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2017.06.14 Wed 島津亜矢「いのちのバトン」と「夜がわらっている」

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 新歌舞伎座の感想の続きを書く前に、11日の「NHKのど自慢」と13日のBS-TBSの「名曲アルバム」に出演した島津亜矢について、少し書いてみようと思います。
 たしかに新歌舞伎座公演の頃から喉の調子があまりよくないと本人もブログに書いていることもあり、様々な感想が寄せられています。いつもより声量もなく、また少し緩慢な様子だったとか、周りに気を使って抑えめにしたとか、新曲「心」が発売されることで、キャンペーンとしてはこの歌と別れることへの感傷など…。
 わたしはここ最近まで音楽番組から遠ざかっていたことや、新歌舞伎座の時もすこぶる音響がよくなかった3階席でしたのであまりそのあたりの事情には疎く、反対にかなり素晴らしい歌唱だったと思っています。
 彼女の若い頃は聴く者が聴き入り、沈黙してしまうほどの圧倒的な声量と歌唱力が魅力でしたし、それを否定するつもりはありせんが、大人の女性となり数々のステージと座長公演を経験し16歳からの歌の道を経た今、島津亜矢の歌は大きく進化していることをあらためて実感します。
 それは、たとえばたくさんのひとに届く歌を歌いあげるのではなく、たくさんのなかのひとりひとりに届く歌を歌い残すことができるようになったことです。生身の人間ですから体調や声の調子が悪い時も必ずあり、そんなときでも最高のパフォーマンスをお客さんに届けようとする姿勢は若い頃も今も変わりませんが、ライブの時はもとより音楽番組に出演していても彼女は観客のひとりひとり、視聴者のひとりひとりに語りかけていると感じます。それは彼女の視線だけでなく、歌う言葉もしぐさも、まさにひとりひとりと握手し、ひとりひとりの顔を見ているように錯覚してしまいます。
 何度も書いてきましたが、座長公演の演劇体験によってもともと持っていた彼女の感性がよりとぎすまされたのだと思います。それまで高い評価を得てきた「名作歌謡劇場」がモノローグから相手が見えるダイアローグへと大きく豊かな表現に変わったように…。
 ともあれ様々な事情が本当であったとしても、それよりもわたしは今まで新曲として少し力が入るきらいがあった「いのちのバトン」がメリハリの利いた物語となり、親が子に託す願いがしみじみと伝わる歌唱だったと思います。
 今年は「いのちのバトン」に引き続き、「心」を発売することになりましたが、「いのちのバトン」がポップス調なので本来の演歌路線の新曲を出すことになったともいわれています。わたしは島津亜矢の露出が増えてきた中で、このチームがポジティブにもう一段の勝負をかけたのだと思っています。そもそも、「いのちのバトン」はわたしも当初ポップスと思っていましたが、よく聴きこむと演歌そのものなのではないでしょうか。
 来年のことはわかりませんが、できれば年の初めは本来の演歌・歌謡曲で、あと一枚を縁ができた中島みゆきや桑田佳祐、今活動休止中の水野良樹、あるいは以前に提供したもらった小椋佳に「山河」のような大きな曲か、「函館山から」のような珠玉の抒情歌を提供してもらい、発表してくれたらいいなと思います。

