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2018.11.11 Sun 11月6日のNHK「うたコン」と、7日のTBSの人気番組「UTAGE!」に島津亜矢が出演

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 11月6日のNHK「うたコン」と、7日のTBSの人気番組「UTAGE!」と、島津亜矢が出演する音楽番組が2日連続放映されました。
 6日はフィリピン出身のBeverlyとのコラボでMISIAの「Everything」を熱唱しました。
 Beverlyはアメリカ、フィリピン等の音楽祭で数々の受賞歴を持ち、MISIA、AI、加藤ミリヤなどを手がけたプロデューサーが偶然耳にしたデモテープによって見出され、昨年に日本でのデビューを果たしたばかりですが、ハイトーンボイスを持つ世界レベルの実力派シンガーとして注目されています。
 「うたコン」にはすでに何度か出演していて、ハイトーンボイスと図抜ずばぬけた歌唱力で「うたコン」の視聴者にも強烈な印象を与えました。
 彼女はMISIAの「Everything」をカバーしていて、島津亜矢もまたアルバム「SINGER2」でMISIAの「逢いたくていま」を収録していますので、MISIAのバラードをソロで歌えるわけですが、そこをあえて2人のコラボにしたのはこの番組の編成チームの慧眼あってのことでしょう。というのも、島津亜矢のファンのひとりとしてソロで歌ってほしいという願いをはるかに凌いであまりあるパフォーマンスに、興奮を抑えられなかったからです。
 2人が時には対話し、時には一緒に音楽的冒険を楽しむ様子はその時その場でしか得られない特別の高揚感にあふれていました。Beverlyがやや抑えめの声量で見事なハーモニーをつけるところでは、島津亜矢がその音のやわらかいシャワーを浴びながらシャウトし、Beverlyが蓄えた歌心でハイトーンボイスを爆発させると、島津亜矢はその高音にかぶさるようなやや太めの高音で応え、2人がそれぞれソロで歌うとオリジナルのようなシンプルなロックバラードになるはずのこの歌が、もう少し心がざわざわしたR&Bやソウルのように聴こえてくるのでした。
 広い雪原に建つ教会で、雪は闇にまみれ彼方の光にこぼれおち、誰かを想い、想い続ける…。わたしはドラマの主題歌という役割をおろしたところから、この歌はより切なくより心を高めあう愛の歌として時代の数々の壁をすり抜けてきたのではないかと思います。
 それにしても、島津亜矢の歌は演歌にもポップスにもブラックミュージックの河が流れているように思います。そのことを、もしかすると一緒に歌ったBeverlyが一番感じていたと思えてなりません。彼女もまた素晴らしいボーカリストであることは間違いなく、彼女にしてみれば島津亜矢とのコラボは彼女の歌手人生の中でもまったくのサプライズとして、記憶に残るのではないでしょうか。
 そしてその化学反応を想像して「うたコん」のスタッフがこのコラボを企画演出したとわたしは思っています。「コラボ特集」といいながら、いずれも楽器演奏とダンスで、ボーカリスト2人のコラボがこの一曲だけだったことからも、特別の演出意図があったことがうかがえるのです。早くもその反響からネットではBeverlyの紅白出場の可能性がささやかかれていますが、わたしはむしろ島津亜矢の紅白出場を実現したいNHKスタッフの布石として小さな演歌枠での競合をさけ、ジャンルを越えたボーカリストとしての認知を図ったのかも知れないと我田引水の穿った見方をしています。
 他のコラボでは天童よしみと小松亮太のバンドネオンが特筆ものでした。バンドネオンの一人者で、タンゴの胸をかきむしられそうな切なくも激しくその場の空気を一新させる小松亮太の演奏に駆り立てられ、少しの違和感と緊張感で天童よしみが歌った「乱れ髪」は、いつも十八番の歌唱ではない新鮮な楽曲になりました。こんな天童よしみを聴くと、わたしはまた竹中労が彼女にプレゼントしたデビュー曲の「風が吹く」を思い出します。この歌はその後の天童よしみの演歌歌手としての苦しいあゆみと現在の栄光を俯瞰し、原点を忘れないようにと優しくも厳しく見守った竹中労の心が込められた一曲でしたが、彼はかつて演歌が人生の淵をさまようひとびとの心に深く届いていたルネッサンスを天童よしみに託していたはずです。
 それからずいぶん長い時をへて、ピアソラに代表されるタンゴの名手の小松亮太の演奏によっておかっぱ頭で全日本歌謡選手権に出場していた時の緊張感とみずみずしさがよみがえったようでした。

