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2018.08.30 Thu 「ファイト!」は広島の木之下孝利さんの愛唱歌でした。中島みゆきと木之下孝利さんと島津亜矢

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そのひとの机はちゃぶ台より低く、荒野のように大きかった
別れの日にはじめて入った彼の部屋は
たたかうひとの夢とやさしさに満ち溢れていた
木之下さんと話す時、広島と箕面を結ぶ見えない地平線から
世界のざわめきが聞こえていた

 2000年11月5日の午後4時50分、広島県の尾道・三原で障害者解放運動に悪戦苦闘していた木之下孝利さんが亡くなりました。36歳でした。
 木之下さんとの出会いは阪神淡路大震災前の1994年ごろだったように思います。そのころ豊能障害者労働センターに在職していたわたしは、河野秀忠さんの障害児教育教材「あっ、そうかぁ」、「あっ、なぁんだ」を一緒に販売してくれる障害者のグループを訪ねて、長野、広島、福岡に行きました。
 広島には数回行きましたが、最初はボストンバッグぎしぎしに見本の本を詰め込み、木之下さんたちの活動拠点「うさぎとかめ保育園」に泊まらせていただきました。
 2度目の旅は箱型の車にどっさり本を積み、今はゆめ風基金の事務局長の八幡隆司さんと梶敏之さんと3人で日教組の教研集会に参加し、その後広島の障害者のグループを訪ねました。
 その教研集会の時、会場の最前列に陣取り、広島青い芝の会のメンバーとして論理明晰、弁舌たくみに「共に学ぶ教育」の実践現場の建前と本音を打破し、するどく糾弾していた渦中に、木之下孝利さんがいました。その激しい言葉の中には、現場の教員たちと共闘、支援する応援団としてかぎりないやさしさがあふれていました。
 集会の後、どこかの教会で集会の総括と交流会が行われ、その時も木之下さんは司会をしていました。青い芝の原則として総括(反省)の場には介護者をふくめて健全者は入れず、その場には梶さんひとりだけになりました。ドア越しに木之下さんが「今日ははるばる大阪から梶敏之さんが応援に駆けつけてくれました」と紹介してくれたのが聞こえてきました。
 そんな交流が何回かあり、阪神淡路大震災以後、河野さんの提案で豊能障害者労働センターの(当時の)若いスタッフ数人が木之下さんの運動に学ぼうと広島に行くことになりました。そのことがきっかけで、木之下さんと労働センターのスタッフとの交流が深まり、尾道に行ったり箕面に来てもらったりするようになりました。
 何度か箕面に来てもらった時、ほんとうにたくさんの話をしてくれました。全国的にIL運動(自立生活運動)が一気に広がり、木之下さんたちも「CILおのみち・障生連事業所」を立ち上げたその時に、一般的には「障害者作業所」としか見られなかった豊能障害者労働センターを障害者解放運動の精神的な盟友とみてくれたことは、わたしたちに勇気を与えてくれました。
 「先天性骨形成不全症」という障害を持って生まれ、子どもの頃は一家心中で親に殺される恐怖からいつもジャックナイフを隠していたこと、脳性まひではないため脳性まひの集団・青い芝からいつもバッシングをうけるところを松本孝信さんがかばってくれたこと、その松本さんが広島市で暮らしにくくなった時に尾道に来てもらったこと、結婚し同じ障害をもつ娘さんが生まれることをやめさせようとする医者とのせめぎあいと数々の逡巡、そしてあえて差別を覚悟で地域の学校に通わせ、学校や地域を変えようと足元からの運動を続けたことなど、ほんとうに親密な間柄でなくては話せないことをたくさん打ち明けてくれました。労働センターのスタッフとの交流はどんどん深まる中で、センターのスタッフの悩み事にも親身に相談にのったりしてくれたようです。
 木之下さんとの出会いから多くを学んだ豊能障害者労働センターがその後の東日本大震災をはじめとする数々の災害のたびに全国の障害者運動とつながって救援活動をつづけるようになったのも、木之下さんのおかげだと思います。

 木之下さんの訃報が入り、河野さんをはじめ交流の深かったスタッフ数人と一緒に三原市の公営住宅の集会所に向かいました。直前までイベントか集会をしていて、少し休むと言ってそのまま息を引き取ったということでした。憤死といよりおだやかな死に顔でした。
 葬儀会場は集会所の横の広場で、正面に大きなスピーカーが2つ並んでいて、繰り返しくりかえし中島みゆきの「ファイト!」が流れていました。
 何度もこの歌を聴きながら、「ああ、この歌は木之下さんのためにつくられた歌なのだ」と思いました。あとから尾道のスタッフから、この歌はまさしく木之下さんの愛唱歌で、彼を見送る歌はこれしかないと考えたと聞きました。
 この時、わたしは中島みゆきというシンガー・ソングライターのすさまじい想像力と憤りと悲しさと、そして限りないやさしさを思い知りました。
 1983年に広島の17歳の少女の思いを受け止めて発表された「ファイト!」。この歌が同じく広島の尾道市で障害者解放運動の一歩を歩き始めた木之下孝利さんの愛唱歌として、ずっと彼に勇気を与え、絶望に打ちひしがれることもあったにちがいない幾多の夜にも彼を励まし続けたのでした。この歌を2000年の秋、多くの友と一緒にわたしもまた歌いました。