 13日のBS-TBSの「名曲アルバム」は時々見るのですが、BS日テレの「心の歌」のフォレスタとちがって、大学のサークルもふくめてアマチュアの合唱団がいろいろなジャンルの歌を歌います。そして、合唱団に交じってプロの歌手が何曲か歌うのですが、今回は星野哲郎特集で、島津亜矢と天童よしみがサプライズ出演し、島津亜矢は「感謝状~母へのメッセージ」と、「夜が笑ってる」を、天童よしみが「風雪ながれ旅」を歌いました。
 わたしの子どもが大学の時に合唱サークルに入っていて、定期演奏会に何度か行くことがあり、合唱の素晴らしさをはじめて知りました。
 この番組のように演歌を合唱するというのはめったにありませんが、不思議にどの曲も合唱曲として聴くことができました。とくに島津亜矢の「感謝状~母へのメッセージ」は、いつも聴き慣れているアレンジとちがい、合唱曲ならではのアレンジがかえって弦哲也の曲を引き立たせていましたし、何よりもポップスなどで培った島津亜矢のナチュラルな歌唱と稀有の声質が合唱とよくマッチしていて、いつもはべたに聴こえる星野哲郎の歌詞がより深く心に届きました。
 2曲目の「夜がわらっている」は「君の名は」、「黒百合の歌」が空前のヒット曲となった織井茂子の1958年の楽曲です。この時代の歌謡曲は歌唱力と有り余る声量で人気を博した歌手がたくさんいて、その中でも織井茂子の圧倒的な歌唱力は子どもながらによく覚えています。島津亜矢の「黒百合の歌」は貴重な映像が残っていて、その熱唱がたくさんの人々に驚きと感動を与えてきたことを物語っています。
  「夜がわらっている」には、わたしは少し違和感を持ちました。
 島津亜矢のカバー歌唱の特徴は、たとえばオリジナル歌手がペースメーカーとして並走するマラソンランナーのように、リスペクトをこめて最初はオリジナル歌手がその楽曲を受け取った時と同じところにたどり着きます。そこから先、オリジナル歌手がレースを離れた後にはじめて彼女独自の歌の解釈で、その楽曲が生まれた時代の風景とその時代の人々が抱きしめた夢までも解きほぐすように歌い、オリジナルを損なわないまま現代の歌としてよみがえるのです。
 もちろん、その歌い方だけがベストではなく、さまざまなアプローチでオリジナルをよみがえらせるカバーの達人と言われる歌い手さんがたくさんいます。
 その中でも、ちあきなおみのカバーは絶品で、彼女は最初からオリジナルとはかけ離れたところから独自の解釈と表現力で、オリジナルの歌が生まれたところに到達しています。
 今回の「夜がわらっている」は、どちらかといえばちあきなおみのアプローチに似ているなと思っていたところ、ちあきなおみの「夜がわらっている」を聞くと、かなりよく似た歌になっていました。
 島津亜矢にしてもひとつのアプローチに限ることもなく、「夜はわらっている」の歌唱はちあきなおみや浅川マキの表現力や歌の解釈を学ぶきっかけになるのかも知れません。
 それにしても「男はつらいよ」や「さようならは五つのひらがな」、「黄色いさくらんぼ」、「風雪ながれ旅」など星野哲郎の歌を合唱で聴くと、歌詞に込められた繊細な心情が見事によみがえりました。

島津亜矢「夜がわらっている

織井茂子「夜がわらっている」

ちあきなおみ「夜がわらってる」
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2017.06.08 Thu 流行り歌より聴きたい歌 新歌舞伎座・島津亜矢コンサート2017

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 6月6日、「島津亜矢コンサート2017」を観に、大阪新歌舞伎座に行きました。
 昨年秋のフェスティバルホール以来のライブで、なぜかとても懐かしく感じました。今までも年に2回程度しか行ってなかったので、懐かしく感じたのは月日のせいではなく、この半年余りの間地域のイベントと友部正人コンサートの準備で音楽番組も見逃してしまうほど、島津亜矢に限らず友部正人以外の音楽から少し離れていたことを告白しなければなりません。
 実際のところ、演歌(今の演歌)があまり好きではないわたしが島津亜矢のファンになったのは、2009年、仕事の関係でベトナムでの暮らしが長かったわたしの親友・Kさんが肺がんとわかり、治療に専念するために大阪の病院に入院したのがきっかけでした。
 病室で聴くCDを届けようと、Jポップか若い頃に熱中したビートルズかクイーンにしようかと本人にたずねると、「島津亜矢」を持ってきてくれと言いました。
 妻の母親と同居するようになって、今までミュージックステーションしか観なかった私は演歌・歌謡曲番組の「歌謡コンサート」や「BS日本のうた」を観るようになり、島津亜矢もこれらの番組で知りました。当初は声量があり元気のいい歌手というイメージだけで、ほとんど彼女の歌が心に届くことはありませんでした。
 Kさんに「島津亜矢」と言われた時、病に侵され病室で死への恐怖に耐えながらベッドに横たわる彼の姿と、遠く離れたベトナムに届くNHKの衛星放送で島津亜矢を聴く彼の姿が重なり、わたしは涙を隠しました。
 「死ぬのが悲しいのは、自分の愛する家族や友人と別れなければならないからや」と、専門病棟の談話室でぽつりと言った彼の言葉が、わたしとの最後の言葉でした。

