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2013.04.28 Sun 「旅の終わりに聞く歌は」 追悼・田端義夫 

 田端義夫さんが亡くなりました。
 「バタヤン」と呼ばれ、エレキギターを胸高く水平に抱えた独特のスタイルで歌った「かえり船」や「島育ち」、「19の春」など、子どもだったわたしもいつも口ずさんだものでした。
 そして子ども心に、どこか他の歌手とは決定的にちがう何かを感じていました。正直のところ、とても明るくてざっくばらんな人なのに少しこわいような印象を持っていたのでした。それがなぜなのか、亡くなったというニュースを聴きユーチューブで歌を聴いて、少しわかったように思いました。
 それは田端義夫というひとが戦前戦後の日本の暗い海を潜り抜けてきた日本の歌そのものを体現していて、ほんの少し前の戦争が記憶にも歴史にもならない生煮えの現実としてひとびとの心にも存在することを、子ども心に彼の歌から感じ取っていたのだと思います。
 美空ひばりが戦後民主主義の象徴として、瓦礫の山から立ちあがる復興と成長と幸福を遠くの空に夢みながら赤貧の日々を生きた人々の希望の歌を歌ったのだとしたら、田端義夫は戦争の時代の船底でうごめき、いのちをつなぐ切なくも悲しい糧として歌を心の奥深くに閉じ込めて生きざるを得なかったひとびとの心情を歌っていたのでしょう。
 彼の人生をたどると1919年に生まれ、3才の時に父を亡くし、赤貧のために小学校を3年で中退し、慢性的な栄養失調の中、トラコーマにかかり徐々に右目の視力を失います。そして薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公をしながら、次第に流行歌の世界に傾倒していきます。
 1938年、アマチュア歌謡コンクールで優勝したのがきっかけで歌手への道をめざし、翌1939年、「島の船唄」でデビューします。その後も「里恋峠」、「大利根月夜」、「別れ船」とヒットを続け、東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手の地位を築きます。
 1946年、「勇ましい歌で前線に送り出したのだから、負けたとはいえ日本に帰ってくる兵隊さんを迎える歌があってもいいじゃないか」と歌った「かえり船」が大ヒットします。当時、巡業のために汽車を待っていた大阪駅で「かえり船」が流され、それを聴いていると復員兵士が涙を流して聴き入っているのを見て、「ああ、私の歌で涙を流す人がいる。歌手をやっていて良かったな、生きていて良かったんだな」と思ったと、後に著書(「オース!オース!オース!―バタヤンの人生航路」)に綴っています。
 1962年に「島育ち」、1975年に「十九の春」と、奄美大島や沖縄の音楽を全国に伝えたことでもその功績は大きなものですが、それもまた周辺といわれたり辺境といわれたり底辺と言われたりする、大地や海や山や森の中から湧き上がる風の匂いや声なき叫びから歌が生まれることを、身を持って実感していたからではないでしょうか。
 長い歌手生活の中でロックバンド「ソウル・フラワー・ユニオン」の中川敬やBEGINの比嘉栄昇など若いミュージシャンから尊敬され、愛されたことは、戦前戦後を通じて彼がいつも大衆の心とともにあった証しでもあります。
 BEGINの比嘉栄昇は2001年、82才の田端義夫に楽曲提供しています。父親が田端義夫の大ファンで、いつもギターを弾きながら田端義夫の歌を歌っていて、そのおかげで自分もギターを弾くようになったという彼は、親孝行の意味もあっていつか田端義夫に歌を作れたらいいなと思っていたのだそうです。
 そうして出来上がった歌が「旅の終わりに聞く歌は」で、島津亜矢のカバー曲の中でもわたしがもっとも好きな歌のひとつです。
 この歌をはじめて聴いたのはわたしがまだそれほど彼女にのめり込んでいない2009年、NHKのBS放送でした。
 そのとき、妻もたまたま見ていたのですが、2人とも思わず涙を流してしまいました。
 たしかにいまの若い人たちにはピンとこないかも知れませんが、子どもが家計の足しに働くことはわたしの子ども時代、少なくとも地方ではあたりまえのことでした。

