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2011.12.28 Wed 待ちに待った島津亜矢のリサイタル

島津亜矢2011年リサイタル

 いよいよ明日、待ちに待った島津亜矢のリサイタルに行きます。延期になってからの約2カ月の間、テレビの映像でしか見ることができなかったのですが、体調のこともあったのかもしれませんが、この秋の亜矢さんはどこかちがう印象をもっていました。それがいいことなのかもうひとつよくわからないままで、梅田芸術劇場のパフォーマンスに不安と期待がまじり、落ち着かない毎日を、ICレコーダーに入れた阿久悠のアルバムと「SINGER」と「2004年ベスト」をかわるがわる聴きながら仕事に通っていました。
 この3つにはそれぞれ島津亜矢のちがった魅力があります。ポップスのカバー曲を収録した「SINGGER」を聴いていると、並はずれた歌唱力と柔らかく透き通った声にうっとりしてしまいます。けれども、やはり阿久悠のアルバムを聴くと新しい感覚の演歌風の歌謡曲を切なく歌い上げる島津亜矢に感動してしまうのです。
 そして、それでもまた捨てがたいのが今までの演歌、とくにわたしは「2004年ベスト」に収録されている「海で一生終わりたかった」や「海鳴りの歌」など、星野哲郎の海の歌を聴いていると、津波という白い刃をふるったこの海を恨む一方で、だれよりも海を愛し、海とともに暮らしてきた被災地のひとびとの複雑な心情に心がふるえます。わたしはその中でも最近「北海峡」が大好きです。
 というわけで、結局この3つのタイプの島津亜矢を何度も繰り返し聴いています。

 ところが、今年のNHKホールでのリサイタルの模様をDVDで観れば観るほど、空恐ろしいほど島津亜矢が変わったことを確信しました。ほんとうにひとは、こんなにも変わることができるのかと思うその変化は、もちろんいい方向で、誰かが言っておられたような進化がまた起きたということでしょう。
 まずは阿久悠のアルバムに収録された全曲を、あたかもひとつの恋ものがたりのように、時には激しく胸ふるわせ、時には恋する今を切なく、時には過ぎ去った恋をたずね、時には少女の小さな恋を、時には別れを知った大人の恋をと、みごとに歌い分ける彼女にびっくりしてしまいます。
 よく、たくさん恋をしなければ恋の歌は歌えないと言われますが、たしかに島津亜矢はいま恋をしているかもしれませんが、歌を歌うことに人生をかけてきた彼女が、そんなに奔放に恋をしてきたとは思えません。しかしながらこの天才歌姫は歌の中で恋をすることができることを、その豊かな表現で教えてくれたような気がします。
 阿久悠は新しい女性像による新しい恋のありかたを歌で表現しようとした、とても刺激的な作詞家でした。たとえば「ジョニーへの伝言」、「どうにも止まらない」など、演歌でいつもお約束のように歌われてきた男に従属的な「耐える女」や「日蔭の女」とはまったくちがう女性(女ではなく)の恋する気持ちをさまざまな歌手の歌声に乗せてきました。
 彼はまたピンクレディなど国民的アイドルの歌を増産し、ヒットさせてきました。それを可能にしたのは時代を読む鋭い感性を持ち、時代の鏡として歌をつくりながら、その歌によって時代を変えることに執着してきたからでした。それは松田聖子の松本隆、モーニング娘のつんく、AKB48の秋元康へとひきつがれてきたものだといえるのではないでしょうか。
 阿久悠よりもかなり前に、岩谷時子作詞・いずみたく作曲の「いいじゃないの幸せならば」が退廃的といわれながらも男にのぞまれる女ではない女性像を描いて話題になりました。阿久悠は、それらの歌の影響をうけながら新しい女性像をいつも時代の鏡に映しながらその距離を測ってきたのだと思います。
 そんな阿久悠のさまざまな女性像を歌うことで、島津亜矢はこんなにも色っぽく、それでいて自立した女性へと進化したように思うのです。もちろん、それはあくまでも歌の世界での話であることは承知しています。
 ともあれ、阿久悠が生きていたならとても喜んだはずで、彼のことだから島津亜矢を通してはたまた新しい演歌論を語ったことでしょう。

 もうひとつ、わかったことがあります。この記事の最初に3つの島津亜矢といいましたが、わたしはいままで彼女は大まかにその3つを歌い分けていると勘違いしていたような気がします。阿久悠の10曲をときにはシャンソンのように、時には演歌のように、時には日本のポップスのように歌う彼女は、それらを使いわけているのではなく、どんなちがったジャンルの歌でも彼女は歌に合わせるのではなく、歌が彼女の歌になっていくのです。それもよくある無理やり「個性的」といわれるような癖ではなく、あたかも泉が陽の光でさまざまな色にかわるように、あるいは虹がどの部分をとってもほんとうはいろいろな色が無理なくまじっているように、歌が彼女に自然に溶け込んでしまうのでした。
 かつて武満徹は「私は作曲という仕事を、無から有を形づくるというよりは、むしろ、既に世界に遍在する歌や、声にならないつぶやきを聴き出す行為なのではないか、と考えている。」と言いました。
 この言葉通り、わたしは島津亜矢のステージを見る度に、彼女が歌を歌っているというよりは、彼女がステージ、客席、そして彼女が時々遠くを見るその先の大地、海、空、すなわち彼女をとりまく世界に浮遊する何億という歌の星くずを愛おしくすくい上げては、それを彼女の歌にしてわたしたちに聴かせてくれているように思います。だからあんなにストレートにわたしの心の奥深くに、まるでその歌はずっと前からわたしの心の中にかくれていたかのように懐かしく聴こえてくるのでした。

 すでに12時がすぎ、今日のことになってしまいましたが、島津亜矢の生の歌声を聴きに行ってきます。個人的に、DVDとおなじように「麗人抄」、「旅愁」、「想い出よありがとう」と続けてほしいと思っています。
 リサイタルを聴いてから、またいっぱい書きたいと思っています。もうしわけないですが、もうしばらくおつきあいください。
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