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2019.03.20 Wed 「First Love」はR&Bからソウルミュージックへとつながる島津亜矢の道標 アルバム「SINGER5」

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 アルバム「SINGER」シリーズは島津亜矢のここ2、3年出演機会が増えた民放のポップス番組での歌唱や、中島みゆきリスペクトコンサート「歌縁」への出演、さらにはSINGERコンサートなどと連携する形になり、選曲の多様さとあわせて発売間隔も狭くなり、昨秋には「SINGER5」が発売されました。
 ここまでくればオリジナルのポップス曲の発表が望まれるところですが、今のところ、テイチクレコードをはじめ島津亜矢サイトがポップス曲の制作を始める様子はありません。
 今年の新曲も演歌で従来と同じ販売ルートをくずさず、ある意味では堅実、別の言い方をすればリスクを取る冒険をさけています。
 わたしは演歌・歌謡曲のジャンルにおいても野心的な楽曲が生まれることを強く望んでいて、島津亜矢には演歌・歌謡曲のジャンルでそのオピニオンリーダーになってほしいと願っています。島津亜矢のジャンル・フリーな音楽へのたゆまない冒険を必要とする時代がそこまでやってきていることを実感します。
 かねてより桑田佳祐や中島みゆき、水野良樹などのつくる曲はかつての歌謡曲に近いですし、昨年の紅白に別枠で登場したエレファントカシマシの宮本浩次と椎名林檎の「獣ゆく細道」などはまさしく懐かしくも新しい歌謡曲と言っていいでしょう。
 アルバム「SINGER5」に収録された16曲は多岐多様で、正直に個人的な感想を言えばそのたぐいまれな歌唱力と声量と声質をもってしても、演歌・歌謡曲ですでに獲得している「歌を詠む力」と「歌い切らず歌い残す力」がまだ途上にあるという印象もぬぐえない感もあります。
 しかしながら、一曲一曲と真摯に向き合い、様々な表現を模索していて、ポップスの広い荒野に確かな存在感を持つボーカリストとして、出自が演歌歌手というところでの驚きを差し引いても揺らぎのない評価を得たこともまた確かなことだと思います。
 もしかすると周辺の関係者やファンからの熱望を受けながらも、今はまだ「SINGER」シリーズやライブ、音楽番組などを通してより高みをめざすエチュードの時期と位置づけ、オリジナルの楽曲の制作に踏み出すタイミングを待っているのかもしれません。
 どちらにしても近い将来島津亜矢が満を持して最高のつくり手による最高の楽曲を世に出す瞬間が来ることは間違いないと思います。実際、70年代から様々に多様化、分散化してきた大衆音楽の現状は大きく見れば衰退しているといわざるを得ず、いまを生きるわたしたちは「歌を必要としない時代」に向かっているのかも知れません。だからこそ、「時代のかなしみ」を背負い、音楽がもう一度土の匂いや草花のはかなさ、思いまどうたましいの彷徨を歌える島津亜矢にどうしても過度な期待を持ってしまうのです。
 ともあれ、刺激的かつその表現の幅を一気に広げた今回のアルバムは、振り袖に風を抱き、眼下の荒海から遠く水平線を見つめ、覚悟を秘めて立ち尽くす島津亜矢がよくも悪くも前のめりで強く「声圧」をかけた作品だと思いました。
 その中でまず、「First Love」を取り上げたいと思います。この歌は1998年、15才のデビュー曲「Automatic」が社会現象にまでなった宇多田ヒカルが翌年の1999年に発表したファーストアルバム「First Love」からシングルカットされた楽曲です。ちなみにこのアルバムは累計765万枚以上のセールスを記録し、日本での歴代ランキング一位となってて、それ以後、音楽を聴くメディアがCDから音楽配信に変わり、この記録を抜く楽曲は現れないのではないかと言われています。
