ホーム > 2014年11月

2014.11.29 Sat 島津亜矢が出演しない紅白歌合戦

 今年も島津亜矢はNHKの紅白歌合戦に出場しないことになりました。ファンとしては残念な一方で、紅白歌合戦という番組の方向性から考えるとある意味当然なこととも思えます。正直のところ触れたくないというのが本心なのですが、やはり紅白歌合戦のことについて、コメントしておこうと思います。
 わたしは久しく紅白歌合戦に特に深い思い入れも関心もなく、ただボンヤリと見ています。特に最近のJポップス系の歌手やグループはほとんど知らず、紅白は今年どんな歌が流行ったのかを知るにはある意味とてもありがたい番組なのです。よくも悪くも、歌は世につれという言葉のとおり、歌によってこの一年間の世相や、時によっては政治や経済の一端も垣間見えることもあります。
 ですから、紅白歌合戦が年末の大掛かりな音楽祭で、歌のカタログ総集編として制作されることについてはそれでいいのではないかと思っています。そして、たくさんの歌手やグループがひしめき合う中で出演者を選んでいくのはその番組の制作者であるのですから、だれを選ぼうとそれはその人の自己責任であり、また番組に求められるものが視聴率である以上は、紅白歌合戦そのものが今の時代を反映していると思います。

