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2012.01.26 Thu 「ヨイトマケの唄」、島津亜矢2007年リサイタル

父ちゃんのためならえんやこら こどものためならえんやこら
もひとつおまけにえんやこら

 島津亜矢は2007年のリサイタルで、「ヨイトマケの唄」を歌いました。この歌は1960年代に美輪明宏(丸山明宏)が自ら作詞作曲したものを歌い、ヒットした曲です。Wikipediaによると美輪は炭鉱町でコンサートをすることになり、炭鉱労働者たちが安い賃金をつぎ込んでチケットを求め、客席を埋め尽くしているのを見て衝撃を受け、「これだけ私の歌が聴きたいと集まってくれているのに、私にはこの人たちに歌える歌がない」と感じて、労働者を歌う楽曲を作ることを決意したそうです。
 「ヨイトマケ」とは、かつて建設機械が普及していなかった時代、地固めをする際に、重量のある槌を数人掛かりで滑車で上下する時の掛け声であり、この仕事は主に日雇い労働者を動員していたのでした。
 発表後間もなくして歌詞の中に差別用語として扱われる「土方」(どかた)「ヨイトマケ」が含まれている点などから、日本民間放送連盟により放送禁止歌に指定された事で長い間民放では放送されなかったいきさつがあります。
 最近になり、桑田佳祐や米良美一、槇原敬之など、何人かのアーティストがカバーするようになりましたが、島津亜矢はNHKの「BS日本のうた」で2007年と2008年に歌いました。
 独特の個性と存在感のある美輪明宏が際立った歌唱力とゆたかな表現力で歌いあげるこの歌をカバーするのは、とても勇気のいることだと思います。ですから、たとえば米良美一のように、よくも悪くも個性が強く、かつ並はずれた歌唱力を持った歌手が自分の体験と重ねて歌うか、槇原敬之のように美輪明宏とこの歌へのオマージュとして歌うかしかないように思われます。
 しかしながら島津亜矢はそのどちらでもない物語を歌ってくれます。歌の荒野を旅する彼女らしく、聴く人の心の奥の奥に届く天性の歌声と素直な表現、そしてやはり並はずれた歌唱力でこの歌の世界をたどっています。 
 島津亜矢は、ほんとうに歌うことへの情熱と冒険を宿命づけられたひとなのだと思います。ほんとうに近いうちのいつか、こういう歌をオリジナルで歌ってくれたらと願っています。
 この歌を聴くと、わたしもまた父親がいなくて、わたしと兄を育てるために片手一杯のお薬を飲みながら、身体を傷め、いのちを削って働きつづけた母のことを思い出します。
 わたしの「ヨイトマケの唄」は、後悔に満ちた切なく哀しい歌でした。

 その日の朝早く、ひときわ強く雨が降り、雷がとどろきました。付添いのベッドで眠ってしまったぼくが目を覚ますと、母はぼくの方に顔を向けていました。口からは、いつもとちがう「ぶるぶる」という音とともに、つばがあふれ出ていました。
 おかしいと思いつつ1時間はたったでしょうか。突然またつばがあふれ、顔の血の気がすっとなくなりました。母は一瞬ぼくをまじまじとみつめ、異様に透きとおるひとみにぼくの顔を映したと思うと、ぼくの前から生きているにおいをかき消しました。
 8月1日には86才の誕生日を迎えるはずの1997年7月13日、日曜日でした。病室の窓から何度も見た箕面の山々は降りしきる雨にぬれてぼんやりとくもり、その下に広がる街並みは1日の生活をはじめようとしていました。
 それから数日後、母の除籍謄本をとりに行った時、もう来ることはないだろうと思い、生まれ育った町を歩きました。古い記憶にあるぼんやりとした地図をたよりに路地をぬけ、住んでいた家の前をそっと通りすぎました。
 小学校の同級生の表札、昔ながらのお店。母が焼き芋屋をはじめた所。この時母は心中しようと思っていたらしく、ぼくが暗い部屋でいくつも金鳥蚊取り線香に火をつけ、「おかあちゃん、あかるなったやろ」と言うのを聞き、思いとどまったと後から聞かされました。
 しばらくして母は借りていた家を叔母にゆずり、産業道路沿いのバラックで一膳飯屋をはじめ、母子3人はお店の奥のひと部屋で暮らすことになりました。母は朝早くから近所の工員さんのためにどんぶりいっぱいの飯とみそ汁を出し、昼は昼で昼食、さらに寮住まいの工員さんたちのための夕食もつくっていました。
 お店をやめてからもお得意さんだった会社で働いた母。ぼくが高校生になったばかりで、母は50才をすぎてから10年間、その工場で働きました。働いて働いて、働きつづけた母。「この子らのために」と貧乏ながらも一日一日をかいくぐり、2人の子どもを高校に行かせてくれた母でした。

 子どもの時に広く感じたはずの小さな街を歩きながら、涙があふれました。すっかり街は変わってしまいましたが、30年前の街に迷子になっていたぼくの夢がかくれているのでした。母はこの街でどんな夢をみていたのだろう。母の見た夢はどんな色をしていたのか。どんな風景を刻み、何を待ちつづけていたのか。彼女に残ったのは、手のひらにあまる薬を飲みつづけてもしあわせが遠ざかっていく、そんな人生だけだったのか。母が亡くなってすでに15年になるというのに、母の人生を思うととても悲しくなるのです。
 「ヨイトマケの唄」は高度経済成長の真ん中でエンジニアとしてそれなりに成功した人が、苦労苦労で死んでいった母に思いをはせる設定になっていますが、あの時代はたくさんのひとびとがそのひとだけの「ヨイトマケの唄」を持っていたのかもしれません。その歌の背景には、戦争で父親を亡くした母親たちが戦後を生き抜き、子どもを育てるために必死に働いた事実がかくされているのだと思います。
 そして、いまも聴こえるその子守唄は、もしかするとまだ終わっていないのかも知れません。

 28日の神戸のコンサートが近づいてきました。島津亜矢さんはきっと昨年の年末とはまたちがう歌声を聴かせてくれることでしょう。とても楽しみにしています。行ってきますね。
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