 宇多田ヒカルの出現は、当時圧倒的な存在だった小室哲哉に「自分の時代が終わった」と思わせるほど、日本の音楽シーンに衝撃を与えました。それほど熱心なリスナーではなかったわたしでさえ、それまでなんとなく聴いていたJポップとは歌が生まれる場所が違うと感じたものです。実際、ダンスミュージック全盛のJポップが苦手だったわたしには四畳半演歌・歌謡曲と同様に「スタジオやクラブシーンからしか生まれない音楽」とは違い、宇多田ヒカルの音楽が地平線の彼方からやってくる新しい時代の地響きのように聴こえたのでした。
 「I Will Always Love You」で島津亜矢をポップスのボーカリストとしてはじめて評価したといえる音楽プロデューサーの松尾潔は、宇多田のデビューの数ヵ月前、のちに「Automatic」のカップリングとなる「time will tell」を聴かされ、日本人でありながら、R&B、黒人音楽、洋楽っぽい雰囲気が生まれつき肉体に備わっていることに驚いたと証言しています。しかも、すべての楽曲を作詞作曲し、後には編曲までひとりでしてしまう、とんでもない才能から生まれる楽曲を自ら歌い、「最後のキスはたばこのflavorがした ニガくてせつない香り」で始まる歌詞は16歳の少女のものとは思えず、ゴーストライター説が流れるほどでした。どこか歌謡曲に近い曲調なのに、「さ、いごのキスはたば、このflavorがした ニ、ガくて切ない香り」と歌う彼女の歌はR&Bのグルーブ感にあふれています。
 わたしは、時代をさかのぼること1970年代に演歌を時代の挽歌にしてしまった天才歌手・藤圭子を母に持つDNAなくしてはこんな天才少女があらわれるはずがなく、そのことが宇多田ヒカルにとって結構つらい事だったのではないかと思います。
けれども、藤圭子が思わぬことで世を去り、本人の結婚と離婚、そして子育てを通して、今はじめて母親から人生の大切な花束を受け取り、彼女の音楽は大人になることでより深い暗闇ときらきらした宝石の朝を獲得したのではないでしょうか。
 そして、島津亜矢にとって中島みゆきとはまた違った方向から音楽の旅案内をしてくれる宇多田ヒカルの音楽との親和性を感じさせてくれる「First Love」は、R&Bからソウルミュージックへとつながっていく島津亜矢の音楽性を生み出す道標となる楽曲なのではないかと思います。
 島津亜矢の「First Love」には、16歳の頃の宇多田ヒカルのグルーブ感には至らないものの、むしろ「花束を君に」や「真夏の通り雨」をはじめとする最近の宇多田ヒカルの音楽に近いものを感じます。それは、先日のフレディ・マーキュリーへのリスペクトと同じく、宇多田ヒカルが今、誰に届くように歌っているのかという問いが、島津亜矢にも投げかけられているからだと思うのです。
 わたしはさきほど「声圧」といいましたが、この歌もふくめてナイフのような高音がやや強く、最近の演歌の歌唱にみられるセクシーでぞくっとする低音が鳴りを潜めているように思います。そのために絶唱してしまう歌唱が目立ち、聴き手の心に「歌い残す」ところにまで歌が届きにくいと感じました。歌番組でコラボする時にはそれが実現しているのですから、一人で歌うポップス歌唱においてもセクシーな低音が歌に奥行をもたらし、歌をより豊かにしてくれるのではないでしょうか。
 もっとも、「First Love」はこのアルバムの16曲の中でもっとも難しい楽曲であることもまた事実で、「誕生」や「リバーサイドホテル」、「木蓮の涙」、そして不思議なことに「Forever Love」などは切ない心情にあふれた絶唱が聴く者の心を打つ素晴らしいものになっていると思います。その意味でも「SINGER5」は、さまざまな可能性を限りなく探し求めたボーカリスト・島津亜矢の誕生という、記念すべきアルバムであることはまちがいないと思うのです。

