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2013.11.20 Wed 「唐版 滝の白糸」その3

唐版 滝の白糸

 役者のことを言えば、窪田正孝はテレビドラマ「陽はまた昇る」で初めて知り、落ち着いたセリフの中に、ストレートな若さではない複雑でデリケートな演技に注目していたところ、「平清盛」でその才能をつよく感じた人です。今回の芝居は少し叫びすぎだったかなと思いましたが、じゃあ、それ以外にどんな演技ができたのかと思うと、彼はやはり彼らしく、アリダのように芝居の中で大きくなったのではないかと思います。
 実際のところ、この人だけは舞台に出ずっぱりでしたので、観客の注視する中で最初は兄と母をなくした喪失感が漂い、受動的だったアリダが銀メガネ、お甲、亡き兄の幻影、ミゼットプロレスラーたちの物語と出会い、その物語を追走することで「自分の物語」を獲得し、再生、成長していく姿をたった100分ほどの間に演じてくれました。この芝居でアリダを演じた沢田研二、岡本健二、藤原竜也とくらべても、まったくひけを取らないどころか、もしかすると新しいアリダ像をつくったのかもしれません。
 彼の特徴はとても普通に見えながら、少し怖い「狂気」のようなものがかくれているところで、こんな役者を必要とする芝居がこれからもいくつもあると思います。
 そして、大空祐飛。このひとはやはりまだ「宝塚の男役」で、女にはなっていないというひともいましたが、蜷川幸雄はそこに魅力を感じたのだと思います。
 初演の李礼仙に代表されるお甲像は、肉感的で男を魅惑し、すれっからしに見えながらも純な心をかくしている女そのものだと思うのですが、大空祐飛の場合、間違えばアリダの方を演じてもいいような中性的な美しさがあります。
 これは宝塚の男役だった癖が抜け切れていないのか、あるいは(わたしは宝塚歌劇を観たことがないのですが)、これが本来の彼女の特徴なのかわかりませんが、人形にあるような不思議な魅力、中性的なエロチシズムとでもいえばよいのか、ある意味とても危険な官能性を秘めたお甲でした。
 宝塚の魅力の一番は男役にあり、恋愛感情にも似た感情で「男装の麗人」に惜しみない声援と拍手をおくる女性ファンに支えられ、その憧れの頂点にいた大空祐飛は今回の芝居では「女装の麗人」として新しいお甲像を演じ、この芝居はもしかすると2人の少年愛の物語なのかとまちがうほどでした。
 そして、芝居後半の水芸では、さすが宝塚のトップスターという出自にふさわしい扇子の使い方、立ち振る舞いと口上で、この芝居のクライマックスにふさわしいエンターテインメントで観客を圧倒しました。
 この芝居ではお甲がクレーンに乗って宙を舞うシーンが評判ですが、わたしはそれよりも、お甲が最後に述べる口上に不覚にも涙を流してしまいました。

まださわりなんです。これからいいところだったんです。
明日から巡業にまいります。小人と女子プロレスの。
たまにはリングに鶴が飛んできて、ヴァヌカン山上の闘いよろしく小人さんたちと鶴が闘います。そして闘いの中で敵のなんたるかを見極めなければなりません。
傷にナンコウをぬったり、汗をふいてやったり、明日からわたしもがんばらなければなりません。
これから長い長い旅ですもの。
そしてそのためにはまず、明日の旅費を作らねばなりません。
しっかりと芸をみせて、あなたから御代をもらわなければなりません。
何事も一事が万事ですものね。この今夜の一事をおろそかにして明日から何が一事となりましょう。
これからいいところなんです。できます。踊ります。この滝の白糸太夫は!
今、あの壁に描かれた「復讐」の血管符号に学んで白糸太夫のくりだす銀のしずくは深い滝となるでしょう。万事はこの一事から!
それでは皆様、手首の蛇口をはずしましょう!

