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2014.09.01 Mon さらば! 唐池子ども縁日まつり ぼくたちの夏

 8月23日、30年の歴史をきざんだ「唐池子ども縁日まつり」が幕を閉じました。
 このお祭りについては以前に書いていて重複しますが、今回箕面市人権啓発推進会議のニュースレターにと原稿を依頼されましたので、このお祭りをはじめたきっかけや思いをコンパクトにまとめましたので、再度掲載させていただきます。
 それとは別に、このお祭りに関するこぼれ話などを付けくわえたいと思います。
 
 箕面における障害者の人権運動は、教育運動からはじまりました。大阪の場合、障害児が地域の学校で普通に学ぶ権利を獲得する運動が盛んで、その後国際障害者年をきっかけに障害者とかかわるボランティア活動とともに、障害者の市民権を獲得する運動が教育運動を追いかけるように始まりました。
 1981年、障害者の問題を市民の暮らしの只中で共に考え、障害者とともにくらす街づくりをめざして「国際障害者年箕面市民会議」が活動を始めました。
 この頃、どの地域でも「地域の学校で共に学ぶ運動」の中から育ってきた障害児が高校進学の壁とたたかっていました。しかしながら実際のところ、学校の建物をバリアフリーにしたり介護体制をつくることすらさまざまな困難に拒まれる中、最後には「学力」の壁でいわゆる「知的障害」といわれる子どもたちの高校進学はかなり絶望的でした。時代が変わったはずの今でも余程の交渉をしてもなお、困難な現実があります。
 そこで養護学校、今でいう特別支援学校に行かざるを得ない状況がつづくことになるのですが、養護学校に行かない障害者が働き、日常の暮らしをつくる活動が、「地域で共に学ぶ運動」から強く求められるようになり、全国各地に障害者運動の拠点が誕生しました。
 そのうちのひとつが、豊能障害者労働センターでした。

 ともあれ、箕面の障害者運動の黎明期に「国際障害者年箕面市民会議」がはたした役割は大きく、「唐池まつり」のきっかけとなった豊能障害者労働センターのKさんなど当事者とそのお母さん、わたしのような市民が地域の労働組合や人権運動の団体と議論を交わし、Kさんを中心とした箕面市役所の障害者別枠採用、障害児教育運動、企業での人権侵害を告発する運動、障害者問題の市民啓発活動など、いままでほとんど問題にされてこなかった障害児・者にかかわる問題について、勢力的に活動していました。
 1984年、「国際障害者年箕面市民会議」は夏休みの終わりに子どもが参加できるお祭りを企画しました。そのお祭りが「唐池子ども縁日祭り」でした。
 わたしたちは春ぐらいから計画し、夏の終わりのこのお祭りに向けて準備をしました。
 その中でもKさんのお母さんはとても熱心に関わってくださっていました。お祭り当日の2日前も会議を開き、彼女も参加されていたのですが、その夜遅く、彼女はKさんの横で亡くなってしまったのでした。その知らせを聞いたわたしたちは耳を疑いました。「エーッ、さっきまで元気に会議に来てはったのに」…。Kさんのお母さんは心臓病を抱えていて、いつ発作が起こるかわからない状態だったことを、わたしはその時はじめて知りました。
 あくる日が通夜、そのあくる日、計画していたお祭りの当日がお葬式でした。
 Kさんの家でのお葬式が終わり、家族や親せきや親しい友人の方が斎場に向かうマイクロバスに乗り、出発の段取りが済んだ頃、「あれ、Kさんが乗っていない」とわたしたちの仲間が言いました。おかしいと思って式場になっていた部屋をのぞくと、Kさんひとりぽつんと残されていました。
 「ちょっと待ってください」とわたしたちは叫び、ひとりがKさんを抱きかかえて車に向かいました。
 わたしたちはこの時、障害者の問題はとても深く、ちょっとやそっとでは解決できないことを骨身にしみました。威勢よくこの会を旗揚げしてすでに3年、それまで障害者差別とたたかい、障害者の人権を大切にする活動をしてきたつもりでした。それらの活動を無意味とは言いませんが、そして、Kさんの家族を責める資格もありませんでしたが、何万語、何十万語の言葉と理念、そして社会の道理や人権の問題を理性で語っても、ひとりの障害者の孤独と悲しみには届かないことをあらためて知ったのでした。
そしてKさんをもっとも愛し、彼の将来を切り開くためにいつ破裂するかも知れない心臓を抱えて必死に生き憤死した母親の死をのりこえて、Kさんとわたしたちはそれからつづく長い時を共に生きていくことをKさんの母親と約束したのでした。
 最初は「お祭りどころやない」と中止にしようと思いました。しかしながら、Kさんのおかあさんがいちばんこのお祭りを楽しみにしていたことから、「追悼の祈りをこめて、予定通り開催することになったのでした。

以下は箕面市人権啓発推進協議会のニュースレターに寄せた文章です。


さらば! 唐池子ども縁日まつり ぼくたちの夏

 8月23日、30年の歴史をきざんだ「唐池子ども縁日まつり」が幕を閉じました。
 1984年、わたしたちは特別の思いでこのお祭を準備しました。このお祭の直前に、一緒に準備していたKさんのお母さんが亡くなられたからです。
 脳性マヒ者のKさんは箕面市の障害児の原学級保障を切り開いたひとりでした。1981年、翌春のKさんの中学校卒業をひかえ、彼とお母さんは箕面市役所への就労運動へと向かっていました。高校進学運動を選べない事情がKさんのお母さんにはありました。彼女はいつ発作が起こるかもしれない心臓病で、いのちのある間にKさんの自立の道をつくっておきたかったのでした。国際障害者年箕面市民会議として進めたこの運動は箕面市役所の障害者別枠採用制度を実現させましたが、Kさんは残念ながら市役所の職員にはなれませんでした。しかしながら、翌年の春に静かに出発した豊能障害者労働センターのスタッフとして現在も活動をつづけています。
 お祭り当日、おかあさんの葬儀が終わると大急ぎで祭りの準備をしました。祭りが始まると、どこからやってきたのか子どもたちであふれかえりました。わたしたちにとって、ほんとうに今でも忘れられない光景でした。後片付けをしながら、だれかが言いました。「きっとKさんのかあさんがよんできてくれたんや」。
 わたしたちはこのお祭りを一回きりと考えていました。けれども毎年、Kさんと彼につづく障害のある子どもたちがどれだけ地域で共に学び共に遊ぶ友だちと出会い、どれだけの障害者が地域であたりまえに暮らせるようになったのかを、Kさんのおかあさんに報告したいと思いました。
 わたしたちは追悼の祈りをこめて、このお祭りを毎年恒例にすることにしたのでした。
30年という長い時間は、箕面の町の障害者市民とその仲間たちの「たたかい」の足跡をたどるには十分な歴史となったはずです。
 唐池まつりは毎年のたたかいの一年を、Kさんのおかあさんをはじめとする志半ばで逝ったたくさんの愛おしい魂たちに捧げるラブレターでもありました。
 このお祭りが育ててきた「障害のある子もない子も、みんな街のたからもの」というメッセージが箕面の町に受け入れられてきたこと、そして、この街のすべてのとびらが固く閉じられていた30年前、いやそれよりももっと前から、ひとりの障害者の母親がそのことを夢見てたたかい、憤死したことだけは、わたしたちは決して忘れることはありません。

夏、ぼくたちはとてつもなく大きい大切ななにかをなくすことで
あたらしい夢をつくるのかもしれない
それを知っているから蝉たちは今朝もあんなにさけんでいる

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