 彼の病室に届ける島津亜矢の何枚かのベストアルバムを聴いているうちに、彼がなぜ島津亜矢を好きになったのか、わかったような気がしました。
わたしは歌には「聞こえてくる歌」と「聴きたい歌」のふたつの種類があると思います。
 海外勤務で、またそんなにネットにくわしくはない彼にとって、「歌謡コンサート」は日本の流行歌の数少ない情報源だったのでしょう。日本国内では流行り歌を紹介したり人気歌手が出演する代表的な番組とは言い難く、どちらかと言えば時代錯誤ともいえるこの番組をささやかな楽しみにしているひとは、彼のみならず海外で暮らす日本人の中に少なからずいるのでしょう。
 日本の歌謡曲番組を通して、懐かしい故郷の風景や日本の四季や日本に住む人々とつながろうとする気持ちは、阿久悠の歌にあるように「流行り歌などなくていい」のです。
 海を隔てた彼の遠い心にまで届く歌は、かつての日本の路地裏に流れる流行り歌のような「聞こえる歌」ではなく、その歌の心とつながり、歌を必要とする心に届く「聴きたい歌」だったのではないでしょうか。そして、島津亜矢の歌はそんな彼の心の辺境に届いたのだと思います。
 島津亜矢の歌と出会った事情から、わたしは彼女をどうしても演歌歌手という枠の中でのみとらえることができませんでした。また、わたしの欲求にこたえてくれるように、彼女は演歌という極北の地からワールドミュージックの海へと、たくさんの冒険をしてきました。Jポップをはじめ、ジャズやブルースやシャンソンなど、バラードに偏りすぎる傾向はありますが、演歌歌手の常識を超えた歌唱が年を追うごとに各方面から絶賛されるようなりました。今回のコンサートでもホイットニー・ヒューストンの「I Will Always Love You」を圧巻の歌唱力で歌い上げ、会場を魅了しました。
 しかしながらわたしは、島津亜矢の本当のすごさはジャンルにかかわらず、また歌唱力や豊かな声質と声量にのみあるのではなく、歌をほんとうに必要とする心に届く「聴きたい歌」を歌うところにあると思っています。ですから、どんな歌も彼女にとっては、大げさな言い方ですが人類の長い歴史の中でひとが抑圧され、時には歌うことを押し付けられ、時には歌うことを禁じられながら、それでも歌いたい、届けたい、伝えたいと願う大切なたからものなのだと思います。彼女の歌手人生を振り返ればそのたからものをいとおしみ、自分の心と身体をありったけ震わせながら歌いつづけた31年だったと思うのです。
 ここ最近、時代が彼女に追いつくようにあきらかに認知度も上がっていると思うのですが、どちらかといえばポップス歌手を凌駕する圧倒的な歌唱力が評価されるようになったと感じます。
 既成の演歌枠でも少しは動きがありますが全体としては相変わらずで、ほとんど音楽的な冒険とは程遠い鬱屈したプロデュースと手垢のついた構成演出で、少ない演歌ファンを取り逃がさないことに汲汲としていると言えば反論が来るでしょうか。
島津亜矢がのびのびとその稀有の才能を生かし、同時代を生きるたくさんの人々のディーバになることを夢見ると、どうしても演歌以外に活路を見出したいと思ってしまいます。
 なぜなら、島津亜矢の存在を知らなかった人が彼女のポップスを聴けば、圧倒的に人口の多いポップスファンを魅了することは間違いなく、事実そのようにしてポップスファンでありながら彼女のファンになる人が増えてきていると実感できるからです。
 しかしながら、その一方でかつては一世を風靡した演歌・歌謡曲がこのまま滅びてしまっていいのかと思う気持ちもまた、膨らんでくるのです。
 わたしは島津亜矢を知ってから美空ひばりをきちんと聴くようになりましたが、美空ひばりは歌手ではありましたが例外を除いて歌作りはしませんでした。しかしながら、彼女の歌手としての途方もない才能が同時代の歌作りの達人を刺激し、彼女が歌うことで完成する冒険を続けました。その結果、亡くなってもなお美空ひばりという巨大なプロジェクトが現役の歌手たちによって進化しているといっていいでしょう。
 わたしは島津亜矢が、とても不幸な形でそれを受け継ぐ数少ない歌手の一人だと思うのです。美空ひばりの場合はレコードのヒットによってスターであり続けましたが、島津亜矢の場合はほとんど絶滅種といわれる演歌・歌謡曲のジャンルでいわゆるメガヒットが出る可能性は少なく、といってこじんまりとその世界で安住するには才能が大きすぎて、いまはまだ歌のつくり手がどんな曲を提供したらいいのかわからないといったところだと思います。その生みの苦しみは、まだ当分つづくことでしょう。
 ですから、島津亜矢はまだ姿かたちが見えない「新しい演歌」、「島津演歌」をけん引するディーバとしての行方を定める方が本当なのかも知れないと思う気持ちもあるのです。
 そんなことを想いながら今回のコンサートに臨んだのですが、なんと島津亜矢は「初志」というタイトルをひっさげ、かたくななまでに16歳の少女から46歳の女性になるまでの間、恩師・星野哲郎の薫陶よろしく彼女が何度も振り返り修正して来た道にまた、戻ってきたのでした。これだけ幅広いレンジを持ち、歌唱力を越えた豊かな表現力を身に着け進化し続けながら、「演歌桜」から「なみだ船」、そしてかつて演歌少女として歌った「出世坂」を、まったく違った解釈と表現による「新しい演歌」としてよみがえらせたのでした。
 この時点で胸に突き上がるものがありましたが、今回のコンサートはとても地味なステージでしたが、31年目の島津亜矢がこれからの歩く道を決めた静かな覚悟と潔さにあふれたコンサートで、わたしにとって2011年2月にはじめて行ったコンサートとともに忘れられない思い出になることでしょう。
 あと少し、このコンサートについて書こうと思います。(つづく)

