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2012.06.08 Fri 恋する方言、夢見るコトバ

「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」が間近にせまり、イベントまでの最後の豊能障害者労働センター機関紙「積木」に、ひとりでも多くの方のご来場を願って寄稿しました。
 前回に続いて2本目の原稿で、前回に書いたものはイベント特集号で、伊藤君子さんについて書きました。今回は伊奈かっぺいさんについて書きましした。
 もしかすると、このブログを読んでくださっている方にも豊能障害者労働センターの機関紙が届いているかも知れませんが、一足早く、ブログに掲載します。
 関西では珍しいイベントですので、お近くのかたはぜひご覧いただければと思います。ご来場をお待ちしています。

豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.233号掲載予定

恋する方言、夢見るコトバ
豊能障害者労働センター30周年記念イベント
「伊奈かっぺい&伊藤君子ライブ」に寄せて2

ヒロシマのカバ

 「ツネッコさん、ヒロシマのカバ、なかなか手に入らんかってん」。
 あなたはぼくの顔をみるなり、そう言いました。
 平田和也さん、ぼくはいま、2009年5月23日の朝、「平和を願う春のバザー」の準備をしていた時にあなたが言った言葉を思い出しています。「ヒロシマのカバ?」…。あなたはいつも思わぬ言葉を独特の語り口で話すので、ぼくたちはそれを「平田語」と名付けてきましたが、この時もその言葉の意味をすぐには理解できませんでした。
 その年の5月2日、忌野清志郎が亡くなりました。ぼくたちは彼と直接縁があったわけではありませんが、彼の存在をとても近くに思っていました。シンプルな言葉で、ある時は届かぬ愛を歌い、ある時はぼくたちをはげましてくれる彼の歌に勇気をいっぱいもらってきたのでした。豊能障害者労働センターはこの年、彼への追悼の意をこめて、RCサクセション時代の「COVERS」をBGMにしながら春のバザーを開きました。
 「ヒロシマのカバ」が「清志郎のカバーズ」だとわかった時、あなたが「平田語」で語る忌野清志郎へのあふれる想いが伝わってきて、ぼくは不覚にも泣いてしまいました。
 思えばあなたに限らず、山本さんも小泉さんも梶さんもみんな、いとおしい心を文法にしたひとり方言「○○語」を持っています。ほんとうに人間はみんな、コミュニケーションの狩人なんですね。

 2年前、はじめて伊奈かっぺいさんの話を聞きました。今回のイベントを共催する被災障害者支援「ゆめ風基金」の設立15年のイベントに出演されたのでした。
 ぼくはスタッフとしてその場にいましたので、じっくり聴けたわけではないけれど、何分間に1回は会場が笑いにつつまれたのを思い出します。
 かっぺいさんの笑いはいまテレビに出ている芸人さんたちのどこか暴力的な笑いとはちがい、話を聴いている間に心とからだの力が抜けて行き、気持ちが楽になって行きます。
 そして、笑って笑って笑い転げた後に、ぼくたちが見過ごしたり忘れてしまいそうなもの、役に立たないと思うものや日々の暮しの中の小さなできごとや感じたことが、実は人生の宝物だということをそっと教えてくれるのでした。

そしていつしか、「津軽弁」が母語で「標準語」とやらは「第一外国語」にあたるコトバとして現在に到る、とでも言えばわかりやすいであろうか。(中略)時に、母語でも伝えられない揺れる感情など、どうして外国語なんぞで伝えることができるでしょうか、だ。
           伊奈かっぺい(豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.232号)

人生を語るには、もう方言しか残っていない

 1998年にぼくたちが上映会を開いた映画「萌の朱雀」で、父親の死をきっかけに家族が山を降りる前夜、尾野真千子ふんする少女・みちるが、ほのかな恋心を従兄の栄介に打ち明けるシーンがありました。「栄ちゃん…。あんな、私な、栄ちゃんのことな、ほんまにすきやねん。でもな、行くわ、お母ちゃんと。」
 最近、NHKの朝のドラマ「カーネーション」で話題になった尾野真千子がまだ中学生で、この映画がデビュー作でしたが、栄介への恋、家族が身を寄せあって生きてきた山村暮らし、そのすべてとの別れを前にした哀しみと、それでも明日を生きようとする切ない決意が、彼女のぶっきらぼうな関西弁の奥にあふれていました。
 そうですよね。あの時のみちるの「すき」は関西弁でなくては成り立ちませんでした。

 かつて青森県出身の鬼才・寺山修司は「人生を語るには、もう方言しか残っていない」と言いました。寺山修司はぼくの青春時代、「家出のすすめ」などのエッセイや詩、演劇を通して数多くの刺激的なメッセージを送ってくれましたが、ぼくが受け取ったいちばんのメッセージは「逆転の思想」で、あたりまえとされているものを疑うことでした。
 世の中が一つの方向にヒステリックに向かい、ぼくたちをその暗闇に閉じ込めようとする時、もう一つの暗闇からそのたくらみをあばいてくれたのも寺山修司でした。
 ぼくは彼と出会っていなかったら別の生き方をしていたにちがいありませんし、おそらく障害者の友だちと出会うことはなかったと思っています。ぼくと同い年で寺山修司と同郷のかっぺいさんもまた、寺山修司の影響を受けたのではないかと想像しています。
 「努力は積み重ねるから崩れます」や「先生を尊敬しちゃいかんぞ」など、津軽弁を入り口にダジャレを連発し、笑いをつなぐ話の裏には深いメッセージがかくされていて、ぼくたちは面白おかしく津軽弁を楽しんでいる間にいつのまにか、かっぺいさんの思想に触っていることに気づきます。かっぺいさんもまた、世の中の大勢に呑み込まれることなく、自分の感じ方や自分の生き方を大切することを教えてくれているのだと思います。

 平田和也さん、「ちがうことが力」と主張してきた豊能障害者労働センターはこの30年間、異端とされてきましたが、いまこそぼくたちはひとり方言の「○○語」で、語りつくせぬ思いを必死で語る勇気を持ちたいと思うのです。
 津軽の方言詩人・伊奈かっぺいさんと、奴隷としてアメリカ大陸に連れて来られたひとびとの過酷な生活と差別の中から生まれた音楽・ジャズの故郷へと案内してくれる伊藤君子さん…。ぼくたちはお二人の力をお借りし、豊能障害者労働センターの30年を支えてくださっているひとたちと「方言でしか語れないかけがえのない人生」を分かち合い、障害のあるひともないひとも共に生きる夢見る街を耕したいと思うのです。


コロンブスが新大陸を発見した1492年、文法学者のアントニオ・デ・ネブリハはスペインのイサベラ女王に言語による国家統一を提案します。その提案は実行され、国家が制定する統一言語による民衆支配をすすめる一方、植民地では先住民たちの言語を禁止し、統一言語による支配体制をつくっていきました。日本でも明治政府のもと学校や軍で標準語がすすめられ、各地の風土や生活から生まれた方言を話す者は劣等感を持たされたり、差別されるようになっていきました。そのような歴史を知ると、伊奈かっぺいさんたちによる方言の復権は人間の復権そのもので、とても意味のあることだと思うのです。

伊奈かっぺい&伊藤君子ライブのブログ
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