島津亜矢の「First Love」は削除されていて、中国の映像サービスをUPしようとしましたが、サイトに問題があると警告されましたので、残念ですが映像を紹介できません。興味を持たれた方はアルバム「SINGER5」を購入していただくか、ダウンロードでお求めください。

宇多田ヒカル - First Love

宇多田ヒカル 「First Love」 Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018

宇多田ヒカル - 花束を君に

宇多田ヒカル - 真夏の通り雨
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2019.02.20 Wed フレディ・マーキュリーの悲しみを受け止めた島津亜矢はすでにロックシンガーといってもいい

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 前回の記事はまだNHK「うたコン」を見る前で、島津亜矢のボーカリストとしての可能性を信じていたとはいえ、どんな演奏になるのか不安もありました。
 けれども、どうでしょう。素人のわたしの取り越し苦労で、「予定調和でなくてもよい、偉大なる失敗もある」と予防線を引いてしまった自分が恥ずかしいです。
 島津亜矢のファンになって約20年、今日ほど彼女のファンでありつづけた自分を誇りに思ったことはありませんでした。
 番組の計らいもあったのでしょう、珍しくその前に大津美子の「ここに幸あり」を歌いましたが、歌の入りの低音がどすの利いた声になり、クイーンの練習がきつかったのか心配しました。
 クイーンのカバーとなると「ウィ・ウィル・ロック・ユー」、「伝説のチャンピオン」はいいとしても、「ボヘミアン・ラプソディ」はアカペラパート、バラードパートからブライアン・メイのギター、そしてオペラパート、ハードロックパートと変則的な組曲ともいえる6分もある大作で、歌のカタログというイメージの「うたコン」では選曲しないと思う一方、フレディ・マーキュリーの最大傑作ともいえる1975年のこの曲のバラードパートを島津亜矢が歌えば彼女にとって今考えられる最大の音楽的冒険で、画期的な番組になるとも思っていました。
 というのも、誰も認めてくれないかも知れませんが、わたしは前の記事でも書きましたが時代も地政学的にもジャンルとしてもまったく縁がないと思われるフレディ・マーキュリーと島津亜矢は、実はとても共通していると思っているのです。彼女の声質はフレディととても似ていて、管楽器的というか透明で硬質でとがったナイフのような鋭さを持つ一方、孤独や悲しさを包み込むやさしさを兼ね備えています。そしてなによりも社会や時代の底辺で地響きするような稀有の歌唱力と、「音楽の中でのみ通用する音楽」とは質もスケールもレンジの広さも桁違いの音楽的視野を持つところも相通ずるものがあります。
 果して、何ということでしょう、QUEENメロディーは「ボヘミアン・ラプソディ」からはじまり、島津亜矢はバラードパートを歌ったではありませんか。叱られるかも知れませんが実際のところ、アカペラパートはとても難解で、クイーンの最高のコーラスにはやや届かなかったところから、島津亜矢のバラードが入ってはじめて音楽になったといっても間違いではないでしょう。彼女が「ママー」と歌い始めた時、フレディとつながる音楽の磁場があり、島津亜矢は歌唱力とか声質とかを越えて、フレディの暗い闇を共有していることを確信しました。
 「瞼の母」と「ボヘミアン・ラプソディ」との共通点に気づいたのは、前回の記事を書いている途中でした。わたしがこの2人を同じ地平で見るのは、なによりもとてつもない悲しみを背負ってしまった青春の淵に立ち止まり、明日の行方に恐れおののく若者のたましいをえぐり取るような歌だからです。そのことに気づいたとき、「瞼の母」や「一本刀土俵入り」など、長谷川伸や山本周五郎の世界で生きる若者の切なさを見事に歌える島津亜矢なら、格式と階級に囚われるヨーロッパ社会で中東やアフリカ、アジアの若者が成功を夢見て歌舞音曲に人生をかける切ない希望を歌うフレディ・マーキュリーを歌えるはずだと思いました。もう少しはっきり言えばビートルズやローリングストーンズは歌えなくても、巷や荒野でうごめく等身大の若者の心情を抱えるクイーンのロックバラードは歌えると思いました。
 歌はやはり、愛を必要とする心から生まれ、愛を必要とする心に届くのでしょう。
 島津亜矢は、かなり苦手としていたと思われるロック音楽の入り口に立つことができたのだと信じます。
 そして、SINGERシリーズにまたひとつ、楽しみができました。わたしは島津亜矢がクイーンのロックを歌える数少ないボーカリストで、とくにもっとも難解な「ボヘミアン・ラプソディ」をハードロックパートも含めて収録してほしいと思います。
 その後「伝説のチャンピオン」を歌いましたが、ここでも何万人に漠然と届けるのではなく、何万人のひとりひとりの心に、そのマイノリティに届くロックシンガーになっていました。島津亜矢が最初に歌ったパートはわたしがもっとも心を震わせる歌詞で、「それは人類の最後の挑戦なのだ」と歌うのですが、フレディ・マーキュリーや、ミシェル・フーコーの、時代的には今よりももっとひどい差別を受け、生きにくい時代を生きたひとびとの夢を歌い、「ぼくらはチャンピオンなのだ」という遺言をしっかりうけとめた歌になっていたと思います。
 あまりこんなことは思わないのですが、今回限りは島津亜矢ひとりでクイーンのメロディーを聴きたかったと思ってしまいました。それほど、フレディ・マーキュリーが乗り移ったような声質と、何よりも音程が違わない歌唱力のすごさを見せつけてくれました。
 それと、ローリーのギターもただ上手かっただけでなく、クイーンへの愛を感じる演奏でした。