 そして、平幹二朗。このひとはやはりすごい役者でした。彼の役割は狂言回しで、この芝居を舞台の上で演出するような役どころでしたが、唐組のいつもの芝居では、唐十郎や今回羊水屋として存在感あふれる演技を見せた鳥山昌克が演じるところです。その場合はどこか優しくて無理を聞いてくれるおじさんのようで、ドタバタと演じることが多いように思うのですが、平幹二朗の場合はそこは容赦がなく、冷徹な計算と姑息なたくらみがオーラのようにあふれていて、アリダのような純情な少年などひとたまりもなく自分の筋書きとおりに操ってしまいます。
 そして、抑制のきいた透明な声で語る長セリフを聞きながら、もしかするとこの3人のうち最も色気のある役者だと思いました。

 最後に、まったく原作とはちがうように見える「唐版 滝の白糸」は、実は原作への激しいシンパシーと忠実な「解釈」に基づいたものであることを学びました。
 「滝の白糸」というタイトルで新派や映画になった泉鏡花の「義血侠血」は1894年に出された観念小説といわれた初期の代表作で、こんな物語です。

水芸人の滝の白糸は法律を勉強している村越欣弥という青年と出会い、心ひかれる。
彼女は欣弥に学費の援助を申し出て、欣弥はその申し出を受け勉強のために東京へ。
数年後のある日 彼のために前借をした大金を賊に奪われてしまい、犯人が残していった包丁を手に、白糸は迷い込んだ家で強盗殺人をはたらいてしまう。
裁判に掛けられた彼女の前に検事となった欣弥があらわれ、包み隠さず真実を述べるようにと諭す。
真実をすべて白状した白糸は殺人犯として欣弥に起訴され 死刑の判決が下る。
そして恩人を死刑に追いやった欣弥も自ら命を絶つ。

 「唐版」はこの物語の後日談で、登場人物の設定を変えて生き残った女と、死んでしまった男の弟の物語で全然違うお話ではあるのですが、「お金」が重要なポイントになっていることや、原作ではもう少落ち着いて状況把握していれば、白糸太夫は犯罪を犯して死刑になることもなく、欣也も自殺しなくてもよかったでしょうし、「唐版」の場合はそもそもなぜお甲とアリダの兄が心中しなければならなかったのか、またお甲が自分の死と引き換えにミゼットプロレスへの援助をするわけもそれほど説明されません。
 こう考えると、唐十郎の「唐版 滝の白糸」は時代設定も登場人物もまったくちがうのに、泉鏡花の原作とよく似たお話だと思います。2つの物語が時代を越えて深くつながっているのは、どちらもとても「理不尽」であることです。そしてそのふりかかる「理不尽」で止められない運命に抗い、殉じる崇高な純愛の物語であることです。
 泉鏡花は江戸時代の物語に傾倒していたと聞きましたが、唐十郎もまた江戸時代の河原乞食といわれた歌舞伎芝居への傾倒があり、この2人に共通するものは「前近代」の理不尽さに立ち戻ることで、「近代」の理不尽さを糾弾することにあるように思いました。
 人間は合理的に生きられるものではなく、社会や他者からはおろかで反逆的にみられても、純な心は時代を越えて届けられことを、「唐版 滝の白糸」は泉鏡花の源流から現代に伝えてくれたのだと思いました。

 今年は思いがけず、芝居を劇場でみることができました。「盲導犬」は娘の夫と2人で、「唐版 滝の白糸」はもうひとり、豊能障害者労働センターのFさんと3人で観に行きました。
 2回とも思ったのですが、娘の夫は車いすを利用しているので車いす席になるのですが、場所が料金の高いゾーンになるため、本人も介助者も自動的に高い料金をはらうことになるのがなんとなくおかしいと思ってしまいます。
 たしかにいい所で観られるので高い方の料金になって当然と思う一方、自分が望んだわけではなく、会場の都合でその位置に車いす席を設置してあるのですから、会場か主催者の配慮で安い料金にしてもいいのではないか、それが無理なら少なくともなにがしかの説明があってしかるべきなのではないかと思いました。

唐版 滝の白糸

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