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2017.03.13 Mon 震災6年、復興神話から目覚め、原発を止め、新しい日本の未来を。

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 東日本大震災から6年が過ぎました。この時期に報道される震災関連のニュースは6年目に入り、基調としては震災の傷跡が町にも人々の心にも深く残り、決して癒されるものではないとしながらも、一方で悲しみと絶望を乗り越えて力強い復興の道を進む被災地各地の未来への希望を語り、強調することがめっきり多くなりました。
 もちろん、破壊された町が復興していくのも真実で、6年という時はその道筋をつくるのに一定の役割を果たしたことは間違いないのでしょう。
 しかしながら、町が復興していく姿や被災地の人々の暮らしが再建されていく報道が流れるたびに、復興や再建を可能にできるひとと、それが難しいひととの間の分断や格差がはっきりと姿を現したのではないでしょうか。本当は発災直後からの「助け合い」や「絆」が叫ばれる影にも実はもともとあった経済格差や、震災後の再建を進められる人やもとの仕事に復帰できる人、新しい仕事に就ける人とそうでない人がいて、簡単に「被災者」とくくってしまうと問題を見逃すあやうさがありました。
 わたしは2011年から2015年まで、被災障害者を救援・支援する「ゆめ風基金」という基金団体の手伝いをしました。この団体はもともと阪神淡路大震災の時、全国の障害者団体が集まり、被災地の障害者を直接救援・支援しようと、故永六輔さんに呼びかけ人代表になっていただき、全国から寄せられた基金により、障害者の生活を再建する活動を始めました。その後、度重なる地震、風水害で生活の拠点が壊されてしまった障害者団体の再建にとどまらず、被災地の障害者団体が被災障害者の情報を集め、被災者ひとりひとりの生活を再生する活動を続けてきました。
 そして、東日本大震災という未曽有の困難に直面し、救援からも再建からも取り残される障害者の救援支援活動を続け、十分ではないにしても被災各地の障害者の生活拠点の再建に一定以上の成果を上げてきました。
 しかしながら、震災前までは家族に支えられる形で生きてきた障害者を襲ったのは支えてくれていた家族の死や、彼女たち彼たちのいのちの基盤であった家族の崩壊でした。
 家族介護をあてにした福祉サービスの貧しさを家族の絆という言葉で隠してきた日本の福祉制度を裏付ける東北地方における障害者を取り巻く現実は、過酷としか言いようがありません。
震災から6年、被災地の障害者にとって2017年は震災によって奪われた生活の基盤を再建することではなく、震災前に障害を持つというだけで理不尽な生き方を強いられてきた過去から立ち上がり、ひとりの人間としてあたりまえに生きる権利を同じ志を持つ友人・仲間たちとともに獲得する困難な「たたかい」の出発の年であるのでしょう。
 21000人という犠牲者の数、12万人を越える避難者の数、34000人の仮設住宅生活者の数、どれをとっても想像をはるかに超える数字は、「復興」や「再建」が被災者はもとより、わたしたちの実感とは程遠いものと感じざるを得ません。
そんな状況なのに、マスコミが「復興」や「再建」に焦点を当て、わたしたちもまた明るく希望を語る声にほっとする話題を求めるのは、単に誰もが幸せであってほしいと願う純粋な気持ちからだけでなく、その裏にあって、できるだけ早く復興という名の幕引きをしようとする国の思惑が見え隠れしています。

