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2013.08.26 Mon 藤圭子さんはもうひとりの樺美智子さん

 藤圭子さんの訃報が届き、とても悲しい思いです。このブログで、いつかまとまって記事を書こうと思っていた矢先でした。ご冥福をお祈りします。
 藤圭子さんが「新宿の女」でメジャーデビューした1969年は、国内では70年安保闘争や大学紛争、世界ではキング牧師の暗殺、ベトナム戦争など、おびただしい数の血が流れ、時代が悲鳴をあげる中、世界の若者が平和と自由を求めた時代でもありました。この時代、政治や社会の運動とかかわることを躊躇したわたしのような若者ですら、「もうひとつの民主主義」を夢み、キング牧師の「わたしには夢がある」と言った演説に心をふるわせていました。
 その時、わたしは体を壊したこともあり、それまでビル清掃の仕事で蓄えていたわずかのたくわえを食いつぶしながら、友だち5人とヒッピーまがいの生活をしていました。今でいえばシェアーハウスということになるのですが、家賃も食事もその他の生活費も6人で負担すればとても少なくて済みましたし、わたしたちは格別にケチな暮らしをしていました。
 そんな暮らしの数少ない娯楽のひとつがマンガでした。白土三平の「カムイ伝」、水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎、」つげ義春の「ゲンセンカン主人」、「ねじ式」など月刊ガロのマンガに熱中し、週刊少年マガジン、週刊少年サンデーに連載された赤塚不二夫の「天才バカボン」、梶原一騎・ちばてつやの「明日のジョー」、梶原一騎・川崎のぼるの「巨人の星」、週刊マーガレットに連載されたわたなべまさこの「ガラスの城」など、発売日になると近くの駅前の本屋にいそいそと買いに行き、夢中で回し読みしました。

 ちょうどそのころに、藤圭子が登場しました。笑いをどこかに忘れてきたような無表情な顔はまるで人形のようで、体の動きも歌い方もどこかぎこちなく、なまなましくむき出しの欲望が飛び交う新宿の歓楽街に迷い込んだあどけない少女の痛々しさを、むりやりつくらされているような違和感を感じました。そんな彼女のたたずまいとともに、「新宿の女」がテレビやラジオや、商店街やパチンコ屋などでよく流れていました。
 およそ明日への希望のかけらも見当たらない歌を、少しかすれ気味で一本調子の声で彼女が歌うと、その暗さは彼女自身の暗さというより、時代の暗さが彼女の歌に乗り移っているように思い、なぜか心ひかれたのがついこの間のように覚えています。
 一方では時速200キロで突っ走る高度経済成長が刹那な夢と幸福幻想をばらまき、一方では引き裂かれた悲鳴が路地という路地にひしめいていたこの時代に、藤圭子は時代の使命を授けられた歌姫として、たくさんの若者の支持を獲得することになりました。
 そして、美空ひばりがその声も歌もどことなく暗い影を持ちながら、廃墟からけむりのように立ち上がった戦後民主主義の根拠のない希望を歌うことを運命づけられた歌姫であったように、また1960年6月15日、60年安保闘争で全学連主流派が衆議院南通用門から国会に突入し、警官隊と衝突する中で樺美智子さんが死亡してほどなく、屈折した時代の鏡に残された巷に流れた西田佐知子の「アカシヤの雨がやむ時」のように、「圭子の夢は夜ひらく」は70年安保闘争の終焉とともに時代の袋小路に流れたのでした。
 
 2010年に出版された『創られた「日本の心」神話』(光文社新書)の著者・輪島裕介はその著書で、「演歌は日本の心などと言うが、演歌が生まれたのは1960年代後半であり、たかだか40年程度の歴史しかないと言います。
 戦後、歌謡曲が脚光を浴びるようになったのは1960年以降の安保闘争をはじめとする反体制運動によると著者は言います。やくざやチンピラやホステスや流しの芸人など、「アウトロー」こそが、日本の庶民的・民衆的な正当性があるという反体制思潮を背景に、寺山修司、五木寛之、相倉正人、平岡正明などが明治の自由民権運動から生まれた反体制としての演歌と戦前戦後の昭和歌謡とをむすびつけました。そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのだというわけです。
 わたしは島津亜矢のファンになって以来、今の「演歌」が「日本人の心」といわれることに違和感があり、彼女のスケールに合う「日本人の心の歌」があるのではないかと思っていて、世代がちがいながらも異論の余地がありません。
 ただひとつ、1974年生まれの著者が寺山修司、五木寛之、相倉正人、平岡正明を「新左翼の文化人」と呼んでしまうのは大きな勘違いだと思います。その勘違いは単なる音楽の領域に限らず、1960年から70年の時代そのものを読み違えているのかもしれません。彼らは当時、「新左翼」からも右翼と言われることもあった人たちで、歌謡曲やテント芝居や任侠映画などのカウンターカルチャーに「もうひとつの革命」を探していて、わたしは寺山修司の本を読み漁り、自分の居場所を探していたものでした。
 
