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2011.10.29 Sat わたしたちの「ディーバ」・島津亜矢

 11月1日の梅田芸術劇場の島津亜矢リサイタルが迫ってきて、落ち着かない日々を過ごしています。東京での模様を教えてくださっているファンの方によると、阿久悠のアルバムの全曲を歌ったと聞き、どんな舞台構成なのかとわくわくしています。
 わたしは通勤時間に「SINGER」と阿久悠のアルバムを交互に聴いているのですが、阿久悠のアルバムでは「旅愁」から「思い出よありがとう」のくだりが大好きで、ここを何度もリピートしています。そのことはまた別の機会に書くとして、とにかくこのアルバムの収録曲を聴けるのはとてもうれしいです。カバー曲もあるかなと思うのですが、今度はどんな歌を歌ってわたしたちを驚かせ、喜ばせてくれるのかとこちらの方も楽しみです。
 このブログではすでに島津亜矢のことを何回も書いてきてもう書くことがないと思ったりするのですが、DVDを観たりテレビに出演した彼女を観ていると、わたしの心の底からどくどくと何かがあふれてくるのでした。
 わたしの友人が的確に指摘したように、わたしは島津亜矢を通して自分史を書いているのでしょうが、わたしにとって「歌」とは自分の人生と隣り合わせにあって、時には人生が歌を選び、時には歌が自分の人生を導いてくれるような「ともだち」でした。
 子ども時代、夕方には長屋の前に七輪がならび、いわしをいっせいに焼く煙がたまらなくしあわせな気持ちにしてくれたあの頃、歌はほこりまみれのラジオの彼方からヒューヒューと吹きすさぶ雑音とともにやってきました。
 わたしはといえば、いわしの煙のゆくえを探し、ラジオからこぼれおちる歌を追いかけて、戦後10年のこの長屋からもこの暗い路地からも脱出する夢を見つづけたものでした。
 もし、子どもがおとなになっていく青い時がいとおしいひとを傷つけてしまうことがあるとしても、そして長い時をへてそれを悔やむことがあるとしても、わたしはいとおしい母やいとおしい友を一度は捨てなければおとなになれなかった、そんな青い時を走り抜けなければなりませんでした。
 あれから半世紀以上も過ぎた今、島津亜矢のファンになったのもそのことと無縁ではないと思っています。「ベティ・ブルー」や「IP5」と共にジャン・ジャック・ベネックス監督の代表作となった映画「ディーバ」の中で、郵便配達夫が憧れのオペラ歌手の歌声を高性能録音機で盗んだように、わたしもまた島津亜矢の歌を盗み、彼女の歌を水先案内人にして生きて行こうと思うのです。(ディーバとはもともとオペラのプリマドンナのことですが、魅力的な女性歌手、歌姫という意味でも広く使われています。)

 前にも書きましたように、ひと月に一本、彼女のリサイタルのDVDを買ってきましたが、今月は2003年のDVDを買って、何度も観ているところです。
 このリサイタルで、彼女は母を歌う歌として「岸壁の母」と「瞼の母」を歌いました。「瞼の母」については以前に書きましたので、今回は「岸壁の母」について書こうと思います。
 この歌は1954年に菊池章子さんが歌ったものだったことをわたしは今まで知りませんでした。シベリア抑留から解放され、旧日本兵を乗せた引揚船が舞鶴港に着くたびに息子を待ちつづけた母・端野いせさんをモデルにしたこの歌は当時も多くのひとびとの心をつかみましたが、その18年後の1972年、二葉百合子によって浪曲調にリメイクされ250万枚の大ヒットになりました。1972年と言えば戦争体験が風化されはじめた一方で、戦争の責任がどこにあるのかをあいまいにしたまま高度成長を疾走していた時代でした。そして、母親の没後、2000年になって実は息子が生きていて、中国で妻子をもうけていたと報道されます。息子は母が舞鶴で待っていることを知っていましたが、「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と言ったそうです。
 この話には異論もあるようですが、わたしはこの話が本当であればなおさら、「岸壁の母」はより複雑な感情を呼び起こす歌として後世に残ることでしょう。そして戦争、シベリア抑留という歴史に翻弄された上に、歌だけではないにしても、歌によって人生が大きく変わってしまった親子の悲しみが心に残ります。
 島津亜矢の「岸壁の母」は彼女も二葉百合子の弟子であることからも当然のこととして、浪曲調の歌となっています。最近とくに思うのですが、彼女はオリジナルであろうとカバーであろうとその歌が誕生した「特別の場所」を探すように歌を歌っていると思います。
 この歌の場合もそうで、彼女はこの歌の中の波高く広大な日本海、母のかなしみが届かぬ彼方の海に向かって歌っているように思います。
 わたしは今回、菊地章子さんの歌を聴いてみて、浪曲調でないオリジナルの方がこの歌らしいと思いましたが、島津亜矢にもスタンダードのバラードや昔の歌謡曲の調子で歌ってみてほしいと思いました。
 さて、そんな事情とはまったく無縁に、わたしは「岸壁の母」に特別の想いがあります。それは1983年、豊能障害者労働センターの創世記にやってきたSさんのことです。
 それについては次に書こうと思います。

