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2014.01.14 Tue 島津亜矢の「かあちゃん」を聴きながら

 1月12日、大阪府高槻市に住む兄の家に行きました。1997年に母が亡くなった後は年に一度、毎年この時期に少し遅れた年賀のあいさつに行く程度の付き合いが続いています。それでも毎年のことですが、すでに30才をこえた甥や姪も必ず家に居て、とても歓待してくれて、この日も料理上手のねえさんの気持ちのこもった料理とおいしいお酒で楽しいひと時を過ごしました。
 母がいた頃にはいろいろな事情でぎくしゃくすることもあったわたしたち兄弟も、長い時がかたくなな心を少しずつ溶かしてくれたおかげで、こんなふうにおだやかな時間を共に過ごせるようになったのでした。
 当然のことながら、子どもだったころの話や母の話がつぎつぎと出てくるのですが、「わたしも年金を申請するようになってね。いまだに戸籍を摂津市にしているので手続きが不便で、高槻市に戸籍を移してほしいと頼むんだけど、いっこうに聴いてくれないのよ」とおねえさんの愚痴を聞いた時、わたしは兄の心情を思いはかりました。
 わたしは高校卒業後転居また転居で、戸籍は生まれ育った摂津市のままになっています。
 兄の場合は長年母親と摂津市ですごし、そこで結婚し子どもも生まれ、やがて高槻市に引っ越して現在に至っています。たしかにもう何十年も高槻に住み、これからもずっと住み続けることになるので、戸籍を高槻市に移したいとおねえさんが思うのは当然です。
 日本の戸籍制度には被差別地域や外国籍、また改善されたとはいえ非嫡出子の問題など、国家の法のもとで差別を生み、市民権を著しく傷つけてきた歴史があります。
 わたしと兄の場合、当時の町役場のひとの「はからい」で、東京の伯父が自分の5男と6男として出生届を出し、養子縁組で母の籍に入ったことになっていました。そんなことがなぜできたのかとても不思議ですが、わたしや兄が「愛人の子、私生児」として肩身の狭い思いをしなくてすむようにという母の切ない願いに応えて実行されたのでした。
 わたしは戸籍によって縛られるような社会は不幸な社会だと思っていて、そんなことをしなくてもわたしはわたしで生きていきたいと思います。しかしながら、兄は1943年、わたしは1947年生まれで、戦中戦後の混乱期、制度内結婚からはずれた母と子をとりまく社会の圧力がどれだけのものだったのかと想像すると、母や伯父や当時の役場のひとたちがそのようなごまかしをしたことを責めることはできないとも思います。
 母は子どもの親権を父親に放棄させ、援助も断り、女手ひとつで一膳飯屋を切り盛りしながら兄とわたしを育ててくれました。お店を閉めてからさらに10年間、お得意先だった人の世話で工場の食堂の給食係りとして働いた後、ようやく生活に追われる暮らしから少し解放された時、彼女は片手に山盛りの薬を飲まなければならない身体になっていました。
 わたしは高校生になると、わたしと兄のために髪振り乱して働く母に感謝してもしきれないことをわかっていても、いま振り返ると申し訳ないのですが、傲慢にも「ふつう」とはちがう血の濃さというか、閉鎖的で暗い密室のような家族そのものをうとましく思うようになりました。母や兄にかくれて寺山修司の「家出のすすめ」を読み、高校を卒業したら家を出て友だち3人で住む計画をしていました。
 卒業後すぐにその計画を母と兄に話し、実行したのですが、母には子どものためだけに生きてきたのにその子供に捨てられたと言われ、兄にも母子3人がつくりあげてきた家族への裏切りだと言われました。それでも母は、泣きながらわたしのために綿を買い、布団をつくってくれました。
 結局のところはわたしたちが育った摂津市の長屋はあまりにも手狭で、大人になった兄弟のうちどちらかが家を出なければならなかったのも正直なところで、わたしはそれ以後ほんとうに転々と住所を変えることになりました。
 兄はその手狭な家で母との同居を条件に遠縁にあたるおねえさんと結婚しましたが、母と同居しながらのおねえさんとの新婚生活、その後2人の子どもを育てるのは大変だったと想像がつきます。そんな事情から公務員だった兄はかなり無理なローンを組んで高槻に家を買いました。
 わたしといえば高校を卒業後、安定した職にもつかず母や兄に心配をかけるだけでしたが、1970年に機械メーカーに就職し、その一年後に結婚、子どもも2人生まれ、ようやく母と兄に安心してもらえるようになりました。
 その後は正月に高槻の家に母を訪ね、そのうちにわたしの家に母が年に何回か、最初は一週間ほどでしたがそのうち何か月と、両方の家を言ったり来たりする年月を過ごしました。言葉にすると悲しくなる、微妙なバランスを母も兄夫婦も私たち夫婦も保ちながらの毎日でした。
 兄はわたしには推し量れないいろいろな思いがあったことだろうと、いまでは申し訳なくもそう思います。父親のいないわたしたちの家族においては兄は何かと母の相談に乗り、時には私の父親代わりを引き受けてきたのだと思います。
 母の最期は、わたしたちの家にいる時に倒れ、何か月か入院後、福祉事情もあってわたしたちが住んでいた箕面に住民票を移して2週間後にやってきました。
 母が亡くなってすでに17年が経ちますが、いつごろからかわたしは再び、正月に兄の家を訪ねるようになりました。そして、いつも子どもの頃の話になり、摂津の家でなりふりかまわずその日その日を必死に生き、わたしと兄を育ててくれた母の姿を思い出すのでした。
 決していとおしく思わなかったはずはない父と別れ、その後も女性としてだれかを好きになったこともあったと思いますが、女性と母親の両方を生きることを選ばず、幼い子どもをかかえ、その日のくらしにも事欠く毎日を、母はどんな思いで生きていたのか、どれだけ心細かっただろうか、そして、どれだけの悲しみを積み重ねたことか…。 わたしが戸籍を摂津市のままにしてきたように、兄もまた摂津市から戸籍を移さないのは、わたしよりももっと深い思いから、母がシングルマザーとしてわたしたちを育ててくれたことと、母と兄とわたしの悲しくもいとおしいあの暮らしを忘れられないからにちがいありません。
 帰り道、阪急京都線の車窓から飛び去って行く風景をぼんやり見ながら、わたしは島津亜矢の「かあちゃん」をエンドレスで聴いていました。途中、電車はわたしの住んでいた摂津市千里丘駅を通過しました。