 藤圭子さんはその時代のアイドルだっただけでなく、時代の巫女のような存在でした。
 いま、彼女の死を知らされ、彼女もまた「もうひとりの樺美智子さん」だったのではないのかと思います。もちろん、彼女の実人生は伝え聞くものはごく一部だと思いますが、「歌手・藤圭子」は、何十年もたって、あの時代の歌姫であったがゆえに「歌に殺された」と言っては言いすぎになるでしょうか。
 今はあの宇多田ヒカルの母としか知らない若い人たちがほとんどでしょうが、ほんとうはロックやポップスを歌いたいというひそかな願いは、時代によってねつ造され、時代に翻弄された少女にはかなわぬ夢であったようです。
 時代も、またその時代を生きたわたしたちも彼女のありのままのすがたを知り、あの時代にこそ彼女の歌うジャズやブルースを聴聴きたかった…、そんな思いでいっぱいです。

藤圭子「圭子の夢は夜ひらく」
とても単調な歌で、鼻歌で歌うのに似合っているこの歌をドラマチックに歌っていて、彼女がほんとうに歌唱力のある歌手であったことを再認識しました。このステージは1995年のようで、若かったときのぶっきらぼうな魅力もさることながら、めりはりのついた素晴らしい歌になっています。
あらためて聴くとすでに遠く去って行ったわたしの青い時のどこかに行きたくてもどこにも行けず、行き惑う青春の暗い淵にいた自分を思い出します。
三上寛「夢は夜ひらく~あしたのジョーなんか嫌いだ」
そして、「夢は夜ひらく」といえば、わたしの場合は三上寛です。ヒッピーまがいの生活から脱出し、おどおどしながら工場で働き始めたころ、極度の対人恐怖症と何をやっても不器用で何度も工場をやめようと思いました。そんな私をむりやり会社までひきずって連れて行ってくれたのが今は亡きK君でした。そして、この歌、「夢は夜ひらく」がわたしの応援歌だったのでした。今思えばこの歌はある意味、「圭子の夢は夜ひらく」のアンサーソングだったように思います。後になって三上寛はこの歌に「明日のジョーなんか嫌いだ」という歌を付け加えました。
「明日のジョー」はあの時代を象徴するマンガとして多くの人が論評していますが、三上寛は強い相手と戦い続けて灰になってしまう天才ボクサーの悲劇をいとおしく思いながらも、平凡でかっこ悪くてもひとりの女性を愛し、生活を築いたジョーの友だち・西もまたもうひとりのヒーローであると歌っています。
音楽のジャンルにかかわらず、天才であるゆえにその才能に翻弄され、命までもうばわれてしまうアーティストが後を絶ちません。藤圭子さんもまたそのひとりになってしまったことをとても残念に思います。われらが島津亜矢もまたとてつもない才能を持っていますが、どうかその才能に押しつぶされることのないようにと願わずにはいられません。
藤圭子「京都から博多まで」
1970年を境に、わたしは小室等や三上寛などシンガー・ソングライターを追いかけるようになり、演歌をほとんど聴かなくなっていましたので、1972年に発表された阿久悠作詞・猪俣公章作曲によるこの名曲を藤圭子さんが歌っていた記憶がないままでした。最近、島津亜矢がカバーしていることから、動画サイトで藤圭子さん本人の歌を聴きました。
島津亜矢「京都から博多まで」
島津亜矢の歌唱力をいう前に、歌の背後にある物語への深い理解力にいつも圧倒されてしまいます。そして、その理解力を獲得できるのは歌そのものと向き合う真摯な姿勢と普段の努力にあることは言うまでもありません。
アルバム「BS日本のうたVII」に収録されている彼女の歌を聴くと、夜汽車のレールの音が聴こえてきそうです。藤圭子さんへの追悼の曲となってしまいました。
余談ですが、今回動画サイトで藤圭子さんのカバー曲を聴いたのですが、何か背中の荷物をおろしたように自由でのびのびしていて、彼女の歌唱力が際立っています。それだけオリジナル曲は重く彼女にのしかかり、時代の歌姫とされてしまった悲劇を感じました。
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