 翌日の7日のTBSの特別番組「UTAGE!」は、実は10月10日の収録で、9日には「うたコン」の生出演、11日は新潟でのコンサートがあり、過密スケジュールでファンの間でも出演を願う一方で時間的にも体力的にもむりなのではと危ぶまれていました。
 昨年の9月にこの番組で初登場し、ケミストリーの堂珍嘉邦と「美女と野獣」を歌って注目を浴びて以来、この番組の準レギュラーになった感がある中、スケジュールの都合で出演できないとなると、せっかくのブームの流れが途絶えるのではないかとわたしも心配でした。
 彼女もまたこの番組への出演を強く望んでいたはずで、テレビ画面からも目が少しはれぼったく疲れているようではありましたが、水を得た魚のようにとても楽しそうで、なによりも他の出演者も彼女をポップスのボーカリストとして受け入れてくれていて、残念ながら演歌のジャンルではよく似た演出をしてもこんな風に無条件に認めあえることはなかったように思うのです。
 とくに、島袋寛子やBENIなどの実力派のボーカリストが真剣に彼女の歌を聴く姿や、反対に彼女たちの歌唱を一つの音も聴き逃さない島津亜矢の貪欲な好奇心がうかがえて、多くの視聴者と同じく私にもとっても刺激的な番組となりました。振り返ればこの番組は今回で9回目となり、そのうち島津亜矢は最近の4回に出演していて、他の共演者との交流も深まっていると感じます。今回も島袋寛子のSPEED時代の大ヒット曲「White Love」を振り袖姿で歌い、ダンスまだ披露するというある意味とんでもない企画にも挑戦しました。他の共演者もこの番組でならありえない冒険もしてみたくなる、それが「UTAGE!」の最大の魅力なのです。
 今回の放送でも4曲すべてをコラボで歌いましたが、島津亜矢はリードボーカルだけでなく、むしろコーラスやハーモニーなど他の共演者とのコラボになると断トツの歌唱力を発揮できる歌手だと思いました。演歌でのコラボでもいわば楽器で言えばベースのように、後ろで音楽をつくることができる才能を垣間見せていましたが、この番組ではその才能が開花され、彼女の音楽的な冒険の視野がずいぶん広がったと思います。
 個々のコラボのことや、この番組のコンセプトについては次回以降に記事にしたいと思います。

島津亜矢&Beverly(2018年11月6日 NHK「うたコン」
37分55秒くらいから始まります。

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2018.10.12 Fri 恋人二人の別れ話に時代の大きな物語を忍ばせた阿久悠の応援歌「また逢う日まで」を歌う島津亜矢

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 10月9日、島津亜矢がNHK総合「うたコン」に出演しました。「この歌詞がすごい!心に残る名曲集」と銘打って、歌謡曲・演歌の名曲を紡いだ作詞家やシンガーソングライターに光を当て、その誕生秘話をまじえながら出演歌手が歌唱するという企画でした。
 島津亜矢は阿久悠作詞の「また逢う日まで」とその元歌「ひとりの悲しみ」を歌いました。「また逢う日まで」が、実は阿久悠が「白い珊瑚礁」で知られるグループサウンズのズー・ニー・ヴーに提供した「ひとりの悲しみ」が元歌で、尾崎紀世彦のために阿久悠が歌詞をがらりと変えて大ヒットになったという有名なエピソードが紹介されました。島津亜矢は高校生の合唱団に囲まれての熱唱でした。
 前宣伝で「島津亜矢が阿久悠代表作メドレー」とあり、島津亜矢が阿久悠の歌を何曲か歌うと思いこんでいたのですが、阿久悠の代表作「また逢う日まで」に元歌があったということに焦点を当て、同じメロディーの2つの歌を歌い分けるというのが番組の意図だったようです。
 演歌・歌謡曲が中心だった「NHK歌謡コンサート」を前身に持つこの番組はJ-POPも取り入れ、90年代以降ばらばらになった感があるさまざまなジャンルの歌手が共演し、新しい音楽シーンの中心となることをめざしています。しかしながら今でも演歌・歌謡曲を望む視聴者には若いひとが中心のJポップにはなじみがなく、この番組の制作チームが望む形になるのにはまだ試行錯誤が続きそうです。
 わたしはと言えば普段音楽を聴くことがなくなり、ジャニーズやAKB48をはじめとするアイドルにも関心がないのですが、年末の紅白歌合戦と同じように若いひとのJポップも聴けるこの番組はそれなりにありがたいと思っています。
 もっとも4月に妻の母親が亡くなってからは、今回のように島津亜矢や「SEKAINO OWARI」、「エレファントカシマシ」など、好きな歌手が出演することがない限りはほとんど見なくなってしまいました。
 この番組についてはいろいろな意見がありますが、島津亜矢のファンとしては今のコンセプトで試行錯誤しながらもねばり強く番組をつづけてほしいと思っています。というのも、島津亜矢にとってはとてもありがたい番組で、彼女の人柄もあるのでしょうが以前なら先輩の演歌歌手に必要以上に気を使わなければならないこともあったと思うのですが、この番組が始まって約2年半が過ぎ、演歌にとらわれない番組の空気が彼女をのびのびさせているように感じるのです。
 どんな歌にも興味を持つ彼女がさまざまな歌を歌い、聴くことでわたしたちが知る由もない音楽的な発見や冒険を経験するとともに、量も質も圧倒的にちがうJポップのつくり手との思わぬ組み合わせによる新しい歌が生まれる可能性を持っているからです。