 27日に行われた宮城県登米市のコンサートの模様を知りたくてインターネットなどで調べていたら、亜矢姫』談話室にうれしいコメントがありましたので転載させていただきます。
 また、おなじ『亜矢姫』談話室でわたしのブログを紹介していただきました。ありがとうございました。

『亜矢姫』談話室より

管理人様 亜矢ちゃんファンの皆様おばんです
昨日は、JA登米中田コンサート
私の女房殿の一番の友が登米市在住、おまけにご主人はJA職員、私共が亜矢ちゃんファンとご存知で早くから情報を頂き、7枚のチケットを確保して頂きました。
震災後、中々コンサートに参加できる状況には無く、今度こそはと期待してましたが、普段の行いが悪いのか今回も願い叶わず残念無念、私共の二枚のチケットは〇ちゃん様のご主人と妹様に使って頂く事に。
登米市は北に気仙沼市、南に石巻市、東に南三陸町と津波被害甚大だった沿岸部の町に隣接し、震災後救援、支援の最前線基地となった町で、今は仮設住宅に多くの方々が避難生活をされてます。
震災後、仙台には桑田さん初め多くの大物アーティストが来てますが、被災地で本格的なコンサートは亜矢ちゃんが初めて、これも一つの天命なのでしょうか素晴らしい事です。
さて我が亜矢ちゃん応援隊、私共を置き去りに、当日朝9時からの座席指定券交換一番乗りを目指し、夜8時に出発、9時30分の到着時には既に54名の方が並んで居られたとか、椅子を置いただけの場所取は禁止だそうで、先頭の方は前日朝6時か27時間も並ばれたそうで、当日の朝7時には300人超の長蛇の列が、昼夜1.200席は完売とか。
亜矢ちゃん人気恐るべし。
コンサートはJAバージョン、休憩無しの一部構成の90分、南三陸町の被災者50名も招待され、モスグリーンの着物を召し「出世坂」でオープニング。
そして亜矢ちゃんのご挨拶
「3月11日の東日本大震災には本当にビックリしました、心よりお見舞い申しあげます。
こうして皆さんにお会いできて、本当に嬉しいです。
こういう時に、私が歌など唄って良いものかと随分悩みました。
でも私にできる事は、歌で皆さんを励ます事しかないと思いました。
今日は力一杯唄わせて頂きます、皆さんも最後まで宜しくお願い致します」
と涙ながらに挨拶されたそうです。
肌寒い体育館、汗を拭きながら、拳を振り上げて挨拶通りの熱唱にお客様も大満足、今回でJA中田のコンサートは13回目ながら、ステージを降りての客席廻りは亜矢ちゃんで二人目だそうですが、場内一周は亜矢ちゃんが初めてとの事で、こんなに盛り上がったコンサートは皆さん初めての事だったそうです。
最後は「俵星玄蕃」この頃になると興奮した前列のお爺ちゃん、お婆あちゃんがスタンディングで声援、緞帳が下りたあとは「アンコール!」「アンコール!」の声援コールだったそうです。
被災された皆さんは、亜矢ちゃんから夢と希望を、そして亜矢ちゃんにとっても忘れられないコンサートとなったのではないでしょうか。
あ~行きたかった!

 コンサートの模様が目に浮かびますね。震災以後、島津亜矢さんを待ちつづけた被災地の人々の心が沸き立つようです。ご報告、ありがとうございました。
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