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2017.09.30 Sat わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.2

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 1982年4月、阪急箕面線桜井駅の裏の路地に取り残された古い民家を拠点に、豊能障害者労働センターがほそぼそと活動を始めました。
 その年の7月だったと思います。妻に勧められて、わたしは豊能障害者労働センターの事務所を訪ねました。話には聞いていましたが、事務所とは程遠く、引き戸は開け閉めができず、夏でしたので戸が外されていました。聞くと、戸締りする時は戸をはめるそうで、ガラスの窓は割れたまま、白壁は一部崩れ、天井を見上げると空が見えていました。
 豊能障害者労働センターの設立時は脳性まひの障害者2人をふくむ5人の専従スタッフがいましたが、この頃は粉せっけんを袋詰めし、販売する仕事しかありませんでした。
 全員で粉せっけん詰めをするのですが部屋中に粉せっけんの粉が舞い、タオルで顔を隠してもそれぐらいで防げるはずもなく夏には冷房もない部屋で汗だくにもなり、体中がぬるぬるになりました。それでも、障害者2人は嬉々としていて、脳性まひ特有の不思議な動きをしながら粉せっけんを詰めていたものでした。
 脳性まひの人が粉せっけんを詰める仕事をしていることなどきっと想像できないことだったでしょうし、それを見た福祉関係の人は人権問題として大騒ぎしたかもしれません。しかしながら、障害者の授産施設とは決定的にちがう豊能障害者労働センターの理念は、この時にすでに確立されていたのでした。
 わたしは今もそうですが吃音の対人恐怖症で社会性が著しく欠如し、集団行動が苦手でしたが、労働センターと知り合い、ここならわたしでも仲間に入れてもらえるのではないかと感じました。また彼女たち彼たちもわたしを受け入れてくれました。
 そうこうしているうちに、もう一人、24時間介護を必要とする脳性まひの障害者が仲間になり、わたしも泊り介護をするようになりました。今は資格を持った人が有償介護していますが、その頃は福祉制度も乏しい中、無償で自立障害者の介護を交代でする時代でした。
 そして、月末にある運営会議にわたしも参加するようになりました。
 今では60人ほどの大所帯で箕面市の公共施設の会議室を借りて運営会議をされているようですが、その当時は事専従スタッフに代表の河野さんが加わり、総勢8人ほどでが事務所で会議していました。
 河野さんは障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の編集長として全国に取材や講演で飛び回り、また主に大阪府や大阪市の人権運動や障害児教育教材の執筆などで超忙しい日々を送っていましたが、それらの重要な活動を天秤皿の片方に乗せてもなお、豊能障害者労働センターは格別に重い存在だったと思います。
 彼が住む地元の街ということもありましたが、大きな理念の実験場として、豊能障害者労働センターの未来に夢を見ていたのだと思います。
 障害者運動としては大阪をはじめとする全国のメインストリームの末席に位置しながらも、障害者の一般就労の権利保障と、一般就労から排除される障害者を福祉的就労(授産施設や障害者作業所による、賃金を伴わない就労)ではない、箕面市独自の社会的雇用(福祉政策として障害者の賃金保障をする雇用)の創出と助成制度を提唱し、1990年の箕面市障害者事業団の設立と、豊能障害者労働センターなどの市民が運営する社会的雇用の場への助成制度を実現させたことは、全国でも突出した運動でした。
 しかしながら、わたしは河野さんの箕面における功績の最たるものは、豊能障害者労働センターそのものなのではないかと思っています。
 高度経済成長の終着駅、バブルの絶頂のただなかで国中が騒然としていた1982年、豊能障害者労働センターは障害者を保護訓練管理収容する既存の福祉制度を拒否し、福祉助成金のないまま「財布はひとつ」の原則のもと、ささやかな事業でつかんだお金を障害者も健全者も対等にお金を分け合っていました。
 冬には枯らしが吹き荒れ、冷蔵庫に入れないとビールが凍ってしまい、外から帰るともう一枚コートを着る極寒と極貧を笑いでしのぎ、それでも「明日はきっといいことがある」と根拠のない、幼い夢を見る若い専従スタッフをこよなく愛した河野さんは、それがゆえに他の障害者団体には求めなかった厳しい道を彼女たち彼たちに用意したのでした。
 設立当初はたしか10万円の運営資金もつくれず、もともと限りなく少ない給料の遅配やさらなる減額も日常茶飯事でしたが、河野さんの口癖は「どこからも金は降りてきません。こうなる責任はすべてあなた方にあるのです」と突き放していました。