 高校生の合唱団をバックに島津亜矢が横揺れに縦揺れが混じる感じでノリノリに身体を動かすと、この歌がソウルミュージックのようで、昨年の紅白歌合戦の「ROSE」の時のバックコーラスとのコラボを思い出しました。
 もともとはCMソングの候補曲として作られたものを、1970年に阿久悠が安保闘争や大学紛争で挫折した若者たちの心情を作詞したのが「ひとりの悲しみ」でした。それはちょうど、わたしの1970年でもありました。当時のわたしは高校の建築科を卒業したもののビルの清掃のフリーターとなり、御堂筋や梅田新道の路上で同世代の若者がデモをしている間も掃除の仕事をしながら、心だけは彼女彼らのそばにいたいと思っていました。
 1970年になり、世の中は政治的には今までの騒動が嘘のように静けさを取り戻しました。あれほど一生懸命路上でアジ演説をしていた若者たちはどこにいってしまったのだろう、あれほどジグザグデモを繰り返していた若者たちにどんな帰る家があったのだろう…。
 わたしもまた、何も意思表示できなかった不甲斐なさをかみしめ、掃除道具のモップでビルの床をふき、まだ国鉄だった吹田駅のすぐそばの古いアパートに帰っていきました。隣の部屋からは藤圭子が歌う「圭子の夢は夜ひらく」やいしだあゆみの「あなたならどうする」が聴こえてきました。

あしたが見える今日の終わり
背伸びをしてみても何も見えない
なぜかさみしいだけ
なぜかむなしいだけ
こうしてはじまる
ひとりの悲しみ(「ひとりの悲しみ」)

 わたしはズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」をきちんと聴いていなかったのですが、今回、島津亜矢の歌を聴き、思わず涙が出ました。この歌詞は阿久悠にしては少し観念的な歌詞ですが、1968年から1970年を通り過ぎたひとのだれもがそれぞれちがった思いで同じ道を走りぬけ、またちがった道を歩き始めた時、「ひとりの悲しみ」の意味がどっと迫ってきます。
 「また逢う日まで」については、阿久悠は一度書いた歌を作り変えることにかなり抵抗したそうですが、たっての願いを受けてソロとしては新人の尾崎紀世彦の2枚目のシングル曲としてこの歌を作詞したそうです。
 時代を読み、時代を歌うだけにとどまらず、3分たらずの歌で時代を変えようと野心を持ち続けた阿久悠らしく、別れゆくふたりが戦後の政治と経済と個人の夢と希望がゆるやかに並走していた蜜月の部屋のドアを開けると、外はニューファミリーとマイホームと幸福幻想の風が吹き荒れています。政治の季節から経済の季節へ、みんなの時代からひとりの時代へと、日本全体が高度経済成長へ疾走を始めた時代の空気感が今でもわたしの心を熱く切なくします。
 「また逢う日まで」は、尾崎紀世彦という並外れた歌唱力と声量、そして音楽的な野心に満ち溢れた不世出の歌手を得た阿久悠が、どこにでも誰にでもあるような恋人二人の別れ話に時代の大きな物語を忍ばせた歌だったのだと思います。
 島津亜矢の歌を聴き、あらためてこの二つの歌詞は時代の鏡の表と裏で、厳しい社会を生きる若者たちに贈る阿久悠の応援歌だったのだとはじめて知りました。
 それにしても、島津亜矢は(この番組のテーマである)阿久悠が放ったすごい歌詞を見事に歌い分け、同時にソウルミュージックにまで近づけた才能は恐るべしとしか言いようがありません。バックに高校生のコーラスを共演させたこの番組の制作チームも素晴らしいと思いました。
 わたしはかねてより、島津亜矢の歌にはどんな明るい歌にも時代のかなしみと、その時代を生きたひとびとのかなしみが隠れていると思ってきましたが、彼女の「ひとりの悲しみ」には、あれからとても長い年月が過ぎ、年老いたわたしにも確かにあったせつない青い時をよみがえらせるのでした。

島津亜矢の「また逢う日まで」の映像・音源がありませんので、オリジナルを紹介します。
島津亜矢のブログを読むと、西田敏行の紹介で高橋優とつながりができたらしいのですが、書きそびれましたが高橋優は好きな歌手で、お互いの歌を聴き合えた今回の番組に感謝していたのですが、それよりも前に知り合っていたというのはとてうれしいことです。

尾崎紀世彦「また逢う日まで」

ズー・ニー・ヴー「ひとりの悲しみ」
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2018.10.09 Tue 鬱屈した演歌の牢獄から解放され、「演歌の革命」といっていい独自の島津演歌へ