島津亜矢「出世坂」(16才)
演歌の天才少女といわれた16歳の島津亜矢はすでに演歌・歌謡曲が時代の袋小路へと追いやられていた頃に、その荒波に抗うようにひたむきに「演歌」を歌いつづけました。しかしながら、無理もありませんがそれは演歌のエチュードでしかなかったのかも知れません。

島津亜矢「出世坂」(2014年)
2014年、成熟した女性となった彼女が歌う「出世坂」はまったくちがう歌になっていました。もちろん、16歳の歌がよいと思う気持ちもありますが、彼女の場合、ナツメロになるのではなく、まったく新しい歌として今の彼女が獲得している全ての表現力でこの歌を歌っています。そのため、その頃でも時代錯誤と言われたであろう「出世」という言葉が、いまの方がまったく違和感がないとわたしは思います。星野哲郎がこの歌を「流行り歌」として提供したのではなく、島津亜矢に伝えたかった「歌のバトン」をこの歌に込めたのだと思うのです。

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2017.05.25 Thu わたしの「時には母のない子のように」

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友部正人「愛について」
 この歌を聴いていて、わたしは子どもの頃のある夜を思い出しました。わたしは母におんぶされているのでした。「なんでお店の物を盗むんや、自分の店の物でも盗んだら、おまわりさんのところにいますぐ行くよ」。
 わたしはその頃、友だちに仲良くしてもらうために、母が朝早くから深夜まで営んでいた一膳飯屋の店先のガムとかをたくさん盗んでは配っていたのでした。
 父親がいなくて、どもりの子どもがいじめられないための切ない行動でしたが、そんなことを母には決して言えませんでした。
 涙を汚い手でふきながら、それでもめったにおんぶなんかしてもらえなかったわたしは、母の震えるうなじとあたたかい背中にほほをぴったり引っ付けていました。

島津亜矢(カルメン・マキ)「時に母のない子のように」
 わたしは家を早く出たいと、高校生のころから思っていました。母と兄とわたしの過ごした子ども時代からさよならをしたかったのでした。36才でわたしを生んだ母も、たったふたりきりの兄弟の兄もけっしてきらいではなかったし、むしろ子どもの頃から世間になじまないわたしをとても心配してくれていました。
 でもわたしは、とにかくこの家から離れたかったのでした。父親がどんなひとなのかもわからない愛人の子。そのことでわたしたち子どもがひけめを感じないように父親と別れ、養育費ももらわず朝から深夜まで一膳飯屋をしてわたしたちを育ててくれた母。
 どれだけ感謝してもしきれない、いとおしい母のはずなのに、わがままで自分勝手とわかっているのに、わたしはそのことすべてからさよならをしたかったのでした。
 わたしは高校卒業を待ってすぐ、ともだちをたよる形で家を出ました。母は自立する息子のためにふとんをいっしょうけんめいつくってくれました。

島津亜矢「母ごころ宅急便」
 部屋の中はまだ暖房の残りで暖かそうでした。外の風は冷たく、窓ガラスは外気との温度差で曇っていて、部屋の中は楕円形にくりぬかれていました。
 その部屋は友だちの部屋で、その日わたしの数少ない友だちが5、6人、わたしを待っていてくれるはずでした。
 1969年の正月、わたしは22才になっていました。
わたしは風邪をこじらせ、年末から実家に帰っていて、正月に友だちの家に行く約束をしていたのでした。
 どれだけ待っていたことでしょう。友だちはいっこうに帰って来ませんでした。この日はとくに寒く、まして悪い咳が止まらず熱もあるわたしには、その寒さに耐える時間がそう長くあるわけではありません。
「血のつながった親兄弟と、あかの他人のともだちとどっちが大事やねん。どっちがお前を大切にしてるねん」。
 寝間から起きようとするわたしの体を羽交い絞めにおさえて叫んだ母と兄。
 泣きながら「ともだちや」と叫ぶと、「勝手にせえ、お前なんかもう知るか」と言った兄の声を背中に受けて家を飛び出してきたわたしは、いまさら実家に戻るわけにはいかず、長い間留守にしていた吹田のアパートに帰りました。
近所で買ってきたパンと牛乳をお腹に入れて、ぼくは布団を引いてもぐりこみました。暖房がなく、靴下を両手にはめて眠りました。冷たかった。悲しかった…。
その年の1月18日、わたしをかろうじて社会につなぎとめていたラジオからは、東大構内の安田講堂に立てこもった全学共闘会議派学生を排除しようと、機動隊によるバリケードの撤去が開始されたことを伝えていました。