 それにしても、島津亜矢はとんでもない高みに上り詰めてしまったものです。新曲がまだということですが、こんな遠いところに来てしまった彼女にふさわしい歌をつくるのは至難のわざであることでしょう。
 そして、今日の島津亜矢の歌唱を聴いたポップスやロック、R&Bの作曲家、作詞家の方々に、彼女の歌唱力に挑戦する気概のある方はおられないのでしょうか。かつて船村徹が美空ひばりと格闘しながら曲作りをしたように、このまま彼女を放置しておくことは、日本の音楽シーンの損失ではないのでしょうか。

The Show Must Go On lyrics Queen 1991

Queen Perform Live at LIVE AID on 13 July 1985 [ORIGINAL]

島津亜矢「誕生」 

島津亜矢 First Love
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2019.02.19 Tue 「瞼の母」と「ボヘミアン・ラプソディ」 島津亜矢にフレディ・マーキュリーの魂が下りてくるか

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 今夜7時半放送のNHK「うたコン」で、島津亜矢がデーモン小暮とのコラボでQUEENメロディを歌うとのことです。
 出演者リストを見ると、五木ひろし、CHEMISTRY、ジェジュン、島津亜矢、デーモン閣下、天童よしみ、広瀬香美、水森かおり、May J、山内惠介、山田姉妹、フラッシュ金子、MUSIC CONCERTOと相変わらずの総花的で、なかなか落ち着いて島津亜矢のQUEENメロディを聴くという雰囲気にはならないかもしれません。
 しかしながら今年になっても映画「ボヘミアン・ラプソディ」の上映延長など、社会現象が収まらないQUEENを、デーモン小暮はともかく島津亜矢に歌わせるこの番組の制作スタッフの大胆さと、実は緻密な戦略で島津亜矢のボーカリストとしての真価を問う冷徹さに、とにもかくにも恐れ入るといったところでしょうか。
 彼女彼らにしてみれば、いくらQUEENが再ブレイクといっても、島津亜矢のファンをふくめて演歌ファンにほんとうに浸透しているのかといえばそれほどでもないと見ているところもあるように思えます。
 また、ロックやポップスファにとっては、最近演歌歌手でありながらポップス歌手を凌駕する歌唱力を見せつける島津亜矢であっても、さすがにQUEENは無理があると思っていることでしょう。事実、島津亜矢は今までたとえばビートルズやエルビスを歌うこともありましたが、どちらかと言えばまだ縦揺れのロックには波長が合わず、R&Bやソウル、ゴスペル、ジャズなど、横揺れのリズムの方が向いているという印象があります。
 だとすれば、たとえこけたとしてもどちらにも言い訳ができる演出で、島津亜矢本人の力不足や向き不向きで説明できるわけです。
 しかしながら、彼女彼らの賭けが成功し、島津亜矢が信じられない歌唱力と歌を詠む力で圧倒したら、今回の冒険はこの番組のコンセプト以上に思わぬ化学反応を起こしたことになります。
 実際、他の出演者を見ればCHEMISTRYやMay Jなどに歌ってもらう方が無難だという判断は素人でもわかります。しかしながらよくも悪くも、そんな予定調和をこわしてでもこの番組にも島津亜矢にも音楽的冒険を望んだという意味で、番組のスタツフが島津亜矢のボーカリストとしての可能性をいかに高く評価し、期待しているかがよくわかるのです。
 さて、わたしは島津亜矢がQUEENの歌唱を通して、ロックにも翼を広げてくれることを願っています。それほどロックに詳しいわけではありませんが、最近、特に日本でロックが低調で、かろうじてわたしはグリム・スパンキーが大好きですが、彼女彼らのような古いロックがかかると60年代から70年代の、ロック音楽を通して若者が社会を変えていく可能性があった時代があったことを思い出します。
 島津亜矢の演歌は「歌い切るから歌い残す」へと進化したことですでに至高点にたどり着いたと思っているのですが、一方で「瞼の母」、「人生劇場」、「影を慕いて」など、若き青年の心の震え、青ざめた絶望を歌う一連の股旅ものや青春の暗闇を歌う時、そこには個人の愛や欲望や裏切りを越えた時代のカタルシスがあり、翻ってQUEENとフレディ・マーキュリーのロックとつながっていると思っています。
 フレディ・マーキュリーの抱えていた底なしの絶望は彼だけのものではなく、時代そのものの絶望であったわけですが、島津亜矢のように実人生ではそんな暗闇をもっていないかも知れないけれど、歌や音楽にはそれ自体が時代の記憶を背負っていて、島津亜矢はその歌の持つ記憶に突き動かされて歌うことで、時代の暗闇と立ち向かわざるを得ないのです。実のところ、わたしは島津亜矢が歌の記憶に押しつぶされてしまわないか、心配になることがあります。
 ともあれ、QUEENとフレディ・マーキュリーは、政治的な革命が挫折した後に政治的な革命ではない、寺山修司が演劇の可能性としてめざした想像力という回路、人間の多様な回路を通る革命を垣間見ていたと思います。後のスタジアムロックと言われた数十万の人びとの前でフレディーが、半パンに上半身裸で赤いスカーフというかなりかっこ悪い姿でこぶしを上げながら叫び歌うロックは、後の1989年のベルリンの壁崩壊の前の東欧諸国での来るべき革命を予感していたのだと思います。
 あの人々は何を想い、フレディと共に歌い、そしてどこへ行ったのでしょうか。
 島津亜矢が歌う「瞼の母」の番場の忠太郎が時代にも母親にも拒否され、ぎりぎりのところで刃を抜かなければならなかったテロリストの瞼を支配する母親という権力としての家族観を捨て去る時、そこに広がるのはフレディ・マーキュリーの圧倒的な孤独とつながる荒野なのではないでしょうか。
 島津亜矢が誰のために歌い、誰の人生を語り歌うのかというその一点で、QUEENとフレディ・マーキュリーのロックとまったく同じルーツを感じます。
 開けてびっくり、とても緊張しますが、今日の島津亜矢は特別な島津亜矢になることでしょう。おそらく、番組は話題作りのバラエティ感覚満載という騒々しい雰囲気の中で、島津亜矢のQUEENを通り過ぎようとするでしょうが、島津亜矢にとってはそんなものではない、大きな冒険であることでしょう。
 とても短い時間だと思いますが、島津亜矢のファンとして、彼女のボーカリストの翼がQUEENのロックへとつながって行くのか行かないのかを見届け、聞き届け、立ち会いたいと思います。

