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2019.03.14 Thu 「悲しみというのは、聞き手がいないと流れない。けれども聞き手がいれば、そこに向かって悲しみを流すことができる」。柳美里と高校生たちの演劇による冒険

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 東日本大震災から8年、東日本各地の復興は地域によって格差がはげしく、とくに福島の原発事故による被害は修復が不可能とさえ思えるのが現実ではないでしょうか。
 今年もマスコミ各社が被災地の現実を報じる中、作家の柳美里と広野町のふたば未来学園高校演劇部の生徒たちが演劇を通じて、震災が閉じ込めてしまった高校生たちの記憶を掘り起こし、大きな悲しみから解き放たれるプロセスを追うNHKの番組に心打たれました。
 柳美里は1968年横浜市生まれ。高校中退後、東由多加率いるミュージカル劇団東京キッドブラザースに入団。演出助手を経て1987年に演劇ユニット「青春五月党」を結成。1993年、『魚の祭』で第37回岸田國士戯曲賞を受賞。1994年小説家に転身し、1996年、「フルハウス」で第18回野間文芸新人賞、1997年、「家族シネマ」で芥川賞を受賞しました。
2011年の震災直後から福島県に通い、2015年4月、福島県南相馬市に転居。2018年4月、自宅一部を改装し、本屋「フルハウス」を開業しました。
 ある日、彼女は書店を訪れたふたば未来学園高校演劇部の生徒に「一度、うちの演劇部を見に来てください」と依頼されます。ふたば未来学園高校演劇部は原発事故後をどう生きるのかをテーマに、部員たちみずからがつくった劇を上演してきました。
学校を訪れた柳美里は、この子たちとなら彼女が21歳の時につくった戯曲『静物画』を上演できると思い、23年ぶりに「青春五月党」を再結成し、自宅裏倉庫を改装した小劇場で4日間上演したところ、地元住民に加え、札幌からも観客が訪れました。
 NHKの早朝番組の中で取り上げられた短いドキュメントは、柳美里と高校生の出会いと対話から始まります。高校生たちひとりひとりが幼かった頃に体験したはずの震災と原発事故を説明できないもの、語ることができないものとして心の底に横たわったままの悲しみが演劇を通して言葉化され、可視化されていく様子を彼女たち彼たちとともに追体験します。それはまた、在日韓国人として生まれ、高校を中退し演劇の世界におずおずと入って行った柳美里自身の記憶までもよみがえらせるのでした。
  『静物画』は高校文芸部の生徒たちの生と死のあわいで揺れる繊細な心情をつづった作品でしたが、復活版はふたば未来学園の生徒たちから丁寧に聞き取った震災の記憶が、新たに登場人物のせりふに付け加えられました。