島津亜矢「かあちゃん」
 1997年7月13日の早朝、母の病室から見える箕面の町は山の緑がきらきらかがやいていました。
母は一瞬、わたしの顔を見つめ、何か言いたそうな表情をしたと思うと、スーッと生きる気配を消しました。そして生きていた間の苦悩に満ちた年老いた表情が一瞬に消え、澱んだ瞳は碧く透き通りました。
 シングルマザーとしてわたしと兄を育てるためだけに生きてきたといえる30代から86歳までの彼女の人生は、私の想像もできない人生だったことでしょう。
 子どものわたしが言うのもおかしいですが、美人だった母に言い寄る男も、また好きだった男も何人かはいたはずです。
 そういえばタンスの奥にひそやかに一冊のポルノ雑誌をかくしているのを発見した時、子ども心にわたしのおよばない女性としての一面を垣間見たこともありました。
 そんな母が、わたしと兄を育てるためだけに生きぬいたことに、時がたつほどにどれほど感謝しても感謝しきれない母の愛を感じ、涙がこぼれます。しかしながらそれと同じ重さで、彼女の人生はほんとうにそれでよかったのかと考えてしまうのです。
 わたしは不憫な子でも、母が苦労してよかった思える親孝行の息子でもありませんでした。

島津亜矢「いのちのバトン」
 今年の7月、わたしは70才になります。
 先人が言う「人生はあっという間」という言葉が身に染みる今日この頃です。子どもの頃や青春時代にあこがれ、心をときめかせてくれた歌手や詩人、思想家などが次々とこの世を去っていき、ああ、わたしが生きてきた時代そのものが去っていくのだと痛感する今日この頃です。
 わたしは異性愛を絶対化し、親子の愛、母の愛を絶対化する社会の在り方に疑問を持っています。
 それがそのことだけにとどまらず、今ある国家や社会や世間が認める生き方を押し付けられ、またそれを他者に押し付けることに発展していくことに、とても危ういものを感じます。
 人類の長い歴史をふりかえれば、異端とされるものが次の時代をつくってきたことを想い起こしたいのです。
 だからこそ、「いのちのバトン」は、親や大人の心情や道徳律を押し付けることではなく、新しい時代をつくる子どもや孫の世代に希望をたくすことなのだと思います。

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2017.05.23 Tue 新しい日本のソウル・ミュージック 島津亜矢「時には母のない子のように」

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 ここ最近、地域のイベント「ピースマーケット・のせ」と友部正人コンサートに必死で、島津亜矢の記事が十分に書けませんでした。その間、島津亜矢はNHKをはじめとするテレビ番組で刺激的な歌を熱唱していて、今でも私の番組録画にストックされたままです。
 イベントも終わりようやく落ち着いてきたのですが、友部正人の半世紀におよぶ歌の旅を追走しているうちに虜になってしまい、なかなか彼の麻薬のような歌の世界から抜け出せないでいます。
 わたしは島津亜矢にめざめ、美空ひばりから、まだ記事を書けていないのですが高橋優、SEKAI NO OWARI、エレファントカシマシなどのポップス、果てはジャズやブルース、ロックに至る音楽の荒野を広げてきたのですが、友部正人はその誰ともちがう荒野を孤高に旅してきたひとで、ある意味島津亜矢とはもっとも違う道のりを歩んできた人です。
 友部正人のファンからも島津亜矢のファンからも怒られることを覚悟でいえば、もし人類が誕生して以来、私はここにいるというつぶやきや悲鳴から、それを受け取る誰かが一人二人と現れて歌が生まれたのだとすれば、友部正人の歌の歌詞にあるように「歌は歌えば詩になって行き」、「君が歌うその歌は世界中の街角で朝になる」のだと思います。
 友部正人が歌の生まれる瞬間を旅し続けるシンガー・ソングライターなら、島津亜矢は歌の生まれる瞬間へと立ち戻り、歌そのものが持つ記憶を時代の共有財産としてわたしたちに届けてくれる稀有なボーカリストで、二人とも世界に広がる荒野をすすむ孤高の旅人であり続けることでしょう。