ファイト! 闘う君の唄を
闘わない奴ら笑うだろう
ファイト! 冷たい水の中を
ふるえながらのぼってゆけ

 中島みゆきというひとが単に歌づくりにたけているだけなら、こんなにもひとりの障害者の人生の応援歌・たたかいの歌にはならなかったことでしょう。彼女の歌はしばしば多くのひとに聴かれる歌というより、たったひとりのひとの心に直接届き、「歌よりも歌らしく」(阿久悠)、いつまでも心の弦が歌うことをやめないのです。そんな歌はそれをつくったひとにしか歌えないのかも知れません。 しかしながら、もしそうならばブルースもジャズも日本人には歌えないという、過去のトラウマにとらわれてしまうことでしょう。
 そのトラウマを打ち砕き、歌をつくったひとからその歌を引き継ぎ、その歌の誕生の場にわたしたちをいざなってくれる、島津亜矢はそんな歌手の一人なのだと信じてやみません。かつて美空ひばりやちあきなおみや青江三奈がそうであったように…。
 10月に発売される「SINGER5」は「SINGER4」にひきつづきとても刺激的な歌が収録されているようですが、「ファイト!」もいつか、島津亜矢に歌い継がれる日を待ちつづけていると思います。

島津亜矢 山本彩 高橋愛 峯岸みなみ 松本明子 - ファイト! (18.06.21.UTAGE!)

中島みゆき ファイト‼(オールナイトニッポン月一・2016)



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2018.08.26 Sun ファイト!闘う君の唄をたたかわない奴等が笑うだろう。 「UTAGE!」は島津亜矢が未知の才能を発見する絶好の番組。

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 6月21日の「UTAGE!」で、島津亜矢は松本明子、高橋愛、峰岸みなみ、山本彩子とのコラボで、中島みゆきの「ファイト!」を歌いました。松本明子はピアノ、高橋愛はパーカッション、そして峰岸みなみはウッドベース、山本彩はエレキギターを演奏し、島津亜矢はシンバルを演奏するものの、メインボーカルを担当しました。
 この番組の恒例で、普通はありえない異色の組み合わせだけでなく、触ったこともない楽器を演奏しながらコラボし、またそのためのメイキング映像を流す趣向でした。
 島津亜矢の場合は歌唱力を高く評価され、組み合わせはちがうものの、毎回歌唱力に定評のあるポップ歌手と共演しながらもメインボーカルをつとめることが多く、ちょっとした違和感と驚きがあり、それがまたパフォーマンスを高め、共演者や視聴者に絶賛されてきました。
 「ファイト!」は1983年に発表された中島みゆきのアルバム「予感」に収められた楽曲で、中島みゆきが「オールナイトニッポン」のパーソナリティをしていた時に届いた一通のハガキをもとにつくられたと聞きます。

私は中学を出て、すぐに働いて二年になる十七歳の女の子です。
この間、私の勤めている店で、店の人が私のことを「あの子は中卒だから事務は任せられない」と言っているのを聞いてしまいました。
私、悔しかった、悔しくて、悔しくて、泣きたかった
「中卒のどこが悪い!」……と、言いたかった。
私だって高校行きたかった。だけど家のこと考えたら、私立に行くなんて言えなかったし高校に入る自信もなかった。
なのに、こんなふうに言われるなんて、ひどい。
ごめんなさい。愚痴を書いてしまって

 1983年と言えば高度経済成長からバブル経済へと向かう時代で、高校進学率は9割を越え、大学進学率は3割をこえていました。そんな時代でも、いやそんな時代だからこそ、家の事情で高校に行けなかったひとたちのくやしさや悲しみはどれほどのものだったでしょう。そしてそれはまた今の子どもたちにもふりかかる問題だと思います。
 それを思うと、今からさかのぼること56年前に、シングルマザーで貧困の極みでありながら兄とわたしを高校に行かせてくれた母に、どれだけ感謝しても足りません。
 朝早くから夜おそくまで、たったひとりで大衆食堂を切り盛りしながら、「高校だけは行かせたい」と願った母の切ない愛に十分に応えることができなかった後悔がこの歳になっても心の底でうずきます。
 それはさておき、わたしはあまりラジオを聴かなかったのですが、中島みゆきのオールナイトニッポンは一部の若者に絶大なる人気だったことは覚えています。彼女の80年代の歌は「ファイト!」をはじめ実際の出来事からつくられた曲があり、その中でもアルバム「生きていてもいいですか」(1980年)に収録された「エレーン」は、中島みゆきの最高傑作と思います。

