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2014.06.15 Sun 映画「罪の手ざわり」

映画「罪の手ざわり」

 中国映画「罪の手ざわり」を見ました。この映画は第66回カンヌ映画祭で脚本賞を受賞したジャ・ジャンクー監督の最新作です。ジャ・ジャンクー監督はデビュー作「一瞬の夢」からずっと、高度経済成長の只中にある中国にあって、目まぐるしく移り変わる社会に翻弄されながら必死に生きる人々と向いあい、彼らのそれぞれの個人の物語を通して中国社会の「今」を鮮烈に映像化してきたことで知られています。
 中国映画と言えばチェン・カイコーの「黄色い大地」や「さらば、わが愛/覇王別姫」、チャン・インモーの「赤いコーリャン」、「初恋の来た道」などがよく知られていて、女優のコン・リーやチャン・ツィイーが日本でも人気になりました。わたしは一時期、香港、中国、ベトナムなどアジアの映画をよく観に行きました。
 少し前の中国映画には広大な大地、高くそびえる山、海とまちがう大河など、スケールの大きい自然とともに生きるひとびとの物語があります。12億のひとびとが住む中国大陸の広大な大地の隅々まで共産主義国家のビジョンが行きわたっているのか疑問に思ってしまう貧しい山村で、よくも悪くも古い因習が残る中で切なくも必死に生きる姿に無条件に感動したものでした。
 その一方で、映画に映し出される何気ない風景やひとびとの日常会話のなかにも日中戦争の爪痕が今も鮮明にあぶりだされ、よその国の話と片付けてしまえないものが日本人であるわたしの心にも残ることもあります。最近の日中韓の関係悪化やしばしば噴き出す排日感情など、時代や世代をこえてなお傷ついた心の風景はなかなか消えるものではなく、時には世代から世代へとより深い溝を再生産してしまう危険すらあります。
 しかしながら近年の中国映画は経済成長に取り残された地域のひとびとや、急速に発展する都会の中で壊されていく古き良き路地に生きるひとびとの人生の悲哀を描く物語も多く、そこには中国社会そのものが抱える闇が色濃く影を落としています。
 その中でもジャ・ジャンクー監督の映画は中国社会の今を必死に生きるひとびとを忠実に映像に写し撮るのですが、そこに描かれる個人的な物語を通して社会のひずみや、時には理不尽な暴力を発動する権力の在りようが糊のように観客の心にべったりとへばりつくのでした。わたしは以前、2006年のヴェネチア国際映画祭でクランプリ獲得した「長江哀歌」を見ました。長江の三峡ダム建設という国家的な大事業により水没する古都・奉節(フォンジェ)を舞台にしたせつない映画でした。

 会社の汚職で長年利益を吸い上げられてきた山西省の炭鉱夫、家族に出稼ぎ先を隠して、送金を続ける重慶の男、妻子ある男とかなわぬ恋を続ける湖北省の女、ナイトクラブのダンサーとの恋に苦悩する広東省の男…。
 映画「罪の手ざわり」は著しい経済発展を遂げた中国の現代社会のひずみが引き起こす4つの暴力の物語を、京劇や武狭映画という伝統的な大衆娯楽を盛り込み、何人かの登場人物が移動しながらつないでいきます。それは一般的なオムニバス映画ではなく、4つの物語を空間移動し、同時中継する映画そのもののロードムービーのようです。

 「最初の山西省の事件は、社会が生んだ暴力。司法・法律的な暴力です。みんなが取り合ってくれない、自分の行動を阻害される。そういった社会から生まれた事件です。
 ふたつめは、個人に根ざした暴力です。地方の窒息しそうな閉ざされた社会。そこに暮らしていても、生き生き暮らせない精神的な困難や、さみしさ。強盗や殺人を犯しますが、わりと個人に根ざした暴力です。
 3つめ、女性のストーリーは、一言でいうなら『尊厳』の問題。人間としての尊厳を傷つけられ、生きていく価値を守ろうとしたときに、自分が受けた暴力に対して、暴力が出てしまった。
 4つめは、隠された暴力が他者ではなく自分に向けられます。工場やナイトクラブの給料はどうなっているのか、誰が家族の家計を支えているのか。直接的ではない、隠された側面がありました」(ジャ・ジャンクー監督)

 中国版twitter「微博(ウェイボー)」をはじめとしたウェブメディアが急速に広まり、中国全土で起きた事件を誰もが即時に知ることができるようになったことから「中国での人と人のつながり、社会に対しての向き合い方が変わったと感じた」ことが本作製作のきっかけだそうです。
 最初から最後まで全編にあふれる暴力と流される血はこの監督の作風を一変するものでした。これまでどんな理不尽にも耐え、受け入れながら必死に生きて来たひとびとを見つめてきたジャ・ジャンクー監督でしたが、この映画では耐えがたい理不尽な暴力に翻弄されたひとびとが最後の最後にその暴力にあらがい、他者に暴力で返すか自分に暴力を向けるまでを彼女たち・彼たちの心情に寄り添うように見つめています。
 そして、荒唐無稽としか思えないこれらの物語が実際に起こった事件で、暴力に手を染めたひととそうでないひとの境目はとてもあいまいで、ありふれた日常の中から暴力も犯罪も悲劇も起こることをあぶりだします。そのあいまいさは映画の最後、路上で演じられる京劇を観ている人々の顔と目がいっぱいつまったスクリーンからあふれ出て、そのひとびとに見つめられる観客もまたその暴力を行使してしまうかも知れないと思ってしまうのでした。
 個人的な物語を閉鎖的なシネコンのスクリーンに垂れ流すことで成り立っているように思える日本映画の復活は、もしかすると映画が放つ時代への視線や、映画で描かれる暴力をはるかに越える事件が多発している社会の闇をすててしまう危険と隣り合わせなのかも知れません。この映画を観て、そのことに気づかされます。
 この映画が中国では上映禁止になっていると聞きました。それは暴力を肯定するかのような反社会的な犯罪者の心情に寄り添っていることや、中国ではあたりまえとされる権力者の腐敗や貧富の差、崩壊していく地域の村、経済成長と拝金主義がもたらす社会のひずみなど、中国社会の暗闇をえぐるからだけではないと思います。
 どんな拘束の強い社会でも、決して国家がとらえることができない「個の自由」の向こうに待っている切ない希望が、いずれ国家体制を転覆させるかも知れないことを天安門事件によって学んだ中国だからこそ、この映画の持つ力をよく知っているのでしょう。
 思えばかつての日本映画も、国家や社会と対置せざるをえない個としてのひとびとを見つめた名作がたくさんありました。しかしながらジャ・ジャンクー監督の映画が今映し出す中国社会はすでにその規模といいスピードといい、かつての日本社会の高度経済成長の時代をはるかに追い抜き、長い世紀にわたって世界経済が突き進んできた道の最後の扉にまで来ているのだと思います。
 そこでは経済成長のおこぼれも届かない、取り残されたひとびとですらスマートホンやタブレットを使い、インターネットで瞬時に世界とつながり、近代的な建物の前には瓦礫が積み上げられていて、場所も生活文化もかけはなれていたはずの4つの物語の風景がどこかよく似ているのでした。
 その風景が日本の今でもあることに気づいてしまうと、わたしたちはこの映画のメッセージと真摯に向き合うことでしか、新しい世界をイメージできないことを知るのでした。

映画「罪の手ざわり」オフィシャルサイト
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