Queen - Bohemian Rhapsody (Official Video)

QUEEN - We Are The Champions

島津亜矢「瞼の母」

島津亜矢「影を慕いて 2001」

島津亜矢「船頭小唄」
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2019.02.04 Mon オリジナルに限りなく近づいたカバーアルバム「SINGER5」



 年末から約一か月、風邪をこじらせて寝床で安静にしていました。若い頃なら少し無理をしてでも仕事に行きましたが、年金暮らしの今はずぼらというか、テレビばかりを見てぼんやりと過ごす悪癖が再発し、ほんとうに無駄な時間をたっぷりと過ごしてしまいました。もっとも、それが71歳のわたしのもう一つの健康法でもあります。
 そんなわけで、ブログの記事もまったく書けないままでした。
 思えば2011年の3月の東日本大震災とともに開いたこのブログですが、一か月以上も更新しなかったのは初めてで、おかげでスポンサー広告が出てしまいました。
 しかしながらやっと体調も戻り、気力も少しずつ回復しましたので、また徒然なるままに記事を書いていきます。誰に催促されるわけでもなく、また仕事にしているわけでもないですから、気楽に始めていきたいと思います。
 さて、1月5日に紅白歌合戦での島津亜矢の「時代」について書きました。ブログ再開にあたって、沖縄の辺野古基地の問題や今年のピースマーケットのこと、また昨年、わたしの音楽観を変えた川口真由美さんのミニライブ、昨日の玉本英子さんのシリア・イラク現地報告会など書いておきたいことがたまってしまったのですが、やはりここは島津亜矢さんの記事から始めたいと思います。