エレーン、生きていてもいいですかと誰もが問いたい
エレーン その答えを誰もが知っているから誰もが問えない(エレーン)

 この歌は、同じアパートに住んでいた外国人娼婦がある朝、無惨に殺害され、全裸でゴミ捨て場に遺棄されたニュースが新聞のわずか数行の扱いで、捜査も結局迷宮入りになった実話をもとに歌っていて、行きどころのない悲しみと怒りを誰にぶつければいいのか、その怒りはわたしにも向けられるものではないのかと、聴きながらいつも泣けてしまう名曲です。
 「ファイト!」もまた、十七歳の少女の背丈を越えるかなしさ、つらさ、恨めしさを、周りの人にはいえないけれど、ラジオの向こうの中島みゆきだからこそ、なにか言葉をかけてくれると信じて、勇気をふりしぼりハガキを書いたことでしょう。

あたし中卒やからね 仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字は とがりながらふるえている(ファイト!)

 最初の歌詞で少女の心情を語った後は、中島みゆきらしい歌物語の中に強烈な時代性を仕込みながら、この歌はやがてカタルシスを迎えます。

ファィト!闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を ふるえながらのぼっていけ

 この歌は数多くの人たちがカバーしていますが、吉田拓郎が一番この歌の奥にあるとてつもないかなしさ、極まった社会の理不尽さを表現していると思います。というのも、この歌は誰かのために歌うのではなく、やるせなさとせつなさとかなしさをぐっと抑え、「ファイト!」と自分に言い聞かせ、自分で自分を励ます、そんな歌だと思います。
 さて、今回の「UTAGE!での歌唱は、松本明子と峰岸みなみはピアノとウッドベースに専念し、高橋愛と山本彩がサブボーカルを担当する形で、お互いがおそるおそる演奏し歌っていて、そのぎこちなさがやや目立っていました。もともとこの歌はやはり一人芝居のようにひとりの歌手が物語る歌なので、そこはやむをえないのでしょう。
 ただ、それが却って一人で歌う時の暴走を防ぐ役目をしていて、島津亜矢にしても中島みゆきのカバーの時にたまにあるような力みすぎることもなく、音楽をつくることに成功していたと思います。
 中島みゆきをリスペクトしている島津亜矢ですが、中島みゆきは感情をぶつけるように力強く歌う時もありますが、そんな時でも実はなかなか出て来ない本音のつぶやきや沈黙をはきだすように歌っています。そこはシンガー・ソングライターの真骨頂で、オリジナルだからこそ歌の心を変えないまま自由自在に歌えるのです。
 中島みゆきをカバーする時、ややもすると感情をあらわにする歌唱に陥りがちですが、吉田拓郎はこの歌の淡々とした物語性を損なわず、この歌が彼の歌づくりをリスペクトしてつくられたと思わせる、さすがの歌唱力です。
 島津亜矢もまた、演歌・歌謡曲やポップス、ジャズ、リズム&ブルース、シャンソンなどジャンルにかかわらず、あらゆる歌の底に隠れているかなしみをすくいあげ、そのかなしみが時代や社会をさりげなく告発する、そんな大きな歌を歌える稀有の歌手だと思います。
 「UTAGE!」は島津亜矢が未知の才能を発見する絶好の番組です。この経験を活かして、島津亜矢にはぜひ「ファイト!」を「SINGER」シリーズに収録してほしいと思います。
 個人的なことで申し訳ないのですが、わたしはこの歌を聴くとスイッチが入り、涙が止まらなくなってしまいます。それは2000年の秋だったでしょうか、広島の尾道市で障害者解放運動の道半ばで死んでいった木之下孝利さんの葬儀に行ったとき、この歌がエンドレスで流れていたことを思い出してしまうからです。
 次回は木之下孝利さんの思い出をたどってみたいと思います。

島津亜矢 山本彩 高橋愛 峯岸みなみ 松本明子 - ファイト! (18.06.21.UTAGE!)