 それがもっともはっきりとわかるのは、原発事故による避難指示区域の解除ではないでしょうか。福島県では今月31日に浪江、川俣町と飯舘村で、4月に富岡町で、居住制限区域と避難指示解除準備区域が解除されます。
 避難指示解除が「やっと帰れるようになりました。よかったですね」というものではないことは、まず解除の条件が年間の被ばく線量が20ミリシーベルト以下としていることからはっきりしています。この基準は国際的な基準である年間1ミリシーボルトという被爆線量を無視したものです。
 日本の農業や酪農をささえ、先祖代々守ってきた大地や山や川を原発事故による放射能汚染で壊され、自主避難した人は国の対処の遅れを補ってくれたと感謝されてもいいはずのところを勝手に避難したと見捨てられ、強制避難させられた人々もまた大切に育ててきた作物も乳牛もすべてを棄てて避難生活を余儀なくされました。
 そして今、「帰れますよ」ではなく、「帰りなさい」と言い、自主避難したひとたちの住宅提供を打ち切り、来年には賠償金の打ち切りをする国の仕打ちは、シリア難民に課せられたものと同じ困難を福島の人々に課すことだと思います。福島の豊饒な大地と文化を壊した原発を再稼働し、一方で原発難民を生み出す「棄民」政策は、そのまま沖縄の人々にも刃を向け、さらに大きく見れば被災者全員を自己責任で暮らしを取り戻せという、「脅し」の政治だとしか思えません。避難先を追われて懐かしいはずの故郷に帰ろうと思っても、すでに帰るべき「故郷」はひとびとの心の中に怒りと悲しみと絶望と共によどみ、あったはずのコミュニティも大地も遠いかなたにかすむだけで、こんな状態で故郷に帰れるはずもないのでしょう。
 いま、全国の避難された福島の人々、とくに子どもたちへのいじめ、差別によって自殺するところまで追い詰められ、許しがたい人権侵害として大きな社会問題となっています。
 しかしながら、その原因を風評被害とするのはとてもまちがっていると思います。
風評被害は年間1ミリシーボルト以下の被爆線量なのに福島の人々を傷つけ、福島の作物を買わない時に初めてそう言えるのではないでしょうか。
 それならば、どうすればいいのか、わたしは福島県にとどまらず、近隣の地や、さらに言えば日本の大地全体の汚染をわたしたちがひとしく引き受けざるを得ないのだと思うのです。そして、そんな悲惨なことを招いてしまった原発の再稼働などもってのほかで即刻廃止し、もしエネルギー事情が本当に苦しくなるならば(わたしはそれは電力会社をはじめとする企業資本と国の喧伝の部分がかなりあると思っていますが)、それをわたしたちみんなで分かち合うことが、福島の人々の困難とほんとうにつながる一歩だと思います。
 そこから、はじめてこれまでとはちがうもうひとつの新しい暮らし、経済、文化、政治が始まり、あれだけの大きな代償を無駄にしない緩やかで柔らかく、成長することだけがすべてではない日本の未来の姿が垣間見えるように思うのです。
願わくばその未来の姿が、誰にとっても幸せでありますように…。

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2016.03.10 Thu 東日本大震災から5年・成長しない豊かさ

 東日本大震災から5年が経ちました。阪神淡路大震災が発生した1月17日とおなじように、3月11日前後になるとマスコミを中心にそれぞれとの人の「あの時」と、奪われた命、そして時を経た現在の暮しと心のありようがつづられます。時が過ぎるにつれてその語りには、ひとりひとりの人生やひとつひとつの町のその後の足跡が少しずつ「語られる歴史」へとファイル化されていき、よくも悪くも整理整頓されていくジレンマを感じます。ひとりひとりの肉声は決して整理されないまま、「あの時」をかけめぐり、心の底をうごめいていて、その悲しみや悔恨や憤りは決して他者にわかるはずもなく、また伝えられないものなのかも知れません。
 わたしは阪神淡路大震災の時も東日本大震災の時も、被災地の障害者の支援活動にかかわりましたが、そのたびにそれをきっかけに「誰もが住みやすく、安全に暮らせる社会」へとわたしたちも社会も変わるはずだ、また変わらなければならないと思いました。
 そうでなければ、理不尽にも突然夢を絶たれ、命を奪われたひとびとに申し訳ないと思いました。
 しかしながら、そんな思いもまた被災した人々には失礼な言い分で、彼女たち彼たちが受けた理不尽な暴力を踏み台にして新しい社会のありようが描かれるはずもなかったのでした。

