夏の朝、苦しそうだった顔がうそのように若かったころの美しい顔に戻り、青く透き通った瞳にわたしの顔を映して、彼女は逝きました。
 「かあちゃん」もそうですが、「瞼の母」を聴くと子どもの頃にシングルマザーとして必死に生きてきた母のそれから後の人生を思い、子どもとしてもっと彼女の人生に報いるべきだったと後悔する気持ちが複雑に絡み合い、いつしか涙で島津亜矢のすがたが見えなくなってしまうのでした。
 こうして、神戸のコンサートはわたしにまた新しい感情を呼び起こしながら幕が下りました。最初に書きましたように、音響がとてもクリアで高音の割れがなく、彼女の声とその歌唱の微妙な表現までとてもよく聴こえたコンサートでした。

ブログのアクセス数が20万を越えました。島津亜矢さんのファンの方々をはじめ、応援してくださるみなさんに感謝します。
ありがとうございます。

島津亜矢「瞼の母」(1992年)

島津亜矢「瞼の母」(2003年)

映画「瞼の母」(1962年 加藤泰・監督 中村錦之介 小暮実千代)


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