中島みゆき ファイト‼(オールナイトニッポン月一・2016)

吉田拓郎「ファイト!」tour’ 1996
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2018.08.13 Mon 島津亜矢は荒野の子。悲しさ、しかし、明るい力強さ、そして、そのまっすぐな心

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 久しぶりにNHKの「うたコン」や「BS日本のうた」を観ていると、昨年からの若手の演歌歌手台頭の流れが加速していると感じます。とくに市川由紀乃、丘みどりの露出が目立ち、山内恵介にいたっては氷川きよしにつづく人気を獲得しているように思います。
 演歌・歌謡曲のジャンルにあったギルドが緩くなり、新人や若手の歌い手さんの活躍を番組の作り手もリスナーも後押しする感じで、下克上も相まって百花繚乱の様相にも見えます。
事実、市川由紀乃&横山剣(クレイジーケンバンド)の異色コラボによる「雨に濡れて二人」や竹島宏の「恋町カウンター」、水野良樹と亀田誠治という「いきものがかり」のヒットメーカーによる石川さゆりの「花が咲いている」など、演歌・歌謡曲のジャンルにおいても意欲的な冒険が試みられるようになりました。
 もちろん、音楽シーン全体からみれば小さなムーブメントにすぎませんが、大衆音楽がすでにメガヒットを求めなくなり、「流行歌」という言葉が過去のものになった今、いろいろなジャンルの住みわけが可能になり、営業・興行などのマネージができる範囲で既成イメージを壊す戦略は新たにファンを獲得できる試みなのでしょう。
 そんな状況の中、島津亜矢はまたしても孤独な旅を始めることになったとわたしは思います。昨年6月の「金スマ」出演をきっかけにTBSの「音楽の日」と「UTAGE!」などのJポップ本流の音楽シーンに登場し、演歌・歌謡曲のジャンルとはその数も音楽的嗜好もちがうファンに認知されるようになりました。ただの一ファンにすぎないわたしは事情筋の裏情報などを知る由もありませんが、これらの番組に出演を決めたのは島津亜矢本人の強い意志からと思っています。もちろん、島津亜矢チーム全体が彼女のプロデュースにかかわっているわけで、チーム全体としてその方向性を見定めたうえでのことでしょうが…。
 事実その方向性から、昨年の東京オペラハウスでのSINGERコンサートが実現し、今年も開催されるとのこと、チームとしての意志をはっきりしめしてくれたことをうれしく思います。願わくばせめて大阪や名古屋でも開いてくれたらと切実に思います。
 そして、CDセールスと通常のコンサートでは演歌歌手としての姿勢を変えずにいるのもまた、若手の台頭をはじめとする演歌界を見据えたプロデュースだとは思いますが、他の演歌歌手がJポップの旗手とタッグを組んだ楽曲やパフォーマンスに取り組んでいるのに比べてあまりにもオーソドックスで、なんとかならないものかと思います。
 彼女彼らの最近の動きは石川さゆりは別格として本人の意向というより、それぞれのチームがしのぎを削っているという様相で、失礼ながら島津亜矢のチームがその「たたかい」の場にまったく入らないプロデュースを漫然としていることが不思議でなりません。費用の問題があるのかも知れませんが、本来はここ一年ばかりのJポップの旗手たちとの交流や共演を果たした島津亜矢にこそ、演歌の枠組みの中にあっても思いがけないコラボが実現するはずとわたしは思います。
 また好評の「SINGER」シリーズでもカバーだけでなく、松本隆や水野良樹、桑田佳祐などJポップの旗手たちによるオリジナルのポップスを1、2曲制作し、それをシングルカットすることも可能なのではないでしょうか。
 たしかにJポップのジャンルに進出することで、既存の演歌枠にとどまることは難しくなると思われます。いまが一番どっちつかずの状態かも知れませんが、こんな時こそリスクを拾ってでもJポップの旗手たちのプロデュース&作詞作曲による新しい演歌やポップスを島津亜矢が歌う大胆なプロデュースを望みます。