 それでも5年の時が過ぎた今だからこそ被災地のひとびととつながり、もう一度これからの社会のありようを共に考え、実行していくことは、生き残った者として未来をデザインし、こどもたちに一縷の望みをたくすことなのではないかと思うのです。
 最近になり、被災地の人々が自ら業を起こす活動が増えています。被災地と言っても地域によって状況は違いますし、個々のひとびとひとりずつ抱えている問題も違うわけですから、自ら業を起こすことが被災地全般、ひいては日本全体に共通した新しい取り組みとされてしまうことは少し危険です、しかしながら反対にそれが可能になって自立経済が立ち上げていくこともまたひとつの希望ではないでしょうか。
 起業といえばIT起業や最近大流行のスマホのゲームなど、若い人の華々しい活躍がよく報じられますが、地域に根差した農業など過疎地での若者の活動や、生活に密着した女性たちの地道な活動も伝えられるようになりました。
 被災地での起業はまさしく社会的起業で、地域で助け合いながら暮らしをつくり、少しずつ雇用を生み出す活動は震災前のコミュニティを再構築しながら、より地域を愛おしく支えていくことになると思います。そして、長い目で見れば「より早く、より遠く」と暴力的に突き進んできたこれまでの経済ではなく、「よりおそく、より近く、より寛容な」経済をめざす活動であり、それこそが被災地のみならず日本と世界の新しい政治経済のシステムの構築につながる冒険であると信じてやみません。願わくば被災地に芽生えるその愛おしいコミュニティに、障害者が参加し、担っていくことを…。
 新しい経済活動の形がどんなものになるのかはこれからのわたしたちの課題ですが、少なくともそのシステムに原発はまったく必要のない事は確かなことだと思います。
 くしくも9日、大津地裁で高浜原発3、4号機の運転差し止めの仮処分が下されました。運転中の原発の運転差し止めは画期的なことで、震災以後電力会社と国が再稼働をすすめ、最後のよりどころとしての司法もそれを容認してきた流れを断ち切った大津地裁の勇気と未来への冷静な判断に敬意を表するとともに、この間粘り強いたたかいをゆるめず仮処分を導き出した方々に頭が下がる思いです。

 国が原発をやめないのは、いや、やめられないのは成長神話を捨てられないからだと思います。「原発の問題は原発以外にある問題」で、日本の経済成長を支えてきた資本主義そのものにかかわる問題なのでしょう。戦後すぐの生まれのわたしは進歩や成長は善で、後退することは悪だと教えられてきたように思います。努力することや一生懸命働くことのすばらしさを、進歩や成長にすり替えてきた資本主義経済は立ち止まることを許さず、その成長を邪魔するひとびとを振り落としてきました。
 成長や発展をもとめて周辺の地域を開拓しつづけた結果、すでに開拓すべき「未開の地」がなくなると、だれかが昔言いましたが医療と保険とサプリメントで「資本主義の最後の植民地」であるわたしたち人間の体と心を開拓し、グローバリゼーションのもと金融とIT革命によって利益を求めるようになりました。
 そして、とうとうマイナス金利という、投資しても利潤どころか元金も減ってしまう(簡単にそうとは言えませんが)事態を、資本主義の終焉と宣言するひとたちも増えてきています。
 それでもわたしもふくめて、どこかで成長することで豊かになるという上がりっぱなしの凧のような幸福幻想の呪縛から抜け出せないため、アベノミクスというカンフル注射をうちつづける政権を支持し、いつかは自分のところにもそのおこぼれがやってくることを信じてやまないひとびとが数多くいらっしゃると思います。わたしは箕面の豊能障害者労働センターと出会うことで、わたし自身の100年の成長神話の悪夢からさめましたが、それでも仕事をやめ、一般の会社で定年を迎えていないため通常の半分程度の年金生活をはじめた今、いまだに成長神話のさ中にいた頃のサビをそぎ落とすまでには至っていません。
 ともあれ、東日本大震災と原発事故は100年の成長神話がとても危うく、東北にとどまらず誰かを踏み台にしてなりたっていたことを思い知らされました。
 とてもじゃないですが、福島のひとびとの災難という言葉では表せない窮状はこれからもますます過酷になっていくことが明らかなのに、原発を止められないわたしたちの社会は何なんでしょう。どうしても「経済成長」の悪夢から逃れることはできないのでしょうか。
 わたしは被災地の助け合い経済をはじめとする全国各地の地域経済の担い手のひとびとが求める「成長しない豊かさ」、「原発を必要としない豊かさ」が資本主義終焉の後の世界と日本の経済の希望となっていくのではないかと思っています。そして、わたしもそのひとりとして何かするべきことを見つけていきたいと思います。
 そして今回の大津地裁の英断は、未来からの使者としてわたしたちに勇気を届けてくれた愛おしいサイン・合図なのだと思います。

