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2011.08.20 Sat 三波春夫と「俵星玄蕃」と島津亜矢

 1997年か1998年か忘れてしまいましたが、三波春夫さんと永六輔さんのイベントにスタッフとして参加させていただいたことがありました。
 阪神淡路大震災の経験を生かすために、被災障害者の短期的救援と長期的支援のために、1995年に発足した被災障害者支援「ゆめ風基金」は永六輔さんや小室等さんの応援をいただき、いろいろなイベントを開いては基金の呼びかけをさせていただいています。
 この時も、永さんが三波さんによびかけてくださり、ボランティアとしてわたしたちが用意した舞台に出演して下さったのでした。

 三波春夫さんについては何も説明はいらない国民的歌手ですが、テレビで観る三波さんはド派手さと問答無用の笑顔と、なんといっても「お客様は神様です」の名言の人でした。
 昔は坂本九や森山加代子、ザ・ピーナッツなどのポップスも、三波春夫、三橋美智也、村田英雄、美空ひばりなどの演歌も同じ音楽番組に出演していましたから、いろいろな歌がわたしたちの耳に届いていました。
70年代からもう一つのジャンルというべきかテレビに出ない歌手の歌がライブなどを通して広まり、わたしも小室等、井上陽水、吉田たくろう、三上寛などに熱を上げるようになり、テレビに出演している歌手にはだんだん興味を持たなくなっていきました。

 ですから、三波春夫さんの生歌を聴いたのはこのイベントが最初で最後でした。
 その日、テイチクレコードの人と連れ合いさんと娘さんに支えられるように現れた三波さんは茶色の地味な着物を着ておられ、テレビで何度も観てきた三波春夫とはまったくちがった印象を持ちました。ほんとうに小さな方でした。
すでにガンを患っていられたことをご家族の方以外には隠しておられた最晩年の三波さんに、後から知ったわたしたちが心配りできるわけはありませんでした。ただ、高齢になられて体がよれよれされている感じがして、大丈夫なのかなと少し心配したことを覚えています。
 開場前から永さんがいつものように「場内整理」をして不慣れなわたしたちを助けて下さり、いよいよ開演となりました。
 実は、わたしはこの舞台の様子をほとんど思いだせません。ただ、この頃三波さんととても親しくなった永さんが奈良県をはじめとする老人施設にお二人でボランティアとしてよく行かれていたことや、三波さんがおじいちゃん、おばあちゃんに圧倒的な人気だったことなどを話されたと思います。そして、永さんにうながされたように三波さんが戦争体験を話されたと思います。
 三波春夫さんがその時歌われた歌は「俵星玄蕃」と、永さんが作詞された「明日咲くつぼみに」以外はまったくおぼえていません。
 というより、わたしはこの時はじめて生で聴いた、三波春夫さんの最晩年の「俵星玄蕃」にびっくりして、他のことはほとんど忘れてしまったのでした。
 ステージに立たれた三波春夫さんは、やっぱりテレビで観ていた「三波春夫」でした。失礼ながら、会場に現れた時のあのよれよれの小さなおじいちゃんのおもかげはまったくありません。最近、島津亜矢さんのこの歌を聴くたびに、大変なエネルギーがないと歌えないと思う「俵星玄蕃」を、テレビで観てきたそのままにフルコーラスで歌われるのを見て聴いて、すごいという以外にことばがありませんでした。
 今もわたしの手もとに、永さんが作詞された「明日咲くつぼみに」のCDがあり、三波さんのサインがあります。

 三波春夫さんが亡くなられたのは2001年のことでした。亡くなられてはじめて1994年からガンとたたかっておられたことを知りました。そして、あの時に三波春夫さんの「俵星玄蕃」を聴くことができたことに感謝しました。
 永六輔さんもご存じでなかったことにびっくりしましたが、永さんは三波さんがガンだったことを知っていたら、「明日咲くつぼみに」のあんな詩を書かなかったと言います。「時は還らず 世は移りゆく いつか別れの言葉 さようなら」
 この歌のレコーディングの時、高音を大きな声で歌い上げていくことをずっとやってきた三波さんに永さんは優しく囁くように歌って、と注文を出したそうです。三波さんは挑戦するといい、録音が始まりましたが、やはり三波さんは歌い上げてしまい、囁くことができません。
 そこに連れ合いさんのひと声が飛んできました。連れ合いさんは歌謡曲への転向を勧めたり、三波春夫という歌手を陰で育ててきたプロデューサーだったのでした。「このやろう、永さんの言うようになぜ歌えない。三波春夫ともあろうものが! 私は三波春夫をそんな歌手に育てた覚えはないよ」。その時の連れ合いさんの剣幕たるや、あまりの迫力にスタジオ中が凍りつきました。
 連れ合いさんが話し終えると、三波さんは少し微笑んで、こう言ったそうです。「すみません。もう一回お願いします」

 もうひとつ、永さんが語る三波春夫さんの有名なエピソードがあります。
 自分の名前も思い出せなくなったおばあちゃんたちが「三波春夫」という言葉には反応すると聞き、永六輔さんと老人ホームに行かれた三波さん。
 そこには何時もどこに居ても1人で歌っているお婆さんがいる事を予め三波さんは聞いていました。案の定、そのおばあちゃんは三波さんが登場する前からずっと大きな声でわらべ歌や数え歌を歌っていました。
 すると三波さんはおばあちゃんの側へ行き一緒に歌を歌いはじめると、他のおじいちゃんおばあちゃんも一緒に歌いだしました。結局、三波さんは持ち歌を一つも歌いませんでした。
 その帰り道、三波さんはしみじみと、「永さん、われわれは傲慢でしたね。皆さん歌う歌を持ってらっしゃるじゃないですか。歌いに行って私の歌を聞かせてあげましょうと思ったのがとても傲慢だった。とても恥ずかしい。長い間、私は恥ずかしいことをしてきた。おじいちゃんもおばあちゃんも、自分の歌を持っていらっしゃる。その歌を一緒に歌わせていただいたおかげで、どれだけ歌手として目が覚めたか。本当に勉強になりました。」

 この2つのエピソードを後から知って、あの時の舞台のことをあらためて思い返しています。テレビで観るだけでは決してわからなかった三波春夫さんの実像と、舞台に上がった時の大きな姿と立ち振る舞いを、ほんとうに最初に最後に観ることができたこと、あの舞台は永さんと老人ホームを回っていた頃の三波さんの、ほんとうのすごさを身近に観ることができたとても幸運な舞台だったことを…。

 「芸は一代」とよく言われます。それはその通りで、どんな素晴らしい芸もそれを弟子の人などに伝えようとしても、その芸の素晴らしいところを伝えられないからこそその芸は素晴らしいと、この言葉はあるのでしょう。
 島津亜矢さんは、三波春夫さんのこれらの名曲が「芸は一代」として讃えられつづけるとしても、数ある名曲がそうであったようにいつかは風化していくことを知っているからこそ、これらの歌を歌いつぐことを決心したのだと思うのです。それはとても勇気のいることで、とくに歌いはじめた時は孤独な冒険だったにちがいありません。 それを受けとめてくれたのは島津亜矢さんのファンのひとたちであったにとどまらず、本家は本家として、これらの名作を後世に残そうとする島津亜矢さんの心意気を感じた三波春夫さんのファンのひとたちもいらっしゃるのではないかと思うのです。
 三波春夫さんが切り開いた荒野から、島津亜矢さんはさらなる高みへと彼女の独自な世界を広げながら、これらの名曲を歌い続けてくれることでしょう。
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2011.08.24 Wed 17:46

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2017.04.18 Tue 11:15

素晴らしい!

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