 前置きが長くなってしまいました。今回の記事からしばらく、「UTAGE!」でのパフォーマンスについて書こうと思っています。
 この番組はTBS系列で2014年4月21日から2015年9月28日まで月曜『テッペン!』枠にレギュラー放送されて、2016年以降は不定期特別番組として放送されている音楽バラエティ番組です。他の音楽フェス番組とちがい、番組名どおり歌手たちの宴という設定でさまざまなヒット曲を何人かの歌手による異色のコラボで通常はありえない音楽的冒険にチャレンジするというのがこの番組のコンセプトです。
 何日かのリハーサルを経て、本番ではやり直しができない一回限りのパフォーマンスに全力で取り組むことで隠れた才能が発見されたり、歌手同士の交流が思わぬ表現を生んだりすることがあります。
 古くは「THE夜もヒッパレー」での安室奈美恵やSPEEDがブレイクしたように、「UTAGE!」から島津亜矢がブレイクする可能性がないとは言えません。
 今年の「音楽の日」は島津亜矢の出演がなく、またNHKの夏の「紅白」ともいわれる「思い出のメロディー」の出演がなかったことはとても残念ですが、「UTAGE!」は昨年の秋から今年の3月と6月の3回連続出演し、島津亜矢のポップスの可能性を見せつけました。
 昨年の秋はケミストリーの堂珍嘉邦とのコラボで「美女と野獣」、今年の3月には同じくケミストリーの川畑要とのコラボでコブクロの「桜」、松本明子、元SPEEDの島袋寛子、元モーニング娘の高橋愛とのコラボで槇原敬之の「遠く遠く」、リトルグリーンモンスターのあみん、BENI、高橋愛とのコラボで宇多田ヒカルの「First love」、6月の放送では松本明子、高橋愛、AKBの峰岸みなみ、NMBの山本彩とのコラボで中島みゆきの「ファイト!」、川畑要とのコラボで山下達郎の「RIDE ON TIME」、AKBの柏木由紀とのコラボでいきものがかりの「じょいふる」と、組み合わせも歌のバリエーションも島津亜矢のコアなファンでも想像できないコラボで、到達度の高い音楽を聴かせてくれました。
 NHKの「BS日本のうた」や「うたコン」とはまったくレベルのちがうコラボで、これこそ待ち望んでいた島津亜矢の質の高い音楽的冒険だと言えます。
 もちろん歌唱力で言えば演歌歌手のレベルは相当高いとは思うのですが、わたしの偏見かも知れませんがどうしても演歌界でのランクやギルドなどが邪魔をして、「共演」というより「競演」になりやすく、そのさまざまな気配りがせっかくの共演をありきたりで予定調和的な表現で終わらせてしまいがちなのです。
 それに比べて「UTAGE!」でのコラボにはそんな遠慮がなく、また島津亜矢が年齢やデビュー年からも先輩であることが多く、当たり前のパートナーとして受け入れられていることをとてもうれしく思います。コラボする島袋寛子やかれん、BENIなど、ポップス界では歌唱力が抜群に高いことで有名な歌手と対等どころか、メインボーカルをつとめる島津亜矢に、ポップスファンは度肝を抜かれたに違いありません。
 また、島津亜矢自身もとても柔らかい心と確かな歌唱力でそれぞれのコラボでの音楽的到達度を楽しんでいる様子で、ああ、彼女が若い時にこんな風に音楽を楽しめる仲間がいればよかったのにと、つくづく思います。
 ともあれ、こんな書き方はよくないかもしれませんが、島津亜矢が少し片足を離した演歌・歌謡曲のジャンルにはすでに若手の歌手たちがうごめいていて、もしかすると彼女は前のままの居場所には戻れないかもしれません。
 しかしながら、その何十倍もの期待が彼女に注がれるポップスのジャンルでは、「大型の新人」で、彼女の歌唱は宇多田ヒカルとともにポップスの在り方も変える大きな可能性を秘めていると思います。
 座長公演の演出家・六車俊治氏が言うように、「島津さんの歌声に感じる悲しさ、しかし、明るい力強さ、そして、そのまっすぐな心」こそが、演歌にしてもポップスにしてももっとも必要とされるものならば、「UTAGE!」での貴重な体験はいずれボーカリスト・島津亜矢を生みだすと信じています。
 次回は、「ファイト!」について書こうと思います。


島津亜矢with 松本明子 高橋愛 峰岸みなみ 山本彩・「ファイト!」( UTAGE!)

大竹しのぶ「ファイト!」

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2018.07.29 Sun 島津亜矢の新しい演歌は日本のクレオール文化から生まれる。NHK「うたコン」・「海の声」

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空の声が聞きたくて 風の声に耳すませ 
海の声が知りたくて 君の声を探してる