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2015.03.12 Thu 東日本大震災から4年とメルケル首相来日

 東日本大震災から4年が過ぎました。
 ここ連日、マスコミ報道がつづき、町の復興は遠く、ひとびとの暮らしが復活どころか、福島のように故郷に戻ることをあきらめざるをえない現実などが伝えられています。それでも日本人全体が少しでも明るい未来を求めていることに応えるように、各地の明るいニュースを報じられてきているのもまた事実で、その中にはほんとうのこともあるでしょうが、切ない願望もあることでしょう。
 被災された方々には叱られるかも知れませんが、あの震災の当日、わたしはまだ片づけていないこたつに入りながら、いつものようにテレビドラマの再放送を観ていました。
 最初はテロップで大きな震災のニュースが入り、それからすぐにドラマは取りやめになり、震災のニュースに切り替わりました。マグニチュード9.0という観測史上最大の地震と報じられ、現在は大阪府能勢町に住むわたしは20年前の阪神淡路大震災での記憶がよみがえりました。
 実は20年前の地震を体験して以来、夜寝床に入るとそれまではしっかりした大地と結びついているような安心感があったのですが、この20年間いつもふわふわ宙に浮いているような感じで、体がおぼえているのでしょうか、ゆれているような感覚があり、それまでのような安心感がない夜を過ごしてきました。
 ですから、最初は阪神淡路大震災の経験から地震のゆれによる建物の崩壊や火災が心配でしたが、報道から受け取る感じではそれほどの切迫感を持てず、ほんとうに申し訳ないのですが遠く離れた地域に住んでいたこともあり、マグニチュードの大きさほどの被害を感じ取ることはできなかったのでした。
 それからすぐに津波警戒が報道されるようになりました。台風による大阪湾の高波も津波も経験したことがなく、津波の恐ろしさをまったく知らなかったわたしは津波第1波の各地の観測データが「50cm~20cm」と報道された時、その30分後にあんなに大きな津波が押し寄せることを想像できませんでした。
 そして、今は制限がかけられている津波被害のテレビ映像が延々とつづけられるようになりました。テレビの映像は残酷で、わたしたち夫婦は自分たちは安全な所にいながら、津波の濁流にそぎ落とされるように大地がなくなり、家も人も何もかもが津波の刃の先で転がるように運ばれ、次々と人々が飲み込まれていく瞬間瞬間を見ていて、「あっ、そっちに行ったらのまれる」と聞こえるはずもないのにテレビに向かって叫んでいたのでした。
 その映像は長い間実況中継されていて、今では死者15891、行方不明者2584、震災関連死3194という想像もできない数字で示されるひとつひとつのかけがえのないいのちがテレビ画面の中でどこか現実感を喪失したまま消えていきました。
 しかもその被災当事者たちは自分が遭遇している壮絶で悲惨な現実を安全な場所からテレビ画面を通して見ているわたしたちのことを知る由はなかったのでした。マスコミはおびただしい情報によってより遠くより多くのひとびとにその悲惨さを伝えることに成功しましたが、一方で被災当事者が直面した現実とはかけ離れた空虚な現実しかわたしたちは受け止めることができませんでした。
 そして、福島の原発事故はさらにわたしたち日本人の生き方を問い続けることになったのだと思います。わたしは決して高度経済成長の恩恵を大きく受けるほどの才覚も能力もなく、特に豊能障害者労働センターのスタッフになってからは世間の所得水準とはかけ離れた所得しか得ることができませんでしたが、それでも「貧乏もまた近代化する」の言葉どおり、実際のところは周辺地域の人々へのしわ寄せを知らないまま、成長のおこぼれを得ていたことも事実です。それが当たり前のように思っていたわたしは、長い間「成長神話」を信じていました。