 今回は先日島津亜矢がNHKの「うたコン」で熱唱した「時には母のない子のように」について書きたいと思います。実はこの放送があった5月16日の夜、わたしは友部正人コンサートの後始末で見ることができず、ユーチューブに上げてくれるファンの方の録画を見ました。
 既に数多くの方々が報告されていますが、この数年間の島津亜矢のカバー曲にとどまらず、もしかするとオリジナルの歌唱を含めても最高の歌唱ではないかと思います。
 「時には母のない子のように」は1969年に発表された歌ですから、島津亜矢はまだ生まれていません。ですからこの歌をカバーすることになれば歌詞と楽譜とオリジナル歌手のカルメン・マキの歌唱を研究するところから始めることになるでしょう。
 すでに何人かの歌唱力のある歌い手さんがこの歌をカバーしていますが、どのカバーも当時17歳だったカルメン・マキが無表情で歌う暗い歌という印象をなぞり、少し変わった歌謡曲という範疇で歌われているようです。
 しかしながら、島津亜矢はまったくちがう歌唱でこの歌を私たちに届けてくれました。それは単に明るく歌うことではなく、1969年という彼女自身が生まれる前の激動の時代につくられた歌が持つ記憶に導かれ、半世紀後の今、21世紀の日本のソウル・ミュージックとしてよみがえらせたのでした。
 そしてこの歌が歌謡曲という体裁をつくろいながら、あらためて黒人霊歌をルーツとするソウル・ミュージックであったことを教えてくれたのでした。
 島津亜矢が古い歌をカバーする時に懐メロにならないのは、先述したように歌には歌そのものが持つ記憶がいくつも隠れていることを知っていて、その記憶のひとつひとつを解きほぐし、歌の生まれた時代をよみがえらせることができるからです。そして、今回歌った「時には母のない子のように」は、最高のパフォーマンスでそれを成し遂げた歌唱であったと確信します。

 「時には母のない子のように」は、寺山修司が作詞を手がけた初期のいくつかの歌の中でも大ヒットした曲で、カルメン・マキを一躍有名にした他、1967年に結成した劇団・天井桟敷の存在も広く世に知られるきっかけにもなりました。
 寺山修司はその著書で美空ひばりや畠山みどりなど、数多くの歌手を取り上げています。70年安保闘争の主軸の一つだった大学生の学生運動よりも、彼は集団就職で地方から東京などの都会にやってきた若年労働者やフリーター、ヒッピーといわれる若者など、社会の底辺でうごめく若者たちによる「もうひとつの革命」を夢見ていたのでした。
 そして当時発禁となった「家出のススメ」を読んで寺山を頼ってきた若者たちの活動の場として劇団をつくり、その劇団の資金作りのために次から次へと本を出版したり映画の脚本を書いたりしていました。寺山修司の本は少なからず当時の若者たちに圧倒的な支持を得ていました。私もまた、その中の一人でした。
 彼のアカデミックなものへの攻撃は当時の現代詩にもおよび、書斎で書く詩よりも競馬の1レース分の長さの歌謡曲の方が、現代を生きるたくさんの人々に生きる勇気を与えると主張し、現代詩人よりも歌謡曲詩人・星野哲郎を高く評価していました。
「時に母のない子のように」は、そんな寺山修司が自らの作詞とプロデュースで歌謡曲の世界に挑んだ最初の試みといってもいいでしょう。
 この歌は母の愛を賛美する歌ではなく、母親が子どもを精神的に拘束し、近親相姦に近い背徳と所有欲から逃れたい願望が歌われています。それはまた親子の愛で若者を手なづけ、国家や大人たちの都合のよい人間に調教しようとする社会への反逆でもありました。
 当時この歌が実際に親のいない子どもたちを傷つけると批判がありましたが、その批判の根拠となる「両親がいて子どもがいる家族愛」というスタンダードな社会規範こそが、そうでない子どもを差別し傷つけていると考えていたわけでしょう。
 それよりも、この歌が黒人霊歌「Sometimes I feel like a motherless child」にインスパイヤされてつくられていて、奴隷としてアメリカに連れて来られ、二度と母親に会うこともなく過酷な苦役と差別の中で「時には母のない子のように思う」と嘆く黒人奴隷のあきらめに似た嘆きを隠しています。いわば「時には母のない子のように」はそれ自体、世界の暗黒の歴史を記憶していて、寺山修司が日本の大衆音楽である歌謡曲の形を借りて世に送り出したソウル・ミュージックだったのではないでしょうか。
 島津亜矢がそんなことを思って歌ったのかといえば、そうではないでしょう。反対に「感謝状~母へのメッセージ」と同じように、「母のない子になったなら、誰にも愛を話せない」と歌うことで、母の愛を賛美する歌と思っていたのかもしれません。
 彼女の稀有の才能は、たとえ彼女がそう思っていたとしても、歌の持つ記憶が彼女にほんとうのことを伝えてくれるのでした。
 ちなみにわたしは、どちらかといえば「感謝状」は苦手な歌で、この歌に限らず母の愛や親子の情よりは、同じ星野哲郎でも「兄弟仁義」のような「友情」を歌った歌が好きなんですが…。
 島津亜矢に「時には母のない子のように」をうたうことを依頼した「うたコン」の制作チームに拍手を送りたいと思います。このチームの中にはこの歌が単に母の愛を賛美する歌ではなく黒人霊歌を本家どりする寺山修司の隠し玉であったことをよく知り、ソウル・ミュージックやリズム&ブルースを歌える島津亜矢に、「I Will Always Love You」の向こうを張る日本のソウルを歌ってもらいたいと思う人たちがいるのでしょう。
 この番組への批判が演歌ファンに多く、Jポップのファンはこの番組を見ない状況は、実は島津亜矢と彼女を長年ボーカリストとして高く評価してきたNHKの音楽番組制作チームにとっては絶好のチャンスだと思います。
 かつて「BSの女王」と言われたころとよく似ていて、バラエティ化した番組構成にかくれて、どんな音楽的冒険もできる環境にあると思います。美空ひばりに対してそうであったように、島津亜矢にどんな歌を歌わせるのかと心躍らせて企画を練るこのチームに乾杯です。

