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2013.05.08 Wed 祝春一番2013 その1

 5月4日、大阪の服部緑地で行われた「祝春一番」に行きました。このコンサートは毎年ゴールデンウィークにロック、フォーク、ブルースなどのジャンルを問わずミュージシャンが集う大きな野外コンサートとして、関西のみならず全国的にも有名なコンサートです。
 1971年、福岡風太、阿部登などを中心に、1969年の中津川フォークジャンボリーやウッドストックなどの流れを受けて、自分たちが聴きたい音楽を自由に聴き、歌いたい歌を自由に歌う場を大阪の地に作り出そうと、天王寺野外音楽堂で第一回「春一番」が始まりました。
 翌1972年からは前年の第3回中津川フォークジャンボリーが運営上のトラブルから途中で中止になったこともあり、春一番へと流れがどっと押し寄せたといわれます。イベントやコンサートを専門とする会社に頼らず、自分達の手づくりで開催するこのイベントに共感した若者達が日本各地から集まってきました。
 それから9年間、毎年開催されたこのイベントから数多くのミュージシャンが巣立ち、またこのイベントにかかわったスタッフの中から音楽事務所やイベント会社を立ち上げる人たちもあり、「自由であること」をキーワードに、歌謡曲や流行歌などの既成の大衆音楽とはちがう地平をつくりだすことになります。
 時代は70年安保闘争と大学紛争など政治の季節から高度経済成長の荒波にさらされる一方で、よくも悪くも「私は何者なのか」と問う自分探しへとひとびとの関心が移ろうとしていたのだと思います。
 以前にも書いていますように、私自身は寺山修司、竹中労、平岡正明などの本を貪る一方で、ジャン・ポール・サルトルの実存主義とアンドレ・ブルトンのシュールレアリスムに傾倒していました。
 自分自身はおよそ政治的な運動とはかけ離れたところに身も心も置き、ビルの掃除で生活の糧を得ながらありもしないひとりよがりの内なる革命を夢みていました。その革命は政治的なものではなく、単に吃音による対人恐怖症から極度に社会や「大人」を怖がり、現実からどこまでも逃げ続けたかった少年が、社会からの逃亡を反社会的な運動と勘違いして、数少ない友人との共同生活にたてこもっていただけのことでした。
 そんなわたしの自分運動も1970年に終わりました。こんなことを書くと怒られそうですが、正直なところ私にとって70年安保闘争の終焉よりビートルズの解散の方が大きなことだったのでした。そして1971年、中津川フォークジャンボリーに飛び入り参加した三上寛を朝のテレビニュースで見てファンになり、彼の追っかけをするようになりました。
 その頃に三上寛との共演していたフォークシンガーのほとんどが「春一番」に参加していましたが、そのころのわたしは三上寛・命で、音楽発信拠点であった「春一番」には行ったことがありませんでした。かろうじて旧の中之島公会堂で三上寛と共演していた友部正人が好きになり、ずっとのちに彼が最初から「春一番」にかかわっていたことを知りました。
 「春一番」は1979年まで開催されたのを最後に休止し、1995年に再開され現在に至っています。休止の理由はそれぞれのひとたちの音楽も人生も変わっていき、純粋にこのコンサートを支えていた「何も失わない自由」もまた変化せざるを得なかったということのようです。
 再開されたのは1995年、阪神淡路大震災の年でした。再開にあたってプロデューサーの福岡風太は、大東京を中心にした日本の音楽状況はジャンルを問わず1970年代から少しも変わっていないと言い、次のようなメッセージを残しています。
「あれから15年が経ちます。私たちも失うものが多くなり、ふっと気がつくとあれほど観たかったコンサート、聴きたくてうたいたかった歌をも見失っている。手間暇かけ、プロデューサーの熱意がこもったコンサートがない。血の通った音楽の現場がない。
 だから私たちは、私たちが大好きだった音楽をもう一度確認すべく15年ぶりに<春一番>を開催するのです。」


 わたしは、1970年から現在までの「春一番」のたどった足跡のいくつかを目撃したにすぎません。この43年という長い年月の間に、わたしの人生にも大きな出来事が起こり、また自分自身の決断で人生を大きく変えたこともありました。日々の悪戦苦闘の中で音楽に助けられたこともありましたが、ほとんど音楽とは縁遠い日々を過ごした時期も長くありました。
 それでも今年、久しぶりに「春一番」に行ってみて、この地もまた今もおとらず、まさに音楽の立ち上がる場であることをあらためて知らされました。
 思えば1970年代は政治的な変革とその挫折とともに終わった1960年代の後を受けて、カウンターカルチャーや大衆芸能がさまざまな冒険をはじめた時代でした。とりわけ音楽ではフォークからニューミュージック、そしてロックミュージックと、自分の作詞作曲した歌を自分で歌い、数多くのミュージシャンが既成の枠組みではない独自の世界を構築し、また当時の若者たちが彼らの音楽を圧倒的に支持するようになって行きました。
 「春一番」は彼らの冒険を乗せた巨大な船だったのかも知れません。
 彼らの音楽はその後、いろいろな人々を通り過ぎて現在のJポップスへとたどり着くことになるのでしょうし、それに対抗する形で歌謡曲もまた現代演歌へと足跡を残してきたのだと思います。その結果、携帯電話やスマートホンをメディアにしたJポップスやAKB48、ジャニーズ系のアイドルなど、華やかな流行がめまぐるしく押し寄せ、通り過ぎていきます。
 しかしながら1995年に福岡風太がいみじくも言った様に、あれからまた18年もたった今も、東京を中心にした音楽状況はまったく変っていないどころか、ますます一部の音楽事務所と「新しい既成集団」に躍らせている感があります。
 音楽の立ち上がる「春一番」の現場で一日を過ごし、20を越えるミュージシャンとバンドの演奏を聴き、わたしは強く思いました。
 「春一番」に今も集結するミュージシャンも観客も一方では「大人」になって来ましたが、一方で今の音楽状況をよしとしない人たちが「春一番」でみずからの音楽を鍛え、共に生きる仲間を得て既成の枠組みに挑戦する、新しいロック・ポップミュージックの荒野へと旅立とうとしているのだと・・・。
 1970年代の冒険はまだ旅の途中で、1995年と2011年の大災害によって既成の価値観ではもはや幸せになれないことを知ってしまったわたしたちが必要とする歌がその荒野から生まれ、聴こえてくるまで、その旅は終わらないのだということを・・・。
 「ロックンロールは死なず」

友部正人&どんと「ぼくは君を探しに来たんだ」
この日の大トリは友部正人でした。わたしはこの人を三上寛の追っかけの時に聴いてからずっと好きで、実は私の「春一番」の狙いはこの人でした。この日もこの歌を歌ったと思いますが、紹介している動画はあの「どんと」との共演です。どんとは我が伝説のバンド「ローザ・ルクセンブルグ」、「ボ・ガンボス」で活躍しましたが2000年、37才の若さで惜しくも亡くなってしまいました。
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