 「悲しみというのは、聞き手がいないと流れない、自分の中にとどまって淀んでしまっている。けれども聞き手がいれば、そこに向かって悲しみを流すことができる。そこにしか救いはないんじゃないか」と語る柳美里は、高校生たちに「2011年3月11日の話をしてください。」と問いかけます。
 するとどうでしょう。高校生たちがふたをしてきた幼かったその時の記憶が噴き出し、心の中で止まっていた時間が動き出し、語ることができなかった悲しみが堰をきったようにあふれ出ます。その瑞々しい感性が紡ぎだす言葉は、彼女たち彼たちの表情と相まって、大人たちとはまたちがう鋭い説得力でわたしの心に突き刺さりました。
 柳美里はたたみかけるように高校生たちの記憶のやわらかくて痛いところにふみこんでいきます。「ひとりひとりが自分の故郷の名前をさけんでください。かけがえのない存在を自分の声で抱きしめるように。もう行くことできない場所に声だけで踏み込むように」。
 今もまだ立ち入ることを許されない故郷を持つ子どもたちは、街に届くような大声で叫ぶと、柳美里は嗚咽をこらえているように見えました。
 その中に、学校のある広野町に幼い時から住む子どももいました。彼は3年間よその町に避難した後にこの街に帰ってきたのですが、広野町は廃炉作業の拠点となり、ホテルや病院などが立ち、幼い頃大好きだった海に向かって広がっていた故郷の姿はありませんでした。
 他の子どもたちが帰れない故郷を想って叫ぶように、自分が生まれ育ったこの町の名前を叫ぶことができないでいた彼でしたが、小高い丘から町を見下ろした時、自分が大好きだった海だけが変わっていないことに気づき、毎日のように海に向かって走っていった日々がもう帰らないと思った時、はじめて大きな声で故郷の名前を叫ぶことができたのでした。
 ある日、柳美里はセミの抜け殻を持ってきて、子どもたちに夏の想い出を語ってくださいと問いかけます。突然の要求に戸惑いながら、子どもたちは原発事故の前の夏の想い出を語り始めます。「橋の欄干を歩いていて、突風が吹いて川に落ちた」、「庭の木に50匹ほどのセミが庭の木にとまっていて、やかましいので木を蹴るとバタバタと飛んで行った」…。
 その中で、この芝居に自分が出てもいいのかと悩んでいる子どもがいました。
 彼は福島市生まれの福島市育ちで、津波にも原発事故にもあわず、被害の当事者としての記憶がないといいます。夏の思い出と言われて、貯水槽のザリガニを30匹ほど捕まえてきて、それに一匹ずつ名前をつけて飼っていて、夏休みの終わりに親に言われて家の近くの用水路に一匹ずつ放した思い出を語るのですが、当事者であるみんなは家がなくなったりしていて、ザリガニがいなくなったのとは比べ物にならないものがなくなっている…。当事者が語る過酷でつらい思い出がない自分に震災を語れるのか、柳美里に悩みをぶつけます。
 柳美里は言います。「でも、その時に地震にあい、その後原発事故の影響は福島市にもあった。わたしはあなたが当事者だと思っています。距離があるから近づきたいという思いはないですか?たとえばわたしは韓国籍なんですが韓国語を喋れないんです。しゃべれないんですが、ある思いはあります。福島市というので距離がある。その距離があるからこそ知りたいという思いが、もしかすると双葉郡で生まれ育った子より強いかも知れない。疎外感を感じる必要はない。」
 久しぶりに福島市に帰り、ザリガニを捕まえた貯水槽、思い出の地に立った彼は震災当時の記憶がよみがえってきました。放射線で水が危ないと言って、水を一回無くして新しく水を入れたらザリガニも排除されてしまったこと…。家の近くの用水路にザリガニを一匹ずつ名前を言いながら放したこと…。大切なものをなくした悲しみが自分の記憶の中にもあったことに気づきます。
 「(高校生は)震災時の幼い体験を語れる最後の世代だと思うんです。幼かったんです。子どもだったじゃないですか。それをわたしは大事にしたい」。
 柳美里との対話を通して、高校生たちはふたをしていた記憶を解き放ち、そこから生まれるナイーブで無垢な肉声の言葉がセリフになり、そのセリフが行き交い重ねられる劇的空間がそれぞれの体験や記憶や悲しみを共有する場となっていきます。
 もし、理不尽で過酷な個人的体験が時と場所と時代を超えて伝わり、受け止められ、教訓になるとしたら、それは事実からのみ導き出される防災マニュアルだけではなく、想像力による記憶の共有を引き起こす、演劇や音楽などによるフィクションの力を必要とすることを柳美里と高校生たちの冒険が教えてくれたのでした。
 そして、わたしがもっとも共感するところは、当事者性で思い悩む福島市出身の子どもに柳美里と子どもたち自身が出した答えにあります。距離があるからこそ強い磁場で被災地とつながり、被災体験をした人の悲しみとつながることができるという当事者性こそが、記憶の風化を無縁のものにすると確信します。
 そのことを痛いほど感じる柳美里は、彼のエピソードを劇のクライマックスに持ってきます。夏の終わりに一匹ずつ名前を呼びながら「元気で生きろよ」とザリガニを逃がすシーンに観客もテレビで観るわたしも思わず涙がこみ上げてきます。原発事故や津波や地震が引き起こした個人の思い出が、大切なものをなくした悲しみの記憶として共有されるプロセスの現場に、高校生たちと柳美里が立ち会わせてくれたのでした。
 「そもそも『3.11を忘れない』を忘れないという言葉に違和感がある。ここではみな、今も3.11の中で生きているという意識。忘れ、遠ざかることは決してなく、暮らしの一部なのです」。(柳美里)

