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2011.11.12 Sat 小島良喜と「海の上のピアニスト」

2002年小島良喜1
 「ぼくはこの船で生まれた。この船には、世界がやって来ては去って行った。でも、1回に2000人ずつだ。ぼくにだって、夢はあったさ。でも、そいつは舳先と艫のあいだに収まる夢だった。無限ではない88の鍵盤の上で自分の音楽を弾く、それがぼくの幸せだった。そうやって、自己流に自分の音楽を生み出してきた。陸地というのは、ぼくには大きすぎる船。長すぎる旅。美しすぎる女。強すぎる香水。ぼくには弾くことのできない音楽。ぼくは船を降りない。」
          (映画「海の上のピアニスト」)

 1998年に製作され、翌1999年に日本で公開された映画「海の上のピアニスト」を見た時、小島良喜のピアノを思い出しました。
 「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュゼッペ・トルナトーレ監督のこの映画は、船の中で生まれ、一度も船を降りなかったピアニストの物語です。
 世紀の変わり目の年にあたる1900年。ヨーロッパとアメリカを結ぶ客船ヴァージニアン号のラウンジにあるピアノの上で、黒人機関士が生まれたばかりの赤ん坊を見つけました。彼は赤ん坊にナインティーンハンドレットという名前を付け、我が子同然にかわいがります。
 船底で成長した彼は、やがてその船のバンドのピアニストになります。大西洋を行き来するこの船には、担保のない希望をかばんに詰め込み、新天地アメリカへと押し寄せる貧しい人々と、船旅を楽しむ裕福な人々が乗っていました。トランペットを吹く友人の語りでつづられていくこの映画は、わざとらしいおとぎ話という批判もありましたが、それでもわたしははピアノのこと、ピアニストのこと、音楽のこと、人生のことを考えさせられて、不覚にも涙を出してしまいました。

 子どもの頃、同級生の女の子の家に何人かで遊びに言った時、はじめてピアノを見ました。音楽とまったく縁のなかったわたしにはとても奇妙な物体でした。黒光りするそれは子ども心に肉感的な女性のようにセクシーで近寄りがたく、どこか残酷なにおいさえも感じたものでした。
 その感覚がまとはずれでなかったことを、大人になってから映画が教えてくれました。「ピアニストを撃て」、「ピアノ・レッスン」、「伴奏者」、「ピアニスト」、「暗い日曜日」など、ピアノやピアニストにまつわるはかなくもせつない愛の映画は、ピアノの持つ妖しい魅力から生まれたのだと思います。
 ピアニストがピアノを弾くというより、ピアノがピアニストを受け入れ、誘いこみ、聴いている者までどこかに連れて行ってしまう。「海の上のピアニスト」は、ピアノにとりつかれたピアニストの幸せな映画でもありました。
 そんなピアニストが現実にいると思いました。そのひとは小島良喜。はじめて出会ったのは1990年の春、豊能障害者労働センターが開いた「桑名正博コンサート」の時でした。わたしたちが舞台で打ち合わせをしている間、彼はずっとピアノを弾いていました。まるでピアノと話をしているようでした。桜の花が散るときに大地をピンクのじゅうたんに染めるように、小島良喜の指と鍵盤から生まれた無数の音が、お客さんがまだいない箕面市民会館の客席に散りばめられようでした。その時、子どもの時にはじめて見たあのピアノを思い出しました。
 
 1946年、船が爆破されることを知ったトランペット吹きの友人が船の中に入ります。ピアニストは船の中にいました。友人が「船を降りて音楽をやろう」と言います。ピアニストは答えます。「陸地はぼくには大きすぎる。ピアノの鍵盤は88しかない。無限の鍵盤をぼくは弾けない」。映画はピアニストを乗せたまま船を爆破してしまうのでした。(ネタばれでごめんなさい)

 ピアノは重くて大きくてデリケートな楽器で、持ち運びが大変です。ロック音楽の歴史をさかのぼると、アメリカの奴隷解放以後の貧しい黒人が職を求めてアメリカ大陸を移動するたびに新しい音楽が生まれています。そのルーツといわれるブルーズは、最初バンジョーやギターなど、持ち運びが簡単な楽器からはじまります。やがて飯場や酒場にピアノが置かれるようになり、ピアニストたちが移動するようになります。
 ピアニストたちはピアノを選べず、ピアノもまたピアニストを選べませんでした。ピアニストたちとピアノはその場限りの対話と行きずりの恋を必死にすることで、音楽を作ってきたのだと思います。小島良喜のピアノを聴くと、そのことをほんとうに実感できるです。そのことを確かめたくて彼に聞いてみたことがあります。「いろいろなピアノがあってね。また季節によってもちがう。まずはそのピアノと仲良くなるために弾き続ける。」と、彼は答えてくれました。

 船の上で世界や時代や人間を見続けたことを、ひとつのピアノで表現することに恵まれた「海の上のピアニスト」は、その天才ゆえに別のピアノ、別の人生を選ぶことができませんでした。たった一度恋した女性を追いかけて陸に下りる決心をしてみるのですが、摩天楼を見上げ、「こんなピアノをぼくは弾けない」と船にもどってしまうのでした。もし彼がその時アメリカ大陸の土を踏んでいたら、丘から見える海の叫びを音楽にしたことでしょう。そして1900年からの50年間のブルーズ誕生からロックへとつながっていく音楽の荒野を旅するピアニストになったことでしょう。
 小島良喜は「海の上のピアニスト」のラストシーンから始まる、壮大な音楽の物語に登場するピアニストたちの中でも、とっておきのピアニストだとわたしは思います。

 11月9日のライブで聴かせてくれた小島良喜のピアノは、はじめて会った1990年の春の、まさしく船底のような箕面市民会館に押し寄せた波粒と同じものでした。
 あれからほんとうに、長い時が過ぎました。わたしも豊能障害者労働センターも、そしておそらく桑名さんも小島さんも、いろいろなことがあった20年だったと思います。
 豊能障害者労働センターのスタッフの中にも、コンサートのことを知っている人は少なく、すでに伝説と化していることでしょう。
 けれども、あのコンサートの体験は、その後の豊能障害者労働センターの障害者救援バザーや障害者アートによるオリジナル商品の製作、永六輔さんや小室等さん、山田太一さん、筑紫哲也さんのライブやトークイベント、「萌の朱雀」、「IP5」、「午後の遺言状」などの映画会の開催へとつながって行きました。
 わたしたちはあの時、とても大切なことを桑名さんや小島さんに教えていただいたのでした。それは、豊能障害者労働センターの進む道は「福祉」の中にあるのではなく、この街のこの社会のまっただ中を駆け抜け、たくさんのひとたちと「ともに生きる勇気」を分かち合うことでした。それを「メインストリーム」と呼んでもいいけれど、わたしたちは彼らの音楽に学び、「ぼくたちのロックンロール」と呼びたいと思います。
 最高の音楽は、最高のやさしさと手をつないでやって来たのでした。
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