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2011.08.17 Wed Tさんのこと

Tさん残暑見舞い

 能勢に引っ越して、毎年年賀状を出している方々に転居見舞いを出したのですが、何人かの方から返信をいただきました。長い間箕面に住んでいたことや、豊能障害者労働センターでの活動が長かったので、箕面の方からのお手紙がほとんどです。
 今朝、新聞を取りに集配ポストをのぞくと、昨日に配達されていたのでしょうか、箕面のTさんからの返信が届いていました。
 Tさんは今年100才になられました。いただいたハガキに自筆で書いてくださった残暑見舞いには、わたしたち夫婦へのあたたかいお気持ちが綴られていて、ほんとうにありがたく思います。

 Tさんと出会ったのは1982年、豊能障害者労働センターの誕生の時からのお付き合いで、もうかれこれ30年になります。その時でも70才ぐらいでしたから、いかにお元気で年を重ねて来られたかと、自分のことのように嬉しいのです。
 豊能障害者労働センターは誕生してすぐは福祉関係の方々にあたたかくむかえられ、Tさんともその時に出会いました。ところがしばらくして過激な集団といわれ、多くの福祉関係の人々は豊能障害者労働センターをさけるようになりました。
 当時養護学校高等部を卒業した小泉祥一さん(豊能障害者労働センター代表)と、箕面市内の中学を卒業するにあたり、箕面市役所への就労闘争をした梶敏之さん、2人の脳性まひの少年から出発した豊能障害者労働センターは、障害者があたりまえの学校生活をおくれないなら、障害者が働きたくても働けないなら、障害者が親元からはなれてひとりで暮らしていけないなら、それは障害者の方に問題があるのではなく、この地域の、この社会の方に問題があると訴えました。その訴えは当時の行政にも市民にも、そして障害者とかかわる数少ないボランティア活動をする市民にも、残念ながら受け入れがたいものだったのです。
 今でもそうかもしれませんが、当時はなおさら障害を持つことで不利益を被るのは本人の問題で、障害をのりこえて頑張る障害者をこの社会が応援することが、そのころ流行った「障害者の完全参加」の中身ととらえられていたように思います。そして、障害者のいる家族の困難を少しでも和らげようとするボランティア活動も盛んでした。
 そんな中で、障害を個性ととらえ、障害をそのまま受け入れ、ちがった個性を持った人々が共に生きる社会をつくりだすことをめざす豊能障害者労働センターは、とても過激な集団と映ったのでした。

 仲間のボランティアのひとびとが一斉に豊能障害者労働センターをさける中、Tさんはひとり、豊能障害者労働センターを応援してくれました。当時の豊能障害者労働センターの赤貧は大変なもので、事務所と言っても名ばかりで、日も当たらない築30年の民家の破れた畳の上に小泉さん、梶さんをふくむ5人がうごめいていました。
 Tさんは買い物のカートに食材を積み、週に2回ぐらいのペースで、昼ごはん作りに来てくださいました。
 まわりのひとから止められても、「わたしは労働センターが正しいと思うから、応援します」と言ってくださっていたと、後から聞きました。小泉さんも梶さんも、Tさんがつくる昼ごはんが大好きでしたが、それは単にご飯が好きだっただけではなく、応援者だった人たちがすべて去り、「あそこは怖いところ」といわれていた豊能障害者労働センターの活動をささえて行こうと思ってくださったことに、涙が出るほどうれしかったのでした。

 1990年、わたしたちは桑名正博さんのコンサートをすることになりました。それまでいくつかのイベントをしてきましたがいつも空席が目立ち、なかなか多くのひとに参加してもらうことができませんでした。
ですから、この話が来た時も、桑名さんの好意に応えられる成果が出るか、とても不安でした。もっとも、この頃には過激といわれた豊能障害者労働センターの活動にも、少しずつですが応援して下さるひとびとが増えてきました。不思議なことに、かえっていままで障害者とかかわる活動の経験のないひとの方が、小泉さんや梶さんと出会うことで集まってくださるようになってきました。とはいえ、わたしたちの小さな力で、1000人入る箕面市民会館を満席にすることは至難のわざに思いました。
 その時、だれひとり振り向かない時にTさんが手を差し伸べてくださったからこそ、少しずつですが支援者があつまってくださった事実を再確認しました。わたしたちは小さな力しかないけれど、ひとりがひとりにこのコンサートを通じて桑名さんの思い、わたしたちの思いを一生懸命伝えていこう。わたしたちには、それ以外のことはできないのだから。
 わたしたちの一生懸命の思いはTさんをはじめ、数少ない支援者の心に届き、ほんとうにおひとりおひとりがお友だち、お知り合いによびかけてくださり、よびかけられた方がさらにお友だちにすすめてくださったことを、わたしたちはこのコンサートが終わった後に知りました。
 コンサート当日、わたしたちは胸が締め付けられる思いで準備をしていました。やり残したことはいっぱいあるとも思ったし、これがわたしたちの精いっぱいだとも思いました。そして1000人もの人がこの会場に来るなんて、やっぱり信じられませんでした。
 ところが、開場時間の一時間も前からたくさんの人がどっと押し寄せ、わたしたちははじめて開場前の列づくりをしました。ほんとうに信じられませんでした。
 会場整理に追われ、開演した時には1100人の人が箕面市民会館にいました。超満員の中で、桑名さんのライブがクライマックスに達した時、桑名さんが言いました。「来年もやるぞ」。客席がどよめきました。(それからわたしたちは1993年まで毎年桑名さんのコンサートを開きました。)
 1100人ものお客さんが来て下さったのは、桑名さんというビッグネームに助けられたことはまちがいありません。しかしながら、それだけではないことを、わたしたちはお客さんの年齢層でわかりました。ロックコンサートなのに、高齢の方々の方がはるから多かったからです。後のアンケートに桑名さんのファンの方が「いつもならみんな立って腕をふりあげるんだけど、後ろのおばあちゃんがみえにくいやろと思って立ちませんでした」とか、「いつもとちがって、手造りのコンサートの運営にも感激しました。ありがとう」とか、いっぱいのコメントを残してくれました。
 その翌日のことでした。朝一番に事務所に電話をくださったのがTさんでした。
「うれしくてね。センターの催しにあんなにいっぱいお客さんが来て下さって。はじめてやね。みんなの努力がむくわれて、ほんとうによかった」。
 自分のことのように喜んでくださるTさんの電話に、たまたまその電話を取ったわたしは号泣してしまいました。コンサートの成功もうれしいけれど、まわりの流れに逆らってでも、豊能障害者労働センターをいとおしく見守り、ずっと支えてくださったTさんの心に「ありがとう」と心でさけび、涙があふれました。
 そして、1995年の阪神淡路大震災の障害者救援バザーをきっかけに、Tさんは仲間の方々とバザーのスタッフ200人のご飯作りを申し出てくださり、2、3年前までずっと続けてくださり、今はお友達の方やTさんのお孫さんが後を引き継いでくださっています。いまでもバザーの時は必ず足を運んでくださり、みんなに勇気を下さっています。

 Tさんへの感謝の気持ちはとても言葉で言いつくせるものではありませんが、これだけは言えると思います。Tさんは、いまもなお目標は遠い豊能障害者労働センターのたたかいの同士であると…。
 100才というお年で自筆でお手紙をくださることにも、感謝でいっぱいです。
 いつまでも、お元気でいてくださることを願っています。
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