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2019.03.08 Fri 東日本大震災から8年 被災ピアノの自然の調律の快さ 映画「Ryuichi Sakamoto: CODA」

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 「マンハッタンから音楽というか、音が消えたんですね。1週間ほどして行ってみたら、若い子がギターで「Yesterday」をひいてるわけですね。
 それが(9.11以後)はじめて聴いた音楽で、その時自分がつごう7日間も音楽を聴いていなかったことを忘れていたんです。
こんなに毎日音楽に囲まれて生きてきたのに、音楽を聴いてないということすらhttps://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=878#忘れてたんですね。世界が平和でなければ、音楽も文化もできない。」
                                     坂本隆一 (映画「Ryuichi Sakamoto: CODA」

 これとよく似た話を、被災障害者支援「ゆめ風基金」で働いていた時、2011年の小室等音楽活動50周年ライブ~復興~」コンサート実況録音盤CDのリーフリットに掲載された小室さんのインタビュー記事で読みました。
 「3.11の前には、錯覚であるにせよ、ちょっと自分が、表現し得たという実感を、時折はもつことができました。でも3.11以降、その感覚を持てないんです。無理やり歌うのだけど、結局歌い終わった時に、大切なことを置き去りにしているという感じなのかな。自分をだませなくなってしまったというか。今までの災害は、再生可能だったんです。でも3.11は特に原発によって、再生不可という可能性を突き付けられたわけです。」
                 小室等 (小室等音楽活動50周年ライブ~復興~」実況録音盤CDのリーフリット)

 一方は9.11の同時多発テロ、一方は東日本大震災の時ですが、ふたりの証言はとても重なっていると思います。そして、それは二人の稀有の音楽家の話にとどまらず、同時代を生きるわたしたちの社会が大きな岐路に立ち、新自由主義のもとでの挫折をもろともせず、より先鋭的、暴力的で硬くてもろい未来に向かうのか、長らく続いた成長神話を捨て去り、ゆっくりとした顔の見える経済や豊かな文化をめざし、しなやかで助け合える未来に向かうのかを問うものでもあります。
 東日本大震災から8年、今のところアベノミクスに代表される前者の道をわたしたちの国は選び、格差と貧困を生み出しながらも輝きを取り戻そうともがいています。しかしながら、それはすでに弱り切った心と体にカンフル注射を打ち続け、数多くの脱落者を後にしてひたすら走り続けなければならない道でもあります。その先に東京オリンピック、そして大阪万博後に、東京を中心とする都市集中の社会の崩壊がはじまるのではないかと心配です。
 しかしながら、この8年は大きく見れば助走段階で、まだ二人の音楽家の証言を受け止め、わたしたち自身にもしみついている経済成長の亡霊から解放され、さまざまな人々が共存し、一切れのパンとささやかな夢をわかちあい、助け合う未来に向かう道も残されていると思います。

 映画「Ryuichi Sakamoto: CODA」は『戦場のメリークリスマス』などで知られる国際的な音楽家の坂本龍一に迫るドキュメンタリーです。
 年末年始、風邪をこじられてしまい、NHK・Eテレでたまたま見たのですが、YMOで知られるテクノポップスから最近の幅広く刺激的な音楽表現へと変遷してきた坂本隆一の音楽の旅路を丁寧に描いていています。
 2012年から5年間にわたって密着取材を行ない、アーカイブ映像も織り交ぜながら坂本の音楽的探求をたどる途中、米同時多発テロや東日本大震災後を経ての様々な活動、14年7月から約1年間に及ぶ中咽頭ガンとの闘い、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督作「レヴェナント 蘇えりし者」での復帰、さらに17年3月リリースの8年ぶりオリジナルアルバムの制作現場にも密着。坂本隆一の過去の旅路が、現在の作曲プロセスと見事に交差していく様子をとらえた映画で、「ロスト・イン・トランスレーション」の共同プロテューサーを務めたスティーブン・ノムラ・シブル監督作品です。
 全編、坂本龍一の音楽というか、音への探求心が個人的なもの、芸術的なものにとどまらず、核兵器廃絶や原発廃止運動への参加など社会的な関心や環境問題から死生観へとつながり、果ては人類の誕生のルーツと始原的な音楽にまでたどり着こうとするプロセスを映像化しています。

