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2012.08.12 Sun ふたたびK君とビートルズと島津亜矢

 このブログをはじめたきっかけはK君の死だったこと、そして彼が島津亜矢を教えてくれたことは以前にも書きました。高校からの友人で、和歌山の山村から大阪に出てきた彼の方がずっと世間をよく知っていて、わたしはいつも彼の後ろを迷子にならないように生きてきたのでした。
 先日、久しぶりに長い間通勤に利用していた阪急宝塚線の庄内駅を降りました。この町は同じ阪急の十三とはまたちがった感じの猥雑な町で、いろいろな事情をかかえている人たちがひしめきあっている町です。
 ひさしぶりにこの町の、少しさびれてしまった商店街を歩くと、そういえばいつもK君に連れられて大衆食堂で定食をがつがつ食べながら仕事のぐちを言い合ったり、パチンコ屋で財布を空っぽにして閉店までねばり、店内にとどろく「蛍の光」と「ゴォーッ」と鳴り響くパチンコ玉の大群に追い出されたことなどを思い出しました。
 そういえば、庄内にはじめて「マクドナルド」ができた時、彼に連れられ、おとおどしながらハンバーガーをはじめて食べたこともつい昨日のことにようによみがえるのでした。
 高校を卒業してからわたしが結婚するまでの8年間のうちかれこれ5年も一緒に住み、庄内にあったわたしの妻の父親が経営する工場に一週間違いで入社し、わたしが40才を機に会社をやめてからもずっと、亡くなるまで勤めていました。
 彼はクリスチャンであったことから、1979年当時、大きな国際問題となったベトナム難民を受け入れることを会社によびかけ、実現させました。会社にやってきたベトナム人は200万人ともいわれるベトナム難民のひとたちがそうであったように、親が家を売ったりしてつくったなけなしのお金で小さな小船に乗り、遭難を覚悟で日本の海岸にたどりついたボートピープルのひとたちでした。
 仕事もさることながら、近所にアパートを借りる手配から、後々につぎつぎと起きるさまざまな問題を彼らとともに解決していく日々が何年かつづきました。
 そしてひとりふたりと受け入れていく中で、彼は彼らの故郷ベトナムに工場をつくることを会社に提案し、それが実現すると現地のひとびとのくらしが少しでもよくなるために雇用と労働条件の改善につとめ、死ぬまでベトナムの合弁会社の経営に力を尽くしました。
 わたしはといえばそのころは、今日の飯代からせめて一か月分の飯代を用意できる給料をみんなでつくりだそうと、豊能障害者労働センターの活動に没頭していましたので、彼と会う機会はほとんどなくなってしまいました。
 そんな年月を過ごしてきて、わたしはすでに現役を退いていた2009年、彼はずっとベトナムで奔走していたのですが体調の不良から肺がんであることがわかり、それからわずか1年、そのころの日本で考えられる最新医療をもってしてもかなわず、足早にこの世を去ってしまったのでした。
 ベトナム暮らしの彼がNHKの衛星放送で歌謡曲の番組をどんな気持ちで観ていたのか、少しわかるような気がしますが、それでもわたしは会社のために、そんなに命を削らなくてもよかったと思います。彼の努力と裏腹に、K君が生きているときにはけむたがっていた、わたしの妻の弟でもある社長が、あたかもすべて自分がやってきたように業界の新聞や現地の報道機関のインタビューに答えていることを聞き及ぶと、よけいにやるせなくなるのです。
 ともあれ、単身赴任でほとんどベトナムに住んだ長い年月に、たしかに彼はわたしの及ばない人間関係を持ち、ベトナムの政府高官とも仕事上での付き合いがあるという感じで、グローバルな会社経営者として、それなりに充実した人生をおくったこともまだ事実なのでしょう。
 しかしながら、なくなるほんの2月前に病院で「島津亜矢のCDをもってきてくれ」といった彼の瞳の向こう側には、子供のころに慣れ親しんだ和歌山の故郷に広がる森と、谷間を急ぐ清流が映っていました。運動神経がよくて野球が上手で、ベトナムでは市民サッカーのキャプテンまでしていた彼ですが、川釣りも海釣りも、泳ぎも潜りも得意で、子供の頃に抱かれて育った和歌山の故郷へと、心は帰って行ったのだと思います。
 北島三郎でもなく五木ひろしでもなく、衛星放送からたまに聴こえてくる島津亜矢の歌に彼が惹かれたのも、今ならわたしはよくわかるのです。
 島津亜矢の歌は、遠く離れたかの地にいてもいつかは届く愛の歌なのです。日本の北大阪の小さな森に囲まれていた山里にいるわたしが、いまもう一度ビートルズの初期の歌に心ひかれるように、昨年の12月の武道館で桑田佳祐がやはりビートルズの初期の曲だけを熱演し、「この武道館でビートルズを歌うのが夢だった」と語ったように、歌は結局は音楽産業がつくりだし、流行らせるものではなく、時には何年もの時を過ぎ、かの地からこの地へ、この地からかの地へ、大海を漂流し森の暗闇にうずもれてもなお、ひとりの心からひとりの心へと届けられる恋文なのだと思います。

 こんなことを書いたのは、実は先日、またひとり、わたしがとても信頼していた友人が、54才という若さで亡くなったからです。くしくもK君が亡くなった2009年から体調が悪くなり、大腸がんと診断され、標準治療ではない道を選び、必死にたたかってきたのですが…。
 わたしはこのブログで、時々は他者の死について書いては来ましたが、先日の彼女の死はK君と同じぐらいにショックなできごとで、ほんとうはそのことを抜きにこのブログに書き込みすることはとても難しいのです。
 しかしながら、他人の死を軽々しく書くこともまた不謹慎なことと思い、差し控えてきたのですが、そのうちに機会をつくり、彼女の思い出を書こうと思います。
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