 昨年秋に発表されたポップス曲を収録したカバーアルバム「SINGER5」は、折しもJポップ分野のテレビ番組への進出と相まって、これまでの「SINGER」シリーズともども注目され、昨年レコード大賞企画賞の受賞につながりました。
 2010年からのファンであるわたしにとっては遅きに失した受賞で、本来は2011年のアルバム「悠悠~阿久 悠さんに褒められたくて~」を発掘できなかった音楽業界に失望したものでした。
アルバム「悠悠~阿久 悠さんに褒められたくて~」は、阿久悠の未発表の遺作を8人の作曲家が作曲した10曲を収録した野心作でした。Jポップでは当たり前で、アルバム先行でオリジナル曲ばかりを収録したこのアルバムは島津亜矢にとっても特別な意味をもっていたはずです。
 このアルバムをしっかりとプロモートできなかったことが、彼女のブレイクを7年も遅らせる結果となってしまったとわたしは思っています。
 その意味においてはカバー曲であっても、はじめて彼女のアルバムをレコード大賞が評価してくれたことを素直に喜ぶべきかも知りません。やっと彼女の存在が演歌・歌謡曲というジャンルを越えてJポップの分野でも知られるようになったのですから…。

 アルバム「SINGER5」に収録された16曲は次の通りです。
1.THROUGH THE FIRE 2.DESIRE-情熱- 3.ごめんね… 4.リバーサイドホテル 5.メロディー 6.STAND BY ME 7.22才の別れ 8.Forever Love 9.LULLABY OF BIRDLAND 10.やさしいキスをして 11.大空と大地の中で 12.ルージュの伝言 13.木蘭の涙 14.奏(かなで) 15.First Love 16.誕生
 第一印象は極めつけかつ総花的で、彼女の歌の地平が一気に広がり、歌の翼がどこまでも飛んでいきそうな勢いです。
 「SINGER」から「SINGER2」までは恐る恐るで、そのためにカバーアルバムが陥る「名曲」主義が垣間見えていましたが、「SINGER3」から少しずつアルバム全体のコンセプトが感じられるようになりました。
 そして、「SINGER4」で今まで感じられた逡巡を捨て、ポップスシンガーとして勝負をかけた野心がはっきりと表現されていました。それでも、好みがあることを承知で言えば「jupiter」などはオリジナル歌手に引っ張られた名曲主義の歌唱で、わたしにはやや鼻についたものでした。
 ところが、今回のアルバムはどうでしょう、わたしにははっきりと名曲主義とは決別したように聴こえました。それがこのアルバム全体を音楽的な野心とともに、Jポップの楽曲に島津亜矢の歌心がほとばしる刺激的なものになっているのではないでしょうか。
 実際、洋楽からフォーク、さらに驚いたのがXジャパンの「Forever Love」までをレパートーに入れてしまうすごさは、いわゆる名曲をドヤ顔でうたうこととは真逆の、彼女がほんとうに「いい歌」と思う楽曲を、カバーアルバムでありながらオリジナルアルバムにまで昇華しようとする島津亜矢のボーカリストとしての覚悟と矜持を強く感じます。
 何回も書いてきましたが、村上春樹のエッセイにアメリカの友人から勧められてスタンダードジャスのアルバムを聴き、最初はいいと思ったもののだんだんとどこか癖があるのが鼻について誰が歌っているのかと思うと、美空ひばりだったというエピソードがあります。
 わたしは村上春樹が好きですが、このエピソードから村上春樹の小説にも音楽の趣味にもよくも悪くも無国籍の匂いがして、わたしは彼の感じ方とは全く違い、その「癖」にこそ美空ひばりの音楽的アイデンティティを感じるのです。
 島津亜矢もまた、演歌歌手らしくないポップスの歌唱力を高く評価されるようになりましたが、わたしは少し違った感想を今は持っています。たしかに、演歌の特徴といわれる「こぶし」を限りなく消し去ることも彼女には簡単にできると思いますが、それではあまたのポップス歌手のひとりになるだけです。彼女の立ち位置は出自である既成「演歌」でもなく、といって既成のポップスでもない独自の道を目指すところにたどりついたところではないでしょうか。実際このアルバムを何度も聞いているうちに、あの美空ひばりがたどりついた地点に島津亜矢が立っていることを強く感じるのです。
 彼女に最も足らないものは何でしょうか。それは歌です。彼女が歌うニューポップス、彼女が歌う新生演歌がまだないのです。彼女が一生けん命に努力している間、演歌はエンドレステープのように手あかに汚れた歌を増産し、ポップスには直接的な恋に心をちぢませる切ない歌があふれ、何万人という動員を誇るライブはあっても時代のかなしみを歌い、同時代の航行を共にできる「大きな歌」はなくなってしまいました。
 アルバム「SINGER5」はそれでもまだ時代の輝きをもっていたかつてのヒットソングに彩られ、島津亜矢は今ある精いっぱいの歌心で見事に歌っているものの、実は「歌の危機」、「歌の崩壊」を感じさせる深いアルバムでもあるとわたしは思います。
 個別には「First Love」に宇多田ヒカルとの共振を感じる他、「Forever Love」、「リバーサイドホテル」、「誕生」が好きですが、一方で「DESIRE-情熱-」は少し違い、島津亜矢はどうも中森明菜の歌の深淵にはまだ届いていない気がしました。
 次回はそれらの個別の歌について書いてみようと思います。