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 9月9日のNHK-BS放送「新BS日本のうた」だったと思うのですが、島津亜矢が石川さゆりの「能登半島」を歌いました。
 しばらく島津亜矢のポップスの記事が続きましたが、一般的には演歌歌手・島津亜矢というイメージが拭い去られたわけではなく、実際のコンサートでも演歌が中心になっていますし、演歌・歌謡曲中心の番組といえるNHK・BS放送の「BS新日本のうた」でも、やはり演歌を歌うことが多いと思います。
 実はわたしは、彼女のポップスへのあくなき探求心はまだエチュード(練習曲)の段階で、初めて聴くポップスファンの驚きと激賞にもかかわらず音楽の冒険はまだ途上と思っています。というのも、今の時代では極端に小さい演歌の領域からの冒険は難しく、なんといっても演歌の10倍、いや100倍といってもいいJポップの領域からは次々と才能があらわれ、音楽の質、量、波及効果とも無限の可能性を持っているからです。音楽もまた市場によってつくられるのですからそれは当然のことで、優れた才能に満ち溢れた若いシンガーソングライターやボーカリストが量産されています。
 その中で、演歌歌手として出発した島津亜矢は、ポップス歌手へと羽ばたく途上にあるのでしょうか。いいえ、決してそうではないとわたしは思います。彼女がポップスの領域で音楽を極めれば極めるほど、演歌歌手としての存在感も増すことになるでしょう。
 美空ひばりは最後までジャズやブルーズを体と心に秘めながら、律義に世の中が求める演歌歌手であり続けました。彼女に戦後の復興と繁栄、焼け跡からの民主主義という神話を押しつけた世の中は、繁栄を享受するようになるとジャズやブルーズといった占領時代のアメリカの音楽ではなく、「日本人の心」を取り戻す疑似アンデンティテイとしての「演歌」を晩年の美空ひばりに押しつけたのだとわたしは思っています。
 「能登半島」が発表された1978年はもとより、1970年代はピンクレディー、沢田研二、花の中三トリオなどのアイドルや、阿久悠やなかにし礼、千家和也などの作詞家、三木たかし、都倉俊一、筒美京平などの作曲家がしのぎを削りながらたくさんの流行歌を世に送りました。
 ある意味、大衆音楽は「戦後」から脱出し、高度経済成長からバブル全盛期まで疾走していったのだと思います。この時代は若い人たちもふくめてそれほど音楽志向が偏らずに並走していたのでしょう。その中で演歌もまた前述のヒットメーカーたちの参入を得て今でも歌い継がれる数々の名曲が生まれました。美空ひばりにけん引されるように八代亜紀や森進一、五木ひろしなど、今も一線で活躍する演歌歌手が数多く世に出ました。
 それから後、バブル崩壊から失われた20年を経て音楽の蜜月時代は終わり、まず初めに若い人たちの音楽志向がアイドル、ニューミュージック、Jポップへと猛スピードで変貌拡大しながら去って行き、演歌・歌謡曲は取り残されるように小さなジャンルを中高年の熱心な支えで持ちこたえてきたというのが現実でしょう。
 1973年にデビューした石川さゆりは年齢がほとんど変わらない森昌子、桜田順子、山口百恵の影に隠れ、なかなかヒット曲に恵まれませんでした。そこで阿久悠・三木たかしの最強コンビで再起を図りましたが、「十九の純情」、「あいあい傘」、「花供養」と3曲ともヒットせず、状況は変わりませんでした。
 そこで2人は次の一曲を選ぶために1976年に「365日恋もよう」というアルバムをつくりました。1月から12月まで12曲、日本中の各地に季節を合わせて女の恋を歌う試みで、「津軽海峡・冬景色」はアルバムの最後、12月の青森を舞台にした曲としてつくられたのでした。
 翌1977年1月1日、石川さゆりがコンサートで歌って評判が良かった「津軽海峡・冬景色」をシングルカットして発売したところ彼女の最大のヒット曲となり、つづけて5月に「能登半島」、9月に「暖流」とつづけさまに発表し、旅情3部作といわれました。
 三連符を多用するメロディーラインは前作の「津軽海峡・冬景色」を踏襲しています。
 「津軽海峡・冬景色」は若い女性の失恋の歌ですが愛しい人をしのぶ演歌ではなく、失恋を機に自立していく女性の凛とした後ろ姿が目に浮かびました。そこには阿久悠の「作詞家憲法15条」の中の6条、「『女』として描かれている流行歌を『女性』に書きかえられないか。」という彼の思いが込められています。また、1977年という時代背景は1975年の「国際婦人年」を契機に女性差別の撤廃への行動が世界にも日本にも顕著に表れた時代で、同じく「作詞家憲法15条」の5条、「個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは不可能か。」という大きなテーマを見事に歌にしています。
 「能登半島」では愛しいひとを待ちつづける女ではなく、「一夜だけの旅の支度すぐにつくり、熱い胸に飛び込みたい私だった。」と、そのひとを追いかけて「すべて、すべて投げ出し駆け付ける」恋する女性の切なくも一途な旅の風景をドラマチックに歌い上げ、20年後の「天城越え」のテロリスティックな激情の一端をのぞかせています。
 わたしは若い時の石川さゆりの少女のようなナイーブさが好きでしたが、美空ひばりと同じように年を重ねるに連れて本格的な演歌歌手へとシフトせざるを得なかったひとだと思います。
実際、彼女は早くからJポップのつくり手に楽曲依頼するレンジの広い歌手で、彼女の歌唱力もまた演歌だけでは培われない音楽的野心から生まれたものと思います。
 島津亜矢は、おそらく美空ひばりの歩いた道でも、石川さゆりが歩く道ではない、さらにいえばちあきなおみの歩いた道でもない独自の新しい道を歩くことになるでしょう。前人未到といってもいいその道は、強いて言えば美空ひばりに近い道で、美空ひばりが晩年に十分に表現できなかった演歌とジャズ、ブルーズがなんの矛盾もなく彼女独自の世界観で融合されている新しい演歌の道です。
 先日の「能登半島」を聴いていて、たとえば先日亡くなったアレサ・フランクリンのように、心深くに途方もない悲しみを持ちながら時代に抗い時代の声を聴き時代の声を歌う、「すごい歌手になったな」とつくづく思いました。
 実際は、「あなた あなたたずねて行く旅は」のところで一音を裏声で意識的に小さく歌うところで、(わたしの聴き間違いではないと思うのですが)彼女には珍しく音を外したと思いますが、そんなことはどうでもよく、強く弱くメリハリの利いた歌唱で、刻々と変化する女性の切ない感情がちぎれながら通り過ぎていく能登半島の風景が目に浮かびました。

