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2012.10.22 Mon 変わらない夢を、流れに求めて、豊能障害者労働センターの30年

世の中はいつも 変わっているから
頑固者だけが 悲しい思いをする。
変わらないものを 何かにたとえて
その度崩れちゃ そいつのせいにする
シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく
変わらない夢を、流れに求めて
時の流れを止めて、変わらない夢を
見たがる者たちと、戦うため
(中島みゆき「世情」)

 10月21日、豊能障害者労働センター30周年記念パーティーが120人を越える出席者を得て、盛会に開催されました。
 わたしはこの2年間、記念事業の実行委員として、昨年の「松井しのぶ・カレンダー原画展」、今年6月の「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」、そして今回の記念パーティーの企画に参加させていただきました。
 そのどれもが豊能障害者労働センターのスタッフにとっても、実行委員会に参加させていただいたわたしにとっても、そして何よりも参加してくださった方々にとっても心に残るイベントであったことをとてもうれしく思います。

 言うまでもなく30年という年月はとても長い時間です。豊能障害者労働センターの30年は日本の30年、世界の30年の中にあってほんの小さな米粒ほどの歴史ではありますが、同時に日本の30年、世界の30年と無関係であるはずもなく、波高かった時代の海に漂流しながらも見果てぬ夢を羅針盤に航海し続けた30年でもありました。
 かつてミシェル・フーコーは「狂気の歴史」の中で、ヨーロッパで社会のシステムを乱す者、社会の足手まといとされる者、社会にとって都合の悪い者たちを船に乗せ、阿呆国に出航する小説「阿呆船」に登場する船が実在したとし、現在それはほぼ間違いだとされていますが、魔女狩りにしても「阿呆船」にしても、社会を支配するシステムが説明できないものを受け入れることよりも排除してきた歴史は具体的な事実がどうであってもたしかな真実であることは、豊能障害者労働センターの30年の活動においても骨身にしみるものでした。

 1982年4月、一般企業への就労をこばまれ、働く場から排除され、あたりまえの市民として生活していける所得もないまま、高齢化する親の元で心を縮ませて暮らすしかない障害者の窮状を市民の助け合いで変えていこうという思いから、豊能障害者労働センターは誕生しました。一般企業が雇わないのなら、自ら事業を起こし、障害者が経営に参加し、障害者の所得をつくり出そうと考えたのでした。
 しかしながら、障害のあるひともないひとも共に働き、共に給料を分け合い、共に暮らしていこうという、純情でまっとうで平凡でさえある思いは、本来その思いを応援してくれると信じていた国の制度そのものにはねかえされ、この30年の豊能障害者労働センターとその活動に関わってきたひとたち、応援してくれた無数ともいえるひとたちの願いはいまだ実現しているとは言いがたいのです。
 30年前、養護学校を卒業しても一般企業への就労もかなわず、当時箕面市では福祉施設すら整備されておらず、今のような介護サービスもまったくないまま家にいるしかない小泉祥一さん(現豊能障害者労働センター代表)と、障害のある子もない子も地域で共に学ぶ教育運動の先頭にあり、中学校卒業を控え箕面市役所への就労を要求していた梶敏之さんをふくむ5人で活動をはじめた豊能障害者労働センターは、労働行政からは福祉施設といわれ、福祉行政からは一般企業といわれ、どちらからも支援施策の対象とはされませんでした。
 かろうじて箕面市行政のみが豊能障害者労働センターの活動を認め、一般企業への就労支援が進まない労働行政に踏み込み、福祉行政の側から一般企業への就労が困難な職業的重度といわれる障害者の働く場を支援する先進的な制度をつくり、進めてきたのでした。
 いまでは障害者37人をふくむ60人が活動を続け、5つのリサイクルショップと食堂、福祉ショップを運営している他、点字業務と通信販売を加えたいろいろな働く場を作り出し、みんなで給料をわけあっています。

 パーティーでは「本当は豊能障害者労働センターがなくなるほうがいい」という発言がありました。障害者の一般企業への就労があたりまえになるべきなのだと…。
わたしも最初は労働センターを必要とすることは不幸なことで、一般企業への就労が一番だと思っていました。その理由としては障害者運動の理念もあったのですが、労働行政からの支援も福祉行政からの支援もなく、自分たちの努力と市民の支援だけで事業を成功させ、みんなの給料を生み出すのがとても困難だったことから、経営資産を豊富に持っている一般企業が障害者を雇わないことが問題なのだ、それを改めさせる政策をしない労働行政がいけないのだと思っていたのでした。
 しかしながら、レーガノミクスやサッチャーイズム、そして小泉改革と、世界でも日本でも新自由主義、市場原理主義が席巻した1990年ごろから、少しちがった考えを持つようになりました。
 一般企業への障害者雇用が進まないのは単純に労働問題ではなく、実は世界でも日本でも、経済構造のあり方に問題があるのではないのかと思うようになったのです。
 そして、いままで一般企業への就労が一番としてきたのは理念や言い分はあるものの、どこかで障害者の就労問題を一般企業に丸投げし、障害者を受け入れるための職場改善の必要は主張するものの、その企業への経営環境にまでは想いを馳せることはなかったか、必要ないと思ってきたのではないのか。障害者の就労がほんとうに実現し、持続的なのものであるためには、今のような新自由主義の荒波に座礁しそうになる経営環境を、つまりは世界の、日本の経済構造そのものを問わなければならないのではないかと思い始めたのでした。
 障害のあるひともないひとも共に働く就労の場を世界の経済、金融市場に翻弄される一般企業にすべてゆだねるのではなく、自ら経済構造のあり方を問い、そのすべてを変革することは難しいかもしれないけれど、新自由主義のシステムとはちがう経済システムを独自に作り出すことが求められているのではないか。
 そこでは一般の経済圏よりはるかに少ない給料しか獲得できなくても、だれもが助け合って暮らしていける「助け合い経済」のシステムの中で、障害のあるひともないひとも助け合い、共に働く場をつくりだすことができるのではないか。
 デフレ不況、企業倒産、最悪の失業率、政治不信…。日本全体がどこまで続くかわからない百年に一度といわれるトンネルの中にあって、自ら業を起こし、独自の市場を生み出し、さらにはGDPでは計れない「助け合い経済」をつくりだすことは障害者の就労だけではなく、働きにくさをかかえているたくさんのひとびとにとっても、最も必要とされるもののひとつなのではないかと思うのです。
 福祉施設でもなく一般企業でもない異端とされてきた豊能障害者労働センターの30年の活動は今、国際社会でも注目されるようになった「社会的起業」として花を開く日が近づきつつあると思います。実際、障害者をふくむ働きにくさをかかえる人々があたりまえに働ける「社会的事業所」を提唱する全国組織であるNPO法人共同連など、理念と実践を共有できるひとびととの出会いによって、豊能障害者労働センターはその活動をより広げることに成功しつつあります。
 豊能障害者労働センターの30年のうちの5年を運営委員として、その後16年を専従スタッフとして参加することができたことはわたしの誇りですが、かれこれ専従を離れて9年がたち、新しいスタッフが「変わらない夢をながれに求めて」たくましく活動している姿に感動しました。
 30年という節目をむかえ、豊能障害者労働センターは日々の活動をより深めより広げながら、「明日の夢」へとつづくこの大地をもう一度耕しはじめることでしょう。

このブログのアクセス数が6万を越えました。ありがとうございます。
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