島津亜矢「First Love」 (2018.12.30 OA) 第60回 輝く!日本レコード大賞 企画賞アルバム「SINGER 5」

島津亜矢「誕生」 中島みゆきリスペクトライブ歌縁2018・東京公演



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2019.01.05 Sat 島津亜矢の「時代」は大みそかの夜、誰に届いたのか。NHK紅白歌合戦



今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて
もう二度と笑顔には なれそうもないけど

 昨年のNHK「紅白歌合戦」で島津亜矢が「時代」を歌いました。
 YOSHIKIとサラ・ブライトマンのステージの次にNHKの音楽トーク番組『おげんさんといっしょ』の星野源ファミリーが入ったおかげで、ワンステップ置いた落ち着いた舞台が用意されました。
 アカペラからピアノ、それからフル演奏と、この曲にぴったりの伴奏で始まった彼女の歌唱は、それまでのバラエティ色にあふれたにぎやかな舞台とは一線を画し、多くの人びとの心に残ったものと思います。
 演歌歌手でありながらポップスを見事に歌い、その歌唱力と声量に高い評価が集まったこともまた事実でしょう。しかしながら、そんなあたりまえの評価にとどまらない彼女の歌唱に、涙を流したひとも少なからずいたはずです。わたしもそのひとりでした。
 わたしは紅白に特別な想いはないのですが、根っからのテレビ好きのわたしにはジャンルを越えてその年に流行った歌や人気の歌手を一堂に観ることができる紅白は世相を映し出す鏡のようで、それなりに楽しむことができるのです。
 ずいぶん前、イッセー尾形が「紅白歌合戦」という一人芝居をしていました。
 昔はちゃぶ台に家族全員が座り、紅白歌合戦を見ていたのが、今は父親一人がちゃぶ台に座り、「おーい、誰それが出てるぞ」とか、妻や子供たちに話しかけても、誰も聞いてくれないしテレビを見ない。紅白がすでに国民的番組ではなくなったことと、父親が家の中で居場所がないことが重なり、笑いながらも身につまされる芝居だったように記憶しています。
 時代はそこからさらに進み、すでに年末の音楽バラエティ番組となった紅白の事情は少し変わりました。若いJポップの歌手が武道館どころか東京ドームを満席にできるエンタテイメント業界が闊歩し、そのライブシーンから一部のファンの熱烈な支持を獲得できる時代になりました。紅白もまたその流れに沿った出演者が登場するようになり、若いひとにほとんど見向きもされなくなった演歌歌手の出番はどんどん少なくなっていきました。
 その結果、イッセー尾形の芝居に登場した父親のような中高年者は演歌歌手が出なくなったことに愚痴をこぼし、中には紅白をまったく見なくなったひとも増えていることでしょう。
 しかしながら、国民的番組ではなくなったとはいえ、大みそかの夜に働きながらさまざまな想いを抱えてラジオに耳を傾けるひとや、非正規雇用でいつ追い出されるかもしれない寮で焼酎などを飲みながらテレビを見ているひと、病院で年を越さなければならないひとなど、自分の一年をふりかえり、親や子供や兄弟や恋人やともだちを想いながら、必死に「自分はここにいる」と心で叫びながら紅白を観たり聴いたりしているひとたちがいることもまた事実ではないでしょうか。
 何度か書いていますが、わたしが島津亜矢のファンになったきっかけは、10年前に亡くなった親友・Kさんが「島津亜矢のCDを買ってきてくれ」といった一言でした。高校からの友だちで、いっしょに暮らしたり同じ会社で働いたこともあるKさんは、わたしが豊能障害者労働センターでお金稼ぎに悪戦苦闘していたころ、クリスチャンだったことからわたしも働いていた会社にベトナム難民を受け入れ、住まいを用意し、プライベートでもいろいろなサポートをしていました。その縁で会社がベトナムに子会社をつくることになり、Kさんは社長として長い年月単身赴任でベトナムに暮らしていました。