 運よく、この歌を歌う映像・音源がユーチーブにあり、聴き比べると、彼女が名作歌謡劇場から座長公演、ポップスのカバーアルバム「SINGER」シリーズ、そして最近の「UTAGE!」をはじめとするポップス番組の経験を経て、加速度的に彼女の演歌が大きく変わりはじめたことがよくわかります。
 若い頃の島津亜矢は初々しく、演歌歌手としてはすでに極みに達している素晴らしい歌唱ですが、従来の演歌の約束事を忠実に守っていて、四畳半で歌っているような窮屈さを感じます。
 ところが、今回の歌唱にはそんな従来の「演歌」らしいあざとさがすべてなくなり、それでも阿久悠と三木たかしが石川さゆりのために渾身の思いでつくった歌を、若い頃の石川さゆりの瑞々しさと切なさと激しさをそのままに歌ってしまったのでした。
 それはおそらく、ポップスの歌唱から自ら学んだものとわたしは思います。そして、もっと才能あるポップス歌手や作り手と交わることで、彼女の演歌は鬱屈した牢獄から解放され、「演歌の革命」といっていい独自の島津演歌へと進化するにちがいありません。
 演歌から出発して演歌に帰ってくる、そこが彼女独自の歌の世界なのだと強く思いました。
そして、彼女にとって演歌はたとえば短歌のような定型詩で、ポップスは現代詩なのかなとも思いました。現代詩を歌手の肉体によって表現する星野哲郎に嫉妬したという寺山修司の声がよみがえるようでした。
 今日9日のNHK総合「うたコン」で、くしくも阿久悠の歌を歌うとのことで、とても楽しみにしています。

島津亜矢「能登半島」(2018年9月9日)

島津亜矢「能登半島」

石川さゆり「能登半島」( 1978年)

石川さゆり「能登半島」
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2018.09.28 Fri ポップスを歌える演歌歌手ではなく、ブルーズにつながる土着を持った歌手・島津亜矢

