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2015.06.20 Sat 島津亜矢「哀しみ本線日本海」(アルバム「BS日本のうた8」

 島津亜矢のアルバム「BS日本のうた8」は16曲を収録していますが、その半分は新しい録音と聞きます。このシリーズは島津亜矢がNHKのBS放送「BS日本のうた」(現在のタイトルは「新BS日本のうた」)で歌った歌をアルバムにしたものです。
 2002年に最初のアルバムが発売されてから現在のアルバムが8枚目で、一枚の収録が16曲ですから128曲、これらの歌がすべてこの番組で歌われたものばかりです。
 1998年にレギュラー番組となった「BS日本のうた」はBS放送の音楽番組の草分け的な存在ですが、島津亜矢は「BSの女王」という異名をとるほどこの番組に数多く出演していたことからこの企画が生まれたのでしょう。
 オリジナル曲もさることながら、この番組では出演歌手が歌謡史に残る名曲だけでなく、埋もれた名曲を歌い、オリジナル以上の緊張感でカバー曲を歌う野心的な番組でもあります。現在は他局の放送でも同じような企画がありますが、少し前まではこの番組の思い切った企画はとても刺激的でした。
 島津亜矢はこの番組の申し子といってもいい歌手で、この番組の制作チームは早くから彼女の才能を見出し、演歌からポップスまでさまざまな歌を彼女に歌わせ、彼女もまたその期待に応えてきました。この番組が島津亜矢を広く知らしめたと同時に、島津亜矢もまたこの番組の音楽的冒険の旗手としてこの番組のクオリティーを高めてきたといって過言ではないでしょう。
 さて、今回のアルバム「BS日本のうた8」のトピックスは、なんといっても「山河」の収録です。この歌についてはすでに書いていますが、この曲が正式に収録されたことは島津亜矢のファンのみならず、小椋佳、堀内孝雄、五木ひろしが格別の思いで製作し、歌ってきたこの名曲がより大きな「山河」へと解き放たれたように感じました。