 先日のNHKの「うたコン」で島津亜矢が歌った「海の声」は、彼女がまたひとつ、大きな進化を遂げたことと、わたしの想像を越えてさらなる進化を予感させるとても刺激的な歌唱でした。
 島津亜矢のファンになってかれこれ10年、先輩のファンの方々のディープな想いにはおよばないものの、彼女の歌の軌跡に伴走出来る楽しさを一人でもたくさんの方々に知ってもらおうと記事を書いてきましたが、ここ数年加速度的に変幻・進化する彼女の歌の軌跡に追いつけなくなってしまいました。
 というのも、一人のファンとして島津亜矢にこんな歌手になってほしいとかこんな歌を歌ってほしいとか、ファンならではの無茶ぶりと思える妄想と願望が次々と実現するだけではなく、まさかと思える歌をまさかと思える歌唱で次々と歌ってしまう島津亜矢に、わたしはとんでもない歌手を好きになったものだと半分は自負し、半分はこれから彼女がどうなっていくのか期待と少しの恐怖すら持ってしまうのです。
 それもこれも、彼女の稀有の才能はもちろんのこと、若くしてデビューしたことで歌手としての円熟・成熟にはまだ10年は早く、持ち前の努力と好奇心で音楽的冒険をする時間がたっぷりあるからです。また、彼女のデビューから現在まで、出自である演歌の分野では不遇であったことがあらゆる分野の歌を歌う機会をつくったとも言え、最近のポップスの分野でのブレイクと呼んでいい状況が生まれたのだと思います。
 しかしながらそれゆえに、NHKの「うたコン」ですらJポップのカバーを求められることが多く、演歌は「BS新日本のうた」をはじめとするBS放送の演歌・歌謡曲番組に限られるようになりました。この現実を好ましく思わないひとも少なからずいて、島津亜矢本人にしても演歌の固定ファンを無視できず、特にCDを中心にプロデュースする新曲発表は今のところ演歌に限られ、それも演歌の王道と言える「ひとの道」を説くような歌になっています。
 正直のところ、根強いハードなファンを持っているとはいえ、いまや5パーセントにも満たないマーケットと言われる演歌の分野では、この小さな市場に島津亜矢がとどまる時代は終わってしまったのかも知れません。というより島津亜矢は現代演歌という、1970年以降に大衆音楽が大きく別れて行った後に残された偏狭なジャンルには収まらない立ち位置を、彼女自らが探しつづけなければならない宿命を背負っているのだと思います。
 それはまた、島津亜矢のファンになったわたしが彼女を通して現代演歌と出会い、明治政府の音楽教育によってゆがめられたところから生まれた「歌謡曲」の歴史の中に「日本の歌」のルーツを探す旅でもありました。
 最近気づいたことですが、過去へ過去へとさかのぼり、余分に思える要素を捨てたりはがしたりして原石を見つけるのではなく、日本固有の、そして日本国内それぞれの地域の、さらには海の向こうから押し寄せる世界の多様な音楽が混じりあい、融合してきた歴史をたどることから、島津亜矢が歌うべき日本の音楽を探し当てることができるのではないかと思うようになりました。
 海の向こうのブルースもジャズもレゲエもアフリカから奴隷として連れて来られた黒人たちが過酷な労働を強いられながら言葉や習慣を融合させ、支配階級の文化とアフリカのの文化とアメリカ大陸の文化を融合させて生まれたものでした。虐げられ貧困を押し付けられ人間としての誇りを奪われてきた奴隷たちの怒りや悲しみを内包しながら、西洋音楽と黒人音楽があらゆるところでまじりあい、世代が変わるたびに融合・混合・混血の文化、いわゆるクレオール文化が育ち、豊かな音楽が生まれたのです。