 紅白歌合戦は同じNHKの「のど自慢」と同じように、戦後の民主主義の象徴だった時代がありました。戦前戦中に歌が国策のひとつとして利用され、文学や絵画がそうであった以上に、もっともひとびとの心の奥深くに届く歌は時の権力によって歌うことを禁止されたり、反対に国策に沿った歌がつくられ、それを歌うことを強要されたりしました。それは戦後民主主義においても同じで、アメリカの占領下でアメリカ型の民主主義を日本の人々に定着させるために、歌はまた違う形で利用されたのだとわたしは思います。
 その表れが「のど自慢」であり「紅白歌合戦」だったとわたしは思います。
 ひとびとのひとびとによるひとびとのための歌は圧倒的な支持を必要とし、流行歌として巷に流れた歌が一年の最後の日にはなやかなステージに登場することが、その歌とその歌を歌うひとたちのステータスになっていくのは当然のことだったにちがいありません。おりしもひた走る高度経済成長の中でテレビが普及し、「貧乏の近代化」のもとで直接コンサート会場に行ってお金を使わなくても豪華な顔ぶれをテレビを通して楽しむことができるのですから、この番組の作り手もこの番組を観るひとびとも思いはひとつで、その結果として80%を越える視聴率となりました。
 しかしながら歌そのものが歌謡曲からフォークやロック、ポップス、そして演歌へと別れていき、「大衆から個衆へ」という言葉が流行り、悲願だった一家にテレビ一台から部屋に一台のテレビがあたりまえとなり、LPレコードがCDになり、そのCDも歌のメディアとしては終わろうとしていて、かつては絶対的なツールといわれた「視聴率」もまたサンプリングや録画の問題であやしいものとなった時代を生きるわたしたちにとって、家の中でも社会でもみんながひとつの番組を見ることはなくなり、すでに紅白歌合戦はその役割を終えていると言わざるを得ません。
 そんなことを思い返えすと、島津亜矢の音楽活動が紅白などの既存の音楽番組とはかけはなれていることを痛感してしまうのです。たとえば今年の出演者の中で演歌の女性歌手は7人で、このひとたちを押しのけて島津亜矢が出場するのはかなりむずかしいと思います。演歌の世界では未だに紅白の影響が大きく、そのためこれらの歌い手さんたちの事務所は必死でこの枠からこぼれ落ちないために一年を費やしているのではないかとさえ思います。昨年を最後に出場辞退した北島三郎の枠が結局守れなかったようにおそらく番組としてはこの演歌枠をさらに減らしたいと考えているようです。伝え聞くところによると番組の意向に沿って小林幸子の代わりに水森かおりが「ご当地ソング」の歌とはまったく関係がない大掛かりな衣装で登場するなどして、少ない演歌枠を守っている姿を観ていると切なくて情けなくて、彼女が気の毒でなりませんし、紅白の傲慢さに憤りを感じてしまうのです。
 島津亜矢のファンであるわたしは、そんなことをしてまである意味音楽レベルの乏しいこの番組に彼女が出る必要はまったくないと思っています。
 さらにはAKBグループを番組のコンパニオンのように酷使し、これまた歌の内容とはまったく関係なく五木ひろしや細川たかしのバックコーラスまでさせるのも、対等なコラボレーションならいざ知らず、明らかに彼女たちに対する「セクシャル・ハラスメント」としか思えません。嵐やSMAPなどジャニーズ事務所のアイドルタレントを重用することもふくめて、紅白は結局のところ今の音楽産業を牛耳っているひとたちの意向に沿うことでしか生き延びることができないことを証明していて、紅白自身の意志などはとうになくなっているのだと思います。
 たかが歌、されど歌で、わたしはEXILEもふくめて今活躍しているひとたちのパフォーマンスを観ていると、とても自由で生き生きとしているように見えて、どこか薄明るい時代の暗闇がせまってきている予感がします。彼女たち彼たちの華やかさの裏にやわらかい「ファシズム」の気配さえ感じてしまいます。あれほど人気のあったKポップスが一掃されたり、「アナと雪の女王」に象徴されるような「みんないっしょ」の幻想をふたたびつくり出そうとする時代のたくらみに、へそ曲がりのわたしはとても薄気味わるさを感じてしまうのです。
 わたしにとって島津亜矢は、そんな気持ちの悪い空気をたったひとりで振り払う強くてやさしい心と勇気をもった、いわば歌謡界のジャンヌ・ダルクなのです。
 彼女が歌を歌う時、その涼しい視線は目の前のひとりひとりの観客のみならず、ここにいないひとたちのひとつひとつの心にまで注がれているように思います。最近のJポップスの歌い手さんのように最初からたくさんの人びとの頭上を走り抜ける歌ではなく、島津亜矢の歌はひとりひとりに語りかけ、ひとりひとりの心の哀しさやうれしさに耳をかたむけているように聴こえます。とびぬけた歌唱力と天賦の声を持ちながらうぬぼれることもなくそのためにプロの歌手としての努力と鍛練を欠かさない島津亜矢…、歌うことのみに生涯をかけることを決意したようなその歌声を聴くと、他の歌い手さんたちの歌が分野にかかわらず「歌のための歌」を歌っているにすぎないと感じてしまいます。
 わたしは今、仕事の関係で小室等や坂田明、林英哲などの演奏に立会う機会が多いのですが、彼らの音楽の共通するものは人類誕生からの長い歴史の底で悲鳴をあげ、命を奪われてきた無数の人々への鎮魂歌であるところです。島津亜矢の歌もまた、「演歌」という出自から始まり、冥府めぐりを経ながら古今東西人間が次の時代へと手渡してきた「幸せになりたい」という願いや「平和でありたい」という願いとともに、そのために孤独な戦いの末に倒れた星の数ほどのひとびとの切ない心と、そこから湧き上がる歌であると、わたしは思います。
 少し前に歌い、ファンの間で話題になった軍歌「戦友」を最近まだ歌っているそうで、今度の大阪のコンサートで聴くことになると思いますが、今の時代にいわゆる「右翼」でない限り軍歌を歌うなど、ましてや振袖姿で歌うなどはありえないことでしょう。
 さまざまな批判を覚悟でこの歌を歌うことは、歌も政治も経済も、たったひとりの人間ともうひとりの人間との絆から生まれることを戦後生まれのわたしに教えてくれるとともに、積極的平和を誹謗し、集団的自衛権をあっさりと国民に押し通してしまう今の国家の危うさに対する異議申し立てのようにも思います。
 時代の「大きな物語」を歌う島津亜矢が、近年ますます視聴率と権威主義が蔓延し、怠惰で音楽的な冒険に乏しいポピュリズムにまい進する紅白歌合戦のコンセプトとはほとんど合致しないと思わざるを得ません。
 しかしながら、だからこそ全国各地で彼女の歌を待つひとびとは、彼女の生の歌声を聴きたくて会場に押し寄せるのだと思うのです。一般的な資本主義経済の物とお金を交換する市場ではなく、わたしが「助け合いの経済」や「顔の見える経済」、「恋する経済」と名付けている「もうひとつの市場」を島津亜矢と観客が共につくり出す時、その市場とは全国各地のコンサート会場であり、そこでは歌がひとからひとへとつながっていくことで、ひとりの想いとひとりの心が交換されるのではなく足し算されるのでした。
 ふりかえると音楽は時としてたったひとりの涙によって生まれ、たったひとりの心に届けられることを島津亜矢の歌は教えてくれていて、それはもしかすると紅白歌合戦に出場することでは得られない、歌手冥利につきる宝物なのではないかとわたしは思います。

今までいろんなところを旅してきた
沢山の歌を歌ったし 歌詞を間違えたりもした
ステージではいつも 愛を歌っていた
何千人もの観衆の前で
でも今は君と僕の二人きり
君だけにこの歌を歌っている
(レオン・ラッセル・A Song For You)

過去の記事 2012.11.27 Tue 歌を!もっと歌を! 島津亜矢と紅白歌合戦

過去の記事 2013.11.26 Tue 島津亜矢と紅白歌合戦

島津亜矢「命かれても」

島津亜矢「山河」

Leon Russell 「 A Song For You 」(1970) 

web拍手 by FC2
関連記事