 実は「BS日本のうた」のステージについて書こうと思ったのですが、どうしても島津亜矢の新曲「かあちゃん」を聴いていると、こんなはずかしい昔話を書いてみたくなってしまいました。この歌を聴きながら、これからもたくさんのひとが母親をなつかしみ、昔話を語り、聴くことになるのでしょう。その意味では毎年正月に集まり、過ぎ去った日々を語るちょうどその時期に発売されたのもそんなに悪いことではないのかもしれません。
 そして、この歌はヒットチャートとは無関係に長い時間をかけて人々の心に届く歌なのだと思います。
 「BS日本のうた」についてひとこと、島津亜矢さんがとても楽しそうだったので、あれはあれでよかったと思いました。時には羽目をはずすように、昔の元気な亜矢さんのこぶしやうなりもありましたし、とにかく全然遠慮せず歌っていてとても気持ちがよかったです。「大利根月夜」も「嵐を呼ぶ男」もその勢いで歌っていて、彼女のうきうきした気持ちが伝わりました。ふと気が付くと、それは亜矢さんが「悠里ねえ」と呼ぶ原田悠里はもとより、特に松原のぶえの人柄がそうさせたのだとわかりました。松原のぶえが好きになりました。
 今回はまたまた長くなってしまいました。お許しください。

島津亜矢「かあちゃん」視聴できます。
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