 しかしながら、高齢社会のもとでの地域格差や都市集中、成長がもたらすとされた経済的な中間層の崩壊、最近のピケティ現象でにわかに言葉化された所得格差、資産格差、そして原発に頼らないと経済が成り立たなくなり、社会が壊れるかのように喧伝する国や産業界への不信など、東日本大震災はそれまでに潜在し、顕在化しようとしていたたくさんの問題を一気に噴き出させました。
 安倍首相は東京オリンピックの誘致のプレゼンテーションで、「福島原発事故のアンダーコントロール」を声高に宣言しました。その発言に福島だけではなく、全国から疑問の声が上がりましたが、今では福島と福島のひとびとを日本社会から遮断し、「アンダーコントロール」(管理下に置く)という意味だったとしか思えません。しかも、事故の収拾がどんどん遠ざかる一方なのに早々と原発の再稼働をすすめ、原子力技術の輸出まで認めて「成長神話」を信じきる政府の描く未来を、わたしは信じることはできません。
 一方でわたしもそのひとりに加えてもらいたいのですが、福島原発事故はそれまでの社会構造や経済の在り方を根本から見直すことで、後世のこどもたちに許してもらえる未来に少しでも近づく努力をしなければならないと思うひとびとをたくさん生み出すことになったと思います。
 先日、ドイツのメルケル首相が来日しましたが、福島原発事故を直接経験した日本とまったく正反対の方向へと社会のかじ取りをしたのがドイツでした。事故までは日本もドイツも30パーセントを原子力に頼っていましたが、福島原発事故発生直後、ドイツは原発17基のうち8基を直ちに停止し、残りの9基の原発も2015年から2022年の間に停止することを決定しました。ドイツの選択に対して日本の政府や原子力推進派は太陽光発電の買い取り価格の問題などを取り上げ、日本国民の暮らしを守るためには経済成長が必要で、そのためには原子力発電を「より安全に(?)」に継続しなければならないという主張を変えようとしません。しかしながら、原子力から自然エネルギーへの政策の転換にともなうドイツ経済が順調であることは欧州の経済危機の中でもきわだっています。
 メルケル首相の来日のニュースを知り、わたしは地震発生直後のある出来事を思い出しました。
わたしは地震発生から数日後に、被災障害者支援「ゆめ風基金」で働くことになりましたが、そんなわたしにある日、古い友人から電話が入りました。彼は長年東京にあるドイツの会社の日本法人で働いてきましたが、原発事故が発生し、ドイツの本社からの指令で会社機能をすべて大阪に移転し、東京や東京近郊に住む社員全員とその家族を大阪に一時移住することを半強制的に提案しました、彼は会社の指令に基づき、大阪に一時避難してきたことを告げました。
 そこにはドイツ政府の明確な意志が反映していて、当事者である日本政府のそれから現在までの対応とくらべて、あまりのちがいを身近に感じる出来事でした。
 もちろん、わたしはこの事故による障害者の出生などにより、水俣病などであった社会全体の地域差別や障害者差別には立ち向かわざるを得ないのですが、原発事故を遠く離れたドイツがこの事故による放射能の被害を大きく受け止め、影響を受ける可能性のある日本在住の国民の安全を守るために敏速に対応したことと、原子力エネルギー政策から自然エネルギー政策に変換したこととはつながっていて、近代国家が国民を守るためにこそ存在するはずだったことを教えてくれたのでした。