夕焼け空に聞く歌は 水筒抱えて待つ母の歌
あぁ幼い稼ぎじゃ暮らし変わらぬのに
涙ぐんで何度もご苦労様と 一番風呂の熱さ嬉しさ

 そして、2番の歌詞の主人公が就職のために島を出る時の情景は、わたし自身の体験にはありませんが工場で働いていた時、集団就職で鹿児島県の徳之島から大阪に出てきたという同僚のことを思い出してしまいました。

あぁ遠ざかる故郷 やがて星にとけて
初めて空に瞬く父に甘えた 小さなカバンに顔を埋めて

 この歌は比嘉栄昇が自分の父親の世代からさかのぼる島のひとびとの暮らしをたどることから生まれた、いわば新しい島歌ともいえる歌だと思います。静かでゆっくりした暮らしにしあわせを感じる、そんな故郷ですら変って行くことの切なさを、小さな声でつぶやくようにつづられたこの歌を、島津亜矢は切々と歌います。
 その頃はまだ島津亜矢に対して、声量と迫力満点の歌唱力というイメージしか持っていなかったわたしはほんとうにびっくりしました。そして、島津亜矢のもっとも深い歌心は、戦前戦後はもとより、どこまでもさかのぼる地下水路から脈々とつながってきた日本の、いや世界のひとびとの声なき歌を愛おしくすくいあげることなのだと知ったのでした。
 先週のNHK「のど自慢」の島津亜矢はほんとうに人柄がにじみ出ていました。そして、新曲「縁」をはじめてテレビで聴きましたが、これほどまでに丁寧に歌えるものかと感心しました。最近の彼女の歌を聴いていると、見えない誰かに語りかけているようで、その誰かを感じることでその場にいるひとびとの心が共振していくスリリングな一体感を感じます。これはきっと、長い間努力してきた歌謡名作劇場を昇華し、2回の座長公演を成功させたことから生まれた進化なのだと想像しています。
 この新曲は数多くのカバー曲で意外な境地を開き、一方で芝居を通して大きく進化した表現力を持つ島津亜矢の境地を生かした、新しい歌謡曲への静かな冒険だと思います。そして、年齢を重ねたからこそ歌える大人の歌だと思います。
 この歌の流れはいままでにも何度も見え隠れしているもので、小椋佳にはすでに提供されていますが、中島みゆきの曲などにも一貫して流れているもので、「旅の終わりに聞く歌は」も、その流れにある歌だと思います。
 島津亜矢を通じてオリジナルの歌手を前よりも好きになってしまうわたしですが、BEGINや比嘉栄昇もまた、以前よりももっとも好きになってしまったのが「旅の終わりに聞く歌は」でした。
願わくばこの歌をまた、コンサートで歌ってほしいと思っています。

島津亜矢「旅の終わりに聞く歌は」

過去のブログ 2011年6月19日 島津亜矢「旅の終わりに聞く歌は」

近日公開・映画「オース!バタヤン」公式サイト
4月25日に94歳で逝去した歌手・田端義夫のドキュメンタリー「オース!バタヤン」、5月18日から東京・テアトル新宿、6月1日から大阪・テアトル梅田で上映されます。
生前から製作されていた『オース!バタヤン』では、2006年に大阪・大阪市立鶴橋小学校の体育館で行われたライブの模様をはじめ、栄養失調で片目を失明を失うほどのどん底の貧乏生活、戦時中に遭遇した3度の空襲の中を生き延びたエピソードから、田端の波乱万丈な人生を振り返ります。また、立川談志、菅原都々子、白木みのる、寺内タケシ、小室等、千昌夫などへのインタビューも盛り込まれており、田端を見守った家族やマネージャー、ファンにもマイクが向けられています。

田端義夫朝日新聞記事
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