島津亜矢「時には母のない子のように」

カルメン・マキ「時には母のない子のように」

Odetta「 Sometimes I Feel Like a Motherless Child」

Janis Joplin「Summertime」
ジョージ・ガーシュウィンが1935年のオペラ『ポーギーとベス』のために作曲した「サマータイム」もまた、この黒人霊歌にインスパイアされてつくられました。
カルメン・マキはジャニス・ジョプリンを聴き衝撃を受け、ロックバンド「OZ」を結成し、数々の名演を残しました。2年前、天六の古書店で開かれたライブは総勢20人ぐらいのお客さんで、わたしは彼女と1メートルないぐらいの距離の席にいました。
素晴らしいライブで、寺山修司の呪縛から解放され、さまざまな音楽的冒険を経て今、寺山修司をこよなく愛する彼女が歌った「時には母のない子のように」は、本来のソウル・ミュージックに戻ったやさしさのあふれた歌になっていました。

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2017.04.14 Fri 島津亜矢・「明日にかける橋」と「いっぽんどっこの唄」

島津亜矢コンサート2016

 島津亜矢の音楽番組出演がつづくのと、それ以外のライブや活動記録と重なり、感想ブログが追いつかなくなり、いっそのこと飛ばしてしまってもいいかなとも思うのですが、それでも3月19日放送のNHKBSプレミアム「BS新日本のうた」のスペシャルステージでの「お吉」、「独楽」につづいて歌った「いっぽんどっこの歌」には格別の思い出があるため、おくればせながら書いてみることにしました。
 その間にも直近のNHK「うたコン」に島津亜矢が出演していたことを知らず、仕事をしていて見逃してしまい、録画もしていませんでした。ファンの方々の報告でサイモン&ガーファンクルの「明日にかける橋」を歌ったと聞き、残念に思っていたところ、最近はそれほどの縛りがないのか、ユーチューブに挙げている人のおかげで聴くことができました。彼女のブログによれば10日前にこの歌を歌ってほしいという要請があったということで、急仕込みとはいえ素晴らしい歌唱でしたが、もう少し歌いこめばこの歌の奥行きをとらえることができたのではないかと思いました。
 1970年に発表されたこの歌はポール・サイモンがゴスペルに影響を受けてつくった曲と言われていて、ちなみにこの曲に触発されたポール・マットニーが「レット・イット・ビー」をつくったと言われています。
 ベトナム戦争末期の反戦運動など激動のさ中、世界の人々が深く傷ついた時代、この曲にこめた祈りは、傷つき、損なわれてしまった時代そのものに捧げられていると思います。
 そして今、度重なる震災で日本社会そのものが損なわれ、シリアでは犠牲者のしかばねをどれだけ積み上げたら紛争とテロが収まるのか見当もつきません。さらに北朝鮮とアメリカの脅し合戦がエスカレートし、現実感のないまま巻き添えになる不安から、いわゆる「共謀罪」や憲法「改正」をわたしたちの社会が求めてしまう危うさを感じます。
 そんな時代だからこそ、この番組の制作チームは(おそらくいつも)島津亜矢に、傷ついた世界の人々、彼女の出身である熊本や東日本の人々、失われた無数のいのちへの鎮魂と祈りをこめたたましいの歌を歌ってほしいと願ったのだと思います。
 そこまでの思いにこたえるには、やはり急ごしらえの感はぬぐえないのもまた真実で、島津亜矢だからこそこの歌にもっとたましいを注入し、歌を必要とする世界の人々に届く歌として、これからも歌ってほしいと思うのです。
そしていつか、悲鳴を上げている世界と人々の心を癒す「大きな歌」をオリジナルで歌うために、もっといろいろな歌のつくり手が彼女の存在を知る機会が増えればと思います。
 いろいろ多方面から不満が聞こえる「うたコン」ですが、島津亜矢にとってはそんなチャンスと出会える大切な番組ではないでしょうか。