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2013.03.11 Mon 震災より2年・東北の冒険

 東日本大震災から2年が過ぎました。
 新聞、テレビ、ラジオは特集報道でうめつくされていますが、一方で2年という時間を理不尽にうばわれた2万人を越えるいのちと、生き残ったひとびと一人ひとり、そのひとにしかわからない大きな悲しみの中で苦しんでいる無数の人々を「あの時」に残したまま風化してしまう、残酷な時間にしてはいけないとあらためて強く思います。
 このブログを開いた数日後に震災となり、わたしは阪神淡路大震災直後から被災障害者支援活動をつづけるゆめ風基金のアルバイトスタッフとして、新大阪の事務所で働くことになりました。
 震災から2年、被災障害者の現状は一般的な復興、再生が遅々として進まない中、より困難な状況にあります。しかしながらその一方で少しずつですが、震災前には極端に少なかった介護派遣事業など、地域での生活をつくりだそうとする活動も被災各地で生まれています。それらはささやかな活動ではありますが、震災以後の日本社会が「たったひとつの涙もむだにしない社会」、「障害のあるひともないひとも共に生きる社会」へとわたしたちをみちびく希望でもあります。
 東北の冒険、それは日本全体の冒険、わたしたちの冒険でもあることを・・・。

 「福島のひとたちはみんな、大きな悲しみを、開かずの間に閉じ込めていますよ。がんばれ、がんばれっていわれて、自分でもいつまでもくよくよしていたらいけないと思って・・・。
 けれども、心の中にいっぱい涙がつまっていて、それを吐き出さなければ、前に進めないんです。」(福島県田村市の被災障害者・DVD映画「逃げ遅れる人々」より)

DVD映画「逃げ遅れる人々」
マスメディアでは断片的にしか取り上げられない、被災地の障害者の証言を丁寧に聞き取り、さまざまな課題や問題点を浮かび上がらせた貴重なドキュメンタリー映画です。
ゆめ風基金でも販売しています。3000円

ゆめ風基金のブログ
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2012.08.15 Wed ジョバンニの冒険・わたしたちの冒険 「みちのくTRY」

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
                             宮沢賢治「銀河鉄道の夜」