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 最近の島津亜矢は「UTAGE!」の出演が続き、ポップスシンガーとしての存在感も増してきたのは事実だと思います。思い起こせばTBSの人気バラエティー番組「金スマ」への出演がきっかけで中居正広が高く評価してくれたのでしょう、その後「音楽の日」に一度出演した後、同じ中居正広が司会を担当する「UTAGE!」に昨年の秋、今年の春夏と3回連続出場したことから、ポップスファンにも彼女の存在が認識されるようになりました。
 島津亜矢のファンのひとりとして、歌唱力を高く評価されているボーカリストの島袋寛子やBENI、リトルグリーンモンスタのあみん、ケミストリーの堂珍嘉邦、川畑要とのコラボレーションで衝撃的ともいえる歌唱を認められたことはとてもうれしいことです。
 それは長い間待ち望んだことで、稀有な才能を早くから認められながら決して順風満帆とは言えない歌手人生がようやく報われる時がやってきたのだと素直に喜びたいと思います。演歌・歌謡曲番組のNHK「BS新日本のうた」のスペシャルステージなどで、演歌歌手との数々の共演で評判を呼んできた島津亜矢が、もっと広い大海に出てその真価を問う機会に恵まれたことは本当に喜ばしいことです。
 2010年、ポップスのカバーアルバム「SINGER」を発表し、その中の「I WILL ALWAYS LOVE YOU」がNHK-FM「松尾潔のメロウな夜」で取り上げられ、その歌唱力が絶賛された頃から注目されるようになり、それ以来地道に発表を重ね、今年の10月には5枚目となる「SINGER5」が発表されます。
 その収録曲もすでに60曲を越えました。最初の頃わたしは彼女のポップスカバーの歌唱力に圧倒され、すぐにでもポップスのオリジナル楽曲を発表すればいいのにと思いました。しかしながら、彼女のポップスの歌唱力とは関係なく、長い間演歌歌手の手慰み程度という評価しか得られなかったこともまた事実です。
 そこで思い出すのが、かつて竹中労の後押しで制作された美空ひばりのジャズのアルバムのことです。竹中労は美空ひばりの中に黒人音楽とつながるルーツがあると感じて、ハリー・べラフォンテを引き合わせたりしていました。
美空ひばりがナット・キング・コールのファンになったのも竹中労の影響で、ナット・キング・コールが他界した時に彼をしのんで彼の歌ばかりを集めたジャズのアルバムを発表します。「みごとに、コールの歌の魂を、私たちの国のことばに移しかえている。ひばりのハートは、あかるくて悲しいコールのフィ−リング(情感)に溶け込み、何の抵抗もなく、私たちを黒人ジャズの世界にさそうのである。」(竹中労)
 それから時代は変わり、音楽にもくわしい村上春樹のアメリカ在住の頃のエピソードにこんな話があります。「以前、アメリカ人の家で美空ひばりの歌うジャズ・スタンダード曲集を、ブラインドフォールド(誰が歌っているかを知らされない状態)で聴かされたことがあった。『誰だかわからないけど、なかなか腰の据わったうまい歌手だな』とは思ったのだが、何曲か聴いていると、その『隠れこぶし』がだんだん耳についてきて、最終的にはやはりいくぶん辟易させられることになった。」(村上春樹・著「意味がなければスイングはない」)
 わたしは村上春樹のファンで、このエピソードは彼らしいなと思いましたが、一方ではかえって美空ひばりのすごさを伝え聞いたと思いました。音楽に造詣が深い村上春樹のことですから、彼の言った「隠れこぶし」が単純に演歌のこぶしのことを言っているとも思えないのですが、わたしは美空ひばりのこぶしは演歌から来ているとは思えないのです。
 わたしは演歌の女王と言われるようになった美空ひばりは好きではありませんでしたが、島津亜矢を知ってはじめて美空ひばりのすごさを知りました。というのも、島津亜矢本人やファンの方々には申し訳ないのですが、わたしが彼女のファンになったのは彼女のオリジナル曲ではなくカバー曲の歌唱によってでした。それも、1950年代や60年代の歌謡曲のカバーは絶品でした。彼女がカバー曲を歌う場合、その歌唱力に圧倒されてよくオリジナルを越えると評されることが多いのですが、わたしはまったく違うように感じていて、彼女ほどオリジナル歌手へのリスペクトを忘れない歌手はいないと思います。