 今回は「哀しみ本線日本海」について書いたみたいと思います。
 「哀しみ本線日本海」は1981年の森昌子の曲で、1977年の「なみだの桟橋」で演歌へとジャンルを移した森昌子にとって弾みをつけたヒット曲となり、この年の紅白のトリで歌った曲でもあります。
 わたしは実は演歌よりもアイドル時代の歌謡曲を歌う森昌子の方が好きでした。というのも、彼女がデビューした1970年代はニューミュージックからJポップという流れと、藤圭子、前川清、森進一などの現代演歌という流れの隘路にあって、阿久悠たちがけん引したアイドルによる「新しい歌謡曲」が独自のジャンルとして確立されるかどうか、混沌としていたと思います。
 しかしながら、世の流れは阿久悠という稀有な作家が新しい歌謡曲への道半ばで小説へと筆を変え、1980年代になると松本隆や秋元康にヒットメーカーとしての地位を譲ることになりました。デビュー当時の森昌子をプロデースしたといってもいい阿久悠は、森昌子に「新しい歌謡曲」への可能性を託していたのかも知れません。奇しくも森昌子が演歌歌手として大きな一歩を踏み出した頃、阿久悠は石川さゆりに演歌の歌詞を提供するようになります。
 わたしは島津亜矢の存在を知って以来、彼女のデビューがその時代であったなら、「新しい歌謡曲」が1950年代から戦前にさかのぼる「流行歌」の持っていたバタ臭さを受けつぐジャンルをつくっていたなら、島津亜矢という歌手はずいぶん楽だったのかも知れないと思っています。
 こんなことを思うのも、2011年に阿久悠の未発表の遺作から10曲を収録した島津亜矢の「悠々~阿久悠さんに褒められたくて~」という奇妙なタイトルのアルバムを聴くたびに、阿久悠と島津亜矢が運命的に出会っていたなら、山口百恵とすれ違った彼が一つの時代を越えて、「歌に憑りつかれた」何者でもない島津亜矢を来るべき時代のディーバとしてプロデュースしたかも知れないと思うからです。
 そこでは演歌もポップスも歌謡曲もジャズもロックも、島津亜矢の体と声帯を通り抜けるとひとつの歌になり、時代を受け入れながら時代を変え、公衆便所の落書きから政治を歌い、携帯電話の数字の隙間から切ない恋の歌を歌う、「島津演歌・歌謡曲」という壮大な抒情詩が生まれたことでしょう。
 最近の島津亜矢は、ほんとうにいくつもの声と歌唱法でひとつの歌を合唱のような複雑な歌にしていて、またひとつひとつの歌の持つ物語を多彩な風景と登場人物によって、まるで3分間の一幕劇のように歌っているように感じます。
 その意味では「哀しみ本線日本海」は、最近の芝居体験によって獲得した「語り」が活かされていて、1981年というバブル全盛期の女一人旅の、どこかリアリティのとぼしい正体不明のおしゃれな失恋を表現していると思います。
 よくも悪くもこの歌は1980年代の若い女性像を歌った歌で、この時代にはすでに演歌の王道とも言えた耐え忍ぶ女や待ちつづける女よりも、個々の事情はどうあれ、「失恋」の痛みをいやすために一人旅に出るだけの経済力・精神的な自立を獲得することが当時の若い女性の憧れだったということでしょう。
 もう少し時代が進めば「男を捨てる」女性像や男に依存しない女性像が当たり前となる一方で高齢者の介護という形で家庭に縛られるようになり、さらには現在のように介護は介護職に任せる一方、非正規雇用として男の7割程度の給料でゼロ成長の日本経済を支えるようになってきましたが…。
 ともあれ、「哀しみ本線日本海」は作詞の荒木とよひさが言ったように、どこでもない鉄道」の「どこでもない駅」に降り、「どこでもない町」をさまよいながら、ほんとうは「死んでしまおう」と思っているわけでもなく、ただなんとなく「わたしが死んだら泣いてくれますか」と未練交じりの独り言をつぶやく女性、きっとおしゃれな服をまとい、ブランドのカバンを持ち合わせながら、都会の失恋を楽しんでいるような「哀しみ」にひたる女性、実はそれこそがあの時代の男を喜ばせる女性像を見事に切り取って見せた荒木とよひさと作曲した浜圭介が、アイドルのからを破った演歌歌手・森昌子に贈った「時代を象徴する歌」だったのでしょう。
 1960年、西田佐知子が歌った「アカシアの雨が止む時」では、60年安保闘争のさ中に犠牲となった樺美智子さんの死とともに、「アカシアの雨に打たれて、このまま死んでしまいたい」という女性の言葉はリアリティのあるもののように思えました。しかも、おそらく女の一人旅はまだそれほど始まっていなかった時代で、学生運動や民主化運動をする男ですら、というかそんな男の方がより強く男の論理を振り回し、女性の自立が難しい時代でした。
 1969年、70年安保闘争の嵐の中にあって、相良直美の「いいじゃないの幸せならば」によって、はじめて日本の歌謡曲は男に依存しないと心に決めた恋多き女性の心の底にある切なさを見事に描いてくれました。この歌はいわば赤塚不二夫の「天才バカボン」の歌謡曲版といえて、バカボンのパパの「これでいいのだ」という言葉とつながっていると思います。退廃的といわれながらもレコード大賞も取り、紅白でも歌われたこの歌は、当時の若い女性から圧倒的な支持を得た歌でした。
 そして、1977年、阿久悠が石川さゆりに託した「津軽海峡冬景色」に登場する女性は、別れた男に未練を残しながらも決然と新しい人生を歩くことを決意します。この歌には「男に依存しない女性像」を語ろうとする阿久悠の強い意志が感じられます。
 「哀しみ本線日本海」とつづく、これらの歌に登場する女性像の変化は日本社会の変化そのものなのでしょう。
 森昌子が歌っていた時はほとんど興味のなかったこの歌ですが、島津亜矢の歌を聴くとわたしは時代の空気を感じてしまうのです。ある学者が「貧困は近代化する」と言いましたが、歌もまたその時代の記憶をかくしていて、その時代の一般的な期待される女性像が見事に浮彫にされています。
 そうならば、島津亜矢には来るべき時代の女性像を歌う歌手でいてほしいと願ってやみません。もちろん、かつての阿久悠や岩谷時子、安井かずみのように時代に翻弄されながらも時代を追い越そうとした歌の作り手が現れなければなりませんが…。

島津亜矢「哀しみ本線日本海」

森昌子「哀しみ本線日本海」

西田佐知子「アカシヤの雨がやむとき」

佐良直美「いいじゃないいの幸せならば」

石川さゆり「津軽海峡・冬景色」  
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