 そんな彼がガンを患い、日本に帰国し入院することになりました。わたしは青春時代、共にビートルズのファンだった彼から演歌歌手・島津亜矢のCDを頼まれるとは思いもしませんでした。祖国から遠くはなれたベトナムの地でNHKの衛星放送から流れる島津亜矢の演歌は、彼の長い単身赴任をささえ、心を奮い立たせるものだったとわたしは思います。
 今回の紅白で島津亜矢が歌った「時代」は中島みゆきの1975年の楽曲で、個人の人生の様々な悲しみや痛みを引き起こすその時代の理不尽さを鋭いナイフでえぐる彼女の初期の名曲の一つです。かつて阿久悠が時代背景から個人の痛みを歌ったあざとらしさもなく、一方でその後のJポップのバラードのように個人の事情が個人で自己完結してしまうものでもない、その意味ではニューミュージックという称号にふさわしい楽曲です。
 この頃の楽曲は「暗い」とよく言われたものですがその後、中島みゆきはドラマの主題歌などポップス路線でその暗さをエンターテイメント化することで大化けし、幅広くたくさんのひとたちに受け入れられるヒットメーカーになっていきました。
 ともあれ「時代」は静かな曲でありながら、とても深い悲しみを内包していて、そのかなしみの深さを癒すのは自分でも他者でもなく、たとえばらせん階段のてっぺんから現在を眺望し、立ち止まったまま動けない心に「だいじょうぶ」と慰める未来の自分という他者を生み出す他にないのです。青春とは未来の他者としての自分を隠す、時のマジックなのかも知れません。
 わたしは世間でいうところの「平成最後の紅白」には興味がありませんが、どうしてもお祭り騒ぎの演出にならざるを得ない長時間の番組の中で、島津亜矢の「時代」を前半の紅組の終わりとした構成担当者の意図通り、彼女の歌は会場全体を鎮め、ひとつの時代の終焉をわたしたちに感じさせてくれました。一部に力が入りすぎという意見もありましたが、わたしはそうは思いません。
 たしかに今まで、島津亜矢は中島みゆきの歌になると力が入りすぎることもありましたが、今回の歌唱はそうではなく、前半のバラエティー色の強いステージが続く中で、心のこもった歌を必死に聴く人たちに届くようにと、震える心で彼女は歌ったのだと思います。それはそのまま、ソングライター・中島みゆきの心だとわたしは思うのです。
 こんなに思いを込めたパフォーマンスを成し遂げた島津亜矢は、今年からどんな歌を歌えばいいのでしょうか。ほんとうに今回の歌唱曲「時代」をはじめ、紅白でもカバー曲を歌わざるを得ない島津亜矢を、ソングライターの方々は放置していいのでしょうか。
 わたしは彼女を正しく評価すれば、演歌であろうとポップスであろうと、歌唱力と声量はもちろんのこと、その先にある「歌を詠み、歌を届け、歌を残す」未曽有の才能と努力に応えられる魂のこもった歌、演歌の王道のひとつとされる教訓ものではなく、ひとりの女性の繊細な心、同時代を生きるひとびとの傷つきやすい心、怒りや悲しみを希望へと変える切ない心を時にはなにげなく、時にはアニメソングのように大時代的に、立ち止まらない彼女に応えられる歌をつくっていただきたいと思うのです。
 そうでなければ、あまりにも島津亜矢がかわいそうで気の毒で、涙が出てしまいます。

中島みゆき「時代」(ライヴ2010~11・東京国際フォーラムAより)

島津亜矢「時代」( 2013)
この歌唱で十分なのですが、今回の紅白の歌唱はさらに奥行きのある深さと、思いつめたような心の震えが会場全体に広がる、特別な歌になっていたと思います。

島津亜矢「誕生」(詞・曲:中島みゆき/中島みゆきリスペクトライブ歌縁2018・東京公演)
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