 以前にも書きましたが彼女の場合、オリジナル歌手とともにその歌の誕生の地にたどりつき、その歌に込められた心情と時代の空気を島津亜矢によるもうひとつのオリジナル曲としてよみがえらせるのですが、それはまたオリジナル歌手へのオマージュなのです。
 わたしは島津亜矢のおかげでかなり嫌いだった美空ひばりのすごさを再発見することができたのですが、それは「演歌の女王」といわれる前の美空ひばりでした。わたしは村上春樹が辟易したという「かくれこぶし」は、1970年代以降の演歌のこぶしではなく、むしろ竹中労がいうところの美空ひばり特有の土着性、戦後の左翼運動が蔑視していた美空ひばりをはじめとする歌謡曲の底流に流れる土着民主主義というべきものではないかと思うのです。そして、日本の「敗戦」を「終戦」とごまかす権力の下でがれきを片付け、かつての暮らしを取り戻そうと必死に働いたひとびとが育てた民主主義の隣に歌謡曲があったのだと確信します。そして美空ひばりの「かくしこぶし」とはまさしくそのがれきの荒野のリンゴ箱の上で歌った希望の歌だったのだと思います。
 ですから、美空ひばりのジャズに村上春樹が発見した「かくれこぶし」こそは稀代の歌手・美空ひばりと戦後民主主義のアイデンティテイであり、それなくしては美空ひばりではあり得ないのだと思うのです。華やかなジャズの旋風の中でも決してなくならなかった「かくれこぶし」は、「東京キッド」や「悲しき口笛」、「りんご追分」、「津軽の故郷」、「私は街の子」に受け継がれていたのでした。
 わたしは島津亜矢もまた、美空ひばりが持っていた「隠れこぶし」(土着)をもっていると思っています。彼女がポップスをうたう時に演歌のこぶしがまったくでないのは当たり前のことですが、彼女のポップス歌唱にはジャズやブルーズにつながるある種のにおいのようなものがあります。ですから、彼女がソウルミュージックやR&Bをカバーすると、「かくれこぶし」が姿をあらわします。
 こんなことを書こうと思ったのは、先日放送された「演歌の乱」という番組を観たからです。はじめての番組ではないようですが、おおむね、出演した歌手たちは演歌歌手の中でも歌唱力があり、しかもポップスを歌える歌手たちでした。
 この番組は演歌歌手がポップスを歌い、ポップス歌手やバラエィーの芸能人がひな壇にすわり、こぶしやうなりのない歌唱力とその意外性に感動するという構成になっていて、ひな壇に座っている人たちには申し訳ないのですが、彼女彼たちの上から目線がとても気になりました。特に走裕介の「STORY」などは演歌とR&Bが同じルーツを持っているということを証明してくれましたし、市川由紀乃はポップスの歌手を凌駕する歌唱力を見せてくれたのですが、すべてが予定調和的な「演歌歌手の歌うポップス」としてしかとらえられないところに不毛なものを感じるのです。
 というより、この番組の出演者、制作者の誰一人、走裕介や市川由紀乃のただ者ではない歌唱をただしく重く受け止めた人はいなかったのではないでしょうか。
 わたしは、島津亜矢はこの番組には出ないことを祈っています。依頼されやすいかも知れませんし、出演すれば番組の中でもSNSで大げさに評価されることでしょうが、所詮「ポップスを歌える演歌歌手」という牢獄にまたしても閉じ込められるだけです。
 それよりも、島津亜矢のポップス歌唱もまた、今でもその程度でしか受け止められていないということだと思います。それは言い換えれば、ポップスもまた美空ひばりや島津亜矢にある土着をなくしている証明でもあるのです。
 それを打開するためには、やはりオリジナルのポップスを歌うしかないでしょう。アイドルは別にしてポップスやロックのようにまずアルバムを制作し、その中からシングルカットする方法で、ポップス界に殴り込む(?)以外にないと思います。
 コストが問題ですが、たとえば松尾潔のようなプロデューサーのもとでゲストミュージシャンも入ったR&Bやソウル、ジャズのアルバムなどは刺激的だと思います。ちなみに松尾潔は「UTAGE!」で共演したケミストリーの産みの親でもあり、SPEED、MISIA、宇多田ヒカル、平井堅、JUJU、EXILEなどの楽曲にもかかわったプロデーサーで、演歌では坂本冬美や山内恵介にも楽曲を提供しています。
 とにもかくにも、島津亜矢はまたこの数年、ポップスと演歌のどちらからも厳しい局面に立たされることになるでしょう。しかしながらその先には、かならずや大衆音楽の歌姫として、日本を代表するボーカリストになっていることを信じています。