 そこではじめたのが大阪梅田での街頭募金でした。週に一度、梅田地下街での募金活動で得たお金の方が毎日の粉せっけんの事業収益よりも実入りが良かったのでした。
  「財布がひとつ」の原則は平等に給料を分け合うのではなく、それぞれの生活事情を申告し、時にはお互いの要求を「ぜいたくだ」とののしりあいながらも、もっとも貧乏なところで分かり合い、助け合う同志としての結束力が高まりました。
 河野さんにとって豊能障害者労働センターは、障害者の運動体の前に彼の若い頃に夢見て挫折した「革命運動体」に近いものだったのかもしれません。それも、マルクス・レーニン主義のエリート労働者による全体主義の革命ではなく、ひとりひとりが際立って違う障害者による助け合い革命というべきか窮民革命というべきか、たったひとつの涙も無駄にせず、だれひとり排除しない「かくめい」を夢見ていたのだと思います。
 その思いはさまざまな活動の方法や経験則を持ちながら、若い専従スタッフに自分の理念や手法をおしつけるのではなく、彼女たち彼たちの自由を最大現に認め、むしろその後方支援に徹するという姿勢に現れていました。
 それは彼が持たれていたイメージとはまったくちがうもので、なかなか信じてもらえないのですが、若い専従スタッフたちにはよくわかっていて、それだけに河野さんをとても信頼し、みんな大好きで、月に一回の運営会議と、そのあとでビールを飲みながら河野さんが当時の全国の障害者運動の出来事を話してくれるのを楽しみにしていました。
 また、たった8人程度の会議でも必ず月に一度、その前に事務局会議をすることを求めたのも河野さんでした。会議のためのレジュメもしばらくして障害者が作成し、「レジュメ」が「出城」になっていて河野さんが「出城ってなんや」と聞くと、「レジュメ」のことを「出城」と思っていたとわかり、みんなで大笑いしたこともありました。
 また、「部落解放箕面市民共闘会議」へのイベントの後援依頼文に、「部落解放箕面市民教頭会議」と書いて提出したこともありました。
 そんな世間知らずの幼い集団であっても、「会議で物事を決める」ことと「本人のいないところで本人のことを決めない」という原則をかたくなに守ることの大切さを、河野さんは教えてくれました。
 そして、機関紙を発行することもまた河野さんの教えでした。当初は数少ない応援者と粉せっけんの購入者に限られていても、機関紙を通じて自分たちの思いを伝え、障害者の問題を身近な問題としてとらえてもらうことと、何よりも今何を伝えるべきか、機関紙の編集を通して学習することができるようになりました。
 この作業は後にカレンダーや教育教材の通信販売へと発展し、豊能障害者労働センターと機関紙「積木」は全国に存在を知らせることになりました。また、地域でのイベントの告知でも大きな力を発揮し、1000人規模のコンサートを成功させる原動力になった他、箕面市内で運営するお店の情報も適時届けられるようになったのでした。
 さらには阪神淡路大震災や東日本大震災など、各地で発生する災害の被災障害者救援金・支援金の呼びかけにも全国から多数の方たちが多額の支援金を送ってくださいました。
 河野さんは自らが編集長をつとめる「そよ風のように街に出よう」の経験から機関紙を発行する大切さを痛感して提案したと思うのですが、河野さんが想像した以上に機関紙「積木」はたくさんの読者に支えられたフリーペーパーに発展したのでした。
 河野さんに「積木」用の原稿を依頼すると、襟を正すように「積木」に寄稿するのは特に緊張すると話していました。ですから、のちに本になった「私的障害者解放運動放浪史」の連載を依頼するとすごく喜んでくれただけでなく、「これなんとか編集できひんか、それなりに貴重な記録なんやけど」と彼の長年の日記をどっさり預けてくれましたが、わたしの力不足で日の目をみないままになってしまいました。
 豊能障害者労働センターは河野さんの実験場といいましたが、「財布がひとつ」からはじまって、彼は究極の民主主義と窮民のネットワークをつくりたかったのだと思います。
 運営会議に障害当事者を排除せず、すべての構成員で物事を決めるという原則は、それゆえにNPO法人になることもとても難しくなります。専従スタッフがすべて理事になると、とても理事会の運営ができなくなるし、障害者の生の声が聞こえにくくなることでしょう。
 「たとえ周りがどんどん法人格を持ったとしても、僕らは何者でもない存在のまま、ぺんぺん草のはえる荒野をまっすぐ進もう」。この言葉は2000年の頃でしたが、少し早い遺言だったのかもしれません。
 その教えを守って、豊能障害者労働センターは法人格を持たず、何者でもなく、ただひたすら自分たちの言葉、想い、情熱だけを頼りに活動を続けています。

西田敏行「もしもピアノが弾けたなら」
この歌も河野さんがすきだった歌で、カラオケでよく歌っていました。

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