 「産業革命が起こって、初めてこういう楽器(ピアノ)がつくれるようになったんですね。何枚もの木の板を重ねて強い力で半年くらいかけてこの形にはめこむんですね。この弦も全部合わせると何トンという力が加わっているらしいです。もともと自然にある物質を人間の工業力とか文明の力で自然をも鋳型にはめこむんですね。
 音も人間は調律が狂うといいますけど、狂っているんじゃなくて自然の物質たちは元の状態に戻ろうと必死にもがいているんですね。津波というのは一瞬にバンときて自然に戻したというか、戻ってるわけですね。
 今ぼくは自然が調律してくれた津波ピアノの音がとても良く感じるんですよ。ということはやっぱりピアノ的なもの、人間がむりやり自分の幻想にもとづいて調律した、不自然な、人間にとっては自然なんだけど自然からみれば不自然な状態に対する強い嫌悪感ていうのかな、あると思うんです、僕の中に。」
                              坂本隆一 (映画「Ryuichi Sakamoto: CODA」

 東日本大震災後、宮城県名取市で被災ピアノと出会った坂本隆一は、自然の猛威によって水に溺れたピアノの音を聞き、当初は「痛々しくてその鍵盤に触れるのも辛かった」と語っていました。けれども、今はその壊れたピアノの音色が心地良く感じるというのです。時と共にその被災ピアノの“自然の調律”の音は坂本隆一の作曲プロセスの一部となり、新たな表現へと生まれ変わったのでした。
 東日本大震災から8年、坂本隆一が「津波ピアノ」に自然の怖さと優しさと自由を発見したように、わたしたちの未来もまた、ゆがんだ調律から解き放たれ、ありのままの姿に戻る彼方にあるように思えるのです。

映画「Ryuichi Sakamoto: CODA」予告編

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2018.03.12 Mon 福島の障害のある子どもの保養プロジェクト「ゆっくりすっぺin関西」を応援するチャリティーコンサート

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 東日本大震災から7年が過ぎました。あらためて、犠牲になられた2万人以上のたましいに哀悼の意を表します。
わたしは豊能障害者労働センター在職時、阪神淡路大震災までは豊能障害者労働センターのお金づくりを何よりも優先し、他のことを考える余裕はありませんでした。
 豊能障害者労働センターは障害のあるひともないひとも共に働き、ほんとうに綱渡りのような運営で障害者スタッフもふくめたみんなでお金を分け合ってきたのでした。
 しかしながら、阪神淡路大震災で6500人に及ぶ命が奪われ、多数の人々が想像を越える困難な状況で苦しんでいるというのに、自分たちだけの活動を進めることなどできるはずもありませんでした。
それからの豊能障害者労働センターの救援活動と支援活動を通して、被災した人たちのほんとうの苦しさ、悲しさ、絶望をわかるはずはなくても、寄り添ったり想像することから「共に生き、幸せになる」遠く険しい道のりの一歩を歩みだすことはできるのではないかと思うようになりました。
 その思いは2011年から5年間、被災障害者支援「ゆめ風基金」のスタッフとして東日本大震災の被災障害者救援活動に参加することで、より強く感じるようになりました。
 東日本大震災から7年、被災地の地域性や経済格差などから復興や再建が進む町と難しい町との間の分断や格差が問題になっています。特に福島県では地震・津波に加えて原発事故により、今も5万人を越える方々が県内外で避難生活を強いられています。また県外に避難した子どもたちへのいじめが頻発し、社会問題化しています。
 昨年からは自主的に避難したひとたちが仮設住宅を追い出され、今年からは東電の賠償金も打ち切られ、生活を立て直すために借り入れたローンの支払い猶予の特例など少しずつ打ち切られ、当初の困難とは違った厳しい現実があると言います。
 それがもっともはっきりとわかるのは、原発事故による避難指示区域が解除され、「帰れますよ」ではなく、「帰りなさい」と言われ、避難先を追われて懐かしいはずの故郷に帰ろうと思っても、すでに帰るべき「故郷」はひとびとの心の中に怒りと悲しみと絶望と共によどみ、あったはずのコミュニティも大地も遠いかなたにかすむだけで、こんな状態で故郷に帰れるはずがないというのもまた真実だと思うのです。
 この7年間、賠償金をもらっていることをねたまれたり非難されたりと、原発避難地域に住んでいたことをひた隠しにし、身を潜めて生きてきた人びとにとって、「復興」とか「再建」とは縁がないどころか、彼女彼たちの現実をより厳しくするものですらあることでしょう。マスコミが「復興」や「再建」に焦点を当て、遠く離れたわたしたちもまた明るく希望を語る声にほっとする話題を求めるのは、単に誰もが幸せであってほしいと願う純粋な気持ちからだけでなく、その裏にあって、できるだけ早く復興という名の幕引きをしようとする国の思惑が見え隠れしています。
 福島の豊饒な大地と文化を壊した原発を再稼働し、一方で原発難民を生み出す「棄民」政策は、そのまま沖縄の人々にも刃を向け、さらに大きく見れば被災者全員を自己責任で暮らしを取り戻せという、「脅し」の政治だとしか思えません。
 これからの2年、東京オリンピックの開催までに原発による放射能汚染問題が一定の解決をするという国や安倍政権は、原発事故による放射能の被害者を隠すことで国の内外に原発安全宣言をしようとしているのでしょう。
 安倍首相がオリンピック招致のためのアピールで宣言した「アンダーコントロール」が、いかに無責任であったかは、実はおそらく海外のひとたちの方がよく知っているのかも知りません。

