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2013.02.12 Tue 吉田拓郎と沢田研二

 先日、NHKのBSプレミアムで、吉田拓郎と沢田研二の対談番組がありました。
 吉田拓郎は2007年に体調をくずし、全国ツアーを中止しましたが、2008年、2009年と音楽活動を再開し、昨年の秋に3年ぶりに4つのライブを開きました。
 沢田研二は超人気バンド「ザ・タイガース」のボーカリストとしての1960年代、ソロ歌手として歌謡曲とビジュアルロックを織り交ぜ、日本のポップスをけん引した1970年代と、数々のヒット曲を放ってきたスーパースターであることはご承知の通りです。また60才の時の「還暦コンサート」や、ザ・タイガースの再結成など、最近も話題に尽きない人です。
 
 わたしが20才から23才まで、体を壊し仕事もせず、貯金をくずしながらともだちと共同生活をしていた頃、グループサウンズが大流行し、たくさんのバンドが生まれました。
 この時代は政治的にも70年安保闘争や学生運動の最中で、日本でも世界でも若者が政治や社会の体制に叛旗をひるがえし、それらの運動に参加した者はもとより、参加しなかったわたしのような若者までも革命幻想に酔いしれた時代でした。
 わたしは高校に行かせてくれただけでも幸運で、経済的な事情で大学には行かなかったこともありますが、それでも大学生でなくても同世代のたくさんの若者が参加していたことを思えば、私自身にそうできない理由があったのですが、彼らと行動をともにすることはありませんでした。
 前にも書きましたが、子どもの頃から対人恐怖症で社会性がほとんどないわたしには体制も反体制も同じもので、どちらも社会性を持ち合わせ、言葉を自由に操れる政治的人間たちのたたかいで、わたしのように内向的で反社会的な人間とは別世界に思ってしまったのでした。
 会社に縛られないフリーターとして働き、数少ないともだちと共同生活をすることで生活費を切り詰めて貯金をし、運命共同体を実現しようと企てる幼い夢想にふけるわたしにとって、ビートルズは政治的回路とはちがうもうひとつの地下回路を潜ってやってきた「もうひとつの革命」でした。
 ビートルズの衝撃からグループサウンズが生まれ、ザ・タイガースと沢田研二はその中心と先頭にいました。当時は不良の代名詞とされた長髪やエレキという要素に加え、異常ともいえる人気の過熱ぶりに世の大人たちは煙たがり、NHKはザ・タイガースをはじめグループサウンズの出演を拒否しました。
 いまでは考えられないことですが、NHKをはじめとする大人たちが恐れたのは単に長髪や不良ではなく、世界の社会的な変革と呼応して日本で吹き荒れる学生運動や70年安保闘争のようにハードで眼に見える革命運動と匹敵するもうひとつの見えない革命運動として、音楽のすさまじい力におびえたのではないでしょうか。
もっとも、今から思えばグループサウンズもまた仕組まれたもので、もうひとりの大人たちが社会の動きに乗じて作り出した商品であったのかも知れません。
 わたしは個人的にはザ・タイガースよりも、大阪を拠点に活躍したザ・リンド&リンダースが好きでした。寺山修司の友人だった古川益雄のプロデュースで結成され、レコードデビューとなったボーカルの加賀テツヤのソロによる「ギター子守唄」は寺山修司の作詞でした。

 わたしが吉田拓郎を知ったのは1971年の夏のことでした。伝説となった第3回全日本フォークジャンボリーのニュースをテレビで見たのでした。
 このイベントはアメリカのウッドストックに先駆けた野外イベントとして、フォークからロック、ジャズ、リズム&ブルースなどまだジャンル分けがなく、またアマチュアでも飛び入りで参加できました。
観客の支持と罵声が入り混じるスリリングなライブで当時の若者文化の象徴的なイベントでしたが、第3回はとうとうそのエネルギーが頂点に達し、舞台を目がけて花火が打ち込まれ会場は騒然、主催者との討論会となり、そのままコンサートも自然流会してしまったのでした。初めて参加した吉田拓郎はその騒動をしかけた人物ともいわれました。
 わたしといえば、実はその時にチラッと映った三上寛の歌に衝撃を受け、三上寛を吉田拓郎とまちがえ、その頃住んでいた大阪府豊中市のレコード店に飛び込み、「テレビでやっていた、あの演歌のような唸っていた歌手、たしか吉田拓郎といったけ」と店主に言うと、「お客さん、それは ひとちがいで三上寛ですよ」と教えてくれました。
 わたしは青春時代を共に生きた妻と結婚していて、生活を築いていくために不慣れな会社勤めをはじめた頃でした。70年安保闘争が終わるとともにビートルズも解散し、わたしと同世代の若者が夢みた「革命」も、わたしが夢みた「もうひとつの革命」も時速200キロの猛スピードで走り去りました。わたしもまた高度経済成長からバブル崩壊へとつづくジェットコースターに振り落とされそうになりながらも、しがみつかなければなりませんでした。ニューファミリーと衣替えした日本の家族の一員として生きていくためには、暗い青春も自由の荒野も心の奥深くに閉じ込めなければなりませんでした。
 吉田拓郎たちのフォークロックはやがてニューミュージックとも呼ばれるようになっていきましたが、かつての「革命」の夢を心の奥深くに隠しながら、こじんまりした団地や文化住宅で「新しい家族」をつくり、それでも根拠のない切ない希望を最後の病気として燃やし続けたわたしたちを励ましてくれたのでした。
 実際、わたしはビートルズ以後、三上寛の「夢は夜ひらく」や「ひびけ電気釜」をくちずさむことで、その後の人生を生き抜くことができました。

 2人の対談はどこかぎこちなく、決して打ち解けたものとは思えませんでしたが、わたしの人生のメモリアルを際立たせたように、戦後民主主義と日本社会のターニングポイントのひとつでもあった1970年を中心にしたビフォーアフターを過激に表現し、「それでもつづく人生」を生きるわたしをふくめたたくさんの人々に勇気をくれた2人のスーパースターに、敬意を表したいと思いました。


吉田拓郎「人生を語らず」

沢田研二「時の過ぎゆくままに」

三上寛「夢は夜ひらく」

加賀テツヤとザ・リンド&リンダース「ギター子守唄」

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