UTAGE!180329 桜-島津亞矢×川畑要

「私は街の子」美空ひばり

「津軽のふるさと」美空ひばり

「津軽のふるさと」島津亜矢
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2018.08.30 Thu 「ファイト!」は広島の木之下孝利さんの愛唱歌でした。中島みゆきと木之下孝利さんと島津亜矢

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そのひとの机はちゃぶ台より低く、荒野のように大きかった
別れの日にはじめて入った彼の部屋は
たたかうひとの夢とやさしさに満ち溢れていた
木之下さんと話す時、広島と箕面を結ぶ見えない地平線から
世界のざわめきが聞こえていた

 2000年11月5日の午後4時50分、広島県の尾道・三原で障害者解放運動に悪戦苦闘していた木之下孝利さんが亡くなりました。36歳でした。
 木之下さんとの出会いは阪神淡路大震災前の1994年ごろだったように思います。そのころ豊能障害者労働センターに在職していたわたしは、河野秀忠さんの障害児教育教材「あっ、そうかぁ」、「あっ、なぁんだ」を一緒に販売してくれる障害者のグループを訪ねて、長野、広島、福岡に行きました。
 広島には数回行きましたが、最初はボストンバッグぎしぎしに見本の本を詰め込み、木之下さんたちの活動拠点「うさぎとかめ保育園」に泊まらせていただきました。
 2度目の旅は箱型の車にどっさり本を積み、今はゆめ風基金の事務局長の八幡隆司さんと梶敏之さんと3人で日教組の教研集会に参加し、その後広島の障害者のグループを訪ねました。
 その教研集会の時、会場の最前列に陣取り、広島青い芝の会のメンバーとして論理明晰、弁舌たくみに「共に学ぶ教育」の実践現場の建前と本音を打破し、するどく糾弾していた渦中に、木之下孝利さんがいました。その激しい言葉の中には、現場の教員たちと共闘、支援する応援団としてかぎりないやさしさがあふれていました。
 集会の後、どこかの教会で集会の総括と交流会が行われ、その時も木之下さんは司会をしていました。青い芝の原則として総括(反省)の場には介護者をふくめて健全者は入れず、その場には梶さんひとりだけになりました。ドア越しに木之下さんが「今日ははるばる大阪から梶敏之さんが応援に駆けつけてくれました」と紹介してくれたのが聞こえてきました。
 そんな交流が何回かあり、阪神淡路大震災以後、河野さんの提案で豊能障害者労働センターの(当時の)若いスタッフ数人が木之下さんの運動に学ぼうと広島に行くことになりました。そのことがきっかけで、木之下さんと労働センターのスタッフとの交流が深まり、尾道に行ったり箕面に来てもらったりするようになりました。
 何度か箕面に来てもらった時、ほんとうにたくさんの話をしてくれました。全国的にIL運動(自立生活運動)が一気に広がり、木之下さんたちも「CILおのみち・障生連事業所」を立ち上げたその時に、一般的には「障害者作業所」としか見られなかった豊能障害者労働センターを障害者解放運動の精神的な盟友とみてくれたことは、わたしたちに勇気を与えてくれました。
 「先天性骨形成不全症」という障害を持って生まれ、子どもの頃は一家心中で親に殺される恐怖からいつもジャックナイフを隠していたこと、脳性まひではないため脳性まひの集団・青い芝からいつもバッシングをうけるところを松本孝信さんがかばってくれたこと、その松本さんが広島市で暮らしにくくなった時に尾道に来てもらったこと、結婚し同じ障害をもつ娘さんが生まれることをやめさせようとする医者とのせめぎあいと数々の逡巡、そしてあえて差別を覚悟で地域の学校に通わせ、学校や地域を変えようと足元からの運動を続けたことなど、ほんとうに親密な間柄でなくては話せないことをたくさん打ち明けてくれました。労働センターのスタッフとの交流はどんどん深まる中で、センターのスタッフの悩み事にも親身に相談にのったりしてくれたようです。
 木之下さんとの出会いから多くを学んだ豊能障害者労働センターがその後の東日本大震災をはじめとする数々の災害のたびに全国の障害者運動とつながって救援活動をつづけるようになったのも、木之下さんのおかげだと思います。

 木之下さんの訃報が入り、河野さんをはじめ交流の深かったスタッフ数人と一緒に三原市の公営住宅の集会所に向かいました。直前までイベントか集会をしていて、少し休むと言ってそのまま息を引き取ったということでした。憤死といよりおだやかな死に顔でした。
 葬儀会場は集会所の横の広場で、正面に大きなスピーカーが2つ並んでいて、繰り返しくりかえし中島みゆきの「ファイト!」が流れていました。
 何度もこの歌を聴きながら、「ああ、この歌は木之下さんのためにつくられた歌なのだ」と思いました。あとから尾道のスタッフから、この歌はまさしく木之下さんの愛唱歌で、彼を見送る歌はこれしかないと考えたと聞きました。
 この時、わたしは中島みゆきというシンガー・ソングライターのすさまじい想像力と憤りと悲しさと、そして限りないやさしさを思い知りました。
 1983年に広島の17歳の少女の思いを受け止めて発表された「ファイト!」。この歌が同じく広島の尾道市で障害者解放運動の一歩を歩き始めた木之下孝利さんの愛唱歌として、ずっと彼に勇気を与え、絶望に打ちひしがれることもあったにちがいない幾多の夜にも彼を励まし続けたのでした。この歌を2000年の秋、多くの友と一緒にわたしもまた歌いました。

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴ら笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ

 中島みゆきというひとが単に歌づくりにたけているだけなら、こんなにもひとりの障害者の人生の応援歌・たたかいの歌にはならなかったことでしょう。彼女の歌はしばしば多くのひとに聴かれる歌というより、たったひとりのひとの心に直接届き、「歌よりも歌らしく」(阿久悠)、いつまでも心の弦が歌うことをやめないのです。そんな歌はそれをつくったひとにしか歌えないのかも知れません。 しかしながら、もしそうならばブルースもジャズも日本人には歌えないという、過去のトラウマにとらわれてしまうことでしょう。
 そのトラウマを打ち砕き、歌をつくったひとからその歌を引き継ぎ、その歌の誕生の場にわたしたちをいざなってくれる、島津亜矢はそんな歌手の一人なのだと信じてやみません。かつて美空ひばりやちあきなおみや青江三奈がそうであったように…。
 10月に発売される「SINGER5」は「SINGER4」にひきつづきとても刺激的な歌が収録されているようですが、「ファイト!」もいつか、島津亜矢に歌い継がれる日を待ちつづけていると思います。

島津亜矢 山本彩 高橋愛 峯岸みなみ 松本明子 - ファイト! (18.06.21.UTAGE!)

中島みゆき ファイト‼(オールナイトニッポン月一・2016)



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