 震災直後、障害のある子どもたちが避難所ではなく、車の中や危険な自宅で過ごさざるを得ないことがありました。今でも福島県では障害のある子どもとその家族が放射能の不安を抱えながらも住み慣れた町を離れられず心を固くして暮らす現実があると聞きます。
 福島の障害のある子どもの保養プロジェクト「ゆっくりすっぺin関西」は、代表の宇野田陽子さんと豊能障害者労働センターの出会いをきっかけに、福島県の障害のある子どもたちが放射能をはじめとするさまざまな不安から離れて心身を休め、リフレッシュしてもらおうと2014年から活動を始めています。保養という本来の目的を大切にしつつ、福島県と関西の交流や出会いの場としての役割も果たしてきた実績に敬意を表します。
 「遠く離れて暮らしていると、私たちはどうしても「福島の子どもは」とか「東北の人は」などと人を束ねるような表現をしてしまいがちになるように思います。そうではなく、原発事故を防げなかった責任をどう引き受け、原発事故後の世界でどう生きていくのかを考え続けつつ、小規模でも人間関係と信頼感を大切にした関わりを育てていけたらと願っています」(宇野田陽子)。
 失礼ながら細々とした活動ではありますが、「ゆっくりすっぺin関西」は震災7年が過ぎたこれからが、とても大切な活動だと思います。
 そんな「ゆっくりすっぺin関西」を応援しようと、7月11日、不思議な縁と偶然が折り重なってチャリティー・コンサートを開くことになりました。箕面市出身でドイツで演奏活動をしている吉田馨さんの協力によるもので、彼女が演奏家の友人に声かけし、ボランティア活動として駆け付けてくれることになったのでした。
 彼女・彼たちがチャリティー・コンサートを開いてくれるのは奇跡といっていいでしょう。しかしながら、その奇跡を起こすのは、すべての音楽がいつの時代も自然災害や戦火やテロによって失われてきた無数のたましいが漂う大地や森や海や空と、愛を必要とする心から生まれ、愛を必要とする心に届けられてきたことを信じる演奏家たちの過激なやさしさと情熱以外の何ものでもないと確信します。
 7月11日、阪急箕面駅前のサンプラザ1号館の中の箕面文化交流センターでのコンサートは、わたしもそうですが日頃クラシックとはなじみのない人でも普段着で楽しめます。
 巷のクラシックのすばらしさを感じてもらい、あわせて福島の障害のあるこどもたちの保養プロジェクト「ゆっくりすっぺin関西」のことを一人でも多くの方に知ってもらいたいと思います。

忌野清志郎 LOVE ME TENDER 【放射能はいらねぇ!】

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2017.03.13 Mon 震災6年、復興神話から目覚め、原発を止め、新しい日本の未来を。

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 東日本大震災から6年が過ぎました。この時期に報道される震災関連のニュースは6年目に入り、基調としては震災の傷跡が町にも人々の心にも深く残り、決して癒されるものではないとしながらも、一方で悲しみと絶望を乗り越えて力強い復興の道を進む被災地各地の未来への希望を語り、強調することがめっきり多くなりました。
 もちろん、破壊された町が復興していくのも真実で、6年という時はその道筋をつくるのに一定の役割を果たしたことは間違いないのでしょう。
 しかしながら、町が復興していく姿や被災地の人々の暮らしが再建されていく報道が流れるたびに、復興や再建を可能にできるひとと、それが難しいひととの間の分断や格差がはっきりと姿を現したのではないでしょうか。本当は発災直後からの「助け合い」や「絆」が叫ばれる影にも実はもともとあった経済格差や、震災後の再建を進められる人やもとの仕事に復帰できる人、新しい仕事に就ける人とそうでない人がいて、簡単に「被災者」とくくってしまうと問題を見逃すあやうさがありました。
 わたしは2011年から2015年まで、被災障害者を救援・支援する「ゆめ風基金」という基金団体の手伝いをしました。この団体はもともと阪神淡路大震災の時、全国の障害者団体が集まり、被災地の障害者を直接救援・支援しようと、故永六輔さんに呼びかけ人代表になっていただき、全国から寄せられた基金により、障害者の生活を再建する活動を始めました。その後、度重なる地震、風水害で生活の拠点が壊されてしまった障害者団体の再建にとどまらず、被災地の障害者団体が被災障害者の情報を集め、被災者ひとりひとりの生活を再生する活動を続けてきました。
 そして、東日本大震災という未曽有の困難に直面し、救援からも再建からも取り残される障害者の救援支援活動を続け、十分ではないにしても被災各地の障害者の生活拠点の再建に一定以上の成果を上げてきました。
 しかしながら、震災前までは家族に支えられる形で生きてきた障害者を襲ったのは支えてくれていた家族の死や、彼女たち彼たちのいのちの基盤であった家族の崩壊でした。
 家族介護をあてにした福祉サービスの貧しさを家族の絆という言葉で隠してきた日本の福祉制度を裏付ける東北地方における障害者を取り巻く現実は、過酷としか言いようがありません。
震災から6年、被災地の障害者にとって2017年は震災によって奪われた生活の基盤を再建することではなく、震災前に障害を持つというだけで理不尽な生き方を強いられてきた過去から立ち上がり、ひとりの人間としてあたりまえに生きる権利を同じ志を持つ友人・仲間たちとともに獲得する困難な「たたかい」の出発の年であるのでしょう。
 21000人という犠牲者の数、12万人を越える避難者の数、34000人の仮設住宅生活者の数、どれをとっても想像をはるかに超える数字は、「復興」や「再建」が被災者はもとより、わたしたちの実感とは程遠いものと感じざるを得ません。
そんな状況なのに、マスコミが「復興」や「再建」に焦点を当て、わたしたちもまた明るく希望を語る声にほっとする話題を求めるのは、単に誰もが幸せであってほしいと願う純粋な気持ちからだけでなく、その裏にあって、できるだけ早く復興という名の幕引きをしようとする国の思惑が見え隠れしています。

 それがもっともはっきりとわかるのは、原発事故による避難指示区域の解除ではないでしょうか。福島県では今月31日に浪江、川俣町と飯舘村で、4月に富岡町で、居住制限区域と避難指示解除準備区域が解除されます。
 避難指示解除が「やっと帰れるようになりました。よかったですね」というものではないことは、まず解除の条件が年間の被ばく線量が20ミリシーベルト以下としていることからはっきりしています。この基準は国際的な基準である年間1ミリシーボルトという被爆線量を無視したものです。
 日本の農業や酪農をささえ、先祖代々守ってきた大地や山や川を原発事故による放射能汚染で壊され、自主避難した人は国の対処の遅れを補ってくれたと感謝されてもいいはずのところを勝手に避難したと見捨てられ、強制避難させられた人々もまた大切に育ててきた作物も乳牛もすべてを棄てて避難生活を余儀なくされました。
 そして今、「帰れますよ」ではなく、「帰りなさい」と言い、自主避難したひとたちの住宅提供を打ち切り、来年には賠償金の打ち切りをする国の仕打ちは、シリア難民に課せられたものと同じ困難を福島の人々に課すことだと思います。福島の豊饒な大地と文化を壊した原発を再稼働し、一方で原発難民を生み出す「棄民」政策は、そのまま沖縄の人々にも刃を向け、さらに大きく見れば被災者全員を自己責任で暮らしを取り戻せという、「脅し」の政治だとしか思えません。避難先を追われて懐かしいはずの故郷に帰ろうと思っても、すでに帰るべき「故郷」はひとびとの心の中に怒りと悲しみと絶望と共によどみ、あったはずのコミュニティも大地も遠いかなたにかすむだけで、こんな状態で故郷に帰れるはずもないのでしょう。
 いま、全国の避難された福島の人々、とくに子どもたちへのいじめ、差別によって自殺するところまで追い詰められ、許しがたい人権侵害として大きな社会問題となっています。
 しかしながら、その原因を風評被害とするのはとてもまちがっていると思います。
風評被害は年間1ミリシーボルト以下の被爆線量なのに福島の人々を傷つけ、福島の作物を買わない時に初めてそう言えるのではないでしょうか。
 それならば、どうすればいいのか、わたしは福島県にとどまらず、近隣の地や、さらに言えば日本の大地全体の汚染をわたしたちがひとしく引き受けざるを得ないのだと思うのです。そして、そんな悲惨なことを招いてしまった原発の再稼働などもってのほかで即刻廃止し、もしエネルギー事情が本当に苦しくなるならば(わたしはそれは電力会社をはじめとする企業資本と国の喧伝の部分がかなりあると思っていますが)、それをわたしたちみんなで分かち合うことが、福島の人々の困難とほんとうにつながる一歩だと思います。
 そこから、はじめてこれまでとはちがうもうひとつの新しい暮らし、経済、文化、政治が始まり、あれだけの大きな代償を無駄にしない緩やかで柔らかく、成長することだけがすべてではない日本の未来の姿が垣間見えるように思うのです。
願わくばその未来の姿が、誰にとっても幸せでありますように…。

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2016.03.10 Thu 東日本大震災から5年・成長しない豊かさ

 東日本大震災から5年が経ちました。阪神淡路大震災が発生した1月17日とおなじように、3月11日前後になるとマスコミを中心にそれぞれとの人の「あの時」と、奪われた命、そして時を経た現在の暮しと心のありようがつづられます。時が過ぎるにつれてその語りには、ひとりひとりの人生やひとつひとつの町のその後の足跡が少しずつ「語られる歴史」へとファイル化されていき、よくも悪くも整理整頓されていくジレンマを感じます。ひとりひとりの肉声は決して整理されないまま、「あの時」をかけめぐり、心の底をうごめいていて、その悲しみや悔恨や憤りは決して他者にわかるはずもなく、また伝えられないものなのかも知れません。
 わたしは阪神淡路大震災の時も東日本大震災の時も、被災地の障害者の支援活動にかかわりましたが、そのたびにそれをきっかけに「誰もが住みやすく、安全に暮らせる社会」へとわたしたちも社会も変わるはずだ、また変わらなければならないと思いました。
 そうでなければ、理不尽にも突然夢を絶たれ、命を奪われたひとびとに申し訳ないと思いました。
 しかしながら、そんな思いもまた被災した人々には失礼な言い分で、彼女たち彼たちが受けた理不尽な暴力を踏み台にして新しい社会のありようが描かれるはずもなかったのでした。

 それでも5年の時が過ぎた今だからこそ被災地のひとびととつながり、もう一度これからの社会のありようを共に考え、実行していくことは、生き残った者として未来をデザインし、こどもたちに一縷の望みをたくすことなのではないかと思うのです。
 最近になり、被災地の人々が自ら業を起こす活動が増えています。被災地と言っても地域によって状況は違いますし、個々のひとびとひとりずつ抱えている問題も違うわけですから、自ら業を起こすことが被災地全般、ひいては日本全体に共通した新しい取り組みとされてしまうことは少し危険です、しかしながら反対にそれが可能になって自立経済が立ち上げていくこともまたひとつの希望ではないでしょうか。
 起業といえばIT起業や最近大流行のスマホのゲームなど、若い人の華々しい活躍がよく報じられますが、地域に根差した農業など過疎地での若者の活動や、生活に密着した女性たちの地道な活動も伝えられるようになりました。
 被災地での起業はまさしく社会的起業で、地域で助け合いながら暮らしをつくり、少しずつ雇用を生み出す活動は震災前のコミュニティを再構築しながら、より地域を愛おしく支えていくことになると思います。そして、長い目で見れば「より早く、より遠く」と暴力的に突き進んできたこれまでの経済ではなく、「よりおそく、より近く、より寛容な」経済をめざす活動であり、それこそが被災地のみならず日本と世界の新しい政治経済のシステムの構築につながる冒険であると信じてやみません。願わくば被災地に芽生えるその愛おしいコミュニティに、障害者が参加し、担っていくことを…。
 新しい経済活動の形がどんなものになるのかはこれからのわたしたちの課題ですが、少なくともそのシステムに原発はまったく必要のない事は確かなことだと思います。
 くしくも9日、大津地裁で高浜原発3、4号機の運転差し止めの仮処分が下されました。運転中の原発の運転差し止めは画期的なことで、震災以後電力会社と国が再稼働をすすめ、最後のよりどころとしての司法もそれを容認してきた流れを断ち切った大津地裁の勇気と未来への冷静な判断に敬意を表するとともに、この間粘り強いたたかいをゆるめず仮処分を導き出した方々に頭が下がる思いです。

 国が原発をやめないのは、いや、やめられないのは成長神話を捨てられないからだと思います。「原発の問題は原発以外にある問題」で、日本の経済成長を支えてきた資本主義そのものにかかわる問題なのでしょう。戦後すぐの生まれのわたしは進歩や成長は善で、後退することは悪だと教えられてきたように思います。努力することや一生懸命働くことのすばらしさを、進歩や成長にすり替えてきた資本主義経済は立ち止まることを許さず、その成長を邪魔するひとびとを振り落としてきました。
 成長や発展をもとめて周辺の地域を開拓しつづけた結果、すでに開拓すべき「未開の地」がなくなると、だれかが昔言いましたが医療と保険とサプリメントで「資本主義の最後の植民地」であるわたしたち人間の体と心を開拓し、グローバリゼーションのもと金融とIT革命によって利益を求めるようになりました。
 そして、とうとうマイナス金利という、投資しても利潤どころか元金も減ってしまう(簡単にそうとは言えませんが)事態を、資本主義の終焉と宣言するひとたちも増えてきています。
 それでもわたしもふくめて、どこかで成長することで豊かになるという上がりっぱなしの凧のような幸福幻想の呪縛から抜け出せないため、アベノミクスというカンフル注射をうちつづける政権を支持し、いつかは自分のところにもそのおこぼれがやってくることを信じてやまないひとびとが数多くいらっしゃると思います。わたしは箕面の豊能障害者労働センターと出会うことで、わたし自身の100年の成長神話の悪夢からさめましたが、それでも仕事をやめ、一般の会社で定年を迎えていないため通常の半分程度の年金生活をはじめた今、いまだに成長神話のさ中にいた頃のサビをそぎ落とすまでには至っていません。
 ともあれ、東日本大震災と原発事故は100年の成長神話がとても危うく、東北にとどまらず誰かを踏み台にしてなりたっていたことを思い知らされました。
 とてもじゃないですが、福島のひとびとの災難という言葉では表せない窮状はこれからもますます過酷になっていくことが明らかなのに、原発を止められないわたしたちの社会は何なんでしょう。どうしても「経済成長」の悪夢から逃れることはできないのでしょうか。
 わたしは被災地の助け合い経済をはじめとする全国各地の地域経済の担い手のひとびとが求める「成長しない豊かさ」、「原発を必要としない豊かさ」が資本主義終焉の後の世界と日本の経済の希望となっていくのではないかと思っています。そして、わたしもそのひとりとして何かするべきことを見つけていきたいと思います。
 そして今回の大津地裁の英断は、未来からの使者としてわたしたちに勇気を届けてくれた愛おしいサイン・合図なのだと思います。

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