 わたしは日本でもクレオール文化が育ってきたと思うのです。たとえば在日朝鮮人の中には日本の植民地時代に自分の意志ではなく日本に来た人たちや植民地となった祖国で暮らせなかった人々、そして戦後、朝鮮半島の内乱や朝鮮戦争によって祖国に帰れなかったひとたちが数多く日本で暮らしています。ネットでは「韓国や北朝鮮に帰れ」という記事が飛び交いますが、彼女彼らの一世ですらすでに故郷はなく、また日本で生まれ、日本で育った二世以降のひとびとにとって故郷はよくも悪くも日本なのだと思います。
 日本は植民地時代に極端な日本化(皇民化)政策で朝鮮文化を抑えつけたため、日本化された朝鮮文化が隠れています。そこから日本でもなく韓国・朝鮮でもない在日の新しい故郷をアイデンティテイとするクレオール文化が花開き、日本文化を豊かにするとわたしは思います。
 一方で沖縄もまた、朝鮮戦争をきっかけに米軍が朝鮮半島に出動するための米軍基地を要求し、本土の反対運動からほとんどの基地を沖縄に移し、今に至っています。沖縄は日本の一地域でありながらアメリカの植民地のように扱われ、米軍兵による理不尽な犯罪が後を絶たないというのに、今また国はアメリカの要求通りに普天間の代替として辺野古に基地をつくる工事を進めています。(それに異議申し立ての叫びをあげる沖縄の人々の苦しみ、悲しみをわたしたちは見て見ぬふりをしていないでしょうか。)
 その中で、沖縄の風土とアメリカと日本の文化が混じりあうクレオール文化が育ち、本土をしのぐ数々の名曲が生まれました。
 「海の声」は2015年のauのCMソングです。作詞はau三太郎シリーズのCMプランナーで電通の篠原誠、作曲はBEGINの島袋優で、ユーチューブの視聴回数が一億を越える大ヒット曲になりました。
 BEGINはデビュー当時から音楽的な要素、歌詞の構成、何よりもその土地の暮らしの中から滲み出たような歌のあり方から、ブルースと沖縄民謡の大きな共通点を見出していました。
 デビュー10周年の2000年、自らのルーツである「沖縄」を見つめ直し、島唄のアルバム『オモトタケオ』を制作。この時、森山良子に提供し、その後夏川りみ他、多くのアーティストにカバーされている「涙そうそう」も生まれており、「島人ぬ宝」や「かりゆしの夜」など、沖縄の風景や島の暮らしが描かれた故郷のぬくもりを感じさせるBEGINの代表曲となる楽曲が次々とつくられました。BEGINもまた沖縄の伝統音楽とJポップを融合させるクレオール音楽の旗手にまちがいありません。
 島津亜矢が歌う「海の声」には、この歌の作詞者・篠原誠も作曲者・島袋優、そして役者でありながら見事な歌唱力でこの歌を人々の心に届けた桐谷健太による、完成されたオリジナル歌唱と一味違う歌の心があります。
スマートホンなどの通信手段を手に入れたわたしたちは、会えない人に会いたいと願い続ける時間をスマートホンに奪われてしまったとも言えます。わたしたちはポケットやカバンにスマートホンという「孤独」を持ち歩くことでしか、会いたい誰かと出会えなくなってしまったのかも知れません。「海の声」がスマートホンのCMソングを越えて大ヒットしたのは、そのことを教えてくれたからなのかも知れません。
 島津亜矢の「海の声」は、その孤独な心をやさしく抱きしめる海の深さをわたしたちの心に届けてくれるラブソングだと思います。
 彼女が今、Jポップといわれるジャンルのカバー曲を歌うことは、海の底や星空に眠っている無数の歌たちをよみがえらせて、新しいクレオール・混血の音楽を生み出す壮大な実験なのだと思うのです。そして、島津亜矢の新しい演歌・歌謡曲が生まれる場所もまた、その壮大な実験の彼方にあると思うのです。

