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2013.04.04 Thu 若松幸二と映画「千年の愉楽」

千年の愉楽

 若松幸二の遺作となった「千年の愉楽」を観ました。
 ピンク映画の巨匠といわれた若松幸二の映画は、若い頃何本も見たと思います。
 1960年代後半は安保闘争、ベトナム戦争、アメリカ公民権運動など、世界も日本も激動の時代でした。わたしはちょうど高校を卒業し、建築設計事務所に就職したものの半年でやめてしまい、1970年に会社勤めをはじめるまでの5年間、フーテン、ヒッピーまがいの暮らしをしていました。同世代の学生運動や反戦平和運動にシンパシーをもちながらもどこかしっくりせず、パッとしない青春を悶々と過ごしていたのでした。
 ビルの清掃で日銭を稼いでいる身分ではその頃流行りの「アイビールック」はもってのほかで風采も上がらず、心斎橋でナンパする勇気もなくまた成功するはずもなく、女性へのあこがれがつのるばかりでいっこうに出会う機会は訪れませんでした。
 青春の暗闇でうごめくわたしがあまりお金を使わずに性的な妄想を駆り立てるには、ピンク映画はもってこいでした。大阪の千日前や松屋町のピンク映画館にこそこそおどおどしながら入るとたいていはガラガラでした。
 薄汚れたカーテンのような銀幕で、この頃はほとんど全編が白黒なんですがベッドシーンになるとカラーになり、そこではだいたい赤い長じゅばんや赤の下着などが強調されていて、今から思えばこっけいでしたがそのお約束の手法に興奮したものでした。
 ほとんどの映画はセックスシーンにたどりつくためにのみ物語が展開するのですが、若松幸二の映画はちがっていました。裸の露出もセックスシーンもいっぱい盛り込まれているのですが、他の映画にくらべて性的な興奮度が足らないというか、というより性的な興奮を拒否されているような不思議な感覚でした。彼の映画の中の登場人物はいつも何かに怒っていて、最後には観ているわたしたちまで「お前は何者か」と激しく質問されているようで、およそピンク映画に持つ期待を裏切られてしまうのでした。
 それでもわたしは場末の映画館の薄汚れた座席に身をひそめ、いつのまにか映画の登場人物の怒りを共有している自分におどろき、それからは若松幸二の映画を好んで見るようになっていきました。それは学生運動にコミットする勇気も持たず、高度経済成長のジェットコースターにも乗れない反社会的でどもりの少年の、たったひとつの存在証明でもあったのでした。
 時代の暗闇を写しだす映画がその暗闇の中で必死に生きる人々の孤独な心に届けられる時、映画もまた個々のひとびとが社会とコミットする起爆剤になることを、若松幸二は教えてくれました。
 やがてささくれた心のとげもいつのまにか消えていき、わたしの青い時がはるか遠くに去っていくとともにピンク映画を観ることもなくなってしまいましたが、「水のないプール」、「寝盗られ宗助」「エンドレスラブ」、「キャタピラー」など、若松幸二がその後世に出した一般映画も少なからず観に行きました。

 映画「千年の愉楽」は紀州の「路地」とよばれる被差別集落に生まれ、美貌と性的魅力にあふれたある一族の何世代もの青年たちが女たちに圧倒的な快楽を与えながら死んでいく物語を、いまわの際をさまよう老女の語りでつづる鬼才・中上健次の同名小説を映画化したものです。
 映画は霧に包まれた、女陰を想像させる岩窟から湯気か煙のようなものが立ち上り、次第にその向こうに曇りガラスのような銀色の海が見えます。そして、山の斜面に張りつくような路地が映し出されると、産婆として路地の若者を取り出してきたオリュウノオバが死の床で夢うつつのままに遺影の夫・礼如とユーモラスな対話を交わす中で、時代をさかのぼるように「千年」の一族の血の物語は始まるのでした。
 高良健吾、高岡蒼佑、染谷将太という美形の若い俳優にくわえ、今もっとも刺激的な俳優のひとりである井浦新に寺島しのぶ、佐野史郎が若松幸二へのシンパシーを持って演じたこの映画は、最近のテレビ局主導で観客動員数のみで評価される商業映画とはちがい、ほんとうに切実な思いを持って生み出された映画で、映画の中のオリュウノオバがこの世に取り出した赤子のような気高ささえ感じました。
 理不尽な差別の中で生まれ、不定期にある山仕事や土木工事の仕事以外は無頼に生きるしかないこの物語の若者たちは女を喜ばせることにかけては天才で、女たちは彼らの剥きだしの性的雰囲気に群がり、快楽を求めて吸い寄せられていきます。女をいたぶり女にいたぶられ、若くして非業の死をとげる彼らは転生し、またオリューオバによってよみがえるのでした。
 この世に生れた生命は、どんな子供でも生きてくれているだけで尊い存在で、生れて来ると言う事が仏の慈悲に因って誕生したのだからと手を合わせ、その後の人生のどんなことでも、たとえそれが犯罪であっても許せるというオリューオバの言葉が今でも心に残ります。
 「人は、生まれて、死んで、また生まれて、死んでいく。その営みの繰り返しだ。人が人を差別するこの社会の中に、次々生まれては死んでいく。あまりに不条理で、だけど、だからこそ、中上が思わず文章で描かずにはいられなかった美しさがあり、僕がその文章に触発されて作った映像がある。不条理だから、表現が生まれるのだ。中上と、あの世で再会したら、彼の感想を聞かせてもらいたい。」(若松幸二)
 まるで死を予感したようなメッセージとともに、この映画は図らずも若松幸二の最後の作品となってしまいましたが、1960年代から国家や社会の理不尽な権力と立ち向かい、一方で社会の底辺でうごめくひとびとを見守ってきた映画監督・若松幸二の遺言でもありました。
 映画を観てから気になっていた中上健次の原作を読み、この作家の麻薬のような文体にはまってしまいました。彼の小説の舞台である路地は千年も孕みつづける母親の胎内で、そこでは生と性の匂いが立ちのぼり、その匂いはたとえば夏草の匂いだったり生木を割る薪の匂いだったりで、そこで描かれる性描写よりもその文体そのものがエロチックで官能的でした。
 ピンク映画にはじまり、「千年の愉楽」まで疾走しつづけた若松幸二の映画もまた、銀幕がまるで欲情しているような映画への渇望そのものが官能的であったことを思いかえすと、この映画が図らずも遺作となったことに運命的なものを感じます。

千年の愉楽

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