 さて、「いっぽんどっこの歌」ですが、島津亜矢にとって北島三郎の歌を歌う以上に感慨深いものがあったのではないでしょうか。 というのも、この歌は水前寺清子と星野哲郎の深い絆から生まれ、星野哲郎の大きな冒険と「たたかい」から生まれた歌だからです。
 それというのも1963年、レコード業界に君臨する日本コロンビアから経営陣の一部やディレクター、作詞家の星野哲郎、作曲家の米山正夫らがクラウンレコードを設立し、歌手の北島三郎や水前寺清子が移籍するという「大事件」があったからです。
 この頃はレコード会社がほぼ歌謡界を支配していて、各レコード会社に作詞家、作曲家、歌手が専属にいて、その枠組みから外れるとほぼ活動できなかったようです。ですから、新しいレコード会社の設立には当然強力な妨害が入り、星野哲郎は畠山みどりもクラウンに移籍してほしいと思い、話が決まる前にコロンビアによって阻止されたいきさつがあるようです。
 そこでコロンビアで何度もレコーディングするも日の目を見なかった水前寺清子をクラウンに移籍させ、1964年、畠山みどりが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を「涙を抱いた渡り鳥」とタイトルを変更してデビュー曲としたのでした。
 星野哲郎にとってこの時代は大きな賭けに出た時で、何が何でもクラウンに移籍した歌手たちのためにヒット曲をつくらなければと特別な決意のもと、北島三郎の「兄弟仁義」をヒットさせ、1964年に水前寺清子の「涙を抱いた渡り鳥」をヒットさせます。
 この頃のクラウン専属のテレビ番組には北島三郎、水前寺清子の他、美樹克彦、笹みどりなどが出演していましたが、とにかく過剰なまでの思いと心意気があふれていて、それがまた歌をヒットさせていたのだと思います。
 後で知ったのですが、五木寛之の「艶歌」シリーズの小説の主人公「艶歌の竜」こと「高円寺竜三」のモデルとして知られる名ディレクター・馬渕 玄三もまたクラウン設立の立役者の一人で、テレビドラマ化され、演歌の竜を演じた芦田伸介が強く記憶に残っています。
 1966年の「いっぽんどっこの唄」は、デビュー曲のいきさつを離れ、水前寺清子自身の歌の道を決定づけた曲で、それはまた星野哲郎にとっても彼のライフワークのひとつとなった「援歌」(応援歌としての演歌)のジャンルを確立するきっかけになったのでした。
 「ぼろは着てても心の錦、どんな花よりきれいだぜ」…。最初の二行にその歌のすべてを語る巷の詩人・星野哲郎は、かつて「やるぞみておれ口には出さず」と畠山みどりに歌わせた心情をそのままより進化させ、高度経済成長のベルトコンベアからはずれ、時代の風潮にあらがう生き方もあることを水前寺清子に歌わせたのだと思います。それは実は今、わたしたちが直面している現実を予想したものだったのだと痛感します。
 そして1986年、すでにフリーの作詞家となっていた星野哲郎はひとりの少女に見果てぬ夢を見ます。かつて寺山修司が嫉妬した詩人・星野哲郎が日本的なるもの(こう書けば右翼とよく間違えられるのですが)、民謡などをたどり、世界の大地とつながる音楽のたましいから立ちのぼる歌、それを新しい演歌とよんでもいい「援歌」を、その少女・島津亜矢に託し、彼女のデビュー曲を「袴を履いた渡り鳥」としたのです。
 そのことを骨身にしみてわかっている島津亜矢にとって、水前寺清子は格別の存在なのだと思います。島津亜矢のすごさというか歌唱力というか類まれな才能が発揮できる歌は案外、一般的に名曲と言われる歌、歌のうまい人がそのうまさを披露するときによく歌われる歌ではなく、実は「いっぽんどっこの唄」のように、星野哲郎の心意気や願い、祈りがこめられた、世間でド演歌とされる歌の方にあるのかも知れません。
 最近の著しい進化途上の珠玉の歌唱はもちろんのこと、時代をいくつも越えて星野哲郎の、畠山みどりの、水前寺清子の、島津亜矢の、そして日本社会のおよそ60年の急流に流されずその底にずっと変わらずある「ささやかな希望」をかみしめる名唱でした。

島津亜矢「明日に架ける橋」

島津亜矢「いっぽんどっこの唄」

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