島津亜矢「海の声」

「海の声」 フルver. / 浦島太郎(桐谷健太)


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2018.06.25 Mon 島津亜矢「人生の並木路」・80年の時をくぐりぬけた時代の警告

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 今年は5月の「ピースマーケット・のせ」が終わっても、7月11日の箕面でのチャリテーコンサートを予定していて、なかなかこのブログに書きたいと思うことに手を付けられずにいます。島津亜矢の記事も随分と遅れがちになってしまいますが、その中でもこれだけは書いておきたいと思う記事として、6月10日のNHK「BS新日本のうた」で歌った「人生の並木路」、「UTAGE!」で歌った「ファイト!」や「RIDE ON TIME」などがありますが、今回は「人生の並木路」について書きます。
 ご存知のように「人生の並木路」は1937年に佐藤惣之助が作詞、古賀政男が作曲、ディック・ミネが歌い大ヒットした楽曲で、映画「検事とその妹」の主題歌としてつくられました。わたしは子どもの頃はディック・ミネで、大人になってからは森進一の歌で何度も聴くたびに涙があふれ、何度も歌うたびに涙があふれる愛唱歌です。
 わたしの母は今のしゃれた言葉でいえばシングルマザーでしたが、戦後すぐの混乱期に出会った父の愛人として兄とわたしを生みました。戦後すぐの蓄えた着物を売って暮らしをしのぐタケノコ生活も行き詰まり、料亭の仲居をしているときに若旦那衆の一人として何度か来ていた父と出会ったそうです。母はとにかく子どもが欲しかった。いっさいの援助もいらないし認知もいらないから、ただわたしたち子どもを産むことだけを条件にした付き合いで、わたしたちが物心がつく頃に別れたようです。
 母は焼き芋屋から後に大衆食堂をたったひとりで切り盛りして、わたしと兄を育ててくれました。その当時もわたしたち家族が貧乏だったことはわかっていましたが、いま振り返るとなんの後ろ盾も福祉的配慮も受けず、朝早くから日付が変わる深夜2時まで働いて、片手に余るほどの薬を飲みながら、兄とわたしを高校まで行かせてくれた母の苦労は並大抵のものではなかったことでしょう。兄が脊椎性カリエスにかかり、人生を悲観し一家心中を考えたことも一度や二度ではなかったと母に後から聞かされて、その恩に報い、老いた母のせつない望みに完璧に応えるほどの経済力もなく、彼女が満足できる晩年の日々を用意できなかったことに心が痛みます。
 早くに家を出て妻と出会い、若くに結婚したわたしとちがい、母と同居しなければならず、また同居するにはあまりにも手狭で日の当たらない実家に来てくれる女の人はその時代でもあまりいなくて、兄はわたしよりずいぶん後に遠縁で、家の事情をよく知っている娘さん(今の姉さん)と結婚することになりました。
 その結婚披露宴で、わたしは泣きながら「人生の並木路」を歌いました。わたしたち家族の特殊な事情は、わたしに一方で早くその強い絆を断ち切りたいと思う一方で、どうしても切れない濃い血縁が自分の心と体にしみついていて、母と兄とわたしの3人が拠り所としている他人には説明できない切ない感情をあふれさせるのでした。
 晴れやかな結婚のお祝いの場で「人生の並木路」を歌うというのは非常識だったと今では思うのですが、「生きていこうよ希望に燃えて、愛の口笛高らかに、この人生の並木路」という歌詞が、わたしたち兄弟の、それから後も決して順風満帆とは言えない人生を予言しているように思えたのでした。
 わたしは演歌の巨匠といわれた古賀政男がそれほど好きではありませんが、「人生の並木路」や「影を慕いて」など、戦前の古賀メロディーには単なる感傷的な旋律というだけではない複雑な心情が隠れていて、いつ聴いても涙が出ます。
 というのも、すでにこの時代には日中戦争と太平洋戦争に至る国家と軍によって個人・国民の自由が奪われようとしていて、その支配は古賀政男をはじめほとんどの作詞家、作曲家に限らず芸術・文化の表現行為すべてに及んでいたからです。
 多くの音楽家がそうであったように、古賀政男も作詞家の佐藤惣之助も軍歌をつくりはじめていたこの時代、佐藤惣之助や古賀政男の心中は忸怩たるものがあったに違いありません。戦後、彼らもまた戦争犯罪者として裁かれるのではないかとおびえるほどに、国家の強い暴力に逆らえないまま戦意高揚の歌をつくり続けました。
 その中で、「人生の並木路」や「影を慕いて」などの曲は当局の検閲のぎりぎりのところをすり抜けて、同時代の切なくも哀しい希望が隠れていて、大衆もまた表面的には国家に奉仕しながらもこれらの歌に隠された秘密のメッセージを受け止めたからこそ、大ヒットしたのだと私は思います。
 1928年、古賀政男は自殺を図ります。その時に浮かんだ一片の詞から1931年の「影を慕いて」が生まれます。昭和恐慌、柳条湖事件、満州事変と軍靴の足音が時代を切り裂こうとしていました。若く繊細な心と壊れやすい感受性をもつ古賀政男は、自分の個人的な体験の裏側に暗黒の時代や歴史があることを知ったのだと思います。
 そしてこの歌「人生の並木路」では、兄が妹に話しかけるように歌います。時代はますます暗くなり、明日のいのちもわからずますます悪い方向へと流されていく恐怖と不安を隠しながら、「もうしばらくの我慢だよ、とにかく生き延びることだ、いつかは国家の抑圧から解放される…」と、兄は妹に諭すのでした。兄と妹という設定は単なる兄弟というのとは少し違い、唐十郎の芝居のように二人の間に淡く純粋な恋が隠れていて、それがとりわけ二人の強い絆と、自分たちではどうにもできない大きな世の中の流れにひたすら固く抱き合い、銃弾だけでない国家の暴力が通り過ぎるのを息をひそめて待ち続けるのでした。
「雪も降れ振れ夜路のはても やがてかがやくあけぼのに わが世の春はきっと来る。」

 さて、この歌の島津亜矢の歌唱は、数々の歌い手さんのカバーの中でも特異で、すばらしいものでした。というのも、わたしがつらつらと書いてきたこの歌の時代性がよみがえってくるからなのです。美空ひばり、ちあきなおみなど見事な歌になっているのですが、戦争へと至る、いやすでに戦争に突入している時代の暗黒と、その暗黒の果てに切なくも「わが世の春」を切望する古賀政男と佐藤惣之助の心情までも島津亜矢はすくい上げ、歌に込めるのでした。
 そして、今によみがえるこの歌と共振する歌があるのでしょうか。そう思った時、たとえば「SEKAI NO OWARI」や「エレファントカシマシ」、「グリム・スパンキー」、いま休憩している「いきものがかり」など、長い戦後から戦前になろうとしているのかも知れないキナ臭い時代の空気を感じて、一時避難所もしくはシェルターの役割ができるこの人たちの音楽が「人生の並木路」とつながっていることを感じます。
 しかしまた、古賀政男たちが通りすぎなければならなかった国家の強い暴力が今によみがえらないようにこそ、わたしたちは闘わなければならないのだと思います。
 たとえば東京オリンピックや万国博への世論の誘導や憲法改正(?)のために国民投票の情報活動に、ジャンルを越えたミュージシャンが動員され、「踏み絵」を踏むようなことがないように…。

島津亜矢「人生の並木路」 

古賀政男「人生の並木路」
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