 8月19日から31日まで、岩手の障害者がよびかけ、「みちのくTRY」という催しが開かれます。
 「TRY」とは、1986年に始まったバス、鉄道のバリアフリー化を訴える車イスでの野宿旅イベントです。今まで大阪-東京、旭川-札幌、仙台-盛岡、高松-松山、鹿児島-福岡、福岡-東京間など全国を車イスで歩いた歴史があります。またTRYは海を越えてアジア諸国へと発展しました。
 今年は「みちのくTRY」として、東日本大震災の犠牲になられた人々への追悼とともに、これからの町の復興に障害者が参加し、障害のあるひともないひとも共に生きる社会の実現を求めて、各地域の行政に町のバリアフリー化や防災計画、福祉サービスへの提言、各地域の市民との交流を図りながら、岩手県の障害者を中心に全国の障害者が被災地を歩きます。
 8月19日に宮古を出発し、30日に陸前高田市の「奇跡の一本松」まで歩く150kmの沿岸部は、ほんとうにたくさんの命が失われました。震災後1年半を過ぎた今、いまだに復興の入り口から前に進めない地域とすでに復興へと進み始めた地域、若い人が仮設住宅を出て行き、高齢者が取り残されていくなど、地域的にも個人的にも震災以前に隠されていた問題が震災後、暴力的に現れています。
 今回の震災による障害者の死は、人口比率から観て健全者の倍になっています。
 これは障害者の安否確認や救援体制が後回しになりやすいことが大きな理由ですが、それよりも以前の問題として、日常的に障害を持つ市民が地域で暮らし、生きていることが具体的に認知されにくく、地域のコミュニティーに障害者が参加することが難しいという現状があります。
 東北地方でには昔からすばらしいコミュニティーが各地域に存在していたにもかかわらず、そのコミュニティーがかえって障害者の自立生活を支える公的なサービスを要求することを阻んできた事情もあると思います。
 今回の東北の障害者の行動は、障害を持つ市民が決して福祉サービスの対象ではなく、福祉サービスを必要とする市民自身が作り出す福祉サービスの担い手として、さらにはいろいろな個性や事情を持った市民が共に暮らしていける町のあり方を共に考え、作り出す担い手として、復興のプロセスに参加していこうとする、未来へのせつない冒険です。
 彼女たち、彼たちの冒険は、第二次世界大戦後67年を経て、戦争で犠牲になった無数のいのち、それ以前も以後も理不尽に命を奪われてしまった無数のたましい、そして今回の震災による無数の無念と、行き先をなくしたまま立ち尽くす無数の、ほんとうに無数の夢に見守られた冒険なのだと思うのです。
 
 宮沢賢治の「銀河鉄鉄道の夜」で、死者だけしか乗ることができない「銀河鉄道」に乗ることができたのは、カムパネルラに対する恋心といっていいジョバンニの友情の深さから来る、一途でせつない少年の思いがあったからでしょう。
 1896年、岩手に生まれ宮沢賢治は、誕生当時の大地震と度重なる冷害でたくさんの人たちが食べ物に事欠く悲惨で過酷な現実を見つめて来ました。
 みんなが幸せになるために、何が必要なのか、自分に何ができるのか…。彼の一生はその問いに対する答えを求めつづける一生でした。冷害や干ばつに対応できる品種の改良や農作物の多様化、肥料の改良などの農業指導をはじめとしたいくつかの実験や冒険は、彼が病弱であったこともあって、彼自身にとってもまわりのひとびとにとっても残念ながら満足できる成果が得られなかったこともまた事実だと思います。
 自然の暴力を制御できない絶望の中にあって、それでもひとは夢を見たり希望を育てたりできるのでしょうか。宮沢賢治はその問いの行方を現実の世界から虚構の世界に求め、時代を越えてわたしたち読者にその答えを託したのだと思います。
 宮沢賢治がジョバンニに語らせた「ほんとうのさいわいは一体何だろう」という問いは、その答えを幾通りにも用意しては捨て去る彼の自問自答そのものだったにちがいありません。そして、結局のところその答えを託されたのは他ならぬ、生きているジョバンニ、生き残っているわたしたちなのだと思います。
 東日本大震災から1年半を経て障害者たちがひたすら歩く「みちのくTRY」は、「ほんとうのしあわせ」がまだ暗闇の中にあることを知っている死者たちが、ジョバンニとわたしたちに託すせつない夢をひとつひとつ救い上げ、ほんとうのしあわせを設計する「共に生きる社会」を死者たちに約束する「ジョバンニたちの冒険」にほかなりません。
 願わくばその冒険が、共に生きる勇気をたがやすすべてのひとの冒険となりますように…。

みちのくTRY支援Tシャツ
デザイン・永六輔

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みちのくTRY支援メッセージTシャツ専用ページからご注文できます。(被災障害者支援・ゆめ風基金)


みちのくTRYについてのくわしい情報はみちのくTRYブログをごらんください。
2012年6月29日